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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
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自分の眉毛は目に見えない(灯台もと暗し)5

 「クソ…っ」


 罵倒と言うほどの言葉の連なりはないが、無意味なうめき声でもない。

 濁った酒の臭いを多分に含んだ息を撒き散らし、男は卓の上に突っ伏した。


 それを見る酒場の店主の目も、他の客の顏も、外の空気のように冷え切っている。

 酔っぱらいは酒場につきものではあるが、この酔っぱらいがやらかした事は酒癖の悪さの披露ではない。

 

 あろうことか、二太子とその妻となる御方に絡み、祝いに水を差した。


 店主としては、酒の一杯を飲ませるよりも拳の一発をくらわして追い出したいくらいである。

 しかし、そうしなかったのは…いや、出来なかったのは、この男の父が手広く酒を扱う大商会の商会長だからだ。

 客層も客入りも良いが、二十人も客が入れば満席になるような酒場では、ケンカを売れる相手ではない。

 

 噂によれば、一番最後に娶った妻との一粒種で、既に商売の一角を担う兄たちとはずいぶんと年が離れているが、それ故に溺愛しているのだとか。

 ただ、溺愛していても商会の仕事や権限は決して与えず、本人が思いつくままやりたがる、絵画だの詩だの楽器演奏だのの教師をつけて、飽きるまでやらせているそうで、一線は引いているようだ。


 しかし、小さな酒場で蔑ろにされた挙句、殴って追い出されたとあれば…容赦なく報復にでるだろう。

 可愛い末息子を侮辱された怒りを、二太子やその奥方にぶつけることなどできるわけがないのだから、ちょうどいいとばかりに八つ当たりをしてくるのは、想像に難くなかった。


 だから、言われるままに酒を出した。

 いくらなんでも、三十も近いのだから自分の限界くらいは知っている。その寸前で帰るだろうから、早い方が良い。と、そう考えて。


 だが、その店主の目論見は悪い方に外れた。


 途中から酒に水を混ぜて薄くしているが、それでも限界を超えて呑んでいる。この状態で外に出れば、道端で倒れて凍死は避けられない。 

 本心では外で凍死しちまえばいい、とそう思っても、言われるままに酒を出して息子を泥酔させ、凍死させたのかと咎められるのも困る。


 しかたがない。声を掛けて酒をやめさせよう。そして、馬車を呼んで商会まで送り届ける。

 飲み代と馬車の運賃が支払われるかどうかは、分の悪い賭けだ。うまく、良識人らしい長男殿に伝わればいいが。

 吐き出した溜息は大きく苦く、料理を皿に盛って厨房から出てきた息子が苦笑するほどだ。

 

 「あの…もう、お酒は控えられた方が…」

 

 だが、店主が声を掛けるより先に。

 小さな声が男に届いた。


 酔って血走った目が声の主を探し、男から見て左後ろで止まる。

 声の主は当然店主ではなく、若い女性だった。

 奥の卓で食事をしていた、三人組の一人だ。残る二人は、少し慌てた様子で戻って来いという形に口をパクパクと動かし、手招きをしている。

 

 男はじろじろと不躾に声を掛けてきた女性を眺めまわし、口を歪めた。

 その濁った眼に「悪意」がぎらぎらと光るのを見て、店主は内心に舌打ちし、割って入るべく掛けていた椅子から立ち上がる。

 

 「お客さん。知らない人にいきなり話しかけるのは、ちょいとばかり、ね」


 咎める声に、若い女性は身体を大きく振るわせて店主を見た。

 お堅いらしいカーランや西方諸国と違い、アスランでは女性から男性へ話しかけることは、別に咎められるような事ではない。

 しかし、だからと言って「見ず知らずの酔っぱらい」に、女性から声を掛けるようなことは、基本しない。それは礼儀だとか淑女の振る舞いとしてだからではなく、単純に危ないからである。


 その危機感を持てないような娘っ子が夜の酒場に来るのは、よろしくない。

 客層のいい酒場の店主としても、二人の息子の下に一人の娘を持つ父親としても、ここは怖い顔をしておくべきだ。


 「あー!すいませーん!その子もちょっと、酔ってるみたいで!」

 「ほんと、ごめんなさい!ほら、もう帰るよ!」


 店主の声に立ちすくむ女性に、一緒に食事を取っていた連れの二人が、席を立って駆け寄ってきた。座敷のない、卓と椅子しかない店だからこその素早い動きだ。

 外套を肩にかけてやっている一人は、また卓の上に残った料理と酒を、ものすごく名残惜しそうに見ている。

 彼女らが店に入って来てから、存分と酒食を楽しんだ、と言えるほどの時間は立っていない。

 なんとなく、会話は途切れがちで、酒も料理も進んでいなかったから、余計だろう。


 「でも…この方が、心配で…」

 「お酒飲んでらっしゃるの、邪魔しちゃだめよ!店主さんも、そちらの人も、ごめんなさいねー!」

 「お勘定!おいくらですかあ!」

 「お、おう。ちょいと待っててくれ」


 つい先ほど出したばかりの、芋と腸詰の炒めものはまだ湯気が出ている。ほとんど減っていないあの皿の代金は貰えんなあ、と、店主は注文票に書かれた名前に線を走らせた。


 「あ、あの!あのひと、酷かったと思います!二太子夫人になるからって、あんな横暴、赦されません!」


 狭い店内に放り出された言葉に、一瞬、全ての人々の動きが止った。

 二人の連れの顔は、先ほどまで焦りに紅潮していたが、それがすーっと引き、血の気を喪って白くなっていく。

 料理をつつき、酒を口に運びながら事の顛末を見守っていた他の客も、盆のうえに皿を乗せた息子も、当然ながら店主も、やたらと瞬きをするくらいしかできなかった。

 

