表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
45/89

馬の親子は斑も同じ(蛙の子は蛙)7

 お買い物、行ってきてもらっていい?と声を掛けられて、「行きます!」と真っ先に手を挙げたのは、出しゃばりと思われたのではないだろうか。


 エルディーンはさっきから頭の中をぐるぐると回る後悔に、何度目になったかもうわからない溜息を吐く。


 実の母と肩を並べて料理したことなど、ない。

 そもそも、貴族が…たとえ第三夫人であっても、厨房に立ち入るなど、あり得ない。まして、その材料を買いに「お買い物」に行くなんて…もし、母にそんなことを頼めば、何という侮辱と憤死するかもしれない。


 けれどソウジュやタバサたちとやってみれば、小麦粉に水を入れて練るのさえ難しく。

 だからこそ、できた時は嬉しかった。

 自分が関わったのはほんの一部分で、味付けなどの重要な部分は見ていただけだったけれど、それでも「成し遂げた!」と言う充足感は、出来上がった焼き菓子のようにふんわりと甘く、心地いい。

 「うまくできたね!」「おいしいね!」と笑いあいながら食べる食事は、実家で口にしたどんな料理よりも美味しく、楽しくて。


 だから、もっといろいろなことがしたくて、役に立ちたくて、買い物を頼まれた時に手を挙げた。


 けれどよく考えてみれば、タタル語もろくに話せない自分が行ってもあまり意味がない。

 あれは別の人…特に、すぐ「私も行こう」と言ってついてきてくれたガラテアに言っていたのではないか、と気付いたとき、顔から火が出るかと思った。

 

 そうでなくとも、「淑やかに慎ましく」が女性に求められる最大の美徳であると言われて育ってきている。

 それは違う。それよりも正義を貫くことが、人として最も素晴らしい事なのだ!と反発して、色々とあって…今、こうしている。

 「正義」と振りかざしていたものは、とんでもなく安物の玩具の剣…いや、ただの木の枝に過ぎず、何があろうと揺るぎはしないと決めた覚悟も、その木の枝にこびりついた泥のようなもので。


 結局、自分は注目を浴びたい、褒めてもらいたい、認めてもらいたい…そう思っていただけで、何一つ「本物」ではなかった。

 

 右手の甲に刻まれた、灯を象った刺青は…その最たるものだ。

 灯の英雄と名乗ったところで、御業の一つも起こすことはできない。

 いつかどこかで、いや、すぐにでも嘘は暴かれ、自分に向けられるのは蔑みと嘲笑と嫌悪だけになったに違いない。


 それと心底悔いて、もうそんな、褒められたいからと出しゃばるのはやめよう。

 そう思ったはずなのに。


 「どうした?エルディーン」

 「え!あの、その、なんでもない、です!」


 こっそり溜息を吐いたつもりだったが、見つかってしまったようだ。

 なんだかそれも、気を引くためのわざとらしい態度だと呆れられたのではないかと、ますます胸の奥で黒くて重たいものがグルグルと回る。


 「何でもなくは見えない。どうした?私は一応大海の主(ダロス)の司祭だ。悩みや何かを聞くのは、本職だぞ」

 

 口許はマフラーで覆われているから見えないが、氷青の双眸は柔らかに笑んでいる。

 その微笑みに勇気づけられて、エルディーンは口を開いた。


 「実は…出しゃばりだった、と、恥じています」

 「でしゃばり?何故?」

 「…だって、言葉もわからないのに、お買い物なんて…」

 

 ぎゅ、と外套の裾を握りしめながら、エルディーンはなんとか言葉を吐き出した。

 言葉に出してしまえば、何とも子供っぽい、自意識過剰な悩みであるような気がして、余計にみじめになる。


 「ふむ。エルディーンが思い悩んでいることは、二つの意味で誤りだ。だが、何故そう思ってしまうのか、それは理解できる」

 「二つ…の誤り?」

 「そう。まずひとつ。ソウジュ様は、買い物に行くと名乗り出たエルディーンを、出しゃばりなどとは思わない。そういう人ではない。息子二人を見ればわかる」

 

 ファンはともかく、兄のトールについてエルディーンはまだよく知らない。一度挨拶しただけだ。

 しかし、ガラテアが元はトールに雇われた傭兵だと言う事は聞いている。

 傭兵と雇い主がどれくらい親密な関係を持つのかはわからない。だが、ファンの兄なのだから、卑しい身分だと蔑み、道具のように扱うなどという事はしないように思えた。

 そんな間柄なら、こんな柔らかい感情を双眸に乗せて語らないだろう。


 「あいつらは、何でも自分でやる。トールも炊事に掃除洗濯、繕いもの、なんでもだ。何故王子がそんなことが出来るのか、と聞いたら、幼いころから母に躾けられたからだ、と言っていた。息子をそう躾ける女性が、言葉がわからなくても手伝いを率先して行うものを、『出しゃばり』などと蔑むはずがない」


 説明した後、面白そうにクックと笑ったのは、そのやり取りが余程面白い記憶として残っているのか、それとも、『家事全般が得意な王子』という存在が可笑しいのか。


 「もともと、アスラン王家は生まれた子に草原で生きる知恵を叩き込むのだそうだがな。馬の乗り方は勿論、幕屋ユルクの建て方、羊の集め方、毛刈りの仕方、乳絞り、燃料となる牛糞拾い…さらには、毛糸の紡ぎ方や、編み方まで、ひとつ残らず」

 「…何故、そのようなことを?王族がすることではないでしょうに」


 問うたのは、エルディーンではなく、当然のようについてきてくれたレイブラッドだ。「女性二人だけで外出など、とんでもありません!」と、少しばかり叱られてしまったが。


 しかし、レイブラッドの心配はもっともだが、夜が明けたモウスルの町は、平和そのものだ。

 目的地の市場に向かう人々は、口々に挨拶を交わし、手を挙げ、顔の中で唯一露出している目を細めて笑いあう。

 

