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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
52/89

甘やかされた子を立たせるのは、老いた牛を走らせるより難しい(親の甘茶が毒となる)5

 「開門!」

 「開門!」


 大和門の内側と外側で、声が冬の大気を貫く。


 その声に応じ、しっかりと閉ざされていた門は、ゆっくりと開きだした。

 逆に、両脇の小門は閉ざされ、出入りを止められる。


 完全に開いた大和門の前。

 警護に当たる兵たちが槍を引き寄せ、左胸に拳を当てて、今からこの門を通る貴人…ファン・ナランハル・アスランの命令を待った。


 「ありがとう。大アスランの栄光に翳りなし」

 「黄金の血統(アルタン・ウルク)の前にあるは、勝利のみ!」

 

 隊長の声に、警護の兵…そして居合わせ、膝をつく文武官が「勝利のみ!」と続ける。

 言いかわしたのは、アスラン軍における慣例句だ。これが大回廊市場なら「景気いいね!」「お互いさまで!」となるような。


 そんなありふれた挨拶に、誰も彼もが声を震わせる。


 「…お帰りを、お待ちいたしておりました!ナランハル…!」

 「トクト、元気そうで嬉しいよ。いつも、ありがとう」


 名を呼んで肩を叩きながら、これは…とファンは内心に眉を寄せた。

 もちろん、隊長の態度に、何か不穏なものを感じたわけではない。

 そういうわけではないが…門を護る兵士たちの顔ぶれに違和感がある。


 だが、その違和感を顔や態度に出せば、謹厳実直を擬人化したような隊長は大いに狼狽し、傷付くだろう。

 だから、眉を寄せるのは内心だけにして、ファンは足を進めることにした。

 

 主の動きを見て、大和門を最初に潜ることを譲り、クロムは一歩退いてファンを先に通す。

 以前のクロムなら、真っ先に盾を構え、剣の柄に手を置きながら門を潜っただろう。

 例えそれが、声を震わせてファンの帰還を喜んでくれる兵たちに、「お前らは信用できない」と告げる行為であったとしても。


 やっぱり、この一年、最も成長したのはクロムだ。

 そう思って、何とはなしに嬉しくなる。


 背も少しだが伸びたし、戦いの際の動きは見違えるほどだ。

 そして、本当の命の危機を潜り抜け、勝利したことで、余裕が生まれたように思う。

 自分の限界、全力…それが分かったことが、その余裕に繋がっているのだろう。

 割と俺はできる奴だった…と言うのが本人の評価だが、それが分かったことは大きい。


 四六時中気を張り、周囲を威嚇し、主の身に降りかかる危険に備えなくても、何かあれば即座に動ける。それが理解できたことで、無駄な力が抜けた。


 常に弦を張り続けていれば、いかなる強弓でもやがて折れるか、弦が切れる。

 人も同じだ。


 それを理解し、「緩ませる」ことを覚えたことで、クロムは戦士として一皮むけた。

 守護者(スレン)の成長は、主の自慢だ。なにより、ただでさえ敵を作りやすい性格のクロムに、これ以上無駄に敵が増えなくて良かった。

 そう思いながら足を進ませて。

 

 「…!!」


 そして、門を潜って、息をのんだ。


 大和門から先は、石畳などで舗装されていない。

 大都の城壁の先と同じ草原が広がり、北海から引く水によって川や池が造られており、絶妙な…守る側からすれば相互に連携をとれる、攻め手側からすればいやらしい距離を置いて、多くの宮殿楼閣が在った。


 門の先に在るのは、朝議や式典、国賓との謁見を行う大極殿と、その奥にあり王と宰相が政務を行う金馬殿、各史台の大夫…つまり大臣たちが政務を行う、六史殿だ。

 その他にも十二狗将らの本拠地である将院が点在し、宴などを行う殿が大中小とある。

 何れも見えるが、かといって近くはない距離であり、川や池を渡るか迂回しなければ辿り着けない。


 五代は容赦なく、三代四代が造営した壮麗な宮殿を建て壊し、舗装を剥ぎ取り、現在の配置で建て直した。

 あまりにも素っ気ない建物は、さすがに寒々しいと六代が装飾を許し、時の十二狗将と六史台長が余った予算で多少手を加えたが、足元の草原はそのままだ。


 アスランの王族に連なるもの、アスランに仕えるものが馬に乗れないはずがない。それなら、大地を石で覆うより、家畜が育てられるように草を生やしておけ。


 それが五代の方針であり、以来即位した三人の王たちは、その方針を変えることなく草原の上を歩いている。


 初めて大和門の先へと進むものは、想像していた「大アスランの王宮」や、門の前の壁で区切られ、舗装された道に沿って整然と建物が並ぶ光景との差に息を呑む。


 だが、ファンにとっては当然見慣れた光景であり、今更驚くようなものではない。

 驚かされたのは、別のもの。


 大和門をくぐって真っすぐ先には、一際巨大な建物、大極殿が聳え立つ。


 朱で塗られた六十四本の柱に支えられ、蒼天を写したような青瓦を乗せ、様々な彫刻や障壁画に飾られた王宮の中心ともいえる建築物。


 その、大極殿に至るまでの、およそ1イリ(500m)。

 道などない草原そのままであるはずの行程に、路が出来ていた。


 ずらりと並んだ、黒と赤の騎士服を纏う、紅鴉親衛隊の騎士たちによって。


 「ナランハル!千歳申し上げます!」

 「みんな…」


 その騎士たちが造る路の前、五人の男女が片膝をついてファンを迎えていた。

 纏うのは同じ黒と赤の騎士服だが、羽織る外套の装飾がずっと多く、縁取る毛皮も羊のそれではない。


 「アラカン、マルコ、アミール、ニルツェグ、ジルカミシュ…」

 「一夜を使っても語り尽くせぬほど、お聞きしたいこと、お伝えいたしたきことはございますが、今はさあ、前へ、大極殿へとお進みくだされ。大王ハーンがお待ちにござります」

 「良く、この今日戻るってわかったな」

 「へへ、鈴屋から報せが来たんすよ」


 もっとも年嵩の騎士と、反対に一番若いであろう騎士がファンの声に答える。

 なるほどそれでかと頷いて、ファンは改めて騎士たちが造る路の先へと視線を向けた。


 「こうまで固められたら、逃げられないな。すまない、皆。ちょっと面倒くさいかもしれないが、付き合ってもらうぞ」


 どうやら、こっそり戻ろうとしたところで無駄だったようだ。

 一騎士として小門を抜けたところで、すぐにこの面々に囲まれて二太子として歩かされていただろう。

 そもそも、大和門を警護する騎士が顔と名前を知っている、警護隊の中でも位の高い百人長だった時点でおかしい。

 彼が自ら門前に立つのは、式典や何かがある時だけだ。

 

 「ぼく、ついてって良いのかなあ?」

 「ごめんなー、むしろヤクモはついてきてもらわないと困るかも」

 「う?なんで?」

 「この中で、ヤクモだけがどこの誰か、わからないヒト、だからさ」


 キリクの王子ユーシンを知らないものは、アスランの高官にはいない。

 クトラ王族の血を引き、王太子の遊牧陣地クリエンで生まれたナナイについても、モウキの古くからの臣下は知っている。

 そして、士官学校在籍中であるにも関わらず、二太子の守護者(ナランハル・スレン)として同行したクロムの事は、大いに話題になった。


 だが、当然ながらヤクモの情報を持っているのは、両親と兄だけである。

 同行していても問題ないと知らしめなければ、それが原因で厄介ごとに発展する恐れもあった。

 

 「ヤクモに変なちょっかい出したら、ちょっと酷い目にあうぞって、教えておかないとな」

 「うむ!それは良い!紅鴉親衛隊の諸将方々については、後ほどじっくりと紹介してもらおう!当然、手合わせもだ!」

 「手合わせはともかくとして、ちゃんと紹介するよ」

 「このおいぼれは、もう槍働きを終えておりますので、若いのとお楽しみを。では、ナランハル。参りましょう」

 「うん」


 ファンを先頭に、騎士たちの路を往く。

 とにかく砕けた態度で知られる紅鴉親衛隊騎士たちだが、今はさすがに直立不動の体勢を保ち、真面目な顔を作っていた。


 路を抜け、大極殿が目の前に迫ると、階段の両脇に控えていた侍従官が、高らかに角笛を吹き鳴らす。

 その音を聞きながら、ファンは正面入り口に続く階段へ足を掛けた。


 大極殿は、遠くから見れば二階建てのように見える。

 だが、実際に中へと進めば、ただ天井が高くなるように造られていることがわかるだろう。


 天井には鳥や雲、天女天神が舞い踊る絵がはめ込まれ、太陽、月、星々を模した硝子細工が吊るされていた。

 その硝子細工はただの装飾ではなく、灯りをともす魔導具だ。

 朝議は通常、夜明けとともに開始されるが、その前から書面が読めるほどの光量で、真昼のように、満月の夜のように、王と臣下たちを照らし出す。


 今も窓から差し込む、冬の午後のか弱い陽光と共に、大極殿の中で膝をつき二太子の到着を待つ人々へと灯りを届けていた。


 (…さすがに、文武百官揃い踏み、じゃないな。良かった…)