 「私…ひとがひとを、理不尽に傷つけるのが…いやなんです。よく、優しすぎるとか、甘いとかって言われますけど…」

 「…れ」

 「え?」


 ゆらりと、男は立ち上がった。覚束ない足取りではあったが、腰が抜ける程は酒精に負けていなかったらしい。


 「黙れ!!ブスが気安く私に話しかけるな!同情するな!ムカつく!」


 酒精に濁り、血走った目に、一瞬で青褪めた女性の姿が映っている。男は唇を歪め、その顔に指を突き付けた。


 「なぁにが、優しすぎる、だ。ブスが優しくして、誰が喜ぶ?」

 「ちょっと!あんた!」


 男以外にようやっと声を出したのは、彼女らの隣の卓を囲んでいた中年女性たちの一人だ。常連なので良く知っているが、近くの商店の女将さん四人組である。


 「うるさい!!ああムカつく!うんざりだ!!」


 喚き散らしながら、男は千鳥足で扉へと向かった。

 この季節は寒気が店内になるべく入らないよう、細く開けてすり抜けるように出入りするのが礼儀だが、お構いなしに全開にし、出て行く。


 「死ね!!全員死ね!!特にお前だ、ブス!!そんな醜いツラで、生きてることが罪だ!!」


 閉まりかけた扉の隙間から、悪臭を放つような声が漏れ聞こえる。

 店主は大股で扉に歩み寄り、その声と寒風を断ち切るように扉を締め切った。


 「…酔っぱらいのたわごとさ。気にしなさんな。あのヤロウだって、そんな褒められたツラじゃないよ」

 「そうそう。今出て行くと外で待ち伏せしているかもだからね、もうちょっと中にいた方が良い」


 女将さんたちの声に、連れの二人は顔を見合わせ、頷きあう。その恐れは十分にあったし、彼女らが店を出ようとした原因は、今ここにいない。


 「…あのさ、アイツもひどいけどね、あんたもさ…」

 「…ごめん。私、やっぱり、あの人放っておけない。かなり酔っていたわ。誰かが着いていてあげなきゃ、危ない」

 「…は?」

 「ちょっとさあ!」


 連れの一人が声を張り上げるのが合図だったように、肩を掴もうとしていた手を強引に振りほどき、唖然とする店主の横をすり抜ける。


 「あのひと、傷付いているだけだもの!そんな人を放っておくなんてひどい事、したくないの!」


 再び全開になった扉から寒風が吹きこみ、店主は大きな体を震わせた。


 「やれやれ。とんでもねえお嬢ちゃんだ。痛い目見なきゃいいが…」

 「あの、連れが本当にすみません…」


 後ろ手に扉を締めがら店主は、青褪めた顔で頭を下げる二人に首を振って笑って見せる。


 「二人とも顔色が悪い。料理も酒も卓に残っているし、今帰るのは止めておきな」


 店主の言葉に、料理に未練を残していた方の客が大きく頷いた。


 「そうしよ!あんなに残したりしちゃ、お店に悪いし!私、もっと食べたいし飲みたい!って言うか!吞まなきゃやってらんねー!」

 

 もう一人は少し迷った様子で、連れと店主、そして店内の客を見渡す。

 店主も客も、うんうんと頷きながら笑っているのを見て、肩から力が抜けたようだ。安堵ととれる溜息を洩らしながら、連れの肩に額を乗せる。


 「うん。そうしよ」

 「ご迷惑おかけした分、呑んで食べて、売り上げに貢献しようよ!」

 「そうしていただけたら、ありがたいね」

 「うんうん。お連れさんの事はご心配なく。これからひとっ走り、巡回中の衛兵さん捕まえて、探してもらってきますから!」


 店主の息子の言葉に、二人ともホッとした顔で頭を下げた。さすがに、放っておくには目覚めが悪い。


 「すみません…余計なお手間を」

 「いいんですよ。どうせ、あの酔っぱらい野郎を家まで送るのに、馬車捕まえてくる予定でしたしね。むしろ、馬車代が浮いたと思えば」


 さすがに馭者に、どこにいるかわからない酔っぱらいを探して乗せて行ってくれとは頼めないし、あの不愉快な男を担いで店まで戻り、馬車が来るまで中に入れておくのも嫌だ。

 女性客に絡んだ挙句飛び出していったから、衛兵に頼んで探してもらったと言えば、さすがに八つ当たりも出来まい。


 「アンタらのお連れさん、随分と…変わった子だねエ」


 卓に戻った二人に、女将連合の一人が声を掛ける。一人が彼女らの卓に、湯気を立てる八宝茶が入った杯を置いた。女将連合は締めに必ずこれを注文する。口をつける前にあの騒ぎで、まだ杯に注がれただけの状態だ。


 「あ…」

 「まずは甘くて温かいもの飲みな?今、酒入れたら悪酔いするよ」

 「ありがとうございます…」


 女将連合以外の客は、暖かい無関心を発揮して自分たちの酒と肴に戻っていった。

 その様子を見て、息子がそっと厨房に引っ込む。勝手口から外に出て、衛兵を探しに行くのを、店主は微かに目を細めて見送った。

 

 「連れって言うか、ただ、働いている場所が同じだけなんです」

 「そうなのかい?確かに微妙な雰囲気だったけれど…」


 若い女性三人組ともなれば、いるだけで賑やかだし楽しそうなものだ。

 けれど、確かにこの三人組は、店に入ってきたときから何処かよそよそしいというか、一種の緊張感みたいなものがあった。

 そういえば、あの娘っこだけが、その緊張感もなかったな。楽しくもなさそうだったが…と店主は思い返していた。

 女将たちも同じ感想なのだろう。顔を見合わせて、急に苦いものでも口に突っ込まれたような顔をしている。


 「今夜も、別に誘っていなかったんですけど」

 「なんか、勝手についてきちゃったって言うか、側にいただけなのに、自分も声掛けられたみたいな感じになっちゃって…」 

 「そりゃまた、困った子だね。いつもそんななのかい?」


 この二人は、本当に仲のいい友達同士なのだろう。三人でいた時のような微妙な空気はなくなり、かわりに気の知れた者同士が纏う連帯感が見て取れる。

 交わす視線は「言っちゃう??」「言っちゃおうか。聞かれたし?」「そうだね」と無言で会話を交わし、同時にこくりと頷いた。

 甘い八宝茶で温められて、緊張やらなにやらも溶けだしたのかもしれない。

 それに、女将連合は人の愚痴を引き出すのが実に巧い。若い娘さんなど、いくらでも転がせる。

 

