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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
62/89

羊肉は熱いうち(善は急げ)5

 吐き出した白い息は、すぐに夕闇に消えていく。


 (そろそろ、マフラーを口まで上げた方が良いかもしれない。鼻の下が凍るな)


 そんな事を考えながら、シドは荷車から米の入った麻袋を担ぎあげる。

 アスランの冬は二回目。決して慣れてはいないが、対処法は学んだ。


 倉庫には同じ米袋が十袋は積まれているものの、それでも持つのはせいぜい三日というところ。

 米はアスラン全域で食べられている穀物だが、アスランでは収穫できない。カーラン南東部のトンクー地方や、メルハ諸王国からの輸入に頼っている。

 

 鈴屋の米を仕入れてくるのは三つの商会だが、大都でも規模の大きい商会とは言え、一度に質の高い米はそう多くは入らない。

 だから入荷したと聞けば、こうして日が落ちる寸前でも買い付けに行くし、帰路で略奪に合わないよう、傭兵であるシドも同行する。


 ついでに積み下ろしを手伝うのも、当然の流れだ。

 それを不満と思ったこともないが、米の数を数え、帳簿に書き記していた番頭は気になったようだ。

 人の好さそうな…実際、いい人だとシドは思っている…顔を、寒さと申し訳なさに顰めさせながら、まだ残る米袋に向かおうとしたシドの前に立ち塞がった。


 「悪いねえ、シドちゃん。まだ疲れてるだろうに、手伝ってもらっちゃって」

 「いや…特にやることもないし、疲れは取れているから」

 「若いっていいねえ…でも、こっちはもう大丈夫だからさ。賄い食べといで~」

 「ありがたい。腹は限界寸前でした。これを運びがてら、食ってきます」


 今夜の賄いは何だろう。

 美味い飯屋は、当然ながら賄いも美味い。黄天餐館で食べた高価な食事も勿論美味かったが、あれと鈴屋の賄いを比べても、甲乙つけがたい。

 いや、あんな豪華な飯を毎日食うのは、それはそれでしんどそうだから、そう考えれば毎日食べたい鈴屋の方が…などと考えていると、腹の虫が主張を始めた。


 倉庫から酒甕を抱えて厨房に向かう。いいのに~と番頭は言っていたが、ついでなのだから何でもない。


 魔導燈が浩々と夕闇を追い払う鈴屋は、すでに満席だ。

 今夜は貸し切り用の小部屋までは埋まってないので、賄いはそちらで食べるようにと、皿に賄いを盛りつけながら厨房担当が教えてくれた。

 

 酒甕の代わりに今夜の賄いの皿を受け取り、シドは靴を脱いで小部屋へ向かった。

 昼に働きにくる給仕たちは既に帰宅し、夜の給仕たちの休憩にはまだ早い。おそらく、自分が一番乗りだろう。


 皿の上には、挽肉を型に入れて焼いた肉料理と、握られて楕円形になった米が乗せられている。

 肉からはたまらない芳香が漂い、米は白く艶やかだ。この美味い飯が無料で食えるのだから、米袋くらい幾つでも運ぶ。


 ああ、美味そうだ。一刻も早く口に入れ、思う存分味わいたい。

 そう思いながら小部屋に到達し、入り口に垂らされた布をまくって室内へと足を踏み入れた。

 

 「あ」

 

 床に敷かれた魔導具が温めている部屋には、小さな卓袱台が置かれている。

 客がこの部屋を使う時には、熱い茶の入った薬缶が鎮座する。

 そうしておけば、床に置かれた薬缶をうっか蹴飛ばして、熱い茶をぶちまけることもない。鈴屋だけでなく、座敷に客を通す店では大抵備えられているものだ。

 

 だが、今は薬缶ではなく、「鈴屋の孫」の一人が、肘を乗せて頬を支えるのに使っていた。


 「どうした?マシロ」

 「うん。ちょっとな。お前と話がしたくて」

 「そうか。食いながらでもいいか?」

 「もちろん」


 マシロはシドにとって、大都で初めてできた友人だ。

 というか、マシロの口利きで鈴屋を住処とした、と言ってもいい。


 サライで亡命を求めた後、トールにこれからどうするか、とは聞かれた。

 セスの王族としての待遇を求めるのなら、アスランにそれなりの貢献をしてもらう必要がある。そうではなく、アスランの民として生きていきたいと言うのなら、一時金の支給があるが、どうするか、と。


 悩むまでもなかった。

 姉も自分も、王族としての待遇など求めていない。

 それに、アスランに貢献と言われても、何ができるか想像もつかなかった。


 幸い、アスランも傭兵の需要は多く、働いて食っていくのに困ることはなさそうだった。

 言葉を覚え、習慣を覚えるまでは一時金で暮らし、あとは傭兵稼業を続ける。そして、身体が動かなくなる前に他に何かできることを探す。

 そう告げると、それなら大都に来い。仕事をひとつ、与えよう。そう言われて、大公路を伝って大都にやってきて。


 そしてトールから与えられた仕事と言うのが、マシロの護衛だった。


 マシロは何かを探っているらしく、その道中の護衛と隠れ蓑と言うのが、シドとガラテアのアスランでの初仕事だ。

 どこぞか西方からやってきた貴族の姉弟の案内人、という名目でマシロは動き、戦う必要があれば、剣を振るうのはシドがやる。

 貴族らしく振舞うのは姉に任せておけばいい。実際にはお姫様だったころからそれらしい「振舞い」は苦手な人だが、黙って立っていればあれ以上に「らしい」人もいない。


 マシロの仕事内容について、最後まで何を探っているのかは聞かなかった。

 言う必要があれば話してくれるだろうし、そうでなければ、仕事の上で必要のない情報という事だ。


 聞く必要のないことは仕入れない。

 それは傭兵の処世術の、初歩の初歩だ。


 それはそれとして、その二月ほどかかった仕事で、すっかりマシロとは仲良くなった。住むところもまだ決めていない、と話すと、それならうちに住み込んだらどうだ、と紹介されたのが鈴屋である。

 後になって、実はトールに「所在を常に把握できるようにしておけ」と命じられたのだと、すまなさそうに打ち明けてくれたが…友諠は決して命じられたものではないと、シドは信じている。


