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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
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自分の眉毛は目に見えない(灯台もと暗し)1

 「えー、それでは、会議を始める。まず、諸君らに参加していただく方々を紹介しよう」


 紅鴉宮じたく…ではなく、紅鴉府しょくばの一室。

 俺の趣味嗜好を色濃く反映した宮と違い、府の方はほとんど家具やらなにやらを変えておらず、祖父ちゃんがナランハルだったころと同じような様式だ。

 つまりは、重厚で厳めしく、高価そう。


 攻撃された時に即対応できるよう、府では靴を脱がない。戦場の本陣で靴を脱いで寛いだりはしないからね。絨毯は踏む為のもので、座布団や敷布の類はなく、どでかい卓と椅子が置かれている。


 共に紫檀で造られた逸品だ。買おうと思っても買えるモノじゃない。

 そもそも、十人を超す人間が十分な間隔を保って着席できるほどの天板。それを削り出せるほどの紫檀の大木なんて、金を積んだって用意できないだろうしな。


 いつもアラカン達と軍議…と言う名の雑談になること多数ではあるけども…をする房にも、大きな卓はあるけれど。それは黒樫で造られた実用一辺倒のものだ。

 ここの紫檀の卓や椅子のように、足一本一本が精緻な彫刻になっていたりはしない。

 卓と椅子だけじゃなく、絨毯、壁際の飾り棚にそこに置かれた壺やら小さめの彫像やらの調度品まで…全てが「高価です。貴重です。壊したら大変な事になります」と主張している。


 靴を脱がないように、戦場の本陣に高価なものは持ち込まない。

 もし、大都が攻め込まれるなり、この紅鴉府が囲まれるなりしても、俺が本陣に選ぶとすれば、いつもの房だ。

 にも拘らず、この房を使うことにしたのは…貴賓を招いているからである。


 で、今回招かれている貴賓は。


 「まず、キリク王国ユーシン殿下。シラミネ王国ヤクモ殿下」


 これで、「両国の殿下お二人が会議に出席」という記録が残る。

 ユーシンは同盟国キリクの王子であり、現在アスランに「留学中」てことになっているからね。

 多少はなんかこう、頑張っているという記録を残しておかないといけない。


 そしてヤクモは…というかシラミネ王国自体が、アスランの記録にはほとんどない。むしろ、ぶっちゃけて言えば、国として存在が認められていない。

 

 極端な話、既に周辺諸国との交流がある北フェリニス王国が、「シラミネなんて国は勝手に名乗っているだけです。あそこはうちの領土です」って言いだして攻め込んでも、周辺諸国は「はあ…」と見守ることしかできない。

 北フェリニスを敵に回してシラミネに救援を送る義理も理由も、周辺諸国にはないからだ。

 アステリアのバルト陛下なら、シラミネに助けを求められれば救援に駆けつけたがるだろうけれど…何せ、その余力はないからなあ。ウルガさんでも反対する。


 で、だ。

 ここで我がアスランの公式な記録として、「シラミネ王国のヤクモ王子を賓客として招いた」「二太子主催の会議にも参加なされた」と言う記録がめちゃくちゃに重要になる。

 つまりは、「アスラン王国はシラミネ王国を独立国だと認めた」って事になるからだ。


 これでもしもシラミネが攻め込まれても、俺は堂々と紅鴉親衛隊を動かせる。さすがにアスラン国軍は動かせないけれどね。

 親衛隊は俺の意志で、糧食や予算に問題がなければ動かせる軍だ。

 「友人の国を救うため」に軍を動かすだってできる。何せ、親父が一太子時代にやっているからな。


 それに、同盟国であるアステリア聖王国に救援の要請を出すこともできる。

 やるとすると二太子の名前でだから、強制力はないとは言え、資金は後で補填するし、うちの軍もすぐ駆けつけるから!と頼めるのはデカい。

 

 そんなわけで、この会議に参加してもらうことにしたわけだ。

 ただの友人ってだけじゃなく、「会議にも参加を願うような友人」の方が、動きやすい。

 馬鹿らしくても、政治とか国際関係ってのはこういう地味な『記録』の積み重ねだ。


 「キリクのシーリンが子、ユーシンだ!」 

 「え、えとお、ヤクモです!よろしくお願いします!」

 

 ユーシンは出された茶を飲み干し、お菓子に手を出してまりまりと食べている。兄貴お勧めのお菓子で、「大都銘菓 ぴよよ」と言うらしい。玉子をふんだんに使った蒸蛋糕《蒸しパン》で、砂糖ががっつり入っていて、甘い。

 「ぴよよ」と言う名前は、玉子もたっぷり使うので、生れてこなかったヒヨコたちへの感謝を込めて、その鳴き声を模して名付けたんだそうな。蓋の裏に書いてあった。


 「続いて、有識者として星龍親衛隊オドンナルガ・ケシクより、マシロとサモン、並びに…えー、俺の、義弟となる、シド・ライデン」

 

 末席のマシロは呆れた半笑いを浮かべ、その向かい側のサモンはなんか偉そう。シドは困った顔をしている。

 でも、有識者だからな。うん。


 「では、はじめよう。マルコ」

 「御意」


 席から立ち上がったマルコが、隅にあった掲示板を引き摺ってきた。

 二本脚の掲示板には、上部だけ綴じられた白い紙束が張り付けられている。でっかい帳面みたいなものだな。

 

 その一番上…つまり、今俺たちから見える紙には、最初の議題が黒々と書かれている。とは言え、文字が埋めているのは紙全体の十分の一程度。

 真っ白なな大部分に、この議題に関する意見などをどんどん書き込んでいき、ある程度議論が出尽くしたところで、書かれた意見を吟味していくのが、いつものやり方だ。


 マルコとアミールは字が上手いので、どちらかが掲示板係、残った方が議事録を纏める係になってくれる。

 …うん。書記官にやってもらえばいいんだけれどね。紅鴉親衛隊うち、書記官少なくてな…。公式記録に残るとはいえ微妙な会議に、ただでさえ多忙な書記官を呼べないんだ。


 「はーい。では、皆さん。これより、ナランハルに変わりまして、不詳このワタクシ、マルコが仕切らせていただきます~。しんどいですが、頑張っていきましょお」


 そう言いながら、太い鉛筆を掲げるマルコの頬には無精髭が生えているし、目の下の隈もすごい。

 一番奥の俺から見て右側、アラカンは目を閉じてたぶん半分以上寝ているし、その横のアミールもいつもの飄々とした空気はなく、ぽやんぽやんしている。

 

 「うっす!!」


 ジルは元気だ。ユーシンと同じくお菓子を貪り食い、ワクワクとした顔をして掲示板を見ている。

 …これが若さか。


 まあ、そう考えている俺の顔も、普段よりさらに抜けていると思われる。

 何せ昨日は、夜更けまで大宴会だったからね。

 

 その、俺の求婚と成立と言う事態に、応援…と言う名の見物…に来ていたアスランの重鎮たちは、沸きに沸いた。

 そして、この興奮、騒がねば収まらぬ!となりまして。


 結果、鈴屋を借り切っての大宴会と相成った。


 既に王と后妃に一太子に宰相、十二狗将、六史台長と揃っていたわけだけれど。

 「話を聞いて飛んできました!」とばかりに他の万人将や各史台の高官、さらには弟たちまでエルデニとチェさんに連れられてやって来て…と、もしもあそこを狙われたら、アスランの現体制は間違いなく崩壊してたな。

 

 偉大なるご先祖様たちも、史上最高の苦笑いを浮かべていただろう。

 なんか大怪我してから『視える』ようになったらしいマシロが、時折誰もいない空間を見て顔を引き攣らせていたけれど。


 …もしかしたらご先祖様たちが叱りにきていたりして。

 いや、あのマシロの顔的に、一緒に飲んでた…?


