自分の眉毛は目に見えない(灯台もと暗し)7
手渡された試合用の剣は、刃を潰したなまくらだ。だが、当然ながら鋼の棒である以上、当たり所が悪ければ骨は折れ、臓物は破け、そして場合によっては死ぬ。
ユーシンの持つ槍も同様だ。ぶんぶんと振りまわして使い勝手を計っているが、その速度は普段と…つまり、実戦時と変わらない。
殺す気か、と問えば、当然だ!と帰ってくるだろう。
だが、それを咎める気はないし、元々、そんな分かりきった問いを投げかけるつもりもない。
何せ、長い付き合いだ。
特にアステリアを目指し、かの地に腰を落ち着けて冒険者家業に勤しんだ一年間。
その一年で、何度殺し合いと言われても仕方のない一戦を繰り返した事か。
何も考えていない、かつ体力無限のユーシンと違い、クロムには予定や疲労というものがあるので、三回に一回程度乗ってやっていたが…それでも、三日に一回。回数でいうのならば軽く百回は超える。
「魔法薬やら御業を受けるための寄進がもったいないから、骨や歯を折るのは絶対に禁止!」とファンに言われていたので、互いにちゃんと制御はしていたし、握る武器は良い感じの木の棒ではあったけれども。
まあ、ここでどっちが強いかはっきりさせるのは悪くない。
士官学校には魔法薬が常備されている。それに、ガラテアの御業もあれば、ファンが持ち歩いている「とっておき」もある。首が落ちなければ、何とかなるだろう。
幸い、潰れた刃では首を落とすのは難しい。つまりは、全力でやって問題なし、だ。
容赦のない冬の風の向こうに、不敵な笑みを浮かべるユーシンがいる。
いつも着ているものより上等なよそいきではあるが、着物の下には革の胴当てをつけ、そのさらに内側では、鎖帷子が筋骨と共に内臓を守っている…はずだ。
ユーシンは同盟国の催しへの参加だからと、何の武装もせずのこのこやってくる甘ったれたまぬけではない。馬鹿だけれど。
クロムも、新品の騎士服の下には同じく新品の革甲と鎖帷子を身に着けている。
騎士服とはそれらも含めて一式だ。その程度の武装で重いと動きが鈍るような奴に、大アスランの騎士たる資格はない。
練兵場を囲む人垣は、一瞬ごとに厚くなっていく。
注目を浴びるのは好きじゃない。むしろ、軽く吐き気を催す。
それは、大都にきてしばらくたったころ、揶揄った相手が札付きの破落戸で、仲間もろとも攫われて人買いに売られた経験が傷跡になっているからだ。
家畜のように縄をかけられてぐるぐると円を描くように歩かされ、それを周囲を囲んだ連中が下卑た顔で笑いながら値をつけていく。
あの時の恐怖と屈辱が、周囲を囲まれて注目されると吐き気を催すという反応になって残っている。
それは今更ながら腹立たしいし、誰が悪いかと言えば自分が悪いとも言えるので、人に話したことはない。ファンは気付いているだろうが、珍しく何も言わないという気遣いをしてくれている。
そのファンの姿を、人垣の最前列に見つけた。
まっすぐにクロムを見て、目が合うと微かに笑って頷く。
おう。そこで見ていろ。
お前の守護者がその信頼に応えられるほど強い事、今ここに証明してやる。クソ共の目に焼き付け、二度と舐めた口をきけないようにしてやるからな。
「勝敗は、どちらかが降参するか、己が勝負あったと断ずるまで。よろしいですかな?ユーシン殿下。クロム」
「俺は構わん!いつもの事だ!」
「俺もそれでいいですよ。まあ、馬鹿は死んでも『参った』とは言わねぇから、死ぬまでに止めてください。馬鹿なんで」
「それは俺も頼んでおこう!クロムは意地でも『参った』とは言わぬ!何せ、謝礼と謝罪と負けを認める事が出来ぬ病にかかっているからな!」
呆れた顔で、ヤルトリツが頷いた。キリクの王子相手に無礼な口を叩くな!とは怒られなかったのは、クロムとユーシンの間にある空気を読んでくれたからだろう。
今、そこに手を突っ込めば、きっと火傷するほどに熱い。
「はじめ!!」
互いに手の内は知り尽くしている。
だから、ユーシンの動きも当然、予想はしていた。
髪を乱し、肌を指す寒風よりも疾く駆け。
繰り出すのは、愚直なまでにまっすぐな、突き。
それは、あの夜にトールと手合わせした時に放った一撃と同じもの。
(…チッ…)
一瞬、閃光が走ったようにしか見えないその一撃を、刹那に満たない合間で思考する。
(あの夜より、速くなってんじゃねぇよ…!)
