羊肉は熱いうち(善は急げ)1
第二夫人トラキナが廃され、三太子ダヤンの養育並びに月虎宮の監督は、第五夫人カイゲンに命じられた。
その話題は瞬く間に大都中に知れ渡った。
すでに小カーランでは月虎の守護者を名乗る三人がついに誅されたとお祭り騒ぎになっていた、と言う背景もあるが、事の起こった翌日の朝の話題はこれ一色、というほどの素早さである。
罪状は、三太子ダヤンの養育が不適切であったこと。
三太子は複数の医官が診察し、極度の栄養失調…つまり餓死寸前だと、診断をくだした。
もっとも、医師の診断がなくとも、三太子の瘦せ細った姿を見れば一目瞭然ではあったが。
この王室の醜聞とすら言える事件を、大都の民たちは極上の食事のように貪った。
もともと、第二夫人トラキナの評判は芳しくない。
第二夫人であり貴族であるという立場から我儘放題。
王室の伝統を守らず太子を先王に預けることは拒否。
己こそが本来の后妃だと放言してはばからないくせに、特に何をするでもない。
我儘放題だとか、后妃は自分だ宣言などは「知り合いの親戚の友人の妻の従弟が王宮の侍従官で…」と言う前置きから始まる不確かすぎる噂に過ぎないが、何せ実物を見て、その人となりに触れたものはほぼいないのだ。
それ故、悪い噂を否定するものもなく、好き放題に「知り合いの親戚の友人の妻の従弟から聞いた話」は広まっていく。
つまりは、大都の民が第二夫人トラキナに下した評価は、「高慢ちきで嫌な女」であり、「大したこともないのに威張り腐ることだけは達者な貴族ども」の象徴である。
さらに、金は十分あるというのに、子供を飢え死に寸前にさせるとは!
「高慢ちきで嫌な女」から「希代の悪女、毒婦」へとトラキナの評価は変わり、誰もが…特に小カーランの住人らが、口角泡を飛ばして罵倒する。
このあまりにも回りの早い醜聞は、実は故意に流されたものだ。
月虎宮で行われていた、あってはならない醜態。それを覆い隠すため、密偵たちが大都のあちらこちらで流した事実の破片は、目論見通りにあっという間に隅々まで行き渡った。
いつの間にか、ひそやかに人々に「事実」として「三太子は不義の子であり、黄金の血を引いていない」という情報が浸透してしまえば、払拭することは難しい。
それは違うと声を大きくすればするほど、まして不敬罪だと取り締まろうとすればするほど、「公然の秘密」として定着してしまう。
そうではない、と喚くより「三太子は実母に虐待された、可哀そうな子」と言う印象を植え付ることが、密偵たちの目的だ。
月虎宮の侍従官や女官らの口を全て完全に閉じさせておくことはできない。露見する前から、「噂」は囁かれていたのだから。
その「噂」が流れる前に、大都の民たちが三太子に抱く印象を変えておかなければならない。
何せ、三太子の印象も母トラキナに負けず劣らず悪いのだ。
そこに、トラキナと取り巻きどもは夜な夜な侍従官を寝所に引き込んで淫蕩に耽っていた、などと言う噂が流れれば、やはり三太子は王の子ではなかったのだな、と納得されてしまう。
その噂を聞いたとき、「三太子様、なんとおいたわしい!」となるように仕込みをしているのが、今の段階だ。
いずれ、「真実」は「噂」に紛れてそっと放流される。
ひとつの「嘘」を纏って。
数日後、「何故、第二夫人は三太子を飢えさせて殺そうとしたんだろうな?」と言う疑問が、どこかの茶店や酒場で誰かの口から零れた時。
そこに居合わせていた訳知り顔が、「ここだけの話」を披露する。
つまり、「トラキナとその取り巻きは、侍従官を脅して寝所に引っ張り込んだり、愛人を囲ったりしてたらしい」「三太子は王の子で、引っ張り込んでいた愛人の子じゃなかったから、邪魔になったのさ」と。
その疑問を口にした「誰か」も、ここだけの話をした「訳知り顔」も、今までその茶店や酒場で見かけたことがないものであったとしても、耳にしたものは黙っていられない。
いや、まったく知らない「誰か」の話だからこそ、気軽に漏らす。
年が明ける前には、「噂」は「真実」になっているだろう。
それによって、三太子の血筋に対する疑惑は緩和される。
「いや、愛人の子だからこそ、殺そうとしたのじゃ?」という声も上がるだろうが、トラキナは断罪されたが、三太子は廃嫡されることもなく月虎宮に収まっているという「事実」がある。
王と后妃が下した判断に「いやいや!」と何時までも異を唱えられるものはいない。
まして、三太子は次期アスラン王から最も遠いというのが、大都の民たちの下馬評だ。
アスラン王の座を、黄金の血を引く者以外が収奪するのは許せない。だが、大した権限もない王族の一人がそうだったとしても、民には何の関わりもない。
そんな関わりのない相手を、周りから冷たい目で見られながら追求するほどの暇人はそうおらず、いたとしても相手にされない。
そこまで見据えての、密偵たちの暗躍だった。
***
さて、その一連の大事件の当事者でもあるファンはと言うと、ついに長い長い休暇の最後の一日を迎えていた。
なにしろ、やること、やらなければいけないことは、執務室の机の上にうず高く積まれている。
もともと大したことをやっていないとはいえ、さすがに一年放置すればたまるものだ。
だが、書類で終わる仕事は、有能な部下たちが九割ほど進めておいてくれているおかげもあって、五日程度机に噛り付けばどうにかなるだろう。
基本はフフホトでの仕事と同じく、目を通して問題なければ印を押して認可する。それだけである。
なので、それはそれでいい。覚悟はとうに出来ている。
問題は、書類以外の仕事…冬至に行う一連の儀式だ。
こちらも慣れていると言えば、慣れている。何せ、十歳から二十二歳までやってきたことだ。
年に一度とは言え、その前の一ヶ月はみっしりと、準備や前段階の儀式にかかりきりになるので、忘れたりはしない。
しかし、「慣れている」と「苦もなくできる」は全くの別問題で、毎年毎年苦労する。
その苦労が予想できるからこそ。
休暇の終わりと言う残酷な現実が迫りくれば、溜め息の一つ二つ出ようというものだ。
