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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
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羊肉は熱いうち(善は急げ)3

 貴重な休暇最終日。


 大鍛人《テムジン》フレルバタル師に貴重な話も聞けたし、まずまずの始まりだと言っていいだろう。

 とりあえず何食わぬ顔で「今日の昼飯、なんだろな」とか言い出したクロムに休暇を命じて追い出し、俺も紅鴉宮へ戻ろうとすると、母さんから呼び出しがかかった。

 

 なんでも、婦人会…母さん曰く、「見え張り合い元女子会」…に出席しなくてはならないので、親父と兄貴に昼飯を食べさせて、マンマルをかまってほしい、とのことだった。

 母さんが留守の時はナナイがマンマルをかまってくれるが、今日は朝からエルディーンさんたちと大都見物に行くのだと出かけてしまっている。

 なんで、俺に白羽の矢が立った、ってわけだ。


 よその国の王族がどうしているかは、キリクくらいしかわからないんだけれど、我がアスランの王族は基本三食きっちりと食べる。

 何せ、夜明けとともに始まる家畜の世話が終われば、目が回るほど腹が減っているし、仕事やら訓練をすれば朝飯なんて胃のどこにも残っていない。昼食もまたしかり、だ。


 キリクは基本、朝と夜…というか夕方に二食だけ食べるんだが、ユーシンは食えるなら三食どころか六食くらい食うしなあ。キリクに戻った時、やっていけるんだろうか。


 バルト陛下らがどうしてらっしゃるかは不明だが、アステリアは簡単な朝食としっかりした昼食、スープか野菜の煮込みがメインになる、あっさりした夕食が基本だ。

 しかしながら、冒険者はそうでもなく、食べられるときにがっちりと食べ、食べられない時…つまりは財布が空の時は、干魚をしゃぶり、牛乳風味の水を飲んで過ごす。

 うちのパーティでそんなことになったら、クロムとユーシンが野生に帰りそうだから、気をつけないとね。


 さて、我が家の食事事情に話を戻すと、朝と晩は基本的に母さんと、俺と兄貴のどちらか手の空いている方が作る。

 そして、昼食は金狼宮の厨官《バウルチ》たちが作ってくれる。

 自分で作ると自分が好きな味にできるけれど、やっぱり人に作ってもらうと美味しいよね。

 まして、当然ながら金狼宮の厨官になれるような人なので、超一流の料理人だ。


 アスラン、カーラン、メルハはもちろん、北方西方、南海諸島にヒタカミ料理まで、ありとあらゆる地方の料理人が金狼宮の厨房に勤めている。

 その数、総勢二百人。もちろん、俺らの昼ごはんを作るだけが仕事ではない。

 王宮内で働く人々の食事を作るし、会食やら晩餐やらでも腕を振るうし、これからの季節は更に大忙しだ。

 何せ、これから大きな宴が立て続けにあるからね。


 まずは、冬迎えの宴。

 いや既に冬なんだけど、冬至に向かって昼はますます短く、夜は耐え難いほど長くなる。だから、景気づけに飲んで食って騒ごうぜ!と言う趣旨の宴だ。

 

 それに続くのは、冬至の宴。一連の儀式のあとは、やっと明日から夜が短くなるな!おめでとう俺たち!と言う趣旨で飲んで食って騒ぐ宴で祝う。


 冬至が終われば年末になるわけで、今年も頑張ったよね!だから飲んで食って騒ぐわ!と宴となり、そして年を越せばもちろん、あけましておめでとう!今年もよろしくね!さあ、飲んで食って騒ごう!と宴をする。


 うん。俺たちアスラン人は宴大好きだから。まあ、冬の寒い時期は、宴でもしないとやってられない!ってのもあるし。


 会場は、太極殿まわり。そこに百を超す幕屋《ユルク》が建てられ、朝も早くからいそいそと、参加者は嬉しそうに酒や料理を抱えてやってくる。

 幕屋を建てられるのは、武官なら千人長、文官なら房長以上なので、王宮開催の宴で幕屋の主人になる、と言うのは栄達の証だ。

 

 一応、料理や酒は持ち込みするものではある。が、ほとんどの人々の目当ては厨官たちがここぞとばかりに腕を振るう料理の数々だ。

 なんで、持ち込むのは羊の塩ゆで一鍋ぶん、とかささやかなもの。

 女性の宴は持ち込み品ももっと多いけれど、男の宴はそんなもん。

 

 厨官たちはそれぞれの幕屋を構え、料理を作りまくる。人々は鍋や盥を持って幕屋へ走り、御馳走を入れてもらって出てくるというわけだ。

 どこの幕屋が一番人気があったかは競われ、年末までの宴で最も好評だった厨官が、王の幕屋(オルド)の新年の宴を担当する。


 他の宴と違って、新年の宴は他国の使者も来るからね。他の宴よりかなりお行儀よく、堅苦しい。親父と母さんだけでなく、俺たちも正装するし。

 なので、新年の宴で腕を振るう、と言うのは、厨官たちにとっては、大将首を挙げたような名誉な事。

 つまり、これから始める宴で出る料理は、本気も本気。趣向と意地を凝らした料理が次から次へと出てくる。実に楽しみだ。


 話が大幅にずれたけれど、そんなわけで昼食は日替わりで世界の料理が出てくる。もちろん美味しい。

 なんだけど、親父と兄貴はしばしば、「食べる」事を忘れる。


 二人とも仕事嫌い~っていつも愚痴っているけれど、実際にはじめると凄まじく集中する性質《たち》だ。寝るのも食べるのも忘れてしまう。

 俺も、仕事に対してそれだけ熱心になれたら良いんだけれどね…読書や研究と違い、仕事の時はしょっちゅう時計を見て絶望する方だ。


 ただ、二人とも「母さんがご飯を作って待っている」事を忘れることはない。

 なんで、どれほど入り込んでいても、昼食の時間になれば自然と立ち上がり、母さんがご飯を作って待つ金狼宮に向かう。

 

 今日はその母さんがいないわけで、昼抜きで仕事をしないように声をかけて食べさせるように、と言うのが、俺の任務だ。


 まず後宮を出て星龍府へ向かい、兄貴を回収…する前に、兄貴が飛び出してきたんで良しとする。

 続いて金馬殿で親父と合流。ちょうどスバタイ叔父さんもいたんで、一緒に食べようよと誘って金狼宮に向かう。

 紅鴉宮の前で待ってたユーシンとヤクモも連れて金狼宮に辿り着くころには、腹は切なくぐうぐうと困窮っぷりを訴えていた。なんか良い匂いが漂っているしなあ。


 金狼宮、とまとめて呼んでいるけれど、実際には親父と母さんが住んでいる正宸殿を中心に、大小十二の宮で構成されている。

 宮にはそれぞれ名称があり、本来は王の夫人や、五番目以降で自分の宮を持てない子供が住む。


 だが、現在親父の子は五人。で、后妃を除く夫人は四名。

 うち、第二第三…つい先日、第二夫人は廃されたけれど…夫人は、月虎宮、雲熊宮に住んでいるわけで、金狼宮の小宮を使っているのは、第五夫人カイゲンさんと、ティエリア第四夫人とその息子のフレグだけだ。