トールのように滑らせていなすか。
否。トールでさえ、かなりの衝撃を受けていた。絶対に認めたくはないし、言われれば違うと反論するが、力の強さでいえば、クロムはユーシンに一歩及ばない。
認めようと認めまいと、事実は事実だ。まともに流そうと受ければ、受けた剣を弾き飛ばされる。
力がなくともうまく流せれば…などというのは、相手が力押ししかしてこない間抜けである場合だけだ。
ユーシンなら、その動きに合わせて力の向きを調整してくる。力負けしているのだから、押し返すのは不可能だ。体勢を崩されて追撃を受ける。
ならば、避けるしかない。
突き出される槍の穂先、その鈍い輝きを、クロムは半身横にずらして避け切った。そのまま間合いを開けず、ユーシンの影のように背後へと滑り込む。
クロムの武器は剣だ。ユーシンの槍よりも間合いは狭い。
しかし、その剣ですら振り回すのが困難なほど、二人の距離は短く、僅か一歩程度にしか開いていなかった。
空気が、唸る。
クロムの左腕に装着された小型の円盾が、冬の凍り付いた空気を押し潰し、悲鳴を上げさせながら、無防備に晒されたユーシンの背後へと叩きつけられた…かに見えた。
ガン!と鳴り響いたのは、鈍い音。
クロムの攻撃に視線を向けることもなく、ユーシンの槍…その石突が跳ねあがり、円盾を迎え撃つ。
ギリギリのところで、クロムは左腕を引いた。
まともに受けていれば、衝撃を流す造りの円盾と言えど、しばらく左腕は使い物にならなくなっていただろう。
僅かに盾と槍が噛み合った音ですら、練兵場に響き渡るほどだったのだから。
腕を引く動きのまま、後ろへと飛び退く。ユーシンも槍を戻し、クロムへと向き直った。その整いすぎた顔には「楽しくて仕方がない」と、獰猛な笑みが浮かんでいる。
なんつう顏してんだ…と内心に吐き捨てるも、クロムは自分の口角も上がっていることに気付いていた。
「クロム」
「なんだよ」
「やはり、お前とやるのが一番楽しい!さらに、勝ってお前の死ぬほど悔しいが気にしてない、と装う無理した顔を見れば、もっと楽しい!」
「ほざけ。負けて土舐めるお前を指差して笑ってやるぜ」
一番楽しい、か。
それはそうだろう。お互い、手の内も実力も良く知っている。
その上、その実力の上を叩きだす事があることだって、わかっている。
本気を出せて、本気に応え、遠慮容赦なくぶつかり合える。
そんな相手と思う存分闘りあえるのが、楽しくないわけがない。
飛び込みながら剣を薙ぐ。
避けながら跳ねあがってくる槍を躱す。
身を捻りながら蹴りを繰り出し、負けじと繰り出される拳を肩当で受けて、剣の柄を脇腹に叩きつける。
それをものともせずにかまされた頭突きに視界を白く染めつつ、肩で突っ込み、怯んだ隙に距離を取って息を整えて。
地面を、蹴る。
視界はまだ回復していない。うすく白い靄がかかり、ちかちかと瞬いている。だが、その中でユーシンの姿だけが鮮明に捉えられている。問題はない。
べ、とユーシンが吐いた唾は、黄色みがかかっていた。脇腹に叩き込んだ一撃は、胃液を逆流させる程度の痛みにはなったようだ。肩が当たった鼻からは血が溢れ、湯気を出している。
お互い、無傷ではない。ならばまだ、どうとでも転ぶ。
剣と槍がぶつかり合い、凌ぎ合い、鋼の唄を奏でる。
拳が蹴りが、革甲と鎖帷子の上から肉を叩き、きっと青痣赤痣で丸い模様を染め上げているだろう。
吐く息には血が混じり、滴る汗も赤を帯びている。それでも、鈍色の閃光は止むことなく、冬の大気に弧を、直線を描き続ける。
何合目の打ち合いか。そんなものは、互いにもう数えていない。
十や二十ではきかないだろう。きっと、百はいっていない、と思う。そのくらいはぶつかり合い、噛み合った。
痛打を浴び続けた肉体は、それでも止まることなく動く。だが、自覚していた以上に、疲弊はたまっていたのだろう。
一際激しく打ち付け合った、その瞬間。
(…クソ!!)
クロムは剣の柄から、指が離れるのを感じた。受けた衝撃に耐え切れない。一瞬の後、自分の手から武器が消える。
ならば。
力の入らない指に全神経を集中し、同時に腕の力を逆方向に変える。
押し負けるのではなく、同じ方向に合わせて。
相応されればそのまま負ける。
キリクの槍の技には、相手の武器を巻き込んで飛ばすというのもあるのだ。
僅かに力の向きを変えて、クロムが流す方向よりやや上に引きこめば、剣を飛ばされた上に体勢も保てない。
けれど。
そうなるとは、微塵も思わない。
長い付き合いだ。どうしようもなく疲れ切った時の癖ですら知り尽くしている。
何度、互いの背を預け、生死の境を潜り抜けたか。覚えていないほどに。
だから、わかっている。コイツももう、限界が近い。
もともと、一撃の途中で力の向きや強弱を変える技量は、クロムの方が上なのだ。
第三者に言われたことはないが、絶対にそれは自分が上だと、クロムはいつもの強がりではなく言える。
全身全霊を込めた全力の一撃ならば、力負けは避けられず、いなすことは不可能だ。今は、まだ。
けれども、疲弊し、充分な間合いも取れず、次の一手の為の一撃でしかないのなら。
ユーシンの手からも槍をもぎ取れるくらい、できる。トールから叩き込まれたクラマの技にも、敵の武器を絡めとる妙技があるのだ。
雨に濡れた草のように、ユーシンの槍にクロムの剣は張り付き、そしてもろとも互いの持ち主の手から飛び出した。
武器を喪ったのは同じ。だが、僅かな差はある。
クロムは狙った。ユーシンはそうではなかった。
その一瞬。いや、一瞬もない、ユーシンが茫然とした、微かな隙。
クロムは両足で、大地を蹴る。
捨て身と言われても否定できない体当たりは、普段ならあっさりと躱されるか、逆に投げ飛ばされていただろう。