 卓袱台の隣に腰を下ろし、皿も置くと、マシロは持ってきていたらしい保温瓶を持ち上げ、椀に茶を注いでくれた。有難く受け取り、さっそく握り飯に食らいつく。

 米はアスランに来て初めて口にした。蛸の卵かと思って敬遠していた頃が、ずいぶんと懐かしい。今では好物のひとつだ。


 肉料理も控えめな調味が肉の味を存分に引き出し、口に入れれば肉汁と共に溢れ出す。そこに握り飯を放り込めば、思わず頬が緩んでしまう。

 ニヤニヤしながら飯を食う、と言う姿勢は、なんだか悩んでいるらしい友人の話を聞くにはやや不向きな気もするが、大目に見てもらおう。


 ニヤニヤしたままマシロを見ると、僅かに視線がそらされた。

 別ににやけ顔が気持ち悪かったわけではないらしく、斜め下に視線を向けたまま、マシロは何度か躊躇った後…口を開いた。


 「シドは、クロムにも会ってるよな?」

 「ああ、共に旅をしてきた」

 「戦っているところ、見たか?」

 「途中、水賊に襲われた船を援けた。その時に」


 船酔いする癖に、あの時は船の揺れなどものともせず、右に左に賊を切り捨てていた。相手が弱かったというのもあるが、なかなか見事な動きだったと思う。


 「どうだった?」

 「一流の戦士と言って良いと思う。俺も、偉そうに品評できるような、大した戦士じゃないが」

 「シドより強い?」

 「…わからん。クロムも、実戦向きの剣しか使えないように思える。だから、どちらが強いかわかった時には、敗者は死んでいる。それをあえてやろうとは、俺もアイツも、思わないんじゃないか」

 「実戦向き、か」


 シドが最初に習った剣技は、実戦向きというよりは試合で優劣をつける剣だった。

 だがそれが、傭兵として生きるために役立ったかと言えば、難しいところだ。


 敵は教本通りの動きをしないし、試合なら反則負けになるような事もなんだってする。もちろんそれは、自分も同じだ。傭兵がお綺麗な剣を振るう必要はない。

 それが有効だとも思えば泥を掴んで投げることもするし、一旦逃走したと見せてからの不意打ちだって得意だ。


 だが、そうした実戦の為の剣技を鍛えていくと、今度は試合の為の動きが出来なくなる。

 自然に剣筋は、致命傷もしくは動きを完全に止められる場所を追い狙い、隙を見れば身体は勝手に致死の一撃(クリティカル・ヒット)を放つ。

 

 実戦同様の動きをして、なお相手も自分も死なずに済むには、ある程度以上の差が必要だ。

 もしくは、今以上の経験を積んで、自分の動きを完全に制御するか。


 前者はトールを相手にした手合わせであり、後者はユーシンとヤルトミク将軍の試合がいい例だろう。

 己とクロムでは、そこまで強さに差がなく、そして互いに、ユーシン達ほどの実戦経験を積んでいない。

 いやむしろ、自分たちより年若いのに、あそこまで動けるユーシンが特別なのだ、と言いたいところだが。


 「学校の実技では、どちらかと言えば下の方だったとサモンが言っていたが…そうなるだろうな。いつも通りの、身体に染みついた動きをすれば相手を殺してしまう。そうしないように動くとなると、どうしても鈍る」

 「それはクロムも自分で言っていたけれど、負け惜しみだと思っていたんだよなあ」


 友人の顔に浮かんだ笑いを分類するのなら、「自嘲」というカテゴリーに入れておくのが相応しいだろう。

 

 「私はさ、今じゃ包丁振るうのが精いっぱいだけれど、子供のころから剣術武術を習っていたし、学校の成績もかなり優秀だったんだ」

 「だろうな」


 マシロの指には、今でも剣胼胝が残っていた。相当の時間を鍛錬に費やした証だ。たった二年では消えないほどに、しっかりと刻まれている。


 「でも、いざ実戦となった時…情けないくらい、動けなかった」

 「…初戦なんて、そんなものだ」

 「私も、同じ立場で悩んでいる後輩がいれば、そう言うと思う。けど、愚かにも自分はそうならないって、思いこんでいたんだよな。あの日の私は」

 

 マシロの初戦について、ある程度は聞いていた。

 アスラン辺境の、気候も何もかも違う地での戦い。しかも、罠にはめられて奇襲を受けた状態だったと。

 その状態で、いつも通りに動けるものの方が圧倒的に少ないだろう。今のシドでも、死なずに逃げられれば自分を褒める。


 「でも、本当に何もできなかった。周囲で旧友たちが殺されていくのを、武器を構える事すらできずに見ていた。情けない事に、今でも自分の前に何人立っていたかもわからないんだ」

 「俺も初戦の時、百人くらいに囲まれたと思っていたが、父に教えられたところによると、たった五人だったそうだ。恐怖と混乱は敵の数を何倍にもすると言われた」

 「でもシドは、今も戦っているだろう?」

 「傭兵だからな」


 いや、もうしばらくしたら、冒険者になるのか。

 オオトカゲを狩るのが主な仕事だとファンは言っていたが、それでも楽しみだ。

 『迷宮』を抱えるセスに生まれた子供は、みな竜殺し(ドラゴンスレイヤー)に憧れる。

 はるかにスケールが小さいとは言え、オオトカゲ退治だってその第一歩みたいなものだろう。


 「私は…駄目だった。あの夜の妙に生温かい空気…あの熱の源が、周囲で死んでいく仲間たちの血や内臓だと理解した瞬間、完全に恐慌状態に陥った」

 「…そうか」

 「今だに悪夢を見るほど引き摺っている…あーあ。昔、思い描いていた自分は、そんなのじゃなかったのにな」


 マシロが悪夢に苛まれているのは、知っていた。

 仕事を共にこなした時、短い悲鳴と共に飛び起きていたのを見ている。


 「…どんな、夢なんだ?」

 「私は、土に埋まっている。剣を抱いているけれど、動けないし、抜けない。それでな、すぐ近くで人が腐っていくんだ。それを私は土に埋まっているのに見ていて…」


 動けない、抵抗できない自分。

 人から肉の塊に変わっていく友人たち。


 「それを、猿の群れが見ている。そういう夢。まあ、猿はきっと、敵兵なんだろうな。何せ、顔も装備も思い出せないから、猿になっちゃうんだろう」

 「よく、見るのか?」

 「ここ一年はそうでもなかったんだけど。昨日、久々に見たよ」

 「俺も、初戦の後は良くうなされた。戦わなければと思うのに、剣も何も持っていない。それどころか、下着だけでな。水の中にいるように動けない」

 「今も?」

 「稀に。そういう時はたいてい、熱が出たりしている」

 

