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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
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主が走れば運命も走る(人事を尽くして天命を待つ)1

 「守護者スレン」を知らないアスラン人はいない。


 歴代の王たちの傍らにあり、その生き様が語られる際には、必ず登場する。

 特に、四代の守護者カーラーズと五代の守護者シゼンの一騎打ちは、物語に歌に演劇にと、様々な形で語り継がれ、今も人々の心を打っていた。


 アスランを滅ぼす存在でしかなくなった四代を「何故守る」と問われたカーラーズは、ただ一言「守護者スレンだからだ」と応え、シゼンは疑念を呈することなく頷く。

 そして始まった一騎打ちは、シゼンの槍がカーラーズの胸を貫いて終わった。

 カーラーズは即座に絶命してもおかしくはない一撃を耐え、そして王宮へと向き直り、主に最期まで傍にいられず、守れなかったことを詫びながら息絶える。


 悪王と忠義に殉じた守護者の物語は、アスラン人なら一度は読むか、聞くかしたことがあるだろう。

 クロムも、守護者になると決意するより先に、「橋上一問答」の演劇をサライで見た。いや、それで守護者を知ったと言った方が正しい。


 それだけ、守護者と言う存在は知られている。だが、実際に守護者とは何か?と問うと、「王族に仕える、なんかすごいひと」程度の答えしか返ってこないだろう。


 守護者に与えられる権限は大きい。

 例え大王の御前であっても跪く必要はなく、伏礼も拒否できる。親衛隊を主に変わって動かす事も出来れば、二千までの兵を独断で借り受ける事も可能だ。

 誰それの守護者である、と名乗れば、民からは賞賛が浴びせられ、軍では千人長以上…つまり、将と同等に扱われる。

 それだけに守護者になりたがるものは多い。士官学校で難癖付けてきた騎士のように、あわよくば自分や縁者が…と目論むものは夏場の虻のように湧いて出る。


 しかし、そうやって手を挙げる守護者志願者が、実際に守護者になれたことは、アスランの歴史上おそらくない。

 

 守護者になるには、二通りの方法がある。

 ひとつは、主たる王族と同年同月にヤルクト氏族として生まれる事。

 もうひとつは、主に見いだされ、認められる事だ。


 前者は、実はそう多くない。大抵は二十歳前後で守護者の任を解かれる。

 実力で及ばないこともあれば、守護者と言う地位に胡坐をかき、忠誠すらも疎かになるものの多い事は、歴代の王族が共有する悩みである。

 

 現在、守護者を名乗るものの中で、生れついての守護者はモウキの守護者、ホレイだけだ。

 彼はモウキの気の置けない幼馴染であり、戦場では隣を任せられる武人であり、時に影武者として主の身代わりを務める。

 その気になればいくらでも好き放題できる立場であるが、本人の趣味は絹毛山羊を育て、品評会で賞を取ることと、孫と遊ぶこと、そして主に仕える事という、いたって無害なものだ。


 そういう人物だからこそ、守護者の任を解かれることなく主の影として在れるのだ。

 そして、そういう人物が稀有な存在であるゆえ、主に見いだされた守護者の方が多くなる。


 「…」


 一つ息を吐いて、クロムは読んでいた本を閉じた。

 幾度も読んで、内容を諳んじることもできる。「橋上一問答」を最高潮場面クライマックスシーンにした、カーラーズの生涯を綴った小説。


 読みながら、何度も考えた。自分は、同じ状況になった時、ファンに対してどうするか。

 カーラーズのように諫めるか。不興を買っても忠誠揺らぐことなく仕え続けるか。

 

 そのたびに出す結論は、「いや、ファンならそもそもやらないな」だったが。

 どれほど考えても、ファンが四代のようになることはない。という結論しか出てこない。

 もしも、万が一にもトールに何かあって九代アスラン王になったとしても、なんだかんだ泣き言を言いまくるだろうが、それなりに立派に役目を果たすだろう。守護者の欲目ではなく、本当にそう思う。


 ファンは諫言や提言をうるさいと一蹴するような男ではない。

 しっかり聞いて悩み、落ち込み、考え込み、そして選択してアスランを導いていくだろう。

 耳を塞ぎ、甘い言葉だけ許した四代とは、大いに違う。


 だが、それでももし。

 ファンが、自分の意志とは関係なく、アスランを滅びへと追い立てる存在になってしまったら。


 自分は、カーラーズのように共に闇へと沈むか。

 それとも。


 己の剣でもって、主を止めるか。


 「…ともに往くなら、地獄の果てまで、だ」


 閉じた本を絨毯に置く。

 紅鴉宮の一室、今までクロムが入ったことのないへやは、ひどく殺風景だ。

 

 床には厚い絨毯が敷かれ、座るための羊の毛皮もある。しかし、それだけしかない。持ち込みは許されたので、本を一冊懐に入れてきたが、その本の絵もない表紙が目立って仕方がないほど、この房には色彩がなかった。


 早朝、起きてすぐに身を清めろと風呂に行かされ、湯浴みを終えてこの房に連れてこられた。朝食として出された、羊肉を入れて炊きこまれた飯は味も量も申し分なかったが、久しぶりに一人で食う食事は、少しばかり味気ない。

 それでもしっかりと完食して、こうして本を読んで時間を潰していた。

 

 今日はついに、守護者の儀。


 これが終われば、名実ともに紅鴉の守護者(ナランハル・スレン)として認められることになる。

 どんな儀式なのか、何をするのか、それらの情報は一切ない。

 わかっているのは、クロムだけではなく、ファンも臨む儀式だという事程度だ。


 そして、「しっかり寝て、喰って、体力を回復させておけ」とトールは言っていた。もしかしたら、何かと戦って主を守り切ることで守護者として認められるという儀式なのかもしれない。