だが、絶え間なく激しい動きを続けた脚は、何より一瞬にも満たない不意は、クロムの体重と勢いに耐え切れなかった。
全身を打つ衝撃に、クロムは口を歪めつつ、上半身を起こす。倒れたユーシンに馬乗りになった体勢のまま、腰帯に差した小刀を抜き放ち、突き付ける。
だが。それとほぼ同時。
頭突きを食らって腫れて潰れた視界の外から、ユーシンの左手が伸び、クロムの咽喉を掴んだ。
「そこまで!!」
ヤルトリツの声が、遠く聞こえる。
ほんの僅か、息を吐き…クロムは全身の力を振り絞って、立ち上がった。
負けた。
あの一瞬。ユーシンが力を込めていれば、咽喉を握り潰されていた。
そうなれば、小刀を振るうどころではない。実戦なら、死んでいたのは自分だ。
「勝者…」
「クロムだ!」
高らかに宣言しながら、ひょこりとユーシンが立ち上がる。
「クロムが体当たりをせず、短刀を抜いてそのまま突き刺していれば、俺の方が先に死んでいた!」
驚いてユーシンを見れば、土塗れ、鼻血塗れの顔で、口を尖らせている。
勝者はクロムだと宣言はしているが、やはり悔しいのだろう。
「…クロム。俺がお前の咽喉を掴む瞬間、お前は『砦』を発動させようとしていた」
「は?してねえし」
「おそらく、無意識だ。だが、俺の手はお前の『砦』をすり抜けた。あれだな。お前は俺を敵と思っていないからだな。なかなか、不便なものだ」
「はあ?!」
「『砦』が正しく発動していれば、俺の手はお前の咽喉を掴めなかった。だから、それを鑑みても、お前の勝ちだ。だがな!!」
びし!と指を突きつけ、ユーシンは口角を吊り上げた。
「今回だけだ!今回だけ、お前の勝ちを認める!だが、次に勝つのは俺だ!!」
「何度やっても同じだ馬鹿!俺がお前なんぞに負けるわけない!!」
「ほざくな!!しかし、楽しかった!やはり思いきりやりあうのは良い!」
鼻血を拭いながらユーシンは高らかに笑い、薬を手に駆け寄ってくるファンとヤクモに暢気に手を振る。
そのまま、ぽそりと。
「…お前の御業は、なかなか不便だ。不便だから、俺は絶対にお前の敵にはならない。常に、味方であると誓う。だから、安心しておけ」
クロムにしか聞こえない程度の声で、誓う。
「…そんなの、とっくの昔に知ってる。今更だ」
「そうか」
「そうだ」
誓約は凍てつく風に散らされていく。
だが。
「ほんっと、今更、だ」
もう、とっくに魂に沁み込んでいるのだから。形に残らなくたって問題はない。
互いに視線も合わせずに頷きあって、それでいい。
「クロム、よくやった。けど、褒める前にまずは治療な!」
「痛みのない方にしろ。コイツの攻撃なんざ痛くもないが、回復薬は嫌な感じに痛いからな」
「俺はどっちでも構わん!クロムのように、ちょっとした痛みでピーピー言うほど弱虫ではない!」
「あ゛!?」
呆れながらファンが差し出してきた回復薬は軍御用達で、効果は高いが鎮痛剤が入っていない方だったが、まあ仕方がないと受け取って、口に含む。
その何とも表現しがたい味と、途端に全身を覆う回復痛に脂汗をにじませていると、肩に手が置かれた。
その衝撃だけで置いた相手を殴りたいくらい痛かったが、何せ相手はファンである。じと目で睨むだけで済ませた。
「いつものじゃれ合いに本気度を追加した感じだったが、これでお前を弱いだのなんだのと抜かす奴はもういないな」
「…ん?」
「すごい歓声だ。これは、お前たちに…ユーシンだけじゃなく、クロムにも向いているぞ?」
ファンに言われて練兵場を囲む人垣に意識を向けて。
初めてクロムは、大歓声が巻き起こっていることに気付いた。
それはクロムの勝利を湛え、二人の戦いを賞賛し、次から次へと湧いて出る。
手を叩き、声を張り上げる人々の中に、あのムカつく千人長とその弟だか従弟だかも取り巻きもいなかったことで、余計にクロムは留飲を下げた。
コソコソと隠れるように逃げ散る姿が想像できる。その様子も、これだけ人がいれば誰かしらが見て、広めるに違いない。ざまをみろ、だ。
「さよう。精進したな。クロム」
「学長…」
「動きが格段に良くなった。ユーシン殿下の動きをよく見ておったし、焦って無駄な攻撃を繰り出すこともなかった」
「うむ!だからクロムはもう問題ないと申し上げた!」
「なんでお前が上から目線で語ってんだよ!!」
「も~…また始める気ぃ?ごめーわくだから、やめなよぅ」
ヤクモのあきれ果てた声にファンも頷き、少々不本意ではあるが、クロムは一歩下がってユーシンを許してやることにした。
「一応、医務室に行こう。まあ、それまでに全快しそうではあるが…」
「かすり傷だしな」
「俺はそれより腹が減った!動いたからな!」
「なら俺は酒が飲みたい。さっき飲めなかったし、いっぱいくらい…」
「医務室よって、医官から許可出たらな。二人とも」
そう言いつつも、主はきっと、振舞われている麦酒よりもいい酒を飲ませてくれるだろう。
信賞必罰はアスラン軍の基本であるし、何よりファンはクロムにもユーシンにも甘いのだから。
***
「や、やっぱり、すごい…!」
「そ?まー、クー坊頑張ったじゃん。動きがめっちゃ良くなってるし」
そう言いながらもニルツェグの機嫌は良く、弟分の成長が嬉しいのだと知れた。
練兵場でキリクの王子と紅鴉の守護者が模擬戦をやるらしい、と聞いたのは、戦術論の授業を見学した後の事だ。
すぐにニルツェグが「おもしろそーだから、いってみよ」と提案し、エルディーンもレイブラッドも頷いた。
二人の実力は、よく知っている。我が身で味わったこともあるし、戦うさまも見た。
