自分の眉毛は目に見えない(灯台もと暗し)2
「さむ…」
ぽつりと漏れた声は、口許まで覆う首巻に吸い込まれていった。
朝日は凍り付いた大都の街を照らし出しているが、暖めるにはまだまだ時間がかかる。早朝よりも夜明けに近いこの時間は、ともすると真夜中よりも冷え込む。
「クロム、いくらなんでも、早すぎると思わないかい?」
先ほど出てきたばかりの扉を開け、父が声を掛けてくる。家から出る暖気で、父の周りは白く靄がかかって見えた。
「父さんは中に戻っててくれ。寒い」
「君とて、寒いだろう。家に戻ろうよ」
父の言うことはもっともだ。
朝はまだ始まったばかりで、並ぶ家々もその中に住む人々も、ひっそりと寝静まっている。
いくら今日から出仕すると言っても、早すぎる。
「いや…俺は、ここで待つ。我ながら馬鹿な真似してるってわかっている…けど」
呟くように父の申し出を断り、クロムは天を見上げた。
闇が急速に追い払われた青い空。朝日を浴びて淡い金色に輝く雲が、形を変えながら流れていく。
淡い金。朝日の色。
その雲の一部が、千切れたように見えた。
「初日から寒さで身体を損ねるのはいけないよ」
「この程度、一日外にいてもどうってことはない。でもな、父さん」
金の雲は、色と形を変えていく。
翼を広げた、純白の竜に。
「あっちも、どうやら馬鹿らしい」
風を纏いながら、頭上でくるりと旋回し。
翼を大きく広げて勢いを殺しながら、路上へと降りてくる。
馬車がすれ違えるほどの幅があるとは言え、飛竜には少し狭いだろう。
しかし、周囲の家の屋根やら塀やらにぶつかって壊すこともなく、ただ風を巻き上げながら、クロムの家の三軒右隣の家前に着地した。
そこは大きめの馬車がすれ違うために、やや道幅が広くとられている。だからそこに降りたのか、地上にいるクロムとその父を見つけ、気を遣って離れた場所に降りたのか。
どちらでもいい。
飛竜の鞍から、するりと騎手は地上に降り立つ。ありふれた外套に、いつもの首巻。帽子だけは、顎の下で紐を結び、固定できるようになっているものだ。
それに、風よけの色硝子が嵌った風鏡。
「おはよう」
「おう、おはよ」
「早いな」
「お前もな」
風鏡が首元まで降ろされ、露になった満月色の双眸。
和かな笑みを湛えたそこに向かって、クロムは拳を掲げて見せた。
「じゃ、父さん。行ってくる」
「…はあ」
父の溜息は、ほんの数日前までだったら、きっと足を、心を重くしていた。
けれど、今は、大丈夫。
簡単な事だ。主を守り、自分も幸せに生きる。それだけで、両親の悩みは解決する。どんな敵が襲い掛かろうと、そんなもの、さっさと始末すればいい。
だから、クロムは振り向かなかった。
ただ真っすぐ、マナンに飛竜甘露を与えているファンの元へと歩いていく。
「…善き旅を。クロム」
その背に、僅かな湿度と、路面を白く染める氷すら解かす暖かさを含んだ声が、投げかけられた。
「君の旅路を、きっと、イダムとターラが見守ってくれる」
「…ありがとう。父さん」
人の背から、その一生を見守るという小さな守護神。その存在を感じた事なんて、今まで一度もないけれど。
それでも、父からの祝福は、嬉しかった。
僅かに目を伏せたのは、少しだけ、路面の氷が朝日を反射して痛かったからだ。
ごしごしと乱暴に拭い、主の前へと到達する。飛竜甘露でべちゃべちゃになった口をマナンが近付けてきたので、上半身を逸らして躱しておいた。
「なあ、なんで飛竜できた?」
「いやあ、特に大きな意味はないんだ。朝、マナンと飛んでて…」
なおもをクロムを追おうとする愛竜の首を叩いて止め、ファンは少し赤くなった目を何度か瞬かせた。
「なんとなーく、もうクロムが出てきているような気がしたから、見に来たら、居た…的な?」
「お前…『鷹の眼』使ったろ!あれほど、ホイホイ使うなって言ったのに!」
「使おうと思って使っているわけじゃないからなあ。見ようと思ったら見えちゃうってだけで…」
「まったく…痛みは?」
「この程度じゃなんともない」