かと言って、そのまま逃げようとは微塵も思っていないし、最後の一日を文字通り「休んで」過ごせるような性分でもない。
休暇の最終日。休暇ではあったが、大鍛人フレルバタルが漸く北方への旅から戻ったと聞いて、即座に会う約束を取り付けた。
すでに老齢と呼んでいい大鍛人を、旅の疲れも癒させないままに拘束するのは申し訳ない。だが、時間もないのだ。
アスラン王宮の一角にある大工廠は、その年最後の満月の夜に火を落とし、稼働を停止する。
いや、大工廠だけではなく、アスラン中の鍛冶場と言う鍛冶場が、最後の満月の夜に同じように火を落とす。
その後は念入りに掃除され、鍛冶場の守神であり、火と地下の恵みをもたらす神、炎公レイファへ感謝を示す祭壇が築かれる。
年が明けてから最初の満月が天に昇るまで、炉に火が入ることはなく、その間、鍛冶師たちは鉄を打つことを一切許されない。どんな理由があっても。
その間は炎公レイファの眷属たちが鍛冶場を使い、あらゆる道具に話を聞く。
道具を粗末に扱う鍛冶師は訴えられ、どれだけ鞴を踏もうとも炎は燃え上がらず、鉄は溶けなくなる。そう鍛冶師たちは信じ、「無火の月」を守る。
炎公の監査が入るまで、もうあまり日はない。
火急の用だという二太子の申し出を、もちろん大鍛人は断らなかった。
工廠の奥、鍛冶で使う水が湧き出る池の畔にある離れへと、ファンとクロムを迎えいれる。
「ナランハル。千歳申し上げます。なにやら逞しゅうなられましたな。しっかりと打たれた鋼のようであらせられる」
「ありがとうございます、大鍛人。すいません。戻ったばかりでお疲れでしょうに」
応接の間とは言え、敷かれた絨毯以外にはほとんど家具と呼べるようなものはない。
壁と屋根がある分、屋外よりは凍えない…その程度であり、寒さを和らげる茶の一杯も出てくることはなかった。
だが、それは別にファンが侮られているからではない。
ここは応接用の離れと言えど鍛冶場の一角であり、本来は人の領域ではないからだ。
鍛冶場から完全に外に出るまでは、一切の飲食が禁止される。その掟は王族だからと言って免除されるものではない。
それをファンは良く知っていたし、何より大鍛人に時間を作ってもらったのは、楽しく飲み食いしてお喋りをする為でも、畏まってもらうためでもない。
「いえ。帰還したのは一昨日でございましたゆえ、すでに疲れは抜けております。お気になさらず」
「でも、無理はしないでくださいね。その…ちょっと、負担をかけるお願いがあってきたので」
「お願い、でございますか?」
大鍛人は白くなった眉を微かに寄せた。
彼は先代バトウの御代から鍛冶師として勤め、モウキが王位に就いた際、先代大鍛人よりその座を引き継いだ。
その為、ファンについても良く知っている。
弓と手斧は「そこそこ」使えるが、それ以外は新兵にも劣り、本人も自覚があるので携える槍や剣はその場を凌ぐための数打ちもの。間違っても名槍名剣の類を求めるような事はしない。
そのファンが大鍛人に「お願い」があるともなれば、訝し気にもなるだろう。
「クロム」
ファンの声と目線に、横に座っていたクロムが頷き、膝にのせていた包みを持ち上げて立ち上がる。
そして、大鍛人の前でゆっくりと包みを解いていった。
「…ッ!!…これは!!」
大鍛人の顔に浮かんだのは、怪訝な表情ではなく、沸き上がるような興奮だった。
日に焼け、浅黒く硬くなった皮膚ですら透かすほど…それほどに血が勢いよく血管を奔り、顔を赤く染めていく。
度重なる熱傷により半分ほどになった耳たぶは、熟柿のようですらあった。
「まさか、まさか…!!いや、まさかなど、失礼な事を…!ああ、何という、何という…!!」
老いた大鍛人の目から、涙があふれ出る。
だが、視線は縛り付けられたように、包みの…無爪紅鴉旗の中から現れた『紅鴉の爪』から離れない。
古びた鋼を纏い、ありふれた剣に見えていた『紅鴉の爪』は、今や完全に元の姿を取り戻していた。
刀身は漆黒の鋼。しかしそれは、錆びや黴、未研磨などでそうなっているのではないと、誰が見てもわかる。
新月と冬至が被った夜のような黒い刀身は、『紅鴉の爪』の名に相応しい。
「これが…これが、『真の鋼』を以て打ち造られた…『紅鴉の爪』!」
その名を知らない鍛冶師はいない。
神々の至宝であり、炎公レイファがその宝物庫に厳重に保管していると伝えられる『真の鋼』。
それは世界のあらゆるものより硬く、溶かすには太陽の纏う衣か、その欠片が燃えている炎公レイファの角灯から火を借りるしかない。
それの性質を利用して、紅鴉はかつて、世界を救ったという。
かつて、月の門の向こうに追いやられる前の黄昏の君が、贋の太陽を二つ生み出し、太陽を三つにしてしまった。
そのままにしておけば、地上は焦がされて燃えてしまう。
質の悪い悪戯だ。創造神に最も近いその弟神の力は「模造」。
その力で造られた模造品は、長年太陽と連れ添った紅鴉でも見分けがつかないほどによく出来ていた。
その三つの太陽を並べ、黄昏の君は「君がひとつ選んだ太陽を残す。残る二つは自分が貰って帰る」と宣言した。
創造神の弟神であり、最も強い神である黄昏の君から、力づくで太陽を取り戻せるような神はいない。
本物を選べなければ、容赦なく黄昏の君は太陽を奪い去る。やがて贋物が燃え尽きたのち、世界は夜だけが続くようになり、冷えて凍って滅んでいくだろう。
だが、紅鴉は黄昏の君の企てを欠片ほども恐れなかった。
すでにその赤い飾り羽を頂いた頭には、解決の術が閃いていたのだ。
紅鴉は炎公レイファから『真の鋼』をひとかけら借り受け、それを自分の爪に塩で着け、何食わぬ顔で戻った。
『真の鋼』を溶かすのは、太陽の衣だけ。
鋼が溶けた太陽を「本物だ」と断定し、遊戯に勝利した。
しかし、太陽の衣で溶けた『真の鋼』は紅鴉の爪と完全に融合してしまい、以降、紅鴉の右足の爪は、一本だけ長くなった、と言う伝説である。
『紅鴉の爪』はアスラン王国建国の祭、守護神となった雷帝の呼びかけにより、四神獣から贈られた武器の一つだ。
