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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
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塩を入れたら溶けるまで(乗り掛かった舟)4

 「いったい、どう言う事だ…いや、何を考えておるのだ!」


 狭い部屋に、怒号が響く。

 叫んでいるのは、豪奢な刺繍が施されたサーコートを纏った初老の男。

 

 アルテ子爵に使える、騎士団長…のはず。

 腰の細剣にいまにも手を掛けそうな騎士団長は、目を剥いてギメル男爵を見据えていた。


 「失敗した、と思っておりますよ。騎士団長殿」


 ベッドから起き上がりながら、本心を吐露する。


 「まさか、たかが村の半分を燃やしただけで…鎮火した翌日もこんなに焦げ臭いとは」


 ちゃんと仮初とは言え自分の陣になる宿屋から、離れたあたりを燃やしたというのに。

 部屋の中にまで臭いは充満し、燻製肉にでもなったような気分だ。

 それでも、今朝の目覚めは悪くなかった。いや、人生でも指折り数えられるほどの爽快な眠りと目覚めだった。


 やはり、俺の本性はこれなのだ。


 燻製肉なら、馨しい木の香りがする煙に巻かれるだろうが、昨晩部屋に充満した煙は、築何十年もたった家と、その中に詰まっていた家具と、人の焼ける臭いで出来ていた。

 己の考えに同調し、ついてきた悪友のほとんどが昨日は食欲もなく、家が焼け残っているというのに野営で夜を過ごしたようだ。

 それを嘲笑いはしない。

 それが、当たり前だ。


 おかしいのは、己だ。


 逃げ惑う村人を槍で突き、剣で斬り、逃げ込んだものがいるのを解っていて、火を放った。

 せめて子供だけは逃がそうとしたのか、窓を開けた幼子を抱いた女に槍を突き立てた時、初めて男になった時と同じくらいには興奮した。

 

 ああ、俺は、こうしたかったのだ。


 魚が水から引き上げられては息ができないように、獣が牙をむくことを禁じられているのは、鼓動を止めろと言われているようなものだ。


 思うままに蹂躙し、血を流し、怨嗟と悲鳴を浴びる。


 それが、このダリントン・ギメルの本来の姿なのだ。

 そこに考えなどあるはずがない。

 魚が泳ぐのに理由などあるか。鳥が飛ぶのに理屈などあるか。

 獣が獲物を引き裂き食らうのは、生きるため。それだけではないか。

 この男はわかっていない。ギメルを同じ種類の人間と見ている。

 そうではないのだ。

 

 このギメルは、そんな当たり前の人間ではない。

 おかしい、狂った、ありえない人間だ。


 「…お前は、何を…何を言っているのだ…」


 ああ、どうやらこの無駄に年を重ねたように見える男、そこまで馬鹿ではないらしい。

 ギメルが自分と違うことに、気付き始めている。


 「こんなことをして許されると…思っておるのか?」


 いや。前言撤回。

 まだ全然わかっていない。

 

 「許す?誰が誰を?」


 だから、少し揶揄ってやろう。もうすぐ終わる人生の最後に、こんな異常な男と関わったことを悔やめるように。

 

 「宰相閣下の後ろ楯のことを妄信しておるのなら…無駄だ。お前程度、当然のように切り捨てるであろうよ」

 「ほう。宰相閣下に許されれば、村人を虐殺した罪が消えると?」

 「だから、その宰相閣下が許さぬと言っておろう!」

 

 ああ、こいつは、馬鹿だ。やはり、馬鹿だ。

 結局、こいつも村人が死んだことなどなんとも思っていない。ただ、とばっちりで自分も罪に問われることを恐れている。だから、宰相などと言うどうでもいい老人のことを口に出す。


 「俺は…そもそも許しなど必要ない」

 「な?!」

 「騎士団長殿。あんたは死ぬのが怖い?」


 目を見開いたまま、騎士団長は一歩後ろに下がった。

 それが、その恐怖が、ギメルを満足させる。

 二人の間には、おそらく30年以上の生きてきた年月の差がある。


 30年前。アステリア聖女王国が滅んだ年。

 悔しいと、常に思っていた。

 そのころに生まれていたら。


 「騎士、とは何のためにいるのか、あんたは考えたことがおありかい?」

 「…突然、なにを…」

 「結局、傭兵も騎士もやることはひとつだ。そうは思わないかい?」

 「き、騎士を愚弄するか!傭兵と同等などと!」

 「おなじだろうがよ」


 ああ、愉しい。

 この、騎士団長として、普段は堂々と胸を張って生きているだろう男が、ギメルの異常さに怯えている。

 くだらんことを、と一蹴することさえできず、ただ怯えて口をぽかんと開けて、白痴みたいに。


 「結局、騎士も傭兵も、いや賊でさえやることは一つ。

 人を殺す。それが騎士の存在理由でしょうがよ」


 騎士道?騎士の誇り?馬鹿らしい。

 そんなものはただの粉飾。欺瞞。偽装に過ぎない。


 「何のために剣の素振りをし、槍を振るう?殺すためだろうがよ。それ以外に何の役に立つというのか」

 「お前は…」


 騎士団長が喘ぐ。ああ、反論も思いつかないのか。仕方ない。馬鹿だもの。

 いや、彼は普通の人間だからだ。

 ギメルのような異常な人間ではないから、粉飾に誤魔化されて真実を見ることが出来ない。


 「俺は騎士の本分を全うしただけさ。ああ、それだけだ。敵の村があったら?燃やすだろうよ!殺すだろうよ!これは戦なんだから!」


 ああ、本当に30年前に生まれていたら。

 いやせめて、20年前。まだ馬にも乗れない子供じゃなかったら。

 

 思う存分、戦を愉しめたというのに。


 敵兵を殺し、味方の屍を踏みつけて駆け回る戦場は、ギメルが在るべき場所だ。

 こんな、人殺しの技を鍛えながらも振るう機会もないような世界は間違っている。

 いや、ちゃんとわかっている。おかしいのは、ギメルの方だ。正しいのは世界だ。

 異常なのは己だけ。だから、世界に拒絶されることを憤ったりはしない。


 だが、ギメルが世界に牙を剥くのも、正当な権利だ。

 これがギメルにとっての「正しい事」なのだから。


 「あんたはこう思っているな?これが知られれば、すぐに討伐軍がやってくる。そして俺は囚われ、極悪人の狂人として処刑されるだろうと」

 「…」


 騎士団長は答えない。言葉を出すこともできないのだろう。


 「だが…それがどうしたって言うのさ?」


 脳裏に思い描く自分の最期。

 

 この戦が王都に伝われば。いや、王都ではなく大きな街でもいい。

 必ず討伐軍が出陣し、正義の旗を靡かせるだろう。

 そこからが、本番だ。本当の戦だ。

 ギメルはその光景を思い描く。数百…いやもしかしたら千を超える兵が整然と行軍し、ギメルを殺しにやってくる様を。

 

 ああ、素晴らしい。これこそ、在るべき場所だ。


 率いてきた兵も、仲間と名乗る連中も、昨日は虐殺と略奪と蹂躙を愉しんでいた。

 けれど、あれらにギメルのような異常さはない。

 普通、とは少しは違うのだろう。抵抗もろくにできない村人を殺せるのだから。

 だが、討伐軍が現れれば、ギメルの軍はすぐに離散するに違いない。無抵抗の村人を殺せても、正規軍を相手取るような異常者ではないからだ。


 そうなると、ギメルは単身でその千を超す軍と戦うわけだ。


 何人道連れにできるだろうか。それとも、矢の雨の中何もできず息絶えるのだろうか。

 いや、ここまでのことを成し遂げたのだ。生け捕りにされて大罪人として王都へ連行されるかもしれない。


 「平和な村を蹂躙し、歴史あるクローヴィン神殿を破壊した大罪人として引き出される刑場の空は…とても美しいのだろうな」

 

 首に縄を掛けられ、後ろ手を縛られて引き出される刑場。

 死罪を言い渡すのは、正義の英雄バルト陛下だろうか。

 その時、罪人には必ず問われるはずだ。

 何故、このようなことをしたのか、と。

 そうしたら、輝くような笑顔で言ってやろう。


 やりたかったからだ、と。


 「…ふ…」


 騎士団長の顔が、伏せられた。

 ふざけるな、と激高する気か。

 まあ、いくら降伏しようと逃げ出そうと、アルテ家が何の咎めもないことはあり得ない。あるとすれば、騎士団が勝手に暴走したと、その首を差し出すくらいだろう。

 つまりこの男はもう、どうしようもない。

 騎士として生きた数十年を汚泥に塗れさせて死ぬ。

 後生大事に抱えてきた騎士の誇りだとかそんなものは、腸からあふれ出た糞に紛れてなくなるだろう。


 「ふ、ふははははは!」


 だが、部屋に響いたのは、哄笑。

 額を抑えながら、騎士団長は嗤う。

 

