山は登れば越える。仕事は始めれば終わる。(千里の道も一歩から)8
夜。
薄い月光が靄を通して地上を照らし、怯え震える三人の少年少女を浮かび上がらせていた。
三人とも、十三、四歳ほどか。大人の手伝いを過不足なくできるが、独り立ちにはまだ少し早い。そんな年ごろに見える。
縄は掛けられてはいないものの、男二人に押さえつけられ、地に膝と掌をつかされていた。
「申し訳ございません。ナランハル。やはり、その、不躾な田舎の子供ですので…」
「かまわないさ。元気で少しくらい生意気なほうが、遊びにはちょうどいい相手だ」
声、震えるなよ。
内心己を叱咤しつつ、ファンはなるべくいつも通りに笑った。
三人の恐怖と屈辱の予感に震える視線は、まるで錆びてがたがたになった刃で肌を擦られるかのようだ。
アスランの民に、己が守るべき民に、こんな目をさせるなんて。
むろん、本当に、少年少女を連れてきた連中が思うようなことはしない。
今にも泣きそうな顔を見せているシャリハも、悔しそうにうつむく男たちも、内心では「アスランの二太子」が「子供好きな男」であったことを嗤っているのだろう。
ファンは既に連中を「敵」と認めている。認めているからこそ、今は敵が望む通りに動くべきだ。
つまり、下劣で出来損ないの王子であるというように。
「念のため、身体を改めさせてもらうよ。万が一、武器を隠し持っていて、ナランハルのお身体に傷がついたら…その罪、村全体で償ってもらうことになるからね☆」
「そのようなことは、けっして…!」
するりと闇からにじみ出たように、密偵は身を固くする少年少女に近寄り、さりげなく男たちとの間に割り込んだ。
後ろに回り、軽く身体をはたく。その顔は、ファンにだけ見えた。
(フタミさん、何か見つけたのかな?)
訝し気に眉を寄せた密偵は、すぐにいつもの明るい笑みに戻り、シャリハたちのほうに振り向く。
「ん、問題ないね☆あ、わかっていると思うけれど、明日の朝までこの家に近寄ることは禁止だよ☆見張りは十分に置いておくけれどもね」
「…かしこまり、ました」
いかにも苦渋、といった表情のまま、シャリハたちは地に額付く。その背に「下がっていいよ★」とフタミの声がぶつかった。
のろのろと立ち上がり、何度も振り返りながら、彼女たちは竹林へと去っていく。
夕闇に紛れて偵察を行ったフタミの話では、竹林の先には森が広がり、おそらくその奥に隠し村があるのではないか、という事だった。
この天卓山地に存在する村の多くは、いざという時の隠し村を別の「卓」に作っている。
村や畑を開けるほど広い「卓」は限られているが、小さな居住地を作る程度ならば、それこそ無数にある。
そのどこにあるのか、闇雲に探すよりは案内してもらったほうがいい、とファンたちは結論付けていた。
去っていくシャリハたちの後を、ひらりひらりと蛾が追いかけていく。
よく見れば、その羽ばたかない翅は絹で作られ、胴体は髪の毛の束だ。
クトラの呪術師アグンの術によって動く、偵察用の『蛾』である。
『蛾』は命じた相手の後をつけ、その相手が眠った近くに止まる。そしてその位置は、アグンの術により追うことができた。明日の朝には、少なくとも連中のねぐらの一つは見つかるだろう。
「さて、君たちは、こっちね☆」
促すフタミに、三人は身を寄せ合い、抵抗を見せた。そのうちの一人、最も年上と思われる少年が、唇をかみしめ…がばりとその場に平伏する。
「アヨ、ラチャナ!!ニルケニ…ウェク…」
「ごめん☆さっぱりわからない☆」
ひょい、とその少年を担ぎ上げ、フタミは振り返りもせずにファンに向かって投げた。
「おっとお!!」
少年をなんとか受けとめ、ぐらりと傾いだ体勢を、慌ててヤルトミクが支えた。その勢いのまま、家の外と中を隔てる筵の奥へと戻る。
「フタミ殿!」
「ごめんごめん☆」
両脇にじたばたと暴れる少女二人を抱え、フタミは笑いながら高床式の住居へと至る、木製の階段をのぼった。
「こういう時はね、少しびっくりさせたほうがいいんですよ☆緊張がほぐれて☆」
「俺をまずびっくりさせてどーすんのさ」
固まる少年を床に降ろし、ファンはか細い抗議を口にしたが、密偵に届いた様子はない。
鼻歌を歌いながら家に入り、筵を下す直前、かすかにフタミは外に控えるクトラ傭兵たちに視線を投げた。
心得顔の傭兵たちが、家の周りを囲む。
その中には、覚束ない様子で同じように歩哨に立つ生徒たちと、彼らに指示を出す親衛隊騎士が混じっていた。
「クオン、頼む」
「はいよ!」
家の中に視線を戻せば、心得た!とばかりに通訳としてこの村に残ったクオンが、まだ固まる少年の前に進み出る。
『俺たちは味方だよ!俺は、セアム村のクオン。大丈夫!ファン先生が助けてくれるって!』
呆然と、少年はクオンを見つめた。少女たちも、泣きわめくのを止めてやり取りを見守っていた。おそらく、床の上に降ろされたことも気付いていない。
『キサヤムム、祭壇、供えた。少しだけ、すまない』
ファンの流暢とはいいがたいイフン語は、だが、ちゃんと通じたらしい。
三人の視線は、吊るされたキサヤムム…そして、その下の祭壇へと向かった。
何もない、ただの台だった祭壇の上には燭台が並び、その光量よりも眩い輝きが、暗い部屋の中で存在を主張していた。
光源は蠟燭の灯りを受けて煌めく、金の腕輪や首飾り。艶めかしく闇に浮かぶ、白磁の杯。
黄金の飾りも、こぼれそうなほどの生米で満たされた杯も、キサヤムムへの供物だ。
キサヤムムは、金銀と餅を好む。そう聞いていたから、有り合わせのものを供物とした、急拵えの祭壇だが、何もないよりいいだろう。
例え、力を失い、猿の死骸になっていたのだとしても。
手を合わせる人々の心が安らぐのならば、十分だ。
祭壇を飾る腕輪と首飾りは、ファンが身に着けていたものである。
どこに行くのであれ、とりあえず換金できる金目の物を身に着けるのは、草原に生きる遊牧民の知恵だ。
たとえ身一つで逃げてもどうにかできるように、そして追跡者に向けて投げることで気を逸らせるようにと、財産を装飾品に変えて身に纏う。
ファンにとっては形式上の物というか、そういう名目で王子らしく飾らているだけのものだが、思わぬことで役に立った。
餅の代わりに生米…糯米ではある…が、これは餅をつく時間がなかったのだから、少し多めに見てほしい。明日は糯米をふかし、餅を作ろうと思っているのだし。
少年は弾かれたように祭壇の前まですっ飛んでいった。手を合わせ、歌のような祈りの言葉を口にする。
