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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
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甘やかされた子を立たせるのは、老いた牛を走らせるより難しい(親の甘茶が毒となる)1

 「お、見えてきた。あれが、長城だよ」


 ファンの指さす先には、地の果てまでも延々と続くように思える、壁が在った。


 大都を囲む防塁であり、この先はヤルクト氏族の土地であるという事を示す長城に、見上げるような高さはない。

 ファンに言わせれば、「俺がクロムを肩車したくらい」の高さであり、厚みも馬の鼻先から首元まで程度のものだ。


 しかし、そうであっても、圧巻なのはその築かれている距離である。


 最初は遥か彼方に、森か何かがあるのかと…初めて長城を見たヤクモ達は思った。

 地平線に沿うように、どこまでもどこまでも壁は続き、途切れることはない。

 

 その壁に向かい、道はまっすぐに伸びていく。

 

 今、一行が足を進めているのは、アスラン王国の公路の一つ、フフノール路である。大運河に並んで続くこの道は、他の公路に比べて利用者は少ない。

 キリク王国とアスランを結ぶ路ではあるが、キリクから運ばれる主な産物は塩であり、重くかさばる。運搬には船の方がうってつけだ。


 その為、遥々フフノールからこの道を辿って大都に向かうような旅人は少ない。

 西方交易の主要路である大公路、東方交易の主要路であるトルファン路と比較すれば、寂れていると表現しても過言ではないだろう。


 もっともそれは、「1イリ1日」と表現されるほど混みあう両公路と比べれば…であり、まして今は大運河の事故もあり、陸路を往く旅人は十分に多い。


 一行の前後にはぶつかるほどではないが、街道を移動しているとは思えないほどの人がおり、進める速度はクロムが辛うじて苛つかない程度にしかならなかった。

 

 モウスルの町でのひと騒動から、すでに五日。

 ファンの予想通り、あの日の夕方には「悪者を懲らしめたのは、大王陛下であられたらしい」と言う噂がモウスルの町を駆け巡り、夜明けにはそれは「大王陛下が悪者をばったばったとなぎ倒し、攫われた娘をお助けくださった!」になっていた。


 陛下と一緒に悪者を退治し、寒さに凍える老人と母親に首巻を差し出したのは、一太子と二太子の両殿下であった…と言う話もくっつけば、モウスルの町はどこへ行ってもその噂で持ち切りになるのは必然である。

 

 そして、一目でも王家の方々にお会いしたい!と熱心に探し回るものが出るのも、また必然だった。

 

 町の住人たちは遠慮してくれたようだったが、他所から来て、たまたまこの町に滞在していた人々にはそれがない。

 宿と言う宿を当たり、怪しいとにらめば、そこが見ず知らずの他人の家でも覗き込む。一時、それで住人たちと余所者との間に、再び険悪な空気が漂った。


 だがそれも、「陛下たちは既にご帰還された」という話が出回ると鎮静化していき、一件から三日後にはよほどしつこく疑り深い連中を除いては、探し回るような輩もいなくなった。


 それでも念を入れてもう一日、ほぼ家の中と塀に囲まれた庭で過ごしたのちの出発である。


 しっかりと休養をとったのが良かったのだろう。

 医者に診せるまでもなくナナイたちの体調はすっかり回復し、エルディーンも精神的な衝撃から立ち直った。


 事件のあった日は食事も喉を通らない有様で随分と心配したが…ナナイに言わせると「伯父様たちの容赦のなさが怖かったんじゃないかなあ」だそうだが…夜にソウジュが帰る際には泣いて別れを惜しみ、翌日には食欲も戻って、心配していた友人や女官たちを安心させた。

 後は、食べて寝て、いつも通りの生活をしているだけで回復していくのが、若さと言うもの。

 

 全員体力気力ともに充実している。

 これならば問題ないと、貸家の後始末は仕事が一段落したフフホト水軍の船長に任せ、まだ暗い中、旅だった。


 午後に入って早いうちに、泊まれる宿のある町に辿り着けたのは幸運と言える。

 中途半端な位置にある町の宿は、なんとかだいぶん大人数になった一行が泊まれるだけの空き部屋があった。


 大部屋三つに、二人部屋二つ。病み上がりのナナイとマリーアンに二人部屋をひとつ提供し、もう一室はロットとウィル、レイブラッドが無理矢理三人で使う。

 ファンのパーティ、少女たちとガラテア、親衛隊騎士という組み合わせで一夜を明かし、朝食をとって歩き出し、太陽が中天に差しかかる頃…ついに、ファンの指が長城を指した。


 「ようやく長城か…」

 「すんごい人だねぃ…今夜の宿、だいじょうぶ?」

 「うん。長城のなかに入れば、問題ないさ」

 「大都、もうすぐそこなのう?」


 途中通ってきた町の前に、宿の客引きがいなかった。

 アスランにおいて、それはとんでもなく異常なことだという認識は、しっかりヤクモに芽生えている。

 ついでにそうして客引きをする宿や食堂はぼったくりである、と言う知識も植え付けられていた。

 そんな客引きがいないという事は、客を引く必要がない事態…つまり、どれだけぼったくっても満室になっているという事だ。


 長城から大都まですぐならば、宿の心配はいらない。しかし、まだ先と言うのであれば、夜が来てしまう。

 アステリアなら野宿すればいいかと思うところだが、アスランの夜を野宿で超えるのは、今までで一番危険で無謀な冒険になるだろう。


 「んー…今の時間からすると、夜も歩くなら今日中には着くかな」


 公路は石畳で舗装されており、荒野や土を踏み固めただけの道に比べれば、ずっと歩きやすいし、馬車も揺れない。

 だが、休憩もなく暗い中を往くというのは…自分たちは良いが、神官たちにはとんでもない負担にならないだろうか。

 そろそろ不満と限界を訴え始めた、鞍の上の自分の尻的にも、それは勘弁してほしい。そう、ヤクモは声に出さずに思う。


 その内心の声が聞こえたわけでも、ヤクモのお尻事情を察したわけでもないだろうが、ファンは答えたのちに首を振った。


 「だから、長城にはいったら宿探しだ。日が暮れるまでに見つけたいなあ」

 「壁の向こうに、まだ町があるのう!?」


 ヤクモの驚きに、ファンは少し目を瞬かせ、それからにんまりと笑って見せる。

 

