山は登れば越える。仕事は始めれば終わる。(千里の道も一歩から)5
「いいかい?学者先生。これが、人の食い物ってやつだ。ちゃんと火が通っていて、味がついていて、見た目も良い。ほんっと、大都にお住まいだってのに、わざわざこんなところまで来て、芋虫食おうって気にどうしてなるのかね」
「別に、芋虫食いに来ただけじゃないんですけど」
細々と反論すると、ばん、と卓が叩かれた。
俺を見据える目は、酒に潤んでいて、かつ、据わっている。典型的な酔っ払いの目だ。
大きな音に、近くの卓で食事をしていた人たちが何事かとこちらを見る。
彼らに「何でもないです」と目で訴えながら、酔っ払いの握り締める盃に、酒ではなく茶を淹れておく。
天卓山地での調査を終え、その玄関口ともなる都市であるパラワクまで戻ってきたのは、つい昨日の事。
大学でも猛者を選抜して組まれた調査隊だが、半数はこの街から先へ進めず、残る半数も元気に動いているのは俺ともう一人だけ、と言う有様だ。
何故そうなったのかと言えば、この地域の環境による。
まあ、最初に潰れた半数は、そもそも長旅に耐えられる体力がなかったわけだけど。
選抜した学長たちの「猛者」の基準ってなんだったんだろーか…。
アスラン…特に、大都周辺の気候は、基本的に乾燥している。
雨は降るけれど、何日も降り続くことはない。ざあっと降って、雲は一仕事終えたとばかりに去っていく。
冬は骨まで冷える程寒く、夏は湿気がない分過ごしやすいけれど陽射しは強い。それが大都に住む住人が慣れ親しんだ気候だ。
けれど、この周辺。
天卓山地はほぼ一年中、毎日のように雨が降る。
朝は霧に包まれ、昼間晴れたと思えば夕方には靄が掛かり、夜にはしとしとと雨が降る。その繰り返しだ。
当然湿気はものすごく、気温はそれほどでもないが、身体中、汗とも霧雨ともつかないもので濡れ、血を冷やし肉を強張らせる。
いわば、大都周辺とは真逆の気候。
これに一人やられ、二人やられ…で、残ったのは俺と、もっとじめじめと暑いメルハ出身のもう一人だけだ。
ただ、ダウンした人々を救護しに来たお医者曰く、「肉体的、体力的には限界を超えているのに、精神だけで元気溌剌になっている」のが、俺の状態だったらしい。
なお、その五日後にもう一度診察された時には、「肉体が適応を開始して精神に追いつき始めた」との事で、「本当に人間?」と首を傾げられてしまった。
まあ、確かに身体怠いなあ~とは思ってたけど、寝込んでいる時間がもったいないくらい、この地には『未知』が溢れている。
天卓山地。
その名の示す通り、この一帯は実に奇妙な地形だ。
麓を見れば、ごく普通の山々だ。いや、雲を突き抜けるような高山ではあるけれど、アスラン南のアーナプルナや、北の尽きぬ山のような、天界にまで届こうかと言うような峰…と言うわけでもない。
ただ、その頂がすっぱりと平らかなんだ。
遠目から見れば平たく見える頂上になっている山は、色々ある。火山なんかはその典型だ。とんがった火口を持つ火山、と言うのはあまりない…と思う。
けれど、天卓山地の山々は、火山じゃない。
そして、「遠目から見れば」などではなく、本当に頂きは平らだ。
山肌は岩に覆われ、僅かな植物や地衣類しか生える事が許されないというのに、頂きの平地には森があり、最も広い場所には川さえ流れていた。
見た事がない人に絵以外で説明するならば、「子供が適当に重ねて山にした積み木」と俺は説明するだろう。
円柱や長方形、四角形をとにかく重ねて、高さを作った山。
段差があり、かと言って階段にもなっていない。
天卓山地とは、まさにそんな地形だ。
そして、何より興味深いのは、その平地が「閉じられて」いることだ。
鳥や山羊、豹などの動物にとっては、頂から頂へ移動することはそれほど難しい事じゃない。
岩肌は脆く、崩れやすいと言っても、そこは野生の獣。ものともせずに渡っていく。
けれど、植物や虫、それに両生類にとっては越えられない壁だ。
風に乗って種を飛ばしたり、鳥に食われて糞と一緒に種を撒くタイプの植物はともかく、天卓山地に多く生える羊歯類や茸類、根を伸ばして広がっていくタイプの多年草には、侵入を拒む岩肌は強敵すぎる。
結果、山頂ごとに固有種が育まれ、その総数はどれほどになるのか…想像もつかない。