優しく誇り高いキサヤ。我らを守り、眠りについた偉大なるキサヤ。我らはあなたの子であることを喜ぶ。いつかあなたの目が、また我らを見守る日を願う。
祈りの言葉を翻訳したものを思い出しながら、ファンは「キサヤ」とは何か、という事について、しばし考え込んだ。
「キサヤムム」とは、キサヤのかけらとか、分身などという意味になる。なら、その「キヤサ」とはなんぞや?とクオンらに聞いてみても、イフン人以外には言えないよ、と笑われてはぐらかされてしまった。
おそらく、アーナプルナの守護双神のように、その地方独特の神なのだろう、とは推測している。しかし、それにしてはキサヤを祀った神殿はなく、逸話などもない。
となると、アスランの三王のように元々は生きた人間だった、という事もなさそうだ。伝承されるほどの逸話があるから、人は神になる。
それがないのであれば、最初から神だったのだ。と考えたほうがいい。
少女たちも祭壇ににじり寄り、祈りを捧げだす。その背は震え始め、最後は少年にしがみついて嗚咽を漏らしていた。
「あのさ、この人たち、兄妹なんだって」
「そうなんだ…」
「さっき、外で言ってたの聞こえたけど、『俺だけにして、妹は助けて』って…」
「悪かったなあ。そこまで覚悟を決めさせてしまって」
どれほど、少年は悲壮な思いを浮かべながら、ここまで歩いてきたのだろう。それを思うと、胸の奥がしくしくと痛む。
「…やはり、ナランハルにこのような不名誉なまねごとをさせるのは…」
「いや、作戦自体は間違ってないさ。ミク。俺が変態クソ野郎と罵られたとしても、彼らを安全に保護できるならおつりがくる」
「それであれば、私がその役目を負いましたのに」
「将軍、有名人だからバレちゃうかもしれないし☆ナランハル、いい具合に無名だからね☆」
「ミクは三黄岡の戦いで大活躍したもんなあ。それに、新婚さんなのに変な噂がたつのは悪い」
数年前、カーラン真皇国が仕掛けた渾身の一戦は、アスランの大勝利に終わっている。
その戦いでヤルトミクは、手勢千騎を率いて敵軍五千を打ち破ると言う武勲を打ち立て、「赤熊」の異名をつけられた。
振るう双鞭は曲がり、甲冑には十本以上の矢が突き立っていた、とその武勲は謳われるが、実際にはもっとすごい有様だったとファンは聞いている。
敵がカーラン真皇国に関わる者であれば、「赤熊」ヤルトミクの名は知っている可能性が高い。
凄まじい強さと、清廉な人格で知られるヤルトミクが下劣な欲望を示せば、食いついてくるか、罠かもしれぬと疑うか。相手の性格や何かがまだわからない以上、読めない。
つまりは、賭けになる。
それなら、落ちて困る名でもなし、自分が下がっておくのがいいだろう。
ファンを見るミクの顔には何とも言えない表情が浮いていたが、「この話題はここまで」と打ち切って、ファンは祭壇へ…その前に跪く少年たちへと視線を戻した。
その視線に気づいたのだろうか。顔をごしごしと擦りながら、少年は祭壇からファンたちへと向き直った。そのまま、床に顔を伏せ、声を張り上げる。
ところどころ掠れ、上擦っていたけれど、感謝の意を述べられているのは分かった。
イフン語の全くわからないヤルトミクとフタミにも、その意味ではなく込められた想いは伝わったのだろう。二人の顔に、微かな笑みが浮かぶ。
「さて☆じゃあ、通訳さんらにはお仕事してもらいましょうか☆」
「お任せですぜ、ゲヘヘ…」
フタミの声に、居住域にいたヅックが進み出る。その手には盆があり、湯気を立てる竹製の湯飲みが三つ、乗っていた。
『ホレ、とりあえず飲め。毒じゃねえから』
『お腹すいてたりしない?』
三人はしばし躊躇っていたが、まずは少年が手を伸ばし、湯飲みを手に取る。
ず、と啜ると、湯気と共に口元から緊張が抜け、唇が緩んだ。
「ナランハルから見て、彼らには不自然なところはありませんか☆」
「ん?ないよ。祈りの言葉もクオンたちの村で聞いたのと同じだったし。すこし、抑揚が違っていたけど、村ごとに特色があるみたいだしね」
「そうですか☆」
「…フタミ殿の懸念は、彼らが…無事すぎること、であるか?」
顔を顰めながら、唸るように問うヤルトミクに、フタミは頷いて見せた。
そのやり取りに「ああ」と頷いたのはファンとヅックで、クオンは不思議そうに眼を瞬かせる。
「え?どういう事?叔父さんもわかんの?」
「お前はわからんでいいことよ。ちっと、この子らに飯も食わせてやってれ」
甥の肩を叩き、ヅックはファンたちの側に移動した。ほんの数歩の距離だが、声をひそめればクオンを含む少年らの耳には届かずに済む距離だ。
「ヅックさんは、わかるの?」
「…攫われて売りとばされた子供や娘っ子を、買い戻しに行ったことが何度かあるんでね」
吸い付いた蛭やダニをこすり落とそうとしているかのように、ズックは両腕を擦る。その顔には嫌悪感が満ち溢れ、彼がどんなものを見たのかを雄弁に語っていた。
「うん☆彼らは見た感じ痩せてもいないし、日常的に暴力を振るわれた様子もない☆少し、疲れているみたいですが、憔悴しきったってほどじゃない☆」
「村を占拠され、捕まっているにしては…元気そうだ」
「しかし、だからと言って、奴らがただの村人とは思えませんが…」
「ああ!あいつらァ偽者だよ。違いありやせんぜ!」
少年たちは、どうやらひどい扱いを受けているわけではない。
しかし、村が乗っ取られているのは間違いない。
「…ともかく、彼らに話を聞けばわかるさ。落ち着いたかな?」
大人たちのひそひそ話の間、クオンは言われたとおりに用意していた食事をふるまっていた。
糯米に細かく切った生姜と小魚で作った魚醤をかけ、竹の葉で包み蒸しあげた粽は、このあたりではごくありふれた料理だ。
うまそうに食べてはいるが、がっついた様子はない。常日頃、空腹に苛まれているわけでもないようだ。
『話、する。食べる…食べる、続ける、良し』
ごくんと口の中の物を飲み下し、少年は頷いた。むしろ、待ってました!と言わんばかりに口を開く。
妹たちも兄に続き、口々に現状を訴え始めた。早口のイフン語はファンにも半分程度しか聞き取ることができず、自然と視線は通訳二人に集まる。
「…なんか、妙なことになってるみたいですぜ」
「妙な事?」
ヅックが主に説明し、クオンが補足する形で語られた内容は、まさに「妙な事」としか言いようがなかった。
まず、やはり本来の村人たちは別の「卓」にある隠し村に移住させられている。これは、予想通りだ。
侵入者たちは、ある日突然やってきた。最初の襲撃で七人の村人が殺され、その倍くらいの怪我人が出た。怪我人たちはこの村の中にある家に分けて閉じ込められ、一応、治療はされているらしい。
