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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
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甘やかされた子を立たせるのは、老いた牛を走らせるより難しい(親の甘茶が毒となる)10

 紅鴉宮うちより、金掛かってるなあ。


 それが、初めて足を踏み入れた月虎宮の感想。

 まあ、門をくぐって最初の間…つまりは、玄関に入っただけなんだけども。


 紅鴉宮の玄関に置かれているのは、共用の雨具とか、勝手に飲んでいい馬乳酒を入れた革袋…冬は暖かい茶が入った保温瓶になる…とか、ちょっと中に入って休憩するときに座る羊の毛皮とか、捕虫網と虫かごなんだけれど、月虎宮にはそうしたものは見当たらない。


 代わりに、象牙の虎の像、珊瑚や宝石で造られた花木、でかい壺…そういったものが置かれていた。

 ただ、あまり配置や調和と言ったものにはこだわっていないようで、適当に置かれているって感じだ。

 そのせいか、なんとなく荒んだ印象を受ける。うちはうちで、「男所帯ってカンジ」らしいんだけれど。


 「趣味わるー。かわいくないね」

 

 うちを男所帯と評価したニルツェグは、視線を巡らせてばっさりと月虎宮を切って捨てた。


 今日のニルは、全体的にふわふわしている。

 纏うのは騎士服なんだけれど、素材が彼女が昨年の今頃に討伐した、大兎の毛皮だ。


 大兎は、その名の通り兎に似た魔獣で、大きさは雄牛ほど。特に大きな個体になると、ちょっとした小屋くらいにまで成長する。

 その体格に見合った大食いなので、あっという間に周囲の植物を食い尽くす。まあ、それでも夏ならば、放牧地をめぐる順番を変えればいい。夏の草原は三日たてば元に戻る。


 問題は、冬。

 草木が枯れ、食料が乏しくなると、この魔獣は極めて危険な存在になる。

 何故なら、この魔獣は草食ではなく、雑食だからだ。

 

 門歯と比べて牙は小さく、奥歯の先頭に左右三本ずつしかないため、大型の動物を仕留めて肉を咬み千切ることは難しい。だから、口の中に納まる大きさの獲物を狙い、小さな牙と臼歯で擂り潰すようにして食べる。

 その時狙われるのは、夏に生まれたまだ成長しきっていない若い羊…そして、人間の子供だ。


 そんな恐ろしい魔獣ではあるが、毛皮は美しく暖かく、肉は旨い。見掛けたら、捕食やられる前に捕食るのが、常識だ。

 とは言え、通常は十人単位で罠を張り、弓を射かけて倒すんだけれど、ニルは単独で撃破したそうだ。本人曰く「まだちっこかったからー」だが、俺なら幼体であっても大兎に一人で挑んだりはしないな。


 その倒した大兎の漆黒の毛皮は騎士服となり、一番特徴的なのは頭の上ににちょこんと乗せた帽子から伸びる、兎の耳を模した飾りだろう。

 大兎の耳はぴんと立っているけれど、ニルの帽子の耳はもふんと垂れ下がっている。

 カーランには雉尾という、その名の通り冠から雉の尾羽を垂らした装飾があるけれど、その兎版と言うべきか…とにかく、もふんと長い飾りが背中の中ほどまで垂れていて、ニルの動きに合わせて揺れていた。


 「こういうのが好きなのかもしれないし、人の好みにケチをつけたらいけません」

 「まー、ナランハルも趣味悪いしね。なんで毎回、これだけはないってカンジの服とか選ぶの?」

 「え…そこまで?」

 「うん」


 なんで、と言われても…値段と丈夫さしか気にしないからかな?


 「ま、まあ、あれだ。俺の服の趣味はどうでも良い。今は。うん。今は、弟の覚悟を問う時だからな!」

 「ねぇと思うぞ。そんなもん」

 「ないなら、教えるのも兄の務めだ」


 あまり遅くなると、留守番を頼んできたユーシン達が心配…いや、ユーシンはしないか。乗り込んでくるかもだけれど。

 これは完全に我が家の問題だからな。ヤクモとシドはともかく、ユーシンはこの場にいたらアスランへの内政干渉だって、のちのち突かれるかも知れない。

 キリクも一枚岩とは言いかねる。ユーシンを『恐れを知れぬもの(ナラシンハ)』へと追い詰めた連中がいるわけだし。

 

 そんなわけで、アミールに留守居とユーシン達を任せ、アラカンに親父への報告を任せて月虎宮に乗り込んだ。

 ここまではすんなり来れたけれど、問題はここからか。


 閉ざされた次の間から、途切れ途切れに声が聞こえる。

 扉と壁が阻んでいるのもあるけれど、それ以上に何というか、怒った驢馬の金切り声みたいで、何と言っているかは全く聞き取れない。


 驢馬の金切り声を浴びているのは、俺たちをここまで「快く」案内してくれた、月虎親衛隊のオカル殿。

 頭を床に擦り付けながら「しばし、しばしお待ちくださいませ!」と言って、あの扉の向こうに行ってしまったオカル殿は、予想通り上手くいっていないようだ。


 暫定とは言え親衛隊長であるオカル殿は、当然ながら主であるダヤンにいつでも会うことが出来る立場だ。

 俺も兄貴も親父も、親衛隊長が「火急の用です!」と駆けこんで来たら、睡眠中でも飛び起きて会う。拒むことはまずない。自分が流行り病に罹患中で、会う事で相手を危険に晒すような時は、扉越しになるだろうけれど。


 けど、ここは月虎宮。

 月虎宮の主人は三太子たるダヤンだが、実権を握っているのは生母である、トラキナ夫人ウジンだ。

 それ自体は、まあ、咎められることはない。太子がまだ幼いうちは、母親が宮を取り仕切るものだからね。


 ダヤンはまだ十歳。母親の庇護のもとにいても、何らおかしくない年齢だ。

 俺も十歳で紅鴉宮に入ったけれど、三日に一度は母さんが見に来て、標本を慌てて隠したっけ…。


 そっか。俺もあの時、十歳か。

 草原から大都に居を移し、後宮の草原の虫と、それまで住んでいたサライ付近の虫がどう違うか、夢中になって調べたりしてたな。

 あの頃は、一番興味があるのは虫だったなあ。その後、その虫が食べる草が気になって、草が生える土に差があるのかが気になって、ありとあらゆるものを調べたくなったんだった。


 十歳、か。

 大都に居を移してすぐ、それまでは学問の一部だった政治学や軍略は、難易度と勉強の時間が三倍くらいになった。

 苦手な槍や剣の修練も本格的に始まったし、それなりにどうにかなる弓や手斧もさらに念入りに腕を磨かされた。

 

 とは言え、大体午前の早い時刻に終わるし、今みたいに政務があったわけじゃなかったからね。

 その後の時間で採集したり学校へ行ったり、クロムたちと遊んだりと中々に充実した日々を過ごしていたわけだ。


 ダヤンは、そんな日々を送れているだろうか。

 さすがに学校は行っていないだろう。そんなことをするのは俺くらいだ。

 

 王族とは言え、俺たちの朝は夜明け前に始まる。家畜の世話があるからな。

 朝議のない日は親父も兄貴も一緒に、羊や馬をその日の放牧地に連れて行くし、母さんは牛の乳を搾るって言う仕事を毎朝行う。

 家畜を放牧地へと向かわせるのは男の仕事、乳絞りは女性の仕事と、ここはきっちり決まっている。

 妻帯していない一人所帯の男は、もちろん自分で乳絞りするけどね。

 

 本当は、第二夫人から第四夫人、そして弟たちも加わらなくてはならない。

 下の弟たちはまだ六つだが、夜を過ごさせた牛囲いから、牛糞を拾い集めるくらいはその年になればできる。俺もやってたし。

 

 けれど、夫人らと三人の弟たちが、家畜囲いに姿を見せたことは、俺の知る限り一度もない。

 第五夫人は毎朝やってきて、まずは雄牛を放牧地に連れて行き、乳絞りの終わった牝牛と仔牛をその後誘導していくけれど。

 

 ダヤンたちは草原で育てられていないから、せめて朝の仕事くらいはやらないと、馬術だって上達しない。いや、そもそも、馬に乗れるんだろうか?

 馬に乗れないアスラン王族なんて、吝嗇じゃないメルハ商人くらいあり得ない存在なんだが…まさかね。


 「な、ナランハル!」


 そんなことを考えていると、扉が小さく開いて、その隙間からオカル殿がまろびでてきた。

 何度も伏礼をしたせいで乱れていた髪型や服は、さらに乱れに乱れ、頬にはひっかかれたような跡がある。

 

 「も、申し訳ございません!!もうしばし、もうしばしお待ちを!」


 そう告げるオカル殿の耳に、指がかかる。悲鳴が迸り、オカル殿の顔が扉の向こうに消えた。

 これは、もう、救出したほうが?