 それは慰めの戯言でまかせではない。本当の事だ。

 初めて戦場に出た頃のように毎日ではないが、体調を崩すとほぼ確実に見る。

 もっとも、シドが体調を崩すこと自体が滅多にない事ではあるが。


 「クロムは…そういう事、ないんだな」

 「初戦の話は、聞いていないが…悪夢に悩んでいる様子はないな」


 一度、がばりと跳ね起きた時はあるが、その時見ていた夢は、ひたすら青臭い野菜を食え食えと責められる夢だったそうだ。


 「死の恐怖の克服は、トールが最重要視したようだ。それが功を奏しているんだろう」

 「そうだな。クロムの『特訓』の内容を知った時には、まだ子供に何しているんだコイツは!と思ったもんだけど…必要だったんだな」

 

 もう残り僅かになった夕食を噛み締めながら、シドは頷いた。

 むしろ、実戦に放り込む前に「安全な」場所で死を教えるというのは、過保護と言い換えられる。

 通常は本物の死を真横に張り付かせながら、一口一口取り入れ、克服するものだからだ。


 シドも初戦では、衣服と装備を盛大に汚した。

 吐きながら剣を振るい、漏らしながら逃げ、泣きわめきながら「敵」を殺した。

 陣地で裸になって服を洗っている間、ずっと泣いていたのを覚えている。

 汚した自分が情けなく、それ以上に、今生きていることに安堵して。


 二回目になると、汚し方がマシになった。

 三回目は、吐くだけになった。

 四回目は、泣くだけになった。

 五回目からは、震えるだけになった。


 そして、何度目か忘れたが…生き残れたことに安堵する。それだけになった。


 強い相手と戦い、自分の腕を確かめるのは楽しいし、好きだ。

 けれど、人を傷付け、殺すこと…それに慣れられても、楽しいと思う日は一生来ないだろうし、来てはいけないと思っている。

 それでも、己の手で人の命を終わらせることを躊躇う事も、嫌悪することもない。必要と判断すれば、そうするだけだ。


 それは、戦士としては最低限必要な資質ではある。

 自分は、無理矢理にではあったが適合した。胃液の味と自分の漏らしたもので汚れた服から立ち上る悪臭は、一生忘れられないだろう。

 けれど、手は今も剣を握り、足は戦場を駆け抜ける。


 けれど、どうしても馴染めず…地面にぶちまけられる側になったり、酒や薬で誤魔化そうとして、汚泥のように死んでいく者もいる。それも、知っている。


 マシロの初戦がもう少し丁寧なものであれば、シドのように適合できたかもしれないし、結局、志を折ったかもしれない。

 だが、いまさら「もしも」を持ち出してもどうにもならないだろう。


 自分が折れたことを、何よりも誰よりも、マシロ本人が理解し(わかっ)ているのだから。

 

 「クロムにさ」

 「ああ」

 「置いていかれたなって、さっき、痛感した。クロム、身体が他の子より小さくてな。気は強いけど、泣き虫で…どこかで、守護者になるなんてムリだって、そう思ってたんだな。私は」

 「その昔の話、本人に聞いてみたら楽しそうだ」

 

 あまりつつくと、腹いせにヤクモを苛めそうだから加減をせねば。

 そんなことを思えば、自然と口はにんまりと弧を描く。少しでも、苦い言葉を吐くマシロが楽に話せるように、せめて自分は笑っていたい。


 「なんか、随分とあいつらに馴染んだみたいだな」

 「一月も共に旅をすればな」

 「それもそうか」


 そう言ってマシロは笑ってみせたが、どうにもその笑みには翳りがある。

 弟分に抜かされたショックで片付けるにしては、陰は濃く、気のせいで済ませるにはあまりにも暗い。

 

 「…どうかしたのか?」


 最後の一口をかみ砕き、飲み込んでから、シドはその翳りについて問うてみた。

 元来、人の心の機微などに敏い方ではない。というか、疎い。だが、友人が顔を暗くしているのに、暢気に食後の茶を啜っていられるほどでもないのだ。


 言いたくないのなら、言わなくてもいい。

 けれど、言って楽になるのなら、口にしてほしい。

 どっちにしろ、自分に有効な助言などできない。それでも、口にして吐き出すだけで楽になる、という事はあるのだし。


 マシロは一瞬、呆けたようにシドを見つめ、それからゆっくりと、首を振った。


 「そんな弟分を…騙そうとした。いや、騙している。それが、喉に引っ掛かった魚の骨みたいに痛むんだ」 

 「…それはお前の、仕事に関する事か?」

 「ああ。だけれど、騙さなくてもどうにかなることなんだよ。…それに、もし、最初の下策が成功していたら…私はあいつに、二度と顔向けできなかった。せめてそれだけでも、失敗してよかった」


 下策は失敗したが騙している…となれば、何か他の策は遂行中なのだろう。

 マシロが星龍親衛隊の諜報官だという事は知っている。

 諜報官は、影の仕事だ。

 騙す、欺くは当たり前。友人知人は勿論 、親類縁者でさえその目を晦まさなくてはならない時もあると聞く。

 

 それは戦場で剣を振るうのと、どちらが過酷なのかと問われれば…即答できるのは、おそらく戦場に出たことも、影の戦いに身と投じたこともない者だけだろう。


 「お前は戦えないというけれど、俺は違うと思う」

 「え…?」

 「武器以外のものを握っているだけで、アスランの為に戦っているだろう。クロムを騙して心が傷付くのも、戦で敵に斬られるのも、大差はない。そう思う」


 危険がない、とは絶対に言えない。現に、マシロの護衛として自分たちは同行した。幸いにして、雇い主(トール)が警戒していたような襲撃はなかったが、それはあくまで結果論だ。


 「俺やクロムのように戦うことが、マシロにはできない。けれど、マシロのようにすることは、俺たちにはできない。だから、マシロは今も戦っている」


 もし、セスがもっと「諜報」を重要視していれば。

 あの日の奇襲を、事前に察知できていれば。せめて、クラナッハ王国が兄弟の誓いを破る気だと掴んでいれば。

 もしかしたら…セスはまだ、滅んでいなかったかも、しれない。


 それこそ、今更考えても仕方のない事だ。

 だが、「もしも」に意味がなくても、諜報と言う任務が重要なことは変わりない。

 むしろセスの滅亡という結果が、その重要性を証明している。


 「…優しいなあ。シドは。それにやっぱり、シドは…」

 「ん?」

 「いや、過保護だなって」

 「そうだろうか?」

 