 祖父ちゃんが来た時に使う宮は決まっているし、そこは使っていると言ってもいい。けれど、残る九つの宮は現在住む人もなく無人だ。掃除なんかの管理はしているけれどね。


 でも、カイゲンさんの海棠宮はもうすぐ無人になるしなあ。また無人の宮が増えてしまうな。

 いくら掃除したりなんなりしていても、無人の家と言うのは傷む。一応、アスランの歴史を刻む建物なのだし、廃墟になるのは忍びない。

 次代アスラン王の兄貴が十人くらいお嫁さんを娶れば解決するけれど、いまだに一人もいないし、望みは薄いだろう。


 そんなことを思いながら兄貴を見ると、ものすごい良い笑顔を向けられた。

 …なんか、ごめん。


 皆で食べるごはんは美味しいねえ!!と親父が大はしゃぎだった本日の昼食は、南海料理。


 椰子の実と果汁…果汁?なんだろうか…を煮込んで作った汁と香辛料がふんだんに使われているのが特徴で、まろやかな辛さが食欲をそそる。

 特に、この椰子乳と香辛料で煮込まれた魚介類は、米に掛けてもいいし、麺と絡めて食べても絶品。

 米も鶏肉と共に薄めた茉莉花茶で炊き込まれていて、匙で掬うとほんわりと良い香りが漂い、脂っぽさを中和してくれる。

 他にも細々と、これも南海料理の特徴である、鮮やかな色彩を纏った美味しいものが提供され、胃袋も舌も大満足だ。


 そんな大満足の昼食も終え、あと半日となった休暇をどう過ごすか。

 マンマルをかまうっていう任務もあることだしなあと思案して、決断して向かったのは、王宮内の放牧場。つまり、ただの草原。


 北に北海が澄んだ冷たい水を湛えているから、吹き付ける風は一層冷たい。

 けれどその分空気は湿度が高くなり、夏は大いに草が繁る。大都周辺では珍しく、イネ科の草が大繁殖するんだ。

 もちろん今の季節は枯れているけれど、大量の枯れ草が大地を覆い、放たれた馬や羊たちの糧となる。


 その枯草の原をもこもこと移動している楕円形。

 堅尻穴熊のマンマルの背中だ。


 マンマルは黒褐色の硬い毛に覆われていて、穴を掘るのが大好き。と言うか、堅尻穴熊は本来穴を掘ってそこに住む生き物なんだろうと推測している。

 まあ、マンマルは母さんが毛糸で編んだ袋に入って寝るから、穴掘りはただの趣味だけれどね。


 今はゆっくり歩くマンマルも、走ればすごい早い。どれくらい早いかと言えば、兄貴が追いつけないくらいほどだ。

 その勢いで掘った穴に飛び込まれると、捕まえるのはほぼ不可能。しかも、腕を突っ込んで引っ張りだそうとすると、堅い尻と穴の天井に腕を挟んで潰してくる。これがもう、本気で痛い。骨が軋む音がする。


 とは言え、「じゃあ、マンマルはそこで住むんだな」と、皆で帰るふりをすると、全速力で追いかけてきて抱っこをせがむんで、マンマルの地下帝国が実現したことは一度もない。


 そんな生き物であるマンマルを、我が家は母さんを始めとしてみんなで可愛がっている。乳も毛皮も取れないし、乗れないし、番をしてくれるわけでもないけれど、とにかく可愛い。

 そう思っているのは人間だけではないようで、俺の愛馬であるコロは、マンマルが大好きだ。


 今も、好きな種類の草を探して歩くマンマルの後ろを、コロがついて回っている。

 長い首を伸ばし、時折マンマルの背中を唇でハムハムしては、満足そうな鼻息を噴き出していた。


 マンマルも愛されているという自覚があるらしく、コロを全く怖がらない。

 俺たちにとっても、コロが近くにいるのは安心だ。

 大都周辺には大型の猛禽類が六種類生息していて、特にそのうちでも最も大きな風鷲《カザフ》は、要注意だ。

 何せ、その若鳥を飼いならして、俺らヤルクト氏族は狩りに使うくらいだからね。草原に暮らす渡り鹿(ツァガンゼル)や狐くらいなら、単独で仕留めるほどだし。

 マンマルくらいの大きさなら、掴んで持って行ってしまう。まあ、マンマルは見た目より重いから、余裕かどうかはわからないけど…。

 

 コロが側にいれば、風鷲が上空を舞っているのを見つけ次第、マンマルを自分の腹の下に隠す。マンマルも心得たもので、自分で掘った穴と同じくらい安全な場所でじっとして動かない。

 

 おまけに今日は、雷公猫のベンケも一緒だ。マンマルとコロの周囲で時折跳ねているのは、野鼠を狩っているからだ。なお、食わない。

 捕れると、俺の横でニコニコしている兄貴の前に置いていく。もう、七匹の野鼠が兄貴の前で横たわっていた。


 「良い時間だなあ!弟よ!」

 「それは同感だけどね」


 仕事、ほんとに良いの?と聞こうと思ったけれど…やめておいた。真実がどうあれ、兄貴はここを動く気はない。

 タイ叔父さんが一緒でなければ、親父も兄貴の隣でニコニコしていたんだろうなあ。泣きながら連行されていったけど。


 羊の毛皮を地面に敷いて、そこに座って我が家の可愛い動物達の遊ぶさまを見る、という時間は、確かに良い時間だ。休暇の最後の過ごし方として申し分ない。

 兄貴が俺に貼りつくくらいぴったりと寄り添って座り、その前には野鼠の斬殺死体が整列し、それ…含む俺と兄貴…からなるべく離れて腰を下ろしたヤクモが、やや引き気味にしているという惨状を除けば。


 ちょっと先からは、ユーシンの「ははははは!」という笑い声と、マナンの興奮した唸り声が聞こえてくる。

 大都に戻って以来、マナンの世話は自分でしているけれど、ユーシン達と遊ばせるのは今日が初めてだ。


 すぐ近くでは兄貴の飛竜ムカリも寝そべって、人間と飛竜の綱引きを眺めている。マナンが大興奮して、ユーシンをぶら下げたまま飛翔に移ろうとしたら、止めてくれるだろう。

 マナンと違って、ムカリは落ち着いた性格だしな。乗り手ももう少し、飛竜と同じく落ち着いてくれるといいんだけれど。


 「寒いけど、気持ちいいねぃ」


 やや引き気味ながら、普通に話しかけてくれた。寒さより確実に気になる点はあるだろうが、あえて触れない優しさに感動もんだぞ。ヤクモ。


 「故国シラミネの冬は、アスランと比べてどうか?ヤクモ」


 穏やかな声で兄貴が問う。この低いけれど良く通る声が、弟に張り付く人から発せられているとは思えないよね。

 実際、兄貴の声だけ聴くと、長身でがっちりした体格の、髭なんかも生えてる渋い男前…って感じだ。女装すれば、身長的にも違和感のない美少女ができる人から出ている声とは思えない。


 妖精症とは言え不老じゃないから、ゆっくり年を取ってあと二十年くらいすれば、声帯に見た目が追いつくかもしれないな。

 兄貴も自分の見た目を気にしているから、早めにそうなってくれたら良いなあ。


 「ぼく、ほとんどシラミネにいなかったからな~。春の終わりにシラミネに帰ってえ、夏の始まりにはアステリアに行っちゃったから…あ、でも、姉さんが、シラミネはすっごい雪が降るって、言ってたよぉ」

