馬の親子は斑も同じ(蛙の子は蛙)1
主の様子が、少しおかしい。
クトラ自治区、アラウガハル訪問を終え。フフホトに戻ってくるまでに、ユーシンが三回ほど怒らせたが、それはいつものことだ。湯が沸くより早く忘れている。
…ちなみにクロムも同じ回数怒られているが、それは既に記憶から風の前の落ち葉のごとく飛び去っている。
嫌な戦だったと首を振るような出来事を思い出したからだろうか。
しかし、それなら普段から…まして、天卓山地の戦いから戻ったとき、もっと引き摺っているだろう。
あの時…確かに疲れ果てていたのは覚えている。
けれど、大学に収集した虫の死骸やら枯草やらが届くと、満面の笑みで書斎に籠り、せっせとその名前だのなんだのを書き連ねていた。もし心の傷を負っていたとしても、たぶんあれで吹っ切っている。
だから、踏み潰したことを思い出したからと言って、こんなに何かを考えこんだりはすまい。それに、ファンが殲滅を判断する相手なら、どうせろくでもないことをしでかしたクソ共だ。
自分がその時、守護者として隣にいれば、思う存分そいつらをぶち殺せたのに、とむしろクロムの方が引き摺っていると言っても良いかもしれない。
なのに、帰りの船でも、夕飯時でも、時折ぼーっと何か考え込んでいる。
そして、必ず溜息をつく。
どう見たって、何か思い悩んでいる様子だ。
「なあ、どうした?」
「え?」
考えてもわからなかったら、聞いてみるのが手っ取り早い。
夕食後、まずはお前らがさっぱりして来いと、ユーシン達を追い出した。今現在、月明かりが差し込む部屋にいるのは、ファンとクロムだけだ。
サライの部屋は本棚に埋められていたが、フフホトの館は全てファンのものであり、より好き勝手にできるため、いたるところに書斎がある。
逆に寝室兼居間であるこの部屋には、小さな本棚がひとつあるのみで、ずいぶんと「普通の部屋」らしく見えていた。
それでも実は、いざという時に持ち出すための「超貴重な標本と本」がいつでも持っていけるよう、行李の中に入っていたりもするそうだが。
大人の顔よりもでかい蛾とか、不意打ちで見たら変な声が出る自信があるから、しまいっぱなしにしておいて貰いたいと、切実に思う。
「なんか変だぞ。暇で暇で仕方ねぇから、読んだ本を反芻しているわけじゃないようだしな」
「あー…そっか。顔に出てたかあ」
困っているような、笑っているような実に曖昧な顔をして、ファンは「なんか変」な自分を認めた。
という事は、どうでも良いことが心に引っ掛かっているようだ。深刻に悩んでいたら、なんとしても誤魔化しにかかる。
そのことに幾分ほっとした。
「ほら、さっきさ、クオンって子、いたろ?」
「ああ。後輩になるやつな」
「うん。騎士になったら結婚するんだっていってたじゃん。もちろん、それはめでたいし、嬉しいんだが…」
先を越されて焦っているのか?いや、ないな。
ファンが結婚しようと思えば、すぐに候補は何百人単位で集められる。一言漏らせば、大都で待ち構えているのは広間を埋め尽くす花嫁候補になるだろう。
「絶対に母さんの耳に入って、まだなのかって言われるなあ…って」
「そうだな」
主が答えを言うより一瞬早く、焦っているのじゃなければその逆だな、とクロムは結論付けていた。
実際、大国の王子二人が、いい年して独身というのは相当に奇妙なことではあるだろう。
特に長男のトールは、もう三十路も間近だ。父がトールと同い年だったころには、もうファンも生まれていたのだから。
あちこちこちからそろそろ嫁を…と言う話は、天気の感想よりも多くぶつけられている。
純粋にいい年をした男に嫁の一人もいないのは、と眉を顰める連中から、自分の娘や姉妹、従姉妹にはとこにどこで血が繋がっているのかすらわからないような遠縁の娘まで利用して己の地位をあげようとする輩まで幅広い。
そして、その一番の急先鋒が、他でもない二人の母、アスラン后妃ソウジュである。
娘も欲しかった彼女は、息子たちの「お嫁さん」を心待ちにしている。
それに加えて、ママ友がどんどんババ友になって孫の可愛さを自慢しあっているのに、自分はできない!とご立腹だ。
その為、ことあるごとに息子たちに結婚はまだかと言っているわけで、親の目がないのをいいことに気楽に過ごしていたファンとしては、魔王よりもよほど恐ろしい。