紅鴉は己の爪をほんの僅かに削り、それを炎公の眷属神が刃に仕立て上げたと言い伝えられている。
つまり、ありとあらゆる世界にたった一振りだけ存在する、『真の鋼』で造られた刃なのだ。
鍛冶師ならば、その存在は当然に知っている。
五代の御代に奪われ、振るおうとしたカーランの皇子が鞘から抜いた瞬間絶命したという「事実」も、その後再び鋼の鞘を纏って、宝剣として代々の二太子が継承しているという話も。
その状態での『紅鴉の爪』を見たことはある。
ファンが大都を出る前…つまり、クロムにこの剣を託す前に、丹念に研ぎ、柄を直したのは大鍛人フレルバタルなのだから。
だが、黒い刀身を目にしたことのある鍛冶師は、五代の御代まで遡らなくてはいない。
研ぎを行う間、何度も誘惑にかられた。
この武骨な鋼を剥ぎ取り、その下の漆黒をほんの僅かでも垣間見ることが出来たのなら。
死罪となろうが、『紅鴉の爪』の怒りに触れて心臓が破裂しても悔いはない…と。
しかし、その誘惑を大鍛人は跳ねのけ続け、宝剣を二太子へと返上した。
一刻足らずの研ぎを終えた大鍛人は、十歳以上年を取ったように見えた、と彼の弟子たちは口を揃える。
それほどに恐ろしく、そして蠱惑的な一振り。
『紅鴉の爪』はまぎれもなくアスラン王国の至宝であり、世界でも屈指の聖なる武器だろう。
だが、鍛冶師にとってはおのが魂を試され、生命を削る魔剣だ。
誘惑に負けて手を伸ばせば、全てを喪う。
それでも、ほんの一目でもと焦がれ、その瞬間まで研ぎ澄ませてきた己の技も、矜持も、良心すらかなぐり捨てても悔いはない。
その、『真の鋼』が。
抜き身の『紅鴉の爪』が、目の前にある。
「なんと…なんと、美しい…」
何処までも澄み渡り、しかし、決してその先を見通すことはできない夜天の黒で造られた刀身は、髪の毛一筋ほどの歪みもない。
伝説の謳われる通り、これは間違いなく、誰かの手が打った刀だ。
誰か。それは間違いなく、大鍛人らが日夜祈りを捧げ、崇め、敬う炎公とその眷属神。
人間の手が造りえるものではない。神の軌跡を一振りの刀の形にしたもの。
それが、大鍛人の前に、在る。
「ああ、ナランハル。ありがとうございます。私は、今、この直後に死んでも悔いはない」
万感の思いで礼を口にしながらも、大鍛人の視線は『紅鴉の爪』から外れない。
誰かが『紅鴉の爪』を自分の視線から取り上げない限り、餓死してでも、そのまま腐り果ててしゃれこうべだけになっても、己は見つめ続けるだろう。
そう、大鍛人フレルバタルは理解していた。
「い、いや、死なないでくださいね!?その、お願いって言うのは、この『紅鴉の爪』に関する事なんです。ちょっと、色々ありまして、見ての通り刃がむき出しになっちゃっているわけなんです。見た感じ、刃毀れとかはありませんが、今後どうなるかわからない。なので、手入れとかお願いできないかなーっと…」
「現在は、どのように?」
「乾いた絹布と羊の毛皮で拭いてます」
大鍛人の問いに、クロムが答える。
『紅鴉の爪』の手入れだけは、決して他人に任せず、毎日クロムが行っていた。
それに不満はない。むしろ、漆黒の刃を見るたびに、己が紅鴉の守護者なのだという証拠のようで、誇らしくさえあった。
しかし、ファンの言う通り、もし刃毀れや歪みが出来た場合、クロムにそれを修復する事はできない。
応急処置的な研磨や、柄の緩みを直すくらいは士官学校で履修しているし、この一年で経験済みだ。
だが、これからさらにでたらめな「敵」が現れた時、『紅鴉の爪』が無傷とは限るまい。
大鍛人の視線は『紅鴉の爪』から外れず、涙も止まらない。
だが、顔の赤みは消え…むしろ、青褪めているようにすら見えた。
「ナランハル」
「はい」
「まことに、申し訳ございませぬ」
深々と、視線を引きちぎるように外し、額を床に擦り付ける。
「え、ちょ、待ってください!と、とりあえず、顔を上げて!」
「もう一度『紅鴉の爪』を見てしまえば、私は己が分もわきまえず、手を伸ばしてしまうやもしれません。どうか、どうかお納めください」
「クロム!」
「おう」
大鍛人の嘆願と主の上擦った声に、クロムは元のように『紅鴉の爪』を包み込んだ。
その気配を察し、大鍛人の体勢が元に戻る。
「あの…大丈夫、ですか?」
「あぶのうございました。もう少しで、手を伸ばすところだった…」
涙と汗で顔中を濡らしながら、大鍛人は声を絞り出した。
その目には、まだはっきりと『紅鴉の爪』の残像が焼き付いている。
浅ましく手を伸ばし、怒りに触れる己の姿の幻想も。
「伸ばしてもらって全然問題ないんですけど、駄目、なんでしょうか?」
「はい。私の技量では…いや、技量の問題ではありませんね。私では、『紅鴉の爪』の怒りに触れます」
ファンの視線が、つつつ、とクロムに向く。
その表情は「クロムは触れるのに?」と疑問を雄弁に主張していた。
「おそらく、『紅鴉の爪』に触れることを許されておるのは、ナランハルとその守護者殿のみでしょう」
「許される…?」
「はい。『紅鴉の爪』は神獣の名を冠した聖宝というだけではございません。一柱の神である、と申し上げても過言ではありますまい」
かつて、それを己がアスランを手に入れる証拠だと振りかざしたカーランの皇子は、心臓が破裂して死んだ。その苦悶と激痛に歪んだ死に顔は、凄絶なものだったと史書は伝える。
同時に、『紅鴉の爪』の爪から鋼の衣を剥ぎ取った鍛冶師たちも同じ死に顔を晒し、鍛冶場は一斉に炉から炎が噴き出して燃え尽きた。
「冬至の儀式に合わせれば、鎮めてまた鋼を纏わせることもできるかなーって思っていたんですが…」
「『紅鴉の爪』と紅鴉は、もはや完全に別たれた神とお考えになった方がよろしいでしょう。百年前、ジルチ大王の手に戻った『紅鴉の爪』は、四名の鍛冶師の身命と引き換えに再び鋼を纏いました。
しかし、『紅鴉の爪』がお許しくださらねば、アスラン中の鍛冶師が死に絶えたとしても…為しえなかったでしょう」
「う…そこまで、ですか?」