そして、村人は大人の男とそれ以外に分けられたそうだ。
子供たちのうち数人は、親から引き離され、隠し村の中にある家に閉じ込められた。そこは常に見張られ、中にも何人も見張りがいる。
そして、もし誰かが逃げたり、逆らったりすればその子供を殺す、と侵入者たちは宣言した。
実際、それでも助けを求めに若者数人が村を出ようとし…子供が二人、殺された。それ以来、村人たちは誰も逆らわなくなり、侵入者の言う通りに動いている…それが、少年たちが語った、現在の村の状況だ。
「…侵入者の中に、イフン語が話せる奴がいるのか」
ファンの懸念を、クオンが少年に訳する。
首は横に振られ、帰ってきた答えはその逆だった。
「村の年寄りに何人か、カーラン語がわかる人がいるんだって。昔、カーランに住んでいて、こっちに帰ってこれたって人たち」
「ああ、なるほど…」
奴隷狩りにつかまり、カーランへ『出荷』された人々の子や孫が、親の遺骨や遺髪を携えて天卓山地に戻ってくることは、数十年前までは良くあることだった。この村の老人のうち幾人かが、そうした人々だったのだろう。
「子供のうち、閉じ込められてんのは幾人かだけで、あとは家族と暮らしてるんですと。で、毎日閉じ込める子供は変わる、と」
「なるほど☆自分の子を犠牲にする覚悟を決めても、毎日変えられたら無駄だ。自分の子を殺されたくないのは当然だし、勝手に村人同士で牽制しあう☆」
「…それ以外に、食べ物を取り上げられたり、暴力を振るわれているってことはないのかな?」
「ないみたいだよ。先生。そいつらの食べる分は持っていかれるけど、自分たちのがなくなるほどじゃないって」
それなら、少年たちが弱った様子がないのも頷ける。
だが…より一層、なんのためにそんなことをしているのか?という謎は深まるが。
「大人の男たちは、何をしているの?今まで通り、狩りやなんかを?」
ファンの問いが再び訳されると、少年たちは顔を見合わせた。
その顔は、間違いなく、答えを知っている。
だが、答えていいものか迷っている。そう見えた。
だが、迷いの時間はそう長くかからず、少年は眉を吊り上げ、口を開く。
その黒い瞳が見たのは、ファンではなくクオンだったが。
問われた言葉に、クオンは迷いなく頷いた。ヅックも大げさに身振り手振りを交えて賛同しているようだ。
「なんて?」
「ファン先生は、イフン人の味方かって」
「そりゃあもう、なんたって大アスランのナランハルにあらせられるぞって言っておきましたぜ!ゲヘヘ」
少女が小さく、「ナランハルってなに?」と問いかけるのは辛うじて聞き取ることができた。クオンが、「アスランの王子様だよ」と説明すると、三人の目がこれ以上ないほど大きく見開かれる。
「クオン、だからって怖がったりしなくていいって言っておいて」
「言っといた!この人は竹の乳を食べたりするし、雄鶏に負けるような人だから、大丈夫だって!」
それで安心されるのもどうかとは思うが。
ただ、効果はあったようで、三人の目は普通の大きさに戻り、こそこそとクオンに何か問うている。たぶん「雄鶏に負けたの?どうやって?」とか聞いているのだろう。
あの雄鶏は牝鶏を十羽は従えるような奴で、特別強い奴だったんだから仕方がない…と弁明しようとして、ファンは言葉を飲み込んだ。どっちにしろ、鶏に散々蹴っ飛ばされて這う這うの体で逃げたことは間違いないのだし。
少年は、消え入りそうな声で何かを伝えている。ファンがかろうじて聞き取れたのは、「キサヤ」という神の名だけだった。
だが、少年の語った内容は、とんでもないことだったらしい。ヅックもクオンも、へたりと尻を床に着けて何かイフン語で呟いている。
それがどんな意味かはファンもよくわからないが、「よくないこと」が起きた時に、彼らが口に出すまじないの言葉であることは知っていた。
「…彼は、なんと?」
「…ごめん、ファン先生。これは…」
「いんや、クオン。こりゃ、言わなきゃなんねぇわ」
「おじさん!?」
今まで見たどの顔よりも苦渋に満ちた厳しい顔で、ヅックは首を振る。
額からは汗が湧き出し、頬を伝うそれを、意味もなく何度も拭う。
「だが…話せるのは、ファン先生だけだ。申し訳ねぇが、将軍様たちは下がっててくんねェかな?」
「わかったよ。ミク、フタミさん。しばらく、外に出ていてもらって良いかな」
「しかし、ナランハル!」
「何かあれば、二人が駆けつけるくらいは持ちこたえるくらいできるよ。それに、二人を外に出したほうがそれらしいだろ」
ぐ、と言葉に詰まるヤルトミクの肩を、フタミは軽く叩いて視線を戸口へと向けた。
「では、しばらく外にでましょう☆」
「フタミ殿…!」
「命令ですよね☆ナランハル?」
「うん。命令だ」
こうなれば、ファンは何が何でも撤回はしない。それをよく知っているヤルトミクは、ため息とともに頷いた。
「何かあれば、すぐに」
「何もないけどね。ヅックさんが俺を信じてくれたように、俺もヅックさんを信じている。ちょっと金に汚いし文句が多いけれど」
「ちょっと、かなあ?」
「うるせぇ!金がないのは首がないのと一緒なんだよ!お前もいずれわかるわい!」
最後に振り返り、一礼したヤルトミクが家から出ると、ヅックの顔が再び苦渋に満ちたものになった。
どうやら、これから語る話をよそ者にするのは、イフン人にとってよほどの禁忌のようだ。
ものすごい興味深い話っぽいけれど、本に書いたりするのは…ダメなんだろうなあ。
残念に思うが、致し方あるまい。
「先に誓おう。今から聞く話は、誰にも言わないし、文章にもしない。クロウハ・カガンの名に懸けて誓う」
「そうしてくだせぇ。正直、あんたに話したことが知られたら、村に戻った後でぶっ殺されても文句は言えねぇ。そういう話だ」
「…うん。町に住んでいる人は知らないんだけどね。村を出るときに、絶対口外しないって約束して出ていくから」
「町生まれの人は、存在すら知らないってことか…」
「まあね。なあ、ファン先生よう、先生は、キサヤについて何を知っている?」
潜められた声に、ファンは首をかしげながら、梁からぶら下がるキサヤムムを示した。
「ああ。そうだ。だが、キサヤムムはあくまで、『キサヤのかけら』だ。つうか、キサヤの部下とか、そういうもん。祀られてキサヤの代わりに村を守る」
「つまり、キサヤそのものじゃない?」
「ああ。キサヤは…封じられた神だ」
どっと、ヅックの額に汗が噴き出した。顔色は悪く、手や唇は震えている。
その存在を語るだけで、これほどまでになる神。