 親衛隊長の悲鳴を聞いて、騎士たちと侍従官が恐る恐る扉へ向かった。けれど、中へ踏み込もうとする者はいない。視線をぶつけ合い、どうする?どうする?と無言で問いかけ合っている。


 「ナランハル、如何いたしましょ?」

 「…待っていても、オカル殿の負傷が増えるだけだな」

 「なんでお前、あの冴えねぇおっさんに殿とかつけてんだよ。呼び捨てで良いだろうが」

 

 マルコの呆れ声に頷いていると、クロムが口を尖らせながら吐き捨てる。

 変なとこ気にするなあ。


 「彼は一応は千人長で、軍歴は俺より長い。俺は軍の階級でいえば、同じ千人長だしな。命令できる立場じゃないしさ」

 「諦めなさい、クロム君や。こういうところが、我らのナランハルの美点であり欠点なんだから」

 「でもよォ、クロっちの言ってることもわかりますぜェ!?なんか、舐められてるっぽいっつか、ガツンと言ってやってくださいよナランハル!」

 「なんか今日、俺、やたら下げられてる気がするんだけど…え、ええと!ニル、ジル、ここは罷り通る!先陣を!」


 早く話題変えないと、待ち時間の暇つぶしにさらにダメ出しされそうだし!

 俺の号令に、二人は「待ってました!」とばかりに目を輝かせた。

 おろおろと彷徨う騎士らを押しのけ、扉の前に進み、外開きになっている両扉を力任せに引き開ける。


 その向こうに見えたのは、ちょっとした広間。

 紅鴉宮もだが、大抵、玄関から続く最初の部屋は、広間になっている。攻められて玄関が陥落した後、この広間に防衛陣を構築するためだ。

 そうじゃない時は、集会とか宴会とか、とりあえず外から来る人も気軽に参加できる催しをするときに役立つしね。

 

 月虎宮の一の間は、玄関よりもさらに金がかかってそうだった。

 うちと比べるのはあまりにもアレなので星龍宮(兄貴んち)と比べても、手と金がかかっている。

 かかっているけれど…やっぱり、なんだかちぐはぐで、落ち着かない。

 例えば、置いてある調度品や敷かれている絨毯のモチーフが、春夏秋冬ばらばらだったり。それも廻る季節ごとに配置されているんじゃなく、春の隣に秋があり、その隣は夏…と言った具合だ。

 色合いも一つ一つは綺麗なんだけれど、並べてあるからそれぞれが主張し合って、目が疲れる。


 そして何より、なんだか生気がない。ちゃんと埃は払われ、拭かれ、磨かれているようなんだけれど、ただ、それだけ。

 大事にされ、愛でられてはいない。そんな印象を受けた。

 だからなのか…これだけ人がいるのにも関わらず、なんだか廃墟に踏み込んだ時のようなうっすらとした寒さを感じる。背筋を冷たい指で押されたような、微かな恐怖と嫌悪を伴う寒さ。


 そう、人はいるんだ。ここに住んでいる人は。

 親衛隊騎士も、侍従官も、見てないけれど女官もいるはず。

 何より、一の間のまさにど真ん中で、オカル殿が数人の女性に詰られている。


 全員、間違いなく俺より年上。オカル殿よりかは年下かな…とは思うけれど、彼は今日このわずかな時間で十歳は年食ったように見えるから、あまりあてにはできない。

 

 彼女らがなんなのか、一応の推測はできる。

 暫定とは言え、親衛隊長であるオカル殿を詰れるような立場の人間は、そうはいない。まして、軍人でも官吏でもない女性であればなおさらだ。


 つまり、彼女らはトラキナ夫人の親戚とりまきたち。俺が知る顔と少し違うのは、化粧の濃い薄いの差だろうな。

 俺が彼女らを見かける時と言うのは、つまりはなんかの行事の時だから、ここぞとばかりに着飾り、面かと思うような化粧を施している時だ。

 今日のような、本来なら「なんでもない日」にまで、手の込んだ盛装も化粧はしないだろうからね。


 「静まれ!ナランハルの御前である!」


 ギャアギャアと喚くご婦人方に、マルコの声が飛んだ。大きく口を開けたまま、彼女らはぎょっとしたように表情を止め、一瞬身を竦めてこちらを見る。


 「もう一度言う。ファン・ナランハルの御前にあるぞ!膝をつけ!」


 俺の目の前で卓の上に乗り上げ、そのまま滑って寄ってくる奴が言っても説得力がない気もしないでもないが、まあ、一応正しい。

 彼女らは、「第二夫人トラキナの親戚」なだけであり、うちの親族ではない。まして、無位無官の身だ。二太子の前で立ったままでいられる身分じゃない。

 俺もいつもなら気にしないけれどね。

 だけれど、今は自分の身分ってやつを振りかざした方が上手くいくだろう。


 現に、ご婦人方はオカル殿を詰るのを止め、此方を凝視している。俺のすぐ隣でクロムが、後ろでニルとジルが機嫌を急速に悪化させているのが伝わってきた。

 こっちの要求は膝をついて礼をとれ、だからねえ。それに逆らうって事は、俺をどんだけ下に見てるんだって話だし。


 「そ、そうだぞ!ナランハルの御前だ!ご挨拶を!」

 「私たちは、トラキナ様の親族で、三太子ダヤン様の教育係よ!二太子と言えど、無礼な振る舞いは許しません!」


 オカル殿が自らも膝をつき…と言うか、諸々のダメージで這いつくばりつつ、横に立つご婦人の裾を引いて悲鳴のように叫ぶ。が、彼女はその手を払いのけ、甲高い声で拒否して見せた。


 とりあえず、クロムの胸を拳で叩いて落ち着かせる。たぶん、後ろでマルコがニルジルを抑えてくれているだろう。

 さすがにいきなり、流血の惨事は避けたい。


 「おい!おい!ナランハルだぞ!?何を言っているんだお前は!」

 「お前だなどと…!身の程をわきまえなさい!!貴方が私の夫になれたのも、親衛隊長になれたのも、お父様のおかげなのよ!戦場をはい回って死人から追いはぎする暮らしに戻りたいの!!?」


 オカル殿の顔に、急速に広がっていくのは、たぶん、絶望。

 ゆっくりと此方を向き、目を閉じ、口を戦慄かせ…そして、彼は平伏した。


 「ナランハル…その…」

 

 絞り出される声には、様々な感情が込められている。恐怖、後悔そして、じくじくと滲み出ている怒り。


 「いい。オカル殿。あなたの罪を問う気はない。弟への指導が不十分なんじゃないかと思っていたけれど、それ以前だな」

 「…恥ずかしながら、仰る通りにございます」


 オカル殿は、おそらくほとんど弟に会うこともなく、諫めることもできなかったんだろう。

 それを良しとして放置していたのは勿論問題だが、妥当な処分は親衛隊長として相応しくないので解任程度だな。俺が決められることじゃないけれど。


 「改めて、ファン・ナランハル・アスランが命じる。弟、ダヤンをここに連れて来い。月虎の守護者(サルンバル・スレン)を名乗るものの所業について話がある」


 俺の言葉に、うちの親衛隊騎士たちが引き摺ってきていた守護者モドキ共と、奪還にやってきた連中…半分以上は死体だが…を俺の前、つまり、ご婦人方の前へと放り出した。


 「ひっ…」


 寒い中、適当に馬車に積み上げてきたせいで、死体の血は凍り付き、筋肉も固まっていたせいで臭いもあまりない。けれど、暖かい場所にしばし置き、さらに放り出された衝撃で、様々なものが漏れ出していく。


 戦場にいれば、嗅ぎなれた悪臭だ。さすがに軍歴の長いオカル殿は、平伏したまま何の反応も示さない。彼はさっき、外で見たしね。

 だが、ご婦人方は、そうはいかず。


 「ひぃえええぇえええ!!!!!」


 先ほどまでオカル殿を詰り、俺を無礼と指摘した口から、凄まじい悲鳴が上がった。残る面々も、それに唱和したり、声もなくへたり込んだりと、とにかく恐慌状態に陥っている。


 「たす、け…て」

 「おばうえ…痛いよ…いたい…」

 

 守護者モドキとその取り巻きも、声を出せるだけの余力があるやつは、なんとか声を絞り出し、助けを求めている。

 だが、その声に耳を傾ける余裕はなさそうだ。


 「じゃ、オカル殿。三太子殿下をお連れいただけますかね?」

 「…今、すぐに!騎士と侍従官はついて参れ!」


 まあしかし、人間ずっと声を上げ続けているというのは、ちゃんと訓練しないとできないもので。

 悲鳴が途切れ途切れになった隙間に、マルコがオカル殿を起こしながら要請…いや、命令する。

 