 

 例えそうであっても、クロムに今更やめるだとか、逃げるなどという選択肢はない。

 あんまり珍しい魔獣だのが相手では、ファンが観察したり採集したがって騒いでうるさいだろうな、程度の懸念ならあるが、それだけだ。


 主を背にした時、負けることも怖気づくことも在りえない。襲い来るのがまあ多少は苦手な死霊だのなんだのであったとしても、震えることなく剣を構える。自分は絶対にできるという確信がある。

 

 なんたって、魔王の目玉だか何だかと相対した時だって、自分クロム自分おれを裏切らなかった。

 どれほど強く恐ろしい怪物が相手だって、主を守る時、己はどれほどまでだって強くなれる。そう、信じられる。


 「失礼いたします」

 「…はい」

 「出立の準備、整いました。こちらに…」


 クロムを呼びに来たのは、巫師ボーの一人だった。白い衣に縫い付けられた鉄小札が、礼に合わせてシャリシャリと音を奏でる。


 「ひとたび外に出ます故、防寒はしっかりなされませい」

 「承知…しました」


 クロムが纏うのは騎士服だ。屋内では脱いでいる外套を羽織り、羊の毛皮のマントも身に着ける。

 それを見て、巫師はにっこりと日に焼けた顔を綻ばせた。彼もまた、熊の毛皮と思われるマントで身を包み、頭には毛皮の帽子を被っている。しっかり防寒しているのを見て少し安心した。

 巫師より騎士の方ががっちり着込んでいるのは、どうも少々座りが悪い。ファンが聞いたら「気にするところ、そこかあ?」とか言いそうではあるが。

 

 くだらない意地だとか見栄だというのはわかっている。しかし、性分というのはそう簡単に変えられるものではない。

 それに、このちっぽけな意地があったからこそ、今の自分に繋がっているのだから。


 鍛錬は辛かった。何度、もう無理だ辞めよう諦めようと思ったことか。

 だが、その度に「そんな事言ったら、周りから馬鹿にされる」と思った。言い出せないうちに、辞めよう逃げようと思う回数が減っていき、消えて行った。

 もっと自分が素直で意地も張らない性格であったのなら、今、案内されている紅鴉の守護者候補は、きっとクロムではない。

 

 だから呆れられようと小言を食らおうと、この性格を直す気はない。

 己の足元は、いや魂の核はこの意地で出来ている。


 巫師はそんな事を内心にブツブツと呟くクロムを先導し、紅鴉宮を出た。 

 いつもなら用もなくたむろしている親衛隊騎士たちの姿もなく、ただ馬が二頭、用意されているだけだ。

 

 「馬に?」

 「はい」


 頷くとともに、巫師は鞍上に身を乗り上げた。呼吸をするように滑らかな動きは、彼が遊牧民の出身であることを伺わせる。

 クロムも続いて、残る一頭の背に跨った。アスラン馬だがよく慣らされている。しかし、無様な乗馬をすれば振り落とすことも厭わない、という気位も感じさせた。

 もちろん、そんなへまをやらかす気はない。クロムに声を掛けることもなく、馬を駆けさせた巫師の後に続く。


 巫師が向かっているのは、金狼宮の方向だった。その中のどこかで儀式を行うのかと思いきや、馬首は微妙に北西へと向かっている。

 しばし、馬を駆けさせて近付いてきたのは。


 「…北水門」

 「さように。船に乗り換えまして、王廟に向かいます」

 「…!」


 王廟。

 それは、代々のアスラン王が眠る墓地であり、北海に浮かぶ島の一つである。


 大都の北を守り、長城の中で遊牧される家畜や野の獣の咽喉を潤し、いつの間にか魚や水鳥が棲みついていた湖には、大小五つの島がある。

 その中で最も大きな島そのものが、アスラン王家の墓所だ。


 大祖と開祖の墓が最も北にあり、その前に歴代王の墓が並ぶ。唯一、四代だけはこの島に墓がなく、隣の小さな島にひっそりと造られていた。

 王族の墓の他、その功績を認められたものは武官文官の区別なく、この島の堂に名を刻んだ石を収める事ができる。そうすることで死後もアスラン王家に仕えられると言われていた。

 それはこの上なく名誉な事であり、武官文官の誰もが憧れる終点だ。

 もっとも、クロムはファンがここに眠らないのであれば、自分の名を刻んだ石を収める気はない。死んだ後までトールに「弟が~」とやられるのは、ものすごく嫌だ。


 遠い先に必ず訪れる未来はともかく、本来、王廟は滅多に立ち入れる場所ではない。

 

 王宮内の船着場から行く以外の方法は禁じられ、無許可で上陸しようとすれば問答無用で処される。

 何せ、王廟に眠る王たちは夥しい副葬品と共にある。

 噂によれば、王の棺は金で出来ており、屍衣は龍の皮にありとあらゆる宝石を縫い付けたものであるらしい。

 死んだ後の身体を飾るなどというのは、あまりアスラン王家らしくないが、それも「困ったら金に換えるへそくり」にせよとの二代からの申し送りなのだそうだ。


 それに、真の宝は副葬品より、王の遺骨そのものと言える。


 大祖、開祖、五代の骨の欠片なら、馬車が傾くほどの金塊と交換でも贖いたいものは確実に居る。他の王たちであっても、呆れるほどの高値がつくだろう。

 そうした「宝」を求めて、王廟に忍び込もうとする墓荒らしは一年に十組程度はいるようだ。ただ、目的を達成したものは一人もいないが。


 ごくまれに生きて「見つかる」墓荒らしは、全員もれなく発狂し、怯え切ったまま数日で衰弱死する…そんな噂がまことしやかに語られ、クロムも勿論、聞いたことがあった。

 その時は与太話だ、普通に警護の兵に見つかって斬られただけだろうと鼻で一生懸命笑ったが。


 「…」


 船着場から王廟まではそれほど遠くなく、静かに佇む青黒の北海と、どこまでも蒼く澄み切った冬の空に挟まれ、在るのが見える。

 