 「長城を潜ればわかるさ。さあ、もうひと踏ん張り、頑張っていこう!」

 「え~なにそれえ~」


 口を尖らせたものの、確かに聞くより自分の目で見たほうが絶対に早い。

 なにしろ、アスランの「当たり前」はヤクモにとって「想像もつかないもの」である。

 それは、神官たちも同じことだ。やり取りを聞いていたロットとウィルも顔を見合わせ、ファンの指さす先に視線を戻す。


 草原を貫く道。そこを歩む人々。人の流れは絶えることなく続き、一定の速度で進み続けている。

 だが、道行く人々の顔は明るい。長旅をしてきたとわかる人ほど、顔に安堵を乗せ、道連れと談笑しながら足を進める。


 周りに倣ったわけではないが、いつもの特に意味はない、思いつくままのお喋りをしながら進めば、思ったより早く、長城を潜るための門までやってきていた。

 

 門は両脇の柱に支えられ、屋根と扁額を備えた立派なものだ。

 壁よりも高く、見張り台も兼ねているらしい。屋根には人が座る場所があり、兵士が二人、そこに詰めていた。


 他にも門の前に数名の兵士がいるが、通行証や荷の改めなどはしていない。敷布に座り込み、談笑している。


 「ここでは、通行税の徴収などはないのですか?」

 「ないですよ。通行税はサライで払ってきましたしね」


 馭者台のロットからの質問に、ファンはあっさりと首を振った。


 「というか、長城は大都の入り口じゃないし」

 「ああ、そうでしたね…これは、あくまで、大都を囲む壁…なのですよね」

 

 ここから大都まで、まだ半日はかかる。

 今までの街には、このような外壁はなかった。やはり、「大都アスク」はアスランにとっても特別な「王都」なのだ。

 

 なんとはなしに全身に漲る緊張と期待に、口を噤んで馬に揺られる。

 周りを見れば、同じような顔をしている人と、あきらかにホッと緩んだ顔をしている人、きれいに二種類に分かれていた。


 「そんなにビビってんじゃねぇよ。別に童貞だからしょっぴかれるってわけじゃねぇし」

 「そんな心配してるわけないでしょお!」

 「気持ちはわかる。俺も最初に長城を潜ったときは、身構えたものだ」


 その緊張をほぐそうとしているのか、たんに揶揄っているだけなのか…絶対に後者だとヤクモは思ったが…肩を竦めるクロムに噛みつき返すと、シドが「どうどう」とでも言うように肩を叩いて宥めてくれた。

 シドも乗馬が得意なわけではないから、その動作の後で痛みをこらえるような、微妙な間があったけれども。


 「まあ…緊張する必要はないが、身構えておいた方が良い。ここから先は…なんというか、おかしい」

 「そんなおかしいかなあ?」

 「同じ規模の街を俺は知らん」

 「燃えてなくなる前は、カーランの皇都は大都を凌ぐ街だったそうだけどねえ」


 ファンの顔も、どことなく緩んでいる。

 

 「この先は、危険な獣や魔獣はでないし、賊の類も掏摸やかっぱらい程度ならいるけれど、野盗や馬賊はいない。喧嘩やらなんやらがあれば、すぐに兵がすっ飛んでくるから、安心だぞ」

 「そうなんだ~」


 つまり、町中と同じくらい安全という事か。それなら、周りの人々の顔が緩むのは無理もない。

 護衛を連れているような隊商はごくわずか、並んで長城を潜ろうとする人々の多くは、単身か少人数であり、傭兵や冒険者…アスランにはいないらしいが…はぐるりと見渡す限りいなかった。

 

 昼、なるべく安全な道を行き、万が一襲撃されれば、護衛がいる一団の側に駆け寄る程度しか護身の術がない人々にとって、長城の内側と外側は大きな意味を持つのだろう。


 なんとなく、自分たちの周りに特に人が密集しているように思えるが、おそらく気のせいではない。

 護衛を連れている一団から離れないようにする…それは、行商人たちの旅の知恵なのだ。


 ま、そのうち二人はおしり痛くて多分まともに戦えないけどねぃ…と、少しばかり申し訳なくもなるが、護衛料を貰っているわけではないのだから、いいよね、と自己解決しておく。


 しかし、それも長城を潜るまでだ。不自然に思われない程度に密度は下がっていき、吹き抜ける風が強くなったように感じる。


 ファンを先頭に、一行は長城の門へと差し掛かった。

 見張りの兵は変わらず談笑を続け、何一つ止められることもなく…ヤルクト氏族の土地へと足を踏み入れる。

 