よほどの悪神、邪神なのか。それにしては、祈りの言葉はキサヤに対する感謝に満ちている。
もちろん、悪をもって悪を征す、という事はある。アスランで祀られる土地神の中には、とんでもない悪党や魔獣だっている。キサヤがそういったモノではないとは限らないだろう。
だが、違う。そんな気がする。
「昔、イフンがカーランに攻め込まれた時、俺たちの先祖は戦った。だが、相手にもならなかった。イフン人は戦いに勝てば、怪我人は見逃した。助けを求められれば、カーラン人だって助けた。
だが、カーラン人はそんなことをしなかった。女は犯し、攫い、売り飛ばし、男は奴隷としてこき使った。逆らえば生きたまま焼かれたり、岩を縛り付けられて沼に投げ込まれた」
カーランの最盛期。アスランが建国される前のことだろう。ファンの先祖たちも獣として狩られ、囚われれば家畜として売られた。
大祖クロウハ・カガンの妻であり、開祖の母であり、国母として今も祀られるライマラル。
その父は生きたまま犬に食われ、母と姉はそれを見せつけられながら凌辱され、その後どうなったかわかっていない。
「戦うことも許されず、俺らの先祖にできることは…神に祈ることだけだった。俺たちイフンの守り神、キサヤにさ」
「そうか。キサヤはそのまま、神の名なんだね。けど…」
「何故、そんなになってんのかってのはな。この話の続きを聞いてからにしてくれ。
先祖の声に、キサヤは禁忌を犯した。つまりさ、自ら顕現して、カーラン人どもを蹴散らした。そのおかげで、俺らの先祖は生きながらえることができた」
神自らの顕現。
それは、よほどのことがない限り許されないことである、らしい。
ファン自身、己に刻印を授けたマース神と、未来の守護者であるクロムに刻印を授けた騎士神に会ったことはあるが、あのくらいまでが許される範囲のようだ。
もし、授けられたきっかけになった殺人者どもを…それが黄昏の神に唆されたものであったとしても…マース神や騎士神自ら討伐していれば、間違いなく禁忌を侵すことになっただろう。
それができないからこそ、満身創痍のファンと、まだ子供のクロムに刻印を与え、己の力で対処させたのだから。
神が人間に直接力を振るえば、人間に打つ手はない。ある神が見かねて手を出せば、ほかの神もそれならばと出てくる。
そうなれば、人間そっちのけで神々の戦いが始まり、創造神を追放してまで守った世界が壊れてしまうかもしれない。
だから、神々が直接手を出すのは本当にどうしようもない時だけだ。地上に落ちてきた星を、雷帝と守護双神が受け止め、天に戻した時のように。
その時も、ただ足を踏ん張っただけで内海が形成されるほどの影響が出たのだ。
これが力ある神々同士の戦いともなれば、どんなことになるか…嫌な想像がつく。
「キサヤは、炎公レイファに仕える鍛冶神だ。禁忌を侵しちまったキサヤを、レイファは天卓山地のどっかに封印した。そんで、俺たちイフンの民に、キサヤを祀ることを禁じたんだ。
もし、禁を破ればキサヤの封印は未来永劫とけなくなるって神託付きでね」
「だからね、俺たちはキサヤムムを通してキサヤに感謝を捧げているんだ」
余所者に話さないのは、そういう事か。
もし、「善人」が余計なお世話を焼いて、キサヤを祀れば…イフン人たちは大いなる『親』を喪う。
己が罰せられるのを知ってなお、民を助けようと顕現した、優しい『親』を。
「キサヤの封印は、五百年で解けるらしい。あと、二百年ちょいくらいかね。だが、それより早く封印を解く方法がある」
「…三百年間、誰も試してないってことは、よっぽど厳しい条件なんだね」
「ああ。まず、キサヤがどこに封じられているのか、誰もわからん。それを見つけなきゃなんないのと…封印を解けるのは、『イフンの血を持たないもの』つまり、余所者だけなんだそうだ。
でな…封印を解いたものに、キサヤは力を貸す。そう伝えられている」
つまり、イフン人だけではどうやってもキサヤの封印を解くことはできない。
しかし、封印を解いた余所者が、キサヤの力をどう使うかわからない。
「…ちょっとね、村のみんなと話してたんだ。ファン先生に頼んで、キサヤの封印、解いてもらったらどうかなあって」
「イフン人の血が入ってないってことだけが条件なのか?」
「それがわかんねェのよ。何せ、年寄りどもは余所者は敵って思いこんでるしさ。余所者なら誰だって良いのか、ほかにもなんかあるのか、少なくとも俺は知らん。
でもまあ、そう思ってるやつがいるってこった」
吐き捨てるように言って、ヅックは少年たちに視線を向けた。
「村の男衆は、キサヤの封印の場所を探せって命令されてるらしい。どうも、この村の近くにあるって、なんか知らねェけど、決めてるみたいだぜ」
「この村には、何かそんな伝承でも?」
再びイフン語のやり取りが交わされる。だが、少年から返った最初の意思表示が横に振られた首なので、伝説伝承の類などはないのだろう。
「ないって。でもね、この村、キサヤ・ラカムがいっぱい生まれるんだって」
「そっか。キサヤは鍛冶神だから、キサヤ・ラカムはイフンの白鉄を精製できる温度がわかるのか」
「うん。キサヤ・ラカムは、キサヤの力をちょびっと持って生まれてくるんだ。ほんのちょびっとね」
「生まれつきの刻印持ちみたいなものなんだろうなあ。いや、あの緑の瞳が刻印なのか?」
「いんや、キサヤの刻印は確かに目に宿るらしいけどよ。本当に持って生まれたら、真の鋼だって扱える鍛冶師になるっていうぜ。そんでできた武器やら鎧は、神々へ捧げられたとか」
神々に捧げられた武器と聞いて、ファンは開祖が雷帝より賜った五種の武具の存在を思い出した。
そのうちのひとつ、『紅鴉の爪』は代々アスランの二太子と、その守護者だけが持つことを許される神剣だ。
紅鴉が己の爪と一体化した真の鋼を削り出し、剣にしたと伝えられる一振りだが、もしかしたら鍛えたのは、キサヤの刻印を持つ鍛冶師だったのかも知れない。
「でね、最後のキサヤの刻印持ちが、炎公に頼んで殉死したんだって。その人の亡骸と、最高傑作の剣が一緒に封印されているんだよ」
「…神の鍛冶師の、最高傑作か」
それもまた、欲しいものに違いない。ただの名剣であったとしても、イフンの民にその存在は大きい。
アスランの内部へ食い込むことと、神の力、神剣を手に入れること。
どれが最大の目的なのか。
いや、おそらく、どれもが目的だろう。欲張りなことだが。
もともとは二太子の暗殺、あるいは篭絡目的で、士官学校の実地訓練をイフンに誘導しようとしていたのだろう。
