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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
43/89

馬の親子は斑も同じ(蛙の子は蛙)5

 モウスルは、大きな町ではない。

 今まで立ち寄った町同様に、船を停泊させることのできる港と、補給のできる商店、そして十数軒の宿があるだけの町だ。


 千人長の見立て通り、モウスルまでは順調に進めた。しかし、これから先へ進むのはなかなかに困難になっている…という事は、初めてこの地を訪れるヤクモ達ですら理解することが出来た。


 桟橋にはぎっしりと船が並び、余裕はほとんどない。その僅かな余裕も、次々にやってくる船によって埋められている。

 一行が乗った船はなんとか一番端の桟橋にたどり着くことが出来たが、それで満員だ。案内人の誘導に従った結果なのだが、後続の船からは罵声が飛び、船長の眉間に皺が寄る。


 元来、船着場に大声や怒鳴り声はつきものだ。

 ほんのわずかな油断や焦りが、とんでもない結果を招くことは往々にしてある。


 舫い綱に巻き付かれ、胴を両断されたもの。

 水に落ち、自らが乗っていた船の外輪に巻き込まれ、水を赤く染めたもの。


 そうした悲惨な「死」を、船乗りならば必ず耳に入れたことがあり、そして目にしたことがある。

 だが、「自分だけは大丈夫」と高を括る若者というのは決していなくならないわけで、どうしても大声怒鳴り声は飛び交うことになる。


 しかし、今、モウスルの港を埋めているのは、そうした怒声を聞きなれた船員たちですら、気圧されて口を結んでしまうほどのものだった。

 

 重く低い暗灰色の雲に蓋をされるように、その異様な空気はこの地に凝っている。

 せめて晴れ渡っていれば、もう少し空気も違っただろうにと空を睨むが、雲が退く気配はない。


 「やれ、酷い有様ですな」

 「まったくだ」


 船長がその様子に低い声で呟き、ファンも頷いて同意を示す。

 

 「宿、取れるといいんだけれど」

 「…厳しいやもしれません。宿でなくてもよろしければ、伝手がございます」

 「頼むよ。今日は絶対に、屋根と壁がいる」


 重い雲からは、いつ雪が落ちてきてもおかしくはない。野宿で超すには、厳しい一夜になるだろう。


 「大運河の客船は、夜は町に泊まることを前提にしている船の方が多い。船ン中で一夜を過ごすにしても、毛布やら布団が足りない。厳しい夜に、なりますな」

 「…うん」


 波止場には、実際どうしていいかわからない、という様子で、身を寄せ合う人々の姿があった。

 桟橋ではなく、無理矢理岸壁に横付けし、客を降ろすような船もある。モウスルの警護に当たる兵が怒鳴り散らしてやめさせようとするが、言う事を聞く様子はない。


 客の叫びも兵の制止の声も振り切り、船は強引に岸を離れ大運河をラスヤント方面へと進み始める。その無理矢理な横入りに、あやうく衝突しかけた船から罵声が放たれた。


 そんな光景が、いたるところで繰り広げられている。


 船に置いて行かれた客は叫び、桟橋に接舷できた商船からは、馬を探せ車を探せと喚きながら船員が駆けだし、必死に船に呼びかける乗客だった人々を掻き分けていく。

 危うくそれで水に落下しかけた女性を、近くの男性たちが間一髪で引き戻す。それでも、船員はちらりと一瞥しただけで、気に留める様子はない。

 罵声が起こり、子供が泣く。まさしく「酷い有様」だ。


 「…モウスルの守備隊だけじゃ厳しいな」

 「ナランハル、御命令を。皆様方を陸の上にお届けいたしましたら、連中にお行儀ってものを躾けてやりませんと」

 「ありがとう。すまないな。余計な任務まで」

 「なんの。ここでまで船が沈んで道が塞がれたら、来年にフフホトを出る塩船まで足止めを食いますからね」


 キリクから運ばれてきた岩塩を砕き、袋詰めにしたものを大都まで輸送する塩船は、今年の操業をすでに終えていた。

 年明け一番最初の塩の競りは、たいてい通常よりも高値がつく。

 巨大なもの、透明度が高いなどの見栄えがする岩塩は砕かず、そのまま運んで競りにかける。こうした岩塩は縁起物とされ、特に高値で取引がされるので、塩商人たちは「これぞ!」という逸品を用意しているものだ。


 しかし、他の商品と同じく、岩塩もフフホトでしか用意できないわけではない。

 初売りに出せなかった縁起物、というのはなんだかケチがついてしまうから、砕いて普通の塩として売ることになる。そうなれば、価値はずっと下がる。

 見栄えのする岩塩は仕入れ値も高いものだから、ほとんどの塩商人が赤字を抱える羽目になるだろう。


 「それは大変に困るなあ…」

 「でしょう?なら、ここでもうひと働きしておいた方がいい」

 「それじゃあ、フフホト守備隊に協力を。空砲の使用も許可する」

 「御意」


 軍船から船員が飛び降り、舫い綱を桟橋に括りつけ、荷船を引き寄せる。

 ファンも船長に軍礼を送ると、馬たちを下船させる為、船員たちが駆けまわる甲板を抜け、桟橋に向けて飛び降りた。


***


 「今日から三日間程度、ここに滞在するよ」


 ファンがそう告げたのは、モウスルの町の外れにある家の前だった。

 塀に囲まれ、立派な門扉まである。だが、中に人の気配はなく、宿の主人や使用人が出てくる様子もない。

 それを気にもとめず、ファンは門を潜った。一行もそのあとに続く。

 

 門の中はまず庭になり、母屋と同じくらいに広い厩も備えられていた。

 母屋は平屋だが、厩は二階建てだ。さすがに二階部分に馬はいれないだろうから、そこは人が寝泊まりするための部屋なのだろう。


 「三日?それでいいのか?」

 

 主と並んで馬を曳きながら、クロムが問う。だが、その口調に不満気な色はない。

 むしろ、短いのではと危惧している。

 

 戦闘と停泊しない船旅は体力を削っており、ナナイが昨日から熱を出していた。他の少女たちも顔色が悪く、特に一番年下のマリーアンは腹痛を訴えている。今日の夜には、ナナイと同じく熱があがるだろう。

 ロットとウィルはまだ「具合が悪い」までいっていないが、疲労がべったりと顔に張り付いている。

 

 風は一日ごとに冷たさと鋭さを増し、空模様から見るに、間もなく雪が降りだす。

 大都周辺の雪は、降り積りはしない。風に飛ばされ、ただ視界を白く染め、生きとし生けるものの熱を奪い、氷像へと変えるだけだ。


 その中を無理に進めば…最悪の事態も起こりえる。


 「三日程度っていうのは、天候の回復も待ってってことで。明日明後日は降りそうだからなあ。長引くようなら、止むまで待ちたい。宿は一応十日抑えておいたからさ」

 「ここ、お宿でいいのう?」


 きょろきょろと人気のない庭と家を見渡すヤクモに、ファンは笑って頷いた。


 「そう。宿っていうか、貸家だな。船長の紹介なんだけど、助かったよ。宿はもう満員だし。色々自分でやんなきゃいけないけれど、屋根もあるし壁もある。絨毯くらいは敷いてあるみたいだし」

 「ナランハル、すぐに部屋の準備をいたします」

 「頼むよ。まず、病人が休める部屋を」

 「御意に」


 女官たちは胸の前で手を合わせ、深く頭を下げた後、素早く行動に移った。

 ラスヤントで買い求めてあった敷布と毛布を馬車からおろし、家の中へと運び込む。

 

 「私も運びます!」

 「エリー、私たちも…」

 「タバサたちは、ナナイとマリーについていてあげて!私、元気だから!」


 ぐ、と腕を持ち上げ、エルディーンは快活に笑って見せた。実際、彼女は体調を崩しておらず、食欲も落ちていない。基礎体力の差と、修羅場を潜り抜けた経験の差だろう。


 「お前たちも火桶の準備とか、水汲みを」

 「御意っす」

 