 男性ばかり、という事はない。むしろ、女性の方が多いように思えた。年齢も老女からよちよち歩きの子供まで様々だ。

 全員が男連れなわけもなく、女性同士で賑やかにお喋りしながら歩いていく人もいるし、一人で進んでいく人もいる。


 レイは心配性ね、と思いながらも、その質問はエルディーンも答えを知りたかった。

 貴族令嬢と言っても、エルディーンは地方貴族、それも子爵家の娘だ。王族とは縁がない。

 けれど、その地方貴族である父や兄ができることは、せいぜい馬に乗って狩りをすることぐらいだ。旅の途中でファンがやっていたような蹄の手入れも、馬車の整備もできない。

 馬にブラシをかけるのも、餌を与えるのも、馬糞を掃除するのも、すべて馬丁がやることだ。子爵程度の貴族でさえそうなのだから、王族がやることではない。そう思う。


 「やれることが一つでも多い方が、生き延びる。だからだそうだ」

 「でも、王族なのだから、召使もたくさんいらっしゃるんじゃ…?」

 「何かがあって、ただ一人、草原に取り残された際、水の探し方も、火の熾し方もわからない…では死を待つだけだからな」

 「そんなこと、起こりえるのでしょうか?」

 

 レイブラッドの声には、困惑と…僅かばかりの嘲りが含まれていた。

 王族が、そんな「もしも」「万が一」の事態に怯え、庶民のような振る舞いをする。確かにそれは、滑稽と言えるほどの怯懦と言えよう。


 だが、ガラテアは笑わなかった。しばし考え、ふむ、と小さく頷く。


 「…そうだな。前にファンが言っていた。アスランは常に『最悪の事態』を想定すると。『何か』は起きるものとして考え、備える。それはアスラン王家の、と言うより、タタルの民の生きる知恵なのやもしれないな」

 「生きる知恵…」

 「親が子に望むもの…その最たるものは、死なないでほしい、生きてほしい、だろう。そのために、生き残る術をひとつでも多く教える。たとえ自分が死しても、その教えが子を護るように」

 「親が…子に望むもの…」


 エルディーンの両親は、娘に何を望んだだろうか。

 おそらく父は、「できるだけ良い縁談」を望み、母は…何を望んでいたのだろう。 


 アスランを憎めば、罵れば、母は喜んだ。

 けれど、それ以外に母が喜ぶだろうことが、どうしても浮かばない。


 ダンスがつっかえずに一曲踊り切れるようになっても、礼儀作法を完璧にこなしても…母の双眸に宿っていたのは「無関心」。

 ただ、あの蛮族めと罵るときだけ、母はエルディーンに感情のこもった眼を向けていた。


 「そうでない場合は…子はどうしたら…」

 「簡単な話だ。親に愛想を尽かせばいい」


 本当に簡単に言われて、エルディーンは目を見開き、朝の冷気に眼球を撫でられてとっさに目を瞑った。

 エルディーンが生まれ育った故郷も雪は降るが、真冬でもこれほど寒くはない。いや、今の時期はまだ晩秋だ。木は葉を残し、小麦が成長を続けている。


 「子だから親に尽くさねばならぬ、という事はないだろう。同時に、親だから子のしでかしたことは全て尻ぬぐいしなければならない。という事もない」

 「お姉さまのご両親は…」

 「私は散々怒られて育った。しまいには、手に追えぬと神殿に放り込まれた。どうもそちらは適正がややあったようで、船の上で戦うための体術と、大海の主の御業を授かることが出来た。つまり、子の適性を見ることはできたのだろう」


 くすくすと笑い、ガラテアは軽く拳を握って見せた。

 その体術がどれほど頼もしいか、エルディーンは既に二回見ている。

 自分も剣の道の端を踏んだ人間だからわかるが、あれは才能と努力、両輪がそろって初めて辿り着ける領域だ。

 自分にはまだ遠いその領域。いつかはと夢見るが、難しいことはよくわかっている。


 「さて、もうひとつのエルディーンの誤りだが」

 「あ、はい!」


 そういえば、二つあるとガラテアは言っていた。

 もうひとつ、何だろうと次の言葉をドキドキと待つ。


 「言葉が通じないくらいで商売を諦めるような商人は、アスラン(ここ)にいないぞ?」

 

 ***


 ガラテアの言葉の正しさは、すぐに証明された。


 市場…と言うより、商店が集まる一角と呼んだ方が良いのだろう。アステリアで見かけるような、馬車の荷台をそのまま店にしているのは、ほんのわずか。

 ほとんどの店は、小さな小屋を構えて商品を並べていた。


 驚いたことに、これほど寒いと言うのに、新鮮そうな野菜や、驚いたことに果物すらいくつも目に留まる。

 日持ちのする干し果物ではなく、生の果物だ。林檎に、オレンジよりも小さな柑橘、見たこともない夕陽の色をした楕円の実。

 野菜もトマトやジャガイモは勿論、キャベツよりも分厚い葉をもつ野菜や、紫色の芋のようなもの、木の根にしか見えないもの…実に様々な商品が、ごく普通に売られていた。

 もちろん、野菜だけではない。肉も魚も、酒や牛乳、小麦に米…それらを加工して作られたパンだの麵だの…ないものを探す方が難しいのではないか、と思えるほどだ。


 それらを…エルディーンが見たこともない果物ですら、ごく普通の庶民と思われる人々が贖い、買い物袋に詰めていく。つまり、値段は高くない。

 

 「ヤーヤー!オハヨー!オイシーネー!」


 目をまんまるくして商品を見ているエルディーンに、すぐ近くの店から声がかかった。

 声をかけてきたのは、まだ若い男だ。帽子も被らず、口許も隠していないから、小屋の中は暖かいのだろう。


 「ネーネー、タベヨ~!ドーゾー!ヤスイー!」


 片言の西方語で店主は呼びかけ、ニコニコと手に持った何かを示す。

 それは三日月のような、黄色く細長い…何かだった。

 

 その片側の突起を掴み、グイとひくと、どうやら黄色いものは皮だったらしい。中から現れたのは、やや緑がかった白い実だ。

 店主は鼻歌を歌いながら、今度はナイフを取り出した。半分剥いた皮を皿代わりに、実を三つに切り分ける。


 「ドゾー!ウマイ!ヤスイ!」


 どうしたものかと固まっていると、ガラテアが首元を覆うマフラーを降ろしながら手を伸ばした。右端の一つをつまむと、ぱくりと頬張る。

 

 「うん。甘い。ちゃんと熟してるな」

 「お、お姉さま、それは…」

 「実芭蕉バナナだ。メルハの方で採れる。エルディーン達も、食べてみると良い」


 ガラテアの美貌にポカンとしていた店主が、我に返って何度も頷く。何かをもにゃもにゃと呟いていたが、タタル語なのでエルディーンにはわからなかった。

 

 意を決し、エルディーンも差し出された白い実をひとつ摘まむ。甘いものらしいとは分かったが、どんな味なのかと緊張しながら口に入れようとして、気付いた。

 立ち上る甘い匂いは、ラスヤントでヤクモ達が買ってくれたお菓子からもしていたものだ。

 それはしっとりとした食感の焼き菓子だったが、とても美味しかった。不安が期待に変わり、マフラーを降ろすのももどかしく、齧り付く。


 「!」

 