 「あ、ひつじ!ひつじいる!」

 「今日は風が強いから、自主的に避難してきてるな」


 壁の厚みは聞いていた通りそれほどではない。だが、二十歩ほどの距離を置いて、再度壁がそそり立っていた。

 その間は特に何もなく、枯草が残り、それを羊の群れが食んでいる。


 「寒さが酷いときは、壁に鉄の環があるだろ?あそこにフックをひっかけて、屋根と壁をつくるんだ。そこに家畜を入れてやり過ごす」

 「町にいれないの?」

 「入れないよ。大都に入れると売りに来たと見做されて税金掛かるし」

 「せちがらいねぃ…」


 そんな会話をしながら、さらに十数歩。

 長城の内側の門まで、あっけなく到達し、長城を抜ける。


 「え…?」


 その先に広がる光景にヤクモは…いや、ヤクモだけではなく、ロットもウィルも、待ちきれず馬車の窓を開けて「その先」を見ていた少女たちも…声を上げた。


 道が続くのは、今までと同じ。

 だが、その道の両側には、大草原が広がっていない。


 代わりに存在しているのは、町だった。


 門の先にはいったん馬や馬車を止めるための広場があり、先を往く人々の半分ほどは空いた場所を探しながら道を逸れていく。

 広場で足を止めた人々の間を、忙しなく走り回っているのは客引きだろう。

 強引に引っ張り込むような様子はなく、今までの町の客引きよりおとなしいのは、やはり長城の中ではあまり阿漕な商売ができないということか。


 道の両側に並ぶ店は、ほとんどが宿か食堂のようだ。四割宿、三割食堂、その他、何かを商っている店であることは分かるが、ヤクモの知識では何屋なのかわからない。

 大きな手が描かれた看板がある店は、手袋屋だろうか。それにしては、素手っぽい絵ではあるが。


 そう、これは、どう見ても町だ。

 聞いて思い描いていた「大都」の賑わいには及ばないが、十分に賑わう町だ。


 ファンは当然ながら驚いた様子もなく、殿を務める親衛隊騎士たちに、脇へ逸れるぞ~と声を掛けつつ指をさす。そして、石畳の道から、踏み固められた土に覆われた広場へと馬首を向けた。


 「ふぁ、ファン!まだ、大都についてないんだよねぃ!?」

 「え?そりゃそうだ。長城潜っただけだし」

 「じゃ、じゃあ、なんで町に入ってるの~!?」


 ヤクモの言葉にファンは少し目を見開いて首を傾げ、やがて「ああ」と頷いた。質問の意味が呑み込めたらしい。


 「町じゃないぞ?ほら、あっち見てみ」


 ファンが指さしたのは、広場の先。

 いや、今いる場所を、ヤクモは広場だと思ったが、そうではないのだと、ファンの指さす先を見て、ヤクモは知った。


 広場と思っていたのは、ただ建物がないだけの「草原」だ。

 町に入ったのではなく…長城の外とは違い、道に沿って建物がある…ただそれだけのこと。

 ただそれだけのことが、道の終わりまで続いているのは…どう考えても「おかしい」と改めて思うが。


 「獣や賊の心配をしなくて良くて、需要があるなら…まあ、店が建つよな」

 「…建たないと思うけどねぃ…」

 「フフホトの周りにも露店があったし、ラスヤントだって船がたくさん出てただろ?そりゃ、大都の方が規模がデカいけど」


 そう言われてみればそうなのか?と納得しかかって、いややっぱりおかしいよ!と反論しようとし…シドに首を振られた。この問題でアスラン人に分かってもらうのは、どうやら無理らしい。

 よくファンの言う、文化の差ってやつかなあ…と思いつつ、ヤクモは今度は落ち着いて周囲を見渡した。


 二階建て以上の高さの建物は近くにない。

 しかし、広場(と便宜上呼ぶことにした)のすぐ先にある建物は、ずいぶんと大きい。

 人の出入りも多く、旅人のように見えない人たちも混じっていた。


 「ファン、あのデカい建物は何だ?」


 ユーシンも気になっているのか、指さして尋ねた。

 空腹で無口になっていたが、少し元気が出てきたらしい。


 「確か、食堂だったと思う。観光客とかが連れていかれるやつだな」

 「観光?」


 ロットの少し上ずった声に、ファンは何をそんなに驚くことがあるのかと疑問に思っているらしく、首を傾げて応える。


 「ええ。大都の中で生まれ育つと、まず外に出ません。でも、長城の外に行ってみたいって言う人は結構いるので、それ用の観光があるんですよ」

 「ええと、つまり、旅行に、という事ですよね?」

 「長城外側ツアーは安いし、今はさすがにやってませんけど、春から秋は外で遊牧民風の料理を食べて帰るだけって気軽なやつなんで、人気あるんですよ」


 ファンの返答を聞いて、ロットは困った顔をして笑っていた。

 と言うか、笑うしかない状態になっている。


 十七年の人生のほとんどを軟禁されていたヤクモだが、それでも約一年、アステリアで暮らしてそれなりに世間の知識も蓄えた。


 だが、その知識の中に「お気軽な旅行」と言うものは存在しない。

 旅は危険なものであり、それでも美しい景色などを楽しみたいとなれば、冒険者や傭兵を護衛に雇い、万全を期して出かけるものである。


 当然、金もかかるし庶民にそんな暇はない。物見遊山に出かけるなどと言うのは、一部の貴族や金持ちにだけ許される贅沢だ。

 

 アステリアの庶民は、基本的に生まれた町や村から出ずに一生を過ごす。

 旅は冒険者や傭兵、行商人の領域だが、それだって遊びに行くわけではない。

 できれば危ない「外」には行きたくないから、荷物や手紙を運ぶことが冒険者の仕事になるのだ。

 