 「い、いや、いか、いかないで…」


 起き上がり、動き出そうとしたオカル殿の服を、彼の奥方が掴む。

 丈夫な騎士服がくっきりと皺になるほどに掴む指を、オカル殿は無理矢理に払いのけた。

 奥方の口から、先ほどとは違った悲鳴が迸ったのは、指がちょっと曲がっちゃいけない方向に曲がったからだろう。


 「行くぞ!」

 

 オカル殿は、奥方にはもう視線すら向けなかった。その声に、凍り付いていた騎士や侍従官が慌てて従う。

 後には、まだ悲鳴を上げる奥方らと、助けを求める守護者モドキ共、そして何も言わない遺体と、俺たちだけが残された。


 「想像以上にひどいな」

 「ったく、陛下もさっさとどうにかしとけって話だ。なんでお前がそんな顔しなきゃいけねぇんだよ」

 「…そんな変な顔してるか?俺」

 「変じゃありませんけどね。二日酔いした挙句、苦みだけでできた薬を無理矢理飲まされたみたいなお顔になってますな」


 そんな顔してるのか。今。

 まあ、確かに、酷い気分だ。目の前で、自分に心底怯えている人を見るって言うのは。


 何より、この人たちは別に何かしたってわけじゃない。ちょっと、現実とか情勢を見れないってだけだし、それも元をただせば、そうやって育てられたからだろう。

 若いときに何か契機があれば、エルディーンさんのように変われたかもしれない。でも、彼女たちには何も与えられなかった。


 その、何も与えられなかったことは、罪じゃない。

 自分で学ばなかった事は、罪になるかも知れないけれど。


 それこそ、大人になって月虎宮で好き放題しだしてからだって、現実を見つめさせることはできたはずだ。

 オカル殿もそうだし、話を聞く限り、襲撃してきた連中も自分たちの立ち位置がどんなものかわかっている。

 それでも彼女らの『現実』をこの月虎宮だけに狭めたのは、それがどれほど歪なものか理解する事への負担を慮った慈悲からか。もしくはその労力を嫌がった怠惰からか。


 どちらにせよ、彼女たちはこれから現実を見なければならない。自分たちが絶対と信じる権勢が、月虎宮の外には及ばないことを直視しなければならない。

 彼女たちへ与える罰は、それで十分だろう。


 そう、思っていた。


 「…!!!」


 一の間に駆け込んできたオカル殿に抱かれた、ダヤンの姿を見るまでは。


 「も、申し上げます!!ナランハル!!ご訪問、まことに有難きことなれど、今は、今は!!」


 オカル殿は、決して体格に恵まれた方じゃない。

 だが、その腕にすっぽりと収まるように、弟は抱えられていた。


 顔色は血の気を感じさせず、上等そうな寝巻の袖から突き出た手首も指も、枯れ枝のように細く、皺が寄っている。

 辛うじて開かれた目は濁り、ただ、俺の姿を追う動きに、まだこの子は生きていると、それだけわかった。


 「ジル!!すぐに紅鴉宮に行け!!ソダラン医師せんせいを連れてきてくれ!」

 「御意!!」


 俺の二太子としての振る舞いも何も構ってられなくなった声に、ジルはすぐさま反応し、駆けだす。騎士が二人、左胸に拳をつけて礼をして続いた。


 「オカル殿。三太子は何か病を?」


 俺とオカル殿の間に、するりとマルコが割って入る。弟を受け取ろうと思って駆けだす寸前だったもんで、その背中にぶつかった。

 けれど、マルコは身動ぎもせず、俺を前に行かしてもくれない。


 「ナランハル。感染する病の可能性もあります」

 「けど、マルコ!」

 「ニルちゃん!ナランハルをお止めして!」

 「りょ」


 ニルががっちりと俺を羽交い絞めにする。単純な腕力なら俺の方が上だけれど、体術はニルの方が拳三つくらい上だ。上手く力を逸らされ、振りほどけない。

 

 「で、オカル殿?」

 「申し訳ございません!わ、私も、サルンバルのお顔を前に拝見いたしましたのは、二月ほど前でございまして…そ、その時は、むしろ、ふくよかでいらっしゃったのですが!」

 「ならやはり、病の可能性が高いか。けど、この感じ…」

 「たぶん、病とかじゃないですよ。マルコさん」


 吐き捨てるように、クロムが言葉を続ける。

 

 「こうなったガキは、何度も見てる。大都やサライの路地裏や、生まれた村で。病じゃねぇ。餓死寸前なだけだ」

 「…確かに。それはそれで、なんで三太子が餓死寸前になってるんだって話だが」

 「餓死…」


 確かに、ダヤンの皮膚はしなびているけれど、斑紋なんかはない。喘鳴もなければ、高熱や下痢嘔吐と言った症状もないように見える。

 もちろん、病になれば必ずそうした症状がでるってわけじゃない。でも、それにしたって、そのどれもがない、と言うのは考えにくい。


 「ファン。薬使うぞ」

 「この状態で魔法薬は却って危険だ。回復に耐えられないかも…」

 「サルンバルにじゃねぇよ」


 俺の腰のポーチから、勝手知ったる感じでクロムは回復薬を取り出した。ナナイ謹製のいつものじゃなく、帰ってきてから補充した、アスラン軍用回復薬。

 鎮痛成分が全く入っておらず、傷が治る時にめちゃくちゃ痛いけれど、覿面に効く。俺も何度かお世話になった薬だ。


 クロムはその回復薬を、か細く助けを求め続ける守護者モドキ三人に振りかけた。本来は飲んで使うものだけれど、傷に直接かけても問題はない。さらに痛いだけで。


 「おい。お前らは守護者を名乗ってんだよなあ?」


 傷の治る痛みにのたうち、絶叫する守護者モドキの襟首をつかみ、クロムはオカル殿とダヤンの前に引き摺りだした。

 ダヤンの濁った眼が、守護者モドキに向けられる。けれど、その表面に何の感情も見つからない。


 「主がこんな有様になってるっつうのに、てめぇらは飯食ってクソしてたのかよ!!それで何故守護者(スレン)を名乗る!!」


 いつもの硬質な無表情は、クロムの顔にない。

 牙を剥いた豹を思い起こさせる顔は、誰が見ても激怒しているとわかる。


 「おい、高い薬使ってやってんだ!答えろよ!!主が飢えているのなら、自分の肉を食わせ血を飲ませてでも腹を満たす!それが守護者だろうが!!そんな簡単なこともできないくせに、なんで守護者を名乗ってんだよ!!」

 

 叩きつけるような恫喝に、守護者モドキは「だってだって」と泣きわめき、耳以外の穴からそれぞれの体液を噴出させた。

 思いきり舌打ちしながら、守護者モドキを床に叩きつけ、クロムは俺を見る。


 「ニル。とりあえず離して」

 「んー。まあ、クー坊泣いちゃいそうだし。いいよ」


 泣きはしないと思うけどね。こんな大勢の前で泣いたら、クロムは自決しかねない。

 足を踏み出すと、残る守護者モドキから「ひいい」と言う悲鳴が上がった。自分たちも同じように怒られると思ったのか。

 生憎だが、お前らにかまっている暇はない。


 「クロム」

 「…泣かねーから」

 「わかってる」


 ぽん、と左胸を拳で叩く。いつもよりずっと激しいであろう鼓動に、「ちょっと落ち着け」と伝えるため、もう一発。

  

 「俺も飢えないように気をつけよう。クロムの血肉は口にしたくないしな」

 「そうしてくれ。言っとくが、俺は本気でやるからな」

 「わかってるよ」


 わかっている。もし、そうなったら、クロムは本気で自分の肉を切り取り、血を絞ってでも俺を生かそうとするだろう。

 もしそこに、他の誰かがいたとしても、きっとクロムは自分を削る。


 でも、俺も人肉はやっぱり口にしたくないし、そういった事態に陥らないようにするのが何よりだな。

 クロムの覚悟だけ、受け取っておけばいい。


 「マルコ。ダヤンは病とは思えない。近付いても良いな」

 「この後、少しでも異変があれば正直に申し出ていただけるのであれば」

 「約束する」


 俺の言葉に、マルコはすっと道を開けた。深々と一礼し、さりげなく這いずって逃げようとしていた守護者モドキを踏みつける。


 「ダヤン。兄ちゃんだぞ。久しぶりだな」


 近付いて…本当に病なら良くないけれど、思いきり鼻から息を吸い込んだ。

 病で内臓が壊れていると、独特の臭いがでる。とりあえず、それは感じない。

 すぐ傍で悪臭が発生しているから、絶対とは言い切れないのが悔しいが…とりあえず、もうすぐ死ぬ人間の臭いはしなかった。


 「…あに、うえ」

 「ああ。ファン兄ちゃんだ」


 垂れ下がった手の先、乾ききって爪も割れた指が、微かに動いた。

 しっぱなしだった手袋を外し、蝶や蛾の標本を造る時くらいの細心の注意を払って、弟の手を取る。


 …小さい。そして、細い。

 俺の十歳の時の手は、たぶんこの倍近くあったと思う。何せもう、シドウの大弓を引き始めていたんだから。


 「飯、食ってないのか?こんなに痩せちまって」

 「…おいし、ない、です」

 