 あの時の焼き菓子よりも、爽やかな甘み。

 さっぱりとした甘みは、焼き菓子よりも美味しい。


 「おいしいです!」

 「実芭蕉は栄養もある。ナナイとマリーに良いかもしれないな」


 手ごたえを感じたらしい店主は、にこにこと笑いながら、掌に銀貨を五枚落とす。

 そして空いた手で、実が十本以上くっついた房を示した。どうやら、一房銀貨五枚のようだ。


 「うん。確かに安い。二つ三つ買っていこう。もっと下流に行く予定の船が止まって、叩き売っているのかもしれないな」

 「え、えっと、安い、のでしょうか?」

 「大都なら銀貨三枚が相場だと思う。大都から離れた町で五枚は安い」

 

 ガラテアは上機嫌で頷き、財布を取りだした。手袋をしたまま器用に銀貨をつまみだし、十五枚を台に並べる。

 店主はニコニコと笑って、三つの房と半分ほどになった房を差し出した。


 「イパーイ!オマケー!マタキテネ~!」

 

 多めに買ったことで、おまけもつけてくれたようだ。また来れるかどうかはわからないが、少なくとも店主にとって悪い取引ではなかったのだろう。


 山盛りになった実芭蕉を、ガラテアは丁寧に持ってきた布袋にしまった。ズシリと重いはずだが、気にもならない様子だ。

 着替えなどの時に間近で見たが、一見細く華奢に見えるガラテアの腕は、しなやかな筋肉で構成され、比べてみるとエルディーンの腕より一回り太い。

 いつかそうなれたらいいと思いつつ、つい自分の腕を見てしまう。


 「…メルハ、とは、南にあるメルハ諸王国の事で良いのですよね?」


 小さな溜息は、レイブラッドの質問にうまくかき消された。また落ち込んでいたら心配されてしまうと、エルディーンは慌てて質問を咀嚼する。 


 「ああ。そのメルハだ」


 それがどうしたか?と言いたげな様子でガラテアは答えた。確かに、メルハ諸王国とアスラン王国との関係は良好なようだ。

 なにせ、ファンの領地であるフフホトを治めていた、腹心と言ってもいい人物もメルハ人だったのだから。敵国の人材を国の政治に関わる場所には置かないだろう。


 あの少し独特な領事官だけではなく、アスランに入ってから毎日のように特有の浅黒い肌を持った人々を見かける。商人として訪れているのではなく、ごく普通に暮らしている人も多くいた。

 そんな関わりの深い国の品物が売られているのは、それほどおかしいことではないように思える。


 「メルハ諸王国は、アステリアから往けば辿り着くまで三月はかかる距離のはず。アスランは国境を接していると言っても、二日三日で行けるような場所ではないと思うのですが…」

 

 レイブラッドの視線は、袋の中にある実芭蕉に注がれていた。瑞々しく、腐敗や乾燥とは無縁の果物に。

 

 「少なくとも、果物が原形を保てる期間で届くとは…」

 「ああ、アスランの大都からなら、メルハまで船で一月といったところだな。だが、これは船で運ばれるわけではないぞ」

 「あ、もしかして、飛竜が運ぶのですか?」

 「いや、飛竜は軍でしか扱えない。それよりももっと早いものだ」

 「もっと早い…」


 皆目見当もつかずに目を瞬かせていると、そうだろう、と言うように頷かれた。ガラテア自身、同じように疑問に思って同じように答えられた経験があるのかもしれない。

 

 「転移陣だ。メルハからまず、ウハイフンゲルと言う街に船で運ばれる。まだ熟していないうちに刈り取って、船の中で熟させるのだそうだ。そして、ウハイフンゲルから転移陣を通って大都にやってくる」

 「転移陣…を、果物を運ぶのに、使う…のですか?」

 「果物だけではない。肉に魚、玉子や野菜もそうだし、木材や鉱石なども、ありとあらゆるものが転移陣を使って大都に運ばれてくるぞ」


 転移陣。彼方と此方を瞬時に繋げる門。

 エルディーンに魔導の知識はほとんどないが、それがとてつもなく高度な魔導であり、おいそれと使えるものではないことくらいは知っている。


 その、とんでもなく高度な魔導を…商品を運ぶのに、使う?


 「驚いた方が良いのか、呆れた方が良いのか…反応に困ることだ。私は便利だと思ったが、シドはしばらく納得できなかったようだな」

 「それでも、運河をたくさんの人が通るのですね」


 転移陣で済むのなら、わざわざ船で長い道のりを往くこともない。だが、人だけではなく、品物が積まれた船が運河を通るからこそ、塞がれたことで混乱が起きている。


 「転移陣の使用が許可されるのは、限られた大商会だけだからな。運ばれてきたものを商人が買い、こうした商店にさらに売る」

 「なるほど…」

 「大都以外の転移陣は、そこまで厳しく制限されていないそうだがな」


 つまり、この袋に入った実芭蕉は、ほんの数日前にはメルハにあって、どうやって実っていたのか想像もつかないけれど、異国の人の手でもぎ取られ、船に乗せられ、万里の距離を転移してきたものなのか。

 その道のりを想像すると、美味しいだけではなく、とんでもなく素晴らしいもののように思えてきた。

 

 「すごいですね…!」

 「他のそうした果物も安くなっているかもしれない。色々見て回ろう」

 「はい!」


 その後、市場を見て回り、いくつかの品物を買い付けた。

 毛をむしられた丸鶏や玉子はエルディーンにも馴染み深いものだったが、手のひらサイズの小さな魚…揚げて丸かじりにするらしい…や、大兎の肉と言われたエルディーンの頭より大きな肉塊…兎なのか?…などは初めて見るものだ。

 

 ガラテアの持つ買い物袋だけでは入りきらず、籠をひとつ購入して、レイブラッドが持つことになった。

 籠は中古品のようで、実芭蕉一房の半分もしない値段である。しかし、とりあえず家に着くまでくらいは、底を抜けさせることもなく、耐えてくれそうだ。


 (買い物って…楽しい!)