 島を覆うイントルの木は、当然ながら今は枯れ枝を風に揺らしているだけで、確かにそれを見れば陰鬱極まりない。あの地は、死者の宮殿なのだから、生気がなくて当然だ。


 だが。それだけではない。


 背筋が自然に伸びてしまうような、圧迫感。

 それに僅かに眉が寄った。


 「かの地に在られるは、クロム殿の先達方々ですゆえなあ」

 

 馬の足を緩めながら、巫師が笑う。


 「先達…」

 「当然、歴代の紅鴉の守護者の方々もおられますゆえに」

 「ああ、それは…そうっすね」

 

 アスラン王は長子…つまりはオドンナルガが最優先で継ぐわけではない。

 モウキは一太子オドンナルガであったが、その父であるバトウは二太子ナランハルであり、さらにバトウの母であるトヤーは四太子ウルバーウガイだった。  


 そして、トヤーの父であり、アスラン中興の王である五代ジルチは己をナランハルと位置付けていた。

 実際はジルチの母が王になったことはなく、一度も紅鴉宮に住んだこともないが、カーランの皇子から『紅鴉の爪(ナランハル・クロウ)』を奪い返した時、守護者であるシゼンに与えている。

 爪もそれを不服とすることなく、シゼンは正式にジルチが王位につくまで紅鴉の爪を振るっていたが、それで心臓が破裂して死んだりはしていない。

 つまりは、『紅鴉の爪』がナランハルと認めていたのだろう。


 「そうか…あの『迷影』シゼンも、紅鴉の守護者か…」

 

 あまりの動きの速さに、影がついて行けずに迷うと謳われた偉大な戦士。

 クロムにとっては憧れの相手であり、それゆえ、アスラン王家に伝わる真実は聞かないことにしている。

 わりと五代周りの人々は、物語と現実がかけ離れているのだ。世に流布するお話と、実際にその家族が伝えた人物像なら、後者の方が絶対に正しい。


 そもそも、現在だって人々が話すモウキやトールと、現物は似ても似つかない。特にトール。

 

 「お、クロム、おはようさん」

 「おう。おはようっていうには、ちょっと遅いけどな…」


 船着場には、既に先客がいた。

 いつもの家畜の世話をするときの外套を纏ったファンが、クロムたちを見つけて手を挙げる。

 正装して来いとは言わないが、それは流石に普段着過ぎるだろう…と言うクロムの視線にも気付いて、曖昧な笑みを浮かべた。


 「いやあ、どうせ中で着替えるから、楽な恰好で良いって言われて…」

 「そうなのか?」

 「俺も詳しい事は聞いていないんだけどね。ちなみに、親父と兄貴が先に行ってる」


 船着場には、一艘の船が揺れていた。何度か遠目に見た記憶では、確か三艘くらいはあったように思う。

 足りない分は、既に漕ぎ出しているからかと納得して、馬を止め、ファンの横に立った。

 乗ってきた馬の首を叩いて労っていると、まだ若い巫師が歩み寄り、手綱をクロムの手からやんわりと移す。

 

 ファンの護衛を担う騎士の姿はなく、ざっと数えた残り八人は全員巫師だ。

 ただ、巫師は魔獣が闊歩する長城の外に暮らし、馬に乗って弓も使う。さらには様々な魔導もお手の物だから、決して戦力として不足はない。


 けれどやはり、誰も専属の護衛がいないというのは不安だ。

 主の横に立ち、安堵しているのはその身を案じていたからだ。決して、ちょっとばかり不安だったからというわけではない。そう、決してだ。


 別に誰に突かれたわけでもないが、クロムは軽く咳払いして、船に視線を向ける。あと一艘しかないのだから、これからこの船に乗り込むのだろう。


 船と言っても、それほど大きなものではない。

 王族を乗せるというのに装飾はほとんどなく、墓参りには間違いなく不必要な床子弩を備えている。

 後方両脇には輪があり、帆はないところを見ると、魔力で動く魔導船のようだ。

 

 「クロムは、王廟行くの二回目だよなあ」

 「そうだな」


 士官学校入学式の最後は、この王廟に参ってアスランへの忠誠を誓う。

 とは言え、王廟側の船着場から降りてすぐの、名刻石が収められた忠烈堂までだ。

 守護者の儀式をどこでやるかは知らないが、まさかその中ではあるまい。


 「俺、帰ってきてからまだ一回も墓参りしてないからなあ。ご先祖様に怒られそう」

 「なんだよ。してなかったのか?」

 「なんかいろいろあってなあ」

 「ま、そりゃそうか。結婚までしたんだ。そりゃあ、いろいろあるよなあ。俺もいい加減お前の行動が読めるようになってきたと思っていたが、まさか結婚するとは予想もしなかった」

 「意外性がある方が、楽しいだろ?」

 「まあな」


 他愛もないやり取りに、先ほどまで眉間をしかめさせていた緊張感も、心臓に張り付く石のような不安も、消されていく。

 