 「わりと。なんか、いつの間にかいるんだよね」

 「うん。お昼とか、当たり前みたいな顔してくっついてくるから、皆ちょっと、引いてたりして…」

 「一緒に行っても、話題に乗ってくることもあまりないし、楽しくないと思うんだけど」

 「そりゃあれだね。一人は嫌なんだろ。でも、そんなら溶け込めるようにすりゃいいんだがね」

 

 女将の一人が茶から酒に戻って鼻息を鳴らす。女性二人は再び視線を交わし、眉根を寄せた。


 「それだけなら、まだいいんですけど…」

 「さっきみたいに、急にヘンな事言い出すから、困ることもあって」

 「ありゃま」


 茶を飲みほした二人は、卓に残っていたほとんど手つかずの酒が入った杯を持ち上げ、喉に滑らせていく。

 悪口陰口を漏らすのに酒の力が必要なのだろう。


 「なんか、急に『優しい私』を出してくるって言うか」

 「その、嫌なお客さんとか、先輩とかいるじゃないですか。そういう人の愚痴言っていると、さっきみたいに『ひどい!』とか言い出して」

 「そうすると、場もしらけちゃうし。でも、知らない人にまで言い出すとか、ないわー…」

 「しかも、二太子の奥様を悪く言うなんてね」

 「ねー…」


 はあーっと溜息をついて、酒を呷る。それでますます落ち着いたようで、料理に向けて箸を伸ばす。


 「あ、美味し!」

 「うん!こっちも!」

 「そいつは良かった。これは、うちからの景気づけだ。嫌な事は呑んで流し込んじまいなよ」


 泡立つ麦酒は、自慢の逸品だ。二人は明るい顔で「ありがとうございまーす!」と唱和し、杯を受け取る。

 これでいい。うちの店から出る客は、満足した顔をしてほしい。疲れ果てて泣きそうな顔で出て行かれたら、今日の寝つきが悪くなる。


 「横暴って言うかねエ。あの男が一方的に奥方様に横恋慕してて、挙句の果てにはフラれたからって、暴言はきやがってね」

 「それを二太子様が咎めて、奥方様がとどめ刺した程度さ」

 「いやあ、あの啖呵、良かったねえ!」

 「え、近くで見てらしたんですか!いいなあ!」

 

 二人の関心は、即座にそちらに移ったようだ。愚痴も酒場にありがちだが、こういう時事の話題はもっと定番だし、めでたい事ならなおさらいい。


 「すごい近くってわけでもなかったけど、見れたし聞こえたよ!」

 「奥方様、すごい美人でね!ま、二太子妃にならなくても、あんな野郎が嫁にできるような御方じゃないね」

 「そもそもねえ。ありゃあ、どう見たって惚れて惚れ合ってるよお!二太子様はそういうことにゃとんと興味のない御方とお聞きしていたけど、なんのこっちゃない。初恋を大事になさってる御方なだけだったね」

 「ええ!それ、どういうことですか!」

 「御付きの将軍様が仰ってたんだけれどねエ…」


 盛り上がり始めた二つの卓を眺めてから、店主は頷いて厨房に戻った。

 息子はそれほど時間をかけずに戻ってくるだろうが、これから盛り上がる卓には、もっと酒も肴も必要だ。それまでは一人で切り抜けねば。


***


 「おい、あれじゃないか?」

 「あ、あの!」


 携帯魔導灯を掲げる衛兵が指をさしたのと、その光と街灯に照らされた若い女性が駆け寄ってきたのは、ほぼ同時だった。


 「君が、酔っぱらい追いかけて出てっちゃったっていう子?危ないから、もう帰りなさい」

 「わ、私は、大丈夫です!でも、彼を見失ってしまって…お願い、探してあげてください!」

 「わかったわかった。だから君は、帰りなさい。ほら、あの馬車、客待ちしているみたいだしね」


 魔導灯を振って合図をすると、客待ち中の馬車が寄ってくる。

 馬車に乗るほどの距離ではない可能性もあるが、放っておくと付いてくるかもという可能性を危惧して、半ば強引に衛兵は馬車に押し込んだ。


 「私も一緒に!」

 「これは僕らの仕事だから」


 ぴしゃりと言い切られ、さすがに反論も出来ずに黙り込んだのを見て、衛兵は分厚い首巻の中に溜息を吐いた。

 今日は二太子御成婚の祝いで、あちこちで酔っぱらいが生産されている。おかげで衛兵隊は大忙しだ。「ちょっとおかしい」らしい女性一人に、あまり手間をかけたくはない。

 

 もう一人の男は、大商会の息子らしいし、死ぬ前に見つけなくては何を言われるかわかったものではない。

 お偉いさんの耳に入って、叱責だけならともかく、責任を取らされて首なんて言うのはまっぴらだ。

 自分も相方も、もうあと一年務めれば死ぬまで恩給が貰える年まで勤め上げた。ここで悠々自適の人生折り返しを逃すわけにはいかない。


 「じゃ、旦那がた。お疲れさんです」

 「ああ。酔っぱらいを轢くなよ」

 「重々気を付けますわ」


 馭者が手綱を鳴らし、馬は足早に進みだした。寒いし、今日は馬車も繁盛しているだろうから、きっと疲れている。さっさと帰って暖かい寝床で休みたいに違いない。

 暖かい寝床に潜り込みたいのは衛兵たちも同じだが、どちらからともなく、重い足を引きずるようにして歩き始めた。


 「…なあ」

 「ん?」


 大きな通りにはいなさそうだと、小さな路地へと進んでしばし。

 この辺りは、店や取引所、商会の出先などが並ぶ区域で治安もいいが、夜は人気がなく、物取りに会う心配はなくとも寝こけていれば誰にも見つからず凍り付く。

 だからこそ、衛兵の巡回路ににもなっているのだが。


 相方が見つけたのは、路面に落ちて光っている魔導灯だった。自分たちが持っているものと寸分たがわない、衛兵用のもの。


 「おい、どうかしたか!」


 それが路面に転がっているという事は、同僚に何かあった可能性が高い。

 慌てて駆け寄る衛兵二人が見たのは、立ち竦む背中ふたつ。

 同じ詰所の、去年配属されたばかりのまだ若い衛兵だ。後輩が出来たことでややイキっているが、それが彼らのような古兵からすれば、微笑ましい。


 そんな若い衛兵二人は、何かを見て硬直している。

 地面に落ちていない魔導灯が、激しく揺れながら照らすもの。


 「おい、しっかりしろ!詰所に走って、応援呼んで来い!!」

 「あ…はい!!」


 頬をはたかれて正気に戻った衛兵は、よろけながらも駆けだした。一度走りだせば、恐怖に背中を押されて転がるように駆けていく。

 

