馬の親子は斑も同じ(蛙の子は蛙)8
世の中、悪人の方がのさばるように出来ている…と言う人は多い。
実際、やりたい放題やっていても、本人に金と権力があるとか、親が偉いとかで「許される」ことはままある。
法をもって国を治めるのを第一とするアスランでそれは困るんだけど。
しかし、俺が困っても、怒っても、アスラン全土まで目が届かないのもまた事実。
今回、エルディーンさんに狼藉を働いたのは、ウハイフンゲルを本拠地とする商会の馬鹿息子のようだ。
いち早く親父がどこの誰だか気付いたチンピラさんが、聞いてもいないのにベラベラと喋った情報によると、ボグロル商会と言う商会らしい。
そこの商会長の四男で、ウハイフンゲルでは名の知れた問題児。そもそも、ボグロル商会そのものが、悪名の方が勝る商会だそうで。
競合相手に嫌がらせを繰り返し、金を貸せば返そうとしてもなかなか受け取らず、利息が膨らんで返せなくなったら猛烈に取り立てる。
そうして店や家や土地、そして家族を奪われた人も多いという、大都なら即座に調査が入るような商会のようだ。
ウハイフンゲルでも何度か訴えはでているんだろう。
けれど、こうして元気に悪行を働いているところを見ると、もみ消されている。おそらく、役人を何人か抱き込んでいるんだろう。
大都から任命されて派遣される断事官が動く程の悪事を働くわけでもなく、その配下、訴えを取り上げる書記官の上の方と癒着している…という程度の悪人は、本当に厄介だ。
今回の主犯である馬鹿四男も、妓女を連れて乱痴気騒ぎを起こしたり、借金の形に連れてこられた女性を…という事はあったけれど、いきなり街で攫うなんてことは今までなかった…とチンピラさんは滝のように冷や汗を垂らしながら言っていた。
保身もあるだろうが、彼は噓を言っていないと兄貴も言うし…嘘を吐くと体内の電位が乱れるから、なんとなくわかるんだそうだ…まあ、そうなんだろう。
叩けば幾らでも埃はでる。けれど、叩くのも手間暇がかかるし、もう少し汚れが目立ってからでいいか、と判断する。その程度の悪党だってことだ。
でも、悪党は悪党。踏みにじられた人から見れば、許せるもんじゃない。
法の目を搔い潜り、好き放題やる連中に、人々は怒りの目を向けながら「いつか雷帝が指をさすぞ」と呟く。
司法と裁きの神でもある雷帝が、有罪と断じて罰を与えるという意味だ。
その罰は、どんな形でやってくるかは望む人にもわからない。
ただ、今回ボグロル商会の馬鹿四男に向かう罰は、アスラン王国八代大王の姿かたちをしている。
「あ~、おっはよう。うん。私私。あはは~、伏礼しなくていいよう~。あのさあ、ボグロル商会ってとこ、潰しても問題なあい?あ、ない?そうなんだ。君が聞いたことない程度の商会なら、潰しても問題ないね!」
親父が伝声軍牌を使って話しているのは、遠く離れたウハイフンゲルの領事官か、かの地を護る十二狗将だ。
あっちはこの辺より夜明けが早いから、首尾よく捕まえられたらしい。
大都には、各地の伝声軍牌に繋げるための大元の大伝声軍牌があって、王が持つ伝声軍牌はそこに繋がっている。
俺たちが持っている軍牌だと特定の軍牌としか繋がらないけれど、その大伝声軍牌を操作すれば、すべての伝声軍牌に繋げることが出来るんだ。便利だよね。
「うん!問題なし!さ、行こう」
「ついでに腐っている枝を切り落としましょう」
「そだね~」
つまり、ボグロル商会から金を受け取って、その悪事を見逃している役人も潰すってことだ。
やっぱり、雷帝の指はいつどうやって自分に向けられるかわからない。
その腐れ役人も、いきなり「王命」で取り調べられるとは、夢にも思っていなかっただろうしなあ。
親衛隊騎士に留守番と家の護りを任せ、俺たちはチンピラさんを引っ立て、ぞろぞろと『双子山羊』亭に向かった。
そこの宿はボグロル商会とも何にも関わりのない宿で、結構な高級宿のようだ。
本来なら一昨日には出発しているはずだったのが、宿の主人が何を言っても立ち退かず、次の予約客を怒鳴って追い散らし…と、当然ながら宿に大迷惑を掛けている。
役場や兵に訴え出ようにも、どちらも大運河の渋滞でそれどころじゃない。
宿の主人はなんとか妻と娘や従業員を逃がせたが、今は使用人用の一室に閉じ込められている、という悲惨な状態らしい。こちらも救出しないと。
そうして宿を乗っ取ったものの、暇を持て余し、妓女も好みの若い女性がいないと…なんでも馬鹿四男の好みは、十代半ばだそうだ…攫って「楽しむ」ことにしたそうで。
うん。ちょっとばかり再起不能にしても問題ないな。
それに…と思いながら、いつの間にか俺たちの周りや後ろに増え始めた、野次馬の皆さんを見渡す。
家から出発して、商店が並ぶ区域に入ったあたりから、老若男女問わずくっついて歩き出した野次馬さんの群れは、ワクワクテカテカとした表情を浮かべていた。
そりゃあ、まあ、朝っぱらに堂々と女の子を攫おうとするような輩がいて、そんな輩を叩きのめして女の子を助けたのが、目の醒めるような美女だったら、あっという間に話題になるわな。
俺だって話を聞けば「へえ!そりゃすごい!」ってなるし、あの人だよと言われたら顔を見たくなる。
親父も兄貴も俺も、しっかり帽子で髪を隠しているから、まさかアスラン王家御一行様とバレているわけじゃあない。
もしバレてたら、野次馬の数はこんなもんじゃないしね。
そしてその美女含む、見るからに遊牧民のおっさんと若い男で構成された一団が、いかにもな奴を引っ立てて歩いていれば、「お話し合い」に行くんだ!と予想がつく。
遊牧民の「お話し合い」は、珍しいものじゃない。
基本的に遊牧していると、町から遠く離れて住むし、何か揉め事が起こったときに役人に訴え出て~なんて悠長なことをしている場合じゃない、なんてことが多々ある。
家族を攫われたとか、家畜を奪われたとか、そういう場合だな。
そういう時、被害者はすぐに一族や時には氏族に支援を求め、年長者と若いので徒党を組んで加害者に談判しに行く。
嫁や婿にと家族を攫われたって場合は、本人がそれを望んでいる場合もあるし、家畜を盗まれたって言うのも、金を借りて返してない…なんて自業自得な時もあるからな。年長者を連れて行くのは、その辺の判断をしてもらう為だ。
けどまあ、「お話し合い」になった場合、そんなケースは極めてまれだけれど。
相思相愛だったり、自業自得な場合は、呼びかけても誰も集まらないからね。
なので「お話し合い」とはつまり、「うちのモンに何してくれたんだ」と「お話し」するために行くってことで。
転じて、アスランでは「拷問にかける」を「おしゃべりする」、「一方的に断れない要求をする」を「話し合いの結果、わかってもらえた」とも言う。
悪党が報いを受けるのは、例え自分に全く関係がなくても、ワクワクするもの。
野次馬さんたちからは「やっちまえ!」だとか「地獄を見せろ!」などの声援が飛び、親父は上機嫌にそれに手を振って応える。
何せ、ここ数日、モウスルの町には緊迫した空気が立ち込めていた。
連中のように人攫いをするような馬鹿はいなかったようだけれど、小さな諍いやケンカ、そこら辺での排泄などなど、迷惑行為なんかは数えきれないほど起こった。
それらは船に乗ってやってきた余所者がもたらしたものであり、地域住民の皆さんに鬱憤が溜まっていたのも無理はない。
あまり良い事じゃないけれど、大都周辺に住む人々は、他の土地から来る人を「田舎者」と蔑む傾向にあるしね。
クロムなんか、大都に住み始めて十年たってないけれど、アステリア王都イシリスですら「クソ田舎」って言うしなあ。
ともかく、その鬱憤を晴らすのに、うってつけの事件が始まりそうだと皆さんワクワクなのだ。
女の子を攫うような奴なら、悪い奴に決まっている。ボコボコに殴られてもいい気味だ、で済ませられるわけで、確かに野次馬として眺めるのに、これ以上良い案件はないだろう。
つまりは、町全体が俺たちの味方のようなもの。
馬鹿四男が助かる道はどこにもない。逃げたところで、野次馬さん方が優秀な猟犬のようにその所在を教えてくれる。
もし、兵に助けを求めたところで、遊牧民の「お話し合い」を止める兵や役人はいない。何度か巡回中の兵にあったけれど、困ったような顔をしただけだった。
さすがに報告もしないってことはないだろうから、そのうち形だけでも話を聞きに来るかもなあ。
「あ、あそこみたいだね!」
そうやって野次馬さんたちを引き連れて行くことしばし。
親父が楽しそうに言って指をさしたのは、三階建ての立派な建物だった。
俺たちから見えているのは側面の壁だけれど、そこにそっくりな山羊が並んでいる意匠の盾が埋め込まれている。『双子山羊』亭だから、間違いないな。
「ファンたちは何を見て頷いてるのう?」
「ほら、あそこの盾だよ」
「…見えないや」
「俺は見えるぞ!山羊だ!」
はしゃぐユーシンに、シドは少し目を凝らしていたけれど、首を振った。
「俺にも見えん。遊牧民は目が良いのは知っているが…」
「馬鹿は頭が悪い分、目と鼻が利くんだろ」
「クロムは後で覚えていろ!覚えていられるほど頭がいいのならばだがな!」
「賭けても良いが、お前が忘れんだろ」
何を賭けるんだか。せいぜい、昼飯のおかず一品くらいにしとけよ~?