 朝議に参加できるのは、各史台の長六人と、十二狗将、そしてその日の朝議の議題に関わる文官や、何か奏上したいことがあり、許された者たちのみである。人数的には、五十人もいない。


 新年の挨拶などの式典の際には、もっと多くの文武官の参加が許される。その時は約三百人。

 大極殿の端の端まで埋め尽くすほどだ。


 だが、今は朝議の時よりもさらに少ない。

 それでも、大都を護る役を担う六人の狗将と、各史台長の姿を見つけて、ファンは内心に悲鳴を上げた。


 (これ、絶対後で時間を使わせやがって~って因縁つけられる…)


 もちろん、本気で怒っているわけではなく、絡みに来るだけではあるが…「ナランハルはもそっと鍛錬をなさらんと!」と槍を握らされたり、「うち…この案件が時間かかってましてねえ…」と山になった奏上書を見せられる可能性は高い。


 (まあ、アステリアで苦労したのならともかく、一年楽しんでいたわけだしなあ…絡まれても反論しにくい…)


 遊んでいたわけじゃない!と言うのは無理だ。

 少なくとも、アスランでやるべき仕事を放りだして、トカゲ狩りだのなんだのと楽しく過ごしてしまったのは事実である。


 (みんなは…大丈夫かな?)


 ちらりと後ろを振り返れば、さすがにユーシンは堂々としたものだ。

 ユーシンもキリクに戻れば、王と王妃以外からは跪かれる身である。

 十二狗将や史台長とも面識があり、ユーシンに元から「恐れ」と言う感情はないが、彼ら彼女らの纏う尋常でない存在感に気圧される様子すらない。


 そんなユーシンとは逆に、当然ながらヤクモとナナイは緊張に全身を固くし、顔色を白くしている。


 無理もない。

 ここに集っているのは、まさしくアスラン王国の重鎮たちだ。

 そして、大極殿はアスラン人なら「一生に一度でも足を踏み入れられたら、最高の栄誉」と思うような場所なのだ。


 彼ら彼女らがどんな立場かわからなくとも、大極殿がどれほどの場所か知らなくとも、気配雰囲気で充分に委縮する。

 まして、大極殿の北端…ファンの背丈ほどの高さの壇上に据えられた、「この世の貴重なものを全て集めた」王座。


 そこに、その王座の主であり、アスランの王たる人物が坐しているのだから。


 (いくら見慣れた親父でも、やっぱりあそこにいるとなあ…)


 さすがに、式典で纏うような礼服ではなく、外に着ていくよりも上等な胡服デールに、本人曰く「ちょっとだけ取り繕う感じ」の上着フレムを羽織っているだけだが、それでも別人かと思うような威圧感を発していた。


 王座の後ろの壁には、巨大なアスラン国旗が飾られている。

 アスラン王国を背負うもの…至高の座に着くものが何者であるか、国旗は無言で示す。

 その重さに耐えることが、アスラン王の最初の仕事なんだよ…と、父はファンたち兄弟が初めてこの大極殿に足を踏み入れた時、そう言っていた。

 

 幼いファンはそれを聞いて(たいへんそうだからイヤだなあ…)などと思っていたわけであるが。


 背骨も魂もへし折る重さを十年間耐え続けている八代大王は、ほのかな笑みを口許に湛え、王座からファンたち一行を見下ろしている。

 その姿に、妻に窘められ、息子との再会にはしゃいでいた面影はない。


 王太子時代時には「陥陣」と謳われ、その突撃で崩せぬ軍はない…と畏れられた猛将。

 八代大王となってからは、先王のような領土拡大はないものの、大小の反乱を全ていともたやすく鎮圧し、貴族ノヤンの勢力を大きく削りとった辣腕の王。


 どちらも、モウキの本当の姿だ。

 無理に王としての顔を作っているわけではない。

 

 もちろん王族に生まれ、育つ過程で施されてきた、王になるものとしての教育が影響しているのは確かだろう。

 しかし、「外見はともかく中身はそっくり」と言われる兄を生まれた時から見てきたファンは、それだけではないと思っている。


 家族を愛し、生きることを楽しむのとまったく同列に、国民を愛し、王としてアスランを治めることを愉しむ。それが、モウキという男だ。


 それこそ、黄金の血(アルタン・ウルク)のなせる業であるのかも知れないし、王を愉しめるような人間でなければ、国を背負う重圧に耐えきれず、自然と淘汰されるだけ…という事なのかもしれない。


 しかし、それがわかっているのは、家族だからだ。あまりにもつい先日見せていた姿と乖離しすぎている。


 (ヤクモ達、戸惑ってるだろうなあ)


 再びちらりと視線を送ると、足音もなく静かに近付く人影がある。

 他の場所でそんな接近をする者があれば警戒するべきだが、殿を務めるユーシンは気にも留めず、クロムも一瞬身構えようとして…力を抜いた。


 「ナランハル。千歳申し上げます」

 「エゲン!元気そうでなによりだ」


 にっこりと笑って両手を胸の前で合わせ、優雅に膝を折ったのは、背の高い美女である。

 母に仕える筆頭女官であり、まもなく四十を迎えようとする年齢も、その美貌を損なうことはできないようだ。

 

 「后妃ハトゥンより、ナナイ様をお連れするようにと」

 「そうか。ナナイ、また後でな。母さん心配してるだろうから、元気になった顔を見せてやって」

 「うん。…ええっと、ごめんね、ヤクモ」


 正直に言って、この場の空気は怖すぎる。堂々と逃げられることに少々心苦しさを覚えてはいるのだろうが、そそくさとナナイはエゲンの横に移動した。


 「偉大なる大王ハーン。御前を退出いたします無礼、深くお詫び申し上げます」

 「構わないよ。他の子についても心配していたから、無事着いたことを教えてあげてね」

 「御意に」


 両膝を着き、額を床に重ねた手に載せる。呼吸を五つするほどの間、そのままの体勢でいたナナイを、エゲンがそっと助け起こした。


 二人が護衛女官に囲まれながら退出すると、静かに大極殿の扉が閉められる。

 馬と狼が立ち上がり、向き合う意匠が金で象嵌された扉。

 一度閉まれば、王が退出するまでその扉が開かれることはない。


 通常、朝議は開け放たれたままで行われる。

 これは、何かが決まれば、いち早く退出して取り掛かることが許されているからであり、死を恐れなければ、飛び入りで直訴することが出来るようにしているからだ。


 その大極殿の扉が閉められるという事は、ただ一年ぶりに戻った二太子ファンを歓迎すると言うだけではあるまい。


 それなら、他の家族も同席しているはずだ。

 ファンを敵と見做す第二から第四夫人と弟たちはともかくとして、母とも仲のいい第五夫人、そして何より、母と兄がいないのはおかしい。


 壇の中央にあるのは、今現在モウキが腰を下ろしている王座である。

 もともと、アスランは椅子を使う風習がない。

 王座もまた、腰かけて座る西方諸国の玉座スローンやカーランの龍椅と異なり、胡坐をかいて尻を据えるものだ。


 ドラゴンの骨で台座が造られ、そこに金で象嵌された香木の背凭れと肘掛けが嵌められている。

 座面と肘掛けを覆うのは、尽きぬ山(ヘルムジ)の麓のみに生息し、その勇猛さと毛皮の美しさで知られる一角金羊の毛皮だ。

 「飛竜ですら撃ち落とす」と畏れられる魔獣の毛皮は、金の艶めきを湛えて座の主を受け止め、金の輝きを以て彩る。


 その王座の向かって左端に、ゆったりとモウキは座っていた。


 アスランの王座が他国のそれと大きく違う点は、もうひとつある。

 王座は王と后妃、二人で座るもの、という点だ。


 朝議などに同席はしないが、式典の際には必ず王と后妃が並んで王座に座り、臣下を眼下に見下ろす。

 ただ、今は后妃ソウジュの姿はなく、無人のその席を、一角金羊の毛皮が覆っていた。


 さらに向かって右側奥に、太子たちの座が四つある。

 二太子であるファンは壇の下にいるし、弟たちは成人していないから、その座に着くことは許されない。

 なので、もし今、その場に座るものがいれば、一太子トールに他ならない…が、その姿はない。

 