実際、『鷹の眼』を使わなくても、ファンの視力はクロムより遥かに良い。
草原で暮らす遊牧民はおしなべて眼が良いものだ。特に動くものには敏感に反応するし、些細な形の差を捉える。
飛行訓練ではなく、ただの朝の空中散歩であったなら、それほど高度もなかったのだろう。クロムからマナンが見える距離なら、ファンはもっとはっきり地上の様子が見えていたはずだ。
「マナン。一人で帰れるな?」
ファンの呼びかけに、マナンは頭を下げて上目遣いに主を見る。明らかに嫌がっている様子だ。
「ごめんなあ。クロム、乗ると酔っちゃうから…」
「つーか。この程度の服で飛竜に乗ったらクソ寒いだろうが」
雲は形を変えながら、駆け足で過ぎ去っていく。上空はかなりの強風だ。
ファンはいつもの外套を羽織っているが、その下はかなりがっちりと防寒対策をしているだろう。対するクロムは、街中を少し寒いくらいで歩ける程度である。上空にこんな格好で行ったら、冗談抜きで死にかかる。
「まあ、それもある。だから、ごめんな。マナン」
「グぅ…」
納得はしていない。と顔全体に書きながらも、マナンは首をもたげ、翼を広げた。
「あ、おい!いきなり…」
咄嗟にファンの腕をつかみ、風圧に備える。
十分成熟した飛竜は、空へと戻る際にそれほど大きく風を起こさない。しかし、真横でいきなり飛翔されれば、大人の男でも吹っ飛ばされる。
わざと乱雑に巻き上げたであろう風は、二人の服を勢いよくはためかせ、前屈みになってやり過ごさなければ、煽られて転倒したくらいの強さだった。
なんとか転びもせず耐えきって、どちらからとなく息を吐く。
「お前なあ。もう少しちゃんと躾しろよ」
「いろんな人から言われているんだよなあ…」
「だったら、真摯に受け止めろ!」
「いやあ…主に守護者の態度についてなんだが…」
「はあ?俺の何処に文句付けるようなところがあるよ?」
「そう言うところかなあ」
うんうん、と頷きながら歩きだした主の背中をぎろりと見据え、大股に追いかける。
決して振り向かない。
家は安全で、大切で。心から安らげるし、どれほどだって無防備になれる。
けれど、もう自分は、両親に守られる子供じゃなくて。
紅鴉の守護者なのだから。
「勝手にスタスタ行くんじゃねぇよ。どっかから野良のクソ虫が飛び出してきて、襲ってくるかもしれねぇだろ」
「大都の治安は、特にこの辺の治安はそこまで悪くないと、俺は信じますよ。うん。…でも、そうだな。信じていても、備えるべきだ」
僅かに、ファンの歩幅が狭くなった。
その右側に陣取り、クロムは小さく嘆息を漏らす。
急に物分かりが良くなったな。
ふむ、と思考を巡らしてみれば、いくら「見えたから」と言っても、マナンに乗ったまま来るような真似をファンがするのはおかしい。いったん帰って、転移陣で鈴屋に移動、それから徒歩で来そうなものだ。
とにかく目立つことは避けたがるし、気軽に街中に行けなくなるからと、「鈴屋の孫のファン」が「ファン・ナランハル・アスラン」であることは隠そうとする。
それでも、飛竜を駆って空からやってきたのは、「一人でうろつく」という危険な真似を避けたから、だとすれば。
ぴん、と閃いた回答に、クロムは首巻の下でにんまりと笑う。
「そうだな。ガラテアを婚礼前に未亡人にするわけには、いかねぇよな」
「あ、は。え、な、ど!?」
「どうして知ってんのかって?マシロとサモンに映写の魔導具見せてもらったからに決まってるだろ?お前にしちゃ、上出来な求婚だったんじゃねえの?」
「あ、あばばばば…」
何を言おうとしているのか、その泡を吹いているような声からは流石に推測できない。
ただ、唯一露出している目の周りは真っ赤だ。
「別に求婚したことを後悔てるわけじゃねぇんだろ?」
「それはない!ない、けど、な!」
ちゃんと人間の言葉で、ファンは強く言い切った。
「ないけど、それを大勢に見られて、こっそり応援されてるのが、は、恥ずかしくないわけ、ないだろっ!」
「ま、そりゃそうか」
自分が同じ立場だったら、間違いなく剣を抜いている。