「クロムもさ、ナナイと良い感じじゃないか。母さん、絶対圧かけてくんな…って思うとな」
「とりあえず一人くらい嫁貰っておけばいいんじゃないか?」
「兄貴より先にってのもなんだし…」
「つまり、娶る気はないんだな」
「うん。まあ…まだ自分自身落ち着いていないしな」
トールが正式に王太子となるまでは、アステリアで暮らすことは変わらない。次の親族会議は、トールが三十歳になった時だ。
立太子が済めば、トールは大都をいったん出て草原で暮らす。遊牧陣地ではあるが、その規模はとてつもなく大きく、行宮を備えたもう一つのアスラン王宮のようなものだ。
どこに構えるかはまだ未定ではあるが、おそらくサライを含む西部一帯になるだろう。
そこで次世代の人材を育て、アスラン王として大都に戻るときには、新王を支える体制がそのまま移ってくる。こうして新旧の政権を移り変わらせるやり方は、二代大王よりずっと引き継がれてきた。
それゆえ、新王を盛り立てることは権力を握る近道にもなる。同時に、今権力を握っていれば、新王が誰になるかはまさに死活問題だ。
トールが新王になれば、今以上に出身や身分を軽視し、実力を重視する体制になるだろう。
それが気にくわない連中が蠢いている間は、担ぎあげられる神輿にならないように雲隠れしていた方が良い。
寄ってくる蚊や蠅をすべて叩き潰すより、寄ってこれない場所に移動した方が手間が省ける。
アステリアまでは絶対に追ってこないかと言えば微妙なところだが、ファンに暗殺者を向けてくる、あるいは自分で殺しに来るような輩は、ファンが王位から遠ざかればそれでいい。
王族殺しは企んだだけで死罪だ。わざわざその危険を冒すよりも、アスラン国内で二太子は無責任だ、王に相応しくないと吠えるほうを選ぶだろう。
それでもやってくるのは、相当に頭がおかしいか馬鹿のどちらかだ。
特に厄介なのは、己の命など顧みぬ、アスランの未来のために命を懸けるのだ、などと最高に頭の悪いことを言うクソ虫どもだが、そういう連中は馬鹿だから目立つ。
大都にもサライにも、そしてアステリア王都イシリスにも…そんな馬鹿どもを見張る眼はある。
親馬鹿と兄馬鹿が無策でファンを外に出すわけがない。
「それと…やっぱりちょっと、あの戦いを思い出すと、悔やむこともあるな」
「馬鹿が自滅しただけだろ。アスランに喧嘩売るなんざ、死にたいっつってるようなものだろうが」
敵の策略で、幼馴染の兄貴分が死にかけた。
生きて帰ってきてはくれたが、それは本当に幸運な結果だったと、戦場を経験した今では思う。
だが、その幸運があってなお、誰もが予測した輝かしい未来は、兄貴分から奪われた。
いずれは千人長と、士官学校にいたころから目されていたような人だった。学科も実技も優秀な成績を収め、人当たりもよくて皆に慕われる。
ヤルトミクのようないるだけで味方を鼓舞し、敵を委縮させるような存在感はないが、兵に「あの将軍の部隊にはいれたら当たりだ」と言われるような将になっていたはずだ。
その未来は、もう来ない。命は助かったものの、怪我は酷く、騎士叙勲を受けるための最終試験に臨むことすらかなわなかった。
もし、受けられたとしても、最後まで試験を続けることはできなかっただろう。一年前、最後に会った時には、日常生活がやっと、という有様だった。
それでも、死にかけて戻ってきた三年前に比べれば、奇跡のような回復具合だ。一時期は、二度と歩けないとさえ言われたのだから。
兄貴分の未来を奪った連中が、主の心も悩ませているとなれば更に腹立たしい。死人を殴ることができないのが心底残念だ。
「いや、敵にと言うより、自分に対してだな。後から考えると、ほんっとうに敵を舐めてた…と言うか、自軍を過信していた。もう少し敵がうまく立ち回っていたら、今頃カーラン真皇国で首を晒されているか、幽閉されていたかも」
「それこそ、敵を過大評価しすぎじゃねぇか?」
「どうだろうなあ。ああ、その時も同じことを反省したんだ。親衛隊もいればどうにでもなるだろうって、無策で突っ込みすぎたって。なのに、同じことやって…あいつらの命を使わせてしまった」
ファンが思い返しているのは、常に霧に湿る天卓山地ではなく、雪に閉ざされる北の地…フェリニスの事だろう。