 トールがいるとファンに張り付いて離れないから、来る前に扉を閉めたか…?と言う疑念は、おそらくクロムも抱いている。

 

 だが…今はそれを考えても致し方あるまい。


 ますます緊張して固まるヤクモの肩をひとつ叩き、ファンは更に前へと…父の前、つまり、王座の前へと足を進めようとして、止めた。

 視線の先にに捉えているのは、いつも通りの無表情ではあるが…瞳孔が明らかに小さくなり、唇を震わせる守護者クロムの顔。


 (あー…そりゃ、緊張するか)


 大極殿の王の前に進むということの価値について、クロムが一番理解していると言ってもいい。

 まして、クロムが良く知ってるモウキは、ファン師匠トールの父であり、アスラン八代大王ではないのだから。

 幽霊の類でなければ怖いものなしであっても、十九歳の青年に緊張するなと言う方が無理がある。


 「クロム」


 こつんと、その左胸を、心臓の場所を、叩く。


 「大丈夫。お前は俺の守護者(ナランハル・スレン)なんだから」

 

 クロムからの返答はなかった。だが、震える唇の端が、僅かに緩んだ。

 緊張が完全にほぐれたわけではない。けれど、クロムの視線はしっかりとファンを捉え、瞳孔はいつもの大きさに近付いている。

 

 幸い、この場には若き守護者のその緊張を「無様」と嘲笑うような者はいない。

 誰もが、一生分の冷や汗とかいたとか、鼓動が激しすぎて何を言われたのか全く聞き取れなかったとか、手と足が一緒に出たなんて言う記憶を持っている。

 今のクロムを嘲笑うというのは、その時の自分を、その時の誇らしさを虚仮にするという事だ。

 そんな阿呆が、文武の最高位まで上り詰められるはずがない。 


 むしろ、クロムが細い腕で剣を振り、トールの容赦ない修行に打ちのめされていたことから知っている将らは、感慨深げだ。

 

 その見守るような視線に、普段のクロムなら「うざったい」と不機嫌そうに眉を寄せただろう。だが、さすがに今は気付く余裕もない。

 歩き始めたファンの後ろを、必死について行く。


 もう振り返らず、ファンは真っすぐに壇上…王座に坐す父の前、その視線がまっすぐに見下ろす位置に膝をつき、左手を胸に、右手を床に寄せる。


 「大アスランの主、偉大なる大王ハーンよ」 


 しん、と静まる大極殿に、ファンの声だけが朗々と響く。

 壇上を見上げる時、ファンの立場は二太子ではあるが、アスランの数多いる騎士の一人にすぎない。

 ただいま~と暢気に声を掛けられるのは、金馬宮の後ろ、政治軍事の場である前宮と、王族の生活の場である後宮とを隔てる壁を越えてからだ。


 「ファン・ナランハル・アスラン。ただいま、帰参いたしました」

 「うん。何一つ欠けず、月の如く満ち足りて戻ったこと、嬉しく思う」


 当然、モウキも「ファンく~ん!おっかえり~!」などと、はしゃいだりはしない。見下ろすものは、息子であっても臣下だ。

 だが、それでも満月色の双眸には隠し切れない歓喜が躍り、声は浮かれている。

 

 クロムの緊張もそうだが、王の浮かれっぷりに眉を顰めるような者は、この場にはいない。この王とその家族に慣れきったものでなくては、十二狗将も六史台長も務まるわけがないのだ。

 ただ、クロムに向けた暖かい眼差しではなく、若干冷たさを増した、生温い視線ではあったが。

 

 「報告させていただきました通り、キリク王国ユーシン殿の協力を得て、シラミネのヤクモ王子を保護いたしました」

 「!?」


 そこで「うぇ?!」とか声を挙げなかった自分を、ヤクモは内心に褒めたたえつつ、膝をつくファンの背を穴が開く程見つめた。


 「ヤクモ!ファンのように膝をつくのだ!あそこに小さい絨毯があるだろう?あそこでだ!」


 こそりと、ユーシンにしては驚く程の小声で囁き、「俺が先にやる!」と付け加えて、すたすたと残り五歩ほどの距離を進む。


 「我がキリクの盟友、草原の主たる偉大なる大王よ!シーリンの子、ユーシン!御前に参上いたす!」


 やればできる、という文字が、ヤクモの頭の中を猛烈な速度で駆け抜けた。

 膝をつく、という服従の仕草であるのに、背後から見てもユーシンの動作に卑屈なものはない。

 寧ろ顔が見えなくても、所作だけで美しいと思える…そんな動きに一瞬見惚れ…それから、慌ててヤクモも同じように進み、膝をつく。


 手をどうしていいかわからなかったから、ちらりと横目で見たユーシンと同じく、胸の前で拳を合わせておいた。

 挨拶もするべきなのだろうが、何と言っていいかわからない。


 というか、武器とか持ったままだけどいいのかな、ふつー、王様に会う時って、丸腰にされるんじゃない?…などと疑問もよぎるが、ユーシンの長槍は本人の横に置かれているし、クロムも『紅鴉の爪』を背負い、剣を腰につるしたままだ。

 

 二人に倣い何もしないことにして、ヤクモはひたすら床を見つめた。今までのアスランの建物とは違い、大極殿《この建物》の床は木製だ。

 磨き上げられ黒く艶めく床は、天井の灯りを映して星空のように見えた。


 それが、その煌きが、改めてこの建物はアスランの「王宮」なのだと実感させ、ヤクモは暴れまわる緊張をどうにかしようと…何とか唾を飲み込む。


 壇上から見下ろすのがファンの父で、モウスルで色々と話した人だとわかっていても。

 なお北風に向かって進むような、圧迫感が心臓を押し潰す。


 クローヴィン神殿救出の際、ファンの前に傅く騎士らを見て、ファンが王子であることを理解した。


 そして今、同じように。

 ヤクモはモウキが、「アスラン王国八代大王」であることを、思い知らされた。


 一月かけて旅してきた途方もなく広大な国。

 何処までも途切れない巨大な都。

 この国に住まう、一生かかっても数えきれない人々。


 それらアスラン王国の主。

 

 「大王ハーン。ヤクモ殿は、紅鴉宮の賓客として迎えたいと存じますが、お許し願えますでしょうか?」

 「許す。大アスランの名に恥じないもてなしを」

 「御意に」


 緊張しているヤクモに、そのやり取りの深い意味まで推測する余裕はなかったが、つまりは二太子ファンが「俺の客だ」と告げ、大王モウキが「うちが恥をかかないようにちゃんとお世話するんだよ~」と了承した、という事だ。


 もしもヤクモに危害が加えられれば、「大アスランの名にかけて」徹底的な報復が執行される。それが嫌なら手を出すな、という威嚇だ。

 もちろん、この場にいる人々がそんな真似をするはずがないという事は、ファンもよくわかっている。

 だが「大王が認めた二太子の客」でなければ、「二太子の客」に悪意を向ける手合いがこの王宮にたくさんいることもまた、良く知っていた。


 「さて、我が大アスランの自慢である諸君を集めたのは、ナランハルの帰還を見せびらかしたかっただけじゃない」


 モウキの言葉に、一瞬ファンの顔が素に戻った。

 そのポカンとした顔に向けて、モウキは僅かの間、表情を変える。


 痛みを我慢しながら笑うような、そんな顔に。


 「中書令、準備は?」

 「万端、整っております」


 声とともに、複数の足音が響く。

 控えの間から現れたのは、アスランの宰相であり、モウキの従弟であるスバタイだ。


 そのスバタイと共に入ってきたのは、揃いの装束に身を包んだ、巫師ボーの一行だった。

 帯をまかず、羽織ってボタンを留めただけの白い装束には、鉄の小札がたくさん縫い付けられていて、歩くたびにサリサリと雨のような音を響かせる。

 

 一行の中央を歩む一際小柄な巫師は、それだけでなく、様々な宝石を丸く磨いて連ねた飾りを全身に着け、頭には鷲の羽を束ねて作った冠を被っていた。


 (大巫師テングリ…!)