 「はははは…小僧、お前は勘違いをしている」

 「…勘違い、だと?」

 「ああ、そうだ…ふふ、こんなものが、こんな安全な戦があるわけがない。

 お前は、戦を、死を、勘違いしている。

 いや、勘違い…と言うのもおこがましい。お前は己の死を過大に、人の死を矮小に見ているだけだ。

 ははは、そうだ。当たり前の人間が、当たり前にするようにな!」


 額を覆う指の隙間から、騎士団長の目がギメルを見ていた。その目は怯えではなく、明らかに嘲りを浮かべている。


 「玩具の木馬に跨って、騎馬の名手になったつもりのようなものだ。

 ははは、そんなくだらん空想をしていられるのは精々、十かそこらの年までだと思うがな」

 「…お前の、まっとうな目には俺の狂気が見えないだけだ」

 「くくっ…狂気、狂気ときたか…あまり笑わせるな、小僧」


 額から手を外し、騎士団長は嘲笑を浮かべた顔をギメルに晒した。可笑しくて仕方がない、そう主張するように肩も震えている。


 「お前は、狂っちゃいない。ただ、馬鹿な子供なだけだ」

 「…あんたこそ、馬鹿だよな」

 「!」


 嘲笑の代わりに、騎士団長は苦悶をその顔に浮かべた。

 戦中なのだから、当然起床時であっても剣は手の届くことろに置いてある。

 寝台に立てかけておいた剣を取り、抜き、間抜けな老人の足へ突き立てるくらい造作もない。

 騎士団長の太腿に突き刺さった剣は、大腿骨に添って進み、裏側から頭を出していた。


 「ぐっ…」


 呻きながら騎士団長はしゃがもうとし、失敗して転倒する。その動きでさらに剣が肉と血管を切り裂く。

 みるみる床に広がる血溜りに手を付き、騎士団長は顔を上げた。

 

 命乞いでもするか。まあ、そうだろう。普通の人間は死ぬのが怖い。


 「小僧。一つ助言をしておいてやろう」


 だが、騎士団長が口からひりだしたのは、命乞いとは程遠かった。


 「刑場に引き出される前には、最後に一つ。慈悲を乞うことが出来る」

 「…ほう、つまりあんたにもその慈悲をかけろ、と?」


 苦痛に揺れながらも強い光を、意志を宿した双眸がギメルを見つめ、嗤う。


 「刑場に行く前に小便と糞を出させてくださいと乞うがいい!垂れ流しながら引き摺りだされるという恥を晒さぬようにな!」

 

 嘲り嗤う顔のまま、騎士団長は腰に手を伸ばした。

 抜きはなったのは、一振りの短剣。実用的なものではない。装飾品として腰に差す、装飾過多のものだ。

 だが、白刃は決してなまくらではない。

 その短いが鋭い刃を。


 「お前などに、この死はくれてやらん」


 騎士団長は己の頸に滑らせた。



 「ギメル様!?」

 「…後始末が必要だ。はいれ」


 外で待たせていた侍従がドアを開ける。そして、床で倒れて絶命する騎士団長を見て絶句した。


 「おい、豚はまだ生きているのがいるか?」

 「…は、はい。おそらく…」

 「この爺を餌としてくれてやれ」


 侍従たちは顔を見回せ…そして黙って騎士団長の遺体を持ち上げた。穴の開いた水袋のように、首の傷から新たな血が零れる。


 「…この部屋が一番まともな部屋だったのだが、変えるしかないな」


 まったく。面倒くさい。

 いくら異常者だとて、歩くたびにべとつくような床の上で過ごしたいとは思わない。

 ただ、それだけだ。決して、それ以外の理由で部屋を変えたいわけではない。


 そう呟くギメル男爵の手は、細かく震えていた。



***


 息が、苦しい。

 足が、重い。

 それでも、手を振り、足を前に出して、前へ、前へと進む。

 走っているつもりだが、実際は夢の中のようにその場で足掻いているだけなのかもしれない。

 だが、そうだとしても、わずかでも前へ進んでいるのであれば、足を止める理由にはならない。


 早く、速く、はやく。

 

 伝えねば。知らせねば。逃がさねば。

 ぐるぐると頭を回るのは、その使命感だけ。


 神殿からの脱出に使った抜け穴は、自分が入った後固く閉じられた。だから、神殿はきっと無事だ。

 目指すのは、身を護るすべを持たない人々が暮らす村。

 一番近くの村は、助けられなかった。神殿の尖塔から、黒煙を上げる村が見えた。

 外の畑に出ていた村人が助けを求めて神殿に駆け込み、何が起きたかを叫ぶ。


 兵隊が、村を、襲っている!


 恐慌状態の村人の様子を見た司祭長は、すぐさますべての門を閉ざし、鉄柵を降ろすように命じた。

 クローヴィン神殿は多少錆びてはいるが全ての門に丈夫な鉄柵が備えてある。ぐるりと神殿を取り囲む壁も、城壁と言って差し支えないものだ。

 逃げてこれた村人は、僅か六人。

 村人たちが気軽に出入りする一番小さな門は、神殿に奉仕に来ていた男衆で固めながらしばらく開けたままにしていたが…それは徒労に終わった。

 その後、誰もその門から逃げ込んできては、くれなかった。

 

 そして彼らは尖塔から、立ち上る黒煙を、見た。

 その煙を背に、神殿へ進む甲冑を纏った群れを、見た。

 

 彼はきっと、一生その時の恐怖と絶望を忘れられないだろう。

 まだ若い神官は、20年前の内乱を知らない。その頃はほんの子供で、クローヴィン神殿に引き取られた孤児だった。

 だから、その群れの意味も、神殿に向かってくる意図も、理解できない。


 あの人たちは、何をしている?

 なんで、こちらにむかってくる?


 村人の言う「兵隊」が、押し寄せてくる群れなのだろうということは、うっすらとわかる。だが何故そんなことが起こったのかを理解するのは、彼のそれまでの人生は平穏に過ぎた。

 

 まず、立ち直ったのは老齢の司祭長である。

 司祭長はアスランの侵攻も、内乱も経験していた。

 特に20年前、反乱軍が聖王軍の手が守り切れない場所を、どれほど蹂躙していったかよく知っていた。


 あれは、そういう輩だ。


 血を吐くような声で司祭長は呟く。

 それから直ぐに避難の為に開けておいた門を閉めるように指示し、最後にその門から彼の同輩を脱出させた。王都へ救援を求めよ、と。


 同輩は、襲われた村の出身だった。


 何とか街道まで辿り着けば、旅人にこの凶行が伝わる。そうすれば、大神殿へ救援を求める報は伝わるはず。

 生まれ育った村が燃え、そこに一人暮らす母がいてもなお、同輩は村へではなく、街道へ向けて馬を走らせた。辛くないはずがない。悲しく、苦しく、恐ろしくないはずがない。

 それでも、彼は嘆くより、悲しむより、怯えるより、走ること選んだのだ。

 

 ああ、女神よ、アスターよ、どうか、どうか彼を、村人たちをお守りください…!


 一番遠い村は、あの恐ろしい男がやってきた方角だ。だからもう…手遅れになっている可能性が高い。

 司祭様は泣きながらそう言った。一番北の村は規模が大きく、小さな神殿もある。その神殿長は司祭様の直弟子だった。優しく、おおらかな大神官。食いしん坊で、パンを一度に十個食べたことが自慢なのに、冬になると急に少食になった人。

 その顔が一瞬でも脳裏に浮かぶと、不安で胸が苦しくなって、頭が痛くなって、絶叫したくなる。


 走り続ける彼が目指せと指示されたのは、一番東の村だ。普段は驢馬車に乗って向かう場所。積んでいくのは、子供向けにしたアスターの聖典で、村の子供たちに読み聞かせ、地面に書かせて字を教えている。


 月に一度、十日の旅程だ。二日掛けて村に行き、六日滞在して、二日掛けて戻る。

 修行のひとつではあるが、決して苦しい、面倒くさいと思ったことはなかった。

 急げは朝に出て、その日の夕方には着く。けれど、そこをあえてのんびりと驢馬車で行けば、なだらかな丘陵の景色は素晴らしく、野宿も楽しいとさえ思っていた。


 川の向こうの遊牧民たちが追い払うせいか、この辺りには狼もめったに出ず、出ても人間を警戒して近付いてこない。人間を襲えば手痛い報復を受けると、このあたりの狼たちは親から子へと教えるのだと、遊牧民の老人は語っていた。

 いまの狼の家系を絶やさなければ人は襲われない。稀に山羊が襲われれば、襲われた数だけ狼を狩る。そうすると、また山羊に手を出さなくなる。

 全滅して他の群れがやってくると厄介なので、冬の餌が乏しくなる時期には、人が捌いて肉をとったあとの山羊を決まった場所に置いてくるのが決まりだ。

 どれほど厳しい冬で、食料が乏しくとも決して絶やしてはならない掟。もうそれを何世代、何百年続けているのか、長老ですら知らない。

 そうしているうちに若い狼の中には、飼っている番犬と番うものもいる。

 生まれた狼犬は、最上級の絹毛山羊よりも高く売れるのだとか。

 