 ガラテアの言っていた、言葉が通じないくらいでは商売をあきらめない、と言うのも、実感した。片言の西方語もわからない人は身振り手振りや、通行人を捕まえて通訳をさせてまで、商品を売り込んでくる。


 なんとか意志を疎通させ、適正価格なのか首を捻り。ぼったくりだと、通行人が何やら抗議してくれて、値段交渉を代わりにやってくれたり。


 でしゃばったと後悔もしたけれど、来てよかった。

 こうして買い求めた品がどんな料理になるのかと、ワクワクする。


 「さて、こんなものか。帰ろう」

 「はい!」

 「良いものが買えた。皆、喜んでくれるだろう」

 「実芭蕉、はやく皆にも食べてもらいたいです!」

 「うん。ナナイたちには、少し焼くか牛乳と煮ると良いな。弟が去年、アスランの寒さに耐え切れず寝込んだ時、友人が作ってくれた」

 「焼くんですか?」

 「実芭蕉は、熱を加えるとより甘さが増し、腹によくなるそうだ」


 それも、その作ってくれた友人から得た知識なのだろうか。ずいぶん親しい人のようだ。手料理を差し入れてくれるくらいなのだから。


 「その友人の方って…」

 「ファンの母方のはとこでな。私たちが世話になっている、鈴屋という店の女将の孫だ。ファンの祖母の姉の孫」

 

 母方の、という事は、アスラン王家の血は引いていないようだが、やはり何でも自分でやる人なのか。いや、女性なら、料理できても不思議ではない。

 シド殿の恋人かしら…とぽわんと思い描き、それは絶対に後でみんなと協議せねばと誓う。

 

 ファンの事を考えると、まだ少し悲しくなるが…市場で芋虫が売っていないのだし、やはりアスラン人が普通に食するものではない。しかし、本人はそれを「美味」と認識している。

 万が一…ファンの、妻、などになれて、ある日満面の笑顔で蠢いている芋虫を勧められたら…と思うと、それだけで全身に鳥肌が走っていく。

 虫は元から苦手ではあったが、マルダレス山での体験により、恐怖の対象となっている。


 やっぱり、無理。


 ファンの事を避けようとは思わない。素敵な、素晴らしい人だ。

 けれど、だけど、どうしても、受け入れられないことだってある。


 うん、と内心ひそかに頷いて、エルディーンは大きな葉野菜を抱えなおした。これは似ても焼いても美味しいらしい。

 

 ふと、その野菜が横に引かれたように思えて、慌ててさらに抱えなおす。


 「オチラレー!」


 それと同時に掛けられた言葉に、反射的にそちらを見た。

 こちらを見て、手を合わせているのは、自分と同じくらいの年頃の少女だ。色とりどりの毛糸で編まれた帽子をかぶり、同じ色どりで編まれたマフラーを巻いている。


 そしてその隣に、同じ色どりの帽子をかぶり、葉野菜からもぎ取った葉を癪尺と食べる…山羊。


 「え?え?山羊?」

 「巻き毛山羊だな。アスランでは、ペットとして飼うものもいる」

 

 目を見開いて謝っているらしい少女に、ガラテアは笑って手を振り、タタル語で声をかけた。おそらく、気にしなくていいと言っているのだろう。


 「山羊…」


 葉を強奪して飼い主を慌てさせた山羊は、飼い主と同じ色どりの毛糸で編まれた帽子だけでなく、ベストも着ている。名の通り、ベストから出ている部分はくるくると巻いた柔らかそうな毛で覆われ、服など着なくても暖かそうだ。


 「可愛い~!」


 しかし、純白の毛に、鮮やかな毛糸の衣服は映える。山羊に服を着せるなど聞いたこともないが、思わず顔がにやけてしまうほど可愛らしかった。

 その様子に、恐縮しきりだった少女もホッとしたようだ。


 「バヤルララ!」

 「ありがとう、だそうだ」

 「あの、撫でても?」


 手を伸ばすと、伝わったらしい。少女は笑顔を浮かべて肯き、まだ口を動かしている山羊の耳の下を掻く。

 おずおずと、エルディーンも手袋を外し、同じように垂れた耳の下を指で掻く。思った通り毛は素晴らしく柔らかく、くるくると巻いた毛の下は暖かい。

 山羊は耳を動かし、気持ちよさそうに目を細める。

 

 皆に報告することが、もうひとつできた!

 この可愛らしさ、絶対に伝えねば!


 そう思って山羊から視線を少女に移し、触らせてくれてありがとうと伝えたいと、タタル語でありがとうの発音を思い起こす。


 そう、さっき彼女も言っていた。ええと…。


 単語を思い出し、口に出そうと思った時、少女の斜め後ろで、馬車が止まった。

 別にそれは、何一つおかしなことではない。さっきから、何台も馬車が行ったり来たりしているし、道の途中で止まっている馬車もある。

 自分たちが立ち止まっているのは、道の端だ。すぐ横には何かの商店らしい建物もある。そこに用があるから、前に留めたっておかしくはない。


 なのに、何故か。


 エルディーンの頭に浮かんだのは、「ありがとう」の発音ではなく、マルダレス山での記憶。


 ファンたちに助けられ、下山したあと…あともう少しで村に着くと、思った時。

 司祭とその護衛と言う皮をかぶっていた男たちの、不快な気配。

 自分たちを人ではなく、欲望を発散させるための道具としか見ていないような。


 「!!」


 咄嗟に、エルディーンは少女と自分の位置を入れ替えた。

 少女の驚いた顔が、やけにゆっくりと見え。


 同時に、肩と腕を掴まれ、持ち上げられる。


 「いや…っ!?」

 「エルディーン様ッ!!?」


 嫌な臭い、温度。

 頭上に被せられる声は、高揚と嘲りと含み、べたりと耳に張り付く。


 そして、がたりと揺れたと同時に、何とか目を開けて見ている景色が、急速に流れ出した。


 (馬車、はしって…!?)


 男に捕らわれ、馬車に引きずり込まれ、その馬車は走り出している。

 誰かが叫んでいる。男たちが嘲笑っている。


 自分が拉致されたことを理解し、エルディーンの目に涙が盛り上がった。

 けれど。


 (大丈夫!絶対、レイとお姉さまが助けてくれるもの!それに…!)


 あの少女が、こんな恐ろしい目に合わなくて良かった。

 きっと、目の前で彼女が攫われたら、自分はもっと、苦しい。


 (だって、私は冒険者だもの…!このくらい…!)

 

 自分が危険に晒されるより、力なき人を守れない方が、魂と誇りに傷がつく。

 涙が止まらないほど怖くて、押さえつけられた男の手は不快で、吐き気がするけれど。


 (大丈夫…!!絶対!!)