友人と思っていた男に襲撃され、近衛騎士十人を殺され、ファン自身重傷を負い、そしてクロムは…主を守れなかったという「敗北」を味わった地。
「あの頃は…まだあいつ生きてたなって思ってな。あいつらに報いるためにも、三度目はないようにしなきゃ」
「安心しろ。俺がいる限り、なんとかする」
「何とかした結果、クロムが死んだら俺は先生たちやナナイに、なんて言えばいいんだよ」
「守護者の任を果たしたって胸張って言え」
「もうあんな事したくないから、まずは死なないようにしてくれ。っていうか、これはちょっとヤバいんじゃないかって思ったら言ってくれ」
「そういう役割は、ヤクモ辺りにやらせろ。あいつ、ビビりだから実際にヤバい百歩手前くらいで言い出すだろ」
「あー!なんか悪口いってたでしょー!」
掛けられた声に顔を向ければ、風呂に向かったはずの仲間たちが、どやどやと部屋に入ってくるところだった。
ずいぶん早いじゃねぇかと言おうとして、内心首を傾げた。全員、風呂上りにつきものの濡れた髪も、上気した肌もない。いつも通りだ。服装も、浴場に向かった時のままである。
「どうした?風呂、入らなかったのか?」
ファンも気付いたらしく、訝し気に問いかける。
「はいろーと、したんだけどねぃ…」
「うん」
「お風呂の入り口にいた騎士さんが、今、中にさ、あの踊りおじさんがいるから、ナランハルとご一緒に参られた方がいいですよーって」
「ごめん。すぐ殴ってくる」
めったに使わないのに独占するのはもったいない、とフフホトの浴場はある程度以上の文武官に解放されている。
さすがに下っ端の書記官や、一介の騎士では利用できないし、ファンを始めとする王族や賓客が利用するときにもご一緒できるのは、本当に数人だけだが。
そして、美少年をこよなく愛すると称する変態は、変態だが領事官である。つまり、このフフホトではファンの次に偉く、当然「ご一緒」する権利もある。
もちろん、ファンが「出てけ」と命じれば即刻退去しなければならないし、騎士たちも嬉々としてつまみ出すだろうが。
いやその前に、クロム自身が蹴りだす。
「風呂に入りたいのならば、先に領事官殿を入らせてやればいいだろう!俺は今すぐ風呂に入りたいわけではないからな!」
「…お前たちが入るまで、夜が明けようとも待っていそうな気もするが…」
「気がする、じゃなくて待っているな」
「む?そうなのか。領事官殿はずいぶんと長風呂だな!」
とりあえずこいつ放り込もうぜ、見られても気にしねぇし、あの変態も満足すんだろ、と八方丸く収まる提案をしようと口を開きかけたが、それよりも先に主が何か思いついた顔をした。
名案だったが、主に考えがあるなら、一応立ててやるべきだろう。それが愚策なら、改めて言えばいい。
「そうだ。それならさ、皆、ちょっと付き合わないか?」
「付き合うって、どこー?」
「外。会わせたいひとがいるんだ」
「会わせたい人?」
誰だろうか。月は天高くに登り、夜はとっくりと更けている。こんな刻限に会いに行って問題ない相手と言うと…
「コイツの童貞でも終わらせんのか?」
「え、えええ!?」
大げさに驚いたヤクモに、ファンは苦笑しながら首を振った。どうやら違ったらしい。
「違う違う。それならシドにお金渡して、引率頼むよ」
「俺に?」
「クロムは吟味しすぎて、結局朝になって帰ってきて猛烈に不機嫌に八つ当たりしそうだから。ヤクモも一年は恩に着せられて揶揄われそうだし」
「しねー…こともないな」
「ダメじゃん!!」
「外だし、寒いからちゃんと防寒具を着てくれ。もちろん、来ないっていう選択肢もあるよ」
そう言ってファンは笑ったが、もちろん、残るやつはいない。
好奇心と探求心で出来ているような主に付き合える連中だ。当然、温い部屋よりも「会わせたい人」への興味が勝る。
…本音を言えば、寒い中わざわざ出歩くのは勘弁願いたいが。
主の傍らは、ふかふかの羊の毛皮の上より、暖かい絹毛山羊の毛布の中より、己がいるべき場所なのだから。
仕方ない。付き合う。
そう思考しつつ、クロムは誰よりも早く外套を手に取った。
***
風は氷の刃のように鋭く、湖面に漣を立てる。
月光に照らされた漣は白く輝き、まるで水中に星を散らしているかのようだ。