「神を人の肉体に押し込めるようなものです」
大鍛人はゆっくり首を振り、ファンは思わず天井を仰いだ。
簡単に考えすぎていた、と反省しつつ、同時にさてどうするかと頭を巡らせる。
『紅鴉の爪』を修復できる鍛冶師は絶対に必要だ。
それに、鞘はどうしても欲しい。抜き身のままでは危ないし、それにもし、珍しい黒い刀身を見た不心得者が金になると踏んで盗もうとすれば…大変な災害が起こるかも知れない。
かつて『紅鴉の爪』を不当に所持したカーランの皇子が死んだ瞬間は、まさに開戦を宣言し、軍が動き出した瞬間だった。
それにより大混乱に陥ったカーラン軍は、ジルチ率いる十分の一以下の軍に壊滅させられたのだ。
むろんその前にも勝つための策は幾重にも張り巡らされ、皇子の死がなくても…アスラン軍の勝利は間違いなかった、と言うのが、現在の軍学者たちの分析ではある。
しかし、最も効果的な瞬間であったのも、まぎれもない事実だ。
もっと前…例えば鋼を剥ぎ取られた『紅鴉の爪』を腰につるした瞬間などで息絶えていれば、数万と言われる戦死者はもっと少なくなっていただろう。
つまり、『紅鴉の爪』は、最も被害が広がる一瞬を狙いすませて、その怒りを具現化させることができる、という仮説が立てられる。
どうなるのか検討もしたくないが、盗人が死ぬ程度では終わらせてくれないだろう。盗まれないように警戒するのは当然としても、まずは人目につかないようにする、という用心はしておきたい。
「せめて鞘は…」
「鞘は納める刃と拮抗せねばなりません。材料の選定から初めて、数年がかりとなるでしょう」
「数年!?」
「ええ。必ずやアスラン大工廠にて作り上げますが、時は掛かります」
「うひー…」
もういっそ、宝物庫に収めておいた方が良いのか?だが、黄昏の君の眷族と戦うには、絶対に『紅鴉の爪』が必要となる。
『紅鴉の爪』が気分を損ねないよう気を配りつつ、携えるしかない。
「なんかさ、クロム」
「ん?」
「『紅鴉の爪』、お前に似てるなあ」
「どういう意味だ?」
「わりとそのまま。名前も同じクロムだしなあ」
気分を損ねると大変に面倒くさいが、なくてはならない存在。
褒めているのか貶しているのか、ファン本人にも判断がつかないが。
「私が見たところ、『紅鴉の爪』は振るい手として守護者殿をたいそうお気に召しておられるようですよ。ナランハル」
「そうなんですか?」
「ええ。相応しい振るい手を得た武具は、満足いたします。『紅鴉の爪』は今、良き振るい手と…そして、おそらく、存分に己が力を発揮する敵を得ている」
黄昏の君の眷族。
確かにそれは、神々の至宝と神獣の爪から生まれた刀にとって、申し分ない敵だ。
アスランが建国され、『紅鴉の爪』が地上に齎されて、はじめて得る「敵」。
武器の本分は戦う事なのだとすれば、ただ祀られているより、よほど心地よい状態なのかもしれない。
「だからこそ、『紅鴉の爪』は鋼に覆われるのを拒絶いたします。やっと得た相応しい振るい手と敵があるというのに、眠らされてなるものか、と」
「なるほど…なんかますます、『紅鴉の爪』が他人じゃないというか、親しみがわくなあ…。アスランの至宝に対して申し訳ない感想かも知れないが」
「それを不遜と『紅鴉の爪』が断ずれば、ナランハルはご無事ではすみますまい。つまり、『紅鴉の爪』もまた、ナランハルを気に召しておられるかと」
そう言うもんですかねえ…と呟きながら、ファンは包みの奥にある、その黒い刃を見つめた。
なんだか、面倒くさそうに「まあな」と腕を組んで頷いているような気がしたが…それを口にするのは、さすがに不遜が過ぎる気もする。
「つまりは…当分、このままにしておいた方が良いって、事ですよね」
「ええ。しかし、振るう相手にはお気をつけなされ。『紅鴉の爪』が機嫌を損ねるような相手には振るわぬよう」
「なら、クロム。普段は別の剣か刀を使わないとなあ」
「『紅鴉の爪』は背負って、腰に普段使いのもん下げておく。それでいいだろ」
主従は顔を見合わせて頷いた。
だが、大鍛人は首を横に振る。
「あまり温存しすぎても、機嫌を損ねるやもしれませぬが…」
「ええっ!?ますます、なんか…クロムっぽいな。まあ、クロムの扱いは馴れてるし、なんとかなるかな」
「どういう意味だ!」
「まあ、そのまま…?」
二人のやり取りに、大鍛人の頬が緩む。
大鍛人は、ファンがまだ子供と言える年から見守ってきた大人の一人だ。
そして、その守護者になるために努力を重ねてきた少年の事も、当然よく知っている。
「ナランハル。『紅鴉の爪』が真の姿を現し、敵を見出しているという事は、尋常ならざる事態がおきている。そういうことでございましょう」
「…はい。最悪、この世界が滅びるほどの」
「どおりで、十二狗将の方々が武具の手入れの依頼を、次から次へと持ち込むはずだ。これで得心がいきました」
「大鍛人にも、おそらく親父から何が起こっているか、説明があると思います。俺から話してもいいんですが、一応、アスラン王預かりの一件となっているので…」
「構いません。何が起ころうと、この私にできることは、刃を鍛える事だけですからな」
『紅鴉の爪』を、『真の鋼』を、我が手で鍛えることが出来ないのは無念だ。血を吐く程に悔しく、惜しい。
今すぐ死んでもいいから、その黒刃に手を触れたいという思いも、全く消えていない。
だがそれは、自己満足だ。
『紅鴉の爪』は、己ごとき鍛冶師に手を触れさせることを良しとしていない。
刃の声に耳を傾けず、己のどうでもいい自尊心と欲望の為に『紅鴉の爪』に手を伸ばすのであれば、それはもう鍛冶師ではない。盗人の類だ。
鍛冶師としての矜持を背骨とし、まっすぐに立ち続けたいと望むのであれば、この灼熱の未練は捻じ伏せ、叩いて静めてみせねばなるまい。
大鍛人の称号を恐れ多くもいただいた身だ。その名に相応しい「鍛冶師」として、『紅鴉の爪』の前に、『真の鋼』の前に在りたい。
だから、フレルバタルは『紅鴉の爪』に触れられるもの、その可能性があるのはどのようなものかをしばし考え、そして思ったことを口にした。