 あの仔犬、可愛かったなあ。


 記憶の中の、ふわふわとした毛に覆われ、太い手足で転げまわる仔犬の愛らしさに、苦しみが一瞬和らぐ。

 それは、いわゆる走馬灯であり、彼の限界が近付いている証左ではあったが。


 神殿を出て二日が過ぎていた。村から上がる黒煙を、神殿を囲む鉄の鎧を纏った群れを見てから、四日。


 追手を撒き、身を隠し、夜はわずかな岩陰や枯草の隙間に身を横たえて浅く眠った。まっすぐ走ればもう村についているが、それはできなかった。そんなことをすれば追手に村の場所を教えてしまう。

 今日まで追手を躱しきれたのは、彼がこの地に土地勘があるから。それだけだ。追手はいたが、見つけたのは常に彼の方だった。

 追手がいれば身を隠し、避けて進む。それを助けてくれるのは、クローヴィン地方を構築する、無数の丘陵だ。

 土地は痩せ、耕作にも牧畜にも向かない荒野(ムーア)は、川が肥沃な土を運んでくる僅かな一帯だけが農地として利用でき、麦が実る。

 村々と神殿は行き来があるが、頻繁なものではない。すぐに荒地草エリカに覆われ、足跡も轍も消えてしまう。

 彼や同輩のように、荒野の中で育ったものでなければ、目的地へは辿り着けない。

 まともな道がないことは不便ではあったが、今はその不便を敢えて残した先達に感謝しよう。

 

 あの丘を越えれば、村が見えるはず。

 

 丘の上には、テーブルのような岩があって、春や初夏には子供たちを連れてそこで授業をした事もあった。

 その岩は、いつもと変わらずそこに在る。

 だが、村は。村はどうか。時間がかかってしまった。夜を越えてしまった。もしかしたら、もう。

 震える足で丘を登る。もうしばらくすれば雪がそれを邪魔しただろうが、まだない。

 膝まである枯草を踏みしめ、ときには手で掴み、ただその先を見るために、前へ。


 黒煙が、あがっていたら。

 

 その不安が目を閉じさせる。いや、本当は開いているのかもしれない。けれど見たくて、見たくない。

 その先にあるものを早く、一瞬でも早く確かめたいのに、見てしまいたくない。

 

 ああ、アスター様…アスター様!

 

 壊れたように信じる女神の名を繰り返しながら、ついに彼の足は、丘の上に立った。


 「…!!!!」


 涙が、もう出ないと思っていた涙が、あふれ出る。

 そろそろ夕焼けに包まれつつある村は、記憶の通りだった。

 家々から立ち上るのは、炊事の煙だ。

 命を奪う黒煙ではない。


 無事だ。


 まだ、無事だ。涙をぬぐい、一つ頷く。

 吹き抜ける風が、熱いのか凍えているのかわからない体を撫でていく。

 ただ涙を流しながら、彼は丘の上に立っていた。

 

 「え…?」

 

 トン、と背中を押されたように感じた。

 足の裏から枯草を踏む感触が消え、全身を風が覆う。


 いや、風…じゃない。


 落ちている、と知覚した瞬間、彼の身体は枯草の上に叩きつけられ、そのまま斜面をゴロゴロと転がり、窪みに嵌って止まる。

 そこで初めて、肩で痛覚が弾けた。

 震える手で痛みの元を押えれば、生暖かい感触が伝わる。それが血だと気付くのに、数呼吸要した。


 「…!!」


 叫ぼうとした口を、反対の手で塞ぐ。

 何故、血が出ているのか。それはわからない。

 けれど、それがなぜ起こったのかは、わかる。

 震えながら自分が立っていたはずの場所を仰ぎ見れば、馬影が…五つ。次々に躍り出てきていた。


 追手だ。

 ついに、彼が、見つかってしまった。そのことを理解する。


 「おいおい、兎よりかは的が大きいぞ?外すなんて」

 「風だよ、風が悪かった」


 はしゃいだ声。それは、間違いなく、はしゃいでいた。人を撃ち、血を流させながら、はしゃいでいた。


 「まあ、それよりも、だ。巣穴を見つけたぞ」


 手に持つ弓で指すのは、きっと東の村。


 「我らだけで狩れそうではあるが…そうすると後が怖いな」

 「ああ。あの兎だけにしよう」


 神官は目を見開き、アスターの聖名を唱えた。


 ああ、アスターよ、夜明けの女神よ、あの者たちは…

 なんなのですか。人、なのですか…?

 

 おそらく貴族か騎士の子弟であろう彼らは、わざと彼に聞かせるために話している。

 何故か。もう一度弓を撃てば殺せる…そうでなくても、放置すれば死ぬであろう彼に向かって、すぐに矢を向けないのは。

 甚振りたいからだ。

 悪意をぶつけ、彼が恐怖し、絶望するのを楽しみたいからだ。


 背後から西日を受けているせいで、彼らの顔は、表情は見えない。

 けれど、きっと、にたにたと。

 嗤っている。


 「…っ!!」


 この顔が、悪意が、あの村に向けられるのか。

 神官団が来ると誰もが親しげに挨拶してくれて、決して楽な暮らしではないのに毎回お布施を用意してくれた。

 それを受け取らずに帰っても、後から荷物から出てきて驚いたこともある。

 子供たちは勉強嫌いと言いながらも、アスター様の説話を始めると身を乗り出して聞いてくれた。


 あの村の人たちは、そんな人たちなんだ。

 兎なんかじゃない。人間だ。日々を生きる人だ。


 若者たちはまだ何か言い合っている。だが、その声は風に巻かれ、彼の耳には届かなかった。聞きたくもなかった。


 女神アスター、慈悲深き御方。私は、あなたの御許へは向かえない。


 死んだのち、魂は信じる神の許に行き、そこで生まれ変わるか、御使いとなるか、地底深くにある獄に堕とされるか決まるのだという。


 だが、私はその前に、彷徨う亡霊になりたい。


 村へ伝えなくては。逃げろ、と。たとえ亡霊の声でも、誰か一人にでも届けばいい。この悪意から、村人たちを遠ざけられるなら、なんにでもなろう。

 死は、避けられない。それは、もういい。

 弓を構えているのが、逆光でもわかる。五人全員だ。 

 目は、閉じない。閉じてなど、怯えてなどやるものか。

 

 そう思い、見開く視界が、翳った。


 「…え?」


 呆然と呟く声が自分のものだと気付いたのは、直ぐ近くにへし折られた矢が落下してから。

 神官は、目を限界まで見開いて、それを見た。


 風にか、動きにか、ひらりと翻るのは、剣の柄頭から伸びる布。

 柄を握るのは、革の手袋(グローブ)に覆われた手。神官のそれよりも二回りは大きく見える手が握りこむ柄は、もう片手を添えられる程度には長い。

 剣の鍔には何の装飾もなく、そこから伸びる刀身は、ただ武骨に長く、分厚い。

 

 「生きているか」


 神官に背を向けたまま放たれた声は、しかし、意外にも若かった。


 「…は…」


 剣が下段に構えられ、その動きに応じて体が開く。

 完全に背を向けていた体勢から斜めを向く姿勢となり、僅かに顔が振り向いた。


 夕陽で染めたような、赤髪。

 中途半端に長い前髪を鉢巻で押し上げた、その下の薄い青(アイスブルー)の双眸が神官を見る。


 「…はい…っ」


 助けて、くれた。

 この人が、助けてくれた。

 破裂するような感情のままに、神官は口を開ける。


 「お願いです!村へ、村へ、報せてください!逃げてと!」


 言葉になって飛び出したのは、感謝でもなく、神への祈りでもなかった。

 ただ、四日間抱きしめて走った、願い。

 転がって理解した。もう自分は走れない。動けない。

 だから、だから、代わりにどうか。

 自分など、放置しておいてくれていいのだ。ここで彼らに殺されたってかまわない。それよりもずっと、大切なことがある。


 「村へはもう知らせてある。カイト…という神官から話は聞いた。連れが、大神殿に向かっている」


 ドクン、と心臓が大きく跳ねる。

 カイト。同輩の名。その名前を知っているのなら。


 「明日にでも、王都に到着するだろう」

 「…っ!…、…。…ッ!!!」


 言葉は、出せなかった。

 頭の中にも、胸の内にも、言葉はない。

 ただ、感情の奔流が荒い呼吸と嗚咽になって、咽喉と鼻と目からあふれ出る。


 「怪我をしている。動かない方が、いい」


 若い声に、やっとのことで彼は頷き、両手を震えながら組み合わせた。

 

 女神アスター…!