 小さな声を追い掛けて、けふけふと苦しそうな咳が続く。水も足りていないのかもしれない。

 子供の声とは思えないほどに乾ききった声。掌の上の手は、冷たく、軽く。


 「ああ、そうだ!良いもの持ってるんだ」


 いったん、そっと手を離すと、指先が掌をひっかいた。離さないで、と訴えるように、ダヤンの薄い眉が寄る。これはもともとなのか、髪と同じように抜けてしまっているのか。…たぶん、後者だろう。


 腰のポーチから取り出したのは、「咽喉やお口が乾いて痛いときに」と黄天餐館の若女将さんから渡された小さな瓶。紐で小さなヘラも結びつけられている。

 中身は、あの美味しいお茶に溶かされていた、柑橘からつくられた蜜だ。

 何種類かの柑橘と、喉に良い果実を糖に漬け込み、蜂蜜と混ぜて作られたこの蜜は、茶に溶かしても良いし直接舐めてもいい。

 見た目に反して、そこまで甘くなく、柑橘の爽やかさが口に残る。


 この弱った体に、冷たい水は毒になる。けれど、湯冷ましなんかは持ってきていない。とりあえず、これを一匙舐めれば、少しは楽になるかも知れない。


 「ほら、口を開けて。これ、美味いぜ」

 

 小さく、ほんのわずかに、ダヤンは口を開いた。瓶を口許に寄せ、ヘラで掬った小指の先ほどの蜜を、色褪せた唇の中に落とし込む。


 「どうだ?もう少し食べられそうか?」

 「…あ…」


 ダヤンの目が、僅かに大きく開かれた。

 濁り、生気のなかった双眸が、はっきりとじゃないが焦点を結ぶ。


 「おい、し…」

 「そうだろ?ほら」


 もう一匙。さっきより大きく開いた口に入れてやると、ますます目が大きく開かれた。

 …あれ?この子の目、俺たちと同じ色って聞いてたけれど、灰色っぽいな。まさか、栄養不足で目が…。


 「おいし…おいし…ダヤン、しんで、ない?」

 「ああ。ダヤンは死んでない。生きてるぞ。もうすぐ、お医者さんも来るからな。大丈夫、死なないよ」

 「ダヤン…死んで、ない?あにうえ…死人は、おいしい、なくて、楽しい、もないって…」

 「俺は死んだことがないからわからないけれど、美味しいのは確かに、生者だけがわかることかもしれないな。死んだら何も飲み食いできないから。でも、大丈夫。ダヤンはこれからもっと、美味しいものも食べられるし、楽しいこともできる」


 小さな子でも、死ぬのは怖いものな。

 もう一匙口に入れ、弟の恐怖を宥めようと具体的な美味しいもの、楽しいことを言い募ろうとすると、ダヤンは微かに首を振ったように見えた。


 「ダヤン、おいし、ない。たのしい、ない。だから、ダヤンはもう、死人なのですか…?」 

 「え?」

 「ダヤン、おいしい、ない。食べても、おいしい、ない。だから、食べない。楽しいも、ない。なにも、したく、ない。これ、ダヤン、死人、です、か?」


 弟の言葉を、猛烈な勢いで組み立てる。


 何も美味しくない。だから、食べなくなった。

 何も楽しくない。だから、何もしたくない。


 それは、もう、ダヤンが死んでいるからですか?


 「違うよ。ダヤン」

 

 蜜の入った瓶を、近くで見ているクロムに押し付け、空いた手でオカル殿からダヤンを抱き取る。

 思った以上に軽く、骨の感触が伝わった。


 首元の釦に掛かっていた紐を外し、寛げる。胸元を開けて、そこにダヤンの細く枯れた手を当てた。


 「ダヤン。どくどくいってるの、わかるか?」


 弟を抱っこするのは、これが初めてだ。

 ダヤンも、こんな間近で俺を見て、まして触れるのは、初めてだ。


 兄弟なのにな。俺たち。


 「…わかる」

 「ダヤン。自分の左胸も触ってごらん」


 俺の胸から、ダヤンの胸に、そっと手を動かす。

 俺も一緒に、その鳥の肋かと思うほど、薄い胸に触れた。


 「ダヤンも、同じ音がするだろう?これが、命の音だ。血潮が身体をめぐる、その証の音だよ。この音がする限り、ダヤンは死んでいない」

 「あ…」


 ダヤンの灰色の目に、理解の光が広がった。

 生きている。自分は、ちゃんと生きている。死人じゃない。


 「生きてる…ダヤン、死人、じゃない…」

 「ああ。生きている人でもね。食べるものがおいしくなかったり、楽しいことがなくなったりすることはある」

 「あにうえ、も?」

 「うん。あるよ。初陣の時な」


 何を食べても、死肉の味に感じられて。

 人の死肉の味なんて、そもそもわからないのに。


 「たべた?」

 「食べたよ。生きるために」


 死肉の味を覚えなくなったのは、夜ごく普通に眠れるようになったのは、いつからだっただろう。

 先遣隊が突き破り、あとはとどめを刺していくだけ…と言う戦場を、三つばかり通り過ぎたあたりだったかな。


 それは、何かこう、ぴかーっと覚悟やらを決めて克服したというより、単に慣れたってだけで、何一つ褒められたものではなかったけれど。


 「ダヤンに死について教えてくれた人は、ちょっと言葉が足りなかったのかもしれないな。確かに死人は味もわからないし、楽しくはない。けど、美味しいと思わず、楽しいと感じなくても、死んでいるわけじゃない」


 心が死んでいるとか、死んでいるも同然って意味じゃ、あっているけれど。

 それをあえてここでいう必要はない。


 「トバル、いってた…おいしくない、たのしくない…それは死人だって…」

 「トバル?」


 オカル殿を見ると、固唾をのんで俺たちのやり取りを聞いていた彼は、首を捻った。聞いたことのない名前らしい。


 「オカル殿も知らないのか」

 「き、聞き覚えは、ある…気がするのですが…お、おい!誰かトバルと申すものを知らんか!いたずらに三太子の御心を惑わしたやもしれん!」


 問いかけと共に視線を向けたのは、オカル殿がダヤンを抱えて入ってきた扉…そのあたりに固まって、こちらをおびえながら伺う騎士と侍従官たち。

 そのうちの一人が、結構な距離をおいても見えるほど震えながら一の間に戻り、さらに震度をあげながら平伏した。


 「お、恐れながら、お答えいたします!!」

 「知っているなら、教えてほしい。それで、君を罪に問うような真似はしない」


 震える侍従官が、がばりと上半身を起こす。結構若い。俺と同い年くらいだろうか。

 すぐに若い侍従官は床に額をぶつける勢いで平伏しなおした。別にいいのに。


 「トバルは、我らと同じ侍従官でありました!!」

 「ありました…ってことは、今はいない?」

 「は、はい!礼を欠くこと甚だしいと、罷免に!」

 

 礼を欠く、か。死を教えたことで、ダヤンの食欲が落ちたのだったら、ちょっと思慮が足りなかったかもしれない。

 それを礼を欠く、と咎められたのか。


 「そのトバルとやらが罷免されたのは?」

 「は、黄金月の夜ごろであったかと!!」


 マルコの質問に、再び若い侍従官の震えが大きくなった。

 なんだろう。彼は若いけれど、昨日今日、月虎宮に勤め始めたわけじゃあるまい。この宮の歪な価値観にも長く触れてきたんじゃないかと思う。

 騎士と違って侍従官なら、より一層どっぷり浸かっていそうなんだけれど。


 そのわりには、俺に対して怯えすぎてない?いやでも、武装したうえに明らかにぶっ殺したと思われる遺体を引き摺ってやってくる集団に注目されたら、怖いか?


 「おめー、なんか隠してんな?」


 つかつかと、彼に歩み寄るニルツェグ。途中、もう声すら出せず、白目を剥きかけている第二夫人の取り巻き共を蹴散らしていく。

 それを咎める気はない。

 彼女らに罪はない、なんてもう思っちゃいない。オカル殿はともかく、彼女らは毎日ダヤンを見ていたはずだ。

 それなのに、何故、放置した?