「おそらく、『紅鴉の爪』に手を触れ、研ぐことが出来るのは、天下の名工であるよりも、神に近しいものであるかと思います。
炎公レイファは刻印を授けぬ神ですが、その眷属神いずれかの一柱の刻印を授かったものなれば、或いは…」
「鍛冶神って言うと、ク・ワルンや、オードラムのって事ですか…」
「残念ながら、大都の神殿に刻印持ちはおりませんが。先ほども申しましたように、『紅鴉の爪』はすでに神に等しい。神に触れるのは、やはり神職でしょう」
大鍛人の言っていることは、確かに理に適う。しかし、炎公レイファとその眷属が刻印を授けたという話はほとんど例がない。
一番近い例としては、先の灯の英雄に従った鍛冶師が、剣の王オードラムの刻印を授かり、聖剣を鍛え上げて灯の英雄を援けた、というものだ。
オードラムの信仰は西方に篤く、東方では炉の守護神ク・ワルンの方が広く信仰されている。そのク・ワルンが刻印を授けたという逸話は、ファンの知識の中になかった。
「鍛冶神の刻印持ち、か…」
呟いたファンの目が、僅かに大きく開かれる。
明らかに何かに辿り着いた顔に、クロムと大鍛人の視線が吸い寄せられた。
だが、二度、三度と瞬きをして、ファンはへらりと曖昧な笑みを浮かべ、何も答えない。
明らかに誤魔化している様子だが、二人ともこうしているときのファンは、意地でも何もしゃべらないことを知っている。
(キサヤ…イフン地方の、封じられた鍛冶神)
かつて、イフンがカーランに蹂躙された時、我慢できずに顕現し、イフンの民を救った慈悲深い神。
その刻印を持つものは、『真の鋼』すら鍛え上げ、打った武器防具は神々のものとなる、と言う。
(もし、それが真実なら…『紅鴉の爪』を打ったのは、鍛冶神の眷族そのものじゃなく、眷属神キサヤの刻印を授かった鍛冶師なんだろうな。『真の鋼』を使って造られたのは、この一振りだけなんだから)
だが、その存在は秘せられ、イフンの民たちだけがひっそりと伝えている。
禁を破ってキサヤを祀れば、その封印は未来永劫解けることはないという。
ここでファンがその存在を明かしてしまえば、イフンの民たちがその慈愛に感謝しつつ、しかし堂々と祀ることもできない哀しみに堪えてきた三百年を打ち砕いてしまうかも知れない。
(『紅鴉の爪』を扱える鍛冶師はそりゃ必要だけれど、イフンの人々の祈りを踏みにじってまで必要か、と言えば…そうじゃないよなあ)
「と、とにかく、炎公神殿や、鍛冶神の神殿に刻印持ちがいないか確認しよう!いたら有難いし!いなくてもまあ、何とかなるだろ!たぶん!」
「ま、お前がそう言うならそれで良い。へし折ったり、刃毀れを作るような無様な戦い方はしねぇし」
「なら、問題なしだ!今日は時間を取ってもらって、ありがとうございます!大鍛人!」
明らかに不自然な様子に苦笑しつつ、大鍛人は頷いた。この辺り、子供のころから変わっていない。
「ナランハル。『紅鴉の爪』についてはお力になれませぬが、それ以外…例えば、守護者殿が振るう剣を用立てよと申されるのであれば、是非、この老骨めに命じください」
「…!マジ、じゃなくて、本当、ですか!」
今度はクロムの目が見開く。
大鍛人は、アスランの鍛冶師の最高峰だ。特に当代の大鍛人フレルバタルは、剣の鍛冶として歴代大鍛人の中でも頭抜けていると讃えられている。
その手が打ち、鍛え上げた剣を持つことを、多少なりとも武器を振るうものなら憧れないはずがない。
「うむ。ただし、守護者殿よ。私は、あくまでも其方の戦いに相応しい剣を打つのみ。『紅鴉の爪』の露払いになる剣を。
其方が振るう剣を、ではない。その違いを、忘れなさるなよ」
「無論です。その剣に相応しい戦士に、俺はなります。絶対に」
「うむ」
にっかりと、皺の刻まれた口が笑みを作った。
既にこの若者は、わかっている。
強い武器を持てば、それだけで強くなるわけではない。
その武器に相応しい技量を身に着けて、武器と振るい手は強者となる。
己が力量に合わない武器を持ったところで、振り回されるだけだ。
「振るい手」とならねば、どれほどの名剣とてただの鋼の棒に等しい。
「いや、あまり時間がないのだったな。ならば、三日後にまたここに参られよ。今まで私が打った中で、これぞと思う剣をお渡ししよう」
「あの…ありがとう、ございます」
深々と、クロムは頭を下げた。拳を胸の前で合わせ、腰を折り、無防備な頭と首筋を晒す、これ以上はないほどの一礼。
滅多に礼と謝罪をしないクロムの一礼に、ファンは内心「おお」と驚いた。
ユーシンとヤクモが見ていたら大騒ぎだったなと思うのと同時に、クロムがちゃんと頭を下げて感謝を表せた事を嬉しく思う。
やればできる子なんですよ。俺の守護者は。
その「やればできる」がとんでもなく低い水準な気もするが、それはそれとして置いておく。
「我が守護者と共に、感謝いたします。大鍛人」
「『紅鴉の爪』の露払いになるという栄誉を任される剣です。まずは一振りお渡しし、その後、この老骨の最後の一振りと思うて打ちましょう。ただ、半年はいただきたい」
「いや、そんな、二振りも…」
いただけないですよ、さすがに…と狼狽えかけたファンだったが、その狼狽を態度に出すよりも早く、動きを止めた。
ファンだけではなく、クロムも大鍛人も、ひとつしかない出入口…今は分厚い布が降ろされ、その向こうには親衛隊騎士が立つはずのそこへと、視線と神経を集中させる。
「お引き取りを!」
「自分は第一工房の長をしています!怪しいものでは…!」
その布を通して聞こえてくるのは、騎士と誰かが言いあう声だ。
ありゃ、とファンは眉を寄せた。
さすがに、大都の外宮とは言え、アスラン王城の中であり、巡回する兵も多い大工廠ならばそれほど警戒も必要なかろう。そう判断して、警護の騎士は顔見知りの古参ではなく、この一年で新しく紅鴉親衛隊に入隊した騎士を連れてきている。
何せ、ファンが大都を離れているので、ここ一年で紅鴉親衛隊騎士となった者たちは、ろくに「らしい」任務に就けていない。