 だが、今まで聞いたファンの話からすると、アスランの人々は結構気軽に「旅行」に行くようだ。

 ファンの領地であるフフホトも、夏は観光客で埋め尽くされると言うし、広場の側にある「観光客が連れていかれる」店は、大いに賑わっている。

 出入りしている人々を見ても、ものすごく金と暇が余っているようには見えない。


 これもまた、遊牧民が立ち上げた国と、そうでない国の差なのだろうか。


 「それならばファン!俺たちも行こう!腹が減った!」

 「ええ~?ああいうところは、あんまり美味くないぞ。不味くもないだろうけど」

 「むう…だが、ものすごく腹が減った!」

 「とりあえず、屋台でなんか買うか。できれば、もう少し中に行ってから飯にしたいんだよな」

 「賛成だ。どうせ門の側はぼったくりで不味いって決まっている」


 うんうんと頷きながら、クロムの目はその門の側にある店を物色している。ちょうど昼時なだけあって、どこの店も盛況だ。

 とりあえず適当に目についたものを買うことにして、一行は休憩場所設置班と買い出し班に別れた。

 買い出し班の騎士たちが「いってきまっす!」と元気よく散っていく。戻るまでの間にと、地面に敷布を置き、草を払って焜炉を置き、湯を沸かす。

 干し果物や実芭蕉が皿に盛られ、干しチーズ(アロール)も出された。

 準備を行う女官たちの動きは無駄がなく、ファンが手伝おうと少しでも動くと、鋭い視線で制止される。


 やがて串焼き肉やら揚げパン(バウルサク)やらを抱えた騎士たちが戻ってきて、「ちょっと小腹を満たすための休憩」が始まった。

 どうやらこの広場は、そのための場所らしい。


 「あれ?騎士さんたち、二人いないよ?」


 串焼き肉に齧り付き、フフホトでも食べた焼餅ハリコシ…こちらは中に何の具もないが…をひとつ食べ終わったとき、ヤクモはそのことに気付いた。

 五人の騎士のうち、二人がいない。だが、ファンも同輩も、気にした様子はなかった。


 「ああ、先行して宿を探してもらってるんだよ。できれば全員同じ宿に泊まりたいし、かといって客引きについて行くのはちょっとな」

 「大丈夫だよ、ヤクモくんや。あいつらはその分、ちょいとお小遣いいただいて、飯と酒かっくらってるからね」

 

 それなら、同じように疲れているのに休憩なしで動いて貰っても問題ないのだろうか。


 「この程度の行軍で疲れたなんて抜かす奴、親衛隊にはいれねぇよ。ですよね?センパイ?」

 「え、そら、もっちのろん、でございますですことよ!」

 「ですわですわ!」

 「なんでニセお嬢様になってるんだよ…」

 

 ファンの呆れた声に笑いが起きる。騎士たちはご丁寧に身振り手振りもニセお嬢様にしていたので、タタル語のわからない少女たちにも可笑しさが伝わったようだ。

 

 「あれ…あの子たち、何をしているんでしょうか?」

 

 ウィルの声に、笑いが収まる。なんとはなし、全員でその示す方を見れば、当の本人は逆に顔を赤らめて指を降ろしてしまった。

 しかし、問われた「あの子たち」が誰かは、全員理解できていた。


 視線の先にいるのは、自分の上半身ほどもある籠を背負う少年と、もう少し幼い少年少女三人。

 せっせと何かを拾い上げ、背負い籠に入れていっている。


 「ああ、馬糞拾いだね」

 「馬糞拾い…?」

 「そのまま。馬糞を拾っているんだよ」

 「ええと…何のため、に?」


 ウィルの声が僅かに咎めるような硬さを含んでいるのは、少年たちの服装が見るからに見窄らしく、加えて背負う籠に振り回され、ふらふらとした足取りになっているからだろう。


 「生きるために決まってんだろ」


 その声の硬さに一瞬遅れたファンに変わり、クロムが口を開く。


 「生きるため…?」

 「三籠ぶん集めりゃ、明日一日生きるための金になる。大部屋の宿代と、死なない程度の食い物を買う金にな」

 「馬糞は、工場で加工して燃料にするんだ。干して固めて、煉瓦みたいにする。何の技術もいらないし、籠は貸してもらえるから元手もいらないからね。移民がまず最初につく仕事の一つだよ」

 「アスランに、大都にくりゃなんとかなるって後先考えずにやってくる奴は多い。言っとくが、あのガキどもはまだ幸運なほうだぞ。仕事にありつけてんだから」


 よく見れば、ふらついてはいるが、少年の顔は明るい。

 近くの隊商の馬が催したらしく、一人が少年たちを呼ぶ。駆け寄る少年少女の顔には、笑顔があった。

 せっせと馬糞を背負い籠に移した子供たちに、隊商の一人が何かを渡している。

 少年が満面の笑みで一礼をしたところを見ると、食べ物か金のようだ。


 「馬糞拾いも、真面目にやっていれば工場が働き手として雇ったり、他の仕事を紹介してくれる。そうして大都に定住した人は、たくさんいるよ」

 「まあ、大都まで来たのに馬糞拾いなんて冗談じゃねぇって死ぬ馬鹿もたくさんいるけどな」

 「またそういうことを…」

 「事実だ」


 大都にたどり着けたら、お優しい大金持ちが「なんとかわいそうに!」と衣食住を恵んでくれる…なんてわけはない。


 ただ、田舎の村よりも大都には余裕がある。

 人を雇う余裕、増えた人間が買い求められる食い物の余裕、狭いが住む場所の余裕…だがそれは、必死で掴まなければ他の誰かに奪われるものだ。


 一年も真面目に働けば、余程の不運に見舞われない限り、なんとかなっているのが大都と言う街である。

 逆に言えば、ただ口を開け、手を伸ばしていても何も掴めない。

 爪が割れるほど握りしめ、歯が折れるほど食らいつく者たちが、すべて持っていく。


 あの馬糞拾いの少年たちはそうやって掴んでいる側だ。

 