夏の夜ならば響いているだろう虫の声や、宵っ張りの人の歌声もなく、ただただ、風の音だけが静寂をわずかに揺さぶっている。
その圧倒的な静けさの中、必要はないが何とはなしに足音をひそめながら、一行は青の湖に掛かる橋を渡っていた。
ファンの住まいである宮の庭から、少し離れた小島をつなぐ橋である。
人が三人並んで通れるほどの幅に、腰の高さまでの欄干を備えたこの橋は、このフフホト離宮に住まう王族のためのものだ。
繋がる先は、人が住んでいるわけでもない小島。
上から見ると三日月のような形をしたこの小島には、瀟洒な四阿が建てられていた。
湖を眺め、その水面を渡る涼風を楽しみながら、酒なり茶なりを楽しむためのものだ。いざ席を設えるおりには、白木を組んだ台が運ばれ、その上に絨毯を敷き、夜ならば羊の毛皮、昼なら茣蓙が置かれて客人を迎える。
しかし、今回は思い付きの行動だ。
侍従官たちが台を用意しようと慌てふためいたが、ファンはそれを押しとどめた。
台がなくとも、地面は平らかでならしてある。腰を下ろすためのなめし皮と毛皮は持ったし、そんな長い時間でもないから…と、自ら熊の毛皮を担いで出て行った二太子を、侍従官たちは何とも言えない顔で見送った。
冬の外套に首巻で口許を隠し、頭には毛皮を内側に貼った帽子で耳までしまう。
それでも、漏れ出る息は真っ白く、瞬きするたびに睫毛についた霜が散る感触がある。
だが、それでも誰一人寒さに文句は言わなかった。
そんな文句を言わせないような圧倒的な静謐と、見とれて囚われれば死ぬ…と恐怖を抱くような、月下のフフノールの美しさは、クロムの口からすら不満を吐き出させなかった。
橋を渡った先の小島、その四阿が、ファンの目的地らしい。
まずはユーシンとシドが担いできた鞣し革を地面に敷いて、その上に自らが担いできた熊の毛皮を降ろす。
「毛布は膝にかけとけ~」
「それはいーんだけどさ、ファン。ここにひと、いるのぅ?」
持ってきた毛布を配りながら、ヤクモが首を傾げる。
待ち合わせできるような場所ではない。こんなところに住んでいられる人間はいないだろう。
「これから呼ぶんだよ」
肩から掛けていた櫃を降ろし、ファンは白い息を吐きながら笑った。
手袋を外し、櫃の蓋を開ける。中から現れたのは、一棹の楽器だ。
長い棹の先端は馬の頭を模してあり、そこから続く胴は四角く、二本の弦が張られている。
「馬頭琴か!」
「もりんほーる?楽器、だよねえ?ファン、弾けるのぅ?」
音痴なのに、と言う疑問の根拠をヤクモは飲み込んだが、誰もがそれぞれ頭の中で補完した。言われたファン当人でさえも。
「歌うのと弾くのは別物だ。まあ…正直、そんな上手なわけじゃないけどな」
「俺はファンの馬頭琴、好きだぞ!」
「ありがと。ユーシン」
馬頭琴の弦も弓も、馬の尾を用いる。愛馬の形見として作られたのが、この楽器の始まりと言われていた。
大都にある開祖の愛馬、タユグロウを祀った黒馬廟には、その毛で作られた馬頭琴が祀られており、馬の健康を願う人だけではなく、馬頭琴の楽師も腕の上達を願って詣でる。
ファンが持つ馬頭琴は、フフホトの主となったときに贈られたものだ。なので、特に彼自身が跨ってきた馬たちに所縁のあるものではない。
だが、だからと言って奔馬のようにファンに抗うという事はなく、弓は滑らかに弦を揺らし、音色を響かせる。
その音色は、草原を駆け抜ける若駒を連想させた。
何処までも、力尽きるまで駆けていく。ただ、己の身体に満ちあふれる、生命の炎が示すまま、持て余すような熱に駆り立てられるように。
生きる喜びを表すようなその音色は、すべての命を凍らせ、鎮めるような冷たい夜を渡っていく。
そんな上手なわけではない、という本人の言は、決して謙遜ではなく、ところどころ音を外し、もたつくような個所もあった。だが、それでも音色は止まらず、駆け抜ける。
むしろその拙さがより一層、音色が語る若い生命の輝きを強調しているかのように思えた。
やがてファンの右手が止まり、音が余韻を残して風に消えていく。
冷たい空気に晒されていたが、ファンの手は白く固まることもなく、柔らかに動いて馬頭琴の胴を撫でた。
「久しぶりだったから、ちょっと失敗したな」
「いや…どこが失敗かわからなかった。良かったと思う」