 紡げた言葉は、ただそれだけ。声に出せたかどうかわからない。

 けれど、彼の生涯で、その聖名よりも重い言葉は、きっとないだろう。


 

 「傭兵か。狩りの邪魔をするな。興が削がれる」

 「まったくだ。どこから沸いてきた」


 追手は、口々に罵る言葉を発するが、その声は僅かに上ずっている。

 神官を狙うのに夢中でよく見てはいなかったとはいえ、凄まじい速さで射線に割り込み、矢を切り払ったその動きを、まったく彼らは捉えられていなかった。

 それは、剣を構え、彼らに向かう「邪魔者」が、かなりの手練れであることを意味する。

 だが、その事実を、彼らは軽視した。

 丘の下、神官を庇うように立つのは、ただ一人きり。


 身形は、典型的な傭兵のそれだ。

 構える剣は、大剣というほどではない。しかし、長剣にしては長く分厚い。特徴的なのは、長剣にしては長すぎる柄。

 バスタードソード。両手でも片手でも振り回せる、傭兵の好む剣だ。

 マントや外套は身に着けておらず、草臥れた長袖の服の上に革鎧を装着している。かろうじて、胸と鳩尾を覆う部分だけは金属で補強してあるが、輝きはなく、使い古されたもの。


 なにより彼らを侮らせたのは、その傭兵の顔だった。

 若い。少年をようやく脱して、青年になりかけた程度の歳にしか見えない。

 あと数年たてば男前と言われそうな顔立ちだ。だが、今は未だ、若さが勝っている。


 もし、彼らが「経験」というものをもう少し積んでいれば、傭兵の若さを逆に警戒しただろう。

 死角から走り込み、その勢いのまま矢を切り払った剣技と、馬に乗った五人の敵を前にして、欠片ほどの恐怖も気負いもない双眸。


 それは、傭兵の若さに釣り合っていなかった。

 釣り合わない、不自然なものは警戒すべきもの。

 そう判断できる「経験」は、彼らにはなかった。


 「おい、お前。今すぐ頭を擦り付けて謝罪せよ。薄汚い傭兵が、我々の前に立っているなど無礼であろう」


 一番身形のよい騎手が、居丈高に弓を向ける。


 「我らは全員騎士だぞ?」

 「そうか」


 返答は短く、だが、彼ら望むものではなかった。

 傭兵は剣を構えたまま、微動だにしない。

 だがそれを、彼らは別の意味に解釈した。

 ああ、恐怖で動けないのだな、と。

 左右の仲間に目配せを送り、にい、と笑う。


 「兎もいいが、狐狩りも悪くはない!」


 弓に番えられた矢は、ゲラゲラと言う笑い声と共に、傭兵に向けて放たれた。

 飛来する矢を斬る、などということは、当然難しい。

 先ほどの剣技はあくまで偶然、闇雲に剣を振り回した結果だと、彼らは思いこんだ。

 まして、受け手は夕陽を真向かいに見る位置。さらには丘の下。

 例え放たれた五本の矢のうち、まともに向かってきたのが二本だけだったとしても十分な脅威だ。


 「…!」


 だがその思い込みは、長くは続かなかった。

 その長さからは信じられないほど素早く円を描くように振られた剣は、偶然などではなく、狙いすまして矢を斬り落とす。

 そして、それと同時に。

 傭兵剣士の足が、地を蹴る!


 「あ、アイツ、逃げるぞ!」

 「逃がすな!」


 リーダー格の言葉に、残る四人は反射的に馬の腹を蹴った。

 傭兵剣士は、丘陵の横を掠めるように駆ける。剣を肩に担ぎあげ、草を巻き上げながら。

 その動きは、彼らから逃げているようにしか、彼らには見えなかった。見せつけられた剣技も何もかも、「逃げた!」という情報に上書きされ、頭から消え去る。


 斜面を駆け降りる馬の速度は、弓を持ち続けることすら困難にする。

 馬を走らせながら弓を射る、などということはもちろんできない。やったこともなかった。弓は馬を止めて射るものだ。

 手綱を掴むのに邪魔になると思い、一人が弓を投げ捨てる。それを横目に見て、残る四人が真似をした。

 弓を捨てても帯剣している。馬で回り込み、剣を抜いて囲めば惨めに命乞いを始めるだろう。

 そう彼らのリーダー格は思っていたし、馬の速度に何とかしがみつくのがやっとのもの以外は、同じように考えていた。


 結果として、飛び道具と、夕陽を背にした立ち位置と、高所を、彼らは捨てた。

 

 (釣れた)


 視界の端に獲物を見つつ、傭兵剣士は一つ頷く。

 馬の速度を、五人のうち三人は御せていない。駆け降りた勢いのまま、馬は荒野へ向けて駆け抜けていく。何かわめいているが、あれは後回しで問題ないだろう。


 右足を軸に、ぐるりと身体を反転させる。

 仲間の醜態を見て口を開いた男に向かい、傭兵は左手を振った。


 「っぶっ!!?」


 それは、走りながら掬い取った泥土だ。

 木の根や枯草が混じったそれは、狙いたがわず男の開いた口に叩きつけられる。

 咄嗟に防ごうとしたのか、掻き出そうとしたのか。

 ともあれ、男は両手で顔を押さえた。手綱を握ったまま。

 斜面を駆け降りた速度のまま、いきなり手綱を引かれた馬は驚き、苛つき、前脚を跳ね上げた。一日中走らせられて、不機嫌だったこともある。 

 そして、口の中に泥を詰め込んだまま、突然棹立ちになった馬を足だけで御せるほど、彼は馬術に巧みではなかった。

 落馬した男が悲鳴を上げるのを見て、傭兵は再度頷く。


 (確保)


 おそらく、死んではいないだろう。

 万が一死んでいた時の為に、もう一人くらい確保した方がいいだろうか。

 まあ、あれだけ声が出るなら大丈夫だろう。折れた肋骨が肺に刺さっていれば声は出ないし、それ以外ならすぐには死なない。問題はない。


 ぐ、と下半身に力を籠めて、意味のないわめき声をあげて突進してきた騎馬の斜め前へと、駆ける。

 馬上の敵への、すり抜けざまの一撃。

 剣に加わった感触が、狙い通り騎手を斬ったことを持ち主に教えた。

 脇腹を裂かれ腕を斬り落とされた騎手は、当然騎乗したままではいられなかった。

 どう、と音を立てて落下し、馬はその横を、手綱を握った手だけを乗せたまま走り去る。


 「な、なにが…」


 ようやく馬を宥め、馬首を転じた三人が見たのは、地に転がるリーダーと仲間の姿。

 斬られた仲間は生きてはいる。だが、それは動いて藻掻いている、生きてはいる、だけ。

 喚きながら抑えている脇腹からは血があふれ出し、その抑えている手も右手は肘先からない。纏わりつくような熱のこもった生臭さが、離れた彼らにも届く。

 血と糞尿と、死が混じった臭い。

 まっとうな神経をしているものならば身が竦み、恐怖に精神を塗りつぶされる臭い。


 「あ…あ、あああ…」


 彼らがもうすこし「経験」を持ち合わせていたなら。

 馬の腹を蹴って、一目散に逃げるという行動に移れたかもしれない。

 だが、初めて叩きつけられたその臭いは、彼らの身体の支配権を奪っていた。

 ただ震え、涙と鼻水をこぼし、鞍を汚しながら、彼らは貴重な数瞬を無駄にし。


 飛来した矢が、その数瞬を永遠に変えた。


 うん、と頷き、傭兵は剣から血を掃う。鞘はもってこなかったから、抜身のまま地面に突き立てた。

 向かうのは、負傷した神官。

 軽く見た限りでは、致命傷ではない。けれど、かなり消耗しているように見えた。


 おそらく彼も、限界を超えて走り続けていたのだろう。

 矢が肩を貫通していても、手当するより先に進んだ、彼の同輩のように。


 「痛みはあるか」


 祈る姿勢のまま動かない神官に声をかける。膝を折って前にしゃがみこんで顔を覗き込むと、視線が返ってきた。

 経験上、痛みがあるうちは何とかなる。感じなかったら危険だ。


 「…耐えられます」 


 ぐしゃぐしゃな顔で、神官は頷く。耐えられるのなら、痛いということだ。

 傭兵はその安堵を口許に乗せた。


 「ありがとうございます…ありがとうございます…!村を、助けてくれて…っ!」

 「…悪いが」


 ぼりぼりと後ろ頭を掻く。泥を握った方の手で掻いたことに、土がぱらりと落ちてから気付いた。


 姉さんが、怒る。


 それは口許の笑みを消し去るには十分な予測だったが、やってしまったことを気にかけても仕方がない。

 それよりも、もっとひどいことを、神官に告げなければならないのだし。


 「まだ、助けられたわけじゃない。村の規模が大きい。全員避難させるのは無理だろう」


 森があればそこに隠すこともできただろうが、広がるのは丘陵だけ。

 気温が冷え込む夜を野外で過ごさせれば、最悪凍死者が出る。

 そこを襲撃されれば、間違いなく全滅する。


 「…いいえ、いいえ…」


 神官は、強く首を振った。その動きに、血の染みが広がるが、気にした様子はない。


 「それでも、貴方は、恩人です」

 「そんなたいそうな者じゃない」

 「少なくとも、私は命を救われた。恩人様、お名前をお教えください」

 「む…」


 少々困っていると、神官の双眸から光が薄れていく。


 「おい、しっかりしろ。辛いだろうが、意識を保て」

 「名前…お名前を…教えてください…」


 譫言のように呟かれた言葉に、再び傭兵は頭を掻き、土で髪を汚した。


 「シド。シド・ライデン」

 「シド様…」


 呟く神官の顔色は白い。失血と安堵で急速に意識が薄れてきている。逃避行の消耗もあるのだろう。

 そうして意識を失って、二度と目覚めなかったものを、シドは何人も知っている。


 「…おい!」


 腕をつかみ、頬を軽く張るが、神官はゆらりと身体を震わせただけだった。


 「くそ…」


 命を奪うのは簡単だ。剣を振ればいい。だが、助けるのは難しい。どうしたらいい?