 応えて取り掛かったのは、船に同乗していた親衛隊騎士である。

 モウスルの状況を見て、大都まで同行するという申し出に、さすがにファンは断ることなく頷いた。

 

 何せ、このありさまだ。何が起こるかわからない。


 見るからに屈強な親衛隊騎士は、喧嘩を回避するにしても、止めるにしても、ファンが道理を説くよりもよっぽど効果的である。

 実に役に立つ、魔除けの像のようなものだ。


 (魔除けの、像か)


 港を離れてもかすかに聞こえる、怒声に罵声。

 この混乱は、時間がたてば収まるというものでもない。

 いや、明日明後日には援護を求められた街から、応援の兵が駆けつける。そうなれば、今の状況は改善されるだろう。軍に喧嘩を売る馬鹿はそう多くなく、そうした馬鹿にアスラン軍は優しくない。

 言い方は悪いが、一人二人見せしめが出来れば、大人しくなる。


 だが、それまで…流血沙汰にならずに済むだろうか。


 この町には、確か百人隊すら置かれていなかった。

 十人長が十人いるより、百人長が一人いたほうが、こうした時には良い。同格の相手と意見が分かれた時に起こる遅滞は、時に致命的になる。

 

 今、この町に十人長より身分が上で、命令権を持っているのは、フフホト水軍の百人長である船長と、そして。


 二太子ナランハルである、自分。

 

 どれほど混乱を極めていようと、二太子の御前でやりたい放題好き放題できるものは基本いない。

 二太子じぶんがここにいる、と名乗るだけで、ある程度の混乱は治められるだろう。


 「これもあれか。いい加減仕事しろという、雷帝の思し召し…なのかなあ?」

 「そういえばさあ、踊りおじさんから貰ったお仕事、終わったのぅ?」

 「終わったよ。大都の各部署に届ければ完全に終わり」


 内容は、様々な報告書や予算の申請書で、ファンの確認や認可を経て完成するものであったから、それほど時間はかからなかった。箱をひっくり返した机でもこなせたのは、そこまで読んでいたのか。

 フフホトで山と積まれた書類の中に、この手のものがなかったことは多少疑問ではあった。

 そう考えると、船を用意したのも、船旅の間にやらせようという計画だった…のだろうなあ、と、ファンは領事官の満面の笑み、その白い歯に向かって心の中で拳を振り上げ、降ろす。


 うん。どう考えてもやらなかった俺が悪い。


 緊急避難とは言え、二太子の職分を放り出して好き勝手やっていたのは事実だ。

 しかも、とても楽しかった。仕事を免除されるほど苦難の連続だった…とは、口が裂けても言えない。

 毛刈りの時期に遊び惚けていたヤツが、冬越しに駆り出されて文句を言う資格はないのである。誰に聞いても、それこそクロムたちでさえ、「自業自得」と言う。


 「とりあえず、雪が降る前に馬たちを走らせて来ようと思う。三日も船に乗りっぱなしだったからな」


 ラスヤントで出港準備中は馬場に放しておいたが、不満そうだ。雪が降ったくらいではアスラン馬は気にしないが、どうせならば降る前に済ませておいた方が無難だ。

 どうするかはその後考えよう。問題の先送りともいうが、身分を明かすことは危険を呼び込むことでもある。一人で勝手に決められるものではない。

 

 それならばまず、やらねばならず、なおかつ気晴らしになることもやっておいた方が良い。


 「賛成だ。身体も鈍ってるしな」

 「うむ!」


 クロムとユーシンがすぐさま乗ってきた。いい加減、思いきり動きたいのだろう。特に船酔いに悩まされていたクロムは、遠乗りでもして気分を変えたいに違いない。


 「ヤクモ、乗馬の練習するか?留守番している?」

 「どのくらい走らせるか、だなあ…」

 「なら、ヤクモは俺と町近辺を軽く走らせるか。アスラン馬じゃないヤツは、この寒さであまり走らせると良くない気がする」


 シドの申し出に、ヤクモは頷いた。エルディーンとレイブラッドの馬だけではなく、神殿の馬車を曳く馬二頭もいる。すでに寒そうだが、だからと言って厩舎に繋いでおくのも可哀そうだ。


 「ヤクモさん、シド殿。よろしくお願いしますね!」

 「まかせて!」


 エルディーンにぴょこりと頭を下げられて、ヤクモはふんすと鼻息を吹き出し…口元を覆う首巻に阻まれ外に噴出されることはなかったが…胸を叩いて見せた。

 主のその様子を見て、レイブラッドも無言で一礼する。

 だが、その無言はアスラン人へ馬を任せる事を屈辱と捉えている、或いは主の態度を苦々しく思っている…という様子ではなかった。

 その証拠に、「さあ!お手伝いしますよ!」と張り切る主を見つめる双眸は、暖かく、柔らかい。


 「姉さんは、どうする?」

 「ならず者がやってきたらへし折る」

 「…ほどほどに、な」


 弟の呆れ顔から動いて、ちらりとガラテアの視線がファンを掠める。

 満月の色をした瞳は、一瞬逃げるように横を向き…そして、思い返したように視線を捉えた。


 「親衛隊もいるから問題ないと思うけれど、ナナイたちをよろしく」

 「任されよう」

 「日が暮れるまでには戻るから。食事の支度はどうしようか?」

 「ご用意いたします」

 「わかった。任せたよ。具合の悪い人を優先にしてくれ。俺たちは、外に食いに行ったって良いからさ」

 

 次の毛布を取りに来た女官は、ファンの言葉ににっこりと笑って、左胸に拳を付けた。

 手伝わないのは少々心苦しい。

 だが、やらせれば文句しか言わないクロムと、やる気はあるが何するかわからないユーシンは離しておくのが一番のお手伝いな気もするし、ファンが手を出したら、丁寧に「ナランハルのお手を煩わせるわけには参りません」と笑っていない目で拒否されそうである。


 「じゃ、いくか」


 久しぶりに鞍を置くと、馬たちは見るからに張り切った。ここ数日ですっかり毛を伸ばしたアスラン馬たちだけでなく、西方産れの馬たちも嬉しそうにしている。

 

 貸家から、モウスルの町の外まではすぐだ。

 石積みの外壁はあるが、そう高いものではなく、ファンが前に立つと頭がでる。

 門と言うよりは外壁の途切れ目には、夜間に嵌めるらしい戸板が立てかけられていたが、その程度だ。


 「本来、安全な町なんだな」

 「この辺は魔獣や狼もでないしな。見張りはあいつらで充分なんだよ」


 ファンがそう言って示したのは、門周辺に思い思いに寝そべる犬たちだ。どの犬も大きく、長い毛に覆われている。

 時折ちらりと目を開けてファンたちを見ているが、吠えたり噛みつこうとする気はないらしい。


 「手ェ出すなよ。咬み千切られるぞ」

 「怖いよ!!出さないよ!」

 「まあ、人間でもいきなり知らないヤツから触られたら嫌だからな」


 犬たちに見張られながら町の外に出れば、そこに広がるのはファンにとって見慣れ、親しみ、育った光景。


 ただひたすらに広がる、草原。


 今は冬枯れの色に覆われているが、なだらかな隆起を繰り返すこの地が、春になればありとあらゆる緑に染められ、地平の先では蒼穹と大地の蒼が混じり、溶け合うことをファンは知っている。


 吹き抜ける風は冷たく、荒く。

 しかしそれでも、ファンを含めた遊牧の民たちは謳う。


 「タタルの風は、良い風だ」と。


 しばし、ファンは目を細めてその光景に見入ってた。

 船から似たような景色は見えていたが、やはり己の足で立つのとは違う。


 「…帰ってきたな」

 「ああ」


 クロムの声に、ファンは鼻の奥に広がったツンとした感情から立ち戻った。

 同時に、自分の今いる場所を思い出して足を動かす。感傷に浸るのもいいが、ここは道の真ん中だ。

 大公路であるフフノール路に繋がる道に出る門ではないから、ほとんど人通りはないが、それでも邪魔なものは邪魔である。

 