とは言え、見ていたのが王家御一行様に十二狗将の面々では、即座に鎮圧されていたとは思うが。
いざその時が来たら、絶対に周囲に気を配ろう。
「おおまかにはサモンから聞いている。今日、俺の任命式やった後、迎えに行くんだって?」
「うん。その予定」
「紅鴉宮、どうなってるんだ?」
「西の間にガラテアさんの部屋を用意した。昨日はすごかったぞ。ひっきりなしにあちこちの商会から買ったものが運び込まれて」
「なるほど。それで二太子婚約の噂が大都中に広まったんだな」
「え゛…?」
「新しい家具やら生活魔導具が、紅鴉宮に一式運び込まれている…って聞けば、大抵の奴はお前が嫁を娶る気だって気付くだろうよ。それも、今まで紅鴉宮に縁の無かった、最高級の箪笥やら鏡台やらじゃあな」
目元の赤みはますます広がり、たぶん、顔全体の色が変わっているだろう。
「良いじゃねぇか。めでたいって言われてるんだし」
「まあ、そうだな。祝福してくれるのは…有難いよな」
「そういうこった」
クロムが聞いた範囲では、噂は非常に好意的なものだ。誰もが二太子の一足早い春を寿ぎ、祝っていた。
一部、一太子を差し置いて…などと言う戯言を抜かす馬鹿もいる。
だが、それは弟が順番を抜かしたのではなく、兄がもたもたしているのが悪いのだから、文句があるなら一太子に言えばいい。
「ところで、鈴屋はもう起きている奴いるのか?サモンは絶対に寝てるぞ」
「誰かしら起きてそうだけどなあ」
ようやく、空は夜明けから早朝に変わった頃合いだ。いくら仕込みや何やらで朝が早い鈴屋でも、まだ寝静まっている可能性は高い。
当然ながら、門は内側から鍵と閂でしめられている。誰かに開けてもらわなくては、中に入って転移陣を使うことはできない。
「ま、皆寝ていたら、歩くか。そのうち、馬車を拾えるだろうし」
「そこまで考えとけよ…まったく」
一応文句は言ってみたが、人気のない路上をくだらない話をしながら歩くのも、悪くはない。
万馬大道まで行けば、夜明けと同時に開く店もある。途中、美味そうな匂いを漂わせている店によって、腹ごしらえと言うのもアリだ。
そんなことを考えながら歩いていくと、すぐに鈴屋の前に辿り着いた。
営業中は開け放たれ、ひっきりなしに人が出入りする門は、予想通り固く閉じられており、しんと静まり返っている。
視線を交わし、どちらともなく足を向けたのは、家族や従業員が出入りする通用口だ。
そちらも閉じられているが、微かに内側で人の気配がする。それなら、叩いて声を掛ければ開けてくれるだろう。
ぶらぶら歩いて身体をほぐすのも悪くはないが、さっさと戻って練兵場で剣を振りたい気もする。そういえば、大鍛人フレルバタル師から剣を貰えるのは、もしかして昨日じゃなかったか?
微かに引いた血の気の音を聞きながら、クロムはファンの腕を掴んだ。
「ど、どした?」
「俺の、剣どうなった?」
驚いてやや丸くなっていたファンの双眸が、いつもの形に戻る。
「ああ、昨日、俺が受け取らせてもらった。今日の任命式で渡すよ。今、大工房も大変だからなあ。お前が倒れたことも聞いていて、心配なされていたぞ。大工房が落ち着いたら、御礼の挨拶に行こうな」
「おう」
我ながら現金だと思うが、引いた血の気は速やかに元の位置に整列し、口の端がにんまりと吊り上がる。
「あんまり大声出すのも悪いし、とりあえず軽く声掛けるか」
大通りにもほど近い鈴屋周辺は、既に人々の一日が始まっている。
路では騎馬や馬車が通り過ぎ、歩道にも寒そうに首を竦めながら歩く姿があった。そんな中で大声を出しては目立ってしまうし、あと少しの至福の微睡にいる誰かを起こしてしまうのも忍びない。
「登って声掛けるか?この程度なら軽いぞ」
「いや、祖母ちゃんがどんな罠仕掛けてるかわからないから」
「…フヨウさんなら、やりかねねぇな」
「だろ?」
それでも、近くで声を掛けた方が良いだろうと、二人は通用門へと歩み寄った。
口に手を当て、小声でも良く通るアスラン軍式の発声で喉を開けようとした、その時。
「君たちは、鈴屋の関係者か!?」
「え、はい」