 うん。やっぱり脳が疲れている。寝入り前の如く、妙な空想が湧き出てくるな。


 そんな感じで昨日の夜は更けていき、俺はあの後、ガラテアさんと一言も言葉を交わす暇もなかった。

 何せ、出来上がっちゃってるのは誰も彼もが偉い人。

 さすがの鈴屋の店員さんたちも気後れするってんで、鈴屋の孫たる俺たち兄弟がお運びに駆り出されたからね。


 途中から料理や酒はお座敷の一角に置いていく!そこから勝手に持ってって飲み食いせよ!って方式に切り替えたから、夕食と酒にはありつけたけれども。

 その頃には酔っぱらいが大量生産され、俺はあっちの酔っぱらいこっちの酔っぱらいへと連れまわされた。

 

 なんか兄貴がグスグスと鳴きながらついて回ってくれたけど…ほんと、後からついてきただけだったし。

 クロムがいたら「トールは少しは役に立てよ!」とか言いながら救出してくれそうだったが、いなかったしな。きっと家族団欒を久しぶりに味わっていただろう。

 あいつ、スーリヤさんがつくったものなら、大嫌いな匂いの強い野菜でも食うからな。

 

 本当は宴がお開きになった時、ガラテアさんも一緒に帰る予定だったから、その後話せたんだろうけれど…その件について、ニルツェグが猛反対した。

 「あんなむさっ苦しい、可愛くないトコにお嫁様つれてけるわけねーし!」と。


 俺の部屋じゃなくて客間使ってもらうよ?と言ったんだけれど、「可愛くねーし!」の一言で重ねて却下され、準備が整ってから迎えに行く事になった。

 それまで、ガラテアさんの身はニルとニル直属の女性騎士で構成された部隊が警護すると一方的に決定され、現在、この会議にもニルは不在である。


 まあ、なんか…ガラテアさんと体術の話で盛り上がってたしね。人体の効果的な壊し方、とか。

 さらにそれをエルディーンさんが熱心に聞き、ナナイを始めとする、体術に縁のない女の子たちもふんふん、と頷いていた。


 うん。身を護る術がひとつ増えるのは良いことだよ。ただね、ナナイ。「クー坊で試せばいーしょ!」ってのは、ちょっと、その気にならないでやってくれ。

 ニルは「ナナイ様の腕力でどーにかなるなら、クー坊の鍛え方が足りないってことだし」とか言って煽ってたけど、人体…特に男には、鍛えようとしても無理な弱点ってもんがあってな?

 

 「ファン、質問いっこいい?」

 「どうぞ」


 ヤクモの声に、回想から引き戻される。

 議題の文字は当然ながらタタル語で書かれている。ヤクモに読めないような単語はないと思うんだけれど。


 「あのさあ、この会議って、まじめなやつ?」

 「何をもって真面目とするかは難しいが、公式記録に残る会議だな」

 「んじゃあさあ、ぼくがタタル語読み間違えているかもなんだけどねぃ。『クロムを迎えに行く時どうするか』って書いてあるように読めるんだけど…」

 「うむ!間違いなくそう書いてあるぞ!ヤクモ!そしてこの菓子、甘くてうまい!食うといい!」

 「それ、こんなすごいとこで話し合うよーなこと!?クロムなら、ほっといても勝手に来るんじゃない!?」


 ヤクモの疑問に、サモンがすっと挙手をした。マルコが俺を見る。その視線に向かって頷いておいた。


 「ナランハルより発言が許可された」

 「発言お許しいただけたこと、恐悦至極に存じます。ナランハル」

 「ふつーに喋っていいぞ。許可する」

 「ん。今日帰ったら、クロムに何時までに出勤て伝えとく…?」 

 「そうデスネ。クロムに対する有識者のサモン卿もこう言ってマス。と言うか、予算に余りはありマスが、クロム迎えに行くのに部隊動かしてその予算使うの、無駄じゃないデスカ?」


 全員、うんうん、と頷く。多分寝ているアラカン以外。

 昨日、上官だった三老将に捕まって、散々飲まされてたしなあ。そっとしておいてあげよう。

 

 「予算バリバリで仰々しくお迎えに行って戸惑うクロムを見るのも、おじさん一興とは思うけどね」

 「クロっち、超嫌がるっすねえ!!」


 向こう十年くらいは「あの時は…」とかブツブツ言われそう。

 確かに、親衛隊を動かし迎えに行くとなれば、それなりに予算がかかる。通行を止めたりしなきゃいけないからその補填もしなきゃいけないし、礼装するなら終わったとの洗濯代とか。

 けどなあ。せめて迎えに行きたいんだよなあ。


 マルコが紙の白い部分に鉛筆を走らせ、「予算の無駄じゃない?」「でもクロムの焦る顔見たい」などと書き付けていく。

 「予算の無駄」の方が字が大きいから、つまりそっち優勢ってことだ。まあ、予算大事だからね。なんかあった時、あの時あんなことに使わなきゃ…とか後悔するのは避けなきゃいけないし。

 

 「じゃあ、この議題は後で揉むとして、次」

 「はい」


 ぺらりと紙がめくられた。

 次の紙には「奥方様のお迎えいつにする?」とさっきの文字の三倍くらいの大きさの文字で書かれている。


 「先ほどの件と合わせて、提案がありマス」


 す、とアミールの手が挙がった。


 「ナランハル。クロムの迎えはともかく、任命式はやるのデスよね?」

 「うん。すっ飛ばしちゃったからな。明後日やるよ」


 本来は開祖が軍を起こした記念日…四の月十日に式典が行われ、新たに騎士になった人々が大極殿前に集結し、大王ハーンのお言葉を賜る。 

 クロムはその頃俺と一緒にアステリアでオオトカゲ狩りを始めていたんで、当然式典には参加できていない。


 「まあ、大極殿前ってのは流石にできないけれど、紅鴉府の練兵場あたりでやろうかと」


 親父は呼んだら来てくれそうだけど、まあ、クロムなら親父の肉声珍しくもないともないしな。そこは省略していいだろう。希望があれば検討するって事で。

 「いらん」と眉を顰めて嫌そうな顔する予感しかしないけどな。


 「俺っちの隊でえ、ちょっとした…なんつうんですか?ほら、どばーん!!的なやつ…」

 「演出?」

 「そうそれっす!それぇやろうって、ちっとキバッてんすよ!」

 「へー、何するんだ?」

 「ナイショっす!へへ、クロっち、ビビんだろなあ…あの垂れ幕みたら…」


 うん。なんか垂れ幕用意してるんだな。

 よく、『入学おめでとう!』とか『本日大安売り!大感謝祭!』とか書かれて窓から吊り下げられるやつだな。字とか間違わないようにな?あんまりでかいと、他のとこからも見えちゃうし。


 「その時、全員は無理でも、百人くらいは親衛隊騎士並べマスよね?」

 「うん。俺とクロムだけでやったらなんか…寂しいし」


 それこそ、俺の部屋で済ませればよくない?になっちゃうしなあ。


 「その後、奥方様をそのままお迎えにあがるのはいかがデショウ?」

 「あー、そんなら何度も礼装しなくて済むし、おじさん賛成」

 「なるほど…」


 当然守護者(スレン)として同行するクロムは、一日に自分ち付近と王宮を往復する羽目になるけど、まあ、そこはそれ。

 