練兵場に向かう途上で、紅鴉の守護者に相応しくない、授業の成績が悪かったと諫言…いや、これは讒言だろう。そんなことを二太子に申し上げた輩がいると知れて、エルディーンの眉もニルツェグの口の端も吊り上がる。
エルディーンとしては、クロムに対し全面的に「素晴らしい人です!」と言い切ることはできない。
素行が悪いのは事実だし、配慮や礼儀というものはどこかに置いてきてしまったようだ。
けれど「悪人!」と断ずる事も出来ない。
友人の想い人であることもそうだが、その芯にあるのは主への揺るぎない忠誠であるし、なんだかんだと文句は言うが、見返りも求めず人助けもする。
少なくとも、立場や暴力で理不尽な要求を通すような下種ではなく、女性への態度は酷いが、不埒な真似をしたり、凌辱をすることは絶対にないと信じられる。
それに、食事の時に見たクロムの素手。その節くれだった指も掌の剣胼胝も、弛まぬ修練を続けてきたものにしか、持つことはできない。
レイブラッドも同意見だった。彼の手も同じようなものだが、クロムより五年以上長く生きているというのに、及びません…と首を振るほどに。
そんな努力も、努力の結果身に着けた強さも知らないくせに、相応しくないなどと言い放つ方が、よほどアスラン騎士に相応しくない!と内心だけでなく口に出して憤慨するエルディーンに、ニルツェグも頷いた。
「クー坊より、紅鴉の守護者にむいてる奴はいねーし。守護者ってのはさ、忠誠とか、そーゆーもんだけでなれるほど、甘いもんじゃねっつーの。雑魚虫だったら、オドンナルガがとっくに引導わたしてっしね」
「本当に、失礼です!いくらクロムさんだって、きっと、傷付いてます!」
「いやー。それはないなー。クー坊だし。超激おこで万死に値するからぶっころ良し?的なコト、ナランハルに言ってるだろーけどさー」
実際にニルツェグの予想はほぼ完璧に当たっていたが、それを確かめる前に、三人は人垣に囲まれた練兵場へと到達した。
「こっちこっち。エリぽよ、この台のぼると良く見えっから」
「の、登っていいのでしょうか?」
「だいじょぶだいじょぶ」
ニルツェグが二人を引っ張って行ったのは、練兵場の端に建つ物見やぐらだった。梯子ではなく階段が設置され、五、六人は軽く収容できる広さだ。
普段はここで監督官が訓練中の生徒に目を光らせたり、弓が得意なものが向かってくる敵兵役の生徒を狙い撃つ場であるが、現在は誰もいない。
二階建ての家の屋根程度の高さのやぐらは、風を遮るものはなく、ひときわ寒く感じた。しかし、確かに良く見える。
「あい。二人とも、これ服の内側にいれときなー」
「わあ!可愛い!」
「でっしょー?」
ニルツェグが差し出したのは、動物を模した平べったい人形だった。
ふかふかの毛で覆われたそれを受け取り…エルディーンが受け取ったのは、おそらくフクロウを模したものだ…言われたとおりに外套の内側に入れると、じんわりと暖かい。
「温熱の魔導具が仕込まれててさー。今、始動させたから、もうちょいあったまるには時間かかるけど」
「そんな高価なものを…!…では、ないのでしょうか。もしかして?」
「ん?この『ぽかぽか村のオトモダチ』、限定品は結構高値ついてっけど、この子らはふつーに売ってるやつ。定価でも銀貨三枚くらいだし?」
「…少し慣れましたが、やはり魔導具がそれほど安価というのに、落ち着きませんね」
魚のようにも獺のようにも見える人形を手にしたレイブラッドが、溜息と共に困惑を吐き出した。
アステリアでこの魔導具を買おうと思えば、幾らになるだろうか。確か、ほのかに光るだけの指輪が金貨二枚だったはずだ。父が自慢していたのを覚えている。
「ほら、ちゃんとお腹あたりあっためときなー?お、まずはユーシン様から仕掛けたね。はえーな」
「すごい!!動きが…わからない!」
魔導具の値段も、試合が始まれば頭から消し飛ぶ。
夢中で二人の戦士の動きを追いかけ、剣と槍が揃って宙を舞った時には、悲鳴寸前の息が咽喉から飛び出した。
その後の潔いユーシンの敗北宣言に涙腺が緩んだし、駆け寄るファンへ向けたクロムの誇らしげな双眸に何度も頷いた。
「いやー、いい勝負ったね。じゃ、センセー方に怒られる前に降りよ」
「ええ!?やはり、登ってはならない場所だったのですか!?」
「すぐ降りるならだいじょーぶ。でも、たむろってダラってたら怒られっかな」
そう言いながらやぐらを降りていくニルツェグの背中を慌てて追う。幸いにも咎める者はなく、ホッとしながら人垣の後ろを歩いていると、誰かの声が耳を打った。
やや裏返り、ヒステリックな声は、母の声を思い出させる。だから、歓声と声援で会話ですらままならない状況でも、拾ってしまったのだろう。
ぎくりと身を震わせながら声のした方へ反射的に身を向けると、前を往くニルツェグが「どしたん?」と振り向く。
「いえ…声が」
「声?すげーうっさいから、なんか聞き逃しちゃった?ごめぽよ」
「いえ!ニルツェグさんが、ではなく…あ」
エルディーンの視線を、ニルツェグとレイブラッドの瞳が追う。
そして、三人は同じものを見た。
「おっさんが因縁つけられてんね。ぶつかったとか」
エルディーンが反応してしまうほどヒステリックに喚いているのは、立派な身形の騎士だった。仲間らしい者たちは、気まずそうに視線を交わしているが、止めようとはしていない。
怒られている方の男は、いかにも田舎から出てきたといった風情だ。抱えている包みを守るかのようにぎゅっと引き寄せ、顔を引き攣らせている。
「どっかの地方から来た、志願者の家族かなー。ぶつかったくらいで喚くなっての。みっともねー」
「こんな人込みでは、ぶつかってしまっても致し方ないのでは…」
「だよねー。おっさん、謝ってっし」