 継ぎはぎだらけでいかにも古着であっても外套を着て、帽子をかぶり、首には手ぬぐいを巻き、もっと幼い子たちも丸くなるほど着ぶくれさせている。

 重みでよろけはしても、弱々しい様子はない。手伝うチビたちも同様だ。ちゃんと食べて、暖かい場所で眠れているのだろう。


 その様子を見て、「可哀そうに」と眉を顰めるのはむしろ侮辱だ。

 そんな腹も膨れない同情を寄せられるより、先ほどの隊商のように仕事をさせて報酬を渡したほうがずっと喜ばれる。


 「兄弟かな。仲がよさそうだ」


 そう呟きながら見つめるファンの目は、いつもの「おじいちゃんみたい」と揶揄される眼差しより、少し暗い。


 コイツ、またなんか悩んでるのか。明日には大都だってのに。


 内心に吐きてつつ、クロムは一つ決意を固めた。


 今日、二人部屋がとれていたら、何が何でも自分と主に回させる。


 どんな神官だろうと、どっかの大司祭だろうと、主はそうやすやすと己が内心の傷を見せたりはしない。

 それを覆う手をのけさせて、致命傷か否かを判断するのは、守護者である自分の役目だ。


 大神官ロットと…詐称ではないかと疑っているが…司祭ガラテアには、任せておけない。


 決意を固め、クロムは串焼きに残る最後の肉を食い千切った。


***


 「どーすか?若様!」

 「おー、良く部屋取れたなあ。ここ、値段の割にはいい部屋で有名な宿の分店だよな」


 ちょっとした食事を終え、ぶらぶらと先へ進みながら、宿を取りに行った騎士たちとの合流をはかると、一際大きな建物の前に探していた顔があった。


 「…宿、何ですか?ここ…」


 示された建物を、目と口を開いて神官たちが見つめるのも無理はない。

 立派な門と塀を持つ建物の規模は、彼ら彼女らが仕えるアスター大神殿に勝るとも劣らない。


 「宿ですよ。大都にも何軒か、同じ商会が運営している宿があります」

 「ぼさーっと門の前で突っ立ってちゃ田舎者みたいだろ。さっさと行こうぜ」

 「クロムが自分を棚に上げるのは腹が立つが、俺もさっさと行ってちゃんとした飯を食いたい!」

 「こいつらもうるさいし、先行きましょう。大丈夫。宿のランク的には、サライで皆さんが泊まった宿の方が上ですよ」


 苦笑しながらクロムの頭を軽く小突くファンが、馬の鞍から降りて歩き出す。

 正面玄関は大きく開け放たれ、分厚く光沢のある布が垂らされていた。その両脇には門番と、揃いの服を着た若者たちが立ち、布の向こう側に行こうとする人に笑顔を向けている。


 「あ、違います。若様。こっちこっち」

 「え?」


 騎士が示したのは、正面玄関ではなく、瀟洒な石畳が続く脇道だった。

 分岐点には、若者たちよりも飾りが多い服を来た壮年男性が立っており、ファンと目が合うと深々と腰を折る。


 「ご案内させていただきます」

 「あっと、馬は…」


 戸惑いながら呟くファンから、何故か得意げな顔で騎士は手綱を受け取った。


 「俺らが厩舎に連れて行きます」

 「てなわけで、ナナイ様らもこっからは歩きだから、あったかくして馬車から降りてね~」


 わけがいまいちわからないが、防寒効果よりも見た目が重視されている外套を羽織っただけの男性が寒そうだ。

 ひとまず頷き、ファンは文岐路に進む方向を変えた。


 「ささ、どうぞこちらに。本日は、当館においでいただきまして、大変に光栄に存じます」

 「おいお前ら」


 ぎろりとファンの視線が、騎士に向く。その満月色の双眸に向けて、騎士は己の通行証パイサを掲げて見せた。

 「紅鴉親衛隊騎士ナランハル・ケシク・バアトル」とはっきりと書かれたそれを。


 「親衛隊騎士様に宿泊いただけるのは、まことに光栄。お客様がどのようなお立場かはお聞きしてはおりませんが」


 男性の顔はあくまで落ち着き、にこやかではあるが、声は僅かに上擦っている。

 親衛隊騎士が「さる御方がお泊りになりたいと」と言ってきて、その「さる御方」が金色の双眸を持っていれば…それが誰だか、アスラン人なら容易に想像がつく。


 おーまーえーらー!と怒ろうとして、ファンは思いとどまった。

 考えてみれば、正体を隠していても見破られる可能性は常にあり、まして暗殺者の襲撃だってないとは言えない。


 それならば、宿にある程度「配慮」してもらったほうが、万が一の場合にずっと良い方向に事態は傾く。


 「ご案内させていただくのは、当館の特別貴賓棟にございます。本日は、お客様御一行の他にはお泊りになられている方はおりませんので、ごゆるりとお寛ぎください」

 「あ…あはは…配慮、感謝します」


 特別貴賓棟…しかも、貸し切り。

 一体いくらくらいになるのだろうと、ファンは財布の中身を思い出していた。


 いや、いざとなれば、フフホトで「いざと言う時の為」と持たされた指輪や耳飾りを料金として差し出せばいい。足りないって事はないだろう。たぶん。


 壮年男性が恭しく案内したのは、瀟洒な小道の先、常緑樹の植え込みに囲まれた三階建ての建物だった。

 植え込みの先にはさらに塀と門があり、門の横の煉瓦造りの小屋には、三人の守衛がにらみを利かせている。


 「ファン、お高そうだよ?だいじょーぶ…?」

 「だ、大丈夫だ。いざとなれば、売れるものは結構持ってる」

 「ツケといて、戻ったらパイセンの誰かに払いにいかせりゃいいんじゃね?」

 「うん、まあ、その手もあるな」


 ひそひそと小声で言いかわしながら、男性が礼儀正しい笑顔で開けてくれている、重厚な扉の先へと進み。


 その内装に、ファンは自分が持っている金目の物を声に出さず数え始めた。


***


 特別貴賓棟と言うだけあって、その設備や内装は、「値段の割には綺麗で従業員の態度も良い」と言われる宿の印象とは裏腹に、贅をこれでもかと尽くしたものだった。


 食堂はカーラン風の内装にまとめられ、供された料理もカーランの一地方、トンクーのものだ。

 一昼夜掛けて煮込まれるという豚の塊肉は、秘伝のたれを纏って口に入れた瞬間にとろけ、それでいてしっかりと「肉を食べた」と言う満足感を残す。

 冬だというのに新鮮そのものの青菜の油炒めはクロムでさえ文句も言わず完食したし、様々な中身を透かした水晶餃は蒸篭からその姿を現した瞬間、美しさに歓声が上がった。


 質量ともに満足できる食事を済ませ、案内された部屋へ赴けば、一目で高級とわかる家具が配置されており、ますますファンは金目の物を数えることになった。

 恐る恐る案内してくれた男性…この分店の支配人だそうだ…に値段を聞くと、答えられた金額は一般的な部屋の倍程度でしかない。


 「え、そんなわけないですよね?」

 「今日は予約もございませんでしたし、開けておくよりは儲けとなります。それでは心苦しいとおっしゃっていただけるのであれば、是非、ご家族様やご友人様に、当館のことをお伝えいただければ…」