 「そうなんだ。じゃあ、今頃、真っ白かもなあ」

 「だねぃ。ぼく、そんな積もった雪って見たことないから、見てみたいかも~」


 って事は、ヤクモが育ったナハト王国はあまり雪が降らないんだ。

 位置関係的には、シラミネはナハトの東北の山中にある。山があるとそこで雪雲が止っちゃうから、その先ではあまり降らないって事は十分にありえた。

 大都周辺は遮るものがないうえに乾燥しているから、風で飛ばされて積もらないけどね。

 そろそろ、大都の城壁に雪が張り付いて凍り、真っ白に輝く。それは大都の風物詩ではあるけれど、厳しく長い冬が本格的に始まった証拠だからな。

 そりゃ、大いに宴で飲み食いして騒いで、気合を入れたくもなる。


 「そうか。ヤクモはあまりシラミネの事を知らぬのか」

 「うん。そーなんです。お母さんと、姉さんと、弟がいるんだけどねぃ。実は、顔とかはっきり覚えてなくて…。シラミネに戻ってすぐ、どっかのおうちに閉じ込められてねぃ。まー、そりゃあ仲良くない隣の国からいきなり帰ってきた子なんて、疑われるよねって、今はわかるんだけどさあ」

 「酷い話だが、仕方ないっちゃ仕方ないよな」

 「うん。母さんと姉さんは、毎日来てくれたんだけど、木で出来た柵越しでさー。だから、会えばわかるんだけど、どんな感じのひと~?って聞かれたら、すこーし、思い出す時間かかるみたいな?」


 言っていることは結構悲惨な話だが、ヤクモの口調にそれを恨んだり、悲しんだりする色はない。

 そうせざるを得なかった、という事情を理解しているのもあるだろうし、何せヤクモからしても、突然顔をあわせることになった「家族」だ。

 感動の再会とは言い難く、柵越しの会話を哀しく思うほどでもないんだろう。


 「ふむ。しかし、お前の姉上は間違いなくヤクモの事を想い、案じているぞ。毎日、無事を祈るほどにな」

 「トールさんはそうだろーけどねぃ…」

 「なに、間違いない。だから折につけ、ヤクモも思い出してやれ」

 「会って聞いたように言うねえ。兄貴」


 そりゃあ、兄貴からすると、全世界の兄姉は、弟妹を気にかけるのが当たり前だからね。でもまあ、ヤクモの事を気にも掛けないより、そうだった方が良いよな。

 

 「あ、兄も姉も、そういうものだ!」

 「うん。ありがとお。トールさん。そだね。ぼくにも家族がいるんだもんね。ちゃんと思い出すし、そのうちお手紙書くよ」


 ヤクモも、きっとそう思ったんだろう。にっこり笑って頷く。


 「その場合、何語で書くんだ?」

 「あ、そっかあ。ぼく、西方語しか書けないけど、読めないかもしえないよねぃ」


 だよなあ。うんうん。だからさ、それならさ。


 「そもそも、どうやって届けるかって言う問題もあるし。なあ、ヤクモ。思い切って、シラミネ行ってみないか!?」

 「行きたいけどさあ。虫とか葉っぱとか茸をすごい勢いで集めてニヤニヤしているひとを、不審者じゃないですーって家族に説明するの、すごい大変そうなんだけど…」


 既に不審者を見る目で俺を見ないでくれる?


 「に、ニヤニヤはしない!しないから!」

 「あとさあ、角が毛なのか皮なのか骨なのか知りたいから、ちょっとだけ、先っぽだけでいいから削らせてって、姉さんや弟に迫らない?」

 「し、しない!しないから!…たぶん」

 「…するな。これ」


 だって、シラミネは鎖国しているから文化風習生物相、全てが謎の国なんだ!

 山中にあるってことからも、固有生物が居そうだし、何よりシラミネ人にたまに生えるらしい角!それがどういうものか調べたいじゃんよ!


 「ぼくに角なくてよかった。絶対ファンにゴリゴリされるとこだった」

 「で、でもさ、神経が通っていないか、慎重に調べてからにするから…」

 「やっぱ削る気じゃん!!」

 「お、弟よ、嫌がっているのに無理強いは良くない。兄なら歯の一本、背中の皮膚程度ならば許す故…」

 「要らないし、その発想が怖いよ」


 兄貴の歯を貰ってもなあ…。ある意味、高く売れそうだし、数日置いておけば魔石になりそうだけども。


 そんな感じでわちゃわちゃしているとドスドスとマナンとムカリがこっちに歩み寄ってくる足音がした。

 そちらを見れば、首にしがみ付いて羽毛に埋もれているユーシンを乗せたマナンと、その横を歩むムカリ…のさらに横に人影。


 「あ、フタミさん!ひさしぶり!」

 「やあ☆ナランハル!お元気そうでなにより☆」


 ヤクモが「だれぇ?」って顔をしているから、軽く「御史台の役人さんだよ」と説明しておく。けれど、ヤクモはますます顔中に「?」を浮かべた。


 「うむ。さらに簡単に言えば、アスランの密偵の一人だ」

 「密偵…って斥候《スカウト》みたいな役割だよねぃ。ふつーに騎士とか戦士ってかんじ…」


 ヤクモの脳裏には、アステリアの冒険者の中で、斥候という職能《ジョブ》についている人々…エディさんとこのコルムとか、ベルドさんとこのジェイルさんと言った、細身で力よりも技と速度で勝負!な見た目が思い浮かんでいるんだろう。

 兄貴の守護者であるマルトさんなんかは、まさにそんな感じだしね。


 それに対して、フタミさんは大男だし筋骨隆々だからなあ。

 けど、ミクがそうであるように、大柄な体格はそれだけ筋肉があるという事。

 そしてフタミさんの「速度」は、魔力で増幅された兄貴よりも疾《はや》い。


 まあ、そこまで説明する必要もないか。説明が必要なほどフタミさんと関わるなら、聞くより早くヤクモ自身がその目で見るだろうからね。

 

 「…お前が俺のもとに来た、という事は…」

 「休憩時間は終わり☆ってことですね!」


 兄貴はしばし口をへの字に結び、逡巡していたけれど、がくりと肩を落とした。


 「ベンケ」

 「ぷきゃ?」


 名を呼ばれ、ベンケはとことこと歩み寄る。その小さな口には、絶命した野鼠が咥えられており、また兄貴の前の列が長くなった。


 「帰るので、入りなさい」

 「ぴゃ!」


 外套のフードを兄貴の指が示すと、ベンケは軽やかに兄貴を駆けのぼり、収まった。尻尾の先だけがはみ出て、ピコピコと動いている。


 「弟よ…すまん。兄は先に…先に、もどる…」

 「あ、うん。仕事頑張って」

 「本心では、お前と共にいたいのだ!決して、蔑ろにしているわけでは…!」

 「思ってもいないから、安心してくれ」


 むしろ、少しくらい蔑ろにしてくれてもいいとは思っているけれど。

 

 「弟よ!!では、では…さらばだ!!」

 「いや、夕飯の時会うでしょ…」


 何を今生の別れみたいに言っているのか。

 兄貴は顔中のパーツを中央に寄せつつ、ムカリに歩み寄った。なんとなくムカリも呆れた顔をしているような気もする。


 軽い動作でムカリの背…当然、鞍はない…に跨ると、その首を軽くたたく。

 星龍宮か星龍府か…どちらにせよ、歩いていくにはやや遠い。ムカリに乗って帰ることにしたらしい。


 ととと、と十数歩ムカリは移動し、翼を広げた。やっぱりムカリは思慮深いというか、周りに気を遣ってくれるなあ。マナンなら、その場で翼を広げてたよ。

 

 ムカリの翼の下に風が集まり、その巨体が宙に浮く。熟練の竜騎士でもやらない鞍なし飛行だけれど、兄貴なら落ちても魔力の足場をつくれば死なないからな。

 

 「では、しばしの別れだ!!弟よおおお!!」

 「いってらっしゃーい…」

 「トールさん、よく一年前、ファンを送り出してくれたねぃ…」

 「俺もそう思う…」


 結構きりりとした顔で「息災でな」などと宣っていたような記憶があるんだが。

 

 「そのあと、大変でしたよ☆三日間泣き濡れて暮らした後、仕事を鬼のようにこなして、また三日間泣くとか☆」

 「あー…」

 「大丈夫☆三ヶ月くらいで立ち直りましたから☆」


 たった三ヶ月でというべきか、三ヶ月もかかったのかと困惑するべきか。

 まあ、過ぎたことは気にしないようにしよう。うん…。


 「ええっと、それはそれとして、改めてフタミさん。お久しぶりです。そうそう、フフホトに寄ったとき、クオンとアグンさんに会ったんですよ」

 「お!元気そうでした?イフンの一戦、懐かしい☆あのナランハルの名演技、今でも再現できます☆」

 「速やかに記憶から消去してください」


 ヤクモが興味を持つ前にな!!