 「ナランハル。クロム殿。出航の支度、整いましてございます」

 「ありがとう。じゃあ、行くか」

 「おう」


 クロムを案内してきた巫師が、恭しく一礼した後、船に続く桟橋への道を開ける。若い巫師が一人、船の中で跪いていた。


 ファンとクロムが乗り込むと、小型の船は大きく揺れた。しかし、二人とも体勢を崩すほどではなく、中央に置かれた毛皮の敷かれた台に腰かける。

 後から案内役の巫師が乗り込み、外輪を制御しているのだろう魔導具の前に立った。


 「それでは、出航いたしまする」

 「よろしく頼むよ」

 

 魔導具は、巫師の腰辺りまである柱に取り付けられていた。何をやったのかクロムには感じ取ることもできないが、巫師が柱に手をかざすと、外輪がゆっくりと動き始める。舵は、前方の若い巫師がとるようだ。

 

 王廟まではそう遠くはない。

 だが、先ほどまで横から吹き付けていた風は、真正面から叩きつけるように変わり、目の周りなどの露出した部分から体温を奪っていく。


 一人ならきっと、魂まで冷やされていただろうけれど。


 「寒いな~」などと暢気に笑う主がいる限り、心臓は鼓動を刻み、熱い血を全身に巡らせる。


 だから、いくら怯ま(ビビら)せようとしたところで、無駄ですよ。


 そう偉大なる王たちに嘯ける自分に。

 クロムはひそやかに笑った。


***


 「こっから先は別々かあ」

 「…みたいだな」


 クロムにとっては前人未到の地。

 忠烈堂に入ることもなく通り過ぎ、冬枯れのイントルの森を往くことしばし。

 ファンによると、「ご先祖様の墓へ続く道から左に分岐したところ」らしい場所が、目的地のようだった。

  

 踏み固められただけで石畳も敷かれていない道は、石造りの砦のような建物に続いていた。

 見たところ窓はほぼなく、不愛想な石が組まれた壁だけが、建物を構成している。

 中へと続く扉も表面はほとんど金属で覆われ、ますます兵が駐屯し、敵地へ睨みをきかす砦のようだ。


 巫師が扉に嵌められた魔晶石に手をかざすと、音を立てて内側に開いていく。とは言え、手入れ不足や経年劣化による軋みではなく、おそらくわざと鳴るように造られた音だ。

 万が一、侵入者が魔導鍵を突破したとしても、この音が不埒者の存在を知らしめる。

 扉を覆う金属に錆びひとつなく、石壁には泥や鳥の糞が付着した様子もない。誰かの手が入り、整備をしているのだ。


 建物の中で入れば、その憶測は更に確信へと高まった。

 石床は磨き上げられ、座って下を見れば顔が映りそうなほどだ。装飾の類は一切ないが、古く寂れた印象もまるでなく、空気も淀んでいない。

 儀式に合わせて掃除をした…にしては、あまりにも人の気配が残っている。


 目的地は守護者の儀を行うためだけの建物だと、船の中で聞いていた。

 だとしたら、十年に一度もないような儀式のために、この建物は常に保守されているという事だ。


 守護者とは、それだけアスラン王家に取って大きなものなのか…と、思わず拳を握り締める。

 再びせりあがってきた緊張を何とか抑えていると、案内役の巫師がするりと一礼した。


 「それでは、ファン・ナランハルは右へ。クロム殿は左へとお進みください」


 扉を入ってすぐ、廊下は二手に分かれていた。目の前の壁は、当然部屋の外壁だろう。その中へ至るには、廊下をぐるりと進んでいくしかないようだった。


 「じゃあ、クロム。また後でな」

 「…おう」


 クロムの案内をするのは、若い巫師の方だ。ファンはひらりと手を振って、何でもないようにもう一人の巫師の後について行く。

 

 「クロム殿、こちらへ」

 「ああ」


 それを「薄情者!」などと言えるわけもないし、言うつもりもない。

 初めて会った巫師がどれだけ信用できるかは不安なところだが、この建物に入る権限があるのだ。怪しい奴ではないことは、確かであることだし。

 だが、それでも心配は心配なので、少し長くファンの背中を見てしまっただけで、それ以外の意味はない。ないったらない。


 「…クロム殿?」

 「なんでもない。行く」


 歩き出すと、若い巫師は少しほっとしたようだった。予定外の事に柔軟に対応できるほど、経験を積んでいるわけではないし、余裕もないのだろう。

 きっと、彼も守護者の儀に立ち会うのは初めてだ。前回は、トールの守護者、マルトの儀式だったはずで、もう五年近くは前になる。


 前をぎくしゃくと進む巫師は、二十代半ばくらいに見えた。クロムより、少しばかり年上に思える。

 今のうちに経験を積んで、次世代の守護者がこの地にやってくるときには、彼が船を動かし、扉を開ける役を仰せつかるのかもしれない。


 「この部屋にて、しばしお待ちを。お着替えも済まされますよう」

 「わかった」


 突き当りで曲がり、十数歩進むと扉があった。廊下はそこで終わり、この部屋に入らなくては先に進めない造りになっている。

 巫師が扉を開けると、ふわりと暖かい空気が流れ出た。室内は暖房が効いているようだ。


 クロムが中へ進むと、巫師は一礼して扉を閉めた。一緒には入らないようだ。

 入ってすぐは狭い一間になっており、羊の毛皮が一枚敷かれ、その先に分厚い布が垂らされている。ここは靴を脱ぐための間だろうと判断して、長靴ゴタルを脱いで艶やかな布を捲る。