目的地に着いたことで、チンピラさんの震えがより激しくなった。つまりは用無しだからなあ。親父がどこの誰だかわかっているのなら、その評判も当然しっている。
怒りに回せて、敵将の首の骨を握り砕いて、そのまま首引っこ抜いた話、とか。
さすがにこんなところでそんな事はしないだろうけれど。…しないよな?
「大丈夫!君の仕事はまだあるよ!さ、扉を開けるんだ!」
「お、仰せのままに!」
チンピラさんは扉に縋りつくようにして、何か内側に声をかける。当然、内側から鍵は掛けられているだろうから、開けてもらわないと。
扉をぶっ壊すのは簡単だけれど、宿の主人と建物には、何の罪もないからなあ。
リーダー格なだけあって、チンピラさんの声に難なく扉は開けられた。
内側に開いていく扉に引き摺られて、チンピラさんが中に入ろうとするのを、後ろに控えていたユーシンがむんずと掴んで留める。
「陛下、このものはどうする!」
「中に入れちゃっていいよ~」
「心得た!」
親父の言葉に、ユーシンは無造作に引き留めたチンピラさんを、今度は中へと突き飛ばした。部屋の中から戸惑ったような声がする。
「父上。まずは俺が」
「え~…息子に先陣を任せるような年じゃないよう」
「いやしかしですね、万が一、という事があれば…」
何故ここに来て揉める。
さてと思いながらクロムを見ると、心得た、と頷かれた。
いつでも抜けるように懐の小刀の鞘に手を掛けつつ、クロムがずい、と進む。
その後ろに、何でもない顔をして、親父と兄貴を抜かし、ついて行く。
「お、弟!危ないぞ!!」
「危険を冒すのが冒険者の仕事だよ」
酷い目にあったエルディーンさんは俺の友人だからな。
結構、怒っているんだ。実は。
「な、なんだてめぇら!」
『双子山羊』亭の内部は、さすが高級宿と呼ばれるだけあって、しっかりした造りと落ち着いた装飾で構成された空間だった。
壁は厚く、冬の風も通さない。窓には二重に硝子が嵌り、深い赤に鈍く光る金糸が織り込まれた分厚いカーテンが、どんな寒さもこの中に入れないと主張している。
床には毛足の長い絨毯が敷かれ、本来なら旅人はまずここに腰を下ろし、瀟洒な器に入れられた茶などを飲んで寛ぐんだろう。
だが、今はその精緻な模様が織り込まれた絨毯の上には、倒れた酒瓶や汚れた皿、食事だったと思われるゴミが散乱し、悪臭を放っている。
こちらを見て驚いているのは、六人。チンピラさんと同じ傭兵くずれっぽいのもいれば、ただの破落戸っぽいのもいた。
「あ、ファン!あそこ!!」
「良かった無事だったか!」
その荒んだ部屋の片隅で、二人の少女が抱き合って震えていた。
衣服に乱れはあるけれど、おそらくそれは、拉致された時のものだろう。最悪な事態になっているほどのものじゃない。
「ガラテアさん、エルディーンさん、彼女たちを頼む」
「わかった」
「…はい!」
怯え切った彼女たちに、男である俺たちが近付くのは可哀想だ。余計におびえてしまうかもしれない。
だから、俺たちがやるべきは、この破落戸どもを叩きのめし、二人が女の子を保護することを、邪魔させない。それだけでいい。
「一人で一人!」
「俺と馬鹿で三人ずつでいいんじゃね?」
「ぼくもやるよう!怒ってるんだからね!」
「一人、余らないか?」
シドを入れて俺たちは五人。親父と兄貴を入れたら、七人。どっちにしろ、一人余るって事だろう。
大丈夫。そうならないよ。
「レイブラッド卿!一番右端お願いします!」
「ええ。お任せください」
ぐ、と拳を握り、騎士が汚れた絨毯を蹴り、走る。
目標は、少女たちに一番近い破落戸1号!
「右から順に、俺、クロム、ユーシン、ヤクモ、シド!」
迎えの間だけあって室内は十分に広い。少々立ち回っても問題ない。
クロムが「お前は下がってろよ」って顔でこちらを見たけれど、見なかったことにして。
俺に向かって「やんのかこらぁ!」と喚きつつ繰り出された、腰の入ってない拳は難なく避けた。さすがにこれは当たる方が難しい。
完全に素人だ。実戦経験どころか、喧嘩の経験も多分ほとんどない。ただ、殴りかかるのに躊躇しなかったところを見ると、「反撃される」相手とやりあったことがない。
つまりは、一方的に殴れるような相手ばかり、踏み躙ってきたってことだ。
手加減の必要は、ないな。
半身捻って繰り出した一打を、食べかすや零した酒で汚れた腹に叩き込む。
世にも汚い呻き声と共に、破落戸は反射的に口からあふれ出したものの上に倒れこんだ。
え…一撃かよ…。予想以上に弱いな?