 「もう三年か☆あれ以来、真皇国もややおとなしいし、このままイフンを諦めてくれればいいんですけどね☆」

 「フタミさんがそういうって事は、諦めてないんだな…」

 「はは★」


 諦めないだろうなあ。イフンをアスランから奪取できれば、カーラン真皇国の取れる戦略はずいぶんと選択肢が生まれる。

 諦めるのが正解だけれど、万に一つもうまく行けば、見返りはとんでもなく大きい。

 ウー老師曰く「全財産を賭けで喪い、あとはもう己の身一つ。ここで退けるなら、端から博打に手を出しませんなあ」という状態だ。


 そもそも、ウー老師からすれば真皇国という存在自体が、博打のあぶく銭の上に建った国で、存続している方がおかしいらしい。

 その「在りえない国」を存続させているのは、ただひとつ、カーラン真皇王の人心掌握の才によるもの。

 だから、かの御仁が死んだときには、とんでもなくめちゃくちゃになりそうで嫌なんだそうで。

 

 確かに、数万…下手したら数十万単位の難民がイフンに押し寄せたら…と思うと頭が痛い。

 イフンの民はカーラン人に先祖代々の遺恨がある。

 そしてカーラン人はイフンの民を見下している。


 間違いなく治安は悪化するし、イフン地方はそれ程たくさんの住民を抱えられる地域じゃないから、早急に何とかする必要がある。

 カーラン人って何でも食べるしな。イフンの貴重な動植物が食い尽くされたら困る。まだ調査も完全に終わっていないんだし。


 「まあ、俺は東方担当じゃないから詳しいことはわからないですけどね☆」

 「フタミさん、本来は大都担当だよねえ…そのフタミさんが兄貴に報告にってことは…またなんか、厄介なことが?」

 「そうでもないですよ☆まあ、いろいろね☆」


 にか☆と笑われても、安心できないなあ。


 「では、俺もそろそろ☆来年は担当区域が変わるから、いろいろ用意がありましてね。ユーシン殿下、ヤクモ殿下、良かったらこの顔、覚えてやってくださいね☆」

 「え、あ、はい!」

 「腕が立つな!是非、手合わせしたい!」

 「俺の技は手合わせむきじゃないので☆それでは~」


 一礼して、とことこと歩み去る。あ、今は消えないってことは、急いでどうにかする仕事はないらしい。

 フタミさんの生活拠点は大都だから、担当区域が変わるって言うのは結構大変だ。もう目立った仕事はなくて、移動の準備期間なのかもな。


 「凄まじく強い御仁だな!」

 

 マナンにしがみ付いたまま、ユーシンが目をキラキラさせてフタミさんの背中を見ていた。


 「しかも、相当の戦をくぐっていると見た!」

 「いろいろあった人だからね」

 

 フタミさんがヒタカミで何をしてきたかはわからない。聞いたことがないから。

 けど、決して平坦な人生じゃなかったんだろうなって事はわかる。

 マルトさんもそうだけれど、「そういう仕事」をやっていた人には、独特の気配というか、においみたいなのがあるから。


 けど、それは俺の直感でしかないし、言いふらすような事でもない。

 二人も、それ以上は聞いてこなかった。


 「さて、そろそろマンマル連れて帰ろう。日が傾いてきたから、じきに外套着ていても震えるほどに寒くなるぞ」

 「はぁい。マンマルちゃん、掴まるかなあ?」

 「みんなで金狼宮に向かえば、勝手についてくるよ」


 軽く口笛を吹いてコロを呼ぶと、ゆったりした動作でこちらに向かってきた。

 それを見たマンマルは、短い脚をチャカチャカと動かして走り出す。一気にコロを抜き去ると、まだ座っているヤクモめがけて突進していった。

 

 「わ!?」

 「マンマル。今抱っこしてもらうのは良いけれど、ちゃんと歩いて帰るんだぞ?」


 マンマルにしがみ付かれて、ヤクモはあわあわしているが、困ったあわつきではない。その証拠に、顔は笑み崩れている。


 「マンマルちゃん、可愛いねぃ」

 「俺が抱っこして連れて行ってもよいぞ!ファン!」

 「ぼくも抱っこできるよう」

 「意外と重いぞ?大丈夫か?」


 硬いお尻に手を回し、ヤクモはマンマルを抱えて立ち上がった。かなり無理している顔だけど、大丈夫か?

 人間の赤ちゃんのように仰向けで横抱きされたマンマルは、満足そうに脱力している。人間の赤ちゃんどころか、子供くらいの重量あるけども。


 「お、重い~…でも、可愛いねぃ~」

 「可愛いのが仕事だからな。マンマルは」


 マンマルはとにかく丸い。そもそも、マンマルって言うのはヒタカミ語で「すごい丸い」って言う意味らしいしな。

 身体はずんぐりむっくりと楕円形。頭も丸く、目も丸い。短い手足で内股に歩く姿は何とも愛嬌がある。

 そのうえ、人間大好きの甘ったれ。可愛くないはずがない。

 毛皮は絹毛山羊のようにふわふわつやつやとはいかず、結構固いけれど、それもまた魅力のひとつだ。


 「けどやっぱ重いから、途中でユーシン抱っこ代わってね」

 「心得た!」

 「よし、じゃあ帰ろう。マナンも金狼宮まで行こうか」 


 ぎゃす!と元気にマナンが返事してくれたので、俺たちは金狼宮を目指して歩き始めた。

 コロが殿を務めるかのように、後ろを悠然とついてくる。


 「あの並んでいる鼠、どうするのう?」

 「もう、上空に鴉や鷹が俺たちがいなくなるのを待ってるから」


 俺の声に、ヤクモが天を見上げる。何故か、マンマルも同じように瞳を持ち上げて、上目遣いになっていた。

 晴れ渡った天を、いくつかの黒い影が舞っている。ユーシンが指をさし、ヤクモが「ほんとだあ」と感心した声を上げて、二人で笑う。

 

 風は冷たいを通り越して凶器だし、空気はもう少し水分があれば凍るだろうってくらいの気温だけれど。

 

 「良い時間だなあ」


 こんな時間がいつまでも続けばいい。そう、本心から思う。


***


 「ファン、ありがとうね。マンマル、久しぶりにお兄ちゃんに遊んでもらえたねえ」

 「なんか、マンマル、また大きくなったよなあ。今度、測定させてね」

 「よく食べてよく寝るもの」


 笑う母さんの手元には甘藷があって、それはマンマルの口の中にポリポリと音を立てて消えていく。

 その前には女官たちにちやほやされながら身体を拭かれ、丁寧に草の実や枯草を取り除かれ、ダニや汚れが残っていないか見分されていた。


 それを見たヤクモが「マンマルちゃんがぼくの理想のおモテなんだけど…」と茫然と呟いていたが、こうされたいの?ほんとに?