 「あ、ねぇねぇ、あのひとたちって、遊牧民なひと?」

 「うむ!そうだな!冬が来ると、男だけで元気な家畜を連れて遊牧をする!女子供に年寄りは、町のそばで冬を越すのだ!」


 ヤクモが示したのは、壁に沿うようにいくつも並ぶ幕屋ユルクと、忙しそうに立ち回る人々だ。皆、色鮮やかな胡服デールを纏い、頭には毛糸の帽子、首には毛皮を巻き付けている。

 ユーシンが言ったように、そのほとんどは女性で、雪に備えて幕屋の屋根にもう一枚不織布(フェルト)を被せ、今日の夕飯になるらしい肉を積んだ盥を運んでいるようだ。

 忙しそうにしながらも、おしゃべりの花が咲かない間はない。雪も寒さも、彼女たちにとっては馴れたものだ。手と口を止める理由にはならない。 


 「こども、すっごいまんまるだねぃ」

 「この季節、最低十枚は服を着せるからな」

 「ファンもそだったのぅ?」

 「そりゃまあ。だから兄貴は今でも俺に腹巻をつけさせたがるわけで…」

 

 よちよちと歩き回っている小さな子供たちは、もう少し大きな少年によって、子羊子山羊と共に面倒を見られていた。

 玉子に手足が生えたような体形になっているものだから、転んでもなかなか立ち上がれない。

 それでも誰も助け起こさないのは、ヤクモからするとハラハラするが、同じ遊牧民であるファンは、「おじいちゃんの目」になって見守っているから、きっと微笑ましい光景なのだろう、と納得することにした。


 「ガキはどうでも良いから、さっさと馬を走らせてやろうぜ。俺たちも寒いし」

 「はいはい。じゃあ、ヤクモとシドは、この壁の周りから離れないようにな。けど、あっちいくと公路に出る道がある、いわゆる正門があるから。人がいっぱいいるから気を付けて。喧嘩とか、巻き込まれないようにな」

 「なら、逆方向に回るさ」

 「それが良いな」


 あまり立ち止まっていては、遊牧民たちにも警戒されてしまう。興味津々の視線は感じているが、それ胡乱げなものに変わらないうちに動くべきだろう。

 そう判断して鐙に足を掛けようとしたファンだったが、その双眸は遊牧民の女性らより早く、訝し気に細められた。


 帽子に耳が覆われていてもはっきりと聴こえる、馬蹄の響き。

 大人数ではない。二騎か…だが、こんな町のそばではあり得ないほどの速度を出している。


 遊牧民の女性らもその不自然さに気付いたのだろう。子供たちのもとに駆け寄り、特に小さい子を抱き上げる。

 その様子を見ながら、ファンは一気に鞍上に身を躍らせた。何があろうと、相手が騎馬ならばこちらも騎乗していた方が対処しやすい。


 だが、その警戒は姿を現した騎手により、するりとほどける。


 馬を駆けさせているのは、同じ遊牧民だ。

 帽子から飛び出した長い三つ編みが、馬の駆け足に合わせて跳ねている。

 顔は帽子と首巻に隠されて目元しか見えていないが、胡服の色合いや刺繡から、二人とも若い女性であることが見て取れた。


 「どうしたんだい?」

 「こっちに馬が走ってこなかった?!末の甥が乗っているの!」


 切羽詰まった返答に、問いかけたご夫人は顔を強張らせた。


 「あんたの姉さんの、末子かい?まだ、三つかそこいらだよね?」

 「ええ!今、皆で探しているんだけれど…!!」


 遊牧民の子は、走るより早く馬に乗る、とはよく言われる。

 実際、三歳ならば親と一緒に乗るだけではなく、鞍の上に一人で座っていられるくらいはできる。

 だが、さすがに、馬を望む方向へ進ませることはできないし、走る馬の鞍にどれだけいられるかは…そう、長い時間ではない。


 「どんな馬かな?探すのを手伝うよ」


 ファンの声に、娘たちは大きく頷いた。幕屋一帯はがぜん騒がしくなり、女性たちのうち半数ほどが馬に鞍を置きだす。


 「斑毛アラグ三歳馬シュドレン!」

 「わかった!行くぞ、クロム、ユーシン!」

 「ああ!」


 クロムとユーシンも騎乗し、それを見届けてファンが馬を駆けさせる。その勢いにつられて、騎手を乗せていない馬も駆けだした。ヤクモとシドが手綱を握っていた馬車馬二頭だけが、のんびりと後姿を見送っている。


 「ありゃあ…でも、ファンと一緒ならだいじょーぶかなあ」

 「そうだな。…だが、何故、子供だけ?」


 シドの疑問に、女性陣も頷く。

 小さな子を鞍に乗せておくことは珍しくはない。その方が暖かいし、うろちょろと何処かに行ってしまう事もないからだ。

 しかし、当然ながら大人が常に見ているし、子供を乗せる馬は大人しい牝馬を選ぶ。むざむざ逃がすような事態は、そう簡単に起こらないはずだ。


 「馬を売れって言ってきたやつがいてね」

 

 荒い息を繰り返す馬を軽く歩ませながら、馬上の娘は眉を吊り上げた。


 「断ったら、馬に切りつけやがったんだ」

 「なんだって!?」

 「それで驚いて、馬が駆けだしちまったんだよ。おばさん、もし、馬が来たら頼むよ!旅の人、手伝いありがとうね!行こう!」

 「うん!」


 再び馬を駆けさせる。たちまちのうちに、娘たちの姿は豆粒のように小さくなり、かすんでいった。凄まじい速度だ。馬には「乗っていられるだけ」の二人としては、驚嘆の溜息をもらす以外にできることはない。


 「えっと…あのぅ…」

 「俺たちにも、何かできることはあるだろうか?」


 ヤクモがタタル語を組み立てようとしているのを見て、シドは憤慨するご婦人に声をかけた。

 一番欲しいのは馬と子供を探す人手だろうが、そこに参加しても足手纏いを通り越して、要救助者を増やすだけというのは分かっている。


 「兄さん、腕、立ちそうだね」

 「まあ、傭兵だから」


 シドの返答に、ご婦人はうんうんと肯いた。


 「それなら、あたしらと一緒に、あの娘のうちに行っとくれよ」

 「…?構わないが、腕が立つことと関係があるのか?」

 「あるよ!馬を寄越せって言ってきたのは、船が止まったやつだろうさ。うちにも、朝から何人も来ているからね」

 「ああ」


 商人か、客船の乗客か。自分たちは見るからに旅人であり、人数よりも馬の数が少ないせいか声を掛けられることはなかったが、遊牧民なら当然多くの馬を所有しているし、移動のための馬車もある。


 「けど、ここにいるのは売るための馬じゃない。馬車だって持っていかれちゃ困る。そう言って断ったんだがね」

 「こっちにゃ女子供年寄りしかいないって舐め腐ってやがんのさ」

 「最後に来た奴、素っ裸に剥いて投げ捨ててやったら、それから来なくなったけれどね!」


 がははと笑う女性陣に、ヤクモとシドは思わず一歩下がる。

 アスランの女は強い…と言うクロムの言葉を改めてヤクモは思い出していた。

 

 「でもね、あの娘のうちは小さくてね。いつもなら何ともないんだけれど、今は馬鹿どもが夏の虻みたいに寄ってきやがる。まして、捜しに何人かでちまっただろうから、馬泥棒がやって来るかもしれないだろう?」