それではという事で、二太子の警護と言う任務を割り振ったのだ。
新しく入隊した騎士たちは、見るからに張り切っていた。その様子を見ながら、「ああ、彼らはまだ染まっていないなあ。いつまで持つかなあ」などと思っていたのだが、その純白さが裏目に出たようだ。
古参の騎士たちなら、招いていない客が現れれば、一応まずは言葉で説得する。
だが、それが無駄だと知れば「うぇええい!」などと言いながら謎の動きで招かれざる客の前に立ち塞がり、ファンからの指示があるまで、決して通さないだろう。
例えそれが八代大王や、一太子であっても。后妃相手だと、どかされる可能性は高いが。
「ボルドクめ、ナランハルの御前であるというのに…」
「第一工房の長って名乗ってますが、トムスフさんじゃあ…変わったんですか?」
「ええ。トムスフは目の衰えがひどく、引退いたしました」
「そうだったんですか。良い鍛冶師だったのに…」
「工房長を退き、目を休ませながら鍛冶は続けておりますよ。もとより好んでおった、調整や研ぎを主にやっておりまして。工房長であった頃より、若返ったように見えまする」
苦笑しているが、弟子でもあった前工房長の元気な様子を喜んでいる。
ファンにしても、トムスフはいろいろと世話になった相手だ。落ち込んでめっきり老け込んでいる、などと聞くよりよほど嬉しい。
大鍛人が総監督を務める大工廠は、全部で五ヶ所の工房に別れており、それぞれに工房長がいる。
第一第二工房では槍や斧、剣に刀と言った刃を持つ武器を造り、第三工房では鏃、第四工房では棍棒や鉄鞭などの打撃武器、そして第五工房では盾や甲冑に縫い込む鉄札を作成する。
生産された鏃や鉄札はまた別の工廠へ送られ、そこで矢や甲冑となるのだ。
総監督と言っても、大鍛人に求められるのは生産力の向上や帳簿の管理ではなく、王族の使用する武具や、褒賞として与えられる名品を造ることと、後進の育成だ。
その為、実際に工廠の運営を行い、様々な権威を持つのは工房長であると言えた。
特に第一工房は規模が大きく、兵装の開発なども行っている。その工房長ともなれば、朝議の席に呼ばれることもたびたびあり、十二狗将ですら一目置くような相手だ。
しかし、ボルドクと言う名を、ファンは聞いたことがなかった。
運営能力だけでなく、当然鍛冶の腕も優れなくては、工房長にはなれない。
アスランに名をとどろかす鍛冶師なら、多少なりとも名前を聞くものだけどと思っていると、大鍛人の口許が歪んだ。
「腕は…悪くないのですがな。申し訳ない。どうも、己の弟子ではないため、実力のほどを測りかねておりまして」
「大鍛人の推挙ではないんですね」
「第三工房のオド殿の推挙です。南方にて名を馳せる名工であると」
そう評す声はあまりにも素っ気なく、それに一番慌てたのは、当のフレルバタル本人だった。
「いや、申し訳ございません。どうにも身内びいきですな。みっともない。実際、ボルドクの打つ剣は良い剣です。ただ…」
「ただ?」
「ああ、口が過ぎますな。お忘れくだされ。ナランハル」
揉める声は徐々に近づいてくる。つまり、防衛線は突破される寸前の様だ。
大鍛人の言葉の続きを促せる余裕はなさそうだ。
「申し訳ございません、ナランハル。叱りつけてまいります」
「いえ、大鍛人に叱られたのじゃ、第一工房長もうちの騎士も面目が立ちません。もうお暇することにして、退散して有耶無耶にしますよ」
ひょいと立ち上がり、ファンとクロムは視線と頷きを交わしあった。
徐々に突破されつつあるが、聞こえてくる声からして、居丈高に騎士たちを退けようとしているわけではないようだ。
何の用かはわからないが、話してわからない相手でもないだろう。そう判断し、やや硬くなった身体を揺らしてほぐす。
「重ね重ね、申し訳ない。せめてこの老骨めも、ご一緒させていただきましょう」
「じゃあ、行きましょうか。それにしても良かったなあ。クロム。『紅鴉の爪』については現状維持としてもさ、大鍛人フレルバタル師の打った剣なんて、家宝になるぞ」
「とりあえず、馬鹿たちに自慢する」
こみあげる笑いを我慢できず、クロムの唇の両端は震えている。
それでまた喧嘩になったら、頭じゃなくて尻叩きだ。
先頭に立ったクロムが、この部屋と外を隔てる布を捲るのを見ながら、ファンは内心に決意した。
「おお、ナランハル!千歳申し上げます!」
まさに騎士たちの包囲を突破寸前だったのは、四十半ばに見える巨漢だった。
革製の前掛けも防寒ではなく耐熱の為の手袋も、つい先ほどまで鍛冶をしていた恰好のまま駆けつけた証拠のように、所々黒く焦げて微かに煙か湯気を立ち上らせている。
「ご無礼、申し訳ございません!しかし、いてもたってもいられず…!」
「大鍛人じゃなく、俺に何か用と?」
「はい!」
太い眉と大きな鼻に挟まれた小さな目が、朝日を浴びた霜のように輝く。
盛り上がる頬は寒さの為だけでなく赤く染まり、跪いた態勢のまま、その赤くなった顔を勢いよく、冷たい地面に押し付ける。
「なにとぞ、なにとぞ『紅鴉の爪』を一目、お見せいただきたく!!」
「ボルドク!!」
厳しい大鍛人の声に、微かに分厚い背が震えた。しかし、顔を上げることなく、巨漢の鍛冶師は願い続ける。
「お願いいたします!!ナランハル!!昨年、大鍛人がご自身の身命を削って整えた、と聞き及んでから、できうることなればそのお役目を引き受けたいと希い、かなわぬならば一目、その姿を見たいと…!」
震える声は、演技ではない熱量が籠っている。
二太子が帰還し、守護者を伴って大鍛人に面会を求めるのならば、『紅鴉の爪』の事であろうと推測することは容易いだろう。第一工房長なら特に。
そして、二太子に強引に会おうとしても無礼討ちにされない程度の身分でもあるのだ。大工廠の工房長と言うのは。
それで思い余って突撃し、それでも騎士たちを怒鳴りつけてどかすのではなく、自分は怪しいものではないと主張して何とかしようとする…それは、少し微笑ましくもある。
だが。
(クロムが、絶対に嫌だって顔しているな)