 解禁すれば、喜んで女官たちはちやほやするけどさ。多分、ヤクモ泣くと思うけどなあ。


 「母さんもお疲れ様。何事もなかった?」

 「トールとファンのお嫁ちゃんにって紹介された女の子が、ついに百人を突破したくらい、かなあ」

 「あ、あはは…受けてないよね?」

 「ないよ。でもこれはもう一生独身だなって思ったら、容赦しないからね」

 「だ、だいじょーぶだよ、たぶん…」


 ガラテアさん、今頃何してるかな。

 ご飯食べに行こうって誘ったら、一緒に来てくれるだろうか。


 一瞬ちらりとそんなことを考えてしまったのを見透かしたように、母さんの眼が少し鋭くなる。


 「無理に娶って、モウキさんと夫人たちみたいになるのも嫌だけどね。可哀想なのは子供だから」

 「ダヤンは…」

 「まだ痩せすぎだけれど、顔色が良くなってきたよ。カイゲンちゃんにも会ったしね」


 あれ以来、ダヤンには会えていない。

 安静にするべきだし、俺はあの一件でやらかしかけたから、落ち着くまで面会禁止を言い渡されている。

 まあ、年越しの宴には会えるだろう。その頃には、少しは丸くなっていると良いなあ。


 「身体が出来ていないから、お肉をつけすぎると骨が耐えられないかもしれないんだって。だから、ちょっと鍛えながら食事量を増やしていくって」

 「十歳であの体格はなあ…」

 「ファンなんか、十歳で私の背丈を抜かしてたからねえ」

 「よく食べてよく寝たから」

 「ふふ。あ、そうだ。そろそろ干し柿食べられるから、持っていきなさい。ユーシンちゃんも、好きでしょ?」

 「干し柿!有難い!!」


 マンマルが甘藷を吸い込むさまを見ていたユーシンが、干し柿の単語に反応して顔を上げた。

 その隣で同じくマンマルを…ちょっと複雑な顔で…見ていたヤクモは、首を傾げて目を瞬かせる。

 

 「ほしがき?」

 「柿っていう果樹があるんだが、その実を干したものだよ」

 「柿は、甘いやつと渋いやつがある!渋いのを干すと何故かはわからんが甘くなる!とても美味い!」

 「へえ~」


 柿は大都じゃ寒すぎて実らない。とは言え、アスラン南部やカーランからたくさん入ってくるんで、それほど高価な果物ってわけでもない。

 干し柿は母さんの好物で、それもヒタカミ式に吊るして作る。カーラン式だと籠に乗せて干すんだけれど、それだとなんか違うのだそうで。

 祖母ちゃんの故郷が柿の産地で、トンクーでもヒタカミ式に作っていたから、母さんにとって渋柿とはぺしゃりと潰れた丸いやつではなく、柿の形そのままに白く粉をふいたもの。

 当然、その母さんの干し柿を食べて育った俺たちも、干し柿はヒタカミ式だ。


 「大都じゃ柿は育たないけれど、干し柿造りには向いているんだ。乾燥しているし、寒いし、風が良く吹くからな」

 「まだちょっと柔らかいけど、十分甘いからね。でも、食べ過ぎるとお腹を冷やすから、一度に食べるのは二個までにするんですよ」

 「心得ました!」


 絶対、二個じゃすまない気はするが…まあ、それで一回厠でユーシンを見守るイダムとターラの両神に謝りつつ腹をおさえるのも良い薬になるかもしれない。

 

 「じゃあ、貰って帰るね。紐一本分いいかな?」

 「もう一本取って、トールにも持ってってあげて」

 「はいよ、了解」


 干し柿は、正宸殿の東側の端っこで作っている。今いる房はほぼ中央だから、ちょっと移動に時間がかかるから、早くいかなきゃ。

 金狼宮の前で待っているマナンとコロに悪い。干し柿、あいつらにもわけてあげよう。


 親父と母さんが住んでいるだけあって、本来ならアスランで最も豪華絢爛かつ厳格であるはずの金狼宮正宸殿は、何というか、わりと「そーでもない」空気が漂っている。

 まあ、五代が一度完全に破壊したんで、精緻な彫刻が彫られた柱とか、鮮やかな画が描かれた壁だとか天井だとかはもともと無いけれど。

 それをさっぴいてもなんか緩い空気なのは、ここで働く人たちがピリピリした気配もなく、わりとのんびりしているからだろう。

 すれ違う侍従官や女官、警護に当たる騎士《バアトル》や勇士《ドルジ》らも、俺の姿を見ていちいち跪いたり伏礼したりしない。道は譲ってくれるし、視線を下げて手を胸に重ねる姿勢にはなるけれど、それだけ。


 月虎宮の怯えと空虚さに満ちた空気とは真逆の気配だ。

 これが紅鴉宮になると、もっとゆるゆるになるわけで、やっぱり、主の差ってやつだね。うん。

 

 どちらが良い悪いって話になるなら、やっぱりのびのび働けた方が良いと思うんだよなあ。いちいち伏礼してたら、仕事が滞るしさ。

 それを「侮られている」と批判する人はいるけれど。他所は他所、うちはうちって事で、いいよな。


 そんなことを考えながら、そして物珍し気にきょろきょろするヤクモに「あれは五代の描いた落書き、あれは六代の編んだ壁掛け」と説明しながら進む。

 いくら正宸殿が広いと言っても、馬で駆け抜けなきゃならないほどじゃない。

 傾き始めた日が完全に落っこちる前までには、目的地へと到着した。


 干し柿を吊るしてあるのは、東の端の房の軒。雪や雨が当たらず、日と風を浴びれる場所を選んで吊るしてある。

 一本の紐に、二十個ほどの柿が結ばれていて、それがずらっと並ぶさまは中々壮観だ。

 紐の数は三十本ほど。できた干し柿は俺たち家族が食べるほか、母さん付の女官や護衛騎士にも配られる。作ったのは、母さんと彼女たちだからね。


 材料の渋柿が運ばれてくると、皆でおしゃべりしながら柿の皮をむき、紐に結んで、蒸留酒《アルヒ》の入った盥に漬け、干す。

 それは楽しい冬の初めの行事で、俺も一昨年までは良く手伝ったもんだ。出来上がるまで長いからこそ、作るのも楽しい。

 今干してある柿は、今年最後の柿だろう。だいたい十日くらいで干し終わるから、もう三回四回くらいは収穫したんじゃないかな。


 「ファン、ひとつ食いたいぞ!」

 「はいはい」

 

 窓を開けて露台にでると、やっぱり寒い。

 手近にあった紐を手繰り寄せると、ユーシンが常に身に着けている小刀《ククリ》を抜いた。そのまま、ぴょんと露台の胸壁に飛び乗る。


 「む!」

 「ん?どしたの?ユーシン」

 「子がいる!迷子か!」

 「え?正宸殿の敷地内に迷子はいないと思うけど…どこだ?」

 「あちらだ!」


 ユーシンの指さす先に目を凝らすと、枯草に蹲る小さな影が見えた。


 「本当だ…」

 「動かんな!動けんのかもしれん!見てくる!」

 「頼む」


 言うなり、ユーシンは飛び出した。

 ここは二階だけれど、この程度の高さはユーシンにとってはどうってこともない。


 それより…子供か。

 当たり前だが、正宸殿に子供がいることはありえない。弟たちが来ているなら事前に連絡がある。まして、一人で前庭に蹲っているなんて言うことは、おかしい。


 いくら正宸殿が緩くても、人の出入りは厳重に監視される。勤めている人たちが我が子を連れてこようとすれば、もちろん咎められるし追い返される。

 けど、じゃああの子は…いったい、どこから?