 ぎゅ、と目を閉じ、涙を振り切り。

 エルディーンは、その双眸に再び強い意志の光を灯した。


 「エルディーン様!!!」


 その灯を、エルディーンの騎士たるレイブラッドは当然見ることはできない。

 けれど、すべきことはただ一つ。


 主を救う。


 買い物籠を放り出し、走る。道の途中に落ちている色鮮やかなものがエルディーンの帽子だと認識した瞬間、無意識にそれを拾い上げながら。

 しかし、二頭立ての馬車は周りから怒号を受けながらもかなりの速度を出して走り去ろうとしていた。


 人間の足で追いつけるものではないと、冷静な部分が絶望を告げる。


 だが、追いつけなくとも、どこかで止まるはず。それまで、自分も足を止めずに走ればいい。それだけだ。

 そうするしかできないなら、そうする。むざむざと目の前で主を攫われて、諦めることなど…騎士として、いや騎士でなくとも、人として出来はしない。


 

 身勝手なプライドや意地で引き起こした失態の数々を、エルディーンは失望せず、むしろ励ましてくれた。

 その信頼に応えられないようなら、心臓が破れて死んだ方が遥かにましだ。


 「偉大なる『大海の主(ダロス)』よ…」


 背後で、ガラテアが祈りを捧げる声がする。

 そんなことより一緒に追い掛けてくれ!と脳裏に喚く自分と、いや女性はこういう場合、安全な場所で祈るものだと頷く自分がせめぎ合う。


 だが、その争いはすぐに終結した。


 「その大いなるかいなをもって、良き波を引き寄せ給う!」


 何かが、足元を走っていく。

 

 「!?」


 それは、水…であるように感じた。

 実際には、なにもない。だが、確かに水が道の上に溢れ、押し寄せていく。


 あっという間にレイブラッドを追い越し、疾走する馬車の車輪に到達し。

 そして、今度は、今来た方向へと引いていく。


 これは、波だ。


 レイブラッドは、海を見たことがない。

 けれど、数々の物語で、または絵画で、そして青の湖(フフノール)で、押し寄せては引く「波」を見たことはある。


 馬車を曳く馬が、驚いて嘶きをあげた。

 波はしっかりと車輪を捉え、恐るべき力で引き寄せていく。

 馬車に乗った男どもが驚きの声をあげている。その顔が見えるほど近くまで、レイブラッドは追いついていた。


 (ガラテア殿の御業か!)


 いや、それが御業でなく、例えどんな邪法であったとしても、レイブラッドには奇跡そのものだ。

 荒い息を吐き出し、吸い込み、限界を訴え始めた足を叱咤して…馭者台に回り込む。


 「ヤージッ?!!」


 馬車は荷台しかなく幌などはない。馭者台もむき出しになっていた。

 レイブラッドの意図を悟った馭者が応戦しようとしたのか、逃げようとしたのか、腰を浮かしかける。

その、混乱と驚きに歪んだ顔に向けて、レイブラッドは容赦なく拳を打ち込んだ。


 馭者台から転がり落ちる男から手綱を奪い、馬を止める。波に抗うのも疲れていたのだろう。馬たちは大人しくレイブラッドに従った。

 それを確認し、身体を反転させて荷台へと向き直る。


 「エルディーン様!」

 「レイっ!!」


 荷台には、男が二人。そのうちの一人が、エルディーンをがっしりと抑え込んでいる。

 

 「薄汚い手でエルディーン様に触れるな!!離せ!!」


 かっと迸った感情のまま叫ぶが、男たちに通じるはずもない。だが、男たちは一瞬顔を見合わせると、レイブラッドに向けてエルディーンを突き飛ばした。

 咄嗟に受けとめたレイブラッドに向け、男の一人が棒のようなものを振り上げる。


 「!」


 エルディーンを受け止めたせいで、体勢は崩れている。避ければ最悪エルディーンに当たる。それならば。

 主を男の攻撃から守るべく、腕をかざして盾を作り、衝撃に備えて歯を食いしばる。


 鈍い音が、響いた。


 だがそれは、レイブラッドの腕からではない。

 棒を振り上げていた男がぐらりと揺れ…そして、倒れる。


 「大丈夫か?エルディーン」


 いつの間に追いつき、荷台に上がっていたのか。

 白い外套の裾をふわりとなびかせ、ガラテアは嫋やかに微笑んだ。


 『引き波』の御業を祈り、レイブラッドが馬車に取りついたのを見てすぐ、ガラテアは御業を解除し、走り出した。


 あの馬車が止まったとき、嫌な予感が働いたのはガラテアも同じだった。

 しかし、まさか朝の早い時間に、長城の外とは言え大都の膝元ともいえるような場所で、あんなに堂々と人攫いなどをする輩がいるとは思わず。

 動きが遅れてしまったのは…大失態だ。


 だが、それを反省している時間はない。とりあえず己への怒りや反省も、あの連中にぶつけようと決め、地を蹴る。


 荷台へ飛び上がれば、棒を振り上げ、エルディーンを抱えて動けない騎士に振り下ろそうとする男と、短剣を抜こうとしている男が視界に飛び込んできた。


 着地すると同時に、棒を振り上げる男の首の後ろに向けて、掌打を放つ。


 当たり方によっては、一撃で殺せる急所だが、首巻があるからそこまではいかないだろうと見当をつけた、手加減も全くなしの一打だ。

 首に受けた衝撃により男は頭を揺らし、へなへなと崩れ落ちた。


 「くそこの!!!」

 

 短剣を抜いた男は、まだ若い。十代か、二十代になったばかりか。

 その若さでも補いきれないほど荒んだ目と纏う気配は、エルディーンを攫ったのが初めてではないと知らせていた。


 「思いきり、痛くしてやって問題はないな」


 大振りに振り回してきた短剣を握る手首を両手で挟み、手首を狙って膝を突き入れる。

 

 犬の悲鳴のような声をあげ、男は短剣を取り落とした。手袋と外套の袖で見えないが、膝を入れた手首の骨は折れている。

 両手と膝に伝わった何度やっても慣れないその感触を振り払うように、ガラテアはくるりと身を反転させた。


 その、回転の勢いを乗せた蹴りが、容赦なく男の顔面にめり込む。

 弾かれたように仰け反った男の顔から、血と折れた歯が飛び散った。さらにガラテアは手を伸ばし、折れた男の手首をつかみ、引き摺り倒す。

 男は藻掻き、起き上がろうとしていた。だが、それよりも早くガラテアは仰向けになった男の股間に足を踏み下ろす。


 濁った悲鳴を背後に聞きながら、ガラテアは朦朧としているもう一人に視線を向けた。意識を取り戻しつつある。完全に覚醒する前に、無力化するべきだ。

 いかに体術を鍛えようと、組み付かれれば体重差で押し切られる。戦う時は、必ず一人ずつ完全に無力化させよという師の教えを、ガラテアは忠実に守ってきたし、今も実行するつもりだった。