 「…ダヤン、お医者は診てくれたか?」

 「おいしゃ…」

 「緑の布を頭に巻いた人に、どこか痛いかとか聞かれたり、薬を貰ったりはしたか?」

 

 しばし考えた後、ダヤンは首を振った。

 医者にも、診せてないのか。そんな気はしたけれど。


 おそらく、あの取り巻き共は…そしてトラキナは、ダヤンが餓死寸前であると考えていない。

 トラキナの性格からして、ダヤンが少しでも具合が悪いと見れば、大騒ぎするだろう。病か毒かと。毒を持ったのは一太子か二太子か、それとも后妃かと、騒ぎ立て、喚き散らし、処罰せよと主張する。


 それがなかったという事は、連中の目には、ダヤンのこの異常なまでに痩せこけた姿は、見えていない。

 トラキナたちが見ているダヤンは、きっとこの姿じゃない。


 「オラ。吐けよ。お喋りに付き合ってもらってもいいんだよ?」

 「ひ…」


 お喋りする。つまりは、拷問にかけて聞きだすっていう隠語。

 知らないわけじゃないんだろう。その証拠に、ニルに腕を掴まれて立たされた若い侍従官の顔は、真っ青だ。


 「まずは、指折っていこーかな?利き手、右?一応、利き手は後回しにしてあげるよ」

 「そ、その、トバルは、夫人様方のお召しを辞退したのです!!」

 「あん?」

 「あー、つまり、そこの雌豚…いや失礼。ご婦人方が、夜の相手として、侍従官を寝台に引っ張り込んでるって事かな?」

 

 ぼろぼろと泣きながら侍従官は何度も頷いた。


 「い、嫌がると、折檻されて…」

 「折檻されて?」

 「長城の外に捨てられます!!」


 全員の視線が、気絶寸前か気絶している取り巻き達に向けられる。

 ニルツェグは若い侍従官の腕を離し、こんどはそちらへと足を向けた。

 

 「おいこら、起きろ。ババア」


 一番若いのの襟首をつかみ、容赦なく頬を平手うちする。

 白目を剥いていた目が瞬きを繰り返し、そして眼前に怒りの形相を浮かべたニルの顔を見つけて、再び悲鳴が迸った。


 「ぎゃーじゃねぇよ。おいババア。お前ら、オトコ寝床に引きずり込んで、嫌がったらぶっ殺すとか、マブかよ?」

 「きゃー!!きゃあああ!!きゃああああ!!たすけ、誰か、誰か助けてえええええ!!!」

 「ニルちゃん。おじさん、その生き物が回答できるとは思わないなー。うるさいだけだから、黙らせておこう?」

 「りょ。マブけったくそワリ…」


 ニルの腕が叫び続ける取り巻きの首に一瞬巻き付き、そして悲鳴が止った。


 「くっさ。趣味わるい香つけてんな。帰ったらお風呂はいって服洗濯しなきゃ」

 

 取り巻きを放り捨て、ニルは舌を出して遺憾の意を表明する。そうだな。せっかくの武勇の証が変な臭いになったら困るものな。

 

 「君がさっき言った話は、噂じゃなく、真実なのか?」

 

 それが本当の話なら、とんでもないことだ。

 他国の後宮がどうなっているのかわからないけれど、アスランの後宮はこの通り、男の出入りも問題なくできる。

 だって、もともと遊牧しているときに、この遊牧陣地には女性だけしかはいれません、なんてやっている余裕はないしね。

 

 そして、アスラン人は他国に比べて婚姻に関する禁忌がかなーりゆるい。

 親兄弟と両親祖父母のきょうだいと、子供作るのはさすがにどうかと思う程度で、妻や夫がいても外に恋人を作るのも他国ほど責められることじゃなく、ちゃんとその後娶るなりすれば何の問題もない。

 夫婦でそれぞれ別の配偶者がいて、血が繋がっていない家族も合わせると二十人くらいになりまーす、なんてご家庭もざらにある。

 

 それは、俺たちアスラン人の…と言うか、遊牧の民の考え方として、あまり血の繋がりを重視しないってのが根本にある。

 血の繋がりよりも、一緒に暮らせるか。力を合わせて、タタルの地で生き抜くことが出来るか。それが、何よりも大切だからだ。

 

 けれど、血の繋がりを絶対とする一族もいる。

 他でもない、アスラン王家だ。


 クロウハ・カガンの血…黄金の血統(アルタン・ウルク)を引いていることが、アスラン王となる絶対の条件だ。その継承権を持つものも、当然要求される。

 アスランの女性の中で唯一、后妃と王の夫人たちは、王のみを配偶者とするのは、その絶対条件を護るため。

 

 だけれど、やろうと思えばいくらでも密通はできる。

 それを、アスランの民なら誰でも知っている。親衛隊騎士や、後宮の侍従官は憧れの職業だからな。

 カーランのように、男性としての機能を失わなくても務めることが出来ることは、誰もが知っている。


 だからこそ。

 後宮で、侍従官を寝所に引っ張り込んで楽しんでいました、なんていう話が出るのは…大問題だ。


 親父と第二夫人の仲が冷え切っていることもまた、アスランの民なら誰でも知っている。まして、大都の住人なら、二人が最後に夜を共にしたのはいつかも知っているほどだ。…俺は知りたくないから、知らないけれどね。

 母さんといたした翌日は、親父がやけに元気いっぱいだから、なんとなーくわかっちゃうんだけれど。


 とにかく、そんな第二夫人のいる月虎宮で、そんな話が出たら。

 実際には、第二夫人「は」全く関わっていなかったとしても。


 ダヤンが本当に黄金の血を引いているのか。

 必ず、疑うやつは出てくるだろう。


 これでダヤンが十歳ながら種馬アズラガを乗りこなし、槍捌きはすでに二太子以上!みたいな子だったら、それだけの武才を持つ三太子は、間違いなく黄金の血を引いていると擁護もでる。

 もしくは、誰が見ても朝日の髪と満月の瞳を持っていれば、疑う余地もない。


 けれど。


 俺を見上げるダヤンの双眸は、金と言うより灰色。

 これが、栄養失調によるものなら、回復するかもしれない。けれど、回復しなかったら?

 公表していた色と違い、この色が本来の色だったら…?


 ダヤンはほとんど公式行事にでないし、瞳の色をはっきり見るほど、顔を長くあわせた事はない。

 帽子や冠を被れば瞳は陰になって見えにくくなる。まして、俺の記憶にあるダヤンは、いつもつまらなさそうに俯いていた。もしくは、第二夫人や取り巻きに抱かれていた。

 

 武勇の片鱗も、満月の瞳も。ダヤンは…見せたことが、ない。

 それは、疑うに十分な余地だ。

 

 「あに…うえ?」

 「大丈夫だよ。ダヤン。お前は、俺の弟だ」


 うん。俺はそう判断する。

 この子は、俺の弟だと。


 トラキナが本当に関わっていないのか、それはわからない。けれど、号泣しながら何度も首を縦に振りまくる侍従官の姿を見る限り、彼の同僚らが「礼を欠いて」姿を消したのは間違いないだろう。

 もしかしたら、彼もそれを大罪と知りながら、断った先にあることに怯えて言いなりになったことがあるのかもしれない。


 けれど、その悍ましい遊びの結果がこの子じゃないと、俺は信じる。


 いやまあ、俺に真実を見抜く眼力があるなんて思わないけど。

 ただの直感で、それは直観と勘違いしている願望かも知れないけれど。


 でも、いい。ダヤンは、俺の弟だ。


 「皆、わかっていると思うが、今聞いたことは他言無用だ」

 「それは良いですが、ナランハル。一度開いた口は、閉じませんよ。もみ消すのであれば、まあ、お誂え向きに日ごろの行いが悪い連中がいますけど」


 マルコの口調は軽いが、言っていることは重い。

 つまり、取り巻き連中を殺し、それを守護者モドキ共の仕業として押し通すってことだ。

 当然、守護者モドキ共も死ぬことになる。侍従官たちは「何も見なかった」事にしてもらって、全てをなかった事とする。


 …それを、そんな不名誉な仕事を、俺は、俺の騎士たちに命じるのか?


 「ナランハルは頷いていただくだけで。あとは、我らが勝手に意図を汲んでしでかしますから」

 「いや、それは…」


 もし、公になれば、マルコが責任を取ると、そう言外に告げてくる。

 そんなん、頷けるわけないだろう。命じるなら、俺の名を以てだ。


 「ナランハルぅ!!ソダラン医師連れてきましたぜ!!あ、あとぉ…」


 いきなり突き付けられた選択の重さに目を細めた時、元気よく、けれど尻蕾になったジルの声が背中にぶつかってきた。

 慌てて振り向くと、恰幅のいいソラダン医師を負ぶったジルの姿。


 うん。なんで、怒られる直前の犬みたいな顔をしてるんだ?


 「あとぉ…后妃ハトゥンが…」


 そう言いながら、とととと、と脇にずれて、そっとソラダン医師を背中から降ろした。

 ジルの後ろから、一緒に行った二人の騎士たちも現れたけれど、やっぱりなんだかおろおろしている。

 いや…って言うか、后妃…?母さん?