「あはは、そう言ってくれると嬉しいよ。さて、届いているといいんだけど」
「その、会わせたい奴への合図なのか?今のが」
クロムの問いに、ファンは笑って頷いた。
弾いた曲は、特に秘曲だとか珍しいものではない。馬頭琴の奏者でなくとも、遊牧民が夏に集まって宴をすれば、誰かしらが弾きだす曲だ。
若駒の走るさまを称え、その若駒になぞらえた若者が意気軒高な様を示すことを喜ぶ曲で、洗練されてもいなければ、演奏会で奏でられるような曲でもない。
合図にするのはありきたりすぎではないかと思ったのが、主には伝わったようだ。
「この曲が一番好きだっていうからさ」
「一体、どんな奴なんだよ…。!?」
水音。それ自体は、珍しいものではない。
だが、魚が跳ねたにしては大きく、水面に何かが落ちた音ではない。
何か、大きなものが水面を割り、水が流れる音。
「あれは…!?」
僅かな差異はあったものの、四人は一斉に湖面を見つめた。
月明かりに照らされ、銀に輝く湖面。
そこから、三日月の形をした小島のささやかな入り江に波が寄せている。
その波を静かに割って。
何かが、姿を現していた。
「お久しぶりです。オキナ」
ファンが親し気に、その『何か』に向けて声をかける。
<そうか、ひさしぶり、と言われるほどの時間がたったのだね。ファン>
のんびりとした、穏やかな「声」。
だが、その「声」は、耳が拾っているものではない。
聞こえない。だが、理解できる。
思わず耳を抑えて戸惑うと、「声」は朗らかに笑った。
<わたしの声は、音ではないからね。そうだな…そうではないけれど、分かり易く言うのなら、「心に直接届く」と説明しよう>
その感覚に、クロムは覚えがあった。つい最近も経験したことだ。
神々との会話。
騎士神とのやり取りは、決して言葉で交わしたわけではない。あれと同じことかと得心し、それならばこの「声」の主は…神なのかと畏れを飲み込む。
いや、だが。これは。
月光のもと、湖面から突き出しているのは、優美な長い首。
ほっそりした口吻と、青く輝いて見える目を隠すような、長い毛。人ならば眉毛と呼ぶのだろうが、この声の主に当てはまるかはわからない。
夜にしっとりと溶け込むような藍色の鬣。その合間に伸びる角。
入り江に上がってきた為あらわになった背には、大きなふくらみがあった。
最初それは、甲羅のように見えた。だが、よく見れば…折りたたまれた、巨大な翼だ。
「龍…」
オオトカゲの親玉のようなドラゴンではない、この世界で最も強く、恐るべき魔獣。
誰もがその存在を知っているが、実際に見たことがあるものは数えられるほどしかおらず、だが間違いなく実在する脅威。
姿を現した「何か」は、大柄な飛竜の倍はあった。それでも、翼はたたまれ、長い尾はまだ水中に没している。
お伽噺に聞く龍は、「雲のように」大きいというから、思っていたよりは小さいな、と言うなんとも間抜けな感想が湧き出てきて、クロムは慌てて瞬きを繰り返してそれを追い払った。
思ったより小さくても、その気になれば体当たりだけでこの島を破壊できる。
そうなれば、全滅だ。体当たり自体躱せたとしても、水中に投げ出されれば重い冬服に引き摺られて沈み、春まで浮かぶことはできないだろう。
だが、主はいたって暢気な様子を崩さない。
それならば、この「龍」は…敵ではないのだろうと判断し、口から跳び出しそうになる鼓動を静めるため、なるべくゆっくりと呼吸を繰り返す。
<君たちの「声」は小さくて、混ざり合っていて、聞き取るのに苦労するのでね。人同士で話すように、きちんと発声しておくれ>
「改めて紹介するな。この方はオキナ。このフフノールに住まう…」
「龍か!」
ユーシンでさえ、声が震えている。もっともそれは畏怖や恐怖にではなく、隠しきれない興奮に上擦った結果だが。
「初めて見えた!俺はキリク王国、シーリンが子、ユーシンだ!お見知りおきを願う!」
<はじめまして。ユーシン。オキナ、と言う名は、アスランに貰ったのだよ>
「アスラン?」
「開祖の事だよ。クロウハ・カガンはあくまで後から名乗った名前で、彼は本来、アスランって名前だからな」
「なんと!御身は開祖にお会いしたことがあるのか!強かっただろうか!」
ユーシンの問いに、オキナは再び笑った。「声」の印象は、壮年男性のように感じる。若くはないが、まだ年老いてはいない年代。