見ればほぼ全員、鎧袖一触で叩きのめしていた。
ヤクモでさえ腹を押さえて泣きわめく相手を見ながら、戸惑っている。
「こいつら、今まで余程弱い者虐めしかしてこなかったみたいだな」
クロムも小刀を抜くことすらなく、転がって痛みを訴えて泣く男を撃破したようだ。腕を抑えてのたうっているから、腕を折られたらしい。
「うるせぇよ。今まで、そうやって泣きわめいた相手に、治療してやったことが一度でもあったのか?どうせヘラヘラ笑ってやめなかったんだろ?」
心底不快そうに吐き捨て、顔を蹴り飛ばす。血と折れた歯が飛んで、絨毯に新たな汚れを作った。買い替えだな。これ。
「二回殴っただけなんだけどねぃ。泣いちゃった」
「…こっちは殴る前に、こうだ」
シドの前では、うずくまって頭を抱えて「すみませんたすけてください」と壊れた絡繰りのように繰り返して泣いているのがいた。
それを困ったような、呆れたような顔でシドは見下ろし、「殴っておくか?」と言いながら小首を傾げる。
まあ、シドはそんなことをしたい奴じゃないし、ほっとけば…と言おうとしたら、クロムが横から蹴り飛ばしていた。
泣き声が「すいません」から「いたいよおお、おかあさあん」になって、蹴り飛ばしたクロムは汚いものを踏んだとばかりに絨毯に靴底を擦り付ける。
…絨毯の買い替え、うちで負担した方が良いだろうか。
「こっちのこれは、そうでもなかったぞ!弱かったが!」
ユーシンとレイブラッド卿が相手をした二人は、見た感じ傭兵崩れだろう。ただまあ、傭兵から崩れるにはそれなりの理由があるわけで。
どんな理由かはわからないけれど、ユーシンやレイブラッド卿と互角なら、もうちょいマシな再就職先を見つけられるよな。
「ガラテアさん、エルディーンさん、女の子たちは?」
「大丈夫だ。怯え、殴られているが…それだけだ」
彼女たちの方を見ると、エルディーンさんが二人を抱きしめ、ガラテアさんが御業を大海の主に願っている。うん、大丈夫そうだね。
「弟おおおおお!!ケガは、怪我はないか!!痛いとか不愉快とか、そういったことは!?」
一応、そこまで待っていてくれたらしい兄貴が、もうよいよな!と言わんばかりに駆け込んできて、俺の周りをくるくると回る。やめて…女の子たちが、不審者を見る目になるから…。
「ないです…」
「おおおお無事でよかった!良かったぞ弟よおお!」
「ファン君だいじょーぶ?おえーが足とかにかかってない?」
「そっちも平気」
最後に親父が宿に入り、ぱたんと扉を閉める。ついでに閂も掛けていた。
「さて。ここにいるので全員かな?」
「い、いえ!坊ちゃんと取り巻きが、三階で寝てるはずです!二階には、他の使用人が…」
「宿のご主人は?」
「一階の奥です!」
チンピラさんは今朝までの同僚たちの惨状にか、親父が民衆の視線を遮ったことにか、とにかく怯え、ガタガタと震えながら教えてくれる。
「まずはご主人を助けよう。ガラテアちゃん、癒しの御業はまだいける?」
「あと三回ほどならば」
「ファン君、魔法薬は?」
「あるよ。回復薬に強壮薬、鎮痛剤もある」
俺たちの返答に、親父は満足そうに頷いた。
「よし、なんとかなりそうだね~。じゃあ、トール君、階段を抑えておいて」
「承知いたしました」
「ファン君たちは、彼らを縛っておいて~」
「はいよ、了解」
破落戸どもの服の帯やベルトを取り上げ、両足首を束ねるように縛る。そのあとで着ている服を背中側に半ば引っぺがし、腕のところでぐるぐる巻けば、簡易拘束衣のできあがりだ。
クロムにやられた奴は腕が折れているから絶叫したけれど、その悲鳴も長くは続かなかった。
「うるせえ」と呟いたクロムが、転がっていた酒瓶を悲鳴を上げる口に突っ込む。
吐き出すことは当然できず、絨毯に瓶をこすって取り出そうとしていたが、余計深く加える羽目になったようで…諦めて目と鼻から水分を垂れ流していた。
「ったく…我が主の手を煩わせやがって…万死に値する。そのまま死んどけ」
「いつもクロムは万死に値するって言うけどさあ、けっこうさっさとやっちゃうよね」
「あ?死んだあと、自主的にもう九千九百九十九回死ねって事だよ」
「無茶ぶりするなあ…」
どうやって死んだ後に自主的に死ぬというのか。まあ、俺としてクロムが嬉々として拷問やって、九千九百九十九回瀕死にさせた後に殺すような奴じゃなくて良かったと思っているけれど。
実際、そういう拷問あるからね。死にそうになったら魔法薬や御業で回復させるっていう。大抵、5回目くらいでまずは精神が死んで、何の反応も示さなくなるが。
「ガラテアちゃーん、御業お願いできるかな?」
「はい。すぐに」
奥に入っていった親父が抱えてきたのは、満身創痍になった男性だ。
ほぼ裸なせいで、肌の全てを覆い尽くすような痣や裂傷が見て取れた。…もう少し、痛い目を見せておくべきだったか。
ガラテアさんは綺麗な眉を寄せ、眉間にしわを作ったが、すぐに大海の主へと祈りをささげる。
何かを掬うように、受け止めるように合わせられた両掌に、青い光が満ちた。
「大海の主の信徒ではない故、効果は薄い。ファン、魔法薬も用意してくれ」
「了解」
腰のポーチには、常に魔法薬と採集キットと筆記用部は入れてある。
鎮痛剤入りの回復薬を取り出し、蓋をあけておく。
飲ませるのが一番効果があるんだけれど、唇は切れて腫れあがっている。鼻から入れるのも、折れていそうだから無理だな。少々効き目は落ちるけれど、掛けるか。
荒く短かった呼吸は、ガラテアさんの掌から滴った青い光が身体に落ちると、穏やかで深いものに変わった。腫れて開かない瞼を懸命に動かし、何が起きているのか知ろうとしている。
「大丈夫。助けに来たよ」
親父の声に、微かに変色した唇が動く。きっと、「ありがとう」と。
その唇に、魔法薬を垂らす。あまり鎮痛成分が入っていないやつだから申し訳ないが、ナナイ製だから味については問題ない。
微かに緑色をした魔法薬が傷に触れると、男性の眉間に皺が刻まれる。独特の痛さがあるからね。でも、それは一瞬だから頑張ってくれ。
唇の腫れが引いていき、男性は口を開けて舌を出し、回復薬をなめとった。自分に垂らされたものが何なのか、理解したんだろう。
開いた口の中にちらりと見えた歯並びには、何本も隙間があった。御業も回復薬も、折られた歯までは治せない。
もう少し、早ければ。
それは無理だったことはわかっている。けれど、やっぱり…やるせない。
でも、そんな後悔は今は良い。今は、彼の治療が最優先だ。
口許に瓶を着け、ゆっくりと傾ける。男性は吸い出すように中身を飲み下した。
「ありがとうございます…なんと御礼を申し上げたらよいか…」
「そんなの、気にしないで。動かないでね。あちこち折れているから」
親父は羽織っていた外套を脱ぎ、男性に被せた。開いた両目は充血し、どんよりとしている。顔の腫れが引いてみると、まだ三十代くらいだろうか。思ったより若い。
「熱も出ている。ファン、鎮痛剤や熱さましは?」
「あるよ。ちょうどいいのがある」
ナナイに作ってもらった、魔法薬じゃないけれど水薬になっている鎮痛解熱剤。
クロムが意地張って飲まない!ってなったときに、こっそり水や茶に混ぜるための代物だ。
空になった回復薬の瓶を男性…おそらく、宿の主人だろう…の口から離し、鎮痛解熱剤に変える。
魔法薬じゃないからすぐには効かないけれど、それでも飲まないよりずっとましになるはずだ。
「ちょっとその辺片してちょうだい。いったん寝かせよう」
「わかった」
動かしたことで、折れた骨が臓器や腱を突き破るかも知れない。
下手に抱えて医院に走るより、一度お医者に診てもらった方が良いだろう。