 「あー…そうですね。両親と兄に、素晴らしい宿だったと伝えます」

 「ええ、是非に!」


 うちの宿にナランハルがお泊りになった!と、言いふらすことはできない。身分を隠しているのだから、下手をすれば「虚報を広めた」と罰を受ける可能性すらある。

 だが、当のナランハルが「あそこ、すごく良かった」と誰かに伝えれば、それは瞬く間に広がっていくし、何のお咎めもない。

 まして、国王夫妻や名高いアスランの雷神も宿泊したともなれば、一年先まで予約で部屋が埋まるだろう。


 宣伝効果で安く宿泊できるのなら、それはそれでお互い得をしたと割り切るべきだ。

 実際に食事は美味く、まだ利用していないが、浴場まであるらしい。さらに、茶や菓子、酒に軽食…すべてが、宿泊費に含まれているのだという。

 

 恭しく礼をし、「いつでもお呼びください」とにこやかに告げて、支配人はさがっていった。


 特別貴賓棟の中でもさらに特別な貴賓室(スイートルーム)に、おっかなびっくり足を踏み入れる。

 最上級の部屋と言うだけあって、三部屋で構成された貴賓室は十分に広い。


 そんな広い部屋を、クロムと二人で使うだけでも申し訳ない気がするが、どうせ夕食を取り、入浴を済ませたあたりで、結局五人で使っていそうな予感がある。そしてそれは、きっと外れないだろう。

 

 「普通に入れよ」

 「いや、だって、絨毯からして高そうじゃん?」

 「お前んちのよりは絶対に安いだろ」

 「俺の部屋の絨毯は、ホユルショボーのだぞ」

 「知ってる。謁見の間とかのだよ」


 安価でそこそこの品質の物を扱うホユルショボー商会は、大都で有名だ。

 有名だが、二太子の自室に敷かれることになるとは、その絨毯を作った職人も、売った店員も思わなかっただろう。


 刺繍などはないが、明らかに高価そうな光沢をもつ布が貼られた長椅子に、クロムはどっかりと腰を下ろした。靴のベルトに手を掛け、少し苦戦しつつ足を解放していく。


 「人に紹介するときは、ちゃんと値段に見合った素晴らしい施設だって宣伝しなきゃなあ…」 

 「そうしとけ。実際、悪くない」


 靴から抜いた足を組み、偉そうに座るクロムに、ファンは半眼を向けた。


 「お前の素晴らしいって、どういう基準までいけばいいんだ…?」

 「ここは悪くないが、ちょっと内装が年寄り臭い。俺はもっと、無機質なのが好きだ」

 「お前の部屋の家具とか、黒と灰色と白で、飾りとかなんにもないもんばっかりだもんなあ」

 「だろ?」

 

 ふふん、とさらに偉そうに鼻で笑い…クロムは、すっとその笑いを引っ込めた。

 鋼青の双眸は言い逃れを許さない、と断言するかのように、硬い光を帯びている。


 「で、お前、今度は何を思い悩んでいる?」

 「へ?」

 「あのクソを捻りつぶしたあたりから、様子がおかしい」


 クロムの声に、ファンは反論をぶつけようとして口を開きかけ…うまい言葉を探し出すことが出来ず、逆に口を閉ざした。

 代わりに、絨毯の上に敷かれた羊の毛皮の上に腰を下ろし、クロムがしたように靴を脱ぎ始める。


 「…そうだな。お前にも関係あることだから、言っておこうか」

 「さっさと言え」

 「兄貴がな。マース神は現在、顕現できない。もし、俺が死んだら、次の灯の刻印の担い手は現れないって言っていた」

 「…」

 「おそらく、兄貴は何かを知っている。けど、教えてくれる気は、まだないみたいだ。大都に戻って、冬至の儀式やらいろいろが終わったら、必ず話すって約束はしてくれたけれど」


 ファンの語った内容に、クロムは息を吐き出した。

 その、不安に満ちた内容に似つかわしくない、安堵の息を。


 「んだよ。そんな事か」

 「え…そんな事って言うようなこと?」

 「お前が死ななきゃ問題ないわけだろ?俺がそんなことはさせん。だから、何の問題もない」


 きっぱりと、何の迷いも躊躇いも、誤魔化しもない声。

 逆にファンが戸惑ってしまうほど。


 「それだけか?他になんか、抱え込んでねぇだろうな?」 

 「えっと、他?うんまあ、ないわけじゃない」

 「吐け」


 その戸惑いが口を軽くしたのだろう。つい出してしまった言葉に、ファンは慌てて口を押えたが、遅い。

 じっと見つめてくる鋼青の視線に耐え兼ね、ファンはそれでもしばし抵抗するように目を彷徨わせた後、溜め息を吐いた。

 こちらは、先ほどクロムが吐いた安堵の息ではない。重たい、胸の中に蟠るモノを、呼吸として外へ出した。そんな溜め息だ。


 「ちょっと、弟のことが心配でさ」

 「弟…ああ、そういやいたな。お前にも」

 「忘れないでやってくれるか?そりゃ俺は、兄っぽくないが」


 通り越してお祖父ちゃんっぽいとは言わず、クロムは黙って話の続きを視線で促す。

 

 「ジャスワン将軍が言ってたじゃないか。悪評がラスヤントまで届いているって」

 「言ってたな」

 「それでさ。あの馬鹿四男を見て…弟も、こういう風になっているのかって思ったのと…親父も兄貴も、本当に何も知らないのかなって」

 「知ってたら速攻で動くと思うがな。少なくとも、后妃が何も言っていないって事は、知らないんじゃね?」


 商人の耳は早く、声は小さい。

 『弟の悪評』がどんなものかはまだわからないが、市井の噂であるのなら、まだ王宮に届いていないことはあり得た。


 「ま、お前の弟がどうしようもねえってのは、俺も聞いたことがあるけどな」

 「う、そうなのか?」

 「あのババア共が後ろでキーキー喚いてるだけで悪評も立つだろうよ」


 あのババア共、と言うのは、第二夫人とその姉妹、そして仕える侍女たちだ。

 