 「こりゃあ…」

 「ああ」


 二つの魔導灯が「それ」を白く浮き上がらせる。

 いや、白く浮くのは光だけではない。

 「それ」から立ち上る…むき出しの体温が、最後の抵抗のように吐き出す湯気。


 「ち…腹が破れてるからか。ゲロくせぇな」

 「それにしても…ひでぇ臭いだ」


 首巻のうえから、鼻を覆いたくなる異臭に眉を顰めつつ、見たくはないが「それ」をじっくりと検分していく。

 長い衛兵稼業のなかでも、こんな惨たらしいものを見たのは、数えるほどだ。


 「叫んだんだろうが…何も聞こえんかったな」

 「声出す前に、やられたんじゃねぇかな。喉が裂けとる」

 「そうだな…。喉から腹にかけて、なんか、切れ味のよくないもんで引き裂かれた感じか」


 ぐしゃぐしゃに裂けて血と肉と内臓をあふれさせている傷は、じゅうぶん致命傷だ。まだ湯気が出て血が凍っていないから、襲撃されてからほとんど時間は立っていないだろうが、救命を試みる必要はないと断言できる。

 

 「酔っぱらいさがすどころじゃねぇな」

 「さっきの嬢ちゃんを馬車に押し込んでよかったわ」

 「違いねえ」

 「こんなん、見せられねぇわな」

 

 経験豊富な衛兵である彼らでさえ、冷や汗と吐き気を軽口で押し込めなければならないようなもの。


 咽喉から腹にかけて引き裂かれ、そして。

 顔を剝がされた、凄惨な死体。


 「こんなめでたい日になあ」

 「まったくだ」


 二人ともよくよく先輩たちに言われた言葉を、別々に脳裏によみがえらせていた。

 

 一番太陽が強い日は、陰も一番黒い。

 めでたいときには狙ったように凶事が起きる。気を引き締めろ、と。


***

 

 「あ…!お姉さま、もう、もぅ、それ以上は…!」

 「だめ~!さけちゃう~!」

 「大丈夫だ。人体はそう簡単には裂けない」

 「そーそー。もうちょい、もうちょいやってみよ?」


 室内と控えの間を隔てる布を捲った瞬間に響き渡る悲鳴に、ファンは目を瞬かせた。


 西の間に設置された祭壇に祈りをささげた後、ガラテアが望んだのは「着替え」と「化粧落とし」だ。

 それについて、ファンにも異論はない。騎士服での礼装はまだ動きやすいし、装飾も少ないとは言え、普段着と比べて寛げるはずもない。

 なので、まずは着替えようか…となり、一旦自室へと切り上げた。

 

 着替えを済ませて幾ばくかの書類を片付け、再び西の間に戻ったところ、先ほどの悲鳴に出くわした次第である。


 「ガラテアさん?」

 「ああ、ファン。みんなも来たぞ」


 タバサの背を押しながら、ガラテアが微笑む。

 大きく足を開けて、その間に上体を倒す…基本的な柔軟運動だ。その隣では、同じようにマリーアンがニルツェグに悲鳴を上げさせられている。


 「なんかね、護身術でも身に着けた方が良いかなって話になってさ」

 

 急に手を引かれて「一緒に」と言われない位置まで逃げているナナイが、簡単に解説をしてくれた。


 「その前に、まずはどれくらい動けるか見ようかって、ガラテアさんやニルねぇがね」

 「なるほど」

 「女は腕力、体力で男にかなわない。だが、男より優るものがある。それは身体の柔らかさだ」

 「なるほど!勉強になります!」


 流石に剣術を身に着けているエルディーンは、難なくぺたりと上体を絨毯に着けていた。それを残る三人…コニーたちが恐る恐る見ている。


 「エリーさ、い、痛くないの?」

 「ええ、大丈夫」

 「エルディーン様は、体術の素養がおありになりますね」


 フフホトから付いてきている、護衛女官たちも一緒だ。すっかり気心の知れた彼女らに褒められて、エルディーンの顔がふにゃりと紅潮する。

 