 だが、それを止めたのは、駆け寄る馬蹄の音。


 「そこまで!そこまでで!」


 駆け寄ってきたのは、一隊の騎兵。おそらく、大都から派遣された兵士だろう。

 荷馬車の中を覗き込み、あーあ、と言う顔をしている。


 「あー…こりゃ、こいつもう駄目だな」

 「妹を攫われたので、致し方なく」


 ずり下がっていた首巻を完全におろし、顔を露出させながらガラテアは兵士を見た。自分の見た目が、体術よりも強力な武器になりえることは、よく理解している。

 案の定兵はガラテアの顔を凝視したあと、露出している目元を赤らめてしきりに肯いた。


 「あ、ああ。うん。女の子が攫われたと訴えもあり、この者たちが賊であることは疑いようがない。賊に対して何をしようと、咎められるようなことはない」

 「安心した。では、こやつらは引き渡そう」

 「任された」


 兵の一人が馬上から身軽に荷馬車へ移り、まだ朦朧としている男を取り押さえる。その衝撃で一気に意識が戻ってきたのだろう。男は首を振って辺りを見回し…自分を抑えている兵を見て、顔を歪めた。


 「お、俺たちはボグロル商会のものだぞ!!放せ!」

 「知らんわ。良かったな。年末で忙しいから、さっさと斬首になるぞ。牢に詰められて鼠を食う前に死ねる」

 「だから!!俺は、ボグロ…っ」


 兵の拳が男の腹に突きこまれ、男は言葉に代わりに胃液を吐き出して黙った。

 馭者台から落とされた男も逃げようとしたが、あっという間に回り込まれて取り押さえられる。


 「ふむ。問題ないな。エルディーン、よくやった」

 「お姉さま…」


 あの一瞬、エルディーンが動いていなかれば、攫われていたのは山羊を連れた少女になっていただろう。

 もちろん、その場合でも助けた。結果は今と同じになっていた。しかし。

 エルディーンは少女を護った。それは十分に賞賛に値する。


 「戻りましょう、エルディーン様」

 「うん…!」

 

 荷馬車から降りた三人に、少女と山羊が駆け寄る。

 少女は泣きながら、レイブラッドに支えられるエルディーンに抱き着いた。

 感謝とエルディーンの安否を、嗚咽と共に問う。


 「大丈夫だ。この子は強い」

 「でも、怖かったですよね!わたし…なんとお礼を言ったら…!」

 「その感謝が、何よりの礼になる」


 自分と少女の言葉を西方語に訳し、エルディーンに伝えると、涙でくしゃくしゃの顔がぎゅっと笑顔に変わった。


 「ええ!私は、冒険者なのですから…っ!」

 

 その様子に、集まってきていた野次馬たちが歓声を上げた。

 身を挺して見ず知らずの娘を庇った少女。その少女を救うため、鮮やかに賊を叩きのめしたのが見目好い男女ともなれば、当然盛り上がる。


 賊どもは、どうやら余所者だ。その余所者がモウスルの町で狼藉を働き、報いを受けた。これほど分かり易い勧善懲悪も珍しい。安心して、叩きのめした美女に賞賛を贈れる。


 「ほら、おねえさん!これ!」

 「ああ、ありがとう。持ってきていただいたのか。感謝する」

 「当然の事よ!」


 ご婦人数名が、放り出してきた買い物袋と籠を差し出してきた。その中身は、減った様子はない。それどころか、多くなっている気がする。

 買った覚えのない林檎や蜜柑に首を傾げていると、ご婦人方に続けとばかりに、野次馬たちが思い思いに、袋と籠に買ったばかりと思われる品を詰めていく。


 「これも食べなよ!」

 「これ、美味いんだよ!」

 「うちの菓子を食えば、あの子も元気になるさ!」

 「この金で、汚れちまった服を洗濯屋に持っていきな!」


 次々に押し寄せてくる善意に、ガラテアは苦笑しつつ重くなっていく袋と籠を見ているしかなかった。

 

 「ほら、困っているだろう!もう帰してあげなさい」


 見かねた兵が割って入り、ようやくガラテアは解放された。

 少女と山羊と、そしてまだ興奮冷めやらぬ野次馬に手を振られながら、兵に護送されつつ家路をたどる。

 ずいぶんといっぱいになった袋と籠を、兵が馬に積んでくれたのは助かった。籠の底はもう、見るからに限界を迎えて変形している。


 「ずいぶん長い買い物になってしまったが…」

 「…はい」


 エルディーンの顔は、再び泣き顔になっている。だが、突然馬車に引き込まれ、攫われかけたのだ。一瞬でも笑顔を見せた胆力を褒めるべきであり、泣くことを咎める気はない。

 むしろ、恐ろしい目にあって震え、泣くのは正常な証だ。最悪の結果になった場合、それすらできなくなることを、ガラテアは良く知っている。


 「帰ろう」


 だから、早く安全な「家」に戻って。

 皆に囲まれて、暖かいものを飲んで、食べて。


 それができる。そうできなくなる前に助けられてよかった。


 かつて助けられなかった者たちの面影を脳裏から振り払いつつ、ガラテアはエルディーンの頬を、そっと撫で、涙を拭った。


***

 

 「ここにいるんだろう!わかってるんだ!!出て来い!!」


 男の喚き声に、親衛隊騎士たちは顔を顰めた。

 昨日の酒は、頭の奥にどっしりと座り込み、ぎゃんぎゃん喚く声に苛立って脳を突き刺す。つまり、頭が痛い。


 訴えのほとんどは「ゴラァ!」「なめてんのか!!」「俺が誰だかわかってんのか!」など、「だから何?」と言うようなものだったが、騎士たちはこの男の言う、「ここにいるのが分かっている人物」が誰だかは分かっている。