 ユーシンは軽い音を立てて着地すると、その衝撃を和らげるために一度転がった。その勢いのまま今度は立ち上がり、問題の子供まで一気に距離を詰める。


 「だいじょーぶかなあ?」

 「怖がらせるだろうなあ。けどまあ、小刀は鞘に納めてるし…」


 そこはさすがに忘れなかったな。いかにも業物な刃物持った男が降ってきたら、俺だって怖いよ。

 刃物持っていなければ問題ないのかと言われると困るけども。


 子供は逃げようとした。けれど、やっぱり動きが鈍い。立ち上がろうとして出来ず、枯草の上に倒れこむ…前に、ユーシンがひょいと持ち上げた。


 「ファン!とった!」

 「とったはないだろ、とったは…」

 「戻る!」

 「ちょっと待て。縄を降ろすから」


 腰に巻いている帯の下には、念のために荒縄も巻き付けてある。そう長いものじゃないけれど、ユーシンが取り付る長さがあれば十分だ。

 手早く露台の格子に縄を結び付け、反対側を下に降ろす。ユーシンは子供を肩に担ぎ上げるやいなや、その縄を掴んで壁を蹴った。

 

 縄を片膝の裏と片手で掴み、壁を蹴り上げながら登るだけでもとんでもないが、更に肩に子供を一人担いでいる。

 慣れてるけれど、やっぱりユーシンの身体能力はおかしい。


 呆れ驚き感心しながら、身を乗り出し、ユーシンが担ぐ子供に手を伸ばす。

 ぐい、とその小さな体をユーシンが持ち上げ、子供はユーシンの肩から俺の手に移った。慌ててヤクモが俺の腰にしがみ付き、保定してくれる。


 「良かった。凍えかけているって程じゃない」


 近くでよく見れば、唇は青くなっているけれど、顔にはまだ赤みがある。

 それにしても、信じられなくらいの薄着だ。こんなんじゃ寒いに決まっているし、風に当たれば容赦なく体温と体力が消えていくよ。

 

 「…え、まさか…」


 子供は目を大きく見開いて、俺の顔を凝視している。その、俺と同じ色をした双眸には「やばいっ!」という焦りと「ま、どーしようもないか」という諦念が同居していた。


 「フレグ…だよな?」

 「はい」


 ごく薄い灰色の髪をはやした頭が、こっくりと頷いた。

 うん。一年以上ぶりだし、成長もしているけれど…この子は、間違いなく末の弟…フレグだ。

 

 「ファンの知ってる子なのぅ?」

 「一番下の弟だ」

 「え、そなの?確か、ここに住んでいるんだよねぃ。遊んでて迷子になっちゃったのかな?」

 「正宸殿にじゃなくて、違う離宮だけどね」


 ただ、その離宮…飛燕宮は正宸殿と随分離れている。むしろ、四太子が住む雲熊宮の方が近い。外で遊んでいて、迷い込むような位置にない。ましてここは、正宸殿の東端だしな。


 「フレグ、どうしてここに?ましてこんな薄着で…」


 危険なほどじゃないけれど、手指や帽子を被らなかった耳は冷え切っている。このままじゃ、凍傷になるかもしれない。そこまでいかなくても、しもやけになれば死ぬほど痛痒い。


 正宸殿に入っても着っぱなしだった外套を脱いで、すっぽりと弟を包む。フレグは次の春で六つになる。まだ小さい身体に俺の外套はやっぱり大きく、おくるみ状態だ。

 …ちょっと不快そうな顔してるの、臭いからとかなの?さすがに気にするぞ?


 ああ。でもちょっと安心した。ダヤンと違って、フレグは小さいけれど頬も手もぷっくりとしている。引っ張り上げた時に感じた重さも、ダヤンよりみっしりしていた。

 よかった。この子は、元気に育っている。


 「あの、ちがってたら、ごめんなさいなんですけど…」

 「ん?」

 「ファンあにうえ、ですよ、ね?」

 「ああ、そうだぞ。お前のファン兄ちゃんだ」

 

 肯定すると、心なしホッとしたようだった。


 「よかった…トールあにうえじゃなくて…」

 「え?兄貴だと何か困るのか?」

 「おそらく、高速で頬ずりなどをされるのであろう!」

 「抱っこして離さないとかかもよ?」

 「否定できないなー…」


 兄貴が俺以外の「弟」を溺愛していた記憶はないけれど、機会があれば容赦なく可愛がるだろうしなあ。

 俺らと弟たちの交流がないのは、弟たちの母である夫人たちの意向だ。

 夫人たちからすれば、俺らはアスラン王の座をめぐる政敵であり、近付ければ何をされるかわからない、という事になる。


 それに加えて、第三夫人ルシアラ殿と第四夫人ティエリア殿は、第二夫人だったトラキナの派閥に属していた。

 というか、三人で母さんに敵意を剥き出しにしていた。なもんで、当然その子である兄貴と俺も敵である、と認識されている。


 「兄貴がこう、望まない可愛がりとかしちゃってる?そうなら俺から叱っておくけど…」

 「かわいがり…?」

 「違うのか?」

 「トールあにうえは、こわいひとって、聞きました。だから…」

 「…ある意味、確かに怖いけれど…」


 発想とか、愛情の重さとか。

 だがきっと、フレグが怯えているのはそういう意味じゃないよな。うん。


 「まあ、こんな薄着で寒い中で歩いていたら、怒るかもしれないけど…」

 「あの!あの、いまね、わたしがここにいたの、ないしょにしてくれませんか!」

 「兄貴に?」

 「…みんなに。こっそり、かえるから…」


 そう言って俯いてフレグは口を閉ざす。何故ここにいたのか、言う気はないみたいだ。

 ただ、変わって小さな不満の音が、フレグのお腹から響いた。


 「あ…」

 「お腹すいたか。とりあえず、干し柿食べよう?ユーシン、登ってきた縄回収しつつ、二本分収穫してきてくれ」

 「心得た!」


 ぴゃっと露台に飛んで行ったユーシンは、すぐに干し柿がたわわに括られた縄をもってやってきた。すでにひとつ、縄に結わかれたままのを齧っている。


 「ユーシン、お行儀悪いよう」

 「俺も腹が減ったのだ!」


 結わかれた蔕部分だけ残し、干し柿は綺麗に消滅している。まあ、いいけどさ。

 小刀を使って干し柿を縄から切り離し、ユーシンは俺にふたつ、ヤクモにひとつ手渡してくれた。もちろん、自分の分も一つ確保している。


 「干し柿、食ったことあるか?甘いぜ」

 「…おこんない?」

 「え、干し柿を食べる事?そりゃ怒らないよ」


 食べな~っと差し出したものを食べたら怒るって、相当だぞ?