 「つーか、ナナイはともかく、なんでこいつらが?」

 「クー坊。あとでしめる」

 「…理不尽すぎません?」

 「可愛い女の子に、汚い口きいてんじゃねぇよってコト」


 全く納得していない顔だが、クロムはとりあえず口を噤んだ。これ以上異論を述べれば、間違いなく締められる。

 百人長とは言え、ニルツェグの強さはヤルトミクに次ぐ。一瞬でも掴まれれば、次の瞬間には床に倒されて関節を極められて、悲鳴どころか絶叫を響かせる羽目になりかねない。

 いや、声を出す余裕があればまだマシか。胸を抑えられて、息も絶え絶えに窒息と激痛で失神するのは絶対にごめんだ。


 「でも、ほんと、どして?遊びに来た感じ?」

 「それなら良かったんですが」


 ヤクモの問いに苦笑しながら答えたのは、部屋の隅で妹弟子たちの受難を眺めていたロットだった。その横には、どうにも落ち着かない様子のウィルもいる。


 「わー!ロットさん、ウィル、おひさしー!なんか、すごい久々に会った気がするよぅ!」

 「う、うん。ヤクモ、元気そうでよかった」

 「どしたの?ウィルはなんか、そわそわしてるねぃ」

 「だ、だって…ここ、王宮、だよね?」


 ああ、そっか。そうなるよねぃ…と納得した顔のヤクモとウィルに向け、ファンはぱたぱたと手を振った。


 「そうだけど、俺のうちだから。仮住まいだけどね。兄貴が王位を継いで、その二番目の子が七歳を越えたら、引継ぎして出て行くよ」

 「そしたら、何処に住むのだ?金狼宮か!」

 「どうだろうなあ。フフホトに住みたいとは思うんだけど。ガラテアさんと相談して、五年以内には決めるさ」


 何せ、まだトールに子はいない。

 いや、もしかしたら…遊牧陣地クリエンで共に過ごすかもしれない女性が、本当にいるのだとすれば、その身に宿しているかもしれないが。

 その子が今夜生れたとしても、五年以内に決めておけば問題はない。明日、急に七歳になるわけではないのだし。


 「んで、どして、ウィルたちもこっちに?」

 「妹弟子たちが、ガラテアさんと親しい事を知った方々が、しつこくお近付きになろうとしてきたりしてね」

 「レイブラッドさんが、追い散らしてくれたりしたんだけど…」


 ロットの横に、エルディーンの騎士は無言で立って主たちを眺めている。ウィルとは違い落ち着いた様子だが、壁にもたれかかることもなく、接地面積を最小限にしているあたり、やはり緊張しているのかもしれない。


 「だからさー。全員こっちにきといたほーが、よくねって」

 「うん。ニルから聞いて、招いたんだよ」

 「鈴屋は、大丈夫なのか?取り入ろうとする輩や、逆恨みした連中が…」


 シドが心配そうに呟く。その言葉に、ファンとそれからクロムも、大きく頷いた。


 「大丈夫。祖母ちゃんたちだぞ。文字通り粉砕するさ」

 「ま、しばらく店は開けられねぇだろうが。あそこはほぼ無休だからな。クソ忙しい年末年始を纏めて休めて補償もあるなら、むしろ喜んでるんじゃねぇの?」

 「うん。今から何しようか楽しそうだったよ。ヒタカミの年明けの御馳走、腕によりをかけて作ってくれるってさ。楽しみだよな」

 「それは良い!旨いものはどれだけあっても良い!」


 跳ねるように喜ぶユーシンに、クロムは呆れた目線を送っていたが、その口許はにやにやと綻んでいる。年明けの御馳走が楽しみなのは一目瞭然だった。

 それは当のユーシンにもお見通しなようで、満面の笑みを浮かべたままクロムに蹴りを放つ。


 「ここは俺んちだけどガラテアさんの部屋なんだから、暴れないの!」

 「ファンの部屋でも暴れては駄目だがな」

 「うむ!すまぬ!」

 「素直に謝れるのは、ユーシンのとても良いところだ。私も見習おう。皆に、負担をかけてしまってすまないな。我がことで浮かれてしまっていた」


 タバサの背を押していた手を離し、今度はいたわるように撫でながら詫びるガラテアに、少女たちは揃えたように首を振った。


 「そんなことないです!」

 「そだよ!あたしたち、お城に止まるなんてすっごい経験させてもらえるんだし!」

 「お姉さまの結婚なんて、素敵すぎるもん!」

 「ねー!」

 

 口々に放つ言葉に嘘偽りは感じられない。きらきらと目を輝かせ、全身で思いのたけを伝えようとする姿に、少し硬くなっていたガラテアの双眸が緩む。


 「マックロラン師にも、是非是非この機会に二太子と誼を通じて置けと言われていますしね」

 「マーさん、俺だって気付いてないんだろうなあ」

 「気付きたくない事もあるのかもしれません。ずいぶんと長い間、女神に祈っておいででしたから」

 「神殿の方は、うちの騎士ががっちり警護するから。アイツら、本当にやるのかなあ…」

 「ふーん。何する気なん?」


 神殿に忍び込んで夜這い掛けに来るじゃないですか!そしたら、可愛い女の子じゃなくて、えっちなお兄さんが待ち構えてるって寸法っすよ!と、女性用の肝心な部分が隠れているようで強調される下着を持って「絶殺の策」を語っていたが。

 それを公表するのは、特に彼女たちの前では憚られた。騎士たちの名誉を守ると言うより、紅鴉親衛隊の品位が疑われる気がする。


 「あ、うん。押し込んできた連中は容赦しないって」

 「とーぜんだね」


 容赦の方向がたぶんニルツェグの考えているのとは違うが、敢えてファンは黙った。一緒に聞いていて、珍しく礼儀正しい方の無表情を保っていたクロムも、何も言わない事であるし。


 「あの、ファン殿!婚礼はいつくらいなのですか?やはり、年が明けてから?」


 その沈黙を好機ととった様子で、エルディーンが素早く質問を飛ばす。

 それはファンにとってもとてもありがたい転機だ。内心、エルディーンに礼を言いながら飛びついた。


 「それは確実だけど、いつくらいになるのかなあ?」

 「やっぱり、王族の婚礼ですもんね!準備とか、大変そう…!」

 「私たちがアステリアに帰るまでには無理だよね」

 「ねー!やっぱり、一年くらいは掛かっちゃう、とか?」

 

 少女たちの関心は、婚礼の場でガラテアが纏うであろう衣裳に向いているようだ。絶対に綺麗だ、見たい!と盛り上がっていく。


 「いやー、最低でも三年かなあ」

 「三年!」


 しかし、ファンの出した答えは、予想を上回った。目を丸くしているのは、エルディーン達だけではなく、ガラテアもだ。

 

 「そんなに…掛かるもの、なのか?」

 「まず、婚礼衣装をつくるための羊や山羊が何処に生まれるか占うところからだからねえ。その指定が十年後なら、生れてから毛を取れるようになるまで一年、糸を紡いで衣裳にするのに一年って感じで」