それは失敗に終わったものの、バヤルジンという次の標的が現れた。
神の力と神剣の入手については、その最初の失敗と再計画の合間で、何か情報が入ってきた…と考えるのが妥当か。
この村だと決めた根拠は不明だが、キヤサの封印がこの村になかったとしても、多く生まれるというキサヤ・ラカムを手に入れることができる。
そうなれば、イフンの白鉄を精製し、武具を自国で作成するという目的は、少なくとも達成できるわけだ。
なんとなく、この計画の実行に許可を出した誰かは、うまくいくと思っていないんじゃないか。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
目的とは、できる限り一つに絞るべきだ。
少なくとも、同じ方向であるべきだ。
何かを志すより、諦めるほうが、難しい。
今回、『敵』はアスラン内部へ潜り込むための足掛かりを順当に得たとして、神の力と神剣を諦めることができるだろうか。
長引けば、必ず誰かは不審に思う。少なくともこの村は、年に二回、必ず納税を行っているのだし、村の産物を町まで売りに行くこともあるかも知れない。
賊に襲われ、たくさんの死人が出たと聞けば、近隣の村から親類縁者が見に来ることだってあるだろう。
それらをすべて、躱し、誤魔化しきれるものではない。
できると思っているのなら、『敵』は相当、この村にキサヤの封印があることに対し自信を持っている。
「それらしいものは、見つかっているの?」
「ぜんぜんみたいだよ。それで、最近はちょっと怖いんだって」
「怖い?」
「うん。なんかおっさんと、さっきのお姉さんが良く言い争っているみたい」
新たな情報に、ファンは首を捻った。
さっきのお姉さん…シャリハが、『敵』の首魁という事はないだろう。
おそらく、油断させ潜り込むための密偵だ。
となると、「懐に潜り込む」ことを第一とするシャリハと、キサヤを捜す男たちの間に亀裂があるのか。
「なんて言い争っているのかは…わかんないか」
「うん。カーラン語らしいんだけど。ちょっとだけ、単語がわかったって。ダメとか、ハイ、とか」
村の年寄りに教わったのか、それとも、年寄りたちがつい口にしたのを覚えているのか。
どちらにせよ、カーラン語を話す、という事は、やはりカーラン真皇国の手の者であるという、証拠の欠片だ。
「もし、キサヤが力を貸したら、どんなことになるんだろう」
「そりゃあとんでもないことになるさ。キサヤの一蹴りで、山がいっこ吹き飛んだんだぜ」
そんな力を、人が手に入れたら。
しかし、そんな力を部下が持つのを、真皇は厭わないのだろうか。厭わずにおれるほど、信頼している部下を派遣してきているという事か。
「キサヤの封印については、とりあえず置いておこう。ミクたちには、どうやらこの村周辺に、魔道具が隠されているみたいだって説明にしよっか」
「あのさ、ファン先生が先に封印解いちゃうのは!?」
「あるかどうかもわからないしなあ。それに多分、俺には解けない」
「なんで?」
「五代大王の父は、三代大王が寵愛した歌姫の子だけれど、その歌姫は抜けるように白い肌と、泉のような緑の瞳だったそうだ。イフン人…さらに言えば、キサヤ・ラカムだった可能性がある」
もしそうなら、ファンの中にはイフンの血が流れている。ほかにどんな条件があるにせよ、そもそも第一条件で引っかかるという事だ。
「ええ、そうなの!?アスラン王家には、イフンの血が流れているの!?」
「俺の推測だけれどね。名前すら伝わっていないし。ただ、彼女の孫が五代大王ジルチであり、そのジルチがイフンをカーランから解放したってことは間違いない」
「そうなんだあ…」
「ちょいと、ナランハル。そういうことはもっと大々的に宣伝してくださいよ!もしかしたら、あやかりてえって人がトパワクにいっぱい来るかもしれねぇし、そしたら通訳の仕事がわんさと入って報酬がっぽりじゃあありませんか!」
誇らしげに目を細めるクオンと、欲の皮を突っ張らせるヅックという対照的な叔父甥の姿に、ファンは苦笑を漏らした。
「ヅックさんを麓におろすの、明日にしてよかった。通訳、助かったよ」
「ぐへへ、お役に立ったなら、ねえ…?」
「とりあえず、前払金」
苦笑しつつ、はめていた指輪を抜き取り、放る。
細工も何もない、ただの金の環だが、売れば当然それなりの金になるし、いざという時の隠し金にももってこいだ。これくらいなら、飲み込んで胃の中に隠せる。
「うえはあっははー!!やらっぱー!!」
「…なんて?」
「うーん…うれしすぎて、壊れたって感じかなあ」
ぎょっとして身を竦める兄妹に、クオンは呆れた顔で何か伝えていた。多分、「気にしないで」とかそういう事だろう。
「先生、本当にここにキサヤが眠っていると思う?」
「わからない。わからないけど、早急に何とかしたほうがいいね」
もし、本当に、封じられた神が眠っているとしたら。
それを、『敵』が見つけ、解放してしまったら。
民を守るために禁忌を侵し、ただ一人の殉葬者とともに眠るキサヤに、その民を苦しめるような真似をさせることに、なるかも知れない。
山を一蹴りで吹き飛ばすような力。
それを真皇国が手に入れれば、使う先は間違いなくアスランだろう。
この地を守るアスラン軍の多くは、イフン出身の兵だ。
神の力が散らすのが、その命であってはならない。
「ミクたちを呼び戻して、作戦を練ろう。キサヤにあと二百年、眠ってもらうためにもね」
***
「神剣…ですか」
「うん。ひょっとしたら、『紅鴉の爪』に匹敵するほどの」
ヤルトミクは難しい顔で唸り、フタミは目を半分に細めながら笑っている。間違いなく、信じていない。
「…ってことに、しといてほしいんだ。実際、それも嘘じゃない。クロウハ・カガンの名に懸けて誓ったことは破れない」
「心得ました。ナランハルがそうおっしゃるのでしたら」
「俺らが知らなくても問題ないって判断したってことで、いいんですよね☆」
「うん。肝心なのは、奴らが『何か』を探していて、それはひょっとしたらアスランの脅威になるかも知れないってことと」
もし、先に『敵』が封印を解いたら。
その時は、ファンがキサヤの事を語っていようといまいと、同じことだ。ここにいる、全員が死ぬ。おそらく。
神の力を手に入れたのなら、アスランの王子も将軍の息子も、篭絡なんてしなくていい。そんなことをするより、アスラン自体を攻め落としたほうが早いだろう。
「どうやら、『敵』は方針でもめているっぽい」
「それなら、俺の出番☆ですね!」
とん、と分厚い胸板をたたくフタミの横で、影のようにひっそりと、アグンが頷く。