 「それは、採用で良いと思う。異議は?」

 「異議なーし」

 「俺っちもっす!」


 アラカンは目を閉じたまま、頷いたように見えた…んで、採用としておこう。


 「じゃあ、アミール。その方向で準備してくれ」

 「御意に。デハ、有識者の方々に確認デス。まず、鈴屋周辺に騎馬はどのくらいの数、入れマスか?」

 「そうですね…縦列を作れば三隊三十人は行けますが、余裕を持つなら二隊がよろしいかと」


 アミールの視線を受け、マシロがはきはきと答える。

 鈴屋の前は狭いわけじゃないけれど、さすがにそれくらいが限度だよなあ。


 「ジルチ広場に本隊置いて、護衛の小隊でお迎えが無難かね」

 「デスね」

 「王宮前にも部隊置いときたいよなあ。ジル君、そっちの指揮任せられる?」

 「バッチリっすよお!!俺ァ、ずっと旗掲げて待ちますぜ!」

 「いや、帰ってくるの見えてからでいいよ…」


 ジルなら、掲げっぱなしで帰ってくる頃には旗も本人もしおしおに萎れている…って事はないだろうけれど、無駄に消耗することもない。


 「んで、紅鴉宮前にはじっさまがって感じでどうでしょ?」

 「やれ、大仕事だな。明日は散髪屋に行かぬとならんようだ」


 あ、アラカン起きてた。しんどそうだけど。


 「では、御迎えに同行するのは、ワタシとマルコさんで」

 「妥当だね。みんな、頼む」

 「御意に。さ、次のお題です。その奥方様の素性を、どれだけ公表するか、ですね。これはうちだけじゃ決められないんで、まあ、うちとしての意見の統一を図ろうって程度ですが」

 

 配置を書き込んだ紙がめくられ、次に出てきた議題に、さすがに少し目が覚めた。

 

 ガラテアさんが遥か西の国、セスの王女だという事は、昨日の宴会に参加した面々には伝えてある。

 そのセスは滅亡し、現在どうなっているか不明だ、という事も。


 本来、王族の婚姻と言うのは政治だ。

 身分が釣り合う、もしくはその結婚によって、何かが有利になる…それが最優先で会って、個人の心情などは度外視されるものだ。


 昨夜、そのことについて、ポツリと親父とスバタイ叔父さんに問いかけた。

 本当にいいのか、俺はたぶん、第二夫人を娶るなんて真似はできないよ?と。


 酔っぱらいの鼾や、調子はずれの歌声に混じって、綺麗な馬頭琴の音色が夜気に解けていく。

 鈴屋の小部屋の一室。決して広くはない、ただ卓と座布団くらいしかない部屋。

 そこで杯を手に、大アスランの八代大王と宰相は、まるで子供を寝かしつけるような優しい笑みを浮かべて、言った。


 「今のアスランに、ご機嫌を取らなきゃいけないような国はないし、娘を差し出して安寧の約定を結ぼうとする国の言うことを聞いてやる義理もないよ」

 「まして国内に、顔色伺いが必要な一族なんてないしね」


 親父の満月色の双眸は、ゆったりと緩んでいて。

 でも、その奥に、大きなことをやり遂げたという自信と満足が見えていた。


 「そうなるように、私たちは頑張ったんだから。だからね、君が好きな人と結婚してくれるのが、一番アスランの為だよ。それができるほどにアスランは強く、王家の力は大きいって証明だからね」

 

 その言葉は、決して上辺だけのものじゃなかった。

 だから、俺もこの結婚について悩むことはしない。


 しかし、それはそれとして、当然ながら二太子結婚と聞いた人々は、その相手が誰か、という事を知りたがる。

 鈴屋で暮らしていたことまでは簡単に突き止められる…と言うか、迎えに行った時点で宣言するようなものだから、それはいい。しばらく鈴屋に客が押しかけるだけだ。

 常連さんたちにはちょっと悪いし、すごい忙しくなりそうだから、みなには申し訳ないけれど…。


 「おじさんとしては、公表した方が良いと思うんですが。どうでしょ?ご迷惑になりますかね?シド殿下」

 「…殿下は、やめて欲しい。そんな大層な身分じゃない」


 マルコとシドの声に、思考の沼から頭が抜けた。

 公表かあ。ガラテアさん、どう思うかな。シドは困った顔のまま、首を振っているけれど。


 「姉さんは…たぶん、ああ見えて結構、身分の差を気にしている。滅ぼされた都市国家の姫様だなんて、どう考えてもアスランの二太子と釣り合わない」

 「気にしてるのか…でも、気にしないでって俺が言っても、だよなあ」

 「ああ。だが、大海の主(ダロス)の司祭という立場より、まだ亡国の姫の方が受け入れられるようなら…俺の事も含め、公表してくれて構わない」


 ガラテアさんの身分をあげつらうような輩か…。

 まあ、心当たりはそれなりにあるな。例えば、第三、第四夫人とか。

 あの御二方以外にも、「二太子の妻」という肩書を娘なりに付けたがっていた連中は、ここぞとばかりに喚きたてるのが目に見えている。

 

 加えて、アスランの貴族と言うのは、元は攻め落とされた国の王族だったりするから、「亡国の姫君」でもあるんだよな。

 だから、ガラテアさんがセスの王女だという事実で黙るかと言ったら…黙らないだろう。自分もそうだとより一層喚く。別に王女だからガラテアさんを、その…好き…になったわけじゃないんだけど。


 「身分がどうのって言ったら、后妃様はどうなんだって話になりますからねえ」

 「マルコは、どうして公表した方が良いと思うんだ?」

 「なあに、簡単な話です。后妃様と同じことですよ。民に好かれちゃえばいいんです。貴族連中が千人ブンブンと文句を言い立てても、大都の民だけでも百万。百万の声援があれば、吹っ飛びます」

 「民に…好かれる…」


 シドがますます眉根を寄せた。その肩を、マシロがぽんぽんと叩いて苦笑している。弟からしたら、それはかなり困難な作戦のようだ。

 普段から、手を挙げた瞬間に防御の姿勢をとるような仲だからなあ。


 「まず、后妃様が民衆から絶大な支持を受けている二つ理由をあげます。ひとつは、何しろ見眼麗しい。ふたつめは、その美しさに出奔中だった大王が一目惚れしたという物語。もちろん、后妃様がアスラン后妃に相応しい御心の持ち主である、という事もありますが、それが知られる前から大人気でしたからね」

 「まあ…姉さんは見目だけなら…」

 「いや、見た目以外にも良いところあるだろ!?砂蚯蚓を捕まえられるとか!」

 「それ、ファン以外のひとに刺さることある?」

 

 あと、優しいし、責任感も強い。何せ、弟に守られるんじゃなく、弟を守ることを選ぶような人だしな。


 「突如同盟国に裏切られ、神官に身をやつして逃げ延びた王女。一冊の本で彼女の事を知り、想いを馳せていた王子。二人が奇跡的に出会い、結ばれる…これ、絶対に民衆受けします。おじさんのお給料を賭けてもいい」

 「そうデスね。療養のためフフホトを訪れたナランハルが青の湖(フフノール)で蛙を観察していたら、ガラテア様が蚯蚓を捕まえて餌にどうぞとくれたのが出会いとかにしまショウ」