 「后妃ソウジュ様のおなりです。お静かに」


 ぴん、と張った声が響く。

 母さん付の女官、エゲンの声。


 あ、これは母さんとしてじゃなく、后妃として、来てる。


 「ソダラン医師せんせい、弟を」

 「月虎宮の侍医は?」 

 「わかりませんが、俺はソダラン医師に診てもらいたい」


 それはいろいろと面倒な問題に発展するかもしれないけれど。

 ただ、明らかに報告の必要があるだろう弟の姿に、ソダラン医師はもじゃもじゃの白くなった眉を寄せた。

 

 「こちらに」

 「ダヤン、お医者さんに診てもらおうな」


 いったんダヤンを降ろした後、上着を脱いで広げる。絨毯の毛足は長く、そのまま寝かせても負担はなさそうだけれど、できるだけ柔らかいものを重ねたい。


 「ナランハル、うちの帽子もつかう?」

 「貸してくれるならありがたいな。枕にしてやりたい」

 「いーよ。使って使って」


 帽子は簪で髪に止められていたけれど、それをえいやっと抜き取って、ニルは巨大な兎の耳がついた帽子を取り外し、差し出してくれた。


 帽子部分を枕に、耳部分をちょっとたたんで座布団代わりに。俺の騎士服とニルの帽子で造った簡易布団に、力なく座り込んだダヤンを寝かせた。


 「背中、痛くないか?」

 「ふわふわ…きもちい…」


 兎の耳を触りながら、ダヤンがぼんやりと呟く。そのひび割れた唇は、ほんのり笑っているように見えた。


 「おい、后妃の前にその恰好で出る気か。せめてこれ着ろ!」

 「下着ってわけじゃないから大丈夫だと思うけど、そうだな。ありがとう」


 これで良し、と思って立ち上がると、クロムが片腕を抜いて羽織っていた着物チュバを脱いで、突き付けてきた。

 騎士服の下は、柔らかく鞣した羊の革で造られ、鋼糸を縫い込んである貫頭衣、さらにその下は綿の袷だ。みっともない恰好じゃないけれど、目上の前に出るには相応しくない。


 クトラの着物は懐にものを入れて持ち運べるように、かなり大きめに仕立てる。なので、俺とクロムの身長差で着ている方が悲惨な状態にはならなくて済んだ。

 まあ、袖はちょっと、手首まで見えちゃうけれど。


 「后妃ソウジュ、おなりになります」


 エゲンの声に騎士たちが整列し、左胸に拳を当てて敬礼の姿勢を取る。それを見て慌てて、月虎宮の面々も平伏した。


 普段、母さんのことを「平民」だのと言っている割には、素直に平伏する。

 トラキナたちに引き摺られていたのか、本心からそう思っていたのかはわからない。追求するつもりもない。

 ただ…この光景はなんだか滑稽で、少し、哀れだ。


 膨らますだけ膨らませて、中身を詰めなかった虚勢は、こうして軽く針で突かれただけで弾けて萎む。

 母を悪く言う連中を好きにはなれない。でも、指をさして笑う気にもなれない。


 だから、無言で整列する騎士たちの先、母さん…いや、后妃ソウジュの姿に視線を移した。

 

 「后妃ソウジュ。万歳を申し上げます」

 「ありがとう、ナランハル」


 静かに、けれどまっすぐ歩いてくる母さんは普段着じゃなく、后妃として出席するときに纏う、絹と毛皮でつくられた服を着て、冠を頭に戴いている。


 アスランの冠は、西方諸国やカーランのそれとは違って、金属がほとんど使われていない。ただ、高価さと言う一点でいえば、最高級の宝石くらいじゃ太刀打ちできないだろう。

 なんたって、アスランの王冠は開祖が倒したナルガの皮で造られているんだから。


 上から見れば楕円形。後ろ側に大きく上に伸びた飾り板がついていて、そこにはサリンド紋が刻印されている。

 唯一、その飾り板から真珠を連ねた飾りが垂れていて、それを留める金とその真珠だけが、龍の皮以外の材料だ。


 「ナランハル」

 「はい」


 片膝をつき、左胸に拳を添える。俺の動きを待っていたように、騎士たち…そしてクロムも、同じく膝をついた。


 「後宮の監督者は、私です」

 「…!」


 それでも、顔を見ることはできる。息子だし、俺だって王族のはしくれだからね。

 なので、思いっきり母さんの顔を凝視してしまっても、無礼には当たらない。


 一瞬母さんは、顔を顰めて「こら!」と怒る表情を作り、すぐにそれを消して穏やかな無表情を浮かべた。


 「それを貴方が代行することはできません。いかなる場合であっても。もちろん、弟を兄として導くことは、賞賛し励行こそすれ、禁じはいたしませんが」

 「…申し訳ございません。后妃。分を弁えぬ愚行を侵すつもりでございました」

 「善哉よきかな

 

 ええっと、つまり、だ。

 餓死寸前のダヤンを助けることは問題ない。その守護者モドキを成敗したのも、「導く」に入るだろう。こっちは事前に相談したし。

 なんで、総合するとダヤンの事で手を出すのは問題ない。けれど、それ以上の事をするのは駄目だと、釘を刺された。


 それ以上の事…取り巻き達を、どうするか。


 確かに、それはそうだ。

 宮の主は太子であっても、「後宮」に属する限り、その総監督権は后妃にある。

 

 后妃の権限は、王に等しい。そして、王の権威が照らすのがアスランの国土とすれば、后妃の権威は後宮を遍く覆う。

 例えば、俺が紅鴉宮でせっせと標本を造っているのを母さんが「風紀を乱すから駄目です」と判断すれば、すべて撤去することもできる。

 俺が親父に泣きついて、親父が「ちょっとくらい、許したげよ」と言ってくれたとしても、后妃たる母さんが「駄目です」と言い切れば、王命であっても覆せないほどに、その権限は強い。


 それに対し、太子の権限は限定的だ。

 うん。そうだ。俺がいくらこれはヤバいと思ったって、月虎宮の不祥事を揉み消そうとしていいわけがない。

 俺にそんな権限はないんだから。


 「愛は全てを許す赦免状ではありません。心得なさい」

 「教導、感謝いたします。后妃」


 ああ、そうだ。

 いくら、俺が自分でいうのもなんだけれど、家族に愛されているからって、だからって、権限以上の事をしても御咎めなし、なわけがないんだ。

 そんなことを許したら、際限がなくなる。王ですら許されないことを二太子がやって問題なし!なんてことになれば、それこそ大問題だ。


 背中を、冷たい汗が伝った。


 甘やかされた子を立たせるのは、老いた雄牛を走らせるより難しい…とはよく言ったもんだよな。

 自分は何をしても許される、好きなことを好きなだけやって、嫌なことは見もせずに。それで許されると、無意識に俺は思っていたって事だよ。

 母さんに、御礼言わないとだ。危なかった。本当に、危ないところだった。


 あれ…?なんで母さんは、俺が一歩踏み出そうとしていたことを知っているんだ?

 ここに母さんが、俺を止めるためにやってきたって事は、侍従官たちを取り巻き共が好き放題していたことを、知っているって…事だよね?


 「トラキナ夫人ウジンを、ここに」

 「御意」


 母さんの後ろに付き従っていた、母さんの親衛隊騎士…全員女性だ…が、駆けだしていく。

 それとほぼ間を置かず、エゲンを始めとする護衛女官らが取り巻き達を縛り上げた。後ろに手を回し、羊の革で出来た紐でくくる、完全に罪人に対する捕縛の仕方だ。


 「い、いや!!放しなさい!!私はトラキナ夫人の…!!」

 「おだまりなさい。口を開くことを、后妃はお許しになっておりません」


 オカル殿の妻が何とか抗議の声を上げた。がくがく震え、口の端から泡を吹いているけれど、気絶からは覚醒したようだな。

 でも、エゲンは容赦なくそれを封じた。白い絹布で口に轡を嵌める。これも「お前の言い訳は一切聞かない」って意味だ。


 そうするって事は、母さんは確実にこの宮で何が起こっていたかを把握している。

 侍従官に聞いたとかその程度じゃない、決定的な証拠が、母さんの手の中にあるって事だ。

 