「…『親蛾』止まりました。『子』を放てば、追えます…」
「ちょっと、偵察してきます☆アグン殿が、いい呪具を貸してくれましたし」
「呪具?」
「はい☆この人形が見聞きしたものを、アグン殿が再現できるそうです☆」
「…時間。あまり、持ちません…気を付けて」
「承知☆」
片目をばちりと閉じて見せてから、フタミは立ち上がって戸口から出て行った。
入口にかけられた筵が巻き上がり、微かに揺れて外を覗かせたが、そこにはもう、フタミの背はない。
「…盥。水を張って…所望します」
「バヤル、ジノ君。用意してあげて」
「かしこまりました!」
ジノ、とファンが名を呼んだ青年こそ、親の商売敵の身勝手な逆恨みを受けていた商家出身の生徒である。
見知らぬ男の恨みのせいで、彼らはこのイフンに派遣された。その男もまた、裏で操られていたのだとしても、男の愚行がなければ級友たちはこの地で荼毘に付されることはなかっただろう。
だが、それを彼が知る必要はない。
ジノがファンたちの拠点となった村長宅に呼ばれているのは、彼もバヤルと同じく、学生たちの隊長の一人だからだ。
もう一人の隊長は、自ら志願してまだ見張りについている。
親衛隊の騎士たちに歩哨のやり方などを習うのが嬉しいらしく、頭を使うのはあまり得意ではないから…とおずおずと願い出るのを、ファンもヤルトミクも笑って許した。
バヤルジンが盥を床に置き、その中にジノが水を満たしていく。今は何も映らず、ただ盥の底を揺らめかせて見せているだけだ。
その水をバヤルジンは、食い入るように見つめていた。まだ、シャリハが敵であると信じたくないのかもしれない。
まあ、その気持ちはわかる。なんとなく、若くて綺麗な女性は善人であってほしいものだ。実際には、『悪女』と呼ばれる彼女らは、たいてい若くて綺麗な女性であったりしたものだが。
ファンがそんなことを考えているとも知らず、ただひたすらにバヤルジンは盥を見つめている。誰も話さず、木々が風に揺れる音と、お役目ごめんとばかりに床に就いたヅックのいびきが、薄い木の壁を通して聞こえているだけだ。
そのまま、時がゆっくりと過ぎ。
ふいに、アグンが刺青に彩られた手を盥にかざした。
ぱらぱらと何かの粉が水面に落とされ、それは墨のように広がっていく。
『どうも☆現場のフタミです』
フタミの囁き声は、確かに水面から聞こえていた。
同時に、盥の底の代わりに、夜の森が映し出される。薄い月の光だけが光源ではない。赤い光があたりを照らしている。
それが煙と火勢を抑えて焚かれた火だとわかったのは、映される光景が変わったからだ。
おそらく、フタミが人形の顔をそちらに向けたのだろう。
焚火のそばにいるのは、二人。シャリハと、三十前後に思える男である。
男はしきりに首筋を布で拭い、シャリハを迎えた。
『どうだ?首尾よくいきそうか?』
『はい。…あの子たち、明日生きて戻ればいいのですが』
『気の毒だが、致し方あるまい…。できることならば、救い出したいが…二太子の首を取るのは、まだ早すぎる』
『…わかっております』
会話は、カーラン語だ。カーラン語でも、西の方の訛りだなとファンは頷き、訳していく。
『陛下がこの地を治めれば…理不尽な王侯貴族どもに踏みにじられる民はいなくなる。あの下劣な…悍ましい男の首も、必ず撥ねて仇は討つ。今は、堪えよう』
『ええ。そのために、わたくしは全てを使います。必ず…!』
まず、お前らがその踏みにじられる民を見捨てておいて、か。
さすがにムッとしつつ訳すと、ヤルトミクの眉間に深い皺が刻まれた。思いきり怒っている。アイツ、間違いなく死ぬなあと思いつつ、ファンは黙りこくった男女を見つめた。
もし、自分が逆の立場だったらどうするか。
作戦遂行のために、酷い目に合うとわかっているのに差し出すか。
考えてみたが、答えは出ない。
そもそも自分なら、村を一つ侵略し、乗っ取っておいて、自分たちが被害者面はしない…と思う。
村人からすれば、彼らもファンたちも、ひとしく『侵略者』であり、人質を取られて働かされるのも、親と引き離されて武器を持った大人に一日中見張られているのも、「優しくしてくれてありがとう」とはならないだろうに。
泣きながら傭兵たちに捨て駒になれと命じた真皇と、彼らの思想の根は同じなのかもしれない。いや、そういう色に根を染められているのか。
自分たちは善を為している。だから、どれだけ犠牲が出たとしても、それは許される。
そんなわけはないだろう。
その犠牲を全く無くせるのなら、どれほど極悪な王であっても希代の名君と称えるべきであるし、慈悲の果てに焦土と白骨しか残らなかったのなら、どれほど崇高な志を持っていたとしても、歴史に名を刻む暴君と蔑むべきだ。
男女はそれきり押し黙り、しばらくして盥の水面は再びそこの木目を映し出した。
「…あとはフタミさんの偵察結果を待つか」
「ナランハル。ひとつ、どうあっても聞き届けていただきたい願いがございます」
「さっきの奴の頭をカチ割りたいっていうなら、一応待ってくれ。お話しできるようならできるようにしたいからな。どうもアイツが責任者っぽいし」
「努力はいたします。が、止められぬやもしれません」
「ミクがそこまで怒るって珍しいなあ。顔が気に入らないとか?」
その巨躯から滲み出る怒りの気配に、バヤルジンとジノは息をすることすら止めて固まっている。
二人の前で軽く手を叩いて硬直を解除してやりながら、ファンはわざと軽くおどけて見せた。
「ええ。気に入りませんな」
だが、帰ってきた答えは肯定。
目を瞬かせるファンに、ヤルトミクは力のこもった視線を向ける。
「むろん、ナランハルを罵倒し、そのお命を奪うなどと申したこと。それだけで万死に値いたします。ですが、それだけではございません。
奴のあの顔。あの顔は、差し出した子の運命を憂いておるのではござらん。むしろ、その悲運を…喜んでおりまする」
「喜んでいる?」
「はい。喜んでいる…とは少々違うやも知れませぬ。なんと申しますか…その悲運をもたらした相手を、批難できることに酔っている、と申しましょうか」
「ああ…なんとなく、わかるよ」
男の顔には、笑みがあった。
それは、今は苦しくとも笑うしかない、もしくは、シャリハを慰めるために無理に浮かべた笑みではなかった。
「正義とは、もっとも人を悪酔いさせる旨酒である。我が家の教えにございます」
「俺も気を付けるよ」
「ナランハルは、その御心のまま歩まれよ。万に一つも過ちあれば、我ら臣下がお諫め致します」