 「確かに、姉さんならやりそうだが…」


 フフノール近辺の蛙の主食はユスリカやカゲロウで、蚯蚓じゃないよ。と言うか、水生棲か陸棲か、はたまた樹上棲かで食性変わってくるし、俺が蛙を観察するなら蚯蚓がいそうな土がいるところじゃなく、観察対象に合わせて場所を選ぶから…と訂正したかったが、場所を選ぶところまでいったあたりでヤクモの冷たい視線に止められた。


 「さすがに蚯蚓持つのはナシだって。俺たちはナランハルの事をよく知っているから良いけども」

 「そうデスか…」

 「んじゃあ、ナランハルが珍しい蟹みつけて、捕まえたのはいいけど入物もってなくて、バケツくれたってのはどうっしょ!」

 「…バケツ持ち歩いてるガラテアねーちゃん、どなの」 

 「バケツじゃなく、瀟洒な籐籠とかは?いや、ガラテアならバケツの方が持ち運びしやすいし、色々入るって籠の代わりにバケツ持ち歩いてるほうが違和感ないが」


 有識者のお二人が、方向を整えてくれたけど、その、もうちょいなんとかならない?俺が採集セットも持ち歩かない粗忽者みたいじゃん。


 「あー…でも、あまり事実とかけ離れると、ナランハルがボロだすか」

 

 しまった、と言う顔のマルコに、全員一致で頷いた。ユーシンまで笑いながら頷くことないじゃんよ。たぶん、事実ではあるが。


 「それなら、灰色丘陵掃討戦を上手く使いまショウ。傭兵家業を続けていらしたガラテア様がクローヴィン神殿の窮地を知り、援けを求めに行った先で…」

 「灰色丘陵の虫を観察していた、ナランハルと出会ったとか」

 「ファン、どーやっても虫とか蟹とか蛙とか観察してるんだねぃ…。出陣した先で何やってたか、なんかぼく、わかっちゃった」


 まあ、たぶん、ヤクモの想像通りである。


 「いいっすよお!それ!んで、あれっしょ!奥方様を追ってきた三下共を、ナランハルがヤキいれてぇ!」

 「いやー…どっちかって言うと、それなら虫を観察している俺に絡んできた輩を、ガラテアさんがのしたって方が説得力あるぞ?」

 「じゃあ、それで。突っ込まれそうになったら、ナランハル。灰色丘陵の虫とか草の事を語ってくだサイ。絶対、有耶無耶にできマス」

 「はい…」


 良いんだ。これも一種の、知識は身を助けるって事になるってことで。

 あまり詮索されると、俺がアステリアにいることがバレちゃうかもしれないしな。

 

 「もうひとつ、確認させていただきます。シド殿下」


 目を開き、ゆっくりとアラカンがシドを見る。

 その、穏やかだけれども強い視線に「殿下はやめてくれ」とは言えなかったようで、シドは少し口を開きかけ…そのまま頷いた。


 「現在のセス王国について、我らの方で調べさせていただきます。よろしいか?」


 よろしいか、とは言っているけれど、おそらくアラカンはシドの肯定も承諾も必要とはしていない。嫌だ、やめてくれと言われれば頷くけれども、絶対にやるだろう。

 けど、セス王国の現状がどうあれ、あまり関係ないと思うんだけれど…。


 「無論、それは構わない。けれど…」

 「何の意味が、と?」

 「ああ。セスは滅びた。それに、アスランから遠い。セスの民が俺や姉さんを頼ってアスランに大挙して押しかける…事は考えにくいが」


 ああ。なるほど。

 セスは亡国だ。戦乱から逃れて流離う人々の耳に、セスの王族がアスランにいる…という話が入れば、縋ってしまっても無理はない。


 その人々がガラテアさんやシドに助けを求めた時、どうするか。


 一人二人なら、仕事を紹介して暮らしの手助けをすることはできるだろう。

 けれど、百人なら。千人なら。

 知ったことかと手を払えば、セスの民は当然二人を恨む。その恨みにつけこみ、良からぬことを企む連中が出てくるかもしれない。 

 俺自身は嫌っていても、二太子の妻という座に着きたい、着かせたいという輩は、両手の指じゃ足りないくらいにはいるからな。


 ただ、そうなるにはちょっとアスランとセスは離れすぎている。

 わき目も降らずに毎日移動し続ければ、半年くらいの距離ではあるけれど。

 その半年を旅するというのは、遊牧民でもないかぎり「途方もない距離」だ。それに、毎日移動し続けるというのは結構難しい。なんだかんだで、一年くらいはかかるだろう。

 

 「この老いぼれが気にしておりますのは、民の事ではございませぬ。今現在、セスを占領した者どもが、御身らの引き渡しを求めて参るかどうか、その確認をしたいのです」

 「…それは、あるかも知れない」

 「あるの?」


 シドは困ったと表現するには剣呑な顔で頷いた。


 「セスに攻め込んだクラナッハ王国の王子と、姉さんは許嫁だった。子供ながらに、いやらしい執着をしていたからな。それに…」

 

 卓の上の、シドの拳がきつく握りしめられる。

 

 「セスの『白の迷宮』は、閉じられている。その封印を解くためには、セスの王族…それも、直系の血が必要だ。そして、現在いま、生きているセス=アンテドゥスの直系は俺と姉さんだけだ」

 「『迷宮』かあ。しかも攻略可能なんだもんな。そりゃ、喉から手が出るほど欲しいか」

 「ああ。『迷宮』は莫大な富を生む。もっとも、いつ魔獣が出てくるかわからんし、いい事ばかりじゃないがな」


 アスランにある無漠の『迷宮』からも、とんでもないの出てくるもんな。兄貴が討伐した窮奇ムィバルなんて、五十人近い犠牲者を出したし。

 

 「さて、ナランハル。そのクラナッハ、とやらの小僧が、ガラテア様の御身を要求してまいりましたら、如何いたしまするか?」

 「え、もちろん断るよ。場合によっては国外追放するよ。その使者には悪いけどさ」

 「ええ。そうですな。しかし、そのような愚かな行為自体を許すわけにはいきませぬ。報復せねばなりますまい」

 「ったりめぇっすよ!!ンな喧嘩売られたらよォ!買うっきゃねえっしょ!!」

 「されど、かの地は遠い。直接軍を出すわけには参りませぬ故、さて、どうしてやるのが一番効果的か、探っておかねばなりますまいよ」


 にこり、とアラカンの口許が笑う。怖い。

 

 さすがに言ってこないと思うけれど…。どうなんだろう。ガラテアさんと『迷宮』を同時に手に入れられるのならば、のこのこ来る?