 「なるほど。それなら役に立てそうだ」

 「うん!ぼくも頑張るよ!」


 二人の返事に、話しかけてきたご婦人は大きく頷いた。


 「頼んだよ。ヤルクトの同胞の連れなら、信用できるからね」

 「わかるのか?」

 「金の眼は、ヤルクトの血にしかでないからさ」


 そう断言する女性の瞳も、金色に近い銅色だ。

 長城の中で遊牧することはヤルクト氏族にしか認められていないとシドは聞いたことがあった。その周辺に住まう彼女らも、近い血を持っているのだろう。

 

 「じゃあ、いこうか!ゆっくり走ってやるから、ついてきな」

 「お手柔らかに」


 遊牧民の言う「ゆっくり」って、全然ゆっくりじゃないんだよなあ…と思いつつ、馬車馬の背に置かれた鞍に、何とかヤクモはよじ登った。


***


 「降ってきやがったか…」


 白い欠片が、重たい雲から千切れるように落ちてくる。


 「…何とか、見つけないと」


 ファンの顔には、珍しく焦りの色があった。遊牧民として育った経験が、時間があまりないという冷徹な予測を告げているのだろう。

 

 「馬呼びをしてみるな」


 首巻を降ろし、手袋を外して指を咥える。雪を貫くように、鋭い指笛の音が響き渡った。

 群れからはぐれたり、遠くまで駆けて行ってしまった馬を呼び戻すための音だ。移動しながら吹いて行けば、馬の方から寄ってくるかもしれない。

 その背に子供の姿があることを祈りつつ、ファンは数回、指笛を繰り返した。


 「クロム、ユーシン。何か聞こえたら、教えてくれ」

 「わかったから手袋をしろ!指を落とすぞ!」


 唾液で湿った皮膚は、すぐに凍り付く。遊牧民だからと言って、耐性があるわけではない。


 「まだ、そこまでの寒さじゃないよ。でも、しまっておくな」

 

 苦笑しつつもファンの右手は、再び手袋に覆われた。大丈夫だ、鳴らしながら進もう、と言わない辺り、この間の説教は幾分響いたらしいと、内心に頷く。


 それにしても雪と子供か。


 クロムは首巻の下で口許を歪めた。思い出すのは、あの日の事。

 白い絶望の中、死を受け入れたあの日。


 ファンは不思議なほど、あの日の事を口にしない。

 大抵の本は三度読めば頭の中で再現して頁を捲れる男だ。人の顔を覚えるのも早く、一度話せばなんとなくでも覚えている。

 だが、クロムと再会した時も、両親に挨拶をした時も…完全に「初対面」の態度だった。


 あの時助けてくれたのは、ファンで間違いはない。


 保護された後、大人たちが口々に「ファン様に感謝しろよ」と言っていたし、トールに思い切って聞いてみた時、「あの時の子供か!」と驚いていた。

 

 ただ、ファンだけが、忘れている。もしくは、気付いていない。


 クロムたち一家を遊牧陣地まで連れて帰った後、高熱を出して倒れたらしいので、その熱のせいで記憶が飛んでいるのかもしれないとは思っている。

 トールが微妙に口を濁すのも、難民の親子などという、二太子の命と比べたら塵芥のような存在を助けたせいで、ファンが生死の境をさまようほどの熱を出したことを良く思わないものもいるからだろう。

 

 実際、遊牧陣地を出る時、冷ややかを通り越して睨みつけているものもいた。

 無理もないと思う。自分だって、この後ファンが熱を出してぶっ倒れたら、迷子の子供を睨みつけてしまわない自信はない。


 我が主はそういう奴だとわかっているし、間髪入れずに探しに出た姿を誇らしくも思うものの…かといって、主が苦しむ姿を見れば腹も立つ。

 一番許せないのは、俺たちだけで行く。お前は家に戻ってろと言えなかった自分になるだろうが。


 あの日、自分クロムの道はファンの道につながった。そう思っている。

 その決して平坦ではないどころか、山も谷もあり魔獣も待ち受け、最後に魔王が立ち塞がるような道であるし、その道を共に行くと決めたのは、もっと後の出来事だったとしても。


 だから、ほんの少し…いや、わずかばかり…にしては大きめかもしれない程度に、あの雪の日の出会いを思い出してほしい、という思いはある。


 ファンからしてみれば、人助けなど息をするようなものだ。今だって、頼まれたわけでもない人探しをしている。

 あの日、クロムたちを助けたことも、ファンからすれば特に覚えておくような事でもない、ほんの些細なことなのだろう。

 

 そう、わかってはいる。わかってはいるが。


 「そういや、昔こんなことがあったなあ」と言い出さないか、期待してしまう自分がいるのは、否定できない。

 我ながら未練がましいというか、なんというか。

 

 「…なんかこう、同じような人探し、したことないのか?」


 もごもごと呟いてしまった言葉に、何やってんだクソが!と自分を罵り、聞こえなかったことを祈るが…耳を澄ましてあたりの音を聞いていたファンの耳に、しっかり届いてしまったらしい。


 「ん~…ないかなあ。まあ、迷子の馬や羊を探したことはあるけど。そういう時は、鷲と犬も連れて行くからなあ」

 「そうか」


 やっぱり、覚えていないらしい。

 思ったよりもがっかりしている自分が嫌になるが、顔に出ていても寒くて不機嫌になっていると思ってくれるだろう、思え、と念じる。


 「ファンは時々、ものすごく忘れるからな!もしかしたら、あるのかも知れんぞ!」

 「え?そうか?」

 「うむ!前に大都に遊びに行った時、新しくできた遊技場に連れて行ってくれると、約束をした」


 ユーシンも見えているのは双眸だけだが、首巻でくぐもる声は明るく、目も笑っている。ずいぶんと楽しい思い出らしい。


 「三日後、俺とユーナンを連れて行ってくれたのだが、十日後、待たせたな~とか言いながら、また連れて行ってくれた!」

 「へ?」

 「ユーナンと首を傾げたが、遊技場にはまた行きたかったので黙っていることにした!楽しかったからな!」

 「え、ええ!?確かに、お前らを連れてったのは覚えているけど…え?二回連れてったの?」

 「ユーナンは、ファン兄上はお疲れなのかと少し心配していたが、トールに相談したら、街に抜け出す口実は多い方が良いからな、と言っていた!だから、最初の一回をなかったことにしたのか、もしくは夢だったと思ったのだろうと納得した!」


 まあ、有り得る。

 それがいつの話かは分からないが、時期によってはファンはとことん疲弊している。得意ではない「二太子」としての仕事に追われ、更に苦手な社交などをこなさねばならない日々が続くと、見るからに弱る。


 そんなとき、異国の王子二人を「ご案内」するというのは、さまざまな予定を上書きできる便利な口実だ。

 アスランの同盟国の中で、現在はキリク王国が最も関係が深く、そして最も強国なのだ。その王子二人を差し置いて、二太子と会えるものなど、それこそファンの両親と兄くらいなものである。


 「あー…でも、心当たりはあるなあ。大都来てしばらくさ、記憶が飛ぶことがあったんだよね」

 「…どういうことだ?」

 「いや、思ってた日付と違うっていうか。まあ、遊牧していた時は厳密に今日は何の月何日、なんてやっていなかったから、そのせいかなって思うんだけど」

 「本を読みすぎなのだ!」

 「うん。それも言われた」


 文字通り寝食を忘れて読みふけり、図書館の中で行方不明になったこともある男だ。本人は朝から昼まで本を読んでいたつもりでも、実は翌日の昼だった…は間違いなくある。


 「ファンは頭がいいが、時々おかしいからな!」

 「四六時中おかしいお前に言われたかないだろうよ」

 「俺もお前にだけは言われたくないぞ!」

 「あー、もう!じゃれあってないで、少し進むぞ!」


 いつものやり取りに紛らわし、ひとまずその話題は終わった。

 だが。


 (…記憶が、とぶ…か)