 「…それまで、婚約者のまま、なのか?」

 「婚礼はあくまで儀式だからねえ。うちの両親も、婚礼をあげたのは俺が十二の時だし。年が明けたら身内で紹介を兼ねた宴をするから、その時は皆にも参加してほしいな」


 喜ばれるかと思ったが、少女たちは顔を見合わせて戸惑っている。

 それを見て、ファンはようやく思い至った。

 アステリアより西では、基本的に婚礼を上げるまで、家族ではない男女と言うのは別々に暮らすものなのだ。

 

 「ええと、法的にはもっと前に夫婦になるよ。本来は書類書いて終わりなんだけどね。さすがに王族ともなると、もう少しめんどくさくて、朝議で決裁が必要になる。次の朝議は四日後だから、その時からその、俺とガラテアさんは、夫婦って事になるね」


 それを聞いて、明らかにホッとした空気が少女たちに、それからガラテアにも流れた。文化の差はずいぶんと理解したつもりだったが、やはり思い至らない部分もあったようだ。


 「ごめん、その辺しっかり説明しとけばよかったね」

 「いや、私に固定観念がありすぎた。アスランはそういう国だな。婚姻を結んでいない男女が恋仲であっても、何ら問題がないのだった」

 「アステリアからすると、とんでもないよね。ぼくはまあ、小さいときにはアスランで育ったし、わかっているけど。うちは父さんがアステリア人だから、絶対許さんってよく言われる」

 「え、ナナイはそれ、不満なの!?」

 「そっかあ!そうなんだあ!」

 

 急に喰いつかれて、ナナイの顔が一気に紅潮した。つい、視線がクロムに走ったものだから、余計に少女たちがきゃーっと盛り上がる。


 「え、いや、普通に、ちょっと鬱陶しいだけで!」

 「えー!」

 

 囃し立てる…とまではいかないものの、にこにこ顔で周りを囲んでくる友人たちに耐え兼ね、ナナイはガラテアの後ろに逃げ込んだ。

 

 「そのくらいにしておきなさい」

 「はーい」


 賑やかだが微笑ましいその様子に、女官たちも口元をほころばせ、ニルツェグは口許を拳で拭う。


 「あー…可愛い女の子がきゃっきゃしてる。そこからしか取れない栄養ある…」

 「ニル、それはどうかと思うが…」

 「じゃあさー。ナランハルはさー。おっさんがキャッキャしてるのと、どっちがいーよ?」

 「え、そりゃ、女の子の方が見ていて微笑ましいけど…」

 「でしょー?」

 「でも、ファンの場合は、お祖父ちゃんの目になってるからねぃ…」


 また言う…とファンが抗議の声を上げるより先に、涼やかな鐘の音が響いた。

 それは、控えの間に誰かがやってきたことを示す音だ。女官の一人が足音もなく用件を問いに行く。

 しかし、その顔に緊張感などはない。だいたい、用件についても想定はできている。


 「ナランハル。夕餉の支度が整いましたとのことです」

 「うん。ありがとう。さ、皆、飯食おう。かくいう俺も、昼飯からろくに食ってないから、さすがに空腹だよ」

 「右に同じだ」


 任命式からガラテアを迎えに行くまでのわずかな間…つまり、紅鴉府の練兵場から門の外に出るまでに間に、飲み込むように肉まん(ボーズ)を二つ食べただけだ。戻ってからも茶を口にしたくらいで、胃の中は既に空っぽ。強烈な空腹感だけが収まっている。


 「私たちがご一緒してしまって、よいのですか?」

 「もちろん。母さんも、皆が来るって聞いて喜んでいたし、今晩のご飯は、いわゆる晩餐とかじゃない、普通の夕飯ですから。ニルも食ってけよ」

 「やったー。食う食う~」


 女官と、呼びかけに来た侍従官が一行を誘導したのは、紅鴉宮にある広間のひとつだ。

 西方式に卓と椅子が並び、絨毯に座るのではなく席について食事ができるようになっている部屋である。

 普段はあまり使われることもないため、装飾品の類などは何もない。だが、改めて敷いたのであろう暖色で織られた絨毯と、白木の卓、その上に並べられた色とりどりの料理の数々により、実に賑やかだ。


 そしてすでに、着席している人物たちが、何よりもこの部屋を彩っている。


 「わーい、みんないらっしゃーい!」

 「お腹空いたでしょう?たくさん、食べてくださいねえ」

 

 国王夫妻の歓迎の声に、少女たちの顏に笑顔が満ちた。口々に「おひさしぶりです!」と声を掛け、再会の喜びに瞳を輝かせる。


 「みんな、元気そうで安心しました。さあ、席について。いっぱい食べるところも見せてくれたら、もっと安心しますからね」

 「うんうん。若い子はたくさん食べなきゃ!あ、でも、嫌いなものがあったら、無理しないんだよ?美味しいものは美味しくいただいた方が良いし、誰かの嫌いなものは、きっと誰かの好物さ!」

 

 卓に並んでいるのは、アスラン料理ではなかった。

 目立つのは、赤い色と白い色。番茄トマトとチーズの色である。


 「ガラテアちゃんがうちに来て最初に食べるお料理ですし、皆も来てくれるって言うから、西海料理にしましたよ。私も作るのは初めてなので、厨官バウルチたちと一緒に作ったの」

 「ありがとうございます。…ああ、とても、懐かしい匂いがします」

 「家鴨と魚介と、トマト。それから橄欖油に香草が肝と聞いて…でも、西海料理の専門家はいなかったので、本を読んだだけなの。だから、何か違ったらごめんなさいねえ。味は美味しいと思うんだけど」

 「間違いなく、美味しい。食べる前からわかります」


 卓を埋める料理は、一人ひとつであるらしい土鍋に入れられたトマトのスープ以外は冷菜ばかりだが、それでも隠し切れない芳香を漂わせている。ユーシンの目が戦場全体を見渡す猛将のそれをなっているほどに。