 「ナランハル。おじさん、思うんですけれどね。男が馬鹿をやるのは、女性と見栄のどっちかかどっちもなんですよ」


 しみじみ語るマルコの顔には、「経験者」と書いてある。

 マルコはもともと大都の衛兵隊に所属する騎士だったのを引き抜いたから、色々見ているんだろう。

 大きな事件になれば断事官が担当するけれど、被害者が少数で連続性もないとなれば、衛兵が犯人の捕縛や動機の聴取をするからな。


 「自分のものって思いこんでいた女性が他の男と両思いで結婚するなんて、ちゃちな見栄が許さんでしょうし、なんかしら手を出してくると思いますよ。まあ、耳に入らなきゃ何もないでしょうか。何せ、遠いし。けど、知ったら絶対馬鹿やります。おじさんの全財産を賭けてもいい」

 「長年の同盟国にいきなり攻め込むような国デスしね。我々では計り知れない愚行を、金と時間を無駄に費やすやも知れまセン」

 「そうねぇ」

 「アステリアのイヴリン王妃もおっしゃってたなあ。愚者の無謀は賢者の一手よりも読みにくいって」


 愚者が闇雲に手足を振り回し、得意げな面を晒すとき。

 その愚者が権力者だったのなら…巻き添えは、大きくなる。


 南フェリニスで俺を守って死んでいった、十人の騎士たち。

 クローヴィン神殿の村で、踏み躙られて消えて行った人々の命。


 どちらも、愚行の巻き添えだ。

 決して、あんなことで終わっていい命じゃなかった。


 「警戒はしよう。アラカン、頼んだ」

 「御意に」

 

 もし、そのクラナッハの王子…今は王かもしれないけれど…が、彼女を寄越せと言って来たら。

 実現すると本人も思っていない、嫌がらせに過ぎないとしてもだ。


 俺は全力をもって、そんな戯言を抜かした相手を叩き潰す。


 その時の犠牲を本人一人にできるよう、相手の情報を知っておくのは必要な事だ。


 「では、紅鴉親衛隊としては、公表しつつ警戒ですね」


 マルコが紙を掲示板から外し、卓の上に置いた。

 つまり、本日の議題はこれで終了。取り決めに移る。とは言え、最後のはあちこちと折衝して決めることになるから、結論はまだ出ないけれどね。


 「さて、それじゃ総括しよう。まず、クロムの出迎えだけれど、俺一人で行ってくるよ」

 「クロムに来させた方がいんじゃない?ファン兄だって、暇じゃないでしょ…」

 「俺がそうしたいんだ。我儘だとわかっちゃいるけれど、頼む」


 何故、と言われても、明確な答えは出ないけれど。

 迎えに行って、いつもみたいに。二人で帰ってきたい。


 「わはは、ファンは物好きだ!知っているが!何かあれば、二人でどうにか鈴屋まで逃げて来い!俺がなんとかしてやろう!」

 「なんかあるのう?」

 「クロムがどこかで誰かを怒らせて、追われるやもしれん!」

 「なるほど。なら、俺も鈴屋で待機だ。ファンに何かあったら、姉さんに殺される」

 「ありがとな。心強いよ。野良牛とか野良駱駝に追っかけられたら、その時はよろしく頼む」

 「任せておけ!」


 快活に笑って、ユーシンは胸を叩いた。

 そうだな。俺たちは一党パーティなんだし。遠慮なく、頼らせてもらうよ。

 まあ、そもそも、何もないと思うけどな。


 「では、その間に騎士の誓いの準備をしておきましょう」

 「うん。ジルも演出、頑張れよ」

 「うっす!!クロっち、感動で泣いちまうかもしんねぇっすよお!!」

 

 残念ながらそれは絶対にないと思うけれど、少しは喜ぶ…かなあ?うーん…引き攣り笑いしている顔しか想像できない。


 「もし泣いたら、十年くらいはそれで弄ろ…」

 「サモン、ほどほどにな?」

 

 マシロの声にサモンは答えず、ただ、「にこぉ…」と微笑んだ。ほどほどにする気はないな。これ。


 「デハ、その後、奥様をお迎えに上がるという事でよろしいでショウカ」

 「ああ。そっちに加わる騎士は、マルコとアミールで選抜してくれ」

 「御意に。古巣にナランハルがお通りになること、伝えておきます」


 動かすのは百人隊を一隊だけとは言え、ものすごい通行の妨げになっちゃうからな。俺としては別に構わないんだけど、先に行くのも、追い抜かすのも、前を横切るのも無礼って事で許されない。

 つまりは、姿が見える前から道を開け、後塵が消え失せるまで動けない。急ぎの人にとっては大変に困った事態となる。


 なんで、先に何日何時はこの道使えないから、迂回してね~っと告知するわけだ。迎えに行くのは明後日だから、かなり急ではあるけれど。ないよりははるかにマシだろう。


 「ガラテアさんの出身については、シドも何度か同じように会議に呼ばれると思う。面倒くさいが、よろしくな」

 「それくらい、なんでもない。気にしないでくれ」

 「シドは人間できてるねぃ。クロムなら、めっちゃ文句言うよ」

 「言うな!間違いなく!」

 

 お前さんらの、クロムに対する逆方向に篤い信頼はなんなんだ。

 …まあ、俺も言うと思うけれど。何なら、ぶすくれて「めんどくせえ…」って文句垂れるところ、音声付きでまざまざと思い浮かべられるけれど。


 「おっと、そうだ。マシロ、サモン」

 「なあに?」

 「お前たちについて、兄貴から今日明日と借りてるんだ。で、この会議の後、ひとつ頼みたいことがある」

 

 マシロはやや訝し気な顔を見せたが、それはほんの一瞬で。

 すぐにお手本のような一礼をしてみせる。


 「なんなりと。ナランハル」

 「いや、そんな難しいというか、重たい任務じゃないよ。あー…ある意味、重要任務だけど」

 「そなの?面倒なのは嫌だけど…」

 「ユーシンとヤクモの大都見物の案内兼護衛で。軍資金は当然出すよ」

 

 俺の告げた「任務」に、真っ先に反応したのはヤクモだった。

 身を乗り出しながら、俺とマシロ、サモンを交互に見ている。


 「え、悪くない?二人とも、お仕事あるんでしょ?」

 「他国の王子を案内護衛なしで放り出したりはできないからな。いい加減、紅鴉宮の探検も飽きただろ。俺が案内するのが一番いいんだけれど、こっからさき、予定が詰まりまくっててな。冬至の儀式の練習もあるし…」


 俺が忙しいという事は、紅鴉親衛隊も忙しいという事だ。それに、護衛をぞろぞろ連れてたんじゃ、お行儀の良いことしかできないからね。

 大都の史跡や老舗の大店しか見に行けないんじゃ、つまらないだろう。


 「あ、それは大歓迎。うれし」

 「そういう事なら、今日この後、どんなところに興味があるか聞かせてもらって、計画を立てるか」

 「勿論、一日じゃ足りないだろうから、またお願いすると思う。大神殿組にも色々見てもらいたいしさ」

 「お任せあーれ。やったー…堂々サボれる…」

 

 サボり…と言われると困るが、まあ、マシロもいるし大丈夫か。

 

 「できたら、シドも一緒に。ユーシンがはしゃぎだしたら、色々人手が必要だ」

 「俺は構わないが、俺も大都に詳しくはないぞ?」

 「じゃー、シド兄も色々見たらいいよ…。ナランハルの義弟をごあんなーい的な…」

 

 セスの王子だしな。貴賓であることは間違いない。

 せっかく大都に住んでいるのに、遊ぶ場所や観光しないなんてもったいない。存分に楽しんできてくれると良い。


 「デハ、マシロ君。おおよその予算の見当がついたら言って下サイ。支給いたしマス。足りなければ、後で清算しまスヨ」

 「ふふ…飯屋と宿屋が実家ですからね。きっちり予算内に収めてみせます。過不足は銅貨一枚出しません」

 「心強い。余った予算を組み込みなおすの大変デスからネ」

 「わかります。次の予算考える時に邪魔になるし」 

 「そうそう。余ったら余ったで、面倒なんだよねえ。なのにうちのナランハル、予算より低いもの買ったりするからさあ」


 だって同じものなら、安い方買いたくなるだろ?そういうもんだろ!?