 「三太子よりチビが矢を的に当てた事に腹立てて、キーキーギャーギャー騒ぎ立てたとか、先王様が自分の遊牧陣地クリエンで育てるようにって仰ったのに、泣いて喚いて無しにさせたとかさ」

 「話、結構広がってるのか…」

 「士官学校に入るって事は、それなりに出世を望むって事だからな。どこの軍に配属されたら即座に弓を返上するかって話は、色恋沙汰より早く広がるぞ」


 クロムの言ったことは、ともに事実だ。

 ファンは同席していなかったが、父の守護者スレンであるホレイより聞いていた。


 本来、アスランの王族に子が生まれれば、少なくとも十歳までは草原で育てる。

 両親がすでに草原から大都へと居を移しているのなら、近親者が遊牧陣地を構えてそこで育てるのが慣例だ。

 

 王位を息子へと譲っていた先王バトウが、慣例に合わせて遊牧陣地を構えたというのに、第二夫人は草原へと居を移すのを凄まじく嫌がった。

 曰く、尊い血を引く我が子を、壁も屋根も床もない…離宮ですらない場所に連れて行くなど、あり得ない!と。


 その尊い血を伝えた父も、遊牧陣地を構えた祖父も、兄二人も草原で育ったと言うのに、まるでそれがとんでもない蛮行だとでも言い放つ第二夫人を、早々に先王バトウは見限った。


 そして、その第二夫人が産んだ、当時五歳になったばかりの孫も、また。


 転べば侍女の誰かが助け起こすのを当然と待ち、風が吹いて枯草が一本服につけば、汚いと泣き喚く。

 そんな孫を見て、バトウは眉を一瞬顰め…そのまま、無言で踵を返し立ち去った。 


 後から聞いた話では、祖父は三太子おとうとの事を不具の子だと思ったらしい。

 おそらく、弟にそうした障碍はない。だが、周りがあまりにも手を掛けすぎ、自分で生きる力を奪ってしまったのは否めない。ファンはそう見ている。


 両親はそうなる前に第二夫人から引き離そうとしたようだったが、激しい抵抗にあい断念していた。

 何より、幼い息子の憎悪と恐怖で塗り固められた目に心が折れてしまったと、父がホレイに呟いていたのも、こっそり聞いていた。

 

 弟からすれば、母やその侍女たちは自分を愛し、慈しみ、守ってくれる絶対の存在であり、その暖かく柔らかい腕の中から、冷たく厳しい世界へ引き摺りだそうとする父は、憎み恐れる怪物なのだろう。


 もともと、第二夫人はモウキが望んで妻にしたわけではない。様々なしがらみで娶らねばならなかったというだけの存在だ。

 そして、モウキは決して、優しく慈悲深い男ではない。


 先王が見限るよりはるかに前に、モウキは第二夫人と息子を見捨てていた。

 

 夫人が王の命に逆らい、太子を好き勝手に育てるなど、本来はあってはならないものである。

 あくまで夫人の権力は「王の妻」であることで生まれるものであり、王に逆らえば罰せられるのは当然だ。

 

 そして、みだりに「黄金の血(アルタン・ウルク)」を流出することはできないのだから、母が廃されれば、その産んだ子には死が与えられる。

 当時の宮廷は、いつ第二夫人と三太子に首を括るための絹布と、その際に苦痛を和らげるための酒が下賜されるかと、ずいぶん囁かれていたものだ。


 だが、絹布も酒も与えられることはなかった。

 父は、そうするほどの興味を、第二夫人と三太子にもう持っていなかったから。


 やがて同じようなしがらみで娶った第三夫人、第四夫人にも子が生まれたが、彼女たちは第二夫人の顔色を窺い、后妃ソウジュ、さらにトールとファンの兄弟に対してははっきりと敵対心を持っている。


 モウキに対しては恭しく接しているようだが、おそらく弟たちがいくつになっても、祖父の遊牧陣地に母子が住まいを移すことはないだろう。

 馬を駆り、羊を追い、牛糞を拾い集める暮らしなど、すぐに病を得て死んでしまうと考えるような人間だ。

 まして自分も高価な絹服を脱ぎ捨て、毛糸で織られた胡服を着て、乳を搾るなど、想像させただけで卒倒する。


 「知ってるか?三太子が十三になって初陣迎える前に、親衛隊を作るってんで騎士を募ったらな、百人も集まらなかったらしいぜ」

 「…知ってる。まあまだ先だし、何とかなるだろうって思ったけど」

 「お前の時は、定員五百に対して二千は来たんだろ。普通はそんなもんだよな」


 親衛隊騎士になるのは名誉なことだ。太子公主が親衛隊を持つ年頃になれば、騎士たちはより一層腕を磨き、武勲を立てようと張り切る。

 そして公募が始まれば、我も我もと殺到するものだ。アスラン王国が始まって以来、定員割れを起こしたのは初めてだろう。


 「ま、お前の弟が出来損ないなのはお前のせいじゃない。お前もトールも、年に数回しか会ってないんだろ?それで責任を背負いこむってのは、むしろ余計なお世話だろ」

 「それでも、弟だ。兄は弟を信じ慈しむ。それが我が家の家訓だからな」

 「そういうのは、あの兄馬鹿に任せとけよ。あいつのとち狂った脳みそが『弟である』って判断すりゃ、相手が泣いて嫌がっても可愛がるだろ」

 「それはそれで、弟に申し訳ない気がする…」


 生まれた時からトールはああで、その溢れんばかりの愛情表現を「普通」と認識して育ってきたファンですら、時折「うわあ…」となるのだから、免疫のない子供にアレを押し付けるのは、劇薬に等しいのではないか。


 「えー…その解決方法はともかく、弟が実際どうなっているのか、確認はしたいし、どうにかできるならしたい。ジャスワン将軍は、悪い取り巻きが出来たって言ってたから、それだけでもな」

 「いくら何でも、十歳にもなりゃ乳離れしたんだろ。ママじゃなく、自分が喚いて偉ぶりたいお年頃になっちまったんだろうな。そんなの、馬鹿どもが引っ付いておこぼれ狙うのにうってつけだ」