 それについて言及してもいいものか悩んでいると、耳が近付いてくる怪鳥の雄たけびのようなものを拾った。

 それは近付くにつれ、語彙の少ない罵声であるってことが分かったけれど、酷い声だ。


 「后妃。トラキナ夫人を連行いたしました」 

 「善哉」


 それは、まさに連行だった。

 がっしりと化粧が施された顔は怒りのせいか真っ赤に染まり、着替え途中だったと思われる豪奢な絹服は、ずり下がり、しわくちゃになっている。

 それは、アスランの第二夫人としてはあり得ないほど惨めな姿だ。


 さらにその上、後ろ手に括られ、両脇に腕を差し込まれて、引き摺られて運ばれてきているのだから。


 「無礼者ォ!!私、私をこ、このように辱めて、許さない!!」 

 「其方に許しを請う必要はありません。トラキナ夫人」


 母さんは穏やかな無表情のまま、噛みつくような罵倒を叩き落とした。


 「其方の罪は二つ。一つは、三太子を害したことです」

 「害する!?私がダヤンを!?何をたわけたこと!私よりダヤンを愛する者は、この世にいないわ!!」

 「それほど愛しいものが、弱って死んでいく様を見るのが、其方の愛の示し方なのですか?」

 「不吉な!!やはり、お前はダヤンが邪魔だと思っているのね!!ダヤンは弱ってもいないし、死にもしないわ!!残念ね!」


 …本気で、ダヤンがあれほど痩せたことに、気付いていないんだな。

 ダヤンは、食事を美味いと感じなくなっていた。

 そしてたぶん、ダヤンは「不味いもの」でも我慢して食べる、という教育を受けていない。


 不味ければ残せばいい。

 そうやって育てられたダヤンは、生きるためは食べなくてはならないという、誰もが知っている知識を持てずにいた。


 そしておそらく…ダヤンが食事を残すのは、トラキナらにとって「良くあること」だったんだろう。

 その結果、あんなに瘦せて、餓死寸前と言う有様になっても…「良くあること」で済まし、無理矢理にでも、嫌がってでも食べさせる、と言う当然の救命方法を試みる事すらなく。


 それにしたって、どれだけダヤンを見ていないんだ。

 毎日見ていれば、痩せた太ったって変化に気付くのは、確かに難しいけれど。

 誰が見たって、あの子は死へとずり落ちかけている。


 「極度の栄養失調です!トラキナ夫人。医師として、三太子には迅速な治療の必要があると診断いたします!」


 ソラダン医師の、不機嫌を隠そうともしない怒鳴り声が一の間に響く。

 それを聞いてなお、トラキナは目を剥いて吠えた。


 「出鱈目を!!あの子は食が細いの!平民の胎から出てきた太子と違って、豚のように貪って、悍ましく太ったりしないのよ!!」 

 

 トラキナの金切り声に、母さんは眉を顰めた。そして、するりとダヤンに視線を向ける。

 静かに、足音もなく母さんはダヤンに歩み寄る。それを止めようとしているのか、トラキナが「きいい!」と声を上げて藻掻くが、騎士たちは当然離したりしない。


 「ダヤン君」

 

 簡易布団の上に横たわるダヤンの傍らに、母さんは両膝を着いて座った。

 そっと細い手を取り、握る。


 「ごはんを、食べないのはどうしてですか?」

 「え…と…」


 ダヤンは俺にはすぐ話してくれたが、母さん相手だと戸惑っているように見えた。まあ、散々母親や叔母やらが悪口を言いまくっているんだろうし。母さんは極悪非道の外道だと思っているのかもしれない。


 「美味しくないんだって…言っていたよ」


 つい、素で話しかけちゃったけれど…母さんも、今は后妃じゃなく、うちの母さんの顔をしているから良いだろう。


 「ごはん、美味しくないのですか?」 

 「ははうえ…おいしないって、いつも、言ってて…」


 なんとなく、目に浮かぶ。

 黄天餐館の絶品料理も、貶しながら完食したらしいしな。


 「だから、おいしく、ない…」

 「食べたいものは、ありますか?美味しいと思うものは…」

 「あにうえの…甘いの…」


 さっきの、蜜か。

 母さんの視線に、蜜のはいった瓶を向ける。いや、今食べたいなら、持っていこう。

 歩み寄って、瓶を渡す。母さんはすぐに蓋を開け、蜜をヘラに掬い取った。


 「これは、美味しいのですね?」

 

 ダヤンは声を出さず、代わりに微かに笑って頷いた。

 もう一匙舐めて、さらに口角を緩ませる。


 「あにうえ、これ、美味しいって…いったから」

 「ファンは何でもおいしいって食べる良い子ですからね。ダヤン君にも、他の美味しいものをあげましょう。だから、ちゃんと食べるのですよ?」

 「おいし…ある、ですか?」

 「ええ。トールもファンも風邪をひいたときに食べる、とっておきのお粥を作ります」

 「ああ、あれはすごく美味いよ。風邪ひいてても、鍋いっぱい分食える」


 具は米と玉子だけなのに、とにかく美味いんだ。


 「私のお母さんも、そのお母さんも…子供が風邪をひいてしまったら、作ってきたお粥です。ダヤン君も、美味しいって食べられますよ」

 「おいし…うれしい…。おいし、あれば…ダヤン、死人じゃない…?」

 「ああ。ダヤンは死人じゃないよ」

 「どくどく、あるから…」

 「そう。どくどく、あるからな」


 母さんが握っていない方の手を取り、左胸に重ねる。小さな、消え入りそうに小さな、けれどちゃんと脈打つ鼓動。命の音。


 「まずは椀半分から、なるべく重湯に近くしてお与えください。后妃」

 「ええ。もちろん。ソラダン医師、この子をしばし、お願いします」

 「御意に。なに、寒さに晒されなければ、まだ助かります。ご安心を」


 ソラダン医師の診断に、母さんはほっと息を漏らした。多分、俺も同じ顔をしている。


 「さて。もう一つの罪を教えますか」


 す、と立ち上がった母さんの顔は、再び后妃の表情になっていた。

 トラキナの方は、喚きすぎて息を切らしたらしく、肩を大きく動かしながら、凄まじい形相で母さんを睨みつけている。


 「トラキナ夫人。侍従官、女官への過重な折檻、そして殺人の罪により、其方を罰します。そして、其方の近習…親類の女どもは、月虎宮にて荒淫にふけり、風紀を乱した罪により…死罪を申し渡します」

 

 取り巻き連中で意識を取り戻していた何人かが、轡越しに悲鳴を上げ、ばたばたと身を捩る。けれど、腕を括る皮紐も押さえつける女性騎士も、それ以上の抵抗を許さなかった。


 「な…なにを、なにを!!平民が、平民がなにを、私を、え、偉そうに!!平民が!」

 「私の父母は確かにアスランの貴族ではありませんが、私は后妃ハトゥンです」

 「お前なんて!!平民の、汚い、卑しい女が、后妃なんて、おこがましい!!后妃は私が」

 「黙りなさい」

 

 トラキナの罵声は、母さんの「本気で怒った声」によって断ち切られた。当然ながら、俺も思わず背筋を伸ばし、不動の姿勢になる。

 こっちを向いて言われてたら、その場で正座しているところだった。


 「后妃とは、アスランの民、すべての母です。我が子が痩せ細っていくことを気にも留めないものが、アスランの民一千万を見守ることなどできましょうか」

 「だから!!ダヤンは…!!」

 「ファン。もし私が、後ろ手に縛られ引き摺られていたら、貴方はどうしますか?」

 「拘束している奴を殴り飛ばして助ける」 


 それは、母さんが法を犯すような事はしないって言う信頼があってこそだけれど。

 いや…やっぱり、母さんがどんな罪を犯していても、俺はまず、母さんを助けようとしてしまうな。


 「ダヤン君は、あなたが取り押さえられていても、あなたのご親戚が捕縛されてても、関心すら示しません。それは、この子が愚鈍なのではなく、あなたがそうしてしまったのです」

 

 母さんの顔は、怒っていて、そして、哀しそうだった。

 そうだよな…いくら弱っていても、身の回りの大人が、まして母親が縛られ、乱暴に扱われていたら、怒るとか怖がるとか、反応するよな。

 そうしないって事は…ダヤンは、今までも、慣れてしまうほど…縛られ、乱暴に扱われる人を見ているってことで。

 そして、その「人」が母親であっても、何の関心も示さないほど…トラキナに対して、感情を持っていない。

 

 「そしてそれは、私の罪でもあります。母から子を、子から母を引き離すのはあまりにも惨いと…決断を遅らせてしまった」

 「母さん…」

 「ファン。覚えている?ファンが紅鴉宮に暮らし始めた時、標本を散らかしているかもって名目で、しょっちゅう私、泊まり込んでいたでしょう?あれね、私が寂しかったの。まだ、ファンは十歳で、子供で、私の可愛い子だったから」


 だから、同じ母として。

 トラキナから、ダヤンを離せなかった。

 でも、母さん。母さんは母だからこそ、我が子が食事を摂れなくなって、餓死するかもしれないって状態になっても気付かない、なんてこと、想像もできなかったんだと思うよ。


 同じ母として、後宮を統べる后妃として。

 母さんは、トラキナを傲然と見下ろし、その罪に相応しい罰を告げる。


 「冬狐宮に蟄居を命じます」

 「っ!!」

 「私を憎み、恨み、呪いなさい。私だけを」


 冬狐宮は、罪を犯した王族やその配偶者を幽閉する、北海の中の島に建てられた離宮だ。

 そこから出られるのは、最短でも一年後。十分に罪を悔い、改心したと判断されれば、身分は剝奪されるものの、赦されて市井に生きることはできる。


 ただ、アスランの歴史上、生きて出た人はいない。

 大抵は一月もすると発狂するか、自害する。

 