いてもたってもいられず、エルディーンは喚く男へと駆け寄った。怯える男を背に隠すように立ちはだかり、精一杯の勇気を振り絞って男を見上げる。
タタル語はまだあまりわからない。簡単な受け答えしかできない。だから、仲裁なんて大それたことはできないが、それでも何とかしたかった。
幼い頃、母に怒られているとき、誰かにこうして助けてほしかった。
目の色が父と同じだとか、覚えた礼儀作法が母の故国と違うとか、そういう事で怒られているとき、「やめなさい」と助けてほしかった。
旅を共にしてきたタバサ達も、同じように言っていた。些細なことでお祈りよりも長い時間怒られ、喚かれ、人格も育ってきた時間も否定されているとき、誰かに助けてほしかった、と。
過去の自分を助けに行く事はできない。だから、もし、そうやって怯えている人がいたら助けたい。そう、話し合って眠った。
その言葉が、エルディーンを動かす。
「謝ってます!ぶつかった程度ならば、それでいいでしょう!」
震えているが、言葉は出た。西方語だが、アスラン騎士なら通じるかもしれない。実際、ニルツェグは全く支障なく話して聞き取っている。
だが、騎士が返してきたのはエルディーンの知らないタタル語だった。
それでも、きっと意味は通じているはず。
乾いた咽喉を動かしてむりやり唾を飲み込み、萎えそうになる脚に渾身の力を籠める。
「おいおい、ぶつかられた程度で喚くだけでもみっともないのに、かわいー女の子を怒鳴りつけるなんて、もうさあ、生きてる価値なくね?死んどく?」
「なんだと!!この…」
ゆっくりと歩み寄るニルツェグは私服だ。騎士服は纏っていない。だが、その表情に微塵も怯えはなく、声は低く叩きつけるような強さだ。
騎士も、それでただの見物に来た一般人ではないと考えたのだろう。怒りに赤く染まる顔と苛立った表情はそのままではあるが、言いかけた言葉を飲み込んだ。
二人のやり取りは、エルディーンにはわからない。わからないが、ニルツェグが助けてくれたことはわかった。
「エルディーン様、そちらの方も、私の後ろに」
「レイ、私、またご迷惑を掛けて…」
「おそらく、ご迷惑はおかけしていないと思われます…」
エルディーンが飛び出して行ったあと、ニルツェグがそれはそれは嬉しそうに笑ったのを、レイブラッドは見ていた。その後、タタル語で「大変よろしい」をとても砕けた言い方で呟いていたのも聞いた。
「しかし、あの騎士は身分の高い騎士のようです。ニルツェグ殿にお任せしましょう。我々が下手に動いて、ファン殿にご迷惑をおかけする可能性があります」
「ファン殿に…」
「はい。まして、言葉も通じておりませんから」
二人のやり取りを聞いていたらしい中年の男が、目を瞬かせて何かを問いかける。その内容はさっぱりわからなかったが、「ファン」という単語だけは聞き取ることが出来た。
「ど、どうしましょう!紹介してほしいとか、言われているのかも…!」
「とにかく、ニルツェグ殿を待ちましょう。貴方も、落ち着いて」
レイブラッドの「静かに」というタタル語は通じたらしく、男は頷いて口を閉ざした。とりあえず胸を撫でおろし、ニルツェグに向き直る。
「死ね、とはずいぶんと無礼な。この私が大都守備隊千人長、トダウル・クルゲンと知っての狼藉か!」
「ふーん。じゃあ、アンタもうちが紅鴉鴉親衛隊百人長、ニルツェグ・クナンってしってんのー?」
ニルツェグの名乗りに、あからさまに騎士は顔色を変えた。取り巻き達も同様に血色を引かせ、騎士とニルツェグの間で視線を彷徨わせる。
「く…クナン大公家の御息女とは知らず、申し訳…ございません」
「へー。謝んのは、うちがアンタより良いおうちの子だったからなんだー。超だっさ」
「そ、それは…!」
「ま、いんじゃね。うちの爺っぴと父っぴ、うちのことめっちゃ愛してっかんね。因縁つけられたって言ったら激おこだし?ぶっコロ前に、おにいが止めてくれるだろーけどさ」
十二狗将の三老将の一人、ボオルチュ将軍が孫娘を溺愛していること、その溺愛っぷりを御史台副長である息子と競い合っていることはアスラン軍でも有名な話だ。
それに何より、「黒旋風」ニルツェグの武名を知らぬはずがない。
無漠に巻き起こる黒い風。その二つ名を「可愛くないから」とニルツェグは嫌っているが、同僚たちは「ぴったりだ」と評していた。
その暴風に行き当たれば死ぬ。賊の集団を単騎で壊滅させるような武人に、実に相応しい。
「んじゃ、うちはアンタらと会わなかった。アンタらは何もしてない。ってことにしといたげっからさー。さっさと行きな。あ、もしも、この子らになんかあったらさ。問答無用でアンタらがやったって事にして、ブチのめしにいっから。楽に死ねると思うなし?」
にやりと口角を片方だけ挙げて告げるニルツェグに、騎士らは顔を青褪めさせ…そして、なんとか走って逃げるという醜態は晒さず、震えながらも一礼をして足早に立ち去った。
「んー。ほんとは、一人くらい見せしめにやっといたほーがいーけど、ま、めんどくせーし?」
「あ、あの、ニルツェグさん!」
「エリち!さっき、ちょーかっこかわいかったあ!やべー!映写魔導具もってくんだったー!」
「え、えと、あの!助けていただき、ありがとうございます!それと、ですね」
「んー?」
「こちらの方が、何か訴えてらっしゃって…」
エルディーンを抱きしめ、頬ずりしていたニルツェグは、しぶしぶ視線を「こちらの方」へと向けた。
改めて見ても、胡散臭い、さえない中年男である。できれば視界に置いておきたくはない。
目の前に可愛いのがいるのに、何を好きこのんでそちらではなくコチラで有限な視界を埋めなければいけないのか。
しかし、一生懸命に説明しようとするエルディーンは可愛いし、これで無視して愛でていたら哀しむかもしれない。可愛い女の子を哀しませるのは犯罪である。