いきなり掛けられた声に、やたら通る良い声でファンが返答する。
声を掛けてきたのは、若い男だ。自分たちと同じく、目元程度しか露出していないが、纏う雰囲気が若い。とは言え、声からするとファンよりいくぶん年上かもな、とクロムは値踏みした。
「頼む!中へ入れてほしいんだ!」
「まだ、店を開ける時間じゃないですよ。あと二刻ほどしてから来てください」
「それじゃ遅い!彼女を、彼女を助けなければ!」
「彼女?」
律義に若造の話を聞くファンが、首を傾げる。
鈴屋の中で危害が加えられる…なんてことは想像もつかない。やってはいけないことをやって叱られる事はあっても、身内以外に身体でわからせることは誰もしない。
そもそも、今の時間、鈴屋にいるのは身内と、護衛女官にニルツェグ率いる騎士隊くらいだ。
助けを求める「彼女」に心当たりがなさすぎる。
「ほっといて行こうぜ、ファン」
通用門が開いたら、間違いなくこの若造は自分も通ろうとするだろう。それは鬱陶しいので、別の方法をとらなくてはならない。つまり、歩きで王宮に向かうしかない。
歩くのも悪くはない、と思っていた事は既に忘却の彼方に吹き飛び、クロムは余計な時間をかけさせる若造を『敵』と認定した。
「そもそもな、頼み事する、つまりは面倒かける相手に向かって、頭の一つも下げねぇ、しかもタメ口叩くような奴の言う事なんざ、聞く必要はねぇ。時間の無駄だ」
「え、でも、クロムも頭下げないよな?」
「俺は見ず知らずの奴に頼み事するような厚顔無恥な男じゃないんでな」
知っている奴からは大抵迷惑を掛けられているか、尻をふいてやったことのあるやつだからいいのだ。持ちつ持たれつ、と言う奴である。
「そうかなあ…?」と先ほどより大きく首を傾げているのは気に食わないが、ファンも若造を放っておくことには賛成なのだろう。通用口から離れて、歩き出す。
「あ、頭なら下げる!謝礼も支払う!彼女が私を待っているんだ!」
「断言してやる。待ってねえよ。さっさと帰ってクソ垂らしながら死ね」
「クロム。見ず知らずの人に、死ねとか言っちゃいけません」
「なら、言いなおす。俺の主の歩みを止めるなんざ、万死に値する。今すぐここで ぶっ殺されてぇか?」
「言い直してない言い直してない!…あー、まあ、その、鈴屋の人たちは女性に無体な真似をしたりしないし、するとしたら何かの罪を犯しているだろうから、安心して諦めてくださいね」
クロムの本気の殺気は流石に感じ取れたらしく、若造は一歩下がった…と言うのに、ファンの少し困ってはいるが穏やかな声に調子乗ったらしく、二歩、踏み出してくる。
「私と彼女は…深く愛し合っているんだ!なのに、彼女は、別の男に嫁がされる!」
「そんな真似、しないですよ。ここの人たちは。孫には早く結婚しろって圧はかけるけど」
「その孫に、嫁がされようとしているんだ!彼女は…ガラテアは!」
ぴん、とファンの気配が変わった。
そのことに、若造は気が付いただろうか。
満月色の双眸には、好奇心や喜びが抜け落ちた、冷たい光が宿っている。
冷静に…いや、冷酷に。
対象を観察し、『分類』しようとしている眼だ。
「聞けば、たまにやってくる、遊牧民の孫なのだと…!彼女は、繊細な硝子の花のような女性なのに…草原で暮らし、血と泥にまみれるような暮らしなど、耐えられるわけもない!なにより、彼女が本当に愛しているのは私なのに!」
ずいぶんと頑丈な硝子の花もあったもんだと、クロムは呆れた溜息を洩らした。
草原で暮らすのも、血と泥にまみれるのも、慣れたものだろう。長く逃亡し、傭兵として生きてきたのだから。
そんな的外れな印象を持っている程度なのだから、この若造とガラテアがどうこうなっていたことは絶対にありえない。
勝手に妄想し、信じ込み、とち狂っているだけの阿呆だ。
「なら、確認したい。本当に…深い仲であるなら簡単に答えられる質問だ。そして、確認出来たら中へ入れるよう取り計らってもいい」
「う、疑うのか!」
「どうみても不審者だ。鈴屋の関係者として、不審者を戸締りしている家の内側に入れるわけにはいかない。確認できればいいだけなんだ。簡単だろう?」