 「やー」

 「アンタ…」


 最初に紅鴉宮で待機していた部屋に負けず劣らず殺風景な部屋は、温熱の魔導具が効いて暖かい。

 その中央、おそらくこれも温熱の陣が仕込まれているだろう毛布に包まれて、一人の男が寝そべっていた。


 暗雲の色の髪と瞳。服もまた、同じ色。

 ただ、首に巻かれた布だけが、鮮やかな蒼穹の色。


 「ほらー。守護者の先輩としてさーあ?」

 「なるほど」


 星龍の守護者(オドンナルガ・スレン)であるマルトは、クロムの前に守護者の儀式を受けた。確かに、儀式の記憶は一番新しい。

 ただ、酒毒に濁った記憶が、どれほど信用できるかどうかはわからないが。


 「んーとね。まず着替えねぇ。そこの箱に入ってる服きてねえ。それ以外のものは、ぜーんぶ、ここに置いてってねえ。俺、いちお、その見届け人でもあるんだあ」

 「箱…これか」


 マルトのすぐ近くに、毛糸を編んで作られた箱がある。その毛糸も染められていない生成りのままで、入っている服もまた、同じように素っ気ない。

 取り出してみると、不織布フェルトでつくられた胡服デールだ。手触りは硬く、新品であることが見て取れる。

 胡服の内側に着る肌着は上下ともにあるが、靴下や靴はない。


 「だいじょーぶ。儀式のとこ、あったかいから~」

 「なら、別にいい」


 裸足を見られることに抵抗はない。むしろ、マルトに着替えを見られる方がものすごく嫌だ。何せ、肌着の上下もあるという事は、本当に全て取り換えろという事なのだし。

 だが、それが決まり事であるのならば、恥ずかしがろうと嫌がろうと無駄だ。ならば、さっさと何事も気にしていないような顔で済ませてしまった方が良い。


 無表情で騎士服を脱ぎ、たたみ、重ねていく。胴当てや鎖帷子を取り外すと、さすがに身が軽くなった。

 肌着を脱ぐ時に一瞬手が止りかけた事を、きっとマルトは気付いただろうが、口に出したのはクロムを揶揄う言葉ではなかった。


 「それさあ。若はなんて言ってた」


 マルトの視線が示すのは、クロムの上半身を覆う刺青だ。

 胸と背中、そして上腕に刻まれた文様は、双守護神の加護を祈り、忠勇比類なき心を持つことを宣い、裏切らず、退かず、いかなる戦場にも怯まないことを誓っている。

 本来なら、クトラの戦士として認められたものにしか刻まれることはない。

 実家の近くに住むクトラ陥落の際に大都へ逃れた刺青師が、クロムの事をよく知らなければ、きっと門前払いを食らっていただろう。


 この刺青を入れた時。

 父は絶句し、母は泣いた。


 ファンは…


 「忘れた」

 「そっかあ。忘れちゃったのかあ」

 「まあ、忘れるくらいだから、特に何も言ってなかったんじゃねぇかな」

 「そかもね」


 半分は、嘘だ。

 なんて言われたかは、忘れた。けれど、あの時の顏。


 少し目を見開き、そして閉じ、眉を寄せて。

 それから、ふ、と力を抜くように笑った顔。

 

 あの表情は、覚えている。きっと一生、忘れない。


 「着替えたぞ」

 「耳」


 ちょんちょん、とマルトが自分の耳を触る。それで温熱の陣が刻まれた耳飾りをつけていたことを思い出し、今から外そうとしてたんだぞ、という顔を何とか取り繕って、外す。


 「なあ、守護者の儀式って、なにをするんだ?」

 「言っちゃだめなんだよねーえ」

 「ふーん」


 もっとも、答えは期待していなかった。これは本当だ。少しばかり、取り繕いを誤魔化したかっただけの、咄嗟に口から出た質問。


 「でもねーえ。終わった後のことは、ちょっと教えてあげられる、かなあ」

 「…それは良いのかよ」

 「んー。たぶん?俺も言われたし。儀式のときにも言われるけど。どする?聞く?」


 たっぷり十を数える間くらい悩んだのち、クロムの頭は上下に動いた。微かだったけれど、マルトには十分だったようだ。


 「んとねえ。儀式が終わると、守護者は主を裏切ったら死ぬようになりまーす」

 「は?何だよそれ。そんなのあたりまえの事だろ?」

 「なんかねえ。勝手に心臓が止まるようになっているみたいよお」

 「…まあ、便利でいいか」

 「だよねえ」


 主を殺そうとするなら、最も確実に実行できるのは…その守護者だ。

 もちろん、クロムがファンを裏切ることはない。絶対にないと断言できる。


 けれど、万が一。

 魔導なり薬なりで操られたとしたら。

 こちらは絶対にないとは言い切れない。むろん、必死で抗うし完全に堕ちる前に自決する覚悟はある。

 だが、それすら間に合わなかったら…と何度か悩んだことは勿論ある。明確に解決策は出せず、トールかユーシンに期待するしかないと、苛々しながら思ったものだ。


 守護者の儀が終われば、主を害する前に死ぬ。

 それはとても便利で有難い。心配ごとがひとつ減る。


 「ん、今度こそだいじょーぶそーだね。じゃあ、行っておいでえ」

 「おう」


 マルトの指が指し示すのは、部屋の奥にある扉だ。

 模様や象嵌はなく、ただ武骨な木の扉がしっかりと行く手を塞いでいる。

 