 腰のポーチに詰まっている魔法薬のうち、治癒薬と強壮薬、どちらを使うべきか。

 いっそ、どちらも飲ませるべきかと手を伸ばした時、ゴツンと頭に衝撃が走った。


 「シド。そのまま抑えている。余計なことはしない」

 「姉さん」


 いつの間に後ろを取られたのか。

 丘陵を渡る冷たい風に、まっすぐ長い赤毛が流れる。

 伏し目がちの薄青の瞳は、すでに弟ではなく傷ついた神官を見ていた。


 「アスターの信徒。大海の主(ダロス)の御業は効果が薄い。だが、魔法薬よりは良い」


 何かを受け取るように両手を合わせる。姉の白いが細くも嫋やかでもない指と掌で作られた皿に、輝く水面が顕れる。


 「大海の主よ…その絶えなき生命の一滴を、傷つくものへと与えたもう…」


 祈りと共に姉は手を傾け、神官の傷口へと輝きを流し込んだ。


 「…あっ!」


 びくりと神官の体が震え、双眸に光が戻った。きょときょとと瞳が動き、覗き込む薄青の双眸に止まる。


 「動かない。完治してはいない。蜂蜜を入れた湯等を食してから寝る。良いな」

 「あ、はあ…あの、あなたは…」

 「ガラテア・ライデン。シドの姉。大海の主(ダロス)の神官だ」


 低く、落ち着いた声が名乗る。

 大海の主。確か、北の方で信仰される海の神の名だと、靄がかかったような頭で神官は呟いた。

 なら、さしずめ彼女は海の妖精(セレーナ)か。

 赤い髪は少々イメージから外れるが、伏し目がちの大きな瞳や、細く整った鼻筋、小さいがふっくらとした唇は、海の泡から生まれ、波間に遊ぶという妖精に相応しかった。


 「村へ運ぶ。シドは向こうを手伝え」

 「わかった」


 ひょい、と何事でもないように神官を抱え上げた姉に頷いて、シドは立ち上がった。

 神官が藻掻いているような気がするが、姉の腕力ならばとり落としたりはしないだろう。怪我人を抱えていても、おそらく日没までには村に着く。


 剣を突き立てたほうへと足を向ければ、騎乗した影が六つ。

 ただ、乗っている馬は追手らの乗馬より二回りは小さい。


 「馬が捕れタ。傷付けなかったコト、感謝スルな」


 騎乗しているのは、三十代から五十台ほどの男たちだ。

 毛皮で縁取られた立襟の服は、明らかに西方のものと異なる。手には短弓を持ち、手綱は握らずに足だけで馬を動かしている。


 フラガナの民。


 山羊を飼い、灰色の丘陵を行き来する半遊牧民。彼らの馬術は、「追手」であっただろう一団とは比べ物にならない。乗り手を失った馬たちを、あっという間に落ち着かせていた。


 「ちょっとばかリ、待ってクレ」


 ひらりと馬の鞍から降りると、男たちは死体を皮袋に詰め始めた。一番遠くまで駆け去っていた手首だけを鞍に乗せた馬も、一人が連れてくる。


 「こいつ、まだ生きてイル」

 「かまうな。すぐ死ヌ」


 脇腹と右手を斬られた男は、もう微かな呻きを漏らすだけだった。それを気にせず、袋をかぶせる。最後に手綱を掴んでいた手を、その中に放り込んだ。


 「死体を、狼が喰ウ。人の肉の味を覚えタラ、殺さねばなラン」

 「そうか」

 「ああ。焼き岩で、燃やス。アンタは、コイツと村へ戻レ」


 一番年嵩の男が弓で示したのは、肩を押えて荒い息をする追手のリーダーだ。

 フラガナの民が一人近付き、死体と同じように袋に詰める。おそらく痛めた個所に触れたのだろう。絶叫があがるが、誰もそれに気を止めない。


 「あんたたちは…戦場の経験があるのか?」


 その手慣れた様子に、シドはふと思った疑問を言葉にしていた。


 「アスラン軍に従軍しタ。それに俺たちハ、自警団ダ」

 「自警団…」

 「灰色の地ハ、税の取り立てはナイが、守っても貰エン。フラガナ王国の時代カラ、己ノ身は己で守ルのサ」


 髭面を緩ませた男は、だが、と首を振った。 


 「俺たちガ戦えルのは、精々五十までダ。装備が整っタ百以上の相手ヲ、女子供守りながらハ、できン」

 「そうだろうな。それは、無理だ。俺にもできん」

 「村の連中ハ助けタイ。女子供ダケでも、うちの村へ逃がすカ?」

 「そうだな」


 彼らは、あくまで斥候だろう。いや、斥候ですらなく、暇つぶしに遠乗りに出かけたら村を見つけただけに過ぎないのかもしれない。

 服装は厚着ではあるが平服で、防具の類はない。これで斥候だというなら、完全になめ切っている。それに助けられたともいえるが。

 先に出会い、助けた神官が言うには、神殿を囲むギメル男爵軍は甲冑で武装していたそうだ。秋の陽射しをはじく鋼色の群れを見て、怖くてたまらなかったと言っていた。


 その連中が、此方へ向かってくるかどうかはわからない。

 だが、やってきたら。

 それを危惧したからこそ、神官は命を懸けて走ったのだから。杞憂には終わってくれないだろう。


 フラガナの民が使う短弓は、連射はきくが威力はそれほどでもない。騎士の甲冑を貫くのは難しく、機動力を生かして翻弄することはできても倒すことはできないだろう。

 半数でも、囲む兵を此方へ向けられれば…。


 (俺が考えても、無駄か)


 頭を使うのは得意ではない。知っている情報を並べても、判ることは攻められたら負ける。それだけだ。

 負けない為にどうすればよいか。少し真剣に考えても、出てくる答えは「死ぬほど頑張る」くらいで。

 考えるのは、シドの役目ではない。それはあの、うさん臭い護衛対象の仕事だ。

 彼がさらさらと絹布に書き記した書状は、フラガナの民が懐にしまって走り去った。


 シドたちが信用されたのも、絹布の書状のおかげだ。

 書状というものは羊皮紙か、東方諸国に広く流通している紙に書き記すものだ。だが、アスランやカーランでは、大切な書状は絹に記すのだと、シドは初めて知った。

 絹布と一括りにしても、その値段の差は大きい。

 高価なものは買おうと思っても触る事さえできないし、安価なものなら今回の依頼料で、短衣の一着分くらいは買えるだろう。

 もっともシドには、一月は生活できる金を布に変える意味は解らないが。

 

 姉は、絹服が欲しかったりしたのだろうか。


 ふむ、と考えてみるが、たぶん姉ならその分酒を飲ませろと言うような気がする。

 とにかく、絹の書状というのはそれだけで大層な代物で、身分が高いものが同等以上の相手に送るものなのだそうだ。

 それに加えて、「星竜の守護者(オドンナルガ・スレン)からだ」と言えば問題ないと護衛対象は言っていた。

 

 昼過ぎ、突然現れて、馬から降りた…と言うか、九割落馬だった…傭兵姉弟に、当然ながら村人たちは警戒した。

 遠巻きに囲む村人たちと、どう切り出したものかと考えつつ、揺れない地面にへたり込む二人は、結構長い時間そうして過ごしていた。

 変化があったのは、村の若い衆が棒を持ち、フラガナの民を伴って囲みから踏み出してきてからだ。

 なんと言えば良いのか。襲われるかもしれないから逃げろ、などとそのまま言うのはたぶん良くないことなのだろうな、と思っていると、ガラテアがさっさと書状を差し出した。


 「オドンナルガからだ」と堂々と姉は言い放ち、フラガナの民に緊張が走った。それはそうだろう。アスランの第一王子からの書状が、こんな村に届くはずがない。

 第一、差出人は「オドンナルガ・スレン」であって、その主ではないのではないか。


 それでも贋物、と決めつけずに村長の手まで書状が渡ったのは、直ぐに見てわかる絹の光沢がなせる業だろう。

 よく考えれば、書状は援軍を求めに行く先に渡すもので、立ち寄った村に警戒を促すものでもなかったと思う。

 だが、放置すればこの村が落とされる可能性は高く、それを見過ごすことはできない。

 

 戦は、飯のタネだが。

 家が燃えるのは、嫌いだ。


 幼い頃に見た、きっと一生忘れられない光景。

 炎に包まれる生まれ育った町。燃えていく人々。両親。兄妹。

 