 

 「貧乏人が身の丈に合わない買い物するのも困りものですけれどねえ。金持ちが金使わなきゃ、不景気になっちまうんですよ。ナランハル」

 「ま、まあ!ともかく!みんな、色々頼んだぞ!」

 「あ、誤魔化した」


 ヤクモの声は聞こえなかったものとし、強引に会議終了の号令をだした。


***


 「ふー…」


 紅鴉宮の門をくぐると、さすがに疲れが溜息になって零れる。


 会議が終わった後も、山盛りになった書類やら、陳述や提案の聴取やら、訓練への参加やら…と様々こなし、空はすっかり夕焼けに変わっていた。

 

 ユーシンとヤクモとは会議室で別れたんで、先に帰ってきているか、まだ作戦会議中かはわからない。

 どっちにせよ、二人の自主性に任せておいて問題はないだろう。子供じゃない…ん、だし…いや、ちょっと不安ではあるが。


 宮まで護衛してくれた騎士たちに労いの言葉をかけ、冷たい風から逃げるように中へと進む。

 いわゆる玄関的な間で談笑していた騎士たちが、「おかえりなさいやしー」と座ったまま迎えてくれた。

 護衛してくれた騎士たちはまだ入隊一年未満の新人たちで、コイツらに染まっていない。いつまで染まらずにいてくれるかなあ。


 まあ、俺としても、礼儀正しく緊張と敬意をもって迎えてくれるより、このくらい緩い方が好きだ。

 不敬だと怒られるのはこいつ等だから、本当はよろしくないのはわかってはいる。

 でも、俺は俺の責任で、「これでいい」と認めたい。


 こんな態度をとっていても、彼らは俺のために死ぬことを、一瞬ですら躊躇わない。俺はそれを、誰よりもよく知っている。


 だから、お互い生きているときは、後悔しないよう…楽に自然に付き合いたい。


 「おう、ただいま。明日も天気は良さそうだな。一番星が良く見えた」

 「しばらく雪は勘弁願いたいですね」

 「そうだなあ。年明けくらいまで良い天気続いてほしい」


 年末には、店じまいの大売り出しがある。

 モノによっては定価の半額以下になるという、絶対に見過ごせない期間だ。雪が降ると機動力が落ちるからな。最低十店舗は回らなきゃいけないのに。


 「ユーシン殿下とヤクモ殿下は、まだお戻りになってないっすよ」

 「そっか。まあ、夕飯を外で食べることになったら連絡寄越すだろうから、そろそろ帰ってくるだろ」

 「お戻りになられたら、ナランハルの居室に?」

 「荷物がないようなら、俺を呼んでくれ。そのまま金狼宮に行くよ」


 俺の部屋まで行って、また外へ出て…じゃ面倒くさいしね。 


 靴を脱ぎ、首と肩をコキポキ言わせながら部屋へと向かう。

 すれ違う騎士や侍従官たちに挨拶をかわしながら進んでくと、ふと、違和感を覚えた。


 「なあ、ちょっといい?」

 「はい、いかがいたしましたか?ナランハル」


 通りすがりの侍従官を呼び止める。彼の手に抱えられている箱は、それほど大きくも重そうでもないが、見たことのない革箱だ。綺麗に色が塗られ、珊瑚や貝で花が咲き乱れるさまが表現されている。


 「なんかさ、女官と全然会わないんだけど…」

 「ああ。それはそうでしょう。西の間に全員集結していますから」

 「へ?」

 「これも、今から西の間に持っていくんですよ。倉庫にしまわれていた茶器です」


 そう言って中身を見せてくれる。

 まるで夏の雲で造ったような、微かな青をおびた白磁の茶壷と茶杯。カーラン式の茶器だな。


 「西方式の茶器は注文中です」

 「ええっと、西の間に…持っていくんだよな?なんで?」

 「ナランハル…奥様をどちらに御通しするつもりだったのです?」


 少し呆れたような窘めるような声と顔に、俺は再び「へ?」と間抜けな声を上げた。

 西の間は、三つの房で構成された場所だ。その名の通り、紅鴉宮一階の西の端にある。確かに、広いけれど…使わないから、封鎖してたよね?

 ガラテアさんには、二階の客間を使ってもらおうと思ってたんだけれど…。


 「西の間は、本来二太子の正妻となられる御方がお住まいになるのです。先王陛下の后妃様も、西の間でお過ごしだったのですよ」

 「え、ええ?そうなの!?」

 「はい」


 今度は完全に呆れた顔で、侍従官は頷いた。

 そっか。だから使っていなかったのか~。俺の前の「ナランハル」だった叔母さんは、お嫁にいっちゃったからなあ。そりゃ、長い事使わないな。


 「実に三十年以上使われておりませんでしたからね。内装なども質の高い、素晴らしいものですが…魔導具の性能が最新式のものと比較しますと見劣りします。家具や調度品に組み込まれておりますから、総取り換えに」

 「そっか。それは仕方ないな」

 「女官長がそれはもう、大張り切りで…我らもこうして、新兵の如くこき使われているわけです。ナランハルは当面、西の間にお近付きになられませぬよう。半日は拘束されますよ」

 「なんか、ごめん。急すぎだよなあ…」


 明後日、ガラテアさんを迎えに行くことは、もう紅鴉宮にも通達してある。

 交通整理もそうだけれど、準備期間としては全く足りていないだろう。いろいろと申しわけない…。


 「いいえ。ナランハル。貴方様が紅鴉宮の主である間は、西の間は使われることはないだろうと、皆、諦念しておりました。それが覆されたのです。これほど嬉しい大急ぎも、そうはございませんよ。女官長など、十は若返っておりますから」


 その女官長は、彼の伯母にあたる。

 俺が紅鴉宮に入った時、彼はまだ十代後半の、侍従官なりたてのころだった。

 当時からずっと、親戚の兄ちゃんのように俺を支えてくれた侍従官は、とても優しい目で俺を見ていた。


 「ナランハルが御心を寄せられた奥方様は、きっと素晴らしい御方でしょう。お会いできる時が、早ければ早いほどいい。これであと一年後などと言われましたら、我らはおかしくなってしまいます」