ぐう、と男は言葉に詰まり、見下ろすファンの足元に視線を逸らせる。
「か、彼女と、ガラテアと会えばわかる!彼女は私を愛してくれる!」
「彼女の姓は?」
「は…」
「彼女は、初対面で名乗る時に必ず、姓も名乗る。呼び捨てを許されているほど親しいなら、知らないはずがない」
「そ…それは…」
おお、コイツにも独占欲みたいなもんがあったのかと、クロムはひそかに感動した。
独占欲とは少し違うだろうが、他の男が自分の女とほざくのが面白くない、赦せない。そんなものは誰にでもあるもので、クロムだってナナイをそう扱われたら問答無用で相手を殴る。
一応確認を入れているのか、「そんなことも知らないのに?」と揶揄しているのか。どちらかと言えば後者らしく思えて、更に感動が深まる。
「立ち去れ。衛兵を呼ばれたくなければ」
「そんなことを知らなくても!ガラテアは私を愛してるんだあ!!」
裏返った声は、勢いの割に小さい。普段は大声を出す機会のない生活をしているのだろう。
ファンの双眸が、微かに細めれられる。主を怒らすなど、万死も生温い。誰に喧嘩売っているのか、わからせるかと軽く足を開きかけた、瞬間。
ガン!!
思わず、目を丸くするような音と共に、固く閉ざされているはずの通用門が勢いよく開く。
それと同時に、若造が不格好ながら走り出した。十分に遅い。
余裕で補足できると判断して、クロムは体勢を入れ替える。
だが、それよりも速かったのは、主の腕。
すれ違いざまに、巻き付けるように、相手の胸部に腕を回し。
そのまま、自分に引き寄せる。
馬上で相手を生け捕りにするときのやり方だ。
アスラン騎士なら、当然叩き込まれている。クロムもサモンと組んでお互いに訓練したものだ。
うまく入ると、肺の空気を強制的に圧しだされ、息が詰まる。
吸わないとと思うのに、口からは笛のような音を出して息が抜けていく。やったことはないが、溺れる時はきっとあんな感じなのだろうと思う。
ファンと若造の体格差は歴然だ。
着ぶくれしていてもわかるほど貧弱な、大声ひとつ上手く出せない男が、大弓を軽く引き、甲冑を着込んで荷を背負い、更には負傷した仲間も抱えて走れるようなファンに抗えるはずもなく。
笛のような音が、若造の口から吐き出される。完全に持ち上げられてバタつく足が、急速に静まってきた。
しかし、若造は「捕虜」になったことを感謝すべきだっただろう。
若造が慣れない走りで通用門に達したであろうと予想される間をおいて、開け放たれた通用門から何かが勢いよく路上に投げ飛ばされる。
「なんだ?」
反射的にファンは半歩門から遠ざかり、その動きでますます若造を締めあげた。
まあ、殺すようなへまはしないだろうと判断し、クロムは投げ出された物体へと視線を送る
それは、古い布団で簀巻きにされた人間だった。
布団から出ているのは、膝から下と頭だけ。辛うじて路上との激突を免れたらしい顔は、明らかに殴られて腫れ、涙と鼻水と唾液で白く霜が降りていた。
「なんだろ?」
「お、なんでぇ、ファンにクロムじゃねぇか!久しぶりだな!おい!」
のそり、と通用門を身を屈めて取ってきた男が、明るい声を上げる。
室内用の上着を羽織ってはいるが、どう見ても防寒には程遠い。しかし、白い息を盛大に吐き出しながら、寒さなど感じていないように笑っていた。
「シンクロウ!本当に久しぶりだ!大丈夫だったか?なんか、濡れ衣で監禁されたとか…」
「おう!ちっと鈍っちまったが、うちの飯食ってじい様と手合わせでもすりゃ、元通りってなもんよ!」
「そっか。それは良かった」
「へへ、心配かけちまったな」
そう言いながら、もうひとつ、簀巻きを投げ捨てる。
このマシロとサモンの兄は、世の中の九割は腕力で解決できると思っているから、おそらくその解決方法をとったのだろう。
だが、それはそれとして疑問は残る。
「つか、シンクロウ」
「あん?」
「こいつら、何やらかしたんだ?盗賊かなんかか?」