 防げるなら、全力を尽くす。あんな光景は、二度と見たくはない。

 ここで生きている人々は、誰かの両親で、子供で、きょうだいだ。

 ここに居ない誰かの友人かも知れないし、恩師だったり弟子だったりもするだろう。

 その絆を、ただの遊びで燃やされていいはずがない。


 タタル語の読めるフラガナの民が更に呼ばれて、漸く書状は紐解かれた。

 クローヴィン神殿が囲まれ、最も近くの村が壊滅したと思われること、周辺の村にもその災いが及ぶ可能性が高いことが、まずは簡潔に記されていた…そうだ。

 何しろ、シドにも姉にもタタル語は読めない。一年ほど大都にいたから、受け答え程度には話せるが、それ以上は無理だ。

 書状は、川を渡った先に設営されている遊牧陣地クリエンに救援を求める内容が続いていた。


 ついでに、これを持っている男女の傭兵は怪しいものではなく、間違いなくオドンナルガが雇用したものであることも記載されており、ここでようやく二人は「怪しい男女」から「遠路はるばる救援のために駆け付けた勇士」に格上げされたようだった。

 そのまま警告だけしてさらに目的地へ出発できれば良かったのだが、元々シドも姉も乗馬は得意とは言えない。

 それでもほぼ一日、駆けに駆けてきたのだ。

 一度鞍から降りてしまえば、足腰は再度の騎乗を拒んだし、目的地まではここから更に馬を飛ばして半日もかかると言われれば、さすがに躊躇する。

 

 結果として、フラガナの民から五人、特に馬術に優れたものが選抜され、救援の使者となることが決まった。書状にはそれも見越されていたようで、フラガナの民が届けた場合には、二人の名前を言えるかどうかで判断するようにと書かれていた。

 その後になにやらくねくねとした記号書かれていて、どうやらそれが二人の名前らしい。タタル語でもないそれがどこの文字なのかも分からなかったが、受け取り手はきっと読めるのだろう。

 そうと決まればと、フラガナの騎手は凄まじい勢いで駆け出して行った。


 彼らで半日なら、シドには一日か。いや、途中で落馬して馬に逃げられ、三日くらいの行程だろうか。

 ともあれ、打てる手は打った。

 あとは援軍が動いてくれるかどうかだが、護衛対象は全くそのあたりは案じていないようだった。なら、シドが悩む必要はない。

 そう思い、ありがたく食事と寝床をいただいて体を休めていた時。


 嫌な気配がして、剣を掴んで走り出していた。


 食事と短いが深い眠りは、シドの若い体にしっかりと気力と体力を充実させ、尻や腿の痛みを和らげていた。

 あの程度の立ち回りなら、何の支障もないくらいに。


 「村へ行こウ」

 「ああ。わかった」


 悲鳴を上げ続ける革袋を馬に積んだフラガナの民が、丘の向こうをさす。


 「斥候なのか、そうでないのかは、聞かないと」


 援軍が来るとして。

 目的地まで到達するのに半日。それから軍を動かすのに、どれほどかかるだろうか。


 (いや、アスランなら…明日の昼には出陣するか)


 もしかしたら、明日の朝にはもう、出立しているかもしれない。

 それなら、最大限に警戒するのは今夜から明日の夕方にかけてだ。

 相手も軍なら、動かすのに時間はかかる。斥候が戻らないことで何かあったと勘付いても、直ぐには動けまい。

 それにこの村の場所を、正確に知っているかも不明だ。

 

 それらを、この革袋の中身に聞かなくてはいけない。

 その返答によっては、今夜のうちに避難させる住民を選別して、フラガナの村まで移動する必要がある。

 

 (…誰も、燃やさせない)


 炎に包まれる町。燃えていく人々。

 家族の最期を、間近で見たわけではない。

 それなのに、確かな記憶として刻まれている。いや、鮮明になっていく。

 熱いと叫ぶ両親。痛いと悲鳴を上げる兄。助けてと泣く妹。


 (…)


 目を閉じ、首を振ってその姿を打ち消す。

 きっと、家族は燃える前に死んでいたはずだ。そうであってほしいと願う。


 (…そんなことを願うやつを、増やしては駄目だ)

 

 シドの薄青の双眸は、燃えるように赤い夕焼けを映し出す。

 空が赤いのは、夕暮れだけで十分だ。

 町が、家が、人が燃えて赤くなった空など…二度と、見たくはない。


***


 「話は分かった。すぐに俺が出る」

 「陛下…お戯れを」


 溜息まじりの声に応えたのは、重厚な執務机を叩く音。

 その音に、部屋に居並ぶ数名は息をのんだ。


 アステリア聖王国には、所謂玉座の間はない。

 あるにはあるが、それはただ空間というか、いずれ玉座の間になる部屋を作っただけのことで、がらんとした堂に、ぽつぽつと彫刻やら飾りやらが増えている。年に一つくらいの早さで。

 あと三十年もすれば一応それらしくなるのではないだろうか、と聖王は笑う。


 そもそも、玉座自体がないのだ。

 聖女王国時代の玉座はアスランに戦利品として持ち帰られ、金や宝石に解体されて売られたらしい。

 王権を示す聖剣だけは返却されたものの、往時のように大理石で作られた女神像がそれを抱く、などということはできず、王の間の壁面に掛けられている。

 騎士叙勲や来賓の挨拶などは何とかそれらしく整えた聖堂で行うので、この部屋…王の間が使われるのは御前会議が必要な時だけだ。


 つまりは、今。

 聖王の前に立つのは、六人。


 間、というよりは執務室と言った方が不自然ではない広さと設えのこの部屋は、七人の人間を迎え入れて、限界を主張していた。

 透明なガラスの嵌った窓がなければ、息苦しさで窒息してもおかしくない。

 それほどに、部屋の空気は重く、張りつめていた。


 聖剣を背にした現アステリア聖王バルト。その、触れれば発火しそうな熱を持つ視線が、もごもごと口を動かす宰相をじっと捉えている。


 クローヴィン神殿が賊軍に襲われ、付近の村が一つ壊滅した様子。至急救援を願いたい。


 大神殿からもたらされた急報に、バルトはすぐに重臣の招集を命じた。

 招集したのは、宰相と近衛騎士団長、そして軍の総司令官となる参謀ウルガと、二名の将軍である。

 もっとも、急報を持ってきたのがバレルノ大司祭を伴ったウルガだったので、彼女と大司祭は、聖王と共に王の間に入ったのだが。

 

 緊急の招集に、まずは訓練中だった騎士団長が駆け付け、ほぼ間を置かずに二人の将軍が急ぎ足で現れた。

 最後に宰相が到着したのは、攻撃してきているのは賊ではなくギメル男爵の軍のようだと、ウルガが一通り説明し終わった後のことだった。

 

 そして、聖王の宣言に繋がる。


 「…賊の襲撃如きに、軍を動かすと?」


 激しい音に肩を竦めたのは、ほんの一瞬。

 子供に言い聞かすような口調で、宰相は王を宥める。

 怒りを込めた視線にも、揺らぐ様子はない。むしろ、迷惑をこうむっているのはこちらだ、と言わんばかりの顔だ。

 それは、この老人が己なしではこの国は立ちいかなくなることを知っているからの驕りだ。

 だが、それが真実であることも、この部屋の誰もが…聖王本人でさえ…わかっている事だった。

 

 この老人は、自分の価値を落とすような真似はしない。

 農地の開拓や治水工事、市場の整備やそれらが生み出す税収にいたるまで、アステリア聖王国のすべてが入っているのは、宰相の頭の中だけだ。

 むろん、すべてを取り仕切っているわけではない。


 だが、人脈や全体図、何をすればどこに影響が出るのか。

 そういったことは全て、一切書面などに書き記しておらず、宰相を通してしか繋がりのない貴族たちが別々に動いている。彼らも、自分が担当していることはなんであるかわかるだろうが、それが最終的に何を齎すようになるのかは見えていない。

 それはこの老人の能力の高さを証明することではあったが、彼の忠誠が聖王国にも聖王にもなく、自己の権力を保つ…それだけにすべてを注ぎ込んでいることも示していた。


 死ぬときは、聖王国も道連れにする。

 そう言外に言っているようなものだ。


 調査しようにも取り仕切る貴族たちは協力を拒み、どの地方でどれだけの石高があるのか、この町の生産力はどれほどか、そう言った事すら宰相派貴族の領地では霧に包まれている。

 宰相が死ねばこれ幸いと税収を誤魔化し…準備を整えるだろう。


 20年前の反乱連盟状は焼き捨てられてなどおらず、聖王が握っていると信じる貴族は多い。

 宰相が不興を買って斬られたなどと言う報が届けば、次は自分かと怯え、誰かがその前に王を打倒するのだと叫べば、それに乗る。 

 打倒王家の旗を掲げなくても、アステリア聖王国から分離独立すると言い出されれば、それを軍で持って止めるだけの力が聖王にはない。彼がいかに英雄であっても、一人で戦はできない。