連中に汚染されていない場所に、汚れていない座布団を並べて簡易寝台を作る。そこになるべく揺らさないように宿の主人を運んで、そっと降ろした。
「本当に…ありがとうございます…」
「いいんだよ。…砂粒くらいは、私の責任でもあるからね」
親父の発言の意味は、熱と鎮痛剤で朦朧としたご主人にはわからなかったようだ。そんなことはないと言うように首を振り、そのまま瞼を閉じて眠りに落ちていく。
それほど苦しくなさそうな寝息に、とりあえず胸をなでおろした。
「誰かー!助けてくれぇ!賊に襲われてる!」
そう、胸を撫でおろしたのも束の間。
壁や天井に隔てられて、俺たちには不明瞭な小さい音で伝わったけれど。
おそらく、上の階で窓を開けて、外に向かって叫んでいる。
「おや。我が身を顧みずにってやつだね。それとも、今の待遇に嫌気がさして、できれば雇い主がひっとらえられて欲しいってやつかな?」
「兵が呼ばれて、そちらの御仁や彼女らが呼ばれても、金で黙らせられるとおもっておるのやもしれません。二階を制圧しますか?」
階段の上を睨みながら、兄貴がさらりと提案する。まあ、兄貴なら、死なない程度の雷撃をその位置から上に打ち込むだけで、一瞬で制圧できるからなあ。
「大丈夫さ!それより、扉閉めちゃったけど、開けた方が良いかな~!」
「怒り狂った連中がなだれ込んできますよ」
「それなんだよねえ。でもさ、ほら」
救援を求める声は、分厚い壁と二重窓を隔てても聞こえる罵声に、叩きのめされた。
「ふざけんな!!お前らこそ、娘を攫う悪党だろうが!!」
「そうだそうだ!報いを受けろ!」
「雷帝の指がお前らを刺したってだけだろうが!」
そりゃ、この宿を囲む野次馬の皆さんは、とっくにここにいる悪党が女の子を攫おうとして返り討ちにあったって情報を共有しているわけで。
そんな悪党が、「助けて!」なんていったところで、「ざまあみろ!」としか思わないだろうし、大勢集まれば気も大きくなるから罵倒で返したりもする。
けれど、そんな罵倒に混じる、悲痛な声。
「出て来い!!ご主人に何かあったら、絶対に許さないぞ!!」
「ニルツェグ!いるの!?無事なの!?」
朝、買い物なりに行った家族が帰ってこない。
心配になって探していたら、女の子が攫われかかったけれど、悪党は返り討ちにあった、そしてその子の家族が、「お話し合い」に行くようだって話を聞いたら…まさか、うちの子もってなるよな。
「えっと、君たちのうち、どちらかはニルツェグさんって言うのかな?」
声をかけると、エルディーンさんにしがみ付いている少女二人のうち、より幼い方の子がこくりと頷いた。
…。
まだ本当に子供だ。マリーさんと同じくらいか。
「こんなガキ相手に…」
クロムも同じ感想を持ったんだろう。ぎり、と奥歯を鳴らして、階段の先を見上げる。
嫌悪感の命じるまま、馬鹿四男を引き摺りだしてきたいところだけれど、先にこの子たちを家族のもとに返してあげるべきだよな。
親父に視線を向けると、頷こうとして…その、満月色の双眸は階段へと向いた。
「なんだなんだ、賊が来ただと!」
ドカドカと階段を鳴らし、複数の人間が降りてくる。
おそらく、二階で使用人とも合流したのか、さらに足音と耳障りな声は大きく、多くなった。
「ボグロル商会にたてつこうなどと言う馬鹿は、お前らかあ!」
兄貴がこっちを向いていた顔を、階段の上へと向けた。
上階へと至る階段は、途中で踊り場を経て折れ曲がり、続いていく。
そのあまり広くはない踊り場は、今は人で満員だ。
先頭にいる、ガタイは良いがなんだかだらしない肉の付き方をしているのが、馬鹿四男だろう。
後ろに従えているのは、身なりのいい似たような連中と、使用人。そして、傭兵崩れと言うより、傭兵そのものっぽいのが、二人。
あわせて十人ほどのその集団は、階段の上から兄貴を見下ろす。踊り場に入り切れないのは、上へと続く階段から身を乗り出して威嚇していた。
階段の位置からして、連中が見て確認できているのは兄貴と俺、クロムくらいだ。賊が自分たちよりずっと少ない若造三人と侮ったらしい。馬鹿四男の顔に、ねちゃりと汚い笑みが広がる。
ま、実際には、数の優位はほぼないんだけれどね。
それどこか、兄貴を相手取るなら、桁が二つ足りない。
「なんだ、賊と言うからどんな獣かと思えば…買ってきた娘か?まさか、男を間違えて攫って来たのか?」
馬鹿四男の言葉に、取り巻き達がぎゃいぎゃいと賛同する。
あーあ…。まあ、身から出た錆、自業自得ってやつだ。諦めてくれ。
顔は見えないけれど兄貴の背中から、怒りが青白く放電されているのが見えるようだ。
兄貴はなあ…自分の顔が童顔で女性的なのも、背が俺より低いのも…結構、気にしてるから。
あいつら死んだな、と、連中が感電死か斬殺されるのを、脳裏に描く。
「ちょっとまって~」
けれど、その想像に現実が追いつくより早く、親父が兄貴の肩を叩いた。
いつの間にそこまで歩み寄ってたのか、相変わらずさっぱり見切れない。
「トール君。あれ、動かないようにして~」
「それは、永久に、という事でよろしいのでしょうか?」
「ううん。動きとめるだけで。気絶もさせないで」
「はい。承知いたしました」
刀の柄から手を放し、掌を上に向け。
開いていた指を、まるで卵の殻を潰すように、閉じる。
その瞬間。
階段の踊り場に、青白い閃光が弾ける。
悲鳴を上げる暇すらなく、連中は吊るしていた糸が切れたかのようにその場に崩れ落ちた。
けれど、親父の要求通り、意識はある。見開いた眼には困惑が満ち…そして恐怖が急速に瞳のみならず、顔全体…いや、全身を塗りつぶし始めていた。
「さて。ねえ、君」
「は、はい!!」
チンピラさんが親父の視線を受け、その場に片膝をついて頭を下げる。どうやら、軍の経験があるみたいだな。
「あれ、持ってきてくれる?」
親父がニコニコと指さすのは、当然のごとく馬鹿四男。
チンピラさんは床に額を擦り付けて「御意!」と叫ぶと、飛び出すように立ち上がり、階段へと向かおうとした。
「いえ、父上。俺がやります」
「そ?じゃあ、トール君が運んだら、仰向けにしてね~」
戸惑いながらもチンピラさんが頷くと、兄貴は宙に指で陣を描く。
出来上がった陣の中に、兄貴は無造作に右手を突っ込んだ。
陣の先で、兄貴の右手が何かを摘まみ上げるような動作をする。
おそらく、馬鹿四男も取り巻きも、叫べれば声の限り叫んでいただろう。
けど、兄貴の放った「ごく微弱な」電撃は、まだそれを許さない。
馬鹿四男の身体は宙を滑っていく。巨大な手に摘ままれたように。
陣を通して「巨大化」「具現化」した魔力が、文字通りの「見えざる手」となってそれを成し遂げているんだけれど。
チンピラさんはポカンと口をあけ、そのあり得ない光景を凝視している。
兄貴が優れた魔導士だってことは聞いたことがあるだろうけれど、いざ実際にその魔導を見ると、まあ、こうなるよな。
けれど、親父の前に馬鹿四男の締まりのない身体が投げ出されると、慌てて足をやや縺れさせながらも駆け寄り、言われたとおりに仰向けにしてた。
恐怖に目を見開き、閉じることのできない口から涎を溢れさせながら、馬鹿四男は親父をただひたすらに見上げている。
もし喋れたら、放つのは罵倒だろうか。命乞いだろうか。
そもそも、こいつが今、自分が置かれた状況を理解しているかも疑問だけど。
「お金払ったら、何してもいい。それが、君の法なんだってね」
馬鹿四男の口が震える。
肯定したいのか、否定したいのか、まったくわからない。
ただ一つわかるのは、肯定だろうと否定だろうと、親父はその返答を聞く気がないって事だ。
「なんで、私もお金を払うよ。とりあえず、このへんでどうかな?」