 つい先ほど、彼らの主たるファン・ナランハル・アスランの旅の連れであり、一太子トールに雇われた傭兵の女性が、やはり同行者である少女とその騎士を伴って戻ってきた。


 白い外套には赤く点々と血の模様が描かれ、一戦を勝利で飾ってきたことを主張している。

 そして、少女はヒックヒックと泣いていた。綺麗に結わかれていた髪は乱れ、サライで買ったという可愛らしい花模様が織り込まれた帽子は、騎士が握りしめて持っている。


 何かがあったのは一目瞭然。騎士たちの顔に緊張と怒りが走った。


 だが、ここで自分たちが…体格が良い、顔立ちも優男にはほど遠い男が囲んでは、余計エルディーンも恐怖を覚えるだろうと、立ち止まるだけの余裕があった。

 エルディーンとは、互いに拙い西方語とアスラン語で語り合い、笑いあうようになったとはいえ、こんな時に安心感を与えられるほどではない。

 

 無言で三人に道を開け、顔を見合わせる。

 ガラテアの外套についた返り血からして、すでに犯人に鉄槌は下っている。

 許せん、とは思うが、やることはもうないだろう。


 そう判断して三人は再び、庭の手入れに見せかけた警備に戻る。

 だが、すぐに三対の視線はあけ放たれた門の先へと向けられた。


 門を閉めておけばよかったと後悔したのはほんの一瞬。

 三人は絶妙な距離を開けて、怒鳴りこむ男の行く手を阻む。


 男の後ろには、いかも素行ガラの悪そうな連中が五人。

 傭兵崩れか、傭兵そのものか。これ見よがしに、腰の剣を外套の裾から見せているのが二人。残る三人も、外套の下に何かを持っている。


 「息子を殴った女を出せ!!」


 それから、半分以上意味のない脅しを含んだ喚き声が続いていた。

 ずいぶん早くやってきたところからして、おそらく、この男はガラテアが犯人を成敗しているところを見ていたのだろう。

 その場で助けようとはせず、人手を集めて仕返しかと、騎士は鼻で笑った。


 「てめぇ!!わかってるのか!!俺はボグロル商会の番頭だぞ!!」

 「知ってる?」

 「あー…たしか、ウハイフンゲルのけっこーでっかい商会だね。ただ、こんなチンピラを番頭にするのが不思議じゃないトコ」

 「なるほどな」


 全く恐れ入らない騎士たちの様子に、男は寒気のせいではなく、顔を真っ赤にした。乱杭歯をむき出し、もう何と言っているか聞き取れない言葉を喚き散らす。

 ウハイフンゲルがある、ウルート地方の言語だ。幸い…と言うか不幸にもと言うか、騎士のうち一人はウルートの出身で、男が何を喚いているのか、三割ほど聞き取ることが出来た。

  

 「あのなあ、ここはウハイフンゲルじゃなく、大都の近く。ヤルクトの地だよ。町に住めなくしてやるって、そんな力があるわけないだろ。つーか、ウハイフンゲルでも、そこまでできるほどでかい商会じゃねぇだろうよ」

 「何、お前、脅されてんの?」

 「なんか、俺に逆らったらもうまともに暮らせねーぞ、とか、そんなん」

 「はは、ウケる。つかさ、おっさんの息子が殴り倒されたのも、自業自得ってもんだろ」


 騎士の嘲笑に、男は更に唾を飛ばして喚く。


 「黙れ!!金は払ってやるんだ!!何が悪い!」


 その、辛うじてタタル語で喚かれた言葉に、騎士たちの目が細められる。

 気配の変化に、引き連れていた傭兵崩れたちは僅かに気付いたようだった。じり、と後退り、距離を取る。

 だが、人数で優っているせいか、騎士たちが騎士服ではなく、ありふれた量産品の外套を纏い、その体躯をうかがい知ることが出来ないせいか。男を制そうともせず、逃げようともしない。 


 「悪ィしかねぇべ。あの子は金で身を売ってるわけじゃねえ」

 「ふん!!その辺をうろついてる貧乏人の女なんぞ、金を恵んでやればむしろ感謝するだろうがッ!?」

 

 騎士たちは…いや、真正面から見ていた、距離を取った傭兵崩れたちも、即座には何が起こったか、即座にはわからなかった。

 いや、当の本人…首を掴まれて持ち上げられた男も、自分がどうなっているのかを理解するのに、同じくらいの時間を要しただろう。


 「で、女の子たちは、何処に連れて行ったのかな?言わないと、この人の首握り潰すけど」

 

 反射的に騎士たちは、その場に片膝を付いた。

 それほどまでに人物の怒りは凄まじく、冷や汗が額から盛り上がり、頬を伝う。

 

 「あガッ、あ…」

 「あ、その人たち逃がさないでね。最後の一人になったら、さすがに教えてくれると思うし」

 「御意!」


 本来、親衛隊騎士は仕える主以外には従わない。それがたとえ、王命であったとしても。

 だが、その命令が主の意思に反さず、なおかつ、自分たちが望むものであるならば、話は別だ。


 騎士たちは片膝を付いた姿勢から豹のごとく動いた。二人が傭兵崩れの背後に、一人が横に回り込む。


 「うん。さすがにいい動きだね」

 「お褒めに預かり、光栄の至りです」


 モウキに咽喉を掴まれ、ぶら下げられた番頭は既に白目をむいている。

 かひゅかひゅと漏れる呼吸音と、空気を取り込もうと必死に藻掻く手足が、まだ生きていることを伝えていたはが。


 「さて…どうする?君たち」


 口調は穏やかだが、その声は氷柱のように冷たく、鋭い。

 しかし、傭兵崩れたちは悪態と罵声を放ちながら、それぞれの武器を手にしようとする。


 一人を、除いては。


 「港のそばにある、『双子山羊』亭におりますっ!!」


 叫びながら平伏し、地面に額を擦り付ける仲間を見て、傭兵崩れたちは凍り付いた。

 その男が一番腕が立ち、体格も良い。男たち五人の…いや、雇われている護衛たちの頭目格である。

 だが、今は平伏し、全身を震わせながら慈悲を乞うている。


 「どうか、どうか命だけは…!!い、いえ、せめて、箱刑と牛裂きだけは、なにとぞお許しください!!」

 「お、おい、何やってんだよ!!」

 「黙れ!!良いからさっさと平伏しろ!!」


 地面から離された頭目格の目は血走り、涙と涎と鼻水で顔半分は覆われ、さらにそこに泥がこびりついている。

 それは異様であり、無様であり、滑稽でもあった。

 だが、傭兵崩れたちは笑えなかった。

 頭目格の双眸に…いや顔全体、身体全体に張り付く「恐怖」が、傭兵崩れたちの血をも凍らせる。


 頭目格が一目置かれているのは、体格や腕っぷしの強さだけではない。

 かつてはアスラン軍に属する兵であり、百人長寸前までいった…と言う経歴ゆえだ。

 