<肉体的に強いかどうかはわからないな。わたしからすれば、人間はみな、か弱く脆いからね。けれど、アスランは強かった。わたしを微塵も恐れず、名をくれたほどにね。
ああ、それともうひとつ。期待に沿えず申し訳ないが…わたしは君たちが言う、龍ではないよ。そうなのだろう?ファン>
「ええ。龍はかなり規格外の存在ですが、生物ですから」
「む!御身は生き物ではないのか!?」
<そうだね。生き物を、生まれて生きて子を残し死ぬものだとするならば、わたしは違う。わたしは、在って、在り続け、やがて還るものであるから>
さっぱりわからん!と言う顔でユーシンは頷き、なんとなく悔しいがクロムも同感だ。
生きていない、と言っても、間違いなくその身体には質量があり、波は鱗に当たって飛沫を散らしてる。
それでも違うというのなら…これは、何というものなのか。
「オキナを分類するのは難しいな。神…ともちょっと違うし。実体を持った精霊っていうのが、正確に近い、と思う」
「実態を持った精霊…」
「うん。それでも正しくはないと思うけど。ただ、世界各地にオキナのような存在の伝承は伝わっているし、アスランにも有名なのがいるぞ。それ言うと、罰当たりって言われるけど」
そう言いながら、ファンの顔には「聞いて聞いて!」と書いてある。蘊蓄が長くなるなら叩いて止めさせればいいかと判断し、クロムは口を開いた。
「なんだよ?」
「四天神獣さ!星龍、紅鴉、月虎、雲熊」
「はああ??」
「ええっと、どゆこと?」
「オキナのような存在は他にもいて、そのうち特に人間に深く関わったものを、人間は神獣、聖獣、霊獣と呼んで畏れ敬っているんじゃないかって事」
四天神獣はアスランの太子たちの敬称としても用いられる、尊い存在だ。
星龍は星々を巡らし、紅鴉は太陽を導き、月虎は『月の門』を守り、雲熊は雨を地上に齎す。
神ではないが、神に等しい。それを、精霊の親玉のように扱い、さらには『分類』しようとするというのは…確かに、不敬だ罰当たりだと叱られて当然だ。
<それが正しいかどうか、私は口をつぐんでおこう。答えは、聞くものではなく、見つけるもの。そうなのだろう?ファン>
「ですね」
オキナからしても失礼なことを言われていると思うのだが、怒っている様子はない。むしろ、面白がってさえいる。
長い年月を過ごすと、この程度では何とも思わなくなるのかもしれない。
「オキナの存在は、うちには古くから伝わっていてさ。フフホトが王族の直轄領になると、この小島で馬頭琴を弾いて目通りを願う事って」
<ファンの前は、トヤーだったね>
先々代の名を呟き、オキナは大きな目を細めた。
懐かしむようなその表情はずいぶんと人間臭く、天を廻る神獣と同じ存在とは思えない。
けれど、完全にクロムは理解していた。
いや、クロムだけではなく、仲間たちの誰もが同じことを理解しているだろう。
恐れを知れぬもの、と呼ばれる、ユーシンでさえ。
万が一、この龍のような姿をした「もの」が敵となれば、己が抗えるのは、ほんの僅かな時間しかないという事を。
長い髭が…鬣かもしれないが…伸びる口許からは牙は除いておらず、猫のように身体の前で重ねる手の指には、鋭い爪はない。
動きは緩慢であり、水中は分からないが、陸上で動き回るには手も足も細く、短い。
だが、それでも。
この「存在」には勝てないと、理屈ではなく本能が理解している。
あまりにも、自分と「存在」が違いすぎる。これは、戦えるという次元の存在ではない。
どれほど剣の腕に自信があっても、嵐に勝てるという馬鹿はいない。オキナに勝負を挑むというのは、そういう話だ。
「…もっと、いるのか。世界には…」
「たぶんね。と言うか、俺の仮説その二では、『迷宮』のある所に必ずいると思う」
「セスの『白の迷宮』の最奥には、『金枝の鹿』と呼ばれる神獣がいると言われていた。その角には果実が実り、それを食べるとどんな病も治るのだと」
「きっと、そのひともオキナと同じじゃないかなあ」
ファンの答えに、シドは何度も目を瞬かせた。
喪った故郷の、伝説。冒険者に憧れる王子だったころ、何度も聞いた物語だったのだろう。
「そうか…。会ってみたいものだな」