 何故か、そのことが。

 視界を白く染める雪のように、クロムの心に「不安」という形で降り積もっていった。


***


 そうして、時折泊まって馬呼びをし、移動してまた呼ぶという行動を繰り返すことしばし。

 周囲は雪のせいだけではなく、視界を狭めてきていた。日没が近い。


 「ファン!一度戻ろう!」


 ユーシンの呼びかけに、ファンは馬を止めた。


 「日が落ちる。皆、案じるぞ」

 「…うん。そうだな」


 日が暮れる前には戻る、と言って出てきている。ヤクモとシドが状況を説明してくれるかもしれないが、心配は掛ける。止めてもエルディーンあたりは飛び出してしまうかもしれない。


 「もう、見つかっているかもしれねぇしな」

 「そうだな…ごめん、ちょっと冷静さを欠いた」

 「まったくだ。馬鹿に諫められるって、相当だぞ?お前」

 「反省します…ちょっとさ。考えちゃって」


 馬首を町の方へ向けながら、ファンは首巻の下で苦笑した。


 「俺がすぐに名乗りを上げて混乱の収拾に動いていれば、こんな事態そのものが起きなかったかなあって」

 「ふむ!この町の守備兵の手には余る事態のようだしな!やるか?」

 「俺は反対だ。明日明後日には大都からでも援軍が来るだろ。そいつらにやらせろ。何もお前がわざわざ…」

 「…もし、まだ子供見つかっていなかったらさ。俺はきっと、ものすごい後悔する。明日明後日を待つ間に、違う子も命を落とすかもしてない」


 桟橋で身を寄せ合う人々。宿は満員だった。

 あの人たちは、どうやってこの夜を凌ぐ?


 「もちろん、かなりの強権発動になる。場合によっては住民に、無理矢理宿を提供させるような命令を出すわけだし、それによって住民が被害を受ければ…俺の責任だな」

 「放っておけよ。ガキ連れてくのに安い船使ったやつが悪い」

 「そんな苦しそうに『放っておけ』なんて言われても、説得力がないぞ」

 

 しばし、沈黙のまま馬を歩ませた。馬の鼻先が凍っていないから、まだ凍死者はでていないだろう、とやや楽観的に考える。

 だが、夜は越せない。ナナイやマリーアンのように、慣れない船旅で体調を崩したものは、特に。


 「ならば、どうする?ナランハル!」

 「まずは軍の詰所を解放する。住民に呼びかけて受け入れてくれる人も探す。最悪、女性や子供、お年寄り…それに弱っている人だけでも収納できれば、健康な男は焚火で夜を明かすこともできるだろう」

 

 詰所に何人入れられるかは疑問だ。せめて、小さな子供とその母親だけでも避難させられればいいが。

 

 「よし!文句を言う馬鹿どもの相手は俺に任せろ!キリクの『恐れを知れぬもの(ナラシンハ)』の名、僅かばかりの力にはなると思う!」

 「ありがとさん。そうと決まれば、まずはあの娘たちが来た方に行ってみようか。そっちに集落があるだろうからな」


 馬の鐙に足を突っ張り立ち上がれば、乗り手の意図を察した馬は待ってましたとばかりに足を速めた。


 「…あの娘の末の甥、見つかっていると良いな」

 「なにせナランハルに探してもらえるような強運のガキだ。助かってるだろうよ」

 「ふむ!違いない!クロムも偶には正しいことを言う!」

 「あ゛!?」


 いつものやり取りをしながら馬を走らせ、前方に明かりが見え始めたところでファンは馬の鞍に尻を落とした。全速力で集落に突っ込むような真似はできない。

 まだ集落なのか、誰かが持つ松明なのかはわからないが、見えたからには速度を落とすべきだろう。


 「ファンー!」

 

 その灯りの方から、聞きなれた声が響いた。


 「ヤクモ!こっちにいたのか!」

 「うん~!」


 馬を駆け足から並足に宥めつつ進んでいけば、手をぶんぶんと振るヤクモと、その隣で松明を掲げるシドが、雪の向こうに姿を現した。

 二人の後ろには幕屋ユルクが並び、馬が繋がれている。雪風が当たらないように不織布と戸板で簡易的な厩が作られていた。

 その様子に、集落で間違えはないらしいと、更に馬の足を緩める。


 「ずいぶん、馬が集まってんな」

 「あちこちの家から、人が集まってきたんだろうなあ…」


 簡易厩に入れられているのは、ヤクモ達が乗る予定だった馬車馬と、仔馬を連れた母馬だけだ。幕屋の数よりもずっと多い他の馬たちは、繋がれもせず雪など何でもないような顔で、置かれた干し草を食んでいる。

 そのほとんどの馬の背には、まだ鞍が置かれていた。少し立ち寄っただけで、すぐに出発するとき以外には必ず鞍は外すものだから、この一家の馬ではないだろう。

 

 「…あれ?」

 「どうした?」

 「いや、この馬たち…」

 「ファン!子供見つかったよ!」


 言いかけたファンの言葉も、浮かんだ疑問も、ヤクモの弾んだ声にかき消された。


 「そうか!!良かったああ…」

 「アスラン軍が来てくれた。その行軍中に見つけて、保護したようだ」

 「アスラン軍が!そっかあ、だから軍馬がいるのか」

 「軍のお馬って、わかるのぅ?」

 

 ヤクモから見れば、皆同じ、おなじみのずんぐりとしたアスラン馬である。言われてみれば、少し体格がいい…気もしないでもない。

 だが、どの馬が軍馬で、どの馬が遊牧民が飼う馬か…混ぜられたら絶対に分からない自信がある。


 「わかんだろ。鬣の切り方とかよ」

 「知らないよ!!」

 「そりゃそうだ。あとは鞍に槍掛けがあるとか、そういうところな」

 「そーやって教えてよ!クロムのばーか!」

 「ああン!?」


 威嚇するクロムを放っておいて、ファンは鞍から地に降り立った。

 改めて周囲を見渡せば、並ぶユルクの先から笑い声が聞こえている。それに混じる涙声の感謝は、迷子の子供の母親だろう。


 「…良かったなあ」

 「ああ。日が傾き始めた頃、最初に出会った娘たちと一緒に来たんだ。日が完全に暮れたら、お前たちの捜索も頼もうかとヤクモと話していたんだぞ」

 「そーだよ!心配したんだからね!」


 二人の外套や帽子には、雪がうっすらと積もっていた。決して短くはない時間、ファンたちを待っていたらしい。


 「ごめん。ありがとな。寒かったろ」

 「寒いけどねぃ。だいじょーぶ!シドと組手したりして待ってたし、あったかい牛乳、ここの村…?村っていうの?とにかく、ここの人がくれたからさ!」

 「お礼言わないとな」

 「牛乳美味しかったし、シドはやっぱり強いねぃ!」

 「それは良い!俺も組手したいぞ!」

 「明日な、明日。俺たちもここの人に挨拶して、家に戻ろう」

 「そうしよう。姉さんにねじ切られるのはごめんだ」

 「…ねじ切るの?」


 不穏な表現に慄きつつ、ファンは立ち並ぶユルクの先へと足を進めた。クロムとユーシンも下馬し、手綱を曳きながらその背を追う。


 遊牧民の幕屋は、円を描くように建てる。

 真ん中は広く開けておく。そこは集会場であり、洗濯物を干す場所にもなり、子供の遊び場にもなる。

 

 ファンたちに気付いたご婦人が、手を振って招いた。びしりと眉間に走っていた皺は消え失せ、満面の笑みを浮かべている。


 「こっちだってわかったのかい?もう少し遅くなるようなら探しに行こうって言ってたんだよ」

 「すいません、御心配かけまして。甥っ子を探してた娘さんがこっちから来たから、家はこっちかなって予想を付けたんですが、あたりでしたね。それにしても、見つかってよかった…」