親父の手が袖口に突っ込まれ、しばらくごそごそした後に引き抜かれる。
引き抜かれた手が握っているのは、少しごつめの腕輪だ。
「これね、精霊金で出来てて、『障壁』の陣が施されているんだ。矢の千本くらい撃たれても、へっちゃらなんだよ」
精霊金は同じ重さの純金よりはるかに値段が高い。五倍から十倍が相場ってところ。
差が開きすぎているのは精霊金と一括りにしても、純度や何かでピンキリがあるからだ。当然アスラン王が身に着けている腕輪が、安い方であるわけがない。
まして、強力な陣が施されているのなら、その分の値段も足されるから…うん。金額にしたら幾らになるかわからないな。
「これを代金としよう。あ、ちゃんとおつりは返してね?そのあたりは、ちゃあんと君のご両親やらと話し合うから、安心しておくれ」
無造作に、親父は腕輪を馬鹿四男の腹の上に放る。俺の隣でクロムが「もったいねぇ…」と呟いていた。
と言うか、おつりでボグロル商会は破産するんじゃないだろうか。
「さて。お金も払ったし。私の好きにするね。今から、君を去勢するよ」
まるで「今日仕事帰りに家に寄るね」とでも言っているかのような軽さで、親父はさらりと、この馬鹿四男に対する刑を宣言した。
「私、去勢巧いから。まあ、馬と牛にしかやったことないけれど、大丈夫。切る部分は同じだし。じゃあ、脱がせて下半身すっぽんぽんにして」
呆然と親父を見ていたチンピラさんは、自分が命令されたことに気付くまで、しばし時間がかかった。けれど、理解が脳に到達した瞬間、容赦なく馬鹿四男の服を剥ぎ取りにかかる。
もちろん抵抗したいのだろうけれど、ぐにゃりと弛緩したままの四肢にできる抵抗は、ただ重たく横たわるのみ。
震える手で苦戦しつつも、チンピラさんは馬鹿四男から衣服をすべて…何故か上半身を含めて…取り払った。
「お、お待たせいたしました!」
「いや、十分手早い。そうだ、君さ、軍に戻る気はない?ほら、さすがに放免するわけにはいかないんだけど、そんなに悪い事はしてないみたいだし」
いいこと思いついた!と言いたげな顔で、親父は懐から短刀を抜き出しながら頷く。
「懲罰として、一年の兵役ってところかな。私がどこの誰かすぐに見抜いて平伏したりとか、なかなか目端が利くじゃない?大都の守備兵に良いと思うんだけど。トール君、ファン君、どう思う?」
「よろしいのでは?手配いたしましょうか?」
親父の言葉に、チンピラさんは縋るような目で俺を見る。
まあ、もし俺が「いや、何してるかわかんないし、処しておいたほうがいいんじゃない?」などと言えば、彼の命運はそこで尽きる。
箱刑か馬裂きを逃れてせめて斬首に、と思っていたら、どうやら五体満足で許されそうともなれば、全力で縋りたくもなるだろう。
「うん。俺も賛成。まあ、ちょっと厳しい人のとこに配属した方が良いと思うけどね。バンヤンスフさんとことか」
「ああ、あの人怖いからねえ~」
バンヤンスフさんは、鈴屋周辺を管轄とする巡回警備兵の隊長さんで、周辺の悪ガキと半端者には母親よりも畏れられている人だ。名前を聞いただけで、クロムが首を竦めるくらいには、おっかない。
「じゃあ、決まりだね。トール君、よろしくしていい?」
「ええ。お安い御用です」
「うん。問題が一つ片付いて気持ちがいいね!じゃ、サクサク行こうか」
窓から差し込む頼りない冬の光でも、親父の持つ短刀は銀色の光を放ち、その切れ味を見せつけている。
「嫌だって思っているよね。でもさ、今まで君が『金で買った』って思いこんでいる女の子たちも、同じくらい嫌だったよ。自分がやるのは良くて、人にやられるのは嫌だなんて、駄目だよ?」
馬鹿四男の股間で縮こまるものを見る親父の双眸には、何の感情も読み取れない。
特に楽しくもないけれど、仕事だからやらなきゃね、程度の面倒くささくらいか。
「それを法と言うのなら、法は雨の如く。万物に平等に降りそそがなくちゃね」
金を払ったのだからいいだろう。そう言って、今まで人を踏みにじってきたのなら。
金を払われたら、自分も踏み躙られらなくてはならない。
そんな簡単な理屈だけれど、きっと馬鹿四男には理解できていないだろう。
「陛下の短刀がもったいないですよ。馬鹿のククリを使えば?」
「何も切らなくても、踏み潰せばよいと思うのだが!酒瓶などで叩くという手もある!クロムの足ならもとから汚いからうってつけだ!」
「あはは、それもそうだね~っと…漏らしたか」
ようやく身体の反応を許されたのか、馬鹿四男の股間を中心に、汚い水溜りが広がっていった。
「困ったなあ。漏らすとさ、去勢って失敗しちゃうんだよね。腐るから。まあ…いっか!」
親父の手が、閃く。
「もう、『去勢』はできたでしょ」
短刀は放水を終えたぶつと、紙一枚の間を開けて床に突き刺さった。
濡れた絨毯と言う、かなり刃物を通しにくそうな障壁を隔ててなお、根本近くまでめり込んでいる。
「くせえ…クソまで漏らしやがった」
「わー、女の子たちにも怪我人にも悪いな!扉開けて脱出しよう!」
耐え難い悪臭に鼻をつまみつつ、親父が扉を指さす。
シドが顔を顰めながら頷き、閂をあけてゆっくりと扉を開いた。
まず、そこから見えたのは、困ったような怒ったような顔をした、アスラン兵。
さすがに騒ぎが大きくなりすぎて、やってきたらしい。
「あー…酷いありさまだな」
「あはは~。でも、結構穏便に済ませた方だよ!さ、ガラテアちゃん、エルディーンちゃん、女の子たちを外に」
「はい」
なるべく馬鹿四男は見せないようにしながら、ガラテアさんはエルディーンさんを含む女の子たちを外へと誘導する。
いろいろなものが壁になって、あんまりな部分は見えなかったと思うけれど、空飛ぶ馬鹿四男くらいは見えたかもしれない。
「みんな、よく頑張ったね!おじさんが褒めちゃう!えらい!」
さりげなく惨状を自分の背の後ろに隠しつつ、親父が声をかける。
後日、それが八代大王だったと彼女たちが知ったら、どんな顔をするかなあ。
ただ、今はちょっとアレなおっさんとしか見えていないだろうけれど、女の子たちは微かではあったけれど笑い、か細い声で「ありがとうございました」とお礼を囁いた。
「ニルツェグ!」
「お母さん!」
外に出る寸前、兵士を押しのけて女性が飛びついてくる。引っ込んだ涙も、お母さんに会えて堰が決壊したんだろう。
わんわんと泣きながら、母娘は固く抱きしめ合う。うん。安堵の涙は、いいもんだ。野次馬も何人か貰い泣きしている。
「あ、おじいちゃん!」
もう一人の少女も、叫びながら駆けだす。その身体を受け止め抱きしめたのは、がっしりとした体格の、遊牧民らしいお爺ちゃんだ。
「おお、よがった…ほんとうに、良く、無事で…」
お母さんもお爺ちゃんも、帽子も首巻もしておらず、まさかと思って飛び出してきたんだろうなあと察せられた。
親父の外套は宿のご主人に貸し出しちゃってるし。うん。
そう思って兄貴を見ると、頷かれた。
外に出ながら首巻を外す。冷気が肌を刺すけれど、悪臭に汚染されていない冬の空気は素晴らしい。
「寒いですよ。これ、していってください」
「うむ。首は暖かくしておいた方が良い。使い古しでもうしわけないが」
俺と兄貴の首を温めていた首巻を、お母さんとお爺ちゃんに差し出す。男物だから地味だけれど、大き目だし。
「いえ、そんな!助けていただいて、そこまで…」
「いいんだよ~!うちの息子たち、優しくていい子でしょ~!」
わしり、と、親父の手が俺と兄貴の肩を抱き寄せる。親父を中心に五十代と二十八歳と二十三歳が肩を寄せ合っている図は、見られたもんじゃないと思うんだけども。
ねえ、と同意を求めて兄貴を見ると、全面同意!と言う顔で頷き、俺を見返していた。