 その経歴が、教える。

 片腕一本で、決して痩せても小さくもない番頭を悠々と持ち上げ、しかも殺さない程度に気道をあけておける膂力と握力を持ち。

 礼をとる動作や、身のこなしから、おそらくは騎士と思われる男たちが従い。


 そして、狼を思わせる、満月色の双眸を持つものは、誰か。


 「お慈悲をおお!!陛下!!」

 「うん。いいよ」


 鈍い音がして、番頭の身体が地面に叩きつけられる。しかし、その衝撃で噎せ、呼吸を再開したようだ。まだ、生きている。

 激しく咳込み、痛みに呻きながら、番頭はどうにか目を開けた。


 「で、命を助けてほしいって言うのは、こっちの事?それとも、君の事?」

 「も、もしも御命令とあらば、そいつ今すぐ、殺します!!」


 番頭は、自分が聞き取った言葉の意味を理解できなかった。痛みと呼吸困難に、頭は痺れ、考えは纏まらない。

 だが、平伏しながら自分を見る、傭兵崩れの目に宿る恐怖と殺意は…思考を通さず、理解した。


 悲鳴は、何より優先して繰り返される呼吸に阻まれて出ない。

 いや、何より、そうだ。今、自分は殺されかかっていた…


 藻掻き喘ぎながらなんとか逃げようとする番頭を、モウキの満月色の双眸が見つめる。

 嘲笑も怒りもない、ただ、身体が半分潰れて藻掻いている芋虫を見ているような目。


 「いいよ。面倒くさいでしょう。それよりも、女の子を助けないと。みんな、この人たち、捕縛しておいて」

 「御意!」


 答えた声は、三人だけではない。

 厩から残る七人も槍や剣を携え、駆け降りてくる。


 「さて!行こうか!ファン君!トール君!」

 「饂飩食べてたら、なんか終わったね、兄貴…」

 「うむ。さすがは父上だ」


 外套を羽織りながら出てきた二人の姿を、縄を掛けられながら頭目格は見つけ、更に目を見開いた。

 攫おうとした娘とどういう関係かはわからないが、番頭の息子を殴った女は間違いなくこの家にいるらしい。赤髪の、とんでもなく良い女だと番頭から聞いている。

 だから、その女を坊ちゃまに…と番頭はニヤついていたが…それほどの女なら、もしかしたら。


 一太子、二太子、どちらかの情人を、引き渡せ、と喚いてしまったのだとしたら。


 「あ、そうだ。君」


 声を掛けられ、頭目格は今度こそ終わりかと震えた。失禁しなかったのは、ここに来る前に用を足していたからで、それがおそらく、自分の人生で最後の幸運だと思う。


 「道案内、よろしく。その後は今まで君がしてきたこと次第だ」

 「ぎょ、御意!!」


 再び額を地面に擦り付けると、腕を持たれて上体をあげさせられた。騎士二人が外套を剥ぎ取り、身に着けていた短刀をもぎ取る。

 

 「歩けるかい?」

 「むろんにございます!!」


 がくがくと震える足を何とか動かし、頭目格は立ち上がった。番頭と仲間四人は騎士たちによって縄を掛けられ、頭目格とは逆に地面に押さえつけられている。

 喚く口は容赦なく泥を食まされ、黙らされていた。


 「親父、ちょっといいかな」

 「なんだい?ファン君」

 「エルディーンさんたちも、一緒に行きたいって」

 「おや」


 ファンの後ろから、帽子をかぶり直し、剣を握るエルディーンが進み出る。

 目の周りは赤いが、もう泣いてはいない。


 「あ、足手纏いではありますが!どうか、お願いします!」 

 「大丈夫かい?怖いかもしれないよ?」

 「怖いから…怖いからこそ!私は、助けられたままで…終わりたくないのです!」

 「…私もどうか、同行させてください」


 主の横からさらに進み出て、レイブラッドは異国の王の前に跪いた。

 かつて『敵』として罵り、悪の化身と憎んだ男の前に。


 ファンがアステリアで為したことの報告書は読んでいる。

 我が息子ながら報告書は微に入り細に入り、少々横道にずれながら…クロなんとかって言う蛾の説明で三枚使う必要あった?…実に詳しく書き込まれていた。

 その中で、旧フェリニス王国貴族の血を引く少女とその騎士と、口論になった、という事も、読んでいる。


 ファンたちがアステリアを出国した後も、ついて回っている密偵や、ヤルトネリらからの報告は届いていた。この騎士がサライでやらかしたことについても、当然含まれている。

 

 そんな男が、不倶戴天の敵と見做していた「悪の王」の前で膝を付くのは、凄まじい葛藤が内心にあることだろう。

 それを殺し尽くして、今、膝を付き、首を晒させているのは、主が危険な場所へ赴くのならば、己も、という使命からか。


 いや、違うね。

 

 ほっこりしたものを感じつつ、モウキは頷いた。息子たちが「なにやってんの?」と言う顔をしている気がするが、まあ、それは置いておいて。


 「うんうん!十倍返しにしてやらなきゃ、気が済まないよね!」

 「…ッ…はい!」

 「そういう事なら、問題なし!私とトール君とファン君もいるわけだし、大丈夫大丈夫!じゃあ、行こうか!」

 「ええ。攫われた娘の身も気にかかります。その方ら、守りは任せたぞ」

 「御意に」


 頭目格を引っ立てながら門を出ていく王たちの姿を、親衛隊騎士たちは黙って見送った。

 その殿を務めるシドとガラテアの姿も見えなくなると、ふう、と息を吐き出し、顔を見合わせる。


 「完全に自業自得だけど」

 「あ、わかる」


 足元の縄をかけて転がしてある傭兵崩れを見る限り、相手側の「戦力」はこの程度だろう。むしろ、護衛として雇ったのか、娘を攫うための手なのかはわからないが、ここに来た五人が全てだったかもしれない。

 

 「絶対に勝ち目ないもんね」

 「相手が陛下だから、とかそういうの以前に、陛下と殿下を同時に敵に回して勝てる人間っているの?」

 「そりゃいるさ。后妃とナランハル」

 「あー…」


 女性を攫うような連中だ。嫌悪はしても、同情などできない。

 だが、絶対に確定した破滅がやってくる、という状況に、騎士たちは僅かな憐れみを覚えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] モウキ様お強い…! 溢れる強者の凄みというより泰然とされる様子が人の概念超えてらっしゃるようにしか見れなく、妻と息子にデレデレだった姿に落差を感じるような一繋がりであるような、大きすぎて不…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