 

 普段は長城の中の草原で遊牧しているか、王宮奥にある石塔で祈っている彼が現れたことで、ファンは何か父が重大なことを宣言するつもりなのだと知った。


 大巫師を除く六人の巫師たちは、一人一人が大きな鏡のようなものを抱えていた。

 水晶を磨いて作った楕円形の板を、精霊銀で縁取ったそれは、必ず対になっている魔導具だ。


 対になる魔導具の前にいるものの姿と声を、鏡に似た表面に映し出す。

 六枚あることで、ファンはその対がどこにあるか推測することができた。


 「よし、じゃあ始めよう。年の初めを待たずして、十二狗将を一堂に集めたのは、それだけの事だと理解してほしい」

 『むろん、心得ておりまする。大王ハーン


 真っ先に震えて声を響かせたのは、魔導具の一枚。

 そこには、サライにいるヤルトネリの厳つい顔が大写しになっていた。


 「老将軍。もうそっと、あと一歩…いや、三歩ほど下がられよ」

 「然り。貴殿の白くなった鼻毛しか見えんわ」 

 『貴殿らに年について揶揄われるのだけは納得できん!同い年ではないか!』

 「私は最年少ですぞ。半年も差がある」 

 「俺はまだ鼻毛まで白くなっておらんからな」


 十二狗将最年長の三人の言い争いはいつもの事だ。大極殿の六人も、次々に魔導具に映し出される他の将たちも、慌てることもなく穏やかに無視している。


 「大王。十二狗将のお方々のみならず、我らまで招集を命じられたという事は…軍を出せば片が付くような話ではない…そのような類のものであると?」

 「そうだよ。アスランのすべてを集結して問題にあたるべきことだ」

 「ふむ…当てて見せましょう。オドンナルガの婚礼についてですかな!?」


 鼻息荒く身を乗り出したのは、儀礼や典礼を司る太常史台の長だ。

 ふっくらとした輪郭や、やや落ち着きのない所作からは想像もつかないが、彼のむき出しに近くなった頭には、アスランの式典での決まり事や進め方がみっしりと詰まっている。

 さらには、キリクやクトラ、カーランに更にはメルハに西方諸国の礼法や儀式についても詳しい。


 その太常史台長の最大の関心が、一太子トールの婚礼だ。

 二十八歳、年が明ければ二十九歳と言う年齢で未婚というのは、子供が出来てから結婚することが多いアスラン人としても、遅い方である。


 妓楼に上がったり、そうした役目を持つ女官と寝所を共にすることもあるが、次代の后妃となるであろう女性の影は、一向に一太氏の側に現れていない。

 両親も政略結婚の相手など連れてこないものだから、一太子はのびのびと独身生活を送っていた。


 だが、それでは困る!自分が引退する前に何が何でも婚礼の儀を!と太常史台長が鼻息を荒くしているのは、十二狗将も六史台長も知っていた。いつもなら苦笑して流すところだ。

 しかし、今回ばかりは何人か手を打ち、「おお」と口角を吊り上げた。

 

 なにせ、今この場に当の一太子がいない。


 アスランのすべてを集結するような問題なら、一太子がいないのは不自然だ。

 いずれ九代大王となる御方であり、希代の大魔導士であり、常勝無敗の将たる一太子の協力を得ずに、「アスランのすべて」とは言えないだろう。


 「ざんね~ん。違うんだよねえ。最近は結構なんか考えてるみたいなんだけど。好きな子でもできたのかなあ」

 『あはwナランハルっぽい子じゃない事を祈りたいw』

 「そうだねえ。私も息子のお嫁ちゃんが自分に似ているのはなんかヤだし」

 

 トールの弟溺愛あにばかっぷりをよく知っている面々は、無言で頷きを交わした。もちろん、一番大きく首を縦に振ったのはファンである。


 「じゃあ、何の話って思うだろう。なので、本題に入りたいと思う。黄金月の夜、西のアステリア王国で、ファン君たちは恐ろしい敵と戦い、これを打ち破った」

 「…!」


 未来の義姉の想像にひきつっていたファンの顔が、一瞬にして鋭利さを増した。

 まさか、その話をする、という事は。


 「あの晩…いつになく月の門は開いておりましゅた…」


 もごもごとした口の動きからは想像もできないほど大きな声が、大巫師から放たれる。

 若い頃の半分になってしまったと語る老爺は、今年で百二十八歳。

 五代の御代からアスラン王室に仕える大巫師は、重たくなった瞼を開き、天井から吊り下げられた、月を模した魔道具を見据えていた。


 「万魔の王…忌わしき創造神の真似っ子めが…月の門のしゃきより、百と八つの目玉のいくちゅかを…地上に降ろしておったのでしゅな…」

 

 この場に集う者たちは、当然ながらその豪胆さは常人の比ではない。

 だが、それでも。

 あるものは思わず立ち上がり、あるものは目を見開き、あるものは歯をきつく食いしばった。

 

 それほどまでに、万魔の王が動いたという報せは凶報であった。

 何しろそれは、「世界の終わりが始まった」という報せに等しいのだから。


 『慌てるでないぞ。大王もおっしゃられたではないか。ナランハルらが、これを打ち破った、と』


 ただ一人、表情も顔色も変えなかったヤルトネリが、低く、しかし穏やかな声で一同に呼びかける。


 「その通りだ。目玉のひとつは、すでに祓われた。うん、ひとつはね」

 「…という事は、まだいくつかは」

 『地上で何か企んでいるってコト…よね』

 「そうだね」

 

 モウキの肯定の言葉に、さすがに一瞬、重い空気が大極殿を覆った。

 

 魔族は、出現すれば必ず大きな被害をもたらし、世界を損なう災厄だ。

 特に強大な、創造神や万魔の王の眷属が顕現すれば、国の一つ二つは消滅してもおかしくはない。いや、放っておけば、国どころか世界そのものが喪われる。


 それが国程度の被害で済んでいるのは、必ず英雄の守護神マースの刻印を持った「灯の英雄」が現れ、魔を討って世界を護ったからに他ならない。


 「…灯の英雄が現れた、と言う報告は?」

 「すくなくとも、此方には届いていませんね」


 御史台長が唸る。多くの密偵諜報を抱える御史台が掴んでいないのならば、それは「いない」という事だ。

 つまりは、魔が顕現しても打つ手がない。

 新たな灯の英雄が現れるまで、どれほどの被害が広がるか…それこそ、立ち直れる程度の被害であることを、神に祈るしかないだろう。


 『でもさ~wナランハル、倒したんでしょ?万魔の王の目玉』


 さらに重くなりつつある空気を貫いたのは、魔道具越しのジャスワン将軍の軽い声だった。


 『って事はさwいるんじゃないの?灯の英雄』


 あまりの事態の重さに、目が眩んでいたことをアスランの重鎮たちは自覚した。

 そう、灯の英雄がいなければ魔を討つことが出来ないのならば、逆に言えば、「打ち破った」という事実があるのなら、其れを成しえた者がいる、という事。


 全員の視線が、ファンに注がれる。

 魔を討つ現場にいたはずの、間違いなくその証言を信頼できる人物に。

 

 「…確かに、一度事態が動いた以上、アスランそのものの協力は不可欠だよなあ」

 「うん♪だから、場を作ってみたよ」


 明るい父の声は、実はけっこう無理して造っていることを…ファンは見抜いていた。


 平民だろうと王だろうと、我が子を死と隣り合わせになるような場所へ送り込みたいはずがない。

 何も言わず、耳を塞ぎ、目を閉じて、本当にその危機が迫るまで、運命を刻んだ右手を隠させて、守っておくことだってできた。


 だが、モウキは…そして、今この場にいないソウジュも、トールも。

 そうやって一日でもファンを安全な場所に匿っておくよりも、共に世界の危機と戦うことを決意したのだ。

 だから、こうしてアスランの重鎮たちに、ヤルトネリしか知らなかった事実を、伝えようとしている。

 

 王として、家族として。

 アスランを、世界を、ファンを、守るために。


 俺の家族がこの人たちで良かった。

 ファンは笑みと共にそんな思いを沸かせながら、右手の手袋を外す。


 「灯の…英雄って言うのはおこがましいし、そんな大層なもんになれる気はしないけど」


 掲げ、見せるのはその掌。

 赤く灯る、英雄神の刻印。


 「黄昏の君の悪巧みは、全部潰して回る。だから…皆の力も貸してほしい。世界が夜を超え、明日を迎えられるように」

 

 立ち込めていた重い空気を祓う灯。


 百戦錬磨の将も、怜悧な官僚も。

 固唾をのんでそれを…ファンの右掌に煌めく、灯を見つめた。


 『グフ…ッ!ナランハル…!!このヤルトネリ、老い先短い命も老体も、全てをもちまして…!!最後のご奉公をいたしまするぞ…ッ!!』

 「いや、せめてミクとサラーナの子が成長するまで見守っててよ」

 『それが御命令であらばッ!!』


 老将は噴き出した涙をふくことなく魔導具に詰め寄り、画像が乱れる。

 その姿に、空気が緩んだ。

 