…母さんがいてくれたら、突っ込んでくれたのになあ。
「あ、君たちは宿の人かな?ご主人、御業と魔法薬で治療はしたけれど、早くお医者さんに診せてあげて~。あと、素っ裸で漏らしている奴の腹の上に載ってる腕輪、迷惑料としてとっといてって、御主人に伝えてよ」
そんな俺を気にも留めずに親父が声をかけたのは、兵士に止められつつも突入しようとしている数人の若者だ。口々に「旦那様をお助けするんだ!」など叫んでいるし、多分間違いないだろう。
「もう中に入っても臭いくらいで大丈夫だよ~。あ、そうそう。君らは、モウスルの守備兵?それとも大都から派遣された方?」
「大都、からですが…」
「そっか!じゃあ、あとで百人隊長にうちに来るように伝えておいて~。短刀、よく洗って、磨いて持ってきてくれると嬉しいなあ~」
親父の短刀には、当然ながら紋が刻まれている。
アスラン王族、クロウハ・カガンの血に連なるものにしか許されない、サリンド紋が。
短刀を回収すれば、当然、刃に刻まれたその紋を見ることになる。
本来なら不遜な言い草だが、親父のあまりにも堂々とした態度に、兵士はこくこくと頷いて引き下がった。
まあ、ここで「喧嘩両成敗!」と捕縛しようとすれば、野次馬たちが黙っていないってのも気配でわかっているだろうしね。
「親父、あの腕輪は馬鹿四男の賠償にするんじゃないの?」
「結果的にちょん切らなかったから、払わなくていいかなって!」
「まあ、それもそうか…」
「それにさ、私に喧嘩売った代金を払うか、命だけは助かるかどっちかって言ったら、身一つでも助かった方がお得じゃない?」
「助けるのですか?」
「ガーラくんに任せちゃった!」
現ウハイフンゲル領事官であるガーラ殿は、アスラン第二の都市を任せられるだけあって、才能も忠誠も言うことなしな御仁である。
ついでに言えば、親父でさえ「ガーラ君、たまに怖い!」と言うような人だ。
その人に任せちゃったら…親父が自ら処罰するより酷い目にあうような気もするけども。
…ま、いっか。噂が噂にしか過ぎず、まっとうな商売しているようなら、ガーラ殿は何もしないだろうし。
少しでも埃が出れば、それが血肉であろうとも、叩きまくって飛び散らせる御仁ではあるが。
親父がどこの誰だかと言うのは、明後日くらいには噂になり始め、その翌日には真実になっているだろう。本当かウソかは置いといて、王様や王子様が悪党を懲らしめる話は、みんな大好きだからな。
それに、今回は腕輪と短刀と言う物的証拠も残していく。
この騒動で、『双子山羊』亭はご主人が負傷し、絨毯を汚されまくるという被害を被った。おそらく、連中が寝泊まりしていた部屋も酷いありさまだろう。
けど、「陛下と殿下が悪党を叩きのめし、少女を救った宿」には、客が殺到すること請け合いだ。部屋を全面改装しても、あっという間に取り戻せるくらいには、我も我もと客が押し寄せる。
たとえ正体がばれなくても、ここに集う野次馬たちは、知り合いと言う知り合いに、見てない部分を想像力で補って、ここで何があったか喋るまくるに決まっている。
それならちょっと行ってみよう、どうせ泊まるならそこにしようかなと思うのが、物見高いアスラン人と言うものだ。
「さて、野次馬さんたち。中で何があったか、いかように悪党を懲らしめたか、知りたいよね~?」
兄貴と俺を離し、くるりと回りながら、お道化て親父が宣言する。
え、なんで急に?
「さあさ、皆さんお立合い!悪党どもがどこの何奴か、どんな無様を晒したか、語ってしんぜよう~!」
野次馬から歓声が上がった。親父にちらりと目配せされて、その意図を悟る。
今のうちに、逃げろって事だな。
わっとばかりに親父を野次馬が囲う。意図は兄貴にもクロムにも伝わったみたいだ。頷きあい、壁に背を擦り付けるようにして脱出を始める。
「まずはうちの息子の想い人が、華麗に妹を救ったそのくだりから~!」
なんか、聞き捨てならないことが聞こえたような気がしたけれど…。
気のせいだという事にして、仮初の家路を急いだ。
***
「疲れていないか?弟よ」
「あのくらいじゃさすがに疲れないよ」
空の端は茜色に染まり始め、天は蒼だけじゃない様々な色で飾られている。
その空を眺めながら、俺は兄貴と馬を並べていた。
あの後。
何度か道を変えて家に戻ると、母さんが「おかえり~」といつもの調子で迎えてくれ、ガラテアさんとエルディーンさんはタバサさんたちだけでなく、まだ少し赤い顔をしたナナイとマリーさんにも囲まれた。
さすがに緊張の糸が切れたみたいで、青い顔をしたエルディーンさんを連れて、女の子たちは部屋へと戻る。その方が良いだろう。
ガラテアさんも御業を連発したせいか、すこし顔色が悪い。大丈夫かと尋ねると、すごく小さくか細い声で「空腹で眩暈がする…」と呟いていた。
それならばと少し早い昼食にしていると、親父も帰ってきて、一緒に飯を食って。
とりあえず夕飯は一緒に、そのあと、親父と母さん、兄貴は帰ると言う予定ができて。
その前に弟と二人で何かする!と兄貴が断固として主張したので、遠乗りに行くことになった。
兄貴と二人なら問題はないだろうと、クロムも留守番だ。
かなり不満そうだったが、兄貴が雷帝斧を召喚しかねない勢いだったんで、アスランの平和のために引いて貰った。
まあ、俺も偶には兄貴と遠乗りしたいしね。
気兼ねなく馬を走らせるのは、実に楽しい。
一昨日のように、迷子の子供を案じているわけでもないから、気まぐれに馬を走らせ、冬の原を駆け巡る。
そうして、一刻ばかりはすぎただろうか。帰る前に一休みしようと決めた。
モウスルの町は、地平線の途中に小さく見えている。馬を駆けさせれば、少しばかりダラダラしても、日暮れ前に戻れる距離だ。
わずかに残る草を、馬たちがのんびりと食む。
それを眺める俺たちの桟敷は、かつておそらく、壁だったものの残骸。
鞍に積んできた毛布を敷き、腰を下ろして一息つく。
「弟よ、吸うか?」
「あ、懐かしい」
兄貴がにやりと笑いながら懐から取り出したのは、短い煙管。
当然、本来なら煙草を吸うためのものだけれど、この煙管に詰められているのは煙草じゃなく、吸うと少し甘酸っぱく、清涼感のある草だ。
大人たちは遊牧の合間に皆で集まって、煙草を吸い、馬乳酒を飲む。
それが格好よく見えて、はやく真似してみたいと思うのは、子供ならではだろう。
で、草原から大都に居を移すちょっと前…兄貴十五歳、俺十歳の時に、こっそり真似してみたわけだ。
大人たちはすっごい旨そうに吹かすから、さぞかしその煙は美味いのだろう…と思いきや、兄弟そろって噎せまくり、なんだこれ!?ってなったんだよなあ。
それを親父に言ったら、「同じようなことするもんだねえ!」と笑われた。親父もその昔、スバタイ叔父さんと同じように噎せたらしい。
そして、「これなら美味しいよ!」とくれたのが、兄貴が取り出した煙管と、香草の束だ。
以来、兄貴と馬を駆けさせた時は、この煙管で煙草を吸う気分を味わった。
大都に行ってから、あまりそういう機会がなくなっちゃったからな。ずいぶんと久しぶりに見る。
煙草と違って火を点けないから、当然、紫煙が立ち上ることはなく、少しだけ、味と匂いの付いた空気を吸いこむだけだ。
二人とも、今じゃ本物の煙草を吸っても噎せないけれど…あまり、俺は好きじゃないけどね…兄貴と二人なら、こっちの方が良いな。
しばらく、無言で懐かしい味を楽しんだ。
何も言わなくても、気まずくなることもないし、気を使う必要もない。
仲間たちと一緒にいてもそうだけれど、やっぱり、兄貴だとさらに気軽だ。
…まあ、ちょっと、距離近すぎる気がするけど。くっつかなきゃいけないほど、この壁の残骸、狭くないよ?