 「座りながら聞いてねえ。はじめましての子もいるから、紹介するね!まず、私とソウジュちゃんとトール君は、皆よく知っているよね」

 「あ、兄貴いた。気配がしないから気付かなかった」


 言われてみれば、ソウジュの隣の席にちんまりといる。しかし、ファンが思わず口に出すほど、気配が消えていた。


 「人見知りしているだけですから」

 「こないだ会ったじゃない」

 「…お、弟よ…一、二回会っただけのものは、兄としては、その、難易度が高いのだ…」


 消え入りそうな声での弁明に、少女たちの眉が寄る。それは、か細いタタル語を聞き取ったわけではない。


 「あの、お加減が悪いのですか?」

 「違うよー。トールさんは人見知りでね。こないだはなんか勢いで乗り切ったけど、五回くらいは顔を合わせないと、基本こうだから。気にしないであげて」

 「うん。気にされると余計に『無』になるから、ゆるやかーに無視してあげて」


 少女たちだけではなく、ロットとウィルも顔を見合わせ、頷きあう。「すまぬな…」とまたもや消え入りそうな声が上がったが、言われたとおりに顔を向けたりしないよう、料理を眺めて「おいしそう」などと言うにとどめた。


 「それから、うちの下の子たち。テムル君とフレグ君でーす。こないだ鈴屋でお祝いした時、ちょっと挨拶したけど。改めてね」

 「ガラテアあねうえ!ファンあにうえ!今日の、ええっと、よき日を、こころより、お祝いもーしあげます!」

 「あげますです」


 モウキとソウジュの間に長椅子が置かれ、ちょこんと二人で座る様子は実に微笑ましい。こちらは無視しなくて良さそうなので、途端に歓声が上がった。


 「この子たちが、ファンの言っていた弟たちか。ふふ、可愛いな。うちの愚弟は図体ばかりでかくなって、あまり可愛くないからありがたい」

 「…可愛がられても困るので、その分を是非、この子たちに向けてあげて欲しい」

 「二人とも、こっちのシドはガラテアさんの弟だから、俺の義弟になる。つまり、お前達の兄ちゃんだ」

 「よろしくお願いいたしますです!」


 「弟の義弟…つまり、俺のおとうと…?」と呟きだしたトールに若干の不安を感じつつ、シドは新しく家族になる子供たちに笑みを向けた。

 ファンにもトールにもあまり似てはいないが、それでも血の繋がりを感じさせる顔立ちをしている。

 ずっと昔、故郷で喪った小さな妹の事を想いだし、心臓に子猫の爪で引っかかれたような痛みを感じた。

 

 「シド、だ。こちらこそ、よろしく」

 「シドあにうえ、ですね!」


 無垢に笑う顔が、はっきりと思い出せなくなった妹に重なる。姉もおそらく、同じ想いだろう。


 「ひとりになるとねえ。寒いよね。でも、だからって、寒いままじゃ、大切なひとの記憶も凍ってしまうからね」


 小さく、穏やかな声。

 その声に顔をあげれば、モウキが柔らかく微笑んでいた。


 「君は、大都でカゲツ君たちの家族になった。そして、今、私たちの家族になる。歓迎するよ。ガラテアちゃん。シドくん」


 そうか。この人も。

 モウキの弟妹は、三十年以上前に一人を除いて亡くなっている。火事だったそうだ。そして、一人だけ生き残った妹も、三十年前のアステリアによるクトラ侵攻のおりに殺されたと聞いていた。


 「よろしく、お願いします」


 王太子としてたてられながらも出奔し、紆余曲折の末に王座へと腰を下ろした男の葛藤や哀しみのすべてを知ることは、おそらくその比翼たる妻ですらかなわない。

 だが、そのうえでモウキはシドに語り掛けていた。

 幸せになること、喪った哀しみから立ち上がることは、罪ではないと。


 「もう一人息子がいるんだけれど、まだ調子が悪くてね」

 「ファン、カイゲンちゃんが改めてご挨拶にって」

 「気にしなくていいのに。なんなら、こっちから行くよ」

 「それは二人でいいようにしなさい。ガラテアちゃんには、すっごく会いたがってましたよ」


 ソウジュの言葉に、ガラテアはしばし記憶を辿り、頷いた。


 「第五夫人のカイゲン様、ですね」

 「ぜってー、ガラテア様とカイゲン様、仲良くなるから。ちょー、素敵な人だかんね。カイゲン様」

 「あー…うん。確かに。ちょっとびっくりするかもだけど」

 「楽しみにさせてもらおう」


 まさに文化の差を体現するような人ではあるが、ガラテアがそれを拒否するような事はないだろうと、ファンは内心に頷く。


 「でー…会ったことはあるんだったね。うちのクソジジイでーす。厳ついじいさんがいて嫌だろうけど、ちょっと我慢してね。いないものとしてくれていいから」

 「よう聞け。孫たちよ。そして若人よ。五十も過ぎて、この程度の悪口雑言しか吐けぬような間抜けになってはいかんぞ」

 「まあ、今のは親父が悪いな…」

 「大殿の舌鋒は鈍るという事を知りませんな」


 ぐぬぬと呻く主の肩を、その守護者が馬を宥めるかのように叩く。

 その隣で、バトウの守護者二人はニヤリと笑っていた。


 「さ、モウキさん。ぐぬってないでご飯始まりにしてください」

 「ん、そだね。ファン君もお腹空いた顔してるし、ユーシン君が野生に戻りそうだし」

 「メシ…ハラ…」

 「もう戻りかけてまぁす!」 

 「わあ大変。よし、食べよう!温かい料理も持ってきて!」


 モウキの声を待ちわびたように、侍従官と女官が皿をもって広間に入ってくる。

 まず皿が置かれたのは、バトウの前だ。


 「おお、ソウジュよ。わざわざ作ってくれたのか」

 「はい」

 

 息子をいびっていた時とは種類の違う満面の笑みを浮かべて、バトウは置かれた皿を嬉しそうに眺めた。

 皿の上には、魚が置かれていた。添え物は特になく、白磁器の平皿にバトウの掌よりやや大きい程度の魚が三匹、重なっている。

 

 「おお、嬉しや。西方式の飯も良いが、余はこれに目がなくてな」

 