「おう。盗賊は盗賊でも、人攫いよ。昨日の夜更けに忍び込んできやがってな。その時に放り出しても良かったが、店の前で凍死されちゃかなわねぇんでな。布団くれてやって、朝まで使ってねぇ物置に入れといたってぇワケよ!」
「人攫い?」
首巻も帽子もしていないシンクロウの端正な…しかし、どうにも太い印象を与える口許が、ニヤリと笑みを変えた。
「そこの色男が快挙を成し遂げちまったもんでな!諦めきれねぇ馬鹿が、盗賊雇って押し込ませたんだろうさ」
「え?」
「ガラテア狙いだったってぇこった。お前んとこの姉ちゃんたちを止めるの、大変だったぜえ?店の前がダメなら、広場まで行って捨ててくる、いや、さっさとバラして長城の外に捨ててこようとかよ」
それだけ怒り狂ったニルツェグ達を宥める方が、押し込んできた盗賊を捕らえるより骨が折れただろう。
何とか収まったのは、もっと物騒な提案がなされたからではないか、と少し背筋が寒くなるが、そもそも人の家に押し込んで花嫁を攫おうとするような連中だ。どんな目に合おうとも自業自得、と言うものだろう。
「どうする?処しとくか?」
「いや、じゅうぶん処された後のような気もするし、やるなら雇い主の方だろう。祖母ちゃんなら、たぶん『お喋り』はすんでいると思う」
「俺はそこまで知らねえが、おっちゃんたちが何かやってたみたいだぜ?どういうわけか、兄弟子もいたような気がすっけど」
「じゃ、確実だな」
あの、いきなり出てきたデカい密偵か、とクロムは小さく頷いた。
御史台の密偵なら、『お喋り』は得意中の得意だろう。
痣ひとつ、擦り傷ひとつ付けずに、人の尊厳も覚悟も決意すら、根こそぎ捨てさせるような方法。それを十は軽く知っている。
「まあ、とにかく中はいれよ。その、抱えてんのはどうすんだ?」
「とりあえず、こうかな」
ぽい、と無造作に、ファンは若造を投げ捨てた。噎せながらなんとか息を吸い込もうとする背中に、視線も向けない。
それで、シンクロウは大体察したようだ。無駄にファンのはとこで、長い付き合いなわけではない。
「お前の連れも来てるぜ?ユーシンとヤクモっつう」
「なんでアイツらまで…」
「はは、ユーシンがお前迎えに行くとき、鈴屋で待っているから何かあったら走って来いって行ってたからな。でも、何も言って来てないんだけど」
「絶対にファンはクロム連れてくるから待っているのだ!って断言してたぜ?言ってきてねぇんか?」
「変な奴…」
そう悪態を吐きつつ、なんとなく、クロムはわかっていた。多分、苦笑しているファンも同じだろう。
クロムが夜明けとともに家を出て、ファンが見に来ていたのと、同じ理由だ。
なんとなく、そうしていると思ったから。
お節介な馬鹿だと呟いてみせたが、ファンの表情が苦笑から微笑に変わったのは、決してその声が罵倒でも悪態でもない温度だったから…ではない。と、言いたい。
「ファン!」
「うぉっと…!?」
通用門を潜ろうとしていたシンクロウが、慌てて飛びのく。
その前から飛び出してきたのは、朝日を浴びて燃えるように輝く赤毛。
「ガラテアさん!」
「やはりいた。声がしたような気がした」
「あ、駄目だよ、寒いよ!」
慌ててファンが自分の外套を脱ぎ、シンクロウと同じような恰好をしたガラテアを包み込む。
部屋着に厚手の上着は、外に出るには寒すぎる。全く平気な顔をしているシンクロウと違い、ガラテアの方は唇の色が見る間に悪くなっていく。
「ああ、手袋もしていない!」
「うっかりした」
「ああ、もう、早く家に入ろう。凍えちゃうよ」
首巻も外し、ガラテアの顔半分を覆うように巻き付け、ようやくファンは少し安心したらしい。むき出しになった口許から、白い息とともに笑みをこぼした。
「お前が寒いだろう」
「俺は大丈夫。胡服の下に凄い重ね着しているしね」
分厚い冬用の胡服は襟元や袖口が毛皮で縁取られており、寒気を締め出している。 本人の言う通り、その下は毛織物やら絹の肌着やらで幾重にも守られているのだろう。
息を吸うのもつらいほど上空を飛んでいたわけではないだろうが、風を切って駆けていく飛竜の背は、本来人間が生きていられる環境ではない。