 マシロは笑って頷いた。おそらく顔には、穏やかな笑みが浮かんでいて、悩みをひとつ吹っ切った、そんなスッキリした表情になっているだろう。


 だから、もうひとつ…思わず口にしそうになった本音は、隠し通せたはずだ。


 本当はな。クロムから『紅鴉の爪』を騙し取ることを、すごく軽く考えていたんだ。

 クロムは「弟分」で、私のいう事を聞くのが「当たり前」で。

 だから、ちょっと脅して騙しても良い。そう思っていた。


 だが、それが上手くいきそうになった時。

 クロムの顔から、一瞬で血の気が引いた。


 死人のように青褪めたクロムを見た時、あの夜、一瞬のうちに生者から死者へと変わっていった仲間たちを思い出した。

 

 『紅鴉の爪』にまつわる伝説を、知らなかったわけじゃない。

 けれど、信じてもいなかった。

 だが、あのクロムの顔を見た時、伝説は真実だと。


 つまり、クロムを殺す寸前だったと、理解した。

 

 自分の傲慢が、思いあがりが、幼馴染を殺してしまっていたら。

 そこに思い至った時、体温が急激に下がるのを感じた。


 下がった体温の事は伏せて、クロムには謝罪したが…怒ることすらしなかった。

 いっそ、本心からぶちまけて、軽蔑の眼差しでも向けられた方が楽になれたかもしれない。


 全くの他人なら、もっと冷酷になれる。

 それは、その「他人」の後ろや横にいる人々を知らないからだ。どれほど憎まれても恨まれても、それは単なる文字の羅列であり、情報に過ぎない。


 けれど、親しい間柄なら。周囲全てが情報ではなく、血の通った人間だ。

 

 自分はやはり、人の上に立てる人間じゃない。

 士官学校にいたころは、二十代には千人長と思っていたものだが、今思い出せば頭を抱えたくなる思い上がりだ。


 将の役目とは、兵に死ねと、殺せと命じる事。

 自分の命ですら失いかけて心が折れたというのに、自分の判断の誤りひとつで多くの兵が死ぬという現実に、耐えられるはずもない。


 それが当たり前のように出来るのは…。


 思い出すのは、朝日の髪と満月の眼を持つ親子の事。

 考え方も在り様も、根本から自分とは違うのだと思い知った時の事。


 「しみったれた話を聞いてくれてありがとう」

 「大したことはしていない」

 「そうでもないさ。じゃあ、私は部屋に戻る。仕事を持ち帰っているんだ。そうそう、結局クロム、サモンの部屋に泊まるらしい。いても驚かないでくれ」

 「わかった。俺も皿を戻して、部屋に帰る」


 じゃあ、一足お先に、とマシロは小部屋を出て自室へと足を向けた。

 自室には先ほどまでクロムがいたが、今は当然無人だ。


 部屋の隅にある箪笥の前に膝をつく。

 抽斗ごとに彫られた模様が違う箪笥は、一定の順番で取っ手を押し込むことで、隠し棚が押し出されてくる。

 中にしまってあるのは、金で造られた龍が嵌め込まれた、蒼い軍牌。


 「オドンナルガ」


 その龍に指を添え、呼びかける。

 

 『どうした?』

 「少々、計画を急ぎます。その報告を…」

 『うむ』


 伝声軍牌ケタイ・ヤルリクに向かい、マシロは現在の状況と第一工房長の「依頼」について、説明を始めた。


***


 「そうか…その時には、俺も行こう。何かあれば、その場で処せるようにな。ああ、後、シンクロウについては心配するな。フタミが首尾よくやってくれたからな。安心して眠れ」


 そう伝声軍牌に、その向こうのマシロに伝え、トールは流していた魔力を切った。

 

 大工廠第一工房の汚職については、半年以上かけて調査をしている。

 あの男が工房長となってすぐに、「製品の数がおかしい」という報告は上がっていた。

 しかし、その差は「工房長が変わったから、生産性が一時的に落ちている」と言われれば、それもそうか、と納得する程度の差でしかない。

 だからと言って、見過ごすことはできない。報告してきた書記官は有能な官吏だ。その彼が偶然ではないと判断したのなら、調べた方が良い。


 そして目をつけたのが、マシロである。

 大きな挫折と敗北を知ったものは、表面が綺麗に見えても中身が折れて腐っている危険があることを、トールは良く知っていた。


 マシロは、腐らせるには惜しい。

 ならば一度、完全に切り倒し、新しい芽を伸ばす。


 その為にトールが知る最高の密偵であるフタミにも協力を要請し、騎士ではなく諜報として育てなおした。

 幸いと言うか、マシロには諜報としての素養があった。

 そして、諜報の仕事を影の仕事だ、汚い戦いだなどと蔑むことなく、熱心に取り組み、教師であるフタミが本気で弟子にと勧誘するほど、実力をつけて行った。


 そうしてマシロを密かに鍛えなおし、大工廠に送り込み、ようやっと不正の尻尾を捉え始めたのが二月ほど前。

 

 「長かったが…マシロを育てなおす機会と思えば、むしろこのくらい時間をかけて正解だったやもしれんな」

 「フタミのにーさんも、マシロくんのこと、褒めてたもんねえ」

 「本気で御史台にとられないよう、注意せねばな」


 床で転がっている守護者に向けて頷きながら、トールは伝声軍牌を箱に収めた。

 

 通常、政務は午前中のみだ。午後には軍務にあて、それも後四刻には終了する。

 その後は、後宮の自宅である星龍宮に戻り、自由時間…と言うのがトールの毎日である。

 もっとも、一年のうち五分の三くらいは政務も軍務も終わらず、夜になっても星龍府で死んだ目をしているが。


 今日は何しろ弟が食事に誘ってくれ、その後も素晴らしい時間を過ごせた。

 いかに仕事が残っていようと、急務でなければ後回しにしたところで問題は何一つない。ないと言ったら、ない。弟との時間より優先するような急務など、ごくごく僅かなのだから。


 その素晴らしい時間も『ごくごく僅かな急務』により強制的に終了したとはいえ、弟の声も体温の暖かさも、記憶にしっかりと残っている。今日はいい夢が見られそうだ。


 そんなわけで、現在トールがいるのは、星龍宮である。

 星龍宮への側近たちの出入りは自由ではあるが、絶対定刻退勤死守のサモンだけでなく、守護者として同居しているウー老師も「妓楼の灯りが末将それがしを呼んでおりますゆえ~」と弾んだ足取りで去って行った。