 「俺はねーえ。本当は、守護者になりたくなかったんだあ」

 「…怖気づいたのか?」

 「俺なんかがさあ。守護者になったら、あのひとが汚れちゃうような気がしてねえ」


 そう呟く星龍の守護者(オドンナルガ・スレン)は、かつて暗殺者だったと聞いていた。

 今はもう殲滅された、「悪人の救済は死である」と名分を掲げ、「悪」と認定された人々を殺し、財貨を奪っていた教団。

 そこで生まれ育った、生粋の暗殺者だったと。


 「守護者になんなくてもさーあ。俺の命も何もかも、あのひとのモノだし。そう言ったらね」


 どうして、そうしたのかは、知らない。

 ただ、マルトは教団から逃げた。そして追っ手がかかり、殺される寸前でトールが見つけ、助けた。

 

 「そう言ったらねえ。せんせーを指差してさ。『安心しろ。もうアレが守護者だ。今更だ』って」


 くすくすと笑う声は、殺風景な部屋に転がる。

 魔導具で温められてもなお寒々しい部屋の空気が、ほんの僅か、気温に追いついたような気がした。


 「クロム君はさあ。ぜーんぜん、心配してないかもだけどね。俺とかがさ、守護者になれたんだもん。クロム君なら、問題なしだよお」

 「当然だ。でも…」


 両開きの扉に、手を置く。錠などはなく、ただ扉自体の重みで閉まっているようだ。


 「…ありがと、さん」

 「どーいたしまして」


 クロムが御礼言った!めずらし!などとウザ絡みしてくる相手でなくて良かったと内心に呟きつつ、腕に力を籠める。

 見た目通りの重さで逆らいつつも、扉はゆっくりとクロムに道を開けた。


 「お、おんなじ格好」

 「お前んトコはトールか?」

 「ああ。なんか、すごい泣いてた。毛布で包んできた」

 「…うぜーな…」

 「あれは兄貴の生態だから仕方がない。はやく、他に愛情を向ける対象ができるといいんだけど…」


 扉の先は、また一つの部屋になっていた。

 床に絨毯は敷かれているが、毛皮や座布団などはなく、ただ向かい側にあるひとつの扉へ続くだけの場所のようだ。


 クロムが出てくるより少し先に、ファンはこの間にやって来ていたらしい。

 纏っているのは言葉通り、そっくり同じ胡服だ。違うのは、きちんとファンの体格に合わせられたものだという事くらいか。

 そう言えば、と纏う無地無色の胡服に手を当てる。

 丈のなにもかも、誂えたようにぴったりだ。いや、おそらく、この儀式のためにわざわざクロムの身体に合わせて拵えられたものだろう。


 「往くか」

 「おう」


 それほど手間をかける儀式。

 僅かに心臓が、動きを早める。


 「まあ、何をするのかわからないけどさ。クロムはもう、紅鴉の守護者(ナランハル・スレン)だから」


 ファンの声に視線を向ければ、気の抜けた笑みを浮かべた、良く見知った顔があった。

 あの時と同じ。

 

 ああ、そうだった。思い出した。

 あの時も。クロムの刺青を見た時も。

 この顔で笑って、同じことを言った。


 クロムはもう、俺の守護者(ナランハル・スレン)だから。

 その決意も覚悟も、全部、受け止める。


 「そうだな。そしてお前は俺の主だ。儀式なんて、その後付けだ」

 「そうそう」


 扉は先ほど開けてきたのと同じ、重たい何の装飾もない両開きのものだ。

 ただ、先ほどとは違うのは、ゆっくりと内側から開かれていく。


 「ナランハル。クロム殿。どうぞこちらへ…」


 案内役の巫師が招く。

 一回だけファンと視線を合わせ、そして素足で絨毯を踏みしめ、歩く。


 「へえ…」


 扉を潜ると同時に、ファンの興味深そうな声が漏れる。


 先ほどまでの部屋と違い、儀式に使われるであろう広間は、様々な色彩と模様に溢れていた。

 天井は青、赤、黒、白の布で覆われ、それは夜明けから夜更けまでを現しているようだった。

 白い布には太陽を模した魔導燈が、黒い布には月を模した魔導燈が吊り下げられており、室内を明るく照らしている。

 壁には四天聖獣が鮮やかな色合いで描かれ、今にも駆けだしそうな躍動感に満ちていた。 


 床は…この真冬に、一面の青草で覆われ、おそらく何かの陣を形作るように、細い石柱が十数本、立てられている。

 びっしりと彫刻が施された石柱たちの中心には祭壇が置かれ、天井と同じ四色に加えて、アスラン王家を示す色である黄色の絹布が一番上に敷かれていた。


 足を踏み出せば、間違いなく草と土の感触が素足に伝わった。すかさずファンがナントカ草だ…大都周辺には自生していないはずなのに?などと呟ているが、しゃがみ込んで手に取るのは我慢したらしい。

 背中が妙な曲線を描いているのは見なかったことにしてやろうと、内心に頷く。


 祭壇の向こうには、アスラン王として正装したモウキと、ちょこんと台に座る大巫師テングリの姿が見える。両脇にはモウキの守護者であるホレイと、案内役を含めて三人の巫師が立っていた。


 王の正装と言っても新年祭や建国祭などの式典で纏う裾も袖も長い衣装ではなく、武装した姿である。

 その一見古びた甲冑には、歴代アスラン王の武具の一部が使われており、いずれトールもモウキの武具をつけたしたこの甲冑を受け継ぐはずだ。


 つまりは、歴代アスラン王の前で儀式を行う、という事なのだろう。


 「さて。ファン君。クロム君」

 

 静かにモウキが口を開く。満月色の双眸に、いつものはしゃいだ様子はない。


 「守護者の儀を始めるにあたって、いくつか君たちに告げなければならないことがある」


 静かな、それでいて、背筋を伸ばさずにはおれない声。

 王者の声だ。生まれつき、そして己の意志で国を背負うと決めたものの声。

 ファンの背中も伸び、父の顔を…いや、八代大王の顔をじっと見つめる。


 「まずひとつ。この儀式が完了すると、君たちは互いを害せなくなる。より正確に言えば、害をなそうとすれば心臓が止まる」

 「そんなの、駄目だ!」

 