 通常なら、十歳にもなれば同じ遊牧陣地で育った守護者候補が付き従い、その兄姉がお目付け役として目を光らせる。


 遊牧陣地で育つことで身に着けるのは、卓越した馬術や草原で生きる知恵だけではない。

 大勢の中で育つことで人間関係を学び、信頼できる側近を育てることも、遊牧陣地で過ごす幼少期の、大きな目標なのだ。


 だが、三太子たちにその経験はない。


 特に三太子は、嫌なものは徹底的に遠ざけられ、ありとあらゆる願いをかなえられてきた。

 それでも、小さいなうちはいい。願いも子供らしいものなら、眉を顰められるだけで済む。


 だが、成長とともに、その願いが歪んで大きくなってしまったのなら。

 取り巻き連中が、眉を顰めるだけでは済まされない欲望の味を教えてしまっていたら。


 「…とは言え、今の時点で悩んでもしょうがないってのも理解しているよ」

 

 どれだけ案じても、今どうにかできることはない。

 現状を把握し、何が問題なのかと見極め、解決案を探るしかないだろう。


 「まったくだ。明日はいよいよ大都だぞ。鈴屋で何を食うか、考えとけよ」

 「そうだな。楽しみだ。それでな、クロム。そのあとなんだけど」

 「おう」

 「お前、明日は家帰れ。で、しばらく休暇をやるから、ご両親に甘えて来い」


 ファンの提案…いや、命令に、クロムは目を見開いた。


 「俺はお前の守護者だぞ!?主の傍を離れてどうする!」

 「そうだ。お前は、俺の守護者(ナランハル・スレン)だ。正式にそうなれば、年単位で家に帰ることもできない」

 「…」


 目元を緩めて立ち上がり、長椅子から身を起こしたクロムの肩を叩く。


 「先生たちに甘えて、孝行してこい。必ず、迎えに行くから」

 「…休暇って、何日だ」

 「うーん…三日くらいかなあ。そのくらいは、俺も執務室軟禁で仕事しなきゃだろうし。紅鴉の爪(ナランハル・ホロウ)をどうするか、大鍛人テムジンに相談したいから、都合着けてもらわなきゃだし」

 

 無爪紅鴉旗で巻いて常に背負っている「紅鴉の爪」は、もうすっかり刀身を覆う鋼を振るい落とし、その漆黒の刃をむき出しにしている。

 かつて同じ状態になったとき、今一度鋼を纏わせた鍛冶師数名が命を落としたという逸話は、決して誇張などではない。

 

 命がかかるのだから、大鍛人とはしっかりと話し合わなければならないだろう。鎮めの儀式を執り行い、万全の体制を整える必要がある。

 

 「幸いってわけじゃないが、冬至の祭りが近いから、それに合わせて鎮めの儀式もできないかなーって思うんだよね」

 「できんのか?」

 「冬至の祭りは紅鴉を祀り、その加護を祈るものだから、便乗はできる…んじゃないかな。もちろん、無理って言われたら諦める。それに、鞘に収まってくれさえすれば、無理に鋼で覆わなくてもいいしさ」

 「とりあえず、俺やお前が祟りで死ぬ様子はないしな」


 「紅鴉の爪」に荒ぶる様子や、不満を訴えるような気配はない。

 手入れの為に柄を握っていても、だれかれ構わず斬りたいという衝動もなく、ただ、その漆黒の刃に背筋が伸びるだけだ。


 しかし、クロムは魂の底から理解している。

 この剣がクロムを「おのが振るい手として相応しくない」と断じれば、様々な逸話は現在によみがえり、自分は祟られたものとして名が残ることになるだろう、と。


 「納得したわけじゃないが、休暇は受け入れる。まあ、ユーシンとヤクモがいれば、俺一人分くらいの役には立つだろう」

 「俺とヤクモがいれば、お前三人分くらいは役に立つぞ!」

 「あ゛!?」


 扉があいた音は、クロムの偉そうな物言いの途中でしていた。

 顔を向ければ当然のように不敵な笑みを浮かべるユーシンがおり、その横と後ろにはヤクモとシドがいる。


 「三人分はどーかなーって思うけどねぃ。二人分は確実だよね」

 「二人いるからな」


 夕飯を待たずにやってきた仲間たちを、ファンは笑って迎えた。


 「お部屋豪華すぎてさーって、うわあ、やっぱり、このお部屋が一番豪華だねぃ」

 「だよなあ。落ち着かないよなあ。一般客室に移りたいくらいだ」

 「俺はどっちでもよいが、こちらの方がいつでも飯を食えるらしいので、こっちがいい!」

 「…俺も」


 シドも控えめに頷いた。余程、昼食が美味かったのだろう。

 

 「絨毯分厚いから、毛布敷けば床で充分寝れるな。寝台と長椅子はくじ引きでどうだ?」

 「おい、甘やかすな!自分たちの部屋で寝かせろ!」

 「良いじゃないか。旅の最後の夜だ。せっかくだから、皆で過ごそうぜ」


 明日は大都。

 アステリア王都、イシリスから馬車と船を乗り継いで旅した約一月半。


 その旅も、明日で終わる。


 「ち…仕方ねぇ。だが、床で寝るのはこいつらでいいだろ!乱入してきてんだから!」

 「俺は別に床で構わん!」

 「ぼくはクロムがぬくぬくとベッドで寝るの許せないから、くじ引きでいいと思う!ファンはふつーにベッド使いなねえ」

 「それじゃあ不公平がないように、全員床で寝るか!」

 「なんでそうなるんだよ!」


 口調は荒いが、クロムの顔も笑っている。長い付き合いだ。そうなるのは最初から分かっていた。今更本気で怒るような事でもない。


 せいぜい、無料らしい酒やつまみを持ち込んで、旅の終わりを迎えよう。

 宿日酔になるような無様を晒す気はないが、少しくらいはしゃいでも…雷帝だってお見逃しくださる。


 なんたって…色々ありすぎた旅の終わりなのだから。

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