 その灯りに引き寄せられれば、今年のつけの支払いと言う劫火が待ち構えている気もするが、まあ、それはそれ。そこまで部下の私生活に干渉する気はない。 

 

 もう一人の側近である親衛隊長ラーシュも、きっちりと仕事を終わらせて帰宅している。

 最近、軍の再編成などを任せっきりにしているが、それに対してどこぞのスットコドッコイのように文句を垂れ流すこともなく、「大きな仕事を任せてもらえるというのは、むしろ名誉ですからね」と微笑むラーシュは聖人なのかもしれないと思う。


 「なんかご機嫌っすね」

 「若帰ってきてるしね~。でも、殿下がニコニコだと、俺も嬉しーよー」

 

 寝転がるマルトの横で、しろは「そーゆーもんすかね?」と首を傾げているが、一応反論するつもりはないようだ。

 アンタには雇われるけど、仕えるつもりはないっす、と断言しているしろらしい。

 そう言いつつも払った金額分以上の働きをしてくれる密偵の少年について、失礼な物言いを咎める気はない。この程度で血圧をあげていたら、三日と持たずに血管が破裂して憤死する。


 その時の下手人は、己の守護者になるのか、サモンになるのか。どちらにせよ、カリカリするより、気にせず血圧を下げておく方が健康にも良いし、時間の節約にもなる。


 まあ、それでも、一日五回くらいは怒声を上げてはいるのだが。


 「…む!」

 「どしたんすか?」


 急に真剣な顔で窓へ…その先の露台へと早足で歩み寄るトールに、マルトとしろは視線だけ向けた。立ち上がったりする気はないらしい。


 「弟の…気配!」

 「うわきも」


 背後から聞こえた声に耳を素通りさせ、トールは露台に面した戸を開け放った。夜に覆われ、寒風の吹きすさぶ露台へと踏み出す。

 室内着では太刀打ちできず、急速に体温を奪い去る風に眉を顰めさせつつも、夜の先に目を凝らしまくる。


 星龍宮は、基本的に護衛の騎士をほとんど置いていない。

 アスラン王宮の後宮に忍び込めるような手練れの暗殺者と、その存在に気付いていない騎士が遭遇した場合、間違いなく殺されるのは騎士の方だ。


 むろん、一人二人が犠牲になったのち、その暗殺者は制圧されるだろう。

 しかし、制圧できたからと言って、その一人二人は生き返ったりはしない。それは、大きな損失である。


 なら、来るものを拒まず、だ。

 入り込み、トールの傍へと寄ってきたところを討ち取る方が効率がいい。


 その為に、「暗殺者を殺す暗殺者」であるマルトがいるのだ。それに万が一…いや、その万が一を万重ねてマルトを躱したとしても、その先にいるのは、アスランの雷神である。

 そうやって手練れの暗殺者をコツコツと減らしておけば、アスランの治安維持にもなるし、とトールは思っているし、今のところ何の問題も起きていない。


 なので、目を凝らした先に、巡回する騎士はいない。

 だが、一騎、確かに駆け寄る騎馬の陰。


 「弟ぉおおお!!弟よ!!どうした!兄に用か!すぐそちらに行く!!」

 「来てもらいたいけど、まずは上着着てよ兄貴!見てて寒い!」

 「案ずるな!弟への愛で、寒さなど微塵も感じぬ!」

 「間違いなく、キモっ!って思ってるっすわ」

 「弟はそんな事思わぬ!!」


 後ろから、ぼふりと外套が掛けられた。半分振り向くと、しろは夜風が攻め込まない部屋の中央付近におり、そこから外套を投げかけたものであるらしい。


 「若、何のご用事だろーねぇ?」

 「おお、そうだ!弟よ、どうしたのだ!!」

 「いや、夕飯、紅鴉宮うちで食わないかって、誘いに」

 「今すぐ行くぞ弟よ!!」


 言うが早いか、露台の柵を蹴って駆けつけようとしたトールだったが、中途半端な姿勢で固まる。

 その手足には白く輝く糸が巻き付いており、それはマルトの手に繋がっていた。


 「寒いからねー。ちゃあんと、お着替えして、靴と靴下履いて行ったほうがいいよお」

 「そっすね。紅鴉宮の皆さんに、そのクソダサ部屋着見せる気っすか」

 「む、む…」


 現在着ている部屋着は、母が買ってきたものだ。白地に苺の模様が編みこまれた毛衣セーターで、ふわふわとした肌触りは悪くない。

 

 「似合っているから~…良いと思うけど、外出るには寒いよお」

 「うむ。それもそうだ。では、着替えている間弟も寒い!中でもてなさねば!」

 「完全防寒してるっすよ」


 宮の壁に取り付けられた魔導燈に照らされるファンは、帽子をすっぽりと被り、首巻も鼻から下を覆っている。

 毛皮のマントの下には、当然外套と分厚い毛織物で造られた胡服を纏っているだろう。

 

 「良いからはよ着替えるっす。おじさんはついて行くんすか?」

 「んー…若んちなら、いいかなあ。寒いし」

 「うむ。待機していて構わん」


 部屋着を豪快に脱ぎ捨て、一度下着だけになって、トールは衣裳部屋に躍り込んだ。

 速やかに一番近くにあった服一式…つまり、明朝、家畜の世話をするときに着ていくようにと侍従官が用意していた服を着こんでいく。


 「よし!」

 「若、馬だけど、殿下も馬で~?」

 「コロならば俺がもう一人乗っても問題あるまい。では行くぞ弟よ~!」


 靴まで履きこんで衣裳部屋から駆け出し、その勢いのまま露台から飛び降りていく一太子を、守護者と密偵は視線だけで追った。

 外から「ちょ、兄貴!普通に出てきなよ!」「おとうと~!!」と言う声が聞こえてきたが、それも気にせずパタリと戸を閉める。


 「あれっすね。馬がないって口実で、紅鴉宮泊ってくる気っすね」

 「だねえ」

 「侍従官長さんらに、あのおっさん今日は帰ってこないって伝えてくるっすわ」

 「ありがと~。じゃあ、俺は、一昨日来た人とおしゃべりしてくるねえ~」

 「了解っす。まだ黙ってるんすか」

 「そろそろかなあ。寝かせてないからねえ~」


 外からの声が遠ざかっていく。なんだかんだで兄の奇行に寛容な弟は、二人乗りで愛馬を走らせることにしたのだろう。

 ちらりと見た感じ、鞍も手綱も付けていなかったようだが、その程度で騎行に支障がある二人ではない。

 せいぜい、ファンがちょっと嫌な気分になってスンとするくらいだろう。


 「じゃ、お報せ終わったら見に行くっすわ。見に行くだけで、何にもしないけど」

 「いいよお~。俺も一人だと寂しいしい」

 