 「みっともない。爺さんの涙なぞ、ばっちいだけよ。泣いてよいのは子供と佳人だけぞ」

 『え~w俺様ちゃん、身の程知らずクンが泣いて命乞いするの見るの、だぁいスキだけど~w』

 「大王、やはりあの赤狼ドールめは、大都の守護に回した方がよろしいのでは?」

 「うむ。頭をおさえつけるものがおらんと、ますます好き放題しよる」

 『やだ~wひどーいw』

 「ジャっ君の勤務地は後でしっかりと話し合うとして、この通り、灯を預かった者はいるんだ。なんと!うちのファン君でーす!」


 先ほどまで、僅かに浮かんでいた不安や苦悩は、すでに各々の双眸にない。


 例えどれほど強大な敵であろうとも、勝つための手段があるのならば。

 何を臆することが、絶望することがあろうか。 


 変わって浮かぶのは、これから起こるであろう、未だかつてアスランが経験したことのない戦いをどうするか…どのように勝利するか、その為の策を練る思考の閃き。


 「各々、特別予算をつけておいたよ。来年の予算だけれどね。燈明代って名目なのがそれだから」

 

 スバタイの言葉に、おお、と言う歓喜の声があがった。どこも予算はぎりぎりでやっている。そこにつぎ込める金があるのなら、更に何も恐れる必要はない。

 

 「やり方はね、任すよ。けれど、事が事だからね。打ち明けて動かすのは、本当に信頼できる、ごくわずかにしておいてほしい。今はね」

 「成程。確かに其が善哉よろしきにございますな」

 「お、お言葉ですが、大王陛下…!」


 肯定の声と疑問の声が、同時に湧き上がる。

 肯定したのは十二狗将のひとり、疑問の声を上げたのは、巫師のひとりだった。


 「うん。なんだい?」

 「は、発言と愚問をお許しくださり、感謝いたします…!魔は、人の心の黄昏に、不安に巣食います…!すでに灯があることを万民に知らしめれば、黄昏を照らし、不安の影を追い散らすこともできましょう…!」


 彼は巫師として、心の不安を、隙間を、スンスに入り込まれた人々を何人も見てきていた。

 妖は、魔ほど恐ろしいものではないが、取りつかれれば心身を損ない、やがて息絶え、妖と成り果てる。


 希望や安心感は、巫師の祈祷と並んで妖祓いに必要なものだ。


 万魔の王、黄昏の君。

 その侵略が始まっているのなら、民の恐怖や混乱は避けられない。

 だが、偉大なる黄金の血を受け継ぐ二太子が、魔を払う灯をすでに宿していると知っていれば、どれほど心強く、安心できることか。

 

 「大王。巫師殿の疑念、自分が応えても?相違あらば、正していただけますれば、幸いにございます」

 「構わないよ。ウルツ君」

 「ありがたく」


 ぬらりと立ち上がったのは、それだけで周りを圧倒するような巨漢だった。

 けれど、同じ太さの首に支えられた顔には、柔和な表情が浮かんでいる。


 「巫師殿のおっしゃること、まことに正しい。本来、そうするのが民の為、大アスランの為となりましょう。しかし、残念ながら、処々に蔓延る愚か者が…その最善を許さぬのです」

 「愚か者…ですか」


 巫師の呟きに、ウルツ将軍の柔和な表情が一変した。

 山の中で羆に出会ったが、逃げたのは羆の方だったという逸話が真実である…そう誰もが納得するような形相で、巨漢将軍は言葉を続ける。


 「ええ!己の栄達の為に恐れ多くも太子方を…り、利用せんと!」

 

 言葉に毒が付着しているとでも言うように、巨漢将軍の顔には苦悶の色が浮かんでいた。

 アスランと王家に心身どころか魂まで捧げることを喜びと思うような将軍にとって、王族を「利用」しようなどという言葉は、言うだけで不愉快なのだ。

 荒い呼吸を繰り返し、不愉快極まりない言葉を放ってしまったために生じた内心の嵐を、なんとか抑え込もうとしている。


 「…ふぅぅ…失礼。そう愚考いたす連中にございます。二太子が世界を照らす灯を授かっておると聞けば、黄昏の君よりも早く、良からぬことを始めましょう」


 あ、と巫師は目を見開き、頷いた。

 宮廷につかえるものとして、巫師はトールとファンの仲の良さを知っている。そしてそれを微笑ましく、これぞ黄金の血を引くものあるべき姿よ、と眺めていた。

 

 だが、それを表面上にすぎぬ、実際には王位をめぐって対立しているのだと勘ぐり、その対立に乗じて己も権力を握れると画策するものがいることも…宮廷に仕える巫師だからこそ、知っていた。


 「うん。ウルツ君の言う通り。そして、同時に、トール君を曇った眼で見ている連中は、ファン君をさらに邪魔に思い、どうにかしようと暗躍するだろうね」 

 「な、なるほど…!我が浅はかでございました!」

 「本当はね、君の言う通りにした方が良いに決まっている。けど、そんな連中の薄汚い欲望にこそ、魔は手を伸ばすだろうね。人を護るための灯を、人の手で消したなんて…月の門の向こうにいる御仁を喜ばせるだけだ」

 「先の灯の英雄も、己の手駒にせんと画策した愚王により…半年もの間幽閉されたのでしたね」


 その半年の間に、何千人もの命が失われ、国が二つほど地図から消えた。

 うち一つは、灯の英雄を幽閉した国であったが。


 「そうであったそうであった。孩子ガキのころ、良く岩屋の牢獄に閉じ込められた灯の英雄を救いに行く想像を、寝る前にしたものよ」

 『懐かしい、やることは皆同じだな』

 「わはは、やったやった」


 また少し重くなりかけた空気は、三老将の明るい声に吹き飛ばされた。

 それだけでは足りないとばかりに…いつの間にか、膝をつく姿勢は胡坐に変わっていた…腿を叩いて腕を振り上げる。

 

 「ナランハル。億が一にも同じように愚か者にかどわかされ、閉じ込められましたら、ぜひ我らに救出されてくだされ」

 「ばったばったと敵兵をば薙ぎ倒し、必ずや御救いいたしますれば!」

 「ありがたいけれど、まずは攫われないようにするよ。俺の守護者スレンも頑張ってくれるだろうし」

 

 急に話を振られ、膝をついたままだったクロムの頬が引き攣る。

 だが、その引き攣りを押し殺し、口の端を持ち上げて頷く。


 「当然」


 短いが、迷いのない返答に、どっと将軍たちが沸いた。頑張る若者と言うものは、いつだって先達おっさんたちの好物だ。


 「お、よう言うたな!」

 『きゃーwクロムちゃん、すてきぃーw』

 『クロム、しかしおぬし、もう少し、礼儀と愛想と言うものをだな…』

 「はーい、静まれ静まれ」


 ぱんぱん、とスバタイが手を叩き、口許をニヤニヤとさせつつも、将軍たちは言う通りに静まった。ただ、気配がまだ騒がしい。


 「そんなわけで、急に集まってもらってありがとうね。ま、皆で頑張れば、なんとでもなるよ。私はそう信じている」

 「俺からもありがとうを言わせてくれ。それと、俺たちが戦った眷属についての情報は、数日のうちに詳細にまとめたものを配布する。他に知りたいことがあったら、遠慮なく連携してくれ」

 『ならば、ふたつお聞かせください』


 挙手しつつ声を上げたのは、目の細い、いかにも温和そうな中年である。

 しかし、彼の二つ名…『千の目(ミンガ・ヌドゥ)』を知らず恐れない敵将はいない。

 千の目ジェベ。アスランの智将と言えば必ず名の上がる彼の問いに、ファンは表情を引き締めた。


 『まずひとつめ。眷属と戦ったおり、ナランハルは何名でございましたか?』

 「四人。ここにいる四人だよ」


 ファンの返答に、「おお!」とどよめきが上がる。

 

 キリク王国の「恐れを知れぬもの(ナラシンハ)」ユーシンの剛槍は広く知れ渡っているが…残念ながら、大アスランのファン・ナランハルが「武」で名が鳴り響いたことは、生まれてこの方一度もない。