 告げられた言葉に、考えるより早く声が飛び出た。


 「心臓が止まるのは俺だけでいい!主が死を命じるなら死ぬ!!なんだってそんな…!!」


 クロムの悲鳴のような声に応えたのは、モウキではなかった。

 その隣の大巫師が、歯の抜けた口を開けて呵々と笑う。


 「守護者はみにゃ、同じことを言う」

 「それは仕方がないよ。大巫師。だって守護者になるような人だもの」

 「えーと、俺からも質問良いかな?」」


 口を開けたままポカンと止まってしまったクロムの左胸を拳で叩き、ファンが逆の手を挙げた。


 「どうぞ?」

 「害するって、どのくらい?俺がクロムの頭に拳骨落としたら、俺が死ぬ…くらいの厳格さ?」

 「まっさか!殺そうとするくらいで考えておいていいよ」

 「そっか。よかった。じゃあ、何の問題もないな。クロム」

 「いや、あるだろ…」

 「ないよ。だって、俺がお前を殺そうとするなんて時は、きっと俺が操られてるとか、それこそ黄昏の君に身体を乗っ取られた時くらいだろ?それなら、死んだ方が良い」


 朝になったら明るくなるから起きればいい、くらいの軽さで言い切る。

 その顔に、迷いも躊躇いもない。


 「そりゃ…そうかもしれないが…」

 「ま、俺もそんな死に方したくないし、お互い気を付けていこう」

 「…わかった。だから、絶対、クソ目玉野郎なんぞに乗っ取られるなよ!」

 「勿論。じゃあ、次を」


 だからこいつは怖いんだ…と口に出さず吐き捨てる。

 誰の命も諦めない。諦めるくらいなら、どれだけ危険でも困難でも、欠片でも可能性がある方へ突き進むくせに、命を懸けることを微塵も恐れない。

 その強さに惹かれて、魅入られて、最も近くで見ていたくて、守護者になることを決意したとは言え。 


 本当に、怖い。

 

 そう呟きながらも、口角が上がっていることにクロム本人は気付いていなかった。

 気付いたモウキは目元を微かに緩ませ…一つ瞬きをしてから、口を開く。


 「儀式が終わると、主と守護者はなんとなく互いが今どこにいるか感じ取れるようになります。特に守護者は、主が危機に陥っていると、すごいわかるみたい。ねえ?」

 「ま、我が主は夫婦喧嘩以外で危機に陥ることがありませんので、駆けつけたことはございませんが」

 「なんでファン君、一人で無茶やってもバレるからね」

 「し、しないよ?」


 微かに視線を泳がすな。

 しかし、危機を感じ取れ、位置までわかるのはありがたい。目を離すと変な虫を追いかけていく主だ。こういう能力はどれだけあってもいい。


 「では、最後に儀式のやり方だ」


 伸ばしたモウキの手に、ホレイが浅い箱を乗せた。

 そこから、戦篭手に覆われたモウキの手が何かを掴み、祭壇に乗せる。


 「こちらに」


 呼びかけに応じ近寄ってみれば、それは純白の小刀だった。

 刃渡りはクロムの掌より少し大きく、鍔はなく、柄まで同じ素材から削り出されている。

 艶やかなそれは、骨のようにも石のようにも見えたが、金属ではないことは確かだ。


 「じゃーん。これは、アスラン王家に伝わる、龍の牙から削り出された小刀ククリです」

 「りゅ、龍の牙!!ほんとに!?」

 「ダメだよファン君!標本用に削らせないよ!!」


 全くこの主は。

 第一、本当に龍の牙なら、どうやって削るというのか。

 『紅鴉の爪』なら削れるだろうが、そんなことに使ったら絶対に祟る。


 巫師が進み出て、恭しい一礼の後、一振りずつを絹布で包んだ。

 そのままファンとクロムに歩み寄り、差し出す。


 「一人一振り持ってね」

 

 絹布ごと受け取った方が良いのか一瞬悩んだが、意を決して素手で掴む。

 竜の牙と聞いて、触ってみたくなったのは、ファンだけではない。誰だって、触れてみたいと思うだろう。


 それが本当に龍の牙なのか、クロムには判断しようがない。

 だが、手の皮膚に吸い付くような柄は仄かに温かく、そして見た目よりはるかに重たかった。同じ大きさの鉄製の小刀の倍くらいはあるように感じる。


 「さて。その小刀で、自分の首を切る。あ、落とすんじゃないよ。頸動脈を切って、血を出させる。それが、守護者の儀の始まりだ」

 

 告げられた儀式の内容に、クロムは目を見開いた。

 

 首を切る?血を出す?頸動脈を?