「つっても、むき出しの顏やら首やらは凍えるだろうが。さっさと中にはいろうぜ」
「まあ、立ち話をするのに適した環境じゃないな」
ちらりとファンが視線を向けるのは、簀巻きにされた押し込み二人と、まだ苦しい息を繰り返す若造。その血走った目が、ガラテアを見上げている。
ほんのわずか…降り始めの雪のひとひらくらい、クロムは若造を哀れに思った。
愛し合っている…と言うのは十割妄想でも、ガラテアに惚れているのは間違いない。その惚れた女が、「幸せの絶頂」を絵にかいたような顔で自分ではない男を見ている。
それはまあ、辛い。クロムには経験のない敗北ではあるが、想像はできる。
それにしても、と改めてガラテアを見る。
クロムから見たガラテアは、「ものすごい美女」と言うより、「気を遣わずに接することもできる気安い旅の仲間」だ。
もともとクロムに女性に対して気を遣う、などと言う機能はほとんどないが、それでも泣かれたり喚かれたりするのは面倒くさい。
殺気を剝き出しにしようが、ユーシンと殴り合い蹴りあいの「じゃれあい」をしようが、ガラテアは眉ひとつ動かさない。それは、大変に気が楽だ。
そして、よくもまあ、これほど外見に騙される男がいるものだ、とも思う。
ガラテアの見た目は確かに良い。だが、クロムからしてみれば、雌の狼が美しい毛皮をしているようなものだ。
目の笑っていない微笑みは、狼が唇を捲り上げて牙を見せているようなもの。もう一歩近付けば、伸ばした手を咬み千切られる。そういう生き物である。
そうでなければ、触れば指が落ちるような金属で造られた花だ。見た目は美しいが、香りもない。枯れもしないが、咲き誇ることもない。
それがどうだ。
気性の荒い雌狼は、つがいの雄に鼻を擦り付けて甘え、金属の花は呪いが解けたように生花となり、四方八方に芳香を放ちながら咲こうとしている。
恋は女を変えるというが、ここまで極端な例も珍しいんじゃないか、と感心してしまう。
まあ、これくらいの女なら、主の伴侶として釣り合いが取れるだろう。ファンが虫を食おうが、気持ちの悪い草を集めようが、騒ぎ立てもしないであろうし。
「クロムどうした?」
「いや。お前らが入った後に入るつもりで待っているだけだ。また、あの若造が突っ込んでくるかもしれねぇし」
「お、さっそくらしいことしてんな!」
「うるせえ。シンクロウ。お前、声がでけぇんだよ」
「おう!図体もでけぇかんな!」
からからと笑うシンクロウの足を軽く蹴り飛ばし、通用門を潜ろうとしているファンたちを追い掛けようとしたクロムだったが、足を止めて振り返る。
硬質の無表情に怯んだように、若造は伸ばそうとしていた手を引っ込めた。
「まだいたのかよ。さっさと消えろ。クソが」
「あ、あの男よりッ!!」
裏返って甲高くなった声に、ファンとガラテアも振り返る。
ファンはともかく、ガラテアの視線は外気に負けず劣らず冷ややかだ。疑っていたわけではないが、やはりこの若造の主張は妄想に過ぎないと確信する。
「わたし、の、ほうが…!ガラテアに相応しい!!そうだ、私の方が優しいし、きっと、脅されているんだろ!!い、いかにも、外暮らしのやりそうなことだ!!」
外暮らし、とは大都の中で生活する連中の一部が使う、遊牧民を侮辱する言葉だ。
もちろん、良識あるアスラン人は言わない。なにせ、王族とて『外暮らし』で育つのだから。聞かれれば咎められるし、軍で口から出したら上官に殴られる。
とりあえず主を侮辱したのだから、万死に値するな、しかし殴ったら本当に死ぬな、と一瞬考えこんでいると、先を越された。
「…文句があるなら、堂々と言いに来い。今日、後二刻にガラテアさんを迎えにくる。その時に聞いてやる」
「え、偉そうに!殴って脅して、言うことを聞かせて、なにが堂々とだ!!」
「ファンに殴られたことはおろか、声を荒げられた事すらないがな。今のお前の方が、余程みっともなく喚き散らして脅している」
冬の朝の空気すら凍らせるような声と言葉に、さすがに若造は口を閉じた。