 「あのね、前に、おちてるの、食べました」

 「落ちてるの?ちゃんと渇いてたか?中途半端な状態で食べると、渋いからな」

 「うん。あまくて、おいしかった」


 にぱ、と笑う顔はいかにも子供で、なんかもう、ぎゅっと抱きしめたくなる。

 しかし、落ちてるのって…確かに何個か、干しているうちに鳥に突かれて落ちたりもするけれど。

 

 「落ちてないの食べればいいのに。誰か女官にでも言えば、取ってくれるぞ」

 「おそとでちゃ、ほんとうはダメだから…」


 ああ、うん、まあそりゃあ。

 という事は、フレグはわりと普通にこの辺まで来ているって事か。さすが我が家の末っ子。行動範囲が広い。

 だが、それが公になれば、飛燕宮の侍従官や女官、警護の騎士は叱責じゃすまないな。フレグが一人で外に出ていても、気付かないってことだし。

 幸い、フレグに怪我やなんかはないから、何人か責任取って辞職程度になると思うけれど。万が一、寒さで動けなくなってそのまま凍死したりすれば、複数の首が必要になる。


 「そうだな。一人で、こんな薄着で外に出るのはダメだ。さっきも、寒くて動けなくなっていたんだろう?日が暮れたり、風が強くなると、一気に寒くなる。危ないところだったんだからな?」

 「また、おっこちてないかなって、思って…」

 「干し柿なら、兄ちゃんがいくらでも持ってってやる。だから、外に出る時は誰かと一緒か、せめて馬か犬を連れて行くんだ。鷲でもいい」

 「その候補はなんなの…?ファンの中ではありなの?」

 「馬も犬も、子供を守ろうとするからな。いいか?寒さで身体が重くなってきたら、馬の腹の下に入るんだ。犬もいれば、吠えさせればいい。誰か気付いてくれる」


 さらに鷲を抱いていれば、暖かいからな。

 けれど、フレグは困ったように首を振った。


 「うまも、いぬも、いないです…」

 「え、自分の馬がいないのか?犬も?」


 犬は自分のって言うか、宮の周りにいる犬ではあるけれど。

 紅鴉宮周辺を縄張りとする群れは、全部で十二頭。みんな、俺が呼べばついてくる。

 それに馬は、当然ながらいるものだ。フレグ自身の馬は、七歳の祝いに親父が贈るけれど、飛燕宮の馬がそれまで弟を乗せているはず。


 「いないです…」

 「そっか。じゃあ、人を連れて行くんだぞ」

 「ダメって、おこられちゃう」

 「う、そうか…」

 「ファンあにうえは、おこらないのですか?」

  

 いくぶん赤みを取り戻した来た唇を不安そうに曲げながら、フレグの満月色の双眸が俺を見上げる。

 怒らないのか、か。

 そりゃ、危ないことをしてたら怒るけれどさ。


 「だって、宮の中だけで過ごすなんて、退屈じゃないか」


 俺だってフレグくらいの年には、ジルやジルの兄ちゃんたちと連れ立って、遊牧陣地から出て牛糞集めてたし。

 

 「だから、それについては怒らない。当然だ。でも、こんな薄着で一人でってのは、駄目。それは怒る。危ない事だからな」

 「…ごめん、なさい…」

 「わかれば問題ない。さ、干し柿食べな。食べたら、飛燕宮にこっそり送っていく」

 「こっそりなのう?」

 「フレグの希望だし、怒られたら可哀そうだ。もう反省したんだからさ」

 「うむ!フレグ殿は立派だ!クロムなど、ファンに説教されて拳骨を食らい、なおかつ完璧に自分が悪くても反省しない!」

 「しないねぃ。開き直るだけだねぃ」


 二人とも本人がいないと思って好き放題…いや、いても言うな。

 それに思いっきり事実だしな。いつだったか、買っておいたチーズを一人で食い尽くした時、すんごい叱ったのに「でも不味かったぜ」だけだったもんなあ…。


 「フレグ殿は守護者を選ぶ際、間違ってもクロムのような性悪を選ばぬようにな!そんなのを選ぶ物好きは、ファンだけで良いと思う!」

 「ちゃんとクロムは自慢の守護者だよ。けど、まあ…うん」

 「認めるんだねぃ」


 万人受けしないのは事実だから…。


 「それはどーでもいいとして、ほしがきって美味しいねぃ!すっごい甘い!」

 「疲労回復にも良いんだぞ」

 「ファン、もう一個…」

 「お前それ二個目!今日はもう駄目です!」

 「ぐぬう…」


 フレグも、もちもちと干し柿を食べている。時折にこっと笑うのは、美味しいからだろう。

 

 「あのね、ファンあにうえ…ほしがき、もういっこ、もらってもいいですか?」

 「もちろん。お腹ずいぶん減ってたんだな」

 「ううん。テムルにあげるのです」

 「テムルに?」


 ヤクモが「誰?」って顔をしたのと、フレグが「しまった!」と顔に書いたのが、ほぼ同時。

 

 「あの、あのね、あにうえ…」

 「テムルと仲がいいのか?良いことだよ。兄は弟を信じ慈しみ、弟は兄を信じ敬う。我が家の家訓だ。だから、兄ちゃんはもっとお前たちと仲良くなりたいし、テムルとフレグが仲良しなら、兄ちゃんも嬉しいぞ?」

 「あ、ファンのもう一人の弟くんかあ。あのね、フレグくん。ぼくにも、ひとり弟がいるんだよぅ。あまり会ったことないから、仲良し出来てないんだけど、やっぱり、兄弟仲良しなのはいいことだよねぃ」

 「俺はユーナンととても仲良しだ!片割れだからな!」


 俺たちの言葉に、フレグは干し柿を食べた時よりも嬉しそうに笑った。


 その頬を撫でつつ、内心、俺が知っている弟たちの…いや、第三第四夫人の関係図を頭に描く。

 二人は従姉妹同士で、同時に親父に嫁いできた。


 二人の出自は、北方の小国メラルとウロフの王女だ。

 この二国は、隣国フェリニスがアスランの侵攻によって南北に分割され、南フェリニスが建てられた時にいち早くアスランに対して恭順を誓っている。

 その証として、当時六歳と五歳だった王女たちが成人したら、アスラン王家へと嫁がせると申し出、祖父ちゃんはそれを受け入れた。

 それから十年ちょっと経って、親父がアスラン王に即位した時、約束だからと嫁いできたんだけれども。


 まあ、親父は娶る気がないから、年齢が釣り合うアスランの大公家の誰かにって思っていたそう。

 だが、そううまくはいかず。


 何故なら、后妃に対抗するにはもう少し夫人がいた方が良いと判断した貴族連中と、王に嫁ぐと育てられたのにと泣く二人に同情した、前后妃…つまり、父方の祖母ちゃんのごり押しがあったからだ。

 

 娶ったなら子を産ませるのが、王の務めでもあるわけだし、実際太子が三人しかいないというのは少ない。

 何せ、俺の叔父叔母は合わせて十三人いたけれど、生き残っているのは親父だけ。

 兄貴や俺に既に子供がいればともかく、妻も娶る気配もないって状況じゃ、放棄はできない義務だ。


 従姉妹同士だけあって、二人は仲も良く、そして貴族連中の思惑通り、第二夫人トラキナに敬意を示し、そのトラキナほどじゃないけれど、母さんと俺たちに敵意を現した。


 その関係が崩れたのは、テムルとフレグが生まれた、その時だ。いや、より正確には、テムルが生まれた瞬間だ。

 

 二人は同じ時期に懐妊したが、医官の見立てではフレグの方が一月ほど早く生まれるはずだった。

 従姉妹の二人が妊娠した、二人のこども。

 けれど、王位継承権を持てるのは、先に生まれた一人だけ。


 …そうだな。二人の関係は、むしろここから変わっていたのかもしれない。


 フレグの母、ティエリア殿が第四夫人となったのは、彼女の方が一歳年下だったからだ。特にここで優劣はない。

 そもそも、アスラン王の妻の間で明らかに上下があるのは、后妃とそれ以外の夫人という地位だけだ。

 

 けど、「王位継承権を持つ子の母」と「王の子の母」では、差がある。

 出席できる行事も増えるし、支給される金だって倍以上だ。まあ、ただの夫人だって、俺なら一生使いきれないだろう金額が毎年配分されるんだけれどね。

 