 皿に乗せられた魚は、西海ではなく淡水に棲む鱸だ。内臓と鱗を取ったのち、調味油を何度も何度もかけて揚げていく、トンクーの伝統料理である。

 ただ揚げるよりも手間はかかるが、その分身は柔らかく、油っこさもない。

 通常は揚げた後に餡をかけるが、調味油の味と魚そのものの質がよければ、何も添えずに提供する。

 

 「爺に気を遣わなくていいのに」

 「私がつくりたかったんです。良い鱸がはいりましたから」


 モウキの前にも同じものが置かれ、先王と現王の守護者たちにも振舞われる。


 「鱸、全員分はなかったのですが、他のお料理もおいしいですからね!みんな、食べてくださいね!」

 「無論だ!!イダムよターラよ照覧あれ!」


 叫ぶように祈り、ユーシンの手が家鴨の塩漬け肉へと延びる。それを見たアステリア組のアスターへの祈りがやや短くなるほどの勢いで、猛然と食らいついた。


 「やべ、とっとと食わねぇと、食い尽くされるぞ」 

 「この後もどんどん出てくるけど、ここにあるのはこれだけっぽいしな!」

 「えー!絶対、ぼく、少なくともあれだけは食べるよ!」


 ソウジュとファンの言葉に偽りはなく、次々に新しい料理は運ばれてきた。

 香ばしく焼かれた家鴨の串焼き肉、挽肉とジャガイモをトマトと共に炒めたもの、たっぷりの魚介類の煮込み等々、味も量も申し分ない。

 

 「どうかな?ガラテアちゃん。シド君。西海料理になってる?」

 「正直な話、味はだいぶん忘れてしまいました。けれど、どれもこれも、とても美味しいです」

 「本当に美味い。それに、香りが…懐かしいと、感じます」

 「そう。よかったあ。うん。西海料理、美味しいですねえ。見た目も赤が多くて綺麗だし、取り入れていきましょう」

 

 ソウジュの呟きに、モウキも頷く。小さな下の息子たちに料理を取り分けたり、感想を聞いたりしながらも、どんどんと空の皿を増やしていっていた。


 この夜の食事で最も小食だったのは、酒をやりながら好物を摘まんでいたバトウだっただろう。

 テムルとフレグでさえ大人顔負けの量を食べきったし、本来はつつましやかなアスターの使途たちは、女神へと欲望にあらがえなかった事を懺悔しつつ、緩む口許を引き締めることが出来ない。


 食後に提供されたのは、香りたかい紅茶だった。

 やや花の香りが混っているのは、西へ運ぶうちに古くなった茶葉を誤魔化す為のものである。しかし、その風味の良さで人気が出て、大都では専門店があるほどだ。

 当然この場に出されるのは、古くなったどころか、ファンが聞いたら顔が引きつるような値段が付いた茶葉である。


 「そうだ、ファン君。明後日、士官学校の交流会いくんでしょ?」

 「うん。エルディーンさんとレイブラッド卿も招待したよ」

 「ああ、それはいいね!もし興味があるなら、一年勉強して入学目指してみても良いしさ!」

 「へ、あ!」


 急に視線と話を向けられ、紅茶の香りをうっとりと楽しんでいたエルディーンは慌てた。その先でレイブラッドも茫然としている。

 

 「にゅ、入学、ですか?」

 「うん。アスランの騎士になったらってわけじゃなくてね。他所の国から留学してくる人もいるし!人生、何事も経験だよ!」

 「親父、せかさない。まずは見てみないと、どんなところかもわかんないんだしさ」

 「それもそっか!それでさ。ガラテアちゃんも一緒に?」

 「あ、まだ頼んでなかったのに」

 「頼む?」

 「うん。その…まあ、交流会いくのは、公務、なんだけど」

 

 そこに同行するという事は、言わばお披露目だ。ガラテアが正式な二太子夫人であると宣言し、異論は許さないと周囲に知らしめるための。


 「…服は、何を着ればいいのだろうか?」 

 「明日、色々見繕いましょう!」

 「さんせー!うちも、うちもやる!」

 「エリーちゃんも行くのですよね!エリーちゃんの分も見立てねば!」


 ソウジュの目がらんらんと輝き、ニルツェグだけでなく女官たちも奮い立った顔で頷いた。


 「…お手柔らかに。歩き回るでしょうし、動きやすいものを…」

 「わ、私は、その、あまり目立たないもので!」

 

 二人の嘆願は、きっと耳に入っていない。


 「ま、まあ、そんなひらひら~っとしたのじゃあないと思うから…。結構歩くしね」

 「歩くのか?」

 「あちこち見て回るからねえ。見学会も兼ねてるからさ。あ、クロム。お前は守護者として参加じゃなくていいからな。サモンと一緒に友達に会って来いよ」

 

 ファンの言葉に、クロムは眉を寄せた。


 「俺は…」

 「お前は俺の守護者だ。けど、騎士である以上、誰も彼もが次の交流会に来れるとは限らない。会っておけよ。大丈夫。ニルがガラテアさんのついでに守ってくれるし、そもそも、ガラテアさんが守ってくれるだろうからな!」

 「うん。請け負おう。クロムは安心すると良い」

 「俺らもいる!クロムはどうせ友に迷惑を掛けていたのだろうから、謝ってくるとよい!」

 「かけてねーよ。むしろ俺がかけられてたわ」


 反論を聞くつもりはないと判断して、クロムはせめてもの抵抗に大きく溜息を吐いてから頷いた。

 だが、主の言葉に素直に納得する部分もある。


 騎士である以上、戦いに身を投じる。

 どれほどつまらない戦いでも、死ぬときは死ぬ。


 実際、実践訓練から帰ってこなかった級友もいた。旅立つ日、全員そろって帰ってくると誰も疑っていなかったけれど。

 そういうことは、ある。だから、交流会には一年目の新米騎士だけでなく、多くの騎士たちが集まるのだ。


 「わかった。まあ、久しぶりに連中の間抜け面を拝んでくる」

 「お友達にそんなこと言っちゃダメだろ」


 主の小言は聞かない事にして。


 まあ、そういうのも悪くはない。

 紅茶を花の香と共に飲みながら、少し楽しみになっているクロムだった。


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