 「本当だよ!ほら、あの騎士様が連れてきてくれたんだよ!」


 ご婦人が指さす先には、外套を纏い帽子をかぶった、背の高い男の姿がある。

 その前で伏し拝んでいる女性の胸には、小さな子供がしっかりと抱きかかえられていた。

 目元は泣き腫れているが、しきりに手足をばたばたと動かし、母に何かを訴えている様子だ。元気いっぱいなその姿に、寒さのせいではなく鼻の奥が痛くなる。


 「軍が出たなら、お前がでしゃばる必要なないな。任せておこうぜ」

 「どのくらいの規模だろ…さすがに、外套着てたら階級なんかはわからないなあ」


 ざっと見て、騎士らしいのは五人ほど。ふと、そのうちの一人…おそらく、指揮官と思われる騎士が、ファンの視線を捉えた。


 「あー!」


 その口から、声が迸り。

 ファンの目と口が、大きく開く。


 「ファンくーん!!」


 わぁい、と言う声さえ聞こえそうな様子で騎士が駆け寄る。

 両手を大きく広げ、その手がファンに届く、その前に。


 騎士は思いきり、横にすっとんだ。


 「ファン!」


 変わってファンを抱擁したのは、ずっと細い腕。

 見下ろす視界に、女物の帽子が映る。


 ひょこり、と帽子のてっぺんが動き、胸に押し当てられていた顔が、ファンを見上げた。


 杏仁型の、やや吊り上がった大きな双眸。細く、華奢な鼻筋。ふっくらとした、小さな唇。

 そのすべてを、ファンは良く知っている。知らないはずがない。

 だが、何故、ここにいるのか、というもっともな疑問を、本来明晰なはずの頭脳が思い浮かべるより早く、ファンは華奢な身体を、力いっぱい抱きしめていた。


 「ファン、元気だった?お腹壊していない?ご飯食べてる?本ばっかり読んでない?」

 「…うん…っ!元気だよ…!」

 

 声が、喉の奥で詰まる。

 何でここにいるの?何しているの?疑問自体は頭の片隅に沸いては消えるが、声に出せない。

 ただ、彼女の身体を抱きしめ、目をぎゅっと閉じて零れそうになるものを、必死に堰き止める。


 だって、格好悪いよ。二十三にもなって。

 母親に会えて、泣くなんて。


 「あのね、ジャスワンくんから、ファンがここに、今日つくはずですよーって聞いてね、来ちゃったの。ほら、トールはこの前、先に会ったんでしょう?ずるいよねーって」

 

 手袋を外した母の手が、よしよし、と頬を撫で、目元を拭う。その温かさに、いろいろと決壊しそうになったが…何とかファンは耐えた。

 危なかった。後ろにクロムたちがいなかったら、本当に危なかった、と内心に呟き、最後の砦としての役割を存分に果たした瞼を開ける。


 「ファンも、迷子探してたの?大丈夫だよ。ちゃあんと見つけたからね」

 「うん…母さん、手をしまって。凍傷になる」

 「そこまで寒くないよ」


 ついさっき、おのが守護者の過保護さに苦笑したことを忘れ、ファンは母の手を自分の外套の中に入れた。

 もう、と笑いながら、もぞもぞと母が手袋をはめたのを確認し、頷いていると…遠慮がちな声が掛かる。

 

 「あのう、ソウジュちゃん…」

 「なんですか」

 「私も、ファン君をぎゅーってしたいんだけど…」

 「えー…」

 「母さん、親父可哀そうだから…」


 ファンの声に、ソウジュはむう、と頬を膨らませつつも息子から離れた。

 それを見て、「やったあ」と飛び跳ねる父を、ファンは少しばかり渇いた笑いで迎える。


 どうやらファンに駆け寄ろうとしたところを、母にどつかれて横に飛んだらしい。雪に塗れて帽子も落ちている。

 飾り紐と共に編まれた髪も、口許を覆う髭も、雪と泥と枯草に塗れているが、本人はあまり気にした様子はない。


 「ファン君~!一年ぶり~!元気だった?お腹壊してない?ご飯食べてる?本ばっかり読んでない?」

 「それ、さっき私が聞きましたよ。モウキさん」

 「あれれ?そうだっけ?まあ、いいよね!ほら、ファン君、おとーさんだよー!はーい、ぎゅー!」

 「…ははは…」 

 「あれ?なんか、ソウジュちゃんの時と反応違う?もっと号泣したっていいんだよ?お父さんだよ?」


 遥か遠くを見ているような、虚無を覗いているかのような息子を不思議そうに眺めたあと、「まあいっかあ!」と抱擁する腕に力を籠める。

 さらにその上、雪と枯草に塗れた髭を、ファンの頬にすりつけた。


 「は…ははは…親父、会えてウレシーナー」

 「うんうん!!お父さんも嬉しい!あー、ファン君可愛い!可愛い!」

 「そこまでで。嫌がっているんで、止めやがれください」


 ずぼりとご丁寧に一度雪を握って冷やした手が、親子の頬の間に差し込まれる。


 「つべたっ!って、わああ、クロム君だあ!」

 「俺もいます!陛下!お久しぶりだ!!」

 「ユーシン君!いやあ、二人とも大きく…はなってないね!」

 「喧嘩売ってんすか」

 「売ってないよう!でもさ」


 ひゃあ、と手を挙げた拍子に、クロムは主をひっぺがし、後ろに隠した。とてて、とソウジュが放心している息子に歩み寄り、「嫌だったねえ」と慰めつつ頬を撫でる。


 「強くは、なったね!」


 次の瞬間。

 並んだクロムとユーシンの間を、銀の風が突き抜けた。

 

 クロムができたことは、僅かに普段は盾を括りつけている左手を持ち上げられたことのみ。

 ユーシンができたことは、ほんの半歩…いや、それに満たない距離、身体をずらせたことのみ。


 いつ、目の前の人物が槍を受け取ったのか。

 そして、それを突き出したのか。

 

 意識では、全く捉えられていなかった。ほんの僅か、無意識に体が動いた。

 それだけしか、反応ができなかった。


 「うん。一年前なら、目で追うこともできなかったね」


 槍を引き戻し、傍らに立つ己の守護者スレンに手渡しながら、モウキは嬉しそうに笑う。

 

 「強くなった!特にクロム君!一年前とは比べ物にならないよ!ユーシン君はますます磨きがかかったって感じ!このまま二人とも成長していけば、来年には反撃できるようになるね!」


 モウキの言葉に、立ち尽くす二人の防寒具に隠された頬が紅潮していく。

 漏れ出る吐息が白いのは、空気が冷たすぎるせいではなく、息そのものが…いや、息を作る肺腑自体が熱を帯びたからだろう。


 「…なれますか」

 「うん!この私が保証する!」

 

 満面の笑みを浮かべ、モウキは幼いころから知る二人の青年を抱き寄せた。

 うん、男の身体になってきたなあと呟きながら、頬を擦り付ける。


 「モウキさん、それくらいにしなさい。加齢臭が移ったらどうするんですか」

 「ええ~!?だ、大丈夫だと思うんだけど…ねえ?」

 「いえ、臣にはツンとくる真実を告げることは恐れ多く…」

 「してるの!?しちゃってるの!?」

 「かなりツンとしちゃってますよ。もう五十過ぎているんですから、当然でしょう」


 呼びかけられた守護者はす…と視線を逸らし、容赦なくソウジュが追撃する。

 拘束する腕が緩んだのをいいことに、クロムは礼儀正しく距離を取った。ユーシンは抱き寄せられたまま、きゃっきゃと笑って頷く。


 「陛下の匂いは…あれだ!被りっぱなした兜を干した後のようだ!」

 「ユーシン君、それは臭いと言って良いんですよ」

 「俺は嫌いではない!」

 