 それは、わりと贔屓目でファンを見ている十二狗将も、六史台長もよくわかっていた。


 だから、ファンが眷属を打倒したと聞いたとき、当然ながら親衛隊を率いていたのだと思っていたのだ。

 しかし、たった四人で、それもまだ三歳馬シュドレンと言って良いような年頃の若者たちが討ち果たすとは。


 万魔の王の眷属は、決して容易い相手ではなかっただろう。

 どよめきは驚きだけでなく、賞賛も多分に混じっていた。


 『では、ナランハルは直接、黄昏の眷属と戦ったのですな。本当に、よくご無事で…』

 「俺一人じゃ間違いなく死んでたさ。全員が最大にして最高の働きをしたからこその勝利だ」 


 ファンの声に、再度どよめきが起こった。

 いや、これはもう、はっきりと歓声だ。

 

 「おう!こいつは戦勝の宴を開くしかあるまい!」

 「うむうむ!なんと言う武勲!なんと言う誉よ!」

 「各府、どのくらい予算余っておるか!」

 「ご安心を。今年もオドンナルガの婚礼がございませんでしたから、太常史台の予算がたぁんと…余っております」

 『ちょっとぉ!ワタシらが大都に戻るまで待っててよね!』 


 歓声が喊声になりかけ、天井から吊るされた魔導具が揺れるかと思い掛けたその時。

 ぱん、と宰相の手が打ち鳴らされ、声が放たれる。

 将や史台長が王の行動に慣れているように、スバタイもまた、重鎮らの扱いに慣れていた。


 「ジェベ将軍。もうひとつの質問は何か?」

 『はい。ナランハル。直接に魔をご覧になったナランハルのご意見をお聞かせ願いたい。それは、人が利用できると思いでしょうか?』

 

 ジェベ将軍の問いに、ファンは目を見開き、そして視線をしばし彷徨わせた。


 「それは、眷属を配下として使うという意味?それとも、武器にできないか、と言う意味?」

 『どちらとも言えます。つまり、戦略として利用することは可能かと』

 「うむ。つまり、ジェベ殿はカーランの山王が、なんぞかしようとしとる…もしくは」

 『もう、目玉を飲み込んじゃったんじゃないかって…コト?』

 『如何にも』


 カーラン真皇。人を惹きつけ、酔わせる…それを最大の武器に、貧しい書生と言う身分から、一国の主にまで登った男。

 その最大の武器が、万魔王から与えられたものであったなら。


 『人と魔と、同じ方法で勝てるとは思えません。兵馬を揃え、陣を組んでいざと角笛を鳴らそうとしたら、敵が化け物になった…などともなれば、総崩れにもなりましょう』

 「そっか…それもそうだね。ただ、一口に眷属と言っても、たぶん二種類あるんだよ」

 『二種類?』


 それは、ずっと考えていたことだ。

 

 灯の刻印を授かることになった事件。その時、黄昏の君より力を授かっていた三人と、心身を変容させたドノヴァン大司祭との差。


 灯を受け取った、あの時。

 もしも三人のうち誰かが、もしくは全員が、ドノヴァン大司祭のような変容を遂げて襲ってくれば、間違いなくファンもクロムも死んでいた。

 そして、世界はとっくに滅ぼされていただろう。

  

 「そう。何か模倣した能力や身体とか、伝説級の魔導具を模倣した代物とかを与えられただけの眷属と、黄昏の君の目玉が侵食している眷属とね。前者は暇つぶしに使っているだけ、後者はいずれ何か楽しいことになると思っている…そんな感じじゃないかな」

 『それって結局、遊びってことぉ?wちょww、迷惑www」

 「自分の気に入った器が現れれば、本気で顕現するために画策するかもだけど」


 灯の刻印の保持者は、魔に対抗する切り札であると同時に、黄昏の君の封印を解き、地上に降ろすための器でもある。

 あの時、黄昏の君が望めば、万魔の王が大都に顕現するという最悪の事態を迎えていた。


 そうならなかったのは、ファンは黄昏の君が欲しくなるような「器」ではないから、らしい。


 マース神曰く、黄昏の君は「絶世の」とかつくような容姿の者が好みで、ファンでは気に食わないのだと。

 それを聞いて、兄が灯の刻印を授からなくて良かったなあと思ったものだが。


 「幸い、今の器は黄昏の君にとって、お気に召さないようなんでね。魔王顕現の可能性は薄い…と言いたい。と言うか、させない」

 『…器、と言うのは』

 「灯の刻印保持者。つまり、俺だ」


 さすがに一瞬、沈黙が大極殿を覆う。

 だが、それは本当に一瞬の事。


 「成程。なれば、魔王降臨という最悪の事態はありえませんね」 

 「しかし、ナランハルを不服と申すとは。目が腐っておるな」

 「百八もあるのに、まともな目玉がないとは」

 『悪いのは、目ではなく頭かもしれんよ?』


 器がどこの誰とも知れないのなら、守りぬくのは困難だ。まずは探さねばならないから、どうしても後手に回ってしまう。

 だが、守る対象がわかっているのであれば、対策はいくらでもたてられる。

 まして、それがナランハルだと言うのなら、器が魔に誑かされる心配もない。

 

 「とは言え、油断はできないけどねー。ほら、ファン君、自慢の息子だし。良さに気付かれちゃうかもだから」

 「何、我らがナランハルをお守りするのは、当然至極のことにございます」

 『その気になったら、超馬鹿にしよーw振った相手に迫るとか、だっせぇえええwって~w』

 

 どっと笑いが起こり、重い空気は完全に霧消する。

 世界の安全を優先するのなら、ファンを何処かにこもらせ、必要な時だけ刻印の力を行使させるのが一番いい。

 だが、誰もそれは言い出さない。共に戦うから、守るから安心しろと…口許に載せる笑みが言葉なく語っていた。


 「えーと、まあ、そんな感じで、あくまで遊びや暇つぶしだから。そして王様は国を統一し、後々まで語り継がれましたとさ、めでたしめでたし、なんて結末は望まないんじゃないかと思うんだよね」

 『戦略として利用することを許さない、と?』

 「うん。けど、戦略として用いた結果が破滅であれば、玩具を与えることはする。もしかしたら、クトラの悲劇に用いられた毒は、黄昏の君が与えたものかもしれない」

 『…周囲を巻き込んだ破滅ならば、望むところ、と言ったところですか』

 「目を与えられた方は、一度能力を顕現したら人じゃなくなると思う。こっちも利用はできないし制御も効かない可能性が高い。使うとすれば、相手も巻き込んだ自爆兵器として、だな」

 『ふむ…であれば、今現在、カーラン真皇王が眷属である可能性は低いようですね。少なくとも、人を誑かす魔導具なり以上のものは持ち合わせていない』


 あれば、とっくに使っているだろう。かの国は、王は、十分に負け越し、追い詰められている。


 「こっちも油断は禁物だけれどね」

 『信用できる密偵に、その可能性も含めて探らせましょう』

 「うん。気を付けて」

 『お気遣いありがとうございます。うちの密偵は優秀ですが、敵が敵ですからね。百を掴んでそのまま消されるよりも、一を持ち帰れと重々命じておきます』


 すべてがわかれば、それに越したことはない。

 しかし、一は常に無よりも大きい。

 その大きさを、この場に集う重鎮たちはよく理解していた。


 「…近々、大都に嵐がやってきましゅる…」

 「大巫師、それは!」


 不意に、声が張り上げられる。

 小さな老爺に向けて、全ての視線が集まった。


 「しょれは、この後も続く嵐の前触れ、最初の一吹きにごじゃいましゅる…」

 「大巫師は、夢見にてこの凶事をすでに占っておいでです」


 魂を夢に飛ばし、未来を垣間見る術は、大巫師にしか使えない。

 彼が五代ジルチに召し出され、以降アスラン王家に仕えてきたのは、この能力によるところが大きかった。

 

 自分の望む未来ではなかったと殴られ、死ぬ寸前だったところをジルチに救われたのが百十年前。

 「視たいと思った時にだけ、見に行けばいいのではないか?どうせ明日はやってくるのだし」と言い放ち、夢見を強要することは一度もなかったジルチ。

 そしてその子孫たちもまだ見ぬ明日を知りたがることはなく、百十年の間に大巫師が夢見の術を使たのは、片手の指に余るほどだ。


 「嵐は…アスランのみならじゅ、大地を覆いましゅた…しかし、鴉が天を往き、嵐を引き裂き、晴天を導いて参りましゅた」

 

 鴉。人を導く、知恵ある善き鳥。

 そしてその王ともいえるのが、太陽を導く紅鴉ナランハル

 