けど、それを言っても離れてくれるとは思えないしなあ。しょうがない。
なので、文句の代わりに、気になっていたことを言葉に変えた。
「そういえばさ、兄貴。シドとガラテアさんとは、どうやって知り合ったの?」
親父の言っていた「息子の想い人」ってのが、兄貴とガラテアさんの事なら…。
まあ、お似合いだよな。うん。少なくとも、俺よりも。
「サライに赴いていた時にな。セス王国の王族が亡命を求めていると報告があったのだ。それで、会いに行ってみたのが始まりであるな」
アスランは強国だ。気を遣わなきゃいけない国は基本的になく、来るものは何でも受け入れる。信じる神も、髪や目の色も、尻尾の有無も気にしない。アスランの法に従い、税を納める気がある。それだけだ。
だから、周辺国のみならず、結構遠くの国からも政変に敗れたり、戦に負けたりした王侯貴族が亡命して来たりする。
亡命してきても、手厚く保護して以前と変わらない暮らしをさせるなんてことはなく、職の斡旋くらいしかしないけれどね。
「兄貴が自ら?」
とは言え、一太子自ら会いに行くって言うのは、相当珍しい。
もし、キリクで内乱が起こり、ユーシンとユーナンが亡命してきたら、それこそ俺や兄貴が…あるいは親父が先頭に立って、国境まで迎えに行く。
けれど、セスは遠い西の国で、アスランと密接な関係にあるわけじゃない。
さらに言えば…その王族を庇護したところで、アスランに何の利益もない。
俺なら、『続・西海博物誌』の情報が聞けるかも!と会いに行きそうだけど。
「…弟よ、あやつらの素性については聞いておるか?」
「うん。シドから聞いているし、ガラテアさんからも…少し、聞いた」
「そうか。実はな、あ奴らの縁者と、俺は元から知り合い…と言うか、友人なのだ」
「え!?そうなの!?その人の事教えてあげたら、二人ともすごく喜ぶんじゃない?」
家族も、親戚も、友達も、みんなみんな、喪って。
姉弟だけだと、思っているんだから。
遠い親戚でも、生きていると知れば、嬉しいんじゃないだろうか。
というか、わざわざ兄貴がそれで会いに行くというなら、相当近しい親戚…もしかしたら、家族かも知れない。
「いや、それは、できればしたくないのだ。弟よ。何せ、無事とはいいがたい」
「酷い怪我の痕があるとか?」
「…弟よ、死霊魔導士と言うのは、知っているな?」
「へ?うん、まあ」
死霊魔導士は、その名の通り、死者の霊や亡骸を用いる魔導を研究する魔導士だ。
うちの大学にも数人在籍していて、名前の印象は悪いけれど、要するに「生と死」を探求する人々である。
アスランやカーランでは、遠く離れた地でなくなった人の亡骸や霊魂を操って、自宅まで送り届けるという生業を営んでいる人ってのが、一般的なイメージだ。
ただ、西に行けば行くほど、あまりいい印象はない。亡骸を操ることは死者への冒涜であり、許しがたい行為だ…とされる。
これは、アスランやカーランじゃ生業であるのに対し、西の方ではさらに一歩進み、「自分が不死になるための研究」の為、死を追求する魔導士が多いからだろう。
「50年ほど前、セス王国に一人の死霊魔導士がいた。彼女は天才と言う言葉ですら生ぬるいほどの大魔導士であり、もし、彼女が存命であれば、セスに進攻しようという計画すら、あり得なかっただろう」
一人の魔導士が、大軍相手に勝利する…なんて言うことは、基本的にない。
兄貴ですら、身一つなら敵本陣に転移して、総大将を含めて壊滅させることはできても、押し寄せる大軍を魔導だけで薙ぎ払うのは難しい。
難しいだけでできちゃうけどね。兄貴なら。
けれど、名を遺すほどの死霊魔導士なら、それを可能にする。
召喚した死霊に数人の兵を殺させれば、その数人が先ほどまでの味方を襲い、数はどんどん増していく。
なにせ、死人は斬っても突いても死なない。胴を両断されても這いずってくるし、首を刎ねても無駄だ。もう、頭で考え、目で見ているわけじゃないからな。
「だが、彼女も『人間の限界』には抗えなかった。百二十年ほど生きたらしいがな。しかし、求める答えははまだ見出していない。ならば、と彼女は転生の秘術を試みることにした」
「記憶と能力を持ったまま、生まれ変わる術だよね」
兄貴は頷き、香草の詰められた煙管をくるりと回した。
「そうだ。成功すれば、自我の芽生えと共に前世の記憶と人格を取り戻す…と言うものだが、非常に難しい術であるそうだ。それよりもはるかに、魔霊だの不死者になるだのの方が容易いらしい。しかし、彼女は生死を捨てたものが、その謎の答えにたどり着けるはずはない、と、転生の秘術を選んだのだ、と言っていた」
つまり、兄貴は「彼女」から実際に聞いたわけか。
そっか…シドとガラテアさんの縁者って…。
「そして案の定、彼女は『失敗』した。本人曰く、前日の夕飯も忘れるような状態で挑むには、難易度が高すぎた…のだと」
それは、はっきり言って無謀を通り越していたのでは?