 そんなやり取りを五歩ほど下がって眺めているヤクモとシドに、モウキは気が付いたようだった。さっきまで嘆いていた顔に再び満面の笑みを乗せ、ずかずかと近寄る。

 その分、二人は一歩退き、助けを求めるようにファンを見た。


 「はじめましてだねー!ヤクモ君とシド君でしょう?トール君から聞いてるよ!」

 「え、えと…」

 「あ、ごめんヤクモ、シド。改めて紹介するな。うちの両親」


 その戸惑いを説明不足故と受け取ったファンが、慌てて二人を紹介しだした。

 違う、そうじゃない、と訴えるより早く、息子の視線を受けた両親は、待ってましたとばかりに口を開く。


 「私は、ファン君のお父さんでモウキだよ!」

 「はじめまして~!私は、ファンのお母さんでソウジュです」

 

 それは、わかっている。見ればわかると言いたい。

 本人も「父親似」と言っていたし、モウキを知る人すべてがファンを見てそっくりだと吃驚するほどなのだ。

 モウキはまさに、ファンの30年後と言っても過言ではない。言われなくても親子だなと一目でわかるし、顔が全て隠れていても先ほどまでのやり取りで察する。


 そうではなく、言いたいのは…


 「あのさ、ファン」

 「ん?」

 「周りの人たち、ものっすごくびっくりしてるけど、いいのぅ?」


 ヤクモの言葉に、ファンとその両親はポカンと目を見開き、全く同じ動作でぐるりと周囲を見渡した。


 先ほどまで子供の無事を喜んでいた女性たちに加え、家の中にいたのであろう人々まで、外套も纏わず出てきて平伏している。


 今、アスランにトールとファンと言う兄弟はとても多い。

 だが、トールとファンと言う兄弟の父で、ソウジュと言う妻を持つモウキと言う男は、ただ一人しかない。


 まして、朝日の髪と満月の双眸を持つ男は。

 八代大王、モウキ・アスライハン・アスラン以外にあり得ない。


 「あー…みんな~起き上がって!寒いよ!あったかいの着てない人はおうち戻って!ほら、そこのおじいちゃん、おばあちゃん!お孫ちゃんも寒そうだよ!恐れ多いって言うなら、命令にするから~。はい、立って立って!」


 ファンと違うのは、こういう時に自分も慌てないところか。

 モウキの声に、遊牧民たちはやや戸惑いながらも立ち上がる。

 心得たもので、守護者や近衛騎士たちが、外套を纏っていない者たちを、そっと家の中に入るよう促して回った。

 

 「いやあ。うっかりうっかり!」

 「ああ、そうだ!親父、軍はどれくらい動かしているんだ?モウスルの町は結構混乱しているんだけど…」

 「大運河沿いに沿って、すべての町に動かしているよ~。一つの町に百人隊を一隊派遣。ここに派遣する部隊にくっついてきちゃった!」


 その部隊の百人長は災難だな、とクロムは思ったが、口には出さずに礼儀正しい沈黙を守る。ファンも一瞬口許が引き攣ったから、同じ感想を抱いたらしい。


 「そうか…そうだよな。俺が思いつくような事なら、とっくに動くよな。うん」

 「ファン君、もしかして名乗り上げてどうにかしようとしてた?」

 「うーん…まあ」


 モウキの表情が、ほんの少し変化した。

 父親の顔から、為政者の…王の顔へと。


 「どういう風に?」

 「町の兵舎を解放して、特に弱っていて、夜を越せない人を収容、それと、街の人に呼びかけて使っていない部屋や家があったら供出してもらえないか呼びかけようと…」

 「うん。やり方は間違っていないね。ただ、今、君の手勢は何人ほど?ジャっ君から、親衛隊騎士十人とフフホト水軍が同行しているっていうのは聞いたけれど」

 「そこにクロムたちくらい…です」

 「水軍は、今どうしている?」

 「水上の治安維持を」

 「なら、君を護る手勢は十五人前後ってところだね。あのね、ファン君。人は落ちかけているときに目の前に垂らされた綱が細ければ細いほど、必死になって縋るんだ」


 穏やかな微笑みを浮かべつつ、しかしモウキの目は鋭く、厳しい。

 

 「今、モウスルに宿も取れず、置き去りにされた人が何人くらいいるかはわからない。けれど、十人より少ないってことはないだろう。

 その人たちは、君と言う綱に必死に縋りつくよ。この機にナランハルとお近付きに、なんて考える奴も絶対にいる。そのうち一人が制止を振り切れば、全員後に続く。普段はそんなことをしようと思いもしないような人でもね」

 「…はい」

 「君だけなら馬に乗って逃げることもできる。けど、今、君には守るべき相手がいるんだろう?ナナイちゃんたちがさ。彼女たちに助けを求める集団が縋りつき、場合によっては危害を加えた時…君は、君の守護者や親衛隊騎士に、民を斬れと命じることはできないよね。きっと、自分でやる」


 ファンは言葉もなく、下唇を噛み締めた。

 父の…王の言っていることは正しい。

 絶望の中、一筋の光を見た集団がどれほど生きるために貪欲に狂うか、知らなかったわけではない。そんな光景を、何度も見てきた。

 

 「ナランハルとして動くなら、そこは自分でやったらダメなんだけれどね。だから、作戦としては十点満点で六点です」

 「…意外と、高い?」

 「方向性は間違っていないからね!準備も物資も何もない中でどうにかしようとしたら、それしかない」


 それでもしょぼんとしているファンの肩に、モウキの手が置かれる。

 そんなわけはないのに、まるで巨岩でも置かれたような重さだと思う。

 

 「さて。ファン君。そんな君に質問です」

 「質問?」

 「今、近くには、百人隊がいます。私の親衛隊騎士も、三十人います。百人隊は、せっせと置き去りにされた人用の幕屋ユルクを建てています」

 「…!」

 「君は、何もせずにいてもいい。けれど、ナランハルとして動くこともできる」


 ファンは、声を飲み込んで父を見上げた。

 

 「さあ、どうする?」


 今後の事を考えるのなら。

 父にすべてを任せた方が良い。


 それで、何かしくじるわけではない。父が自ら動かなくても、すでにアスラン軍は動いている。

 家に戻ってこんなことがあったと報告して、夕飯を食べて、寝台に潜り込んだところで、何一つ結果は変わらない。


 「偉大なる大王ハーン

  

 だが。

 むざむざと自分の浅慮を見せつけられて、まあいっかと納得する事を、ファンの何かが拒んだ。


 それは、普段は邪魔とすら思っている黄金の血統(アルタン・ウルク)であるかもしれないし、両親の前で尻尾を丸めるところを見せたくない、という意地であったかもしれない。


 そちらにせよ、ファンは、雪が積もり始めた地に片膝をつけ、左胸に拳を当てる。

 すぐ後ろで、クロムも同じように膝を付いたのが気配で感じられた。


 「ファン・ナランハル・アスラン。兵をお借りします」

  

***

 

 「凍え死ねって言うのかよ!!」

 

 誰かの罵声が、雪風に散っていく。

 

 雪は止む気配すらなく、ただしんしんと降り注ぎ、風に舞い、体温を奪う。

 今頃、本来なら大都が見えていただろうかと、ぼんやりと男は思った。


 最低運賃の船に乗ったのが間違っていたのか。

 乗っていた船が接岸したのは、桟橋ですらない。運河の畔の何でもない場所だった。

 そこで船員たちは無理矢理に乗客を降ろし…いや、放り出し、岸辺から離れて行った。そこを選んだのは、すぐ近くに方向転換するための池があったからだろう。

 客たちの悲鳴や罵声をものともせず、船はそこでくるりと回り、元来た水路を一目散に下って行った。


 怒鳴っていても仕方がない。二十人ほどの乗客は、船の帆すら見えなくなると、とぼとぼと歩き出した。

 遠くに町が見えている。いきなり降ろされたのは不運ではあるが、荒野の只中に放り出されるよりはましだ。まずは暖かい飯を食って、宿に泊まって、それから馬車を探すなりしよう…そう口々に言いあいながら。