王族の命令に背く…そこまでいかなくても、機嫌を損ねることが、どれだけ危険なことか、当然ヤルトミクは分かっている。
それでも諫言すると約してくれるのも、ファンならば諫言された事でヤルトミクに罰を与えるようなことはしない…そう信じてくれているのも、嬉しい。
こんな信頼を寄せられるほど、自分は優れた主だろうか。
そう考えると、自信はないけれど。
だが、ありがたいことに変わりはない。足りる主でなくとも、ヤルトミクの信頼と忠誠を裏切るような真似は決してしない。そう、今は思おう。
「ありがとう、ミク」
口からするりと零れた礼に、ヤルトミクは先ほどまでの怒りを霧散させ、ほのかに口角をあげながら、頭を下げた。
「もったいないお言葉にございます。…さて、私が奴めの顔が気にくわぬと申し上げましたのは、このような由にございます。まこと、あの少年らの身を案じるのであれば、斯様な顔はいたしませぬ。口では案じながら、腹の奥では何とも思っておらぬ」
餌に獲物が食いついたと嘲笑っている方が、確かにまだ潔いかもしれない。
「そうだな。まあ、実はあの子たちは全然何ともなく無事で、今、やすらかに寝ているって事実が、一番の仕返しかも知れないな」
「はは、そうですな」
奴らが望んだような展開にはならない。
恐怖に震えてこの夜を過ごしているのは、親から引き離され、人質にされている子供たちだけだ。
「フタミさんなら、きっと…今晩中に人質の子も見つけてくれるだろうしね」
***
闇の中、風が奔る。
梢を揺らし、ほんの一瞬、地上に影を落とし、しかし、遭遇したものは、その形を捉えることはできない。
羽ばたきもせず飛んでいく『蛾』を追いかける、フタミの姿を。
靄を通した月明かりさえ、彼には十分な灯りだ。
先ほど見つけた男女の語らいは、覗き込むように置いた人形が見てくれるだろう。
もし、うまくいかなくてもそれはそれで構わない。何を企んでいるのか、誰が首謀者なのか…そんなものは、雑談から漏れるわけはない。後でたっぷりとおしゃべりして貰えばいいだけだ。
それよりも抑えておきたいのは、人質が閉じ込められているという家屋の位置。
そして、敵の人数だ。
そう多くはないだろう、という見解は、全員一致している。
村人に食料を供出させているのだとしても、百人以上いるのなら村人たちはもっと飢えているだろう。食料が有り余るような土地ではないのだ。
それでいて、三十人の未熟者とはいえ武装した若者を殲滅させられる戦力。
となれば、その倍程度ではないか…と言うのが、ヤルトミクの見立てである。
もしくは、その時だけ増強したか。
その方が可能性としては高いかな、とフタミは思い…ふと、鼻をひくつかせた。
届いたのは、微かな腐臭。
『蛾』は、その腐臭が流れてくる先とは違う方向に飛んでいく。
ほんの一瞬の半分ほど逡巡したのち、フタミは指先を弾いた。
微かにちかりと光って飛び、木の幹に付着したのは彼自身の血である。
己の血の臭いを辿れば、この場所まで戻ることができる。
その先に何があるか、なんとなく予想はついた。腐臭は、実によく嗅ぎなれたもので、なにが元であるか確実に当てられる。
だが、今は優先すべきことはこちらだ。
まだ腐っていない方を探し出し、腐臭を発する前に助ける。
(子供は…特に、腐りやすいからね)
持ち上げた我が子の断面から、立ち上がった臭い。
ぐずぐずと腐った肉が指の隙間から零れ、蛆が肌を這いずり回る感触。
それを忘れられることは、きっと一生、ない。
そんな記憶を、その子の親に植え付けたくはない。
記憶の奥底から湧き出ようとしてきた臭いと感触を、フタミは微かに目を閉じ、押し戻した。それでも木の枝を蹴り、岩を跳び、風を切る速度は些かも衰えることはない。
やがて『蛾』は、ふわりと高度を上げた。
見上げれば、そこは切り立った崖だ。道はなく、ただ丈夫そうな縄梯子が降ろされている。
その縄梯子に目もくれず、フタミは崖の岩肌に手をかけた。確かに崩れやすいが、途中途中に木が突き出し、棚もある。登れないようなものではない。
しかし、木々の間を移動するよりははるかに人目に付く。
いったん一番近くの木の梢に身を潜め、あたりの様子をうかがった。
この地の木は、枝が細く先端部分が広がり、そこに葉が生い茂っている。少ない日光を何とか受けるための形なのだろう。
到底大男に分類されるフタミの体重を支えられる用には見えない枝だが、一度わずかにしなった後は、音もなく密偵を支え、その姿を隠している。
もっともそれは、この木の枝がとりわけ丈夫というわけではなく、フタミの卓越した体術のなせる技ではあるが。
微かな月明かりより強い光が、崖の麓付近に並ぶ家…その壁や戸口の隙間から漏れていた。
ふと、そのうちの一軒から人が出てくる。
人数は、三人。全員男だ。
男たちは行燈を手に持ち、それを大きく振った。
すぐに、崖の上からひょこりと男が顔を出し、同じように行燈を振る。
それを見てから、男たちは縄梯子を登り始めた。
(なるほど。上と下は交代制なんだね)
おそらく、上の方が不便の多い生活なのだろう。
入れ違いに縄梯子を降りてきた連中は、疲れをにじませている。それでも何やら笑いあっているのは、降りてこられたことに対する安堵からか。
降りてきた連中が家の中に引っ込むのを見届けて、フタミは身を翻した。ここが出入口なら、そこから離れたほうがいい。
家の灯りが届かない程度に離れると、岩肌を掴み、身体を持ち上げる。
軽々と登り切り、フタミは素早く木の陰に身を潜めた。『蛾』は既に視界から消えているが、もう案内はいらない。
同じように、家から漏れる光が、黒く湿った土を照らしている。
目を凝らせば、小さいながらも畑があり、山羊が飼われていた。明らかに、人が住んでいる村だ。
(さて、と)
自分なら、人質はどこに集めるか。
フタミの視線が射貫くのは、最も縄梯子に近い家。
何かあったとき…村人の反撃などがあったとき、味方が集結しやすい場所だ。
見張りと思しきものが、ぽつりぽつりと立っていたり、巡回してはいる。だが、どの顔にも緊張感はない。何か起こるとは、思ってもいないのだろう。
うまいやり方ではある。人質は取られているが、ずっと同じ子供が、というわけでもなく、戻ってくれば同じように生活できる。女性を集めて慰み者にしているわけでもないようだ。
それなら積極的に抵抗するよりも、諦めてどこかに行ってくれることを祈りながら過ごす…そちらを選ぶものも多いだろう。
そちらが半分より少し少ない程度いれば、ことを起こすのは難しい。無事に暮らしている家族を見れば、何も危険を冒す必要はあるのかと鞍替えするものも出てくるだろう。