 「ナランハル。御心のままに往かれなしゃれ…。その翼が、必ずや、嵐を切り裂き、晴天を齎しましゅ…」

 「ありがとう、大巫師。時の目のお墨付きをもらえたのなら、心強い」

 「ああ、しかしナランハル。いかに御心のままに、と言えど、標本やら図鑑やらを片端から買い込み、寝食を忘れて読みふけるのは違うと思われますよ」

 「虫やら草やらを溜め込むのもねえ…」

 「わ、わかってるよ!!」

 

 微妙に上擦ったあたり、多少は考えていたことが透けて見えて、大巫師でさえ口を開けて笑った。


 「さて、じゃあお開きにしよう。戦勝の宴の手配は任せていいかな?」

 「御意に!」


 ふんすと鼻息を放出し、太常史台長は大いに張り切った顔で頷く。

 あの酒を用意するべきだ、あの肉は外せないなどと諸将から注文が飛ぶが、おそらく耳に入っていない。

 すでに宴の段取りでいっぱいになった頭に、主役でもない連中の欲求が入り込む余地などないのだ。


 「みんなもファン君に色々聞きたいだろうけど、しばらくは休ませてあげてね」

 

 モウキの言葉に、異は唱えられなかった。

 休ませる…と言うのは表向き、一年離れていた息子を思う存分可愛がりたいから、時間をくれという威嚇なのは、当然みな理解している。


 音もなく、モウキは王座から立ち上がり、壇上を歩き出す。

 同じく音もなく王座の背凭れの後ろから、モウキの守護者であるホレイが姿を現し、主の後に従った。

 王族専用の出入り口へと続く扉の向こうに姿を消す寸前、』二人でファンたちへと向き直り、手を振る。


 その姿が完全に消えたと同時に、大極殿の門が開かれた。


***


 大極殿での会合が終了したのち、重鎮たちはファンたちに挨拶をして、速やかに散っていった。

 モウキの念押しもあったが、そもそも彼ら彼女らは忙しい。特に忙しい年末に、突然放り込まれた最重要案件だ。瞬きひとつの間も惜しみ、取り掛からなくてはならない。

 

 それだけではなく、子供のころから親しんだ灯の英雄物語。その最も新しい英雄譚の当事者になれることに、高揚を禁じ得ないという心情もある。とにかく、何かを始めたいのだ。

 

 大極殿を出ると、紅鴉親衛隊たちも解散していた。騎士たちも結構忙しい。

 年末ともなると、今まで目を背けていた書類とも真っ向から向き合わなくてはならないのだから。

 とは言え、星龍親衛隊であればトールが号令をかけるまで整列したまま待機していただろう。

 例え解散していても良い、と言われていたとしても、将の一人、十人隊の一隊くらいはその場に待機を続けていたはずだ。


 まあ、兄の所より、臨機応変でよろしい…という事にしておこう。そう決めておく。

 紅鴉親衛隊騎士たちの行動に文句をつけるより、日が落ちてきて寒さが増してきた中、自宅である紅鴉宮まで急ぐことの方が大切だ。

 前宮と後宮を隔てる壁と、そこに穿たれた三つの門のうちの一つ、もっとも紅鴉宮に近い東天門を目指そうと、視線を向ける。


 その視線の先に、ファンはこちらに近付いてくる馬の群れを見つけた。

 先頭の馬には人が跨り、残る馬にも鞍が置かれている。


 「ニルツェグ!馬を連れてきてくれたのか!」

 

 ファンの声に、馬上の騎士は左胸を拳で叩いて見せた。

 先頭の栗毛馬にまたがるのは、門の先でファンを待っていた、紅鴉親衛隊の将の一人、ニルツェグ。

 アスランの騎士らしく、手綱で合図する事さえなく馬たちの足を緩めさせ、ファンたちの手前で止めさせる。

 するりと鞍から降りた彼女に、ファンは訝し気な顔を向けた。


 「なあ、ニルツェグ。さっきも思ったんだけど、どうしたんだ?お前…」

 「確かに。ニル姐、なんか変なもんでも食ったんすか?」


 ファンだけでなく、クロムまでそんなことを言う。

 しかし、長身に男性騎士と変わらない騎士服を纏い、やや表情に乏しいが、凛々しく整った顔立ちの彼女は、具合が悪そうには見えない。

 

 どしたの?とヤクモが問いかけるより早く、ニルツェグの薄い唇が開かれた。


 「今日、じじっぴとさー、こっち来たから。じじっぴ、うちが服デコると、超うっせーからさー」


 外見からは想像もつかない言葉遣いに、ヤクモの目が点になる。

 しかし、ファンとクロムは納得したように頷いた。


 「あー…それでか。なんか何の飾りも付いてないし、どうしたのかと」

 「ねー。ナランハルがいーよーって言ってんだから、いいよねー。で、それはそれとして、クー坊はムカつくから殴るわ」


 言うが早いか、長い脚が跳ね上げられてクロムを襲った。

 それを盾で流せたのは、咄嗟に動けたからではなく、来るとみて身構えていた結果である。


 「ちょっとー。ムカつくんですけどー?」

 「大極殿の前で蹴りくれられて反吐ぶちまけるわけにはいかないんで」

 「じゃ、あとで。あー、ユーシン殿下とヤクモ殿下っすよねー?うち、ニルツェグっつってー、紅鴉親衛隊の百人長やってんでー、よろ」

 「よ、よろ?」

 「ふーん。ヤクモ殿下、けっこーカワイイ。でも、もう一年くらい前に会いたかったなー」


 ニルツェグの身長は、ヤクモより頭一つ高い。クロムやユーシンを上回っている。

 淡い色の金髪に、金と呼ぶにはやや色が濃すぎる双眸からして、同じ氏族の出身であろうと知れた。


 「さっき、はしゃいでたお爺ちゃん将軍いたろ?」

 「鼻毛について言及してた人?」

 「そっちじゃない方。ニルツェグは、そのボオルチュ将軍のお孫さんなんだよ。あと、ココチュのお姉さん」

 「ええ、ココくんの!?そいえば、似てるかも!」

 「お、うちのココと仲良ぴなん?アイツ、マブでいいやつだからさー。仲良くしたげてよ」

 「ニルツェグはヤルクト訛りが強いから、ちょっと怖そうに思われがちだけど、可愛いものが好きで、ちょっと…うん、ちょっとだけ、手足が早いだけの人だから。ヤクモも怖がらなくていいぞ」


 ファンの紹介に、ニルツェグは気を悪くした様子もなく、にっこりと笑った。

 何しろ、ファンとの付き合いも長い。この男が、裏の意味や悪意を込めての紹介などできないことをよく知っている。

 クロムが同じことを言ったのなら、今度は拳を舞わせるところだが。


 「そ。うちさー、可愛いものが大好きなんよねー。ちょっとさあ、ナランハル。ナナイ様、マブカワだったじゃん。あー、もっと可愛い服着せてーなー」

 「一緒に来た、ナナイの友達になった女の子たちも可愛いぞ。もし、手が空いた時間が出来たなら、一緒に服でも見に行ってやってくれ。軍資金は支給する」

 「マブでー。絶対いくー。やっべ、超たのしみー。仕事バリはやで片付けよっと。あ、そうだ、クー坊」


 輝いていた双眸が一転、鋭い光を宿す。

 まさに狼が、牙をむいて威嚇しているときのそれを思い起こさせるような剣呑さだが、クロムもニルツェグに慣れている。眉を微かに上げただけで「なんすか」と続きを促した。


 「てめぇの粗末なブツ、ナナイ様にこすりつけたりしてねぇーよなあ?してたら、斬り落とすから」

 「まだっすよ。あと、俺のモノは粗末じゃないんで。俺のを粗末と言うなら、世の男の大半が存在を許されないってもんですよ」

 「…大極殿の前で何を言っているんだお前らは」

 「わはは!よくわからんが、首でも落とされるのか!クロム!」

 「ユーシンも中途半端に食いつかない。ほら、行くぞ。寒くなってきたし」


 そういう下方向のネタを聞きつけた将軍が参戦してくる前に、さっさと立ち去ろう。そう決意して、ファンは馬の手綱を取った。

 実際、転げ落ちるように西の彼方へ沈む冬の太陽は、支配権を夜と寒さに譲り渡している。

 防寒はしっかりしているから耐えられないほどではないが、耐える必要がそもそもない。

 