 分離独立すれば、領土拡大を狙う西方諸国の餌食になるか、領地と身分の安堵でその下に組み込まれるか。


 ようやく立ち直ったアステリアの平和は、決して盤石ではない。わずかな要因で吹き消される蝋燭の火だ。

 だが、どれだけか弱い火であっても、決して消してはならない灯だ。


 それは誰もが分かっている。そのうえで横暴に振舞う宰相の顔を、ウルガは想像で百回殴りつけた。


 「賊であろうと、なんであろうと」 


 ガタリ、と椅子が鳴る。

 立ち上がれば、聖王は宰相をはるかに見下ろす長身。鍛え上げられ、実戦を耐え抜いた身体は、四十路を迎えた今でも戦士のそれだ。


 その身体から発される気迫に、宰相は一歩、たじろいだ。


 もし、聖王が怒りに任せて拳を振れば、一撃で己は絶命するだろうことはよくわかっている。同時に、一応は義父である自分に、そんなことが出来ない性分であることも理解していた。

 だがそれでも一歩下がってしまったのは、宰相が他人を完全に信頼できないが故。

 宰相も位置に立っているのがウルガであれば、例えバルトが剣の柄に手を掛けていても、むしろ前に出ただろう。


 「我が国の民が助けを求めている。それに答えずして、何のための軍だ」


 その声は決して荒げてもおらず、大きくもなかった。

 だが、部屋の空気をびん、と揺らす。


 「俺は出陣する。ウルガ、直ぐに動かせるのはどれだけだ?」

 「…近衛騎士団二隊…三十名ほど、ですね?」


 確認は、微動だにせず直立する騎士団長に向けられる。


 「はい。ただし、明日…いや、明後日の出立でならば、ですが」

 「…今日とは言わん。明日も無理か?」

 「陛下」


 表情を消したウルガの美貌が、聖王を真正面に捉える。


 「騎士たちに食料も持たせず、防寒具も与えず、ただ駆けに駆けよ、と命ずるのですか?」

 「う…」

 「夜はすでに、十分な備えなしには越せないほど気温が下がっています。クローヴィン地方までどれほど急いでも行軍なら五日はかかります。

 地面にマントを敷いて仮眠し、ろくな食事もとらずに強行軍を敢行すれば、勝てる戦いにわざわざ負けに行くようなものです」


 まして、騎士たちは野営などに慣れていない。天幕の張り出しや行軍中の調理等々は従者を連れて行かなくてはどうしようもないだろう。

 その従者や騎士見習いも、できるかと言えばそんなことはない。

 訓練に取り入れてはいるが、実戦とは違う。もともと近衛騎士団は聖王の護衛を担う部隊だ。遠征を想定に入れていない。


 「…近衛騎士団以外は?」

 「王都守備軍を動かすのは、恐れながら反対させていただきます」


 将軍の一人が口を開く。


 「万が一、これが陽動であった場合…陛下と王都守備軍を欠いたイシリスに、敵の本隊が迫るやもしれませぬ」


 そもそも、王都防衛にあたる常備軍三千人。

 これ以上配備できないからこの人数なのだ。

 一国の王都の守備を担う数としては、もちろん桁が一つは足りない。

 だが、これ以上の兵を揃えることも、増加した兵に十分な兵装を持たせることも、アステリアにはできない。

 それは積極的に軍備と軍事予算を削ってきた宰相の手腕もあるが、何より本当に余裕がなかった。少数精鋭と言えば聞こえはいいが、それだけしか養うことが出来なかったからだ。


 ウルガが学んだ兵法書に曰く。兵は算なりと。

 養い、維持できるだけの予算がないのに軍拡を図るのは、亡国への道。

 まずは国を富ませ、それから強くする。

 まだアステリアは、富国の段階にあった。

 

 「ふう…そろそろ、お静まりを。陛下」


 言葉に詰まった聖王の姿に、宰相は再び一歩前に出ようとして…ウルガに阻まれる。

 ほんの半歩、ウルガは足を広げた。それだけの動きだが、一度たじろいだ老人の動きを封じるには十分な牽制になる。

 宰相は諦めたようだった。

 聖王に最も近い、という距離だけは…であったが。


 「軍を一日動かすだけでどれほどの金が消えるか…まだお分かりではないのですかな?」


 代わりに聖王へ投げつけたのは、泥沼のような声。


 「…だが、民の命は金では買えん。そこまで金がないというなら、聖剣を担保にアスランから金を借りるさ」

 「お戯れを」


 泥のあぶくのように宰相は笑い、首を振った。


 「はっきりと申し上げる。

 クローヴィン地方は税収も低く、人口自体少ない。

 村の一つや二つ救えても、軍費を考えれば割に合わない。

 見捨てなされ、と臣は申しておりまする」

 

 聖王の藍色の双眸が、激しい怒りに燃える。

 その怒りのまま口を開こうとした聖王を止めたのは、もう一人の老人の声だった。


 「なるほど。宰相閣下はさすが合理的なお方ですなあ」


 ずっと沈黙を守っていた大司祭の口から放たれたのは、言葉とは裏腹の、軽蔑を隠そうともしない声。


 「いやはや、おれのような小人には考えもつかない高尚なお考えだ。

 なんでね、おれァ、耄碌爺の世迷い事として聖王陛下に申し上げる」


 彼だけは、唯一着席していた。一月前の大事件が、この大司祭の多大な負担をかけていることは誰もが知っている。それを咎めるものはいなかった。

 宰相ですら無碍にはできない。

 この老人が女神の敵であると一言宣えば、王都の住人のほとんどが宰相へ石を投げつけるだろう。信仰心、というものについてはわかりたいとも思わないが、それが齎す狂気については理解していた。

 

 「民を愛しまず、守らぬ王に、王の王たる資格はない。

 陛下のお心は、まったく真の王の心得にございます。

 されど、もう一つ。

 臣下の言を無碍にする。これもまた、王たるものの成すべきことじゃあございやせん」


 ちらりと、バレルノ大司祭の視線がウルガに走る。

 

 ああ、そうか。

 ウルガは内心に頷いた。

 大司祭は、時間を稼いでくれている。

 どうにか、救援の兵を出すための策を考えろと。

 

 個人的な私兵としてこっそり抱えているクトラ傭兵軍は駄目だ。彼らがアスターの信徒のために動くことはない。ウルガ自身が率いれば別だが、バルトと共に出陣すると宣言すれば、宰相はどんな手を使ってでもそれを阻止しようとする。

 結果的に出立が遅れては意味がない。


 実質的な面から将軍は軍を動かすのは難しいと返答したが、そもそも宰相が同意しなければ守備兵は動かせない。

 遊撃軍もいるが、今の時期は小部隊に分かれて、街から遠い村を巡回して回っている。そうやって賊の襲撃を警戒し、何か異変があればすぐに報せが王都にもたらされるようになっているのだ。

 賊だけではなく、不作や天災で冬の備えが出来なかった村も危険だ。そうした村に備蓄された食料を運搬するのも重要な役割で、その任務から外すことはできない。

 

 そうなれば、動かせるのは近衛騎士団だけだ。

 近衛騎士は言うならば王の私兵。宰相の許可なくとも動かすことはできる。

 だが、全員動員はできないし、コストがかかりすぎる。

 一人につき従者一人と騎士見習い二人着くとして、そうなると糧食は四倍必要だ。それだけの物資を運ぶなら輸送隊も組まねばならず、行軍速度は落ちる。

 

 ファンたちは明日にも出立する。騎馬で向かうのであれば、三日かそこらで到着するはずだ。

 それで救援が向かっていることを神殿に知らせたとして、実際の救援が何日も何日も現れなかったら。

 それは、士気の急落を招く。

 まして神殿にこもっているのは、訓練された兵士ではない。

 

 できれば、五日以内だ。つまり、襲撃から十日以内。


 それ以降になれば、耐えきれずに開けてしまうかもしれない。

 村を占領し、神殿を囲んだという凶行の大義名分を得るために、ギメル男爵が何をするかは想像に難くない。

 神殿では悍ましい行為が行われていました。抵抗したため、神官共は皆殺しにしました。

 そう言って「神殿が悪事を働いていた」と押し通すしかない。

 そのためには、生きている神官や、匿われているエルディーン嬢、参拝に訪れていた人々は、邪魔だ。

 助命嘆願も神の意向も鉄靴で踏みにじり、血と肉泥に変えるだろう。


 (いっそ、ファンたちに同行してもらう…?いえ、それは駄目)


 それはさすがに、アステリアの政治に手を出すということだ。

 もし、ファンがどこの誰だかが宰相に知られれば。

 宰相もアスランの怒りを買うような真似はしない。だが、一度は成功したこと…つまり、親族の娘を嫁がせ、外戚として権力を振るうことを考えるかもしれない。

 あの老人にアステリアへの忠誠も愛国心もない。

 どうせ潜り込むなら、より豊かで強大な宿主を選ぶだろう。

 そうなれば、ファンを目障りと狙う一太子派を刺激する。


 (あの子たち自身は…あんなに仲の良い兄弟なのに)


 兄は弟が裏切るなど天地がひっくり返ってもないと信じているし、弟は兄を追い落とそうなど砂粒一つほども思ったことはない。

 なのに、そう思わない周辺が、勝手に騒いで大事にしようとする。

 

 (…それに、クロムが大変だし、ね)