 フレグを…待望の四太子を身ごもったティエリア殿は、それはそれは幸せそうだった。

 わざわざ、兄貴と俺が見えるところまで来ては悲鳴を上げ、それを咎められれば「太子さまがたが、この子を睨んでいるように見えて」と泣いたりしていた。

 それが鬱陶しく、めんどくさかったもんだから、俺はしばらく士官学校の寮に入り、兄貴は兄貴が出るまでもない戦の指揮を引き受けたりしてたな。


 ただ、そのことでティエリア殿に悪意をもったわけじゃない。

 母さんから、妊娠中の女性は神経質になることや、妙な思考に取りつかれることがあると教わったし、多少彼女らを哀れにも思っていたから。

 国の都合で嫁がされ、嫁いだ相手も大切にしてくれるとか、可愛がってくれるという事もない。そりゃ面白くもないし、鬱屈もする。


 その鬱屈を晴らすかのようにはしゃぎまわる姿は、憎たらしいというよりも…可哀そうだった。

 そして、彼女を深く昏い穴へと突き落としたのは…俺でも、兄貴でも母さんでも、親父でもなく。


 従姉であり、唯一完全に心を許せるはずの、ルシアラ殿。


 ティエリア殿が産み月に入り、色々と出産の準備が進められていた時。

 突然、ルシアラ殿が出産した。


 つまり、王位継承権を持って生まれたのは、ティエリア殿のまだお腹にいる子ではなく、その一月後に生まれてくるはずだった、テムルとなった。


 その報せは、ティエリア殿に伏せられた。

 彼女は既にお腹に向かって「ウルバーウガイ」と呼びかけるほどだったから、その「四太子《ウルバーウガイ》」はすでに生まれてしまったと知れば、どうなるかわからない。


 とりあえず、無事に出産が住み、母子ともに落ち着いてきたら話そう。


 そう、侍医たちは判断し、世話をする女官たちにも箝口令が敷かれた。

 ティエリア殿が自分のお腹以外も見ていれば、女官たちがどこかぎこちない事に気が付いたかもしれない。けれど、それに気付かなかったことを責めるのは酷だろう。


 そうして彼女はフレグを出産し、その日の夜。

 どう見ても、今日生まれたとは思えない赤子を抱いたルシアラ殿の訪問を、受けてしまった。


 話によると、必死に止める女官たちを押しのけ、ルシアラ殿は勝ち誇った笑顔で「この子の弟ね。おめでとう」と宣ったそうだ。


 従姉が立ち去ったのち、ティエリア殿は叫びだした。

 血を吐くような叫びは言葉ではなく、まるで手負いの獣が威嚇しているような声だったらしい。

 ついには、危険と判断して侍医が眠らせるほどに彼女は叫び、叫び続け、そして、理解した。

 我が子は「四太子《ウルバーウガイ》」ではないことを。 


 ティエリア殿の出産にまつわる一連の出来事は、「悲劇」と呼ぶにはあまりにも身勝手だ。四太子でなくとも、フレグは元気な赤ちゃんで、彼女の息子なのは変わらない。

 けれど、「四太子ではない」というだけで、彼女はその存在を否定した。そんなのを、悲劇と俺は呼びたくない。


 さらに胸糞悪くなるのは、テムルの一月早い出産に関する噂だ。


 出産は、何が起こるかわからない。

 早産だって、十分あり得る。


 月足らずで生まれたテムルは、産声も弱々しく、何度も生死の境をさまよった。

 成長した今でもよく熱を出し、身体もこの小さなフレグよりさらに小さい、らしい。

 ルシアラ殿だって、月満ちてから産んであげたかっただろう。それは、四太子の肩書より重要なはずだ。


 けれど。

 王宮で囁かれるひとつの噂。


 第三夫人ルシアラ殿は、「四太子」を産むために薬を用いた。

 本来なら、望まれない子を堕胎するための薬を、従妹より先に産み落とすために使ったのだ、と。

 

 荒唐無稽な、失礼な噂だと、火元を調べて取り締まるのが妥当な話だ。

 早産に苦しみ、一歳になれるかわからない、と言われるほどに我が子が危険な状態で生まれた女性に、あまりにも酷い。

 けれど、後宮の取締官《クラガチ》は動くこともなく、現在に至っている。


 さらに、俺は偶然…親父にくっついて弟の見舞いに行ったとき、見てしまった。

 我が子の発熱を嘆き哀しむルシアラ殿が、親父の視線が逸れた瞬間。


 にんまりと笑っていたのを。


 嫌な話だが、テムルが命を落としても、フレグが繰り上がりで四太子にはならない。亡くなっていても、八代大王の四太子はテムルだけだ。

 なので、もしテムルがいなくとも、ルシアラ殿は「四太子の生母」として扱われる。それは、彼女が亡くなるまで変わらない。

 そして、従妹の産んだ子(フレグ)に、王位継承権がないことも。


 あの笑みは、勝者の笑みだった。

 我が功を見よ、と勝ち誇る笑みだった。


 信じたくはない。お腹の子を犠牲にしても、従妹に勝つことを優先するなんて。

 けれど、取締官は今も動かず、噂は囁かれ続け、四太子はテムルだ。


 「あにうえ~?」

 「ああ、ごめん。ちょっと考え事しちゃってた。フレグのほっぺたも、柔らかくて気持ちが良いしな。テムルも、干し柿好きなのか?」

 

 いかんいかん、思考の沼にはまっていた。

 フレグは小さく頷き、蔕だけになってしまった干し柿を小さな指でこねる。


 「あのね、テムルとなかよしなのも、ないしょにしてほしいのです」

 「ええっと、誰に?」

 「ははうえ、とか。いつも、ないしょで、遊びにいってるから…」

 「わかったよ。でも、内緒にできなくなった時は、兄ちゃんを呼べよ?一緒に謝ってやるから」


 弟たちの誕生以来、ルシアラ殿とティエリア殿は、不倶戴天の敵同士になった。

 当然、その原因となった子供たちを仲よく遊ばせるなんてことはしないだろう。

 どうやって弟たちが仲良くなったのか気にはあるけれど、母親たちに知られたら…絶対に、胸糞悪い事になる。

 

 まあ、また出過ぎた行為だって叱られるかもだけど。それで夫人たちを罰しようとかするわけじゃなくて、弟を保護するだけだから、まあ、何とかなるだろう。

 最悪でも、二太子《ナランハル》の称号を返上する程度だ。どうってこともない。


 「まえにね、ほしがき食べたこと、テムルに話したら、食べてみたいって言ってたから、あげたいのです」

 「そうか。じゃあ、これから一緒に雲熊宮にこっそり行くか」

 「ほんとうですか?テムル、あにうえたちの事、よく話してくれるから、きっとあったらうれしくなるです!」


 どうやら弟たちは、母親たちの意向などお構いなしらしい。

 けど、すごく嬉しいな。弟に嫌われるのは、やっぱり嫌だし。ああ、なんか兄貴の気持ちがちょっとわかる。干し柿百個くらい上げたい。


 「よし、じゃあ羊肉は熱いうち、だ!雲熊宮に行こう!」

 「潜入戦か!腕が鳴るな!」

 「そこまで本格的にこっそりするのぅ!?」


 そんなことを言いながらも、ヤクモもなんかワクワクしている。

 うん。休暇の最後の時間の使い方、決まったな。


 雲熊宮に潜入し、干し柿をその主たるテムルに届ける事。

 依頼人はフレグ。報酬は…弟の「おにいちゃんだいすき!」な賞賛だ!

 

 「よっし!行くぜ冒険《しごと》!目的地は雲熊宮だ!」

 「うむ!」

 「おー!」

 

 まあ、でも、兄貴みたいに度の過ぎた弟愛にならんように、気をつけよ…。

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