 「うん。俺にもったいないくらいの人だから、楽しみにしていてくれ」

 「御意に」


 一礼し、侍従官は西の間に向けて歩き出した。

 西の間、か。

 とりあえず、明後日までは近付かないようにしとこ…。忙しいのは本当だし…。


 その後、部屋までですれ違った侍従官たちは、例外なく何かしらしていた。みんな、嬉しそうに大急ぎで動き回り、話し合い、書類を積み上げ、帳面をつけていく。

 騎士たちも非番の連中が駆り出されているようで、西の間から取り外された魔導具や家具を、せっせと倉庫へと搬出していた。


 そんな彼らに内心応援と感謝と謝罪を捧げつつ、自室に至る。警護の騎士たちに挨拶して中へと入ると、ふわりと暖かい空気が顔を撫でた。


 「ただいま」

 「あにうえ!おかえりさない!」

 「おかえりなさいー」


 ててて、と駆けてくる弟たち。テムルの手には、『天卓山地見聞録』が抱え込まれている。

 俺も執筆した『天卓山地博物誌』の中から、イフン地方の風習や気候、特に変わった生き物たちについて抜き出して編集された本だ。

 ちなみに、俺の天卓山地での食事についての記述も抜き出されている。ふふふ(自慢)。


 「どうだ?テムル。天卓山地、興味沸いた?」 

 「はい!同じアスランでも、こんなにちがうのですね!」

 「あにうえ、ナマズっておいしーです?」

 「美味いぞ。俺は素揚げにして果物の汁をかけて食べるのが、一番好きだったなあ」


 生で食べると寄生虫にやられるから、気をつけないといけないんだけどね。

 こっそり寄生虫を腹で育てて、大学で標本にしようとしたんだけど…気付かれてまだ小さいうちに虫下し飲まされちゃったんだよな。残念だった。


 「お帰りさないませ、ファン氏」

 「エルデニ、チェさんもただいま」

 「今、お茶お淹れいたします~」


 見ての通り、弟たちもエルデニとチェさんも、自分の宮に戻っていない。

 その点については、夫人たちから何か言われるまでほっとこう、と言うのが、昨日急遽決まった我が家の方針である。


 「三日気付かなかったら、むしろそれを責められますし」とは母さんの言葉だ。ダヤンの二の舞にはさせないという、強い意志がある。

 二人とも、昨日は基本母さんがご飯を食べさせ、その後は重臣たちの間をちょこちょこと行き来して、厳ついおっさんたちの顔を和ませていた。


 特にジャスワン将軍が二人を気に入ったみたいで、「おにーさん、後見になってもいいよおww」とまで言ってたな。

 十二狗将の一人が王族の後見になるのは慣例だ。俺と兄貴は、ヤルト爺だったしね。というか、親父からそうだったんだけれど。

 他の十二狗将からは「性格が悪くなるから絶対にダメ!」と猛反対されていたけれど。


 「ファン氏。お戻りになられたばかりで申し訳ないのですが、小生らはこれより金狼宮へ参ります」

 「あ、むしろなんか待たせていた?」

 「なに。先ほど使いの方が参られまして。テムル様、フレグ様の服ができあがったので、と」


 一応、泊まりに来るってんで一昨日雲熊宮を出る時に、二泊分くらいは持ってきていたんだけれど、それじゃ全然足りないわけで。

 そして、母さんが大張り切りで二人の服を買うし作る!と息巻いていたからな。それが出来たみたいだ。


 「あにうえ…」


 くい、とテムルが俺の服の裾を掴んで見上げてくる。

 そろそろ重くなったらしい本を、そっとフレグがテムルの腕から抜き取って、抱えなおしていた。


 「あのね、なんか…チェがおねがいしたいこと、あるみたいなんです」

 「チェさんが?」

 「はい。なんで、聞いてあげてください!」


 ぴょこ、と下がった弟の頭を撫でる衝動を、どうしても抑えきれず。

 子供特有の柔らかい髪の感触が、掌に伝わる。


 「わかった。俺で何か力になれる事なら」

 「ありがとう!あにうえ!」

 「ありがとうなのです!」


 テムルだけじゃなく、フレグからしてもチェさんには色々世話になっているんだろう。弟二人と旧友がお世話になっている人の為なら、俺だって一肌脱ぎたいし!

 ただ、エルデニが二人を「頼み事」に立ち会わせたくないのが気になる。

 悪人面ではあるけれど、エルデニは繊細な気遣いができる奴だから。


 「では、一足お先に」

 「うん。母さんによろしく」


 手を振る弟たちと、「ニチャァ…」と笑いながら恭しく一礼する友人を見送って、部屋の中に置かれた座布団に腰を下ろす。

 弟たちは部屋を散らかさず過ごしていたようで、ほんの少し座布団の位置が朝と違っている程度だ。まったく。ユーシン達に見習ってほしい。


 「アレ、せんせーらは…」

 「先に金狼宮に行ったよ。服が出来たんだって」

 「あらあ。お茶、ようけ淹れてしまいましたわ」

 「冷ましておいて、風呂上がりの冷茶にしたらいいよ。それより、チェさん。俺に何か、頼みがあるとか…」


 チェさんは元から丸い目をさらに丸くし、しばらくそのまま俺を見ていた。

 それから、ゆっくりそっと。茶器の置かれた盆を俺の前に降ろす。

 そして、その茶器を挟んで、俺の前に正座した。

 

 「ホンマは、こないなこと、ようお頼みできるこっちゃないんやけど…。ナランハル、『顔剥ぎ』って御存知でおられます?」

 「…サライで聞いた。紅花売りを狙う、殺人犯だと。それを追っている断事官ジャルグチが、古い付き合いなんだ」

 「あ、もう断事官様が動いてはるん!それやったら、安心やわあ!」


 張り詰めていた表情をホッと緩め、チェさんは手を叩いた。


 「実は、そのことをお願いさせていただきたかったんどす!」

 「断事官が捜査に当たることを?」

 「はいな~!なんせ、殺されとるんは、紅花買いでっしゃろ?せやから、お上も動かんのんちゃうって」


 紅花買いは、私娼…つまりは、軽めに犯罪者だ。

 アスランの法では、娼婦男娼を置くためには許可がいるし、定められた区画でしか商売はできない。

 けれど、完全に取り締まるのは不可能に近く、染料の材料である紅花を「買いに来た」「引き取りに待ち合わせた」という言い訳を作って、身を売る人は後を絶たない。

 

 『顔剥ぎ』はそうした人々を狙い、殺していると、サライで断事官…ホンランは言っていた。

 犠牲者は顔を剥ぎ取られ…遺体の大部分は消失しているらしい。

 非常に残忍で、恐ろしいやり方だ。犠牲者が基本貧しい紅花売りだけに、金銭目的じゃなく、おそらく、「殺すこと」を目的として殺している。


 でも、なんで、チェさんが『顔剥ぎ』について、そんなに気にしているんだろう?

 そりゃあ、そんなのが野放しになっているのは怖いけれど。


 「実は、うち、元々はヒタカミの生まれですねん」

 「ええ!?そなの?」

 「はい。そんで、まあ、いろいろあって、センセーに買うてもろて、今はご機嫌さんで過ごさせてもろとりますねん」


 これは、今、ヒタカミのどの辺の生まれかとか、風習や動植物について聞いたらダメなやつだな。俺だって多少は空気を読める。あとで聞こう。


 「んで、大都来てしばらくたった時、ヒタカミで知り合いやったお人と、うたんですわ」

 「それはすごいな。大都には世界中から人が集まってきているとは言え、逆に言えばものすごい人いるからね。その中で再会できるって、すごいことだよ」

 「でっしゃろ!まあ、そんな仲ええ知り合いでもなかったんけれど、そりゃあまあ、嬉しゅうて。相手のお姐さんも、喜んでくれはって。そのひと、家のそばの茶店で働いてはったおひとやったん」


 きゅ、とチェさんの膝の上に乗せられた拳が握りしめられた。


 「うちらの住んどったとこ…ミナホの都は、戦に焼かれてもうて。その人、そんときに攫われて、カーランまで売られてったんやって。で、色々あって、今は大都でちいこい飲み屋やってはるんです」

 

 たぶん、チェさんも。

 同じように、攫われて売られた一人なんだろう。

 ヒタカミから、自分の意志でアスランに来るような人はほとんどいない。うちの祖母ちゃんたちくらいだ。

 

 何故かって言うと、ヒタカミの人々は、ヒタカミが大好きで、離れたがらないからなんだと、祖母ちゃんは少し笑って言っていた。

 その祖母ちゃんにしても、ヒタカミから出たのは好奇心や探求心からではなく…そのままヒタカミに居たら、間違いなく殺されると判断したからで。


 俺がヒタカミに強く惹かれているのも、動植物…とくに茸や苔の種類が豊富だからと言うだけではなく、祖母ちゃんの話してくれるヒタカミの美しい光景を見たいと、そう思うからだ。