しぶしぶ、ニルツェグは揉み手をしながらもじもじと足踏みをする男に向けて口を開いた。
「で、なに?」
「あのっ!あのですなあ!さきほど、そちらの可愛らしいお嬢様が、『ファン』と仰ってらっしゃったのですが、ファン先生…いやさ、ナランハルとお知り合いでありますか!!」
「んー…」
ニルツェグの幼馴染かつ仕える主であるファン・ナランハル・アスランにお近付きになりたい奴は、夏の虻のようにたかってくる。
この男のその手合いかと思ったが、「ファン先生」と呼んだのが気になった。
「まね。さっきも名乗ったじゃん。紅鴉親衛隊百人長だって」
「おお!え、えがったあ!ここまでくりゃ、どなたかいらっしゃるかと思ったのに、知った顔が全然いなくて…」
「知った顔?」
「ええ!ヤルトミク将軍様や、フタミの旦那さん、それに、親衛隊の方々!」
ヤルトミクの名は、アスラン全土どころか近隣諸国にも響いている。だが、密偵であるフタミの名前を出せる者はそうしない。
「わたしゃ、イフンからやってまいりました通訳でしてぇ、ええ、新しい年がきましたら、甥っ子がこちらにお世話にもなるんですけどね!」
「んで、ナランハルになんかよう?」
「はい!是非とも、何としても、お会いして、お渡ししたいものがございまして!!」
男は媚びに媚びた笑顔を浮かべ、その顔をニルツェグに向けたまま腰を折った。
「ヅック、と申します。ナランハルにぜーひーに、お伝えくださいませえ。ぐへへ…」
***
「うわー!ほんとにヅックさんだ!フフホトに寄った時、クオンにも会ったんだよ!士官学校入学の上に、婚約までしたんでしょ!!」
親衛隊騎士に囲まれ小さくなっていたヅックは、入ってくるなり駆け寄っってきたファンに、縋るように手を伸ばした。
「ふぁ、ファン先生~!!」
「なっつかしいなあ!元気だった?」
「今、ちびっとばかし元気じゃありゃーせん…」
何故、と思いつつ室内を見渡したファンは、ああ、と頷いた。
ヅックを取り囲む親衛隊騎士は、全員抜き身の武器を手に持ち、敷物の上に座らせたヅックに向けている。そりゃあ居心地は悪いだろう。
全員、「まだ染まってない」騎士たちだ。真面目に職分を全うしているだけなのだが、武器を向けられて見張られて、寛げる方がおかしい。
「皆、この人は知り合いだ。イフン地方に調査に行ったときに通訳してくれた人だから。武器を降ろして、外で待機してくれ」
「しかし、ナランハル…」
「クロムもいるし」
ファンの言葉に騎士たちは「是!」と答え、武器を降ろして部屋から立ち去る。
談話室という表札に相応しくない緊迫した空気は、一緒に出て行ったようだ。ヅックは大きく息を吐いて、へなへなと床に崩れた。
「こんなに怖い思いをしたなぁ、あんとき、あのおねーちゃんに短刀突き付けられて以来ですよう…」
「あはは、ミクがいれば任せられたんだろうけど、ミクは今、遊牧陣地を構えてるからさ」
「さようで…」
「まあ、お茶でも飲んで復活してよ。あと、イフンであったもろもろは、思い出したくもないんで内密に」
茶の入った椀をヅックの顔に置きながら、後半はひそりと囁く。
イフンでの出来事は、マシロたちが罠に嵌められ、たまたま近くにいたファンに報せが行き、自由に動ける軍団長として鎮圧にあたった程度で説明は済ませていた。
人質交換でこの人の代わりに短刀首に突き付けられて~などと、もちろん、クロムに話していない。
治療を終えたとは言え、あちこち痣だらけ…特に頭突きを食らった右の額は、酷い色になっている守護者がそのあたりを知ったら、めちゃくちゃに不機嫌になるし怒られる。
「まあ、そうですよねえ。あの名演技とか」
「速やかに忘却してくれ」
むろん、「子供好き」な男の振りをしたなんてことも内緒だ。そこらへんは、己の名誉のために。
「いやあ、クオンの伝手でね、交流会にはこれたんですが、見知った方がどなたもいらっしゃらないし、ファン先生に近付くこともできねーってんで、焦りましたわ」
「それはごめん。それで、どうしたの?ヅックさん。大都で商売はじめるから、口利きとか?」
「いや、それもものっすごおおくしてほしいんですが、生憎と、トパワクに戻らにゃならんので…その、そっちのお兄ちゃんは、席外して…」
「ナランハルと不審なおっさんを二人きりにするわけねぇだろ」
既に不機嫌なクロムの声に、ヅックが「ですよねえ~」と卑屈な笑みを浮かべる。
ヅックには流石に負けないと思うが、それをクロムに説明しても納得はしないだろう。
流石に、二太子と正体不明の客人が二人きりになるのは許される事ではない、と、ヅックは当然ながら承知している。それでも人払いを願うのであれば。
『ヅックおじさん。キサヤあった。なに?』
隠された神、キサヤのことだと仮定して、記憶の中からイフン語を引っ張り出す。
クロムが怪訝な顔をしている気配はあるが、イフン語であれば話していても内容はわからない。少しは話しやすくなるだろう。
問題は、あまり複雑な話だとファンもわからないという事だが。
「…先生、相も変わらず、イフン語下手だね」
「…もうしわけない…」
どうやらファンのイフン語が上達していないとみて、ヅックは渋い顔で茶を啜った。とたんにぱあっと良い顔になったのは、上等な高い茶だとわかったからに違いない。
「その、このクロムは俺の守護者で、言うなら俺の一部だから。話してもらえないだろうか。大丈夫。興味ないと思ったら、聞いてても聞き流して全然覚えないから!」
「おい!人を馬鹿みたいに言うな!」
「でも、聞かないだろ?」
「ムシケラや草の話じゃなきゃ、聞いてやるよ」