「キリクにも雪獅子がいるぞ!お伽噺と思っていたが、本当にいるのやもしれんな!それなら、その乳をもらい受けたい!」
「乳…?」
「雪獅子の乳は死人も生き返らせる!それがあれば、ユーナンの肺も治るかも知れん!」
万能薬でも、先天的な異常は治せない。
だが、伝説では雪獅子の乳は盲目の娘に光を与え、生まれてから一度も立ったことのない子供を走らせた。
それならば、多少動きが悪い肺くらい、たちどころに治るに違いない。
「そっかあ。それは欲しいねぃ。オキナさん…様?そのセンゲさんがどこにいるのかご存じないですかあ?」
興奮して身振り手振りを交えて伝説を語るユーシンに、ヤクモは大きく頷いた。
育ての母は子供が産めない身体で、そのため夫人として認められず、愛人と言う立場で一生を終えた。
晩年には寵愛も失せ、彼女を生家からほぼ無理矢理に連れ去り、愛人とした男…ナハト国王は、葬儀に弔辞の一つも寄越さなかった。
その無関心さが、ヤクモをナハト王国から脱走させることができた最大の武器になったわけだが、思うところがないわけではない。
もし、雪獅子の乳の話を聞いたら、血の繋がらない兄たちに探索に行かせてくれと頼み込んだ…かも知れない、と思う。
もっとも、当時の自分は育ての母の屋敷と庭以外に世界があることすら知らなかったようなぼんくらだったから、それがあったら良いのにとボケーっと思っただけの可能性が高いが。
だが、今はまだぼんくらかも知れないが、同時に冒険者だ。
大切な仲間の、大事な片割れのためなら、大冒険に乗り出したって良い。いや、むしろ行きたい。
<ふむ…時折、この湖にやってくることはあるが…必ずいついつに、と言うのはわからないな。来たら、乳を欲しがっている人間がいたこと、その人間がファンの友だという事を伝えておこう>
「ありがたい!!」
「良かったねぃ、ユーシン!」
「まあ、その時折が何百年か先かもしれないから、あまり期待はするなよ?人の時間感覚なんて、このひとたちには全く通じないからな」
「だが、雪獅子がいるのは確かならば、会うこともできるという事だ!」
<無事会えることを願っているよ。ユーシン。さて、君…>
「ふえ!?」
ずい、と顔を近付けられて、ヤクモは小さく飛び上がった。
水から上がってきたというのに、オキナからは全く生臭さなどは感じない。いや、どんな臭いも温度も、その巨躯からは感じ取れなかった。
ああ、このひとは、本当に生きていないんだ。
岩や水と同じ「存在」なのだと、改めて思う。自分たちとは、全く違う存在なのだと。
しかし、それでも不思議と「怖い」とは思わなかった。
瞬きせずヤクモを見つめる青い瞳は、穏やかな知性と感情が込められている。
同じ人間でも、それが欠片もない奴は怖い。
己の感情と好悪だけが全てという、ナハトの末王子のように。
<君からは、シラミネの血を感じるね>
「あ、ぼく、シラミネの生まれなんです!すごいや!わかるんだ!」
<シラミネの生まれ、と言うのは?>
「シラミネという国があるんです。ヤクモは、そこの生まれなんですよ」
<そうか…なるほど。よくわかったよ。つまりね、君は、トヤーにとってのファンのような子、なのだろう?>
「ふえ?」
トヤー、と言う名は、ファンに教えてもらったアスランの歴史に出てきた、ファンの曾祖母の名だ。
つまりは、子孫だと言いたいのだろう。
「ええっと、確かに、シラミネの王族は、シラミネ様の子孫だって教わったよーな?」
<やっぱり。そうだと思ったよ>
「待ってください。オキナ。あなた方には、生殖能力はありませんよね?それで何故子孫が?」
当事者を差し置いて、ファンがすごい勢いで食らいつく。その双眸には知識欲が燃え上がり、今、天に輝く月にも負けない。
<シラミネは、ある時、人間と混ざってしまったんだ。ある人間が、シラミネの力を取り込もうとして、逆に取り込まれてしまったんだね。
わたしたちにとって、それはきっと、たいそう不快なことだろう。わたしはそうなった事がないけれど、歌鯨たちも木切れなどを飲み込むと、苦しそうにしているし、時には死んでしまうからね>
逆に考えれば、身体の中に岩をねじ込まれたようなものだ。それは当然、苦しい。
まったくの異物を取り込んで、平然とはできないのは当然だ。
<そこで、シラミネは混ざった部分を切り離した。ファンらしく言えば、より正確には、その切り離した部分こそシラミネだ>