 「そんな…!!」

 「若いの。おにゅしは、主を信じられぬかえ?」

 「…は?」

 

 もごもごと口を動かし、しかし、ひどく優しい目で、大巫師はクロムへと語りかけを続ける。


 「互いが同じだけ血を流さば、儀式は成功しぇいこうしゅる。しゃれど、どちらがが躊躇い、血を流しゅ事が遅れれば、首を斬った方は、死ぬ」

 「なるほど。血を何かの触媒に使う儀式って事か」

 「そういう事。さあ、どうする?ここで辞めることもできるけれど」


 ファンの血が流れるのは、嫌だ。

 そうさせないと決意して、ここにいるのに。


 だが、クロムが喚こうと何をしようと、ファンは間違いなく、自分の首に刃を走らせる。そういう男だ。


 ならば。

 己がやることなど、決まっている。


 「手を滑らせて、首を落とすなよ」

 「さすがにこの大きさで、この距離で、しかも自分なら大丈夫!…と思うんだけど、どうかなあ?」

 「俺に聞くな!!」


 数歩、離れて。さすがに、大王や大巫師に血を浴びせるわけにはいかない。

 

 「では、構えて」


 しん、と儀式の間が静まり返る。壁に描かれた四天聖獣ですら、息を詰めているようだ。


 「血を!」


 モウキの声が、遠くに聞こえる。

 視界に入っているのは、龍の牙を首に走らせるファンと、その首から吹き上がる、赤い血。

 自分の身体から抜けていく熱と命より、よほどその赤の方が惜しい。


 どちらの血が、より早く、大地に届いたかはわからない。

 だが、その瞬間。

 赤い血が、青草に色どりを添えたその瞬間。


 石柱が、光の柱と化した。


 「見事!守護者の儀、成せり!」

 「守護者の儀、成せり!」


 大巫師と巫師たちが、歌うように宣言する。

 その声をかき消すかのように、光の柱同士が赤い光で…いや、ファンとクロムの血で結ばれ、陣を描いていく。


 とっくに致死量の血が吹きあがっているはずだが、クロムは鮮明さを喪わない視界に、その光景を捉えていた。


 血は単純な線からさらに分岐し、複雑に絡み合い、ファンとクロムの間の空間を結ぶ。士官学校で習う程度の知識では、この陣がなにを示しているのかすらもわからない。

 だが、互いの首にまだ減り込んだままの龍の牙へと血は繋がり、吸い込まれていく。


 突然、閃光のようにそれは訪れた。


 龍の牙から、何かが入ってくる。

 焼けつくように熱いのに、痛みも不快感もない。

 むしろ、その熱が心臓に届くと、叫びだしたくなるような活力が沸いて出てくる。


 いや、実際に叫んでいたかも知れない。


 今なら、何でもできる気がする。

 馬より早く駆け、鳥より高く跳び、天の果て、地のおわりまで往ける。

 

 脳を焼くような爽快感に身を任せ、多分、何かを言おうとして。

 

 ぷつり、と、視界が真っ黒になった。


***


 「…」


 猛烈に、怠い。

 さっきまでの爽快感、万能感はどこに行った…と考えるのも億劫になるほど、身体も頭も重い。


 ぼんやりと目を開けても、見えるのはうっすらと明るい靄だけ。

 守護者の儀は成功したのだろうか。ファンは無事だろうか。

 

 そう思いはするものの、指先ひとつ動かせない。


 「すまんな。無理に引いてきた故、消耗も激しいようだ。気にせずに、そのままの体勢で聞いてくれ」


 掛けられた声に、ぼんやりと眼球だけ動かす。

 けれど、靄が濃い場所が分かっただけで、人の姿はとらえられない。


 「ここは、現世うつしよと神世のはざまのようなもの。もっと先まで行けば靄も晴れようが、それでは其方が戻れぬゆえに」

 

 誰だろう。男の声だ。

 モウキのような明るさはなく、先代のような怖さもない。

 けれど、命令しなれた人間の声だと、クロムはぼやける思考で判断する。


 「そうさな。俺ははるか昔の紅鴉の守護者だ。何も守れず、成せず死に、しかれど、思いがけず与えられた一生にて、守ることができた。そんな男だ」

 

 微かに、猫の声がする。トールのとこの、あの可愛くない懐かない猫に似た声。


 「其方に、渡したいものがあってな」


 渡したいもの?

 視線を凝らすが、やはり何も見えない。だが、靄が動いているような気はする。


 「爪の鞘に。炎公の眷属神なれば、見事収めてくれようぞ」


 爪の鞘…?『紅鴉の爪』の事か?


 「我が子孫を頼んだ。魔の眼など、皆切り捨て、射潰してしまえ」

 「…もち、ろん」


 動かない舌を、口を、無理矢理に働かせて告げる。

 それにかつての紅鴉の守護者は、笑って頷いたように感じた。


 「では、戻れよ。いつかまた、遭おう。その時は…」


 その時は?

 続きを確認したいのに、落ちていく。

 心地よい闇が思考を覆い、視界を隠し、引き摺り込んでいく。


 最後に残った聴覚に、また猫の声が聞こえた気がした。


***


 「いい笑顔で寝てるねえ」

 「善い夢を見ておりゅのでしょうな」

 

 あれほど迸った血はどこにもなく。

 青草の上に転がるファンとクロムを、儀式に立ち会った全員が穏やかに見守っている。


 「この子は、私が儀式を行った最後の守護者になりましょうなあ」

 「もう少し頑張ってと言いたいけれど、さすがに百五十歳をこれ以上酷使できないなあ」

 「ふぇふぇ…最後の守護者が善き若者で、嬉しゅうごじゃいましゅ…む?」

 「どうしたの?」

 「こりぇは…」


 大巫師がよちよちとクロムに歩み寄る。慌てて巫師たちが続いた。


 「ちと、守護者殿を持ち上げてくりぇ」

 「は…」


 巫師三人は戸惑いながらも、大巫師の言う通りにやたら幸せそうな笑みを浮かべて眠るクロムを持ち上げた。


 「ふむ…」


 大巫師の手が、先ほどまでクロムの背が圧し潰していた青草へと延びる。

 

 「そ、それは大巫師…!?」

 

 戻された大巫師の手には。

 一振りの鞘に納められた小刀が握られていた。

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