「しかし、『彼女』はある日、急に目覚めた。目覚めた場所は檻の中で、周りには死体が転がり、自分自身も腸が腹からあふれ出ているような状態であったそうだ」
「え…」
「話を聞く限り、殺し合いを見て楽しむ、違法な闘技場だったようだな。まあ、西方の野蛮な国では、違法ではなくごく普通の闘技場なのやもしれんが」
アスランにも闘技場はあるけれど、殺し合いは絶対にしない。その名の通り、闘士たちの闘技を楽しむ場所である。
けれど、自分は安全な場所から、惨たらしく人が死ぬ様を見たいというクソ野郎はいるもので、そういう連中を楽しませるための施設は、摘発しても摘発しても無くならない。
「彼女は、すぐに自分を復元し、近くの死体を護衛にしてそこから脱出した。そして、たまたまその国を訪れていた、俺の友人に拾われて、今はサライに住んでいる。そやつと、こじんまりとした酒場を営んでな」
「じゃあ、縁者って…」
「そうだ。見た目はシドとガラテアの縁者ではあるが、中身は別人だ。不完全に術が発動したため、『彼女』は目覚めるまでの記憶がない。目覚めるまで、『縁者』に彼女の記憶がなかったようにな」
魂とか、そういう次元でとらえれば、同一人物だ。
けれど、記憶や人格をもって「個人」とするなら。
『彼女』と『縁者』は全くの別人だ、と言える。
その人の中に、シドとガラテアさんの記憶は、共に過ごした日々は、ないのだから。
「なら、どうしてシド達の…セスの関係者だってわかったの?」
「『彼女』の背中にな…どこの誰であるかを示す焼き印があったのだ。そのためだけにわざわざ焼き鏝を造ったらしい」
兄貴の片頬が、皮肉気に歪んだ。
刺青ならともかく、確かに焼き印ならそのための鏝を作る必要がある。
そこまでして、『縁者』を貶めたかったのかと思うと、香草のおかげで爽やかになっていた口の中が、苦くなったように感じた。
「それでも、あの二人は会いたいと望むかもしれん。だが、俺はあまり会わせたくはない。あの二人より、奴との付き合いの方が…俺にとっては長くてな。偽者、身体を返せ、戻せと言われると…嫌なのだ」
「あの二人が…言うかなあ?」
「言わぬまでも、記憶と人格を取り戻すことを望んでしまうのは致し方のない事だろう。だが、それは裏を返せば友人に消え失せろと言うようなものだからな」
「そっか…」
「うむ。ゆえに、俺のわがままではあるが、会わせたくない。それに…会わぬ方が、知らぬ方が良いという事もあるだろう」
なんだか、兄貴の目が遠い。まあ、親しい親戚が背中に焼き印を入れられて、闘技場で見世物にされていたなんて、知らない方が良いかもしれない。
知ったら、何故助けられなかったと悔やむだろう。それは一生の傷になる。
「もし、あやつが何がしか思い出して、会いたいと言えば…協力はするが。魔導士の先達として、あやつにはよく助言をもらった。有り余る魔力をうまく排出する方法などをな」
「そっか。いい友達なんだね」
ちょっと、会ってみたい気もする。兄貴の友人て、全然思いつかないしなあ。
そこには、もう一人友人がいるみたいだし。帰りにサライに寄ったら、こっそり行ってみたい。
いや、待て。
その人って「彼女」なんだよなあ?
もしかして、兄貴の…
「あのさ、兄貴。その人って、兄貴の恋…」
「ない」
すごいきっぱり否定された。
「…ないの?」
「ない。やつは転生の術に失敗したといっただろう?魔導には、わりと性別も大切なのだが、その点から失敗していてな」
「あ、じゃあ…」
「シドよりもでかい、大男だ。…態度は、淑女だが」
「そっか…」
「うむ…」
しばし、沈黙。
だいぶん傾き、赤差を増した太陽が、眩しい。
「あー…ええっと、それじゃあさ、兄貴。ガラテアさんとは…」
「友人だ」
これまたきっぱり。
「あやつとは確かに話が早いし、見た目はとんでもなく良いが、どうあっても許せん一点がある」
「許せない一点?」
「そうだ!あやつは、弟に対して荒すぎる!」
この場合の「弟」は、俺じゃなくてシドの事だよな。
実際、俺は兄貴に手をあげられたことが一度もなく…それどころか、親父たちにぶたれたこともないけど…脅されたこともない。そんな兄から見ると、弟をとりあえず殴るスタイルは許せないことになるのか。
けど、この場合うちがおかしいだけで、結構兄姉というものは、弟妹をひっぱたくものであるらしいけれど。
「太鼓ではあるまいに、弟をどんつくどんつく叩きおって…!弟とは、守り慈しむものであるというのに!」
「それはそれでおかしい気がするけどね」
「おかしくはないぞ弟よ!大祖もそのようにおっしゃっておられる!」
兄貴の大声に、じゃれ合っていた馬たちが「何事?」と言う顔でこちらに耳を向けている。すぐに「異常なし」と判断したけれど。
「…こほん。まあ、あやつの思い込みも、理解できうるものであるし、哀れにも思うのだがな」
「思い込み?」
「そうだ。一度、聞いたことがある。何故そんなことをすると。そうしたらば、こう答えられた。『慈しみ、甘い姉よりも、普段から暴力をふるう嫌な姉の方が、いざと言う時に決断が早くなるだろう』と」
「…」
いざと言う時。
姉か、自分か、決断しなければならなくなった時。
「そうさせるには、あやつはシドを大切に育てすぎた。シドがその時に、ガラテアを切り捨てて自分を優先するとは思えん。結果、ただ弟に荒ぶるだけの姉になっておるではないか」
「そうだね」
シドと知り合って、まだほんの少しだけれど。
その時、シドが選ぶのは、確かに間違いなくガラテアさんだろう。
「愛しているなら、変に小細工をせずに思う存分愛すればよい。その愚かさを哀れとは思う」
愚かさ、か。
確かに、それは、頭のいい方法とは言えないけれど。
たった一人の弟を護るために、小さな女の子が決意した結果だとしたら…。
哀しみに近い、けれど同情とも違う感情が、胸の中に広がる。
それを何と表していいのか、今の俺の語彙の中には、ない。
「そして安心せよ。弟よ。俺はお前にそんな選択をさせるようなことは決してないと誓う。だから、お前も何かあれば俺を優先するなどと言う事はやめてくれ」
「いや、それは頷けないよ。アスランに何かあったら、まず使うのは俺でしょ」
「ならぬ」
兄貴の声は吹き抜ける風よりも鋭利で。
俺を見つめる双眸は、今まで見たことがないほど、強い光を湛えていた。
「それは、ならぬ。弟よ。忘れるな。お前は、アスランの二太子である前に、世界の灯なのだ」
兄貴が手を触れたのは、俺の右掌。
そこにある、今は見えない灯。
「お前が喪われれば、世界が滅ぶ。それを決して忘れてはならぬ」
「でも、必要があれば、すぐにマース神が次の灯の担い手を見つけるんじゃ…」
「…できんのだ。弟よ」
「え?」
「マース神は、当分の間、顕現することが出来ない。とある、理由でな」
何?今、なんていった?
兄貴は、何を、知っている…?
「詳しいことは、お前が大都に戻ってから語ろう。冬至の祭りが無事終わり、新年を迎えてから、必ずや、兄が教える。だから、今はその身を、命を、何よりも惜しんでくれ」
「…わかった」
今すぐ、教えてほしいくらいだけれど。
兄貴がそういうなら、きっと…何か、わけがある。
「さあ、そろそろ戻ろう。日が暮れる前に帰らねば、母上の雷が落ちるゆえな」
「そうだね」
馬を呼び、鞍を乗せ、跨り。
夕焼けに染まる草原を掛ける。
今日は、色々ありすぎた。ありすぎて…さすがに整理しきれない。
帰って、風呂入って、ご飯食べて…一晩寝てから、まとめよう。
馬の手綱と共に、右手を握りしめる。
手袋で見えないし、何もしていないから、そこに灯の刻印が浮かび出ているはずはない。
なのに、何故か。
背負う夕陽のような、滴る赤に染まっている。
そんな気がした。