「つまり、その混じった部分が、『シラミネ』と呼ばれる存在なんですね?」
<そう。そう呼んだのは、人間たちだよ。わたしがアスランに『オキナ』と言う名を貰ったようにね。本来、わたしたちに『名』というものはないから>
「ええっと、それで、その『シラミネ』様は…」
<取り込んだ人間の願いは、他の人間を守ることだった。切り離した『シラミネ』も、切り離された『シラミネ』も、その願いに応える事にしたんだ。あとは、君の方が詳しいのではないかな?>
「うーん、シラミネ国は、シラミネ様が守っていてくださるから、気候が良くて土地も良いって教わりましたけど、それで…いいのかなあ?」
シラミネの王子といえど、ヤクモに祖国の知識はほとんどない。ナハトから兄たちに帰されて、生まれ故郷にいたのは一年足らずの間だ。
母や姉、従兄は優しくヤクモを歓迎してくれたが、それ以外の人々の目は冷たく、明らかに厄介者扱いしていた。
それすら気付かなかったと言うのは、今思い返せば顔から火が出るくらいのぼんくらっぷりではあるが。
「角が生えるのって、そのシラミネ様の血が濃いとか、そーゆーことなのかなあ?」
「うん。そうなんだろうな。角、か。皮膚が硬化したものか、体毛が寄り集まっているのか、骨が成長してそうなるのか…興味は尽きないな!
…ヤクモ、頭ムズムズしたりしない?」
「しないし、しても研究も観察もさせないからッ!!なんか目、怖いよ!!」
なんとなく帽子を押さえてファンから距離を取る。とらなくても、ヤクモの頭に角が生える兆候は何一つないが、なんとなく嫌だ。
<ほう。君から感じるシラミネの血は、かなり濃いようだが…何かが、蓋をしているのかもしれないね。ちょっといいかな>
ふわり、と抑えた帽子の下で何かが肌に…いや、もっとその奥に触れるのを、ヤクモは感じた。
不快ではない。気持ちがいいわけでもないが、とにかく、何かが触れた。
だが、それだけだ。
<うん。これでよし>
「あの…なんにも、ない、ですけどぅ…」
恐る恐る尋ねると、オキナは笑ったようだった。人間でいえば、ニコリと微笑んだ、と言うところか。
<わたしは、君の蓋をずらしただけだ。そこから取り出すのは、君がおこなうことだよ>
「蓋…」
<それが角、というかたちになるのかは、わたしにもわからない。だが、ファンの言葉を借りれば、わからないことがたくさんあった方が、この世界は面白い。そうだろう?>
「影響受けたら駄目な奴の影響、受けまくってねぇか?」
「なんでだよー。真理じゃないか」
ぼくは今すぐ知りたいけどね!?と心に呟くが、そもそもオキナにもわからないらしい。
けれど、自分の中に遠い祖先の残した何かがある、というのは、なかなかワクワクする話だ。
<さあ、ファン。そろそろお帰り。君たちの熱が、ずいぶんと冷めてきている。動かなくなったファンは、お喋りしてはくれないだろうからね>
「そうですね。オキナ。次は夏に来ますよ。一晩、語り明かせるように」
<ああ。楽しみにしているよ>
「また会いましょう、オキナ!」
<また会おう!ファンと友たちよ!わたしは、君たちをいつでも歓迎するよ!>
明るい別れの挨拶が終わると同時に、オキナの巨躯は消えていた。
水面に漣ひとつ、残っていない。
「消えた…」
「実体があるって言っても、それはオキナがそうしたいと思った時に現れるものだからなあ」
「…すごい、体験だったな。ある意味、神様に会えたようなものだろう」
「駄洒落にもなってねぇクソ垂れ流す神様より、よほど有難みがあるよな」
「なにそれぇ…」
クロムはヤクモに視線を向けたが、その顔はなんだか苦い茶を一気に口に含んでしまったような、けれど吐き出せない苦境に陥っているような、複雑なものだった。
「あ、あはは…さ、帰ろう。かえって熱い風呂に浸かって、寝よう。明日の午後は、いよいよ大都に向かって船出だからな!」
ファンの号令に、一同は敷布を片付け、来た時と同じ橋を渡って帰路に就いた。
同じころ、フフホト領事官、ジャワル・ダルワンシャン・オドバ・シャルパ・セバルンヌティが、長時間の入浴による湯あたりで浴場から運び出されたが…もちろん、ヤクモからずらされたらしい『蓋』とは無関係な話だ。