すでに『紅鴉の爪』は、無爪紅鴉旗に包まれてクロムの背に括りつけられている。それを庇うかのような姿勢だ。
「あー…第一工房長ボルドクよ。貴殿は、何か勘違いしているようだ」
「は?」
土にまみれた顔があがる。ぽかんと開いた口と、瞬きを繰り返す小さな目が、困惑を主張していた。
「俺は、正式に守護者となるこのクロムに下賜する剣について、大鍛人に相談にきていただけだ。『紅鴉の爪』は、紅鴉宮の宝物庫に安置されている。今ここにはない」
「さ…さように、ございます、か…」
しおしおと小さくなったようにすら見える第一工房長を見ていると、やや罪悪感もわいてくる。
だが、嫌がるクロムから『紅鴉の爪』を取り上げて見せてやりたいと思うほど、ファンはこの男を知らない。
槍も剣もまるで使えないファンのために、少しでも使いやすいものをと色々作ってくれた前工房長ならば、クロムに包みを広げろと命じたかもしれないが…さすがに初対面の相手にそこまでしてやる気にはなれなかった。
「ボルドク様!」
数人の気配と、足音。
萎れたボルドクから視線を向ければ、何人かの鍛冶師たちが走ってくる。暴走した工房長を止めようとしているのだろう。
その最後尾に見知った顔を見つけて、ファンとクロムは同時に「あ」と声を上げた。
二人の視線を辿り、大鍛人の顔に「おや」と少し面白がるような笑みが浮かぶ。
「マシロを、御存じで?」
「いや、まあ…」
少し遅れながらついてきているのは、先日鈴屋で見た、母方はとこの顔。
向こうもこちらに気付いたようで、少し眉が寄っている。
どんな知り合いかと聞かれたら、何と答えようとファンは慌てて考えた。
馬鹿正直に「はとこ」と答えるのは不味い。ファンの外戚だと知られれば、マシロの立場が微妙になるかも知れない。
そういう繋がりでもてはやされるのを、マシロは良しとしない男だ。
「幼馴染です。俺の」
どうしようどうしようとグルグル回っている主を無視し、クロムが簡潔にマシロとの関係を述べた。
嘘はない。ファンのはとこでもあるが、クロムの幼馴染なのも真実だ。
「おお、そうでしたか。トムスフが引退して間もなくやってきましてな。今ではトムスフの弟子兼助手として、研ぎや調整を手掛けておりますが、筋がいい」
「あいつ、器用な奴ですし。マシロの兄貴は鏃工だし」
「おお、シンクロウも知っておるか。あやつも実に腕のいい職人だ。まあ…工房長には向かないが」
「喧嘩っ早いし、世の中の九割は暴力で解決できるとかほざくし、わりと頭悪いっすからね。シンクロウ」
年上のはことを端的かつ正確に捉えた評価に、ファンはどうにか吹き出すことを堪えた。
クロムが初対面の人を相手に、雑談をすることはとてつもなく珍しい。やはり、剣を貰えるという事でかなり浮かれているし、大鍛人に対する心証が飛竜のように天高く舞い上がっているのだろう。
ファンのアスランから持って行った矢の鏃は、全てマシロの兄、シンクロウの造ったものだ。
作成者と同じく、武骨で装飾はなく、だが実に丈夫で質が良い。
どんな風にも負けず標的へと突き進む鏃は、造り手の生き方そのものだとも思う。
「な、ナランハル!千歳申し上げます!」
追いかけてきた人々が、ファンの存在に気付いたようだ。慌てて膝を折り、冷たい地面につけようとする。
マシロだけは、慌てた様子もなく滑らかに膝を折ろうとしていたが。
「ああ、跪礼はいい。立ったままで。もうお暇する…ンン、引き上げるところだったしな」
王子様らしく振舞うのは楽じゃないが、まだ染まっていない騎士たちと、ファンをはるか殿上人と仰いでくれる人の前では、それらしく振舞うのも仕事の一つだろう。
「立ったままでいい」と告げること自体「王子様」としてはおかしいのだが、ファンとしては精いっぱい頑張っているつもりである。
戸惑う人々の中、またマシロだけがそう言われるのをわかっていたように、立礼に変えた。
いや、すでに十年の付き合いだ。ファンが止めるのは予測していたのだろう。
その様子を、大鍛人は面白そうに眺めていたが、追いかけてきた人々が薄着なのを見て早々に解散させることにしたようだ。
ファンに向き直り、胸の前で手を合わせて一礼する。
「ナランハル。またのご来訪を心よりお待ち申し上げまする。守護者殿の剣につきましては、お任せくださいませ」
「ありがとうございます。大鍛人」
主の言葉に続き、クロムもぺこりと頭を下げた。頷きと礼の中間くらいの動きではあったが、大鍛人に気にした様子はない。むしろ、ますます機嫌よく目を細める。
「では皆、紅鴉宮に戻ろう」
「御意」
ファンの言葉に、騎士たちが声を揃え、姿勢を正す。
その騎士たちに負けず劣らず背を伸ばし、緊張しながら立礼を続ける一同の前を通り過ぎ、ファンたちは大工廠を後にした。
その後ろ姿を、食い入るような目で見る者を気にも留めずに。
***
「クソ!!」
罵声と共に、土が蹴り上げられ、乾ききったそれは冬の風に吹き飛ばされていく。
それがまた苛立つのだとでも言うように、男は何度も地団駄を踏んだ。
「守護者へ下賜する剣だと!!そんなわけがない!!紅鴉の守護者に渡すなら、『紅鴉の爪』に決まってるだろう!!莫迦にしやがって!!」
喚き、地団駄を踏み、顔から湯気を立ち上らせる男…ボルドクは、血走った目をやや離れて立つ人物へと向けた。
第一工房の資材置き場の裏。そろそろ炉の火を落とそうというこの時期、資材の調達にやって来る者もおらず、閑散としている。
いや、閑か、ではない。ボルドクが一人で騒音を撒き散らしていた。
「…それで、俺に何の御用ですか?工房長」
「マシロ。お前、あの守護者の小僧と幼馴染だそうだな?」
聞かれていたか、とマシロは微かに眉間に皺を寄せた。
ファンたちの声は距離的に聞こえなかったが、大鍛人がマシロとクロムを交互に見ながら何か問いかけていた。
おそらく、関係を聞いているのだろうとは思っていたし、「俺の母方のはとこです」とファンが答えたらどうしようかと焦った。
答えたのはクロムの方だったから、おそらく「幼馴染だ」もしくは「幼馴染の兄だ」とでも答えたんだな、と判断していたのだが。