 それじゃまた後で、と軽く手を振りあい、守護者と密偵はそれぞれ目的地へと散っていった。


***

 

 「寒くはないか、弟よ!」

 「大丈夫だよ」

 

 見掛けよりずっと重いトールと二人乗りしていても、愛馬は気にした様子もなく夜を駆けていく。

 これで後ろにいるのがクロムなら、いつもより「少しだけ」荒い走りをするのだが、懐いているトール相手にはしないようだ。


 「あのさ、兄貴」

 「うむ」


 トールを「夕飯を一緒に」と誘ったのは、当然ながら現在紅鴉宮に招いている弟たちについてだ。これからどうするか相談するためである。

 その母たちを責める権利は、ファンにはない。つい先日、太い釘を打ち込まれたばかりだ。


 だが、ファンが弟たちと交流を深めることを邪魔立てする権利もまた、夫人たちにはない。

 弟たちがそれを望み、兄が受け入れていることを夫人らが阻むのであれば、不敬だと咎める事も出来よう。


 しかし、ファンは年が明ければアステリアへ再び旅立つ。

 エルデニと言う保護者のいるテムルはともかく、フレグが危険だ。


 両親に現状を伝えて、母に養育してもらう事もできる。

 だが、つい先日第二夫人を廃したばかりなのに、次は第四夫人から子を取り上げるのは、貴族派の勢力を削ぐ腹積もりだ…と反発されるのは目に見えていた。


 それなら、トールに目を光らせておいてもらった方が良い。何より、弟への愛情を分割してもらいたい。


 「今ね、テムルとフレグが、うちにいるんだ」

 「…それは、二人の意思でか?」

 「うん」


 紅鴉宮まで、馬で駆ければ…まして跨るのが名馬であれば、あっという間だ。ファンは珍しく簡潔に、弟たちの状況を説明した。

 

 「…ふむ。そこまで拗れていたか」

 「ああ。厄介なことにね」

 「事情はよくわかった。さすが弟だ。実に簡潔に、要領を得た説明だった」

 「ええっと…まあ、ありがとう?」


 普段ならそこからさらに褒めを重ねていくトールだが、その口は閉ざされている。

 流石の兄貴も、考え込む事態だよなあと思いつつ、ファンは見えてきた紅鴉宮の灯りに、愛馬の足を緩めた。


 「俺、コロの汗を掻いてやるからさ。兄貴、先行って晩飯作り初めて貰ってていい?」

 「無論だ弟よ!」


 速度の落ちた馬の背から、トールは事も無げに地上に降り立った。ファンはそのまま夜に馬を入れておく囲いへと、コロの足を向けさせる。


 「材料はもう厨房で用意してるから、よろしく~」

 「兄に任せておけ!弟は安心してコロの汗を掻いてやるのだぞ」


 汗をかかせたままにしておけば、夜間の冷え込みで凍り付き、馬の体力を奪って死に至る場合もある。

 全力疾走したわけでもなく、コロからすれば小走りに少しだけ走った程度ではあるから、それほど汗はかいてはいない。

 だが、だからと言ってしないわけにはいかない。汗掻きは、馬への感謝と愛情を伝える行為でもあるのだ。


 勝手知ったる玄関へと進めば、火炉(ストーブ)を囲んで騎士たちが談笑していた。置かれた椅子に腰かけ、干し肉などを炙っては食べている。

 そのお供が酒でないと言う一点をもって、大目に見てやるべきか…しばし、トールは迷った。


 「あ、オドンナルガ。お待ちしておりました。厨房へご案内いたします」

 「…いや、いい。場所はわかる」

 「そっすか」


 口へ運んでいた手は止めているが、椅子から立ち上がる気配はない。

 そのまったくトールに臆した様子もない態度は、逆に感心する。


 トールに対してもこうなのだから、弟の前にどれほどの貴人が立ち塞がったとしても、彼らは怯むことなく主の為に戦うだろう。親衛隊騎士とは、むしろそうでなくてはならない。


 だがそれでも軽く腹は立ったので、ちょっとピリピリする程度の電撃をお見舞いした後、トールは脱いだ靴と外套やらの防寒具をやってきた侍従官に預け、厨房へと足を進めた。


 ファンもトールも、料理は趣味の一つだ。ほとんど装飾や高価な設備のない紅鴉宮ではあるが、厨房だけは一級品の調理器具が揃えられていた。

 カーラン式の竈に、西方式の埋込式烤箱オーブンもあれば、石窯も備えてある…とは言え、本人が買い揃えたものではない。

 本と標本に並び、料理に関する設備や道具は、ナランハルが受け取る数少ない贈り物であるため、その歓心を買うべくあちこちの商会が献上したものである。


 残念ながら、ファンは基本的に包丁と鍋と竈しか使わないので、ほとんどの設備は新品のままだが。

 

 「む?」


 その厨房から漏れ聞こえる笑い声は、間違いなくユーシンのものだ。腹が減りすぎて厨房にまで押し掛けたのかと、苦笑しながら向かう足を速める。

 すぐにつまめるものを、何か作ってやるか。そう思いながら、厨房へと入るため、入り口にかかる布を捲った。


 「おお、トール!腹が減ったぞ!」

 「今、何かつくってや…る…」


 予想通りの顔を見つけ、トールは苦笑をそのまま向けた。

 厨房の半分は、できた料理をそのまま食べられるように絨毯が敷かれ、座布団が置かれている。

 そこに陣取るのは、予想通りユーシンだ。


 だが、ユーシンだけではない。


 「と、トールあにうえ!ごきげん、うるわしゅーございますっ!」

 「ええと…こんばんは、なのです…」


 ユーシンを挟むようにして座っていた弟たち…特にテムルが、トールを見て顔を強張らせる。

 

 もちろん、紅鴉宮にいるのは聞いている。だが、厨房にいるというのは…予想外だった。

 トールも咄嗟に顔に出たのだろう。ユーシンが不思議そうに首を傾げた。

 