 「い、いや!!そんなところに行かない!私は、第二夫人でダヤンの、三太子の母よ!月虎宮から出て行くなど、しない!!」

 「そんなに、冬狐宮に移るのは嫌ですか?」

 「嫌よ!!いや!!私は、ガジラム家の娘で、王妃なのよ!!お前が行け!!そして死ね!!平民!!」

 「…ダヤン君と離れるのが嫌だとは、言わないのですね」


 母さんの言葉に、トラキナは目を見開いて、際限なく喚き散らしていた罵倒を止めた。


 「正式な沙汰があるまで、湖月宮に。連れて行きなさい」

 「御意」


 女性騎士が、トラキナを荷物のように持ち上げ、運んでいく。

 呟いているいるが、もう喚いてはいない。なんと言っているのか、聞き取れなかった。聞かない方が、良かったとは思う。でも。

 ダヤンの事を案じるとか、そう言う言葉だったら、いいな。


 彼女のいた形跡を主張するかのように、豪奢な靴が片方だけ、落ちていた。


 「はー、疲れた。ファン、まったくもう~ひやひやしたよ」

 「ごめん、母さん。それと…本当にありがとう。とんでもない間違いをしでかすところだった」

 「守護者もどきを懲らしめる程度なら、ここまでたどり着かないかと思ったんですけれどね。念のため、出陣してよかった」

 「母さんは、いつから掴んでいたの?」

 「噂というか、懸念はだいぶん前から。月虎宮の侍従官や女官が、不自然に居なくなると」


 俺も、ちょっと聞いたことはある。

 紅鴉宮と星龍宮に比べ、月虎宮の侍従官、女官の入れ替わりが激しい、と。

 ただ、仕切っているのが、あの第二夫人じゃ長続きしないかもなあと苦笑して聞く程度だったし、誰もがそう思っていたんじゃないかな。


 「けれど、あまり重くはとらえていなかったの。トラキナは嗜虐趣味もないし、狩りですら野蛮って嫌がるような子だったから」

 「うん。俺も、噂は聞いていたよ。でも、ついて行けないから辞めちゃうんだろうなってくらいにしか、思ってなかった」

 「話が変わったのは、長城の外を巡回していた兵が、遺体を見つけたことから。遺体はかなりひどい状態だったけれど、辛うじて顔が判別できたのね。その、見つけた兵の…友達だったの。それでね。月虎宮の侍従官が、何故、こんなことにって…」

 

 長城の外…それも、見回りの兵が見つけるような、路から外れた場所にあれば、あっという間に野の獣や、禿鷲に食い荒らされる。

 顔…特に眼球は、真っ先に狙われる部分だ。それでも判別できたなら、おそらく、捨てられてあまり時間が立たないうち…つまり、獣に食われる前に見つけたんだろう。

 

 それでも、酷い状態と言うのなら…辛うじて、でしか顔が見分けられないほどなら。

 生前、凄惨な暴力を受けて亡くなったって、ことだ。


 「その報告を受けて、私は改めて内偵を入れ、月虎宮を探ってね。取り巻きどもの事もわかったし、トラキナが少しでも気に食わないことがあると、すぐに折檻を命じることもわかった。ただ、ダヤン君のことは…今日、はじめて知ったんだ」

 「ダヤンが食べなくなったのは、内偵を引き上げてからって事か…」

 「先月の半ばくらいに内偵を引き上げたからね。食が細く、無気力だってことは聞いていたけれど…もっと、早く動けばよかった」


 宮ひとつを摘発するなら、それなりに用意がいる。

 母さんの独断でできることではあるけれど、親父にも、法を司る御史台の長官にも伝え、この一件から予想される貴族派の反発を抑える手段も準備しなくちゃいけない。


 もしかしたら、ジャスワン将軍、母さんの動きを掴んでいたのかな。

 俺を噛ませれば、最悪、ダヤンの助命に動くと読んで。


 うん。ジャスワン将軍がそう動くなら、やっぱりダヤンは間違いなく俺の弟で、親父の子で、黄金の血を引くもの(アルタン・ウルク)だ。

 少しでも、トラキナの密通で生まれた可能性があるなら、間違いなく真っ先に排除に動く。あの人なら。


 「でも、過ぎたことを悔やんでいても仕方がないからね」

 「そうだね。ダヤンはしばらく金狼宮預かり?」

 「それでもいいけれど、それじゃ解決にならないと思うから、カイゲンちゃんにここを任せようと思って」

 「え?」


 カイゲンちゃん、と母さんが親しげに呼ぶのは、親父の第五夫人の事だ。

 御年二十七歳。兄貴より年下で、俺より年上の、親父の夫人たちの中で唯一俺ら兄弟と仲のいいお人である。


 「ダヤンの、養育も…?」

 「うん。カイゲンちゃんも料理上手いし、なにより月虎宮ここは根本からどうにかしないと駄目でしょう」

 「それはねえ…」


 もし、侍従官か女官の一人でも、「外」に助けを求めていたら。

 オカル殿らが、もう少ししっかりと目を開いて見ていたら。


 あと、折檻を受けて殺された侍従官や女官たちは、たぶん、身分の低い生まれだったんじゃないかと思う。

 それなりの家から出自したのであれば、姿を消せば生家が騒ぐ。トラキナの疳気を静めるために、「どうにでもできる」出自のものを差し出していたんじゃないかな、と思うんだよ。


 誰が…と言えば、取り巻きや、侍従官長や、女官長。そういった立場の者たち。

 今、姿を現すことなく、何処かで震えているだろう者たち。

 

 そして、今、床にへたり込んでしゃくりあげる、侍従官たちも。

 自分の身を護るため、やってしまった罪が、あるのかもしれない。


 その罪を犯させた根っこは、この宮に根付く「貴族は平民より偉いから、何をしてもいい」という思想だ。


 カイゲンさんは結構いい家の出身だけれど、貴族思想は全くない。ご両親とも「力は血に勝る」って主義だし。それもどうかと思うけれど。

 ちなみに、御実家で使っている食器類は全て鉄製でめっちゃくちゃ重たく、椅子に腰かける際はまずは空気椅子状態を暫く保ってから座るそうな。


 そんな家に生まれ育ったカイゲンさんは、二十歳で千人長に抜擢されたという知勇兼備の名将だ。

 弓の名手で、援軍として赴いたキリクにて、手勢八百とキリク兵三百を指揮し、メルハ軍三千に完勝という武勲を打ち立てている。

 さらに、「麗人」と言う表現がしっくりくるような容貌の持ち主と、天から降ろされる時に贈り物をいっぱいいっぱいに詰め込まれたような人、だ。

 確かに。あの人なら、ダヤンを預けられる…んだけれど。


 「カイゲンさんにね、なんら思うところもないし、素晴らしい人だと思うし、尊敬もしてるんだけど」

 「うん」

 「でもさ…ダヤン、色々歪められちゃってるわけじゃない?なんか…その…」

 「まあ、性癖とかちょっと心配になりますが、そこは兄としてファンも気にかけてあげてください」

 「うん。そうする」


 とりあえず、うん。

 もう、兄として弟と関わることを嫌がる人はいない。

 だから、いつでも会いにこれるしな。


 なんか、弟の覚悟を問う…って思っていたのが、ずいぶん遠い昔みたいだ。

 弟に覚悟がないのは間違いない。だけれど、その前に、あの連中が守護者と名乗れる資格はない。

 

 主たるダヤンは、守護者モドキ共の助けを求める姿に何の反応も示さず、連中は痩せ細り、死の淵に佇む主を気にかけてもいなかった。

 あんな連中じゃ、守護者スレンの主たる覚悟なんて、芽生えるわけがないよなあ。


 いつか、ダヤンにも本当の守護者が出来ればいいんだけれど。


 すっかり退屈して、守護者モドキを軽めに蹴ったりしているクロムを見ながら、そう思う。

 …いや、でも、主が拳骨落とさなきゃいけないような守護者じゃなくていいからな?


 「って!なんで殴るんだよ!」

 「拳骨しただけだろ。暇つぶしに弱い者いじめするんじゃありません!」

 「サルンバルの前で斬るって言ったのお前じゃねぇか!良いだろ、蹴りまわすくらい!」

 「クロム君。その連中、侍従官や女官の折檻に関わった疑いがあります。おしゃべりして貰いますから、ちょっと我慢してくださいね」


 渋々ながら守護者モドキから離れるクロムを見ながら、その言い放った言葉を思い出す。

 やっぱり、クロムの血肉は食べたくないけれど。


 俺の守護者(ナランハル・スレン)がクロムで良かった。


 そう、心から。

 思った。

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