そのやり取りに、ヅックはぶはりと吹き出した。
「先生、相も変わらず、虫だ草だのを集めてるのかい?」
「そりゃ、俺は博物学者だもの。集めるよ。採集して分類するのが俺の研究なんだし」
「なんか、えらい綺麗な嫁ごを娶られたって聞いたが…」
「ん、あ、ん。はい。結婚します。ヅックさんにも、あとで紹介するね」
流石に不審人物のところに奥方様を連れて行くのは…と反対されたので、ジルカミシュに案内を任せて士官学校を見てもらっている。
それでシドとジルカミシュの模擬戦は紅鴉宮に戻ってからにしよう、ということになってしまったが、二人は気にした様子もなく承諾してくれた。
クロムもこのくらい素直だと良いのになあ、とは口に出さずに頷いていたが、ユーシンに「クロムもこのくらい素直だと良いな!」と言葉に出され、ケンカが始まり、そして現在の不機嫌に続いている。
「わかった。そんなら、話すよ。なあ、先生。チャスル…あん時の、子供だ。あいつの村で、奴ら、キサヤを探してただろ?」
「うん。まさか、また…」
「いや、そうじゃねぇ。そのなあ…出てきちまったんだ。剣が」
「え!!」
キサヤは、鍛冶の神。イフンの地に産するイフン銀を鍛え、加工できるのは、その加護を受けたもの…キサヤ・ラカムのみ。
しかし、神の加護をその瞳に宿すキサヤ・ラカムは、キサヤ神の刻印を持つわけではない。
その刻印を宿したものは、真の鋼ですら鍛え、神々が携える武具を鍛えたという。
そのキサヤが天界の禁を侵し、炎公レイファによってイフンの地何処かに封じられたのは三百年ほど前。
封じられて五百年で封印は解けるそうだが、その間にキサヤを祀る神殿を建てることも、祭りを行うことも禁じられた。
イフンの人々は己が咎められることをわかっていてなお、自分たちを守ってくれた優しい神に感謝し、ひそかに依り代を通して祈りを捧げている。
封印が解け、再び偉大なる神がイフンの地を見守ってくれる日を待ち続けて。
しかし、それ以外にもキサヤの封印を解く方法はあり、「イフンの血をもたないもの」が封印を解くことが出来るらしい。
だが、それには三百年秘匿され、イフンの人々でさえ誰一人知らない、キサヤが封じられた場所を特定しなければならない。
最後のキサヤの刻印持ちが殉死し、その最高傑作の剣と共にともに埋められている。
いうなれば、それだけが場所を特定する手がかりだ。封印された場所からは、必ず剣が出てくる。それも、神々の鍛冶師と言うべきキサヤの刻印持ちが打った、最高傑作が。
イフンは常に雨が降り、からりと乾いた日などほとんどない。埋められた遺体はすぐに腐り、骨すら残らないことも多い。どれほどの名剣でも、十年の地中にあれば錆びて朽ちていくだろう。
だが、神々の鍛冶師が打つからには、おそらくただの剣ではあるまい。五百年の時を越えても燦然と輝く一振りに違いないと、イフンの民は伝えている。
だからこそ、地中にあって朽ちていない剣。それがキサヤの封印を示すものなのだ。
「こいつ、なんだけどね」
しっかりと抱えていた包を降ろし、ヅックは分厚い布を外し始めた。
「え、持ってきちゃってよかったの!?」
「俺らにゃ持て余す代物だからね。ファン先生…いやさ、ナランハルなら、きっとうまくやってくれるって。あの村の村長になったばあ様から、俺に報せが来てさ。遥々、大都まで旅してきたってワケよ」
「剣?何の話だ?」
虫や草には興味はないが、剣という単語にはそそられたらしい。
口を挟んできたクロムに、ファンは一瞬考え、口を開いた。
「あー…マシロたちが罠に嵌められた村にさ、すごい神剣が埋まってるって、賊どもは聞きつけてて。それで村を乗っ取って、村人を使って探してたんだ。それは結局、誤情報だったんだろうって、思ってたんだけど…」
キサヤの話は伏せて、ヤルトミクたちに説明したようにクロムにも伝える。
いくらクロムは守護者で、己の一部だと言っても、それでキサヤについても話していいと判断するのはヅックだ。ファンの口から言ってしまっていいものではない。
「その剣が、そうなのか?」
「みたい…」
包みの中から現れたのは、長剣と小剣の中ほどの長さの、幅広の剣のようだった。
まとわりついていた泥や砂は固まって石となり、鞘のように剣を覆っている。柄は芯がむき出しになり、握って振るうのは困難を極めそうだ。
僅かに泥砂の隙間から覗く刀身は、翠の光を湛えていた。イフン銀特有の色合いだが、ファンが知るイフン銀の色合いよりも、ずっと深く、濃い。
まるで天卓山地に点在する、底が見えているがとんでもなく深い滝つぼのような色だと、嘆息を吐く。
「これは、どこから出土を?」
「生徒さんたちが大勢殺された卓だよ。いまだに、ちっさい骨とか歯が見つかるんだ。土にかえる前に回収して、大都に送ろうって集めててね」
「そうか…。ありがとう」
「なんの。村を救ってくれたのは、アスラン軍の皆さんだからね。イフン人は受けた恩は必ず返すよ。まあ、二月くらい前にね、雷が落ちて」
イフンは常に雨が降るが、雷が起きるのは珍しい。毎日降っていても、しとしとと銀の糸のような雨であり、雷雲が齎す豪雨にはならないのだ。
だが、全く起きないわけではなく、数年に一回くらいは雷が鳴る。それは雷帝がイフンの空を渡っているからだ、と信じられていた。
「崖がちょっと崩れてね。その崩れた石やらなんやらを危ないからどけてたら、横穴が出てきて、入ってみたらこの剣があったそうだ」
「二月前か…そりゃ、アグンさんもクオンも、何も言わないよな」
その頃には、色々と準備をしていただろう。もうイフンの地を発っていたかも知れない。イフンからフフホトに…その隣のクトラ自治区に行くには、徒歩かいったんウハイフンゲルに出て、大運河を通るしかない。どのみち、長い道のりだ。