 「ファンから聞いていないのか?テムル殿とフレグ殿が遊びに来ているぞ!」

 「いや、聞いていたが…ここにいるとは思っていなかった。うむ。テムル、フレグ、久しぶりだな。夏の大祭り(ナーダム)以来か」


 小さく頷く顔は、やはり固い。怖がられている。


 「どうした、テムル殿、フレグ殿。ああ、あれか!抱きしめられて煙が出るほど頬ずりされるのを警戒しているのか!安心してくれ!俺が止めてみせよう!」

 「せんわ!!あー、コホン。二人とも、腹は減ってはいないか?」


 弟たちは顔を見合わせ…二人は、母親同士も従姉妹のせいか、顔立ちが良く似ている…それから、トールを見た。

 その双眸には、怯えと好奇心がせめぎ合っている。


 しかし、こんな怯えられるような事を俺は何かしただろうか。

 些か腑に落ちないが「あまりよく知らない大人」は怖いものだろうと無理矢理納得することにした。

 正真正銘初対面のユーシンに対し懐いている様子なのは、精神年齢が近いからだろう。そうに違いない。そうであってくれ。


 「少し…すいているです」

 「あ、あの!トールあにうえは、その…おこって、ないですか?」

 「いや、怒っていないが…そんな顔をしていただろうか?」

 「トールあにうえは、きびしくて、こわいひとって、いわれたです」

 

 弟たちに厳しい視線を向けた事すらないが、確かに己は敵に対しては苛烈という評判だ。

 それで怯えられていたのかと思うと、そんな話を弟らに吹き込んだ奴の尻を蹴飛ばしたいところだが、それよりも何か一品、適当に作るべきだろう。


 弟らの存在で慌てたが、よく見れば逆に居るべき顔が一つない。


 「ユーシン、ヤクモはどうした」

 「鈴屋にお遣いだ!エルデニ殿とチェ殿も一緒にな!」

 「ふむ…では、汁物を作るくらいか」


 材料が置かれた調理台を見れば、何度も叩かれたような様子の革袋が一つと、牛乳、小麦粉の入った鉢があった。その隣の皿に乗っているのは、牛酪バターか。

 

 「肉を潰せと言われたので、やっておいた!」

 「そうか。ご苦労。ユーシン」

 

 革袋…大角羊の膀胱で造られたものだ…を開くと、中には叩かれて挽肉状になった肉が入っていた。色合いからすると、鶏肉だろう。

 匂い的に、生姜などの香辛料調味料の類を刷り込んでから叩き潰したようだ。


 「肉団子のスープ(テフテリ・ショル)か。良いな。体が温まる。だが、その前にユーシンの飢えた胃袋を何とかせねばな」

 「早めに頼む!」


 食料貯蔵庫を開けて、トールは蜂蜜と塩漬け肉、それから玉子を取り出した。さらに、調理器具が仕舞われている棚から、鉢をもうひとつ。

 牛乳と玉子を混ぜ合わせ、そこに小麦粉を混ぜていく。固体と液体の中間程度の硬さになるように量を調節し、ひたすら箸でかき混ぜる。


 既に火の入っている竈の上にカーラン式の鉄鍋を置き、牛酪を落として溶かし、全体に馴染ませてから、塩漬け肉を炒める。

 炒め終われば一度皿に出して、次に十分脂と熱に覆われた鍋に入れるのは、先ほど作った生地だ。

 生地に火が通り、薄い皮となったら中央に塩漬け肉を置き、蜂蜜を掛けてから端から中心に向かって折りたたんでいけば完成である。


 それを手早く三つ作ると、トールはユーシンに持っていくように指示をだした。


 「足りないと抜かすなよ。これ以上小麦を使うと、次の調理に差し支える」

 「わかった!」


 上機嫌に皿を抱えてユーシンはテムルとフレグの元に戻り、まずは二人にひとつずつ、出来上がった簡易包み焼き(ポーポー)を取らせている。

 その様子を微笑ましく見ながら、トールは本来の調理に取り掛かった。

 ほどなくして、トールと同じく防寒具を脱ぎ、部屋着になったファンが厨房に姿を現す。

 その満月色の双眸は、頬を膨らませて口を動かしている弟分と弟に向いた。目元がほんわりと和む。


 「お、兄貴になんか作ってもらったのか?」

 「おお、弟よ!弟の分もすぐに作るぞ!」

 「いや、俺はいいよ。もうすぐ晩飯だし」

 

 袖を捲り、洗い用の水桶で手をすすぐと、ファンはトールの横に並んで、現在の調理の進捗具合を眺めた。

 トールはせっせと肉団子を作り、小麦粉を塗していっている。こちらは兄に任せようと判断し、ファンは鉄鍋に牛酪を投入した。


 牛酪が溶けたのを見計らってから、トールがつくった肉団子をぽいぽいと入れていく。箸で転がしながら焦げ目をつけて、煮込んでも崩れない程度に焼けたら、水と牛乳を入れ、塩で味付けをする。

 肉団子に濃い目の味をつけておいてあるから、煮込めば肉の旨味と共に汁に溶け出すだろう。小さな弟たちもいるのだから、少し薄味くらいの方が良い。


 「ちょっと、味見て」

 「うむ。美味だ!流石だ弟よ!!」

 「ユーシン、テムル、フレグも。兄貴じゃ真水出しても同じことを言う」


 小皿に少しずつ匙で掬い、差し出すと、ユーシンはそれをぺろりと一舐めにした。


 「もう少し煮込むから、もっと肉の味が強くなるけどね」

 「肉も食いたい!」

 「晩飯まで待ってろって」


 小さな弟たちも、小皿を傾けて味を見ている。顔を見合わせてにんまりと笑いあっているところを見ると、悪くはないようだ。


 「…美味いか?テムル、フレグ」

 「あっ…ハイ!うまいです!」

 「おいしーです」

 「そうか」


 頭を撫でると子供特有の高めの体温が、手桶の水で冷やされた掌に染みた。

 