(でも、時間の問題だね)
見回り中の男二人がねっとりと一軒の家を見ている。おそらくそこには、若い女性なりがいるのだろう。
町に遊びに行けるのでもなく、何も気晴らしのない山の中で緊張感もなく過ごしていれば…我慢できるものもできなくなってくる。
乱暴略奪が禁じられていたとしても、一人二人かどわかし、はけ口にしたところで…あの指揮官らしき男は気が付くだろうか。
それに最終的に、村人たちを奴らはどうするつもりなのか。
こちらが想定しているように真皇国へと連れ去り、工人として使うのか。
そうだとしても、村人たちがおとなしく移住するわけはない。
必ず、どこかで村人たちは限界を迎える。その時、奴らはきっと、裏切られたという顔をするに違いない。
子を人質に取られ、先祖代々暮らしてきた土地から引き離されることを喜ぶものは、滅多にいないだろうに。
(まあ、それも、俺の勝手な想像ではあるけれどね★)
だが、同じことをしてのけた者と、あの指揮官は同じ臭いがする。
残念ながら、その見立てが外れたためしはなかったが。
梢から飛び出し、床下に素早く潜り込む。見張りたちが気付いた様子はない。
枝が揺れたことに視線を向けた者は一人いたが、気にすることではないと思ったのだろう。すぐに大欠伸をして、崖の方に視線を戻した。
思った通り、この家の周囲には見張りが多い。潜むフタミが手を伸ばせば届くような距離に足があった。正面と裏に二人ずつ。
気配は既に断っている。もしも誰かが床下を気まぐれにのぞいても、フタミの存在に『気付かない』だろう。
そこに転がる石の数が一つか二つかなど、誰も気にしないのと同じように。
目を閉じ、聴覚にその分を集中する。もしも、を考えて嗅覚はそのまま、夜の空気と人の臭いを嗅ぎながら、床を通してその上の様子を探る。
微かに届いた、声。
押し殺した声だ。一度拾えば、しっかりと聴こえる。
泣き声。子供だ。数人。呼吸音を数える。不規則な、浅い呼吸が…三。大人の呼吸音が、二。
ばん、と音が響き、呼吸音が止まる。床を叩いた音か。続く怒声は、カーラン語。苛立ち、脅している。うるさい、黙れ、寝ろ!…訛りは酷いが、おそらくそう言っている。
(やっぱりここだね)
ただの怒りっぽいお父さんと子供の家に、見張りは立つまい。
場所は掴んだ。あとはもう一つ探って、明日を待つ。
(ごめんね。もう一日、頑張っておくれ)
大切な人質である子供を、癇癪に任せて殺すような真似はさすがにしないだろう。一人は苛立っているが、もう一人は冷静だ。怒鳴った相方を宥めている。
それでも…迷いがあるのは、先ほど這い出ようとした記憶のせいか。
だが。
目を開き、小さく呼吸する。
迷いも、気配も、音も残さず。
フタミの姿は、床下から消えた。
***
「戻りましたよ☆」
「おかえり」
すぐ近所まで散歩に行って帰ってきたような様子のフタミに、ファンは茶を差し出した。
人肌まで冷ました茶を、フタミは一気に飲み干す。何でもないように見えて、とんでもないことをしてきたのだろうと、その様子からファンは察した。
「さて、それじゃあ報告しますね☆」
フタミが語ったのは、隠し村の場所やその様子、見張りの数、装備、そして子供たちが囚われている家の位置だ。
それらを聞いたのち、ファンも呪い人形が見聞きした内容を伝えた。
「大した話はしていなかったけれど、あの男が指揮官だろうなあ」
「おそらく。見張りの愚痴を少し拾ってきましたが、どうやら大物の縁者のようですね☆その大物への忠義だかなんだかから、あの男に従っている様子でした☆」
「ふんふん」
「それと、あの女性。彼女はあまり、信用されてないみたいです☆」
カーランでは女性の地位は低い。指揮官に取り入って…と苦々しく思うものもいるのだろう。
「ただ、愚痴の内容から察するに、宝探しは彼女の発案のようですね☆こんなことしてなんになるんだ、とか、村人の扱いにも不満なようです☆」
「彼女が、村人を害することを禁じてるって、ことかな?」
「そうみたいですね☆」
その報告に、わずかにバヤルジンの顔が緩んだ。気付いたフタミはぴくりと眉をあげたが、叱責するようなことはしない。言っても意地になるだけだ。
「それと、生徒たちが殺されたのはこの卓…と言うのでしたっけ☆その隣の卓かと思われます☆ここよりずっと狭いですが。血の跡や、回収されなかった身体の一部がありました」
「山賊がくるのはこっちからですって、誘導されたかな」
「おそらく☆いくつか、罠の跡もありましたから、敵は想定より少数で行動したかもしれません☆」
地の利を取られ、初めて経験する実戦。しかも、夜。
生徒たちがどれほど成績優秀でも、最初から不利だ。その不利を覆せないほどに。
「夜戦、しかも慣れない場所で高所を取られ、こっちは丸見え状態なら…投網投げられて矢を射かけられたら終わりだな」
「矢が突き刺さった遺体は確かに多かったようです。動きを止めた後、とどめを刺して回ったのでしょうな」
淡々と語られる級友たちの最期に、生徒二人は顔を強張らせた。二人が想定する「戦」は、もっと違う、華々しいものだったのだろう。
「闇に紛れて網を投げて動きを止めるのは、どっちかっていうとアスラン軍の戦法なんだけどな。してやられたか」
「飛竜がいなくても、高いところから投げればいいだけですしね☆」
本当に投網が使われたかは分からないが、動きを止めるだけなら浅い穴を無数に掘るだけでも、縄を土に埋め、それを引くだけでもいい。
狭い平地に誘い込まれれば、よほど慣れた指揮官でもいなければ密集隊形を取る。取ってしまう。
それこそが、狭隘の地に誘い込む目的なのだが…生徒たちに分かれという方が難しいだろう。
「さて、どういたします?ナランハル☆」
「二手に、別れる。急襲部隊が子供たちの救出と、村人の解放を。同時に、本体がこちら側の制圧を行う。本隊の指揮は、ミク。任せていいな」
ファンの指示に、ヤルトミクは今夜何度目かになる眉間の皺を作った。
「…ナランハル、まさか」
「まさかって程意外か?」
逆に問われ、ヤルトミクは眉間の皺を維持したまま首を振った。
「だって助けに来たかどうか、多少イフン語が話せる奴が一緒に行かなきゃ伝えられないだろ。俺は一ヶ月天卓山地の村で過ごしているから、崖登りの経験もあるし。それになにより」
満月色の双眸が、薄闇に煌めく。部屋を照らす蝋燭の小さな灯より、ずっと強く。明るく。
「子供好きの変態クソ野郎って汚名、返上しなきゃだしな!」