 吹き付ける風の冷たさと強さに、残る四人は頷いて同意した。ヤクモはやや手間取ったものの、鞍上に上って手綱を取る。


 「東天門から行こうかと」

 「りょ。じゃ、いこー」


 先頭はニルツェグが務める気らしい。素直にクロムもそれに従い、ファンの隣に馬を並べた。

 王宮内で馬を走らせることは咎められることではないが、しかし全力疾走しなければいけないほどに急ぐわけでもない。早足程度の速度で前宮を抜けていく。


 「かいもーん。ナランハルのお戻りだしー」


 そうして辿り着いたのは、王宮と大都の街を隔てるそれと同じような高さと、水を満たした堀を持つ壁だ。

 堀にかかる橋の欄干は、落陽に赤く染まる。白玉を掘って造られたそこには、精緻な龍と鴉の彫刻があるのだが、今はさすがに見えにくい。


 東天門を警護していた兵が「開門!」と叫びながら門を開く。心なしその顔が引きつっているように見えて、ファンは首を傾げた。

 と言うか、何か…嫌な予感がする。


 「ニルツェグ。紅鴉宮には寄ったか?」

 「行ってないよー。なんで?」

 「いや…なんとなく。まあ、いいか。行こう」


 後宮も前宮と同じく、草原の上に建物が聳えている。

 ただ、前宮と違い、建物の位置はそれぞれ対を成すように建てられ、上空から見れば、整列しているのがわかる。


 ファンの現在の住まい、紅鴉宮は、東天門からはいってすぐ、後宮の南東に位置する。そこから真っすぐ北上すれば、トールの住まう星龍宮だ。


 紅鴉宮は先代のナランハルであったモウキの妹、ウールノーによって少しばかり外観に手が入っている。とは言え、華美なものではない。

 その装飾区によって、見上げて威圧されるようなものではなく、何処か女性的な柔らかさを備えた宮殿になっていた。


 その前に建つ警護の騎士らは、親衛隊騎士だ。主の到着に「うぇーい!」と手を振り上げて歓迎を示す。

 だが、その歓迎っぷりも何かを誤魔化しているような気がして、ファンはますます口許を引き攣らせた。


 「どしたの?アイツらムカなら、殴るー?」

 「いや、いつものことだし。何か…いや、いい。行こう」


 大和門をくぐったときから、待ち構えられていたのだし、ここでも待ち伏せがあるかも知れない。

 何せ、仕事も何もかも放り出して飛び出した身だ。怒りに形相が変わった文官たちが、右手に槍、左手に書類を持って立っていても不思議ではない。


 だが、それもこれも、誰が悪いって自分だよなあ。


 モタモタしていたら、槍が棘付き棍棒に変わるかもしれない。

 覚悟を決めて馬から降り、自宅へと進む。


 門番二人がそれぞれ扉の取っ手を引いて、ファンを迎え入れた。

 暗くなってきたので、魔導灯が点され、玄関を明るく照らしている。


 その中央。

 靴を脱ぎ、ここからが室内であると知らしめるその場所に陣取る人影。


 「おかえり弟よ!!さあ、兄が足を洗おう!!さあさあさあ!!」

 「こっちかー!!」


 長旅から戻った家族の足を洗うのは、ヤルクト氏族の習慣だ。家族が無事戻ったことを祝い、親愛の情を示す行為である。

 しかし、満面の笑みを浮かべた兄が、盥と布を準備して待ち構えていれば、喜ぶより先にドン引きするのは、恩知らずでも非情でもないだろう。当然だ。


 「あー、オドンナルガじゃん」

 「何やってんだよトール。家帰れよ。しっし」

 「…今はお前らの無礼を咎めている暇はない。さあ、弟よ!!」

 「まあ、予想はしてたけどさ…」


 明日の朝起きたら、また添い寝されているよりマシか、いやそれもされるかと眉間を指で押さえつつ、ファンは素直にトールの側へと足を進める。

 こうなったら足を洗うまで絶対に引くまい、なら、さっさと終わらせた方が良い。

 その決意に引き摺られるように、他四人も玄関の中へと進んだ。


 ファンたち五人が入り、トールが待ち構え、呆れて乾いた笑みを浮かべている侍従官や女官十人以上が待機していても、まだ十分に余裕があるほど広い。

 広いだけで、装飾品の類などはほとんどなく、唯一靴を脱ぐときに腰を下ろす絨毯だけが、鮮やかな色彩と模様を有していた。

 

 「お前さ…さっきのに出ないで、待ち構えてたのかよ…」

 「俺が弟を護り、その力になること、改めて言う必要すらないだろう?俺は今から息を吸って吐きます、などと宣う馬鹿はおらぬ。それよりも、父上の先手を取る方が先決よ…ククク…!」

 「ひくわー」

 「何とでも言え!さあ、弟よ!さあさあさあ!」

 「ちょっと待って!!ずるいよ、トール君!」

 「な!?」


 外から「あー、困るんで―」と言う全く困っていなさそうな、やる気のない制止の声がする。

 それを降り始めの雪の如く気にも留めず、玄関に飛び込んできたのは、先ほど退出していったモウキだった。


 「お父さんだって、お父さんだって、洗うんだから!」

 「いかに父上と言えど、譲れませぬ!!」


 睨み合う父子の間からそっと身を引き、ファンはニルツェグの肩をつついた。

 なんですか?と問う顔で、主の命を騎士は待つ。


 「悪いけど、母さん呼んできて。紅鴉宮うちが壊れる前に」

 「御意ー」


***


 「ナランハルが戻ってきたそうね」

 「まったく、政務も何も放り出して、また虫取りにでも行ってきたんでしょう」

 「あんな無能が、先に生まれただけで王座に近いなど…雷帝も理不尽なことをなさるわ」

 「ええ、本当に」


 母や叔母の声が、飛び交っては消えていく。

 先ほどまで料理から上がっていた湯気は、その声にかき消されたようにもう見えない。


 すっかり冷めきった肉の切れ端を口の中に入れてみたが、何の味も感じられなかった。


 「…」

 「あら、ダヤン。もうお腹いっぱいになってしまったの?それとも気に入らない?作り直させましょうか?」


 母の問いに、首を振る。どうせ作り直しても、同じことだ。


 「そう。今日はお腹がすいていないのね。もう眠いのかしら」

 

 今度は微かにうなずく。実際には眠気など一切ないが、起きているなら寝ていたい。

 眠ってしまえば、その間は気にせずに済む。


 「では、もう眠りましょう。ダヤンを寝室に」

 「かしこまりました」


 女官二人が手を出し、そっと椅子から持ち上げて立たせる。

 そこでしばし止まっていれば、歩く気はないと判断されて抱かれて寝室に移動となるが、それは嫌だと思った。


 それでは、まるで。

 まるで。


 「寝所へと参りましょう。サルンバル」

 「お疲れになられましたら、足をおとめくださいませ」


 足の裏が、柔らかい毛皮の靴の感触を拾い、床の硬さを知る。

 交互に動かせば、ちゃんと歩くことが出来た。


 …歩けている。だから、きっとまだ、生きている。

 死人は歩いたりしない。何も感じない。

 

 食べ物の味が感じられなくても、最後に「楽しい」「哀しい」と思ったのが、いつだったか思い出せなくても。


 歩くことはできる。

 そして自分は死んでいるのではないかと、怯えられるのだから、きっとまだ。

 死んでいない。


 ああ、だけど。


 アスラン王国三太子(サルンバル)ダヤンは、廊下に掛けられた鏡に映ったモノを見て、顔を歪める。

  

 艶のない皮膚。ぱさぱさと薄い髪。光のない双眸。

 これは、本当に、生きているモノなのだろうか?


 絹の布団に寝かされ、ダヤンは膝を抱えて丸まった。

 

 怖い。怖い。こわい。

 自分は本当に生きているのか。

 もう死んでいるけれど、皆が生きているようにふるまっているだけなのではないだろうか。


 (…あにうえ…)


 変わり者で、虫や草を集めて喜んでいるという、二太子ナランハル

 母や叔母はそれこそ毒虫のように罵るが、こっそりと侍従官が言っていたことによれば、兄は大変に物知りな学者なのだそうだ。


 その侍従官は、叔母が「身の程知らず」だという理由で罵り、次の日にはいなくなっていたけれど。


 (がくしゃのあにうえなら…頭がいいから、生きているか、死んでいるか、わかる…?)


 会ってみたい。会って、自分が生きているのか聞いてみたい。

 しかし、どうやって会えばいいのか。


 会いたいと言えば、母たちは連れてきてくれるだろうか。

 いや、きっとそれはない。

 今までだって、ダヤンがそう望んでも、母たちが「いやだ」と言えば、だめだった。

 だから、ナランハルのあにうえに会いたいと強請っても、母は「いやだ」と首を振るだろう。


 なら、どうしたらいいのか。

 その先が全く分からず、考える事すらできず。三太子ダヤンは、ただ絹の布団の中で涙を流した。


 そうする事しか、できなかった。


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