 「二人が赤子のころ、抱いたことがある。…大きくなったな」

 「えー、俺はないのに。いつの間にさ、兄貴」

 「一歳の祝いを持っていた際にな。うむ。本当に大きくなった」


 最初は、フレグだった。

 良ければ抱いてやってくださいませ、と擦りついてきた第四夫人ティエリアの顔は、我が子の兄を見る目ではなく、ギラギラと野心と欲望を宿していた。


 遊牧民の慣習として、父の年若い妻を息子が「相続」することは、珍しい事でも咎められる事でもない。

 もしも、トールが望めば、ティエリアの身分は「八代大王の第四夫人」ではなく、「九代大王の后妃」となる可能性もある。

 妻の相続は他国から見れば「野蛮かつ不徳極まりない」ことであるらしいのだが、それを恥じるよりも次代の后妃と言う立場に眩んだようだ。


 無論、弟を抱いただけで、トールは徹頭徹尾ティエリアに対しては、慇懃無礼のお手本のような態度を貫いた。

 護衛の騎士を下げることもなく、侍従官も従えたまま、祝の言葉を述べて立ち去った。

 扉を閉めたのち、中から喚き騒ぐ声と何かが壊れる音がしたが…フレグは既に世話役の女官が抱いて退室していたので、皆で苦笑しながら星龍宮へと戻ったものだ。


 翌日、先日お会いできませんでしたので、とルシアラ夫人から誘いが来た際には、その時の苦笑を上回るほど呆れかえった。同じように対応した後、どちらからも一切誘いが来なくなったし、弟と会うこともなんだかんだと断られたが。


 「あの…トールあにうえは、おれ達のこと、その…キライ、ですか?」

 「そんなわけはなかろう。兄は弟を慈しむものだ」


 手を頭から頬に移すと、柔らかくすべらかな感触に口許がほころぶ。


 「じゃ、じゃあ、フレグを、フレグをたすけてくださいますか!」

 「案ずるな。フレグだけではない。テムル、お前も俺が守る」

 「良かったなあ。ファン兄ちゃん、年が明けたらまた遠くに出かけるからさ。でも、トール兄ちゃんが守ってくれるなら、絶対大丈夫だ。なんたって、アスランの雷神なんだから!」

 

 ファンの言葉に、テムルは嬉しそうに笑って頷く。

 その顔に、以前から温めていた計画に組み込んでしまえと、決断を下した。


 兄は、弟の笑顔を守るもの。

 なんだかんだと周囲がそれを阻むというのであれば、ぐうの音も出ないほどの「まっとうな理由」を叩きつけてやればいい。


 「お前たちも来年で六歳。そろそろ草原で暮らしても良い時期だ」

 「え?」

 「弟よ。以前より考えていたのだがな。俺も大都を出て、遊牧陣地クリエンを構えようと思う!羊肉は熱いうちだ!冬の終わりにでもな!」

 「ええ!?」


 遊牧陣地を構える。

 それは実質、王になる準備に入るという事だ。

 王位を継ぐと明言していないトールの、王位継承宣言とも取れることであり、貴族派に対する宣戦布告だ。


 トールはまだ王太子ではない。来年予定されている親族会議(クリルタイ)で認められてはじめて、王位を継ぐことが許される。


 それは、草原で生きる民たちの慣習である。

 父母でなくても血縁のある、もしくは付き合いのある年長者の意見を聞き、次の族長を決定するという「決まり」は、なるべく禍根を残さず、苛烈な草原の気候を力を合わせて生き抜くための知恵だ。

 

 だが、それが大氏族や貴族連中の欲を満たすための茶番にしかならないのであれば、本末転倒もいいところだ。

 氏族長や貴族どもの顔色を窺い、ご機嫌を取るものなど、大アスランを統べる王とは言えまい。


 「弟たちは草原で暮らしておらず、馬にも乗れない。本来なら、お祖父様の元で暮らすのが慣例だが、それが俺になったところで問題はあるまいよ」


 同時に、トールも祖父より、改めて王としての心得やしきたりを学ぶ。

 何年も前から先王(そふ)には「いつでも来い」と言われている。そこに弟たちが加わったところで、拒絶するような人ではない。

 

 そのあたりは、当然ファンも理解しているだろう。

 だから、切れ長の目を大きく見開き、あわあわと手を無暗に上下させるほど動揺しているのは、別の理由だ。


 「え、ええっと、でもさ、兄貴。遊牧陣地構えるって事は、結婚…するって、こと、だよね?相手、いるの?」


 アスラン王は一人では就けない。后妃か王配が必ず必要となる。

 それは、大祖と国母が守護者と主の関係だった事から端を発し、また陰陽一対で完全であるというラヤ教の思想にもよる。

 王太子が大都を離れ、遊牧陣地を構えるという事は、草原の暮らしを伴侶と共に過ごし、生まれてくる子を騎馬の申し子にする為の準備期間でもあるのだから。

 

 つまりは、「トールが遊牧陣地を構える」のなら、「やっとトールが妻を娶る気になった、もしくはその相手ができた」と誰もが解釈する。ファンだってそう解釈したからこそ、動揺しているのだし。

 

 「ど、どんな人!?年上?年下!?」

 「いや、そのだ…いや、だからな、弟よ。大巫師テングリの夢見によると、暗雲は西より来るらしい。ならば!俺もすぐに動けるよう、西方国境側のお祖父様の遊牧陣地に入り、その教訓を受けつつ備えようとな!」

 「結局トールは娶るのか娶らないのか、どちらだ!」

 「いずれ娶る!后妃のいない王はおらん!だが、今すぐではない、という事だ」

 「でも、いますぐじゃなくても!いらっしゃるのですか?!いないとは、言ってないですよね!」


 眼鏡の奥の大きな目を輝かせつつ、テムルが食いつく。


 「う、まあ、それは…」

 「トールあにうえのおよめさま、どんなかたなのでしょう?」 

 「いや、その…」

 「兄貴が選ぶ人だからね。きっと、二人のいいお姉さんになってくれるよ。でもさ、兄貴」

 「う、うむ。なんだ弟よ」


 小さな弟二人をそっとユーシンに預け、ファンは下がるように視線で促した。

 心得た、と頷いて、ユーシンはテムルたちを抱えたまま、離れる。


 「大事な事だから、心して聞いてね」

 「う、うむ」

 

 のちに、そのファンの顔を見たユーシンは、ヤクモ達にこう語っていた。

 「あんなに、鬼気迫る顔をしたファンは、初めて見た!」と。


 「未来の義姉さん、俺に似てたら、全力で阻止するからね」


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― 新着の感想 ―
[良い点] 大都編は、神殿の娘っ子達とキャッキャするのかと思っていましたが、ショタッ子達とは…。 良い意味で、期待を裏切られました。 弟達が可愛すぎます。
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