その声は、二人の前で額を地面につけていたこの男の耳に、届いてしまっていたようだ。
「ええ。まあ」
短い答えに、ボルドクはにんまりと顔を歪めた。
その表情には、真摯に『紅鴉の爪』を一目見せてほしいと懇願していた、鍛冶師の面影はない。
何も知らないものが見れば「賊の親玉」と評するだろう。
「宝物庫などにあるもんか。おい、マシロ。あの小僧からなんとしても、『紅鴉の爪』を取ってこい」
「…は?」
「『紅鴉の爪』を俺の前に持って来いって言ってるんだよ!!この愚図が!!」
にやけていた顔をがらりと変え、ボルドクは吠えた。気の弱いものなら、声がなくとも顔だけで怯えて腰を抜かすかもしれない。
だが、マシロはただ目を細め、眉を顰めただけだった。
「大罪ですよ。持ち出した俺は無論、あなたも罪に問われる」
「罪だと…?!いいか、マシロ。そりゃあ、見当違いってもんだ」
忙しく顔に乗せる表情は変わる。今度はむしろ感極まったような、恍惚とした真顔。
どちらにせよ見ていて嬉しいものではないので、マシロは小さく溜息を吐いた。
「いいかあ?『紅鴉の爪』は、天下の至宝だ。昨年、大鍛人はその研ぎを行い、心身共に疲れ果て、精魂尽き果てたって有様になったそうじゃないか」
「そうらしいですね」
一年前、まだ二人は大工廠に入っていない。
だが、その大鍛人の渾身の仕事については、様々に耳に入り目に留まる。
特にマシロは師であるトムスフが、「あんな恐ろしいことをやり遂げられるのは、やはりお師様だけであろうなあ」と、何度も嘆息しながら語ってくれたのを聞いていた。
「もう大鍛人は年寄りだ。次にやったら、死ぬかもしれない。だからな、この俺様が代わってやってやろうと、そう言っているんだ」
「…」
それはきっと、マシロたちが駆けつける前に断られたのだろう。
マシロは、ボルドクがなにを求めたかまでは知らない。
工房長がいそいそと仕事着に着替え、駆けだしていったのを、第一工房の鍛冶師たちは唖然として見送るしかできなかった。
まあ、いいか…と作業に戻ろうとしたが、外に出ていた鍛冶師が、慌てて駆けこんでくるなり、「工房長が紅鴉親衛隊と揉めている!」と叫び、「ナランハルとお師様に無礼を働く前に止めよ!」というトムスフの声号令が発せられる。
それでマシロを含めた数人が駆けだし、すっかりしょげかえったボルドクを連れ帰ってきたのだが。
トムスフに報告をしようと奥の作業場へ戻るマシロの耳に、「資材置き場の裏に来い」とボルドクが吹き込んだ。
それだけで十分気色悪く、不快だったが…さらにその上を行く「命令」をされるとは。
「ナランハルだって、俺様の仕事を見てくだされば、納得するさ。そして、俺様こそ次の大鍛人に相応しいとわかるだろうよ!」
鼻息荒く宣言し、ボルドクはマシロに顔を近付けた。
壁に背をもたれさせていなければ、近付いた分避けることもできたな…と、マシロは位置取りの迂闊さを後悔しつつ、せめて口臭を避けるべくやや顔を背ける。
「なア、断れないよな?マシロよ。断ったら、お前の兄貴は大工廠から永久追放のうえ、鉱山奴隷だ」
「…」
「禁制の酒飲んで、大暴れだもんなあ。この俺様がよ、お前の顔に免じて、処遇の保留を申し出なきゃよお、とぉっくに処罰されてるんだぜ?」
「…」
半月ほど前。
兄のシンクロウが工房で大暴れして、鍛冶師数名を病院送りにした…と言う話をボルドクから聞かされた。
なんでも泥酔し、咎めた先輩鍛冶師を一方的に殴りつけたのだと。
鍛冶場では、一切の飲食は禁止であり、特に飲酒などはとんでもない。
それが露見しただけで馘になっても文句が言えない行為だが、さらに暴力沙汰ともなると、馘のうえに重い刑罰も避けられない。
だが、ボルドクの横やりで処分は保留となっており、シンクロウは第三工房のどこかで謹慎中らしい。
むろん、この男は何の見返りもなしにそんなことをしているわけではない。
とは言え、おそらく深い考えもない。
ただ、トムスフの弟子と言う立場のマシロに、嫌がらせをしたいだけだ。
目を病んで工房長から退くまで、次の大鍛人はトムスフに間違いない、と誰もが口を揃えていた。
当代の大鍛人フレルバタルの直弟子にして、彼の打った鋼は暖かみがある、と評されるほど温厚な人格者である。当然、鍛冶の腕も他の工房長より頭抜けていた。
工房長を退いたとしても、大鍛人に選ばれる可能性はなくならない。ボルドクにとって、トムスフは目障りで目障りで仕方がなく、だが、直接攻撃すれば、彼を慕う第一工房の鍛冶師らが、反旗を翻す可能性がある。
だから、トムスフの一番新しい弟子であるマシロに八つ当たりをしている。それだけだ。
くだらない男だ。だが、兄の身の安全は、確かにこの男が一端を握っている。
「…わかりました」
「そんな顔するなよお?な、さっきも言ったように、お前は大罪を犯すとは言え、それはひいてはアスランの為だ。なにも、ビビることはねえ」
「お話はこれだけですか。そうなら、さっさと行ってきます」
「おお、さっさと行けや、この鈍間野郎!!」
どん、とボルドクはマシロを突き飛ばし、そのままどうなったか見もせずに歩み去る。
「…」
なんとか壁に手をついて転倒を免れたマシロもまた、その肉厚の背中を見てはいなかった。
(どうするか)
ボルドクは調子のいいことを言っていたが、もし本当に『紅鴉の爪』を二太子の許しなく持ち出せば、罪に問われるにきまっている。
その時、ボルドクは自分が命じたとは絶対に認めないだろう。
うまくいけば『紅鴉の爪』を研ぎ直した鍛冶師と讃えられ、露見すれば、弟子を唆したのはトムスフだと言い立てて、マシロと共に死罪にできる。
どちらにせよ、ボルドクの得にしかならない。
そう、あの緩い脳味噌は皮算用しているのだろうと、マシロは唾を吐きたい気分になった。
再び壁に背を預け、やや曇りだした空を見上げる。
「…羊肉は熱いうち、だな」
小さな昏い呟きは、舞い落ち始めた雪に紛れ。
誰の耳も拾わないまま、散っていった。