「優しい男と言うのは、この寒さの中、躊躇いもせず外套と首巻を脱いで着せるような男の事を云う。喚くだけの男のことではないな」
「そ、それなら私の…」
餌をちらつかされた犬のように、若造はガラテアの言葉に反応した。
すぐに外套を脱ごうとして、前を少し開けた瞬間、それよりもはるかに速い速度でがっちりと合わせる。
ファンやシンクロウが平然としている方がおかしい気温なのだ。僅かでも外気に入り込む隙間を与えれば、体温を奪おうと押し入ってくる。それはもう、痛みすら感じるほどの寒さを伴って。
「そこで簀巻きになっている連中、近くで伺っている者もいれば聞け。大祖と開祖、クロウハ・カガンに誓って、異議申し立てを咎めることはない。堂々と婚姻の異議を申し入れろ。その場を設ける」
大きくはないが良く響く声は、何処まで聞こえただろうか。
一番近くの角に身を潜め、こちらを見ている連中くらいまでは聞こえたか。
「迎えに来るのは後二刻だ。覚えておけ」
いくら異議申してを咎めない、と言ったところで、実際に二太子に物申せる奴がいるとは思えないが、それはそれでいい。
ガラテアに未練がある連中以外…ただ通りかかっただけの人々は、手を叩いて囃し立てている。彼ら彼女らが証人だ。
これでこの負け犬共が尻尾を巻いて遠くから鼻を鳴らすだけになれば、二太子の美談の一つとして大都中に広まり、例の読売屋がまた号外を出すだろう。
つまりは、主にとっては悪い事は何もない。あとで恥ずかしくなって顔を覆って寝台の上で悶えるくらいだ。
さすがに若造も何も言えず、クロムの袖を掴もうなど言う真似もせず、一行は通用門を潜った。
「俺が出て行くまでもなかったな!」
「いたのかよ」
「ああ、いた!久しぶりだクロム!その間抜け面、変わっていないな!」
「お前の馬鹿ツラも変わりなくて一安心だ。それ以上馬鹿が進行したら、猿と見分けがつかなくなる」
クロムがくぐると同時に、通用門は再び閉ざされた。すかさず閂をかけたユーシンと、「朝の挨拶」を滞りなく済ませる。
「もー…朝早くからやめなよぅ」
「お前も来てたんだったか。ま、ご苦労さん」
「あ、めずらしい。クロムが御礼言った」
「この程度を御礼と称してよいのかヤクモ!クロムを甘やかすのはファンだけで充分だぞ!」
「小さなことでも褒めるの大事って、ソウジュ様言ってたし」
どうやら王宮滞在中に、すっかり大王夫妻と親しんだようだ。まあ、あの御二人が放っておくはずないかと内心に頷く。今日は息子の嫁取りに、朝から盛り上がっていることだろう。
「さて、さっそくで悪いが、クロム」
「ん?」
「転移陣で戻ったら、お前の任命式だ。今日は忙しいし、飯食っている暇はほとんどない。覚悟しとけよ?」
「げ…適当でいいだろ」
「そうはいくか。紅鴉の守護者の任命式を適当になんてできない」
実に遺憾である、と言う顔を半分だけ造り、ファンは大仰に首を振った。
口許はにやけているし、目も笑っているから、真意は違うと見て取れるが。
「お前がどんなしおらしい顔をするか、楽しみだ!」
「さすがに真面目な式の最中に『あ゛?』とか言わないよねぃ」
「わっかんねぇぞ?クロムだしよお!」
ゲラゲラ笑いだす三人の尻を蹴り飛ばしたい衝動を抑えたのは、家族が暮らす母屋から、ひょこりとリンドウとフヨウの姉妹の顔が覗いたからである。
「おはよう、祖母ちゃん。リンドウおばさん」
「おはようございます」
ファンに続き挨拶をする。これを忘れたら、「一人で外で立って待ってろ」と言われかねない。鈴屋の最高権力者はこの二人で、鈴屋にいる限り大王とて逆らえない。
ましてファンがどれだけクロムの命乞いをしたところで、聞き入れられることはないだろう。それなら、怒りを買わないように振舞った方が賢明だ。
「はい、おはよう。朝ごはんできてるわよ。食べて温まってから帰りなさい」
「ありがたく!」
どやどやと母屋に入りながら、ふとクロムは空を見上げた。
天は既に夜明けを終え、朝がきらきらと広がっている。
その蒼穹を、その青さを。
きっと一生忘れない。そう、思った。