「俺も知ったのは、一月前だかんなあ。そんなわけでさ、ファン先生!いやさ、ナランハル!この剣、預かっておくんなさい!炎公の神殿に預けてもらってもかまわねぇ!ナランハルからなら、細かい事情を話さなくても大丈夫だろ?」
「そりゃあ、まあ」
確かに、ヅックが個人で炎公の神殿へ剣を預けに行けば、どういうことかと聞かれるだろうし、場合によっては神官が現地に調査に赴く。それは、キサヤの事を秘匿したいイフンの民にとっては困った事態だ。
下手に知られて、それならばキサヤを合祀する炎公の神殿を建立しようなどという事となれば、封印が未来永劫とけなくなるかもしれない。
それに、キサヤの封印を解いたものの願いを、キサヤは聞き届けるらしい。
神が聞き届ける願いだ。人の欲望を掻き立て、狂わせるのに十分だろう。
そうした不埒者が現れれば、イフン全域に「あの村はキサヤの秘匿に失敗した。裏切り者だ」と見做される可能性もある。
イフンの民は、三百年の間キサヤを隠匿してきた。その年月を無駄にしたとなれば、どんな報復を起こすかわからない。
そこまで考えて、村長もヅックも「ファンに任せる」という決断をしたのだろう。
確かに、ファンからなら詳細を伝えずに奉納したい、と持ち込まれても、神殿も根掘り葉掘り聞くことはできない。
アスランにおいて雷帝信仰は盛んだが、炎公は数ある神々の一柱であり、鍛冶師や武具職人が祀るにとどまっている。
しかし、神殿の運営というのは金と権力の協力が必要になる場合も多く、二太子の機嫌を損ねるよりは正体不明の剣を預かることを選ぶのは、想像に難くなかった。
「わかった。預かる」
「いやあ、助かった!!肩の荷がおりたよお!」
「…それで、ヅックさん。封印の方は…」
「見つけたのは、全員イフン人だ」
「そっか」
封印を解けるのは、イフンの血を持たない者のみ。
ならば、封印については問題ないだろう。きっと、慎重に横穴は埋めなおされ、なかった事にされているはずだ。
そう思って、ファンは首を傾げた。
「なあ、ヅックさん。この剣、そのまま埋めたら駄目だったのか?」
「それがなあ。ほれ、あの村、キサヤ・ラカムがいっぱい出るって話だったろ?」
「ああ、言っていたね」
貴重なイフン銀を精製できる、キサヤ・ラカム。真カーラン皇国があの村に狙いを定めた理由の一つが、優れた鍛冶師と鉱脈の確保だった。
「最初は、剣も埋めたらしいんだ。そしたらさ、村のキサヤ・ラカム全員が、目から血の涙を流してさ」
「え…」
「あわてて剣を掘り出したら、収まった。こりゃ、埋めちゃダメってこったって、そうなってね」
クロムが心なし、後ろに下がっている。いや、剣から距離を置いている。
『紅鴉の爪』というさらにとんでもない祟りを引き起こす剣を背負っていながらも、やっぱりこういう曰く付きの代物は駄目らしい。
「血の涙か…」
そっと、翠の輝きを宿す刃に触れる。
つい最近、同じことが起きたのを思い出しながら。
マシロも、身分を潜入調査のためとは言え、鍛冶師を名乗った。
『紅鴉の爪』に魅入られたことからも、鍛冶師と見做していいだろう。
「…偶然…なのか?」
目は出血しやすい。自分も、『鷹の目』の濫用で良く出血して怒られる。
キサヤ・ラカムもその力を宿す証拠として、目の色が淡い翠に変わるらしい。ならば、何かの干渉を受けた時、その眼に負担がかかるのはありえる。
だが、マシロは?
いわゆる、「神の姿に目が潰れた」状態であるのなら、大鍛人も元第一工房長も同じ症状が出てしかるべきだ。
しかし、二人にそれはなかった。伝承にも、『紅鴉の爪』の真の姿を見たことで目が潰れた、などという話はない。
マシロが死にかけた地。
いや、あの時、あのマシロは、ほとんど死んでいた。
手足はあり得ない方向に曲がり、特に右手は皮と繊維だけで辛うじて繋がっている有様。
もとは何色だったかわからないほどに着衣は血に染まり、服が吸いきれなかった血が岩棚に溜まっている。そこに混ざっているのは、おそらく…内臓の一部。
顔の左半分は削られ、耳から目の端までがへこみ…
「おい、ファン、どうした?」
「いや、何でもない。大丈夫だ」
一瞬こみ上げた吐き気に、口を覆う。
その姿を、何処で見た?夢だ。猿が抱えて山を下りて行ったから助かる、いい夢だと言われて、ホッと安堵して。
けれど、あれほど鮮明に、マシロの状態を見たか?
少なくとも、起きた時には「死にかけていた」程度の認識しかなかったと思い起こす。
もしかしたら。
いや、だけれど。
黒い男。調子はずれの子守唄。
その、顔は。
「おい、本当に大丈夫か?」
「…うん、問題ない。ヅックさん、確かにこの剣は、預かるよ。それと、もうすぐにイフンに帰るの?」
「んなわきゃないよ、ファン先生!折角来たんだ!大都での年明けを楽しむに決まってるだろ!!」
「そうか。それは良かった。よかったら、宿を紹介するよ」
「いやあ有難い!!悪いねえ!」
点と点が繋がっていく。その予感が脳を這いずり回る。
もし、もしかしたら。
それは、点と点を結んで描いた、想像でしかない。仮説にも到達していない。
けれど、それが…正解に近しいのであれば。
イフンの地に、伝える使者は絶対に必要になる。
「どういたしまして、だよ。それくらいさせてくれ」
なんなら、宿代も払ってもいい。
もしかしたら…ものすごく気が重い伝令になってもらうかもしれないのだから。
とりあえず、超高級宿ではなく、けれど清潔で居心地が良く、食道や酒場が近くに多い宿はと、二太子ではなく鈴屋の孫としての知識を、ファンは引っ張り出すことに専念した。
その右手に、しっかりと翠の剣を掴みながら。