 だが、辿り着いたモウスルの町で、それはとんでもなく甘い見通しだった事に気付く。


 町の規模と比べれば、宿の数、食堂の数はとても多い。大運河沿いの町と言うのは、どこもそうだ。

 しかし…すべての宿の戸には「本日満室」の札が掛けられ、床でいいからと泊めてくれ、と先客が懇願し、宿はそれに沈黙をもって答えていた。


 大きな商会が運航する船は、値段も高いがその分ついた日に宿を探す、などという事はしない。船の運航に合わせて、先んじて宿を抑えている。

 もっと先までいくはずだった船が進めず、宿の部屋を開けずに連泊したことで、空室がでない。宿屋の方も、大商会の船に乗るような客の方が好ましい。

 

 それでも、客室以外にも宿泊を許した宿も何件かあった。しかし、入れてくれるのは女子供に年寄りだけだ。仕方がないと思う反面、なぜ自分はだめなのか、おかしいだろうと、先ほどの男のように叫びたくなる。


 いや、その女子供でさえ、かなりの人数が行く当てもなく、辛うじて雪を凌げる軒下に集まり、震えて過ごしていた。子供のしゃっくり上げる声に「うるせえ!」と誰かが怒鳴り、ますます泣き声が激しくなる。

 

 何が起こったのか。どうしてこうなったのか。

 詳しいことは誰もわからない。だが、多くの船が大運河で詰まり、客が降ろされているのは事実だ。

 何があったのか。大都で反乱が起きたのだと言うものさえいて、男はどうしようもない不安に、外套の裾を握りしめた。


 それにしても、寒い。腹も減った。


 食堂でさえ、もう客を入れてくれない。むしろ店を閉めるから…と追い出している。それで追い出されまいとする客と、どうにか締め出したい店主とで喧嘩が起こり、守備兵がすっ飛んできていたも見た。守備兵もかなり殺気立っている。斬られたものがでるのも、そう先ではないだろう。


 夜を越せるだろうかと、雪の降る空を見上げる。

 もう日暮れはすぐそこだ。夜になれば更に寒さは厳しくなる。

 一晩中起きていれば、自分はなんとかなるかもしれない。しかし、すぐ近くで不安げに寄り添う親子はどうか。身を寄せ合って微動だにしない年寄りはどうか。


 せめて火を起こせれば、とも思うが、火をつけられるようなものは何もない。

 誰かが、柵とかぶっ壊して焚火にしようと言い出し、賛同の声が上がる。それなら、自分も参加しようか。

 死ぬかもしれない哀れな人々を見殺す、この町の奴らが悪いのだ。柵や戸板くらい、燃やされても自業自得と言うものだ。


 目をぎらつかせる男たちのもとに歩み寄ろうとしたとき。

 雪を貫いて、響き渡る音。


 その音に、数人がびしりと背筋を伸ばす。

 男も、無意識のうちに直立不動の姿勢をとっていた。


 響く、角笛の音。

 

 それは、アスラン軍の到着を告げる音。

 数年前の兵役で身に着けた習慣は、まだ男の背筋を伸ばさせ、破壊衝動を霧散させた。


 続く、馬蹄の響き。

 男は必死に、その音に向けて走った。男だけではない。周囲の人々も、糸につられたように動く。


 決して広くも長くもない、モウスルの大通り。

 建物立ち並び、雪を避けられる路地いた男は、その大通りへと飛び出し、見た。


 雪風に翻る、二種の旗。

 赤字に黒く染め抜かれた、鴉の旗。無爪紅鴉旗。

 そして、白地に描かれた花と葉の衣装。サリンド紋旗。


 その旗が風に翻り、掲げられた松明の灯りを受けて鮮やかに存在を知らしめる。


 「ナランハル…」


 誰かが呟いた。否、それは男自身の声だったかもしれない。


 無爪紅鴉旗が掲げられるのは、その軍が紅鴉親衛隊か、二太子ナランハルの指揮下にある軍と言うこと。

 そして、サリンド紋がともにあるという事は、二太子が今、この場にいる、という事。


 先頭を往くのは、ごく普通の外套を纏った青年。

 しかし、松明の灯りに照らされ、その淡い金の髪が輝く。


 それはまるで、闇夜を終わらせる暁の光のようで。

 

 男は雪で滑りながらも、その行軍について歩く。誰もが同じように、男も女も、子供も老人も、灯に導かれるようについて行く。


 ナランハルが騎馬の足を止めたのは、町の中心にある広場だ。


 すぐさま後続の兵が馬から飛び降り、馬橇で引いていた物を組み立てだす。

 それが何かとわかるまで、そう時間はかからなかった。

  

 手早く、無駄なく組み立てられたのは、焚火台だった。木切れを組み、中心に乾いた牛糞か馬糞を入れて火を点けるやり方は、男も兵役時代に散々やって覚えた。

 全部で十基の台が組まれ、火が点けられる。最初は雪に圧されていた炎は、更に燃料が投下されると、赤々と燃え上がった。


 火だ!と駆け寄ろうとする人々を、組み立てていた騎士がやんわりと誘導していく。

 男ばかりの焚火、家族を集めた焚火、女子供、年寄りだけの焚火…最初の数組が振り分けられると、後は自然と自分が属する場所へと進むもので、男も男ばかりの場所へと足を向けた。


 久しぶりに感じる自分の体温以外の熱は、涙が出るほど暖かい。

 少しだけ余裕が出て辺りを見回すと、遅れて広場に到達した騎士たちもいた。

 いや、遅れたのではない。すでに動く力のないものを背負い、肩を貸し、橇に乗せて引き摺り、火の傍へと連れて行く。そうした人々を探していたのだろう。


 「皆、突然放り出されて不安だっただろう」


 声が響く。

 それが本来なら、平伏して顔を見ることもできない相手である、二太子の声だと理解するのに、しばらく時間がかかった。


 「平伏は不要だ。そのままでいい。そのまま、聞いてほしい。俺も、馬上から失礼するしな」


 明るい、少し笑ったような声

 焚火と同じ暖かさだと、男は思う。


 「まず、この災難の原因は、大都付近で起きた船の沈没だ。それにより大運河が一部塞がれ、船の運航に支障がでている。貴方たちを置き去りにしたのは、今後も見通しが立たず、経費が嵩むのを嫌がったからだろう、と思う」


 途中の宿代は運賃に含まれている。遅れが出た場合は、船主が被るのものだ。

 しかし、見通しが立たないほど遅れては、儲けが消え失せる。だからと言って置き去りを許せるわけではないが、原因がわからない不安は解消された。少し、胸が軽くなる。


 「今、町の外に幕屋を建てている。十分な数があるので慌てずに、この後、騎士の誘導に従ってくれ。食事も用意する」


 わあ、と空気が揺れた。

 ありがたい、ありがたいと、すぐ近くの焚火で年寄りたちが手を合わせ、泣いている。男も、雪の積もった地面に覆わずへたり込んだ。


 へたり込みながら見つめるのは、馬上の高貴な方の姿。

 髪を風に晒し、雪を積もらせている。

 その髪の隙間から、真っ赤になった耳が見えた。


 ああ、そうか。髪と瞳を、見せてくれているんだ。


 無爪紅鴉旗と、サリンド紋旗だけではなく、自分の身を晒すことで…二太子ナランハルがここにいると、知らしめるために。

 帽子をかぶり、首巻に顔半分を埋めてもなお、寒いほどの冷気の中で。


 「ナランハル、ありがとうございます!!」


 それに気付いたとき、男は叫んでいた。

 男の声が届いたのか、ナランハルの視線が向く。


 満月の色をした双眸が、照れたように細くなった。


 「ナランハル!ナランハル!」

 「大アスランの栄光に陰りなし!」

 「ありがとうございます!!」


 口々に人々は叫び、手を振り、不要と言われた平伏をする。

 その声は雪風の唸りを吹き飛ばし、雪さえも溶かし。


 寒さに凍えるものは、もう誰一人いなかった。

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