 その美しい故郷から引き離された苦しみは…異国人である俺が、何を言っても慰められるものじゃないだろう。

 せめて、アスランでの日々が、故郷を希うばかりでないと良い。そう願う事しかできない。


 「ほいでね、その飲み屋…紅花買いの宿にもなっとるんですわ。あ、これ、これ、ホンマ、ひらにひらに、お目こぼしを!!」

 「わかった。俺が取り締まることではないし、聞かなかったことにする」

 「おありがとうございますぅ!これでガサ入れされたら、うち、お姐さんにいわされてまう…」

 

 チェさんの怯えっぷりは大袈裟に言っているわけではないみたい。よくわからないが、その「お姐さん」、怖い人みたいだな。

 

 「お姐さん、客が紅花買いの姉さんらに酷い事したり、値切るの許さへんから。病気になったり、身籠ってもうたとき、医者に掛かるの助けたりしてはるし…守銭奴でめっちゃ怖いおひとやけど、悪い人やないんですわ」

 「そっか。良い人なんだね」

 「悪い人やないんですわ」


 良い人でもないらしい。


 「そんでもって、そのお姐さんとこで客取ってはった姉さんの一人が、『顔剥ぎ』に…」

 「それで、『顔剝ぎ』を捕まえてほしいと…」

 「へえ。それに、もう何人か、急に居らんくなった姉さんもいてはるみたいで…お姐さん、自分で『顔剝ぎ』捕まえたる!っていきまいてはって」

 「いや、それは危ないよ!?」

 「そうでっしゃろ!?せやから、断事官様がもう動いてはるんやったら、大人しゅうなってくれるんやないかなって」


 相手は何人殺しているかわからない殺人鬼だ。いくら怖いお姐さんでも、立ち向かうのはあまりにも危ない。

 そもそも、ホンランですら掴めていない『顔剝ぎ』を捕まえるなんて、できるんだろうか?


 俺の疑問が顔に出ていたのか、チェさんは少し困ったような顔で首を傾げた。


 「なんや、お姐さん…『顔剥ぎ』を見たって言ってはって」

 「え…」

 「お姐さん、殺されたおひとの亡骸を見っけたんやって。そん時、えろう臭かったそうなんですわ。その…いややわ、ナランハルの御前でなんちゅうたら…」

 「ええと、そのままでいいよ」

 「ほなら…その、ゲロ、臭かったんやて。ああもう、いややわあ!うち、普段はこないな穢い言葉、ようしませんよって!」

 

 チェさんは顔を赤くして手で覆った。そんなに汚い言葉ではないと思うけれど、若いお嬢さんからすると恥ずかしいのかもしれない。


 「つまり、嘔吐物の臭いがした、と」

 「そうですそうです!なんや、尋常やない臭いやったって。ほんで、読売で見たんやけど、『顔剥ぎ』はえらい剣呑なバケモン連れとって、犠牲者は生きたまま食べられてまうんやと」

 「遺体は、顔が剥ぎ取られているか、身体の一部だけ見つかっているんだっけ」

 「らしいですわ。ホンマ、怖い」


 自分で自分を抱きしめるように腕を回し、チェさんは首を振った。さっきまで赤かった顔からは血の気が引き、ぶるりと震える。


 「ほんで、お姐さん、同じ臭いをさせている奴を見つけた言いまして」

 「…その、その人がほんの少し前に嘔吐した可能性もあるんじゃ…」

 「へえ。それも言うたんやけど、違うって。酔っぱらい相手に何年も商いしとるんやから、人の出したもんとバケモンの差はわかる!言うてはりますのん。確かに、お姐さん、えらい鼻の利くおひとなんやけど」


 犠牲者の全身が見つかっていないのは、魔獣に食わせているから…と言うのは、確かに理由としてはありえる。

 ただ、大人一人をほぼ食い尽くすような魔獣を飼育していたら、絶対に見つかるけれども。

 飛竜は人を食べないけれど、もし食べるとしても一頭で一人は絶対に無理だ。

 つまり、それが出来るってことは、飛竜よりも巨大な魔獣を大都で飼育し、さらにその魔獣を連れてサライまで移動する…って事だからな。

 

 嘔吐物の臭いがしたってことは、つまり、酸の臭いだよな。強力な胃酸で対象を溶かして飲みこむ…となると、それこそオルゴイ・ホルホイくらいしか思い当たらない…


 頭の片隅で、ぴん、と音が鳴ったような気がした。


 「チェさん」

 「はい?」

 「そのお姐さん、絶対に動かないよう、なるべく早く伝えて欲しい。できれば、明日にでも」

 「あ、はい。断事官様も動いとるんやし、おとなしゅうしとってって、明日、言いにいくつもりですわ」

 「良かった。俺も、時間が出来たらすぐに動く。どうしても、三日間は動けないけれど…」

 

 ラスヤントの路地裏。

 ヤクモの抉り取られた剣の断面からした、かすかな酸の臭い。


 あの時、ヤクモは「人がいた、と思う」とは言っていた。

 だが、でかい獣がいた、とは言っていない。


 顔半分が無くなった破落戸ごろつきの死体に、魔獣使いの可能性は考えたけれど…想定したのは、人がマントの内側にでも隠して持ち歩ける程度の大きさのものだ。その程度の大きさで、酸を唾液と共に分泌し、人の頭半分くらいを食い千切る魔獣なら、いくつか挙げられる。


 だけれど。

 もし。あの時、ヤクモが遭遇したのが、『顔剝ぎ』だったとしたら。


 まだ、仮定にも至っていない、ただの閃き。

 だが、閃きは決して、無視していいものじゃない。

 今まで自分が蓄えてきた知識、経験。そうしたものが、言語化できないままに答えへと辿り着こうとしているって事だから。

 

 「チェさんも、十分気を付けて」

 「明るいうちに、人通りのあるところだけ選んで行きますよって。ご心配、おおきに。あ、いややわ!うち、またこんな馴れ馴れしく…」

 「俺の私室にいる時は構わないよ。まあ、うるさい人もいるから、他の場所では気を付けてね。怒られちゃったら申し訳ないし…」

 「やっぱり、ご兄弟どすなあ。テムル様と同じこと、言うてはる」

 

 チェさんの表情が、柔らかく緩んだ。

 その微笑みにつられるように、知らず知らずのうちに握りしめていた右拳が、緩む。


 人一人を食いきる、もしくは、溶かし尽くすほどの酸を持ち、それでいて小型の魔獣…は、思い当たらない。

 けれど、俺は、俺たちは、黄金月の夜に目の当たりにしたじゃないか。

 

 人が、人ならざる者に変貌する様を。


 もちろん、それは最悪の想定だ。

 そうじゃなくて、新種の魔獣を手に入れた馬鹿が給餌をしているだけかもしれない。


 だが、どちらにせよ、『顔剝ぎ』を放っておいていい理由にはならない。

 それに、もし…本当に、黄昏の君の眼がこの大都に潜んでいるのなら。


 それを見つけ出し、叩き潰すのは、俺の役目だ。

 

 窓の外は夕暮れも終わり、黄昏の青い闇に満ちている。

 その向こうへと目を凝らし。


 知らず知らずではなく、ぎゅっと意志を込めて、再び右拳を握り込んだ。

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