 いろいろな意味で、紅鴉の守護者の試練になってしまう。まだ二十歳前の若者に、そこまでの重荷を背負わせることはできない。

 ただでさえ、アスランに戻れば主の身辺警護に今まで以上に神経をとがらせるのだから。

 そう思えば、大神殿の使者に紛れるというのは、良い依頼だった。聖女候補だった少女たちは、全員癒しの御業を授かっているという。御業の効果が薄いとは言え、五人がかりなら少しは安心できるだろう。

 護衛の冒険者として付き添うなら、武装していても、周りへ警戒心をあらわにしていても不審ではない。

 

 (…あ)


 「騎士団長。近衛騎士団から精鋭十人程度選抜はできますか?明後日の朝までに」

 「無論。可能です」


 騎士は、コストがかかりすぎる。野営にも慣れていない。

 なら、コストがかからず、野営に慣れたものと混ぜる。

 それしかないのだ。最初から。


 「陛下」


 ウルガの双眸は、まっすぐバルトを見つめる。


 「ああ」

 「本来、陛下の親征は反対です。万が一御身に何かあれば、取り返しがつきません」

 「…お前までそんな…」

 「ですが迅速に収めるためには、陛下の御力が必要でしょう」

 

 ある意味。

 聖王は、アステリアの平時の運用にはあまり…関わっていない。

 彼はあくまで、戦の英雄だ。

 今備えなければならない、今年の税収の確認や冬備えの点検、新年祭の準備などは聖王がいなくてもどうにかなる。

 …むしろ、ただ書類に目を通してサインするだけなのだから、いてもいなくても変わらない。王妃が承認したものを追認するのではなく、聖王代理としてイヴリンが最初から承認すればいいのだ。

 

 だが、戦の陣頭に立つなら、バルトより上のものは、このアステリアには存在しない。

 個人の武勇、兵を率いる統率力、本能的な戦術の冴え、もって生まれた豪運。

 どれをとっても、彼は一流だ。アステリアどころか、世界でも十指に入るだろう。

 

 「陛下の身の回りを近衛騎士で固めつつ…冒険者へ依頼を出します」

 「…冒険者?傭兵ではなく?」


 騎士団長の訝しむような問に、ウルガは頷いた。


 「はい。傭兵は今、遊撃軍の方で大量に雇用しています。信頼出来て腕の立つ傭兵は、現在ほとんど王都にいません。元々冬は仕事が減るので、もっと南の新街道に添った街へ移動してしまいますし。

 逆に冒険者は、この時期は仕事がなく、手が空いているものが多い。

 腕利き程、冬支度をして仕事納めをしたはずです」


 仕事納めをした冒険者が、もう一度引き受けてくれるかは…正直に言えば自信がない。

 だが、彼ら彼女らは冒険者だ。

 その根幹をなすのは、英雄たらんとする誇りだと…ウルガは思っている。


 村が襲われ、神殿が囲まれて救援を待っている。

 それを聞いたら、「よし、行くぞ!」と立ち上がるのが冒険者だと。


 すぐに向かうと言い放った甥っ子たちだけが、飛びぬけて善人なのでも、英雄の卵なのでもない。

 冒険者はみな、多かれ少なかれそうなのだ。


 「もちろん、その後に準備を整えた近衛騎士団本隊を進軍させます。騎士団長、率いてくださいますか?」

 「…むしろ、選抜する十人の筆頭は私と思っておったのですが」


 いかつい顔を少しすねさせて、騎士団長は頷いた。


 「なれば、私に近衛騎士団をお預け願いたい。貴公は陛下の御側に在るべきだ」

 「おお、そうおっしゃっていただけるか!将軍!」

 「ああ。だが、陛下の御身はくれぐれも…どこに毒蛇が潜んでおるかわからぬしな」


 ちらりと将軍の隻眼が宰相を見る。その視線に、宰相は何も返さなかった。

 ほんの僅か口許を歪め、ただ立っている。


 「勝手に話を進めないでもらおう。わしが先遣隊や本隊を率いても良いのだぞ?」

 「貴公は王都の守りを担ってもらわぬと。王都の盾の名、まだ降ろす気はないのであろう?」

 「なに、いつでも剣になれる」


 三人の男たちの言い争いに、聖王は破顔した。子供のような無邪気な笑い声があがり、さすがにばつが悪そうに騎士団長と将軍二人は居住まいをただす。


 「お前たちの忠義、本当にありがたく思う。聖剣などより、ここに居る皆がアステリアの宝だ。

 マルティノ」

 「は」


 踵を鳴らして両足を揃え、騎士団長は直立不動の姿勢をとった。


 「同行と、騎士の選抜を。

 ケルヴィン」

 「はい」

 「本隊の指揮を頼む。今回の作戦は機動力がものをいう。軽騎兵の指揮にたけたケルヴィンが適任だろう。

 ガリアスは、すまんが王都の盾を降ろさず、俺が戻るまでの間…王都と、イヴリンたちを頼む」

 「一命に変えましても」


 王命に、三人の男たちは深く頷いた。争いはしたが、それぞれの役割はどれが軽んじられているというものではない。

 わずかな手勢で王の身辺警護をするということは、もしも「いざ」という時が来れば、その命も何もかも投げ捨てるということだ。

 本隊…しかも本来指揮する兵たちではなく、矜持もなにもかも高い騎士隊を率いて行軍するのは難しい。それも、着いてすぐに戦闘になる可能性もある。

 王都の守りは当然、決して軽んじるものではない。二人で分担していた業務に加え、王族の警護もしなければならない。

 だがそれでも、敬愛する王の命を受けた彼らの顔は使命感に漲り、気力が全身を満たしている。

 

 「冒険者を雇うなど…それこそいくらかかるのか」


 だが、そこに冷笑が浴びせられた。


 「報酬が必要ですよ…それに、どうやって依頼金を決めるのですかねぇ。

 冒険者と名乗るだけの破落戸(ごろつき)にも、同額の金をくれてやるつもりですか?」


 あきれ果てた、と物語る宰相の目は、聖王ではなくその参謀であるウルガを見ている。

 聖王には一応隠していた侮蔑の念を露わにした粘着質な視線を、ウルガは真っ向から受け止めた。


 「ええ。まずは一律の前金を支払います。その後、行軍中に陛下に前軍と後方支援隊を分けていただきます。

 戦闘となれば、前軍には追加報酬を。

 それで問題ないか、ギルドに確認しましょう」

 「あらかじめギルドに分けといてもらった方がいいやもしれませんな。

 そんでまあ、冒険者への報酬は、大神殿が支払いましょう」

 「…!」


 宰相の目が、大司祭に向き直る。

 小さく、やや黄ばんだ目は、今度ははっきりと怒りを宿していた。


 「なにせ、事の起こりはクローヴィン神殿の危機です。それくらい、させてくださいや」

 「…女神の使徒が、戦場に人を送り込むと?」

 「いまさらでしょうがよ」


 大司祭も痩せた頬に笑みを佩き、宰相を見る。


 「それともなんです?宰相閣下はクローヴィン神殿が救われてはなにかお困りになるのですかねェ?」

 「…わしは、陛下の御身を案じておるだけだ」

 「そうであれば心配ご無用。私が命に代えても陛下をお守りいたす」


 騎士団長の声が宰相の初めて聞かされた懸念を叩き落とした。

 

 「ウルガ」

 「はい」

 「冒険者ギルドへの依頼、バレルノ大司祭と共に頼む」


 なおも声を上げようとする宰相を制し、聖王は命を発した。


 「ではみな、直ぐにとりかかってくれ!出立は明後日の朝!」

 「御意!」

 

 宰相と、大司祭…二人の老人以外の声が王の間に響く。

 その声に紛れるように、大司祭はぽつりと宰相へ言葉を放った。


 「…まァ、余計な手出しはしねェこった」

 「何を…」

 「左方の馬鹿どもがやらかした『宴』の顧客の中にな、あんたのお孫さんと仲のいいご学友の名前があってよ」

 「…」

 「ま。ご本人かどうかはわからんが。そいつはいつも『お友達』を連れてきてたらしいですぜ。

 その顧客名簿、神殿としちゃあ表沙汰にゃしたくないんだがね。

 なんせ、握ってんのは大神殿うちだけじゃない」

 「…脅す気か」

 「心当たりがないなら、ただの老い先短い爺の戯言さね」


 うっすらと笑ったまま、大司祭は宰相を見据える。

 しばし、宰相はその視線を受け止め…そして目を逸らした。

 

 (まったく…アイツもつくづく厄介ごとに巻き込まれる星の下に生まれてンなあ)


 どこの神の刻印を授かったか、事件の全容と共に聞いてさすがに驚いたが。

 せめてその埋め合わせをと思って、楽な依頼を出したつもりだったのに。


 (まあ、うちで助力できることはやるだけやってやらあ。まずは、戦勝祈願の祈祷…気合い入れてやんなきゃな)


 明日は、聖王とその軍の戦勝と恙ない帰還を祈祷する儀式を行う。

 その時に、そっと…先発隊の聖王らよりもさらに先行する冒険者たちの無事を祈っても、女神アスターは怒りはすまい。

 

 (護り給え、女神よ…あなたの信徒を。そして信徒を救わんと駆ける者たちを) 

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