とりあえず、ゴミムシの仲間だけで標本箱が三つできた。でも、大学でもっとちゃんと調べたら、ゴミムシダマシが一割くらいは混じっているかもしれない。
羊歯類や茸の標本なんて、この町で療養していた学者たちが悲鳴を上げて走り回ったくらいの量だ。これはもう、分類だけで今年が終わるな。
俺自身の覚書帖も十冊はできた。これをもとに…俺の、初めての博物誌を書くんだ。
共同執筆になるから、俺のは全体の十分の一くらいになるだろうけどさ。
でも、全て俺が執筆できるほど、天卓山地は小さくない。
だから今は、これでいいんだ。
初めての、博物誌の執筆。
学者として認められるために、論文は十本以上は書いているけれど、それとは違う。
誰かの説の検証や、言い伝えの裏付けじゃなく、大都から遠く離れた、見知らぬ世界の記録。
書き出しは何にしよう。他の先生方と被らないようにしなくちゃな。テーマはやっぱり、この地に生きる人々の文化と風習とか…
「ほんとにさア!物好きだよ!俺ァ、大都に生まれたら一生大都から出ないね!行ったことないけど!」
あ、そうだった。ここは俺の部屋じゃなくて、まだパラワクの飯屋だ。
パラワクは、昨日まで滞在していた村に比べれば大都会だけれど、気候は当然ながらそう変わりはない。
家や店の造りは、大都では見慣れない高床式の木造建築で、虫よけの香草の束がぶら下がっている窓…硝子ははまっていない…から外を見れば、人々の行き交う道を見下ろす形になる。
その道も、土が剥き出しだ。他のアスランの都市のように、石畳が敷かれ、両側に溝のある構造になっていない。
なにせ、整備しても一年持たないからね。雨によってぬかるんで石畳はガタガタになるし、排水溝は常に水があふれ出る。
それなら、溢れた水がおとなしく川に流れ込むように、そしてその川が氾濫しないように治水を行った方が効果的。なので、道は赤土そのまま、誰かの足跡を刻んで伸びていた。
それを、目の前で酔っぱらう通訳のヅックさんは「田舎だ」「恥ずかしい」と嘆くけれど、土地の風土に合わせた文化は決して劣っているものじゃない。
それを言ったら、俺たちの遊牧文化も、西方諸国やカーランからすれば「野蛮」らしいしね。
けど、それを酔っぱらって大都への夢を語る三十路男性に滔々と語るのは、皮肉にしか聞こえないだろう。だから、黙ってお茶のお替りを入れておいた。
この辺りで飲む茶は、煮出すとまるで柑橘のような香りと、爽やかな酸味を出す草を主体にしたものだ。
じめじめと蒸し、けれど血や内臓を冷やすこの地の湿気に覿面に効く。
あっついのを汗を掻きながら飲んでもいいし、少し冷ましたものをグイグイといくのもいい。ただ、血よりも熱いうちに飲みなさい、とついた初日、食堂のおばさんに教わった。
冷たくしてから飲むと、余計に体を冷やしてしまうからだそうだ。その方が飲みやすいけれど、疲れが取れなくなり、血が凝って動けなくなる。
他所から来た人は、言うこと聞かずにそうして体を壊すのよ、とおばさんは少々憤慨していたな、と思い出す。
まあ、そりゃそうだ。
この辺りは人が生きるには少し厳しい土地だ。だから、その厳しさに立ち向かうための術を、この地に生きる人々は見つけ出してきた。
それを無視して、天卓山地の霧は毒の霧だ、とんでもない魔境だ、などと吹聴されれば腹もたつ。
「聞いてるかい、せんせぇい?」
「聞いてますよー」
脳にとどめておいていないだけで。
料理も食べ終わり、酒も一瓶なくなった。何とか、この酔っ払いを連れて拠点となっている宿に連れて行かないとなあ。
逆にもう少し飲ませて、酔いつぶれたのを抱えて行った方が楽かも。
いや、道に降りるための階段が難所か。落とすわけにはいかないし…
そう思いながら、開け放たれている出入り口を見ていると、そこからひょこりと知っている顔が覗いた。
「あ、いたいた!ファンせんせ!」
「お、クオン!良いところに!」
食堂のおばちゃんに挨拶しながら入ってきたのは、ヅックさんの甥っ子のクオンだ。
ヅックさんは今回拠点とした天卓山地の中の村で生まれ育ち、今はここ、パラワクに住んでいて、クオンも学校に通う為、叔父の家に下宿している。
今回、学校がちょうど休みだと言う事で、クオンも通訳として雇い、村へと同行してもらった。
タタル語の成績は学校で一番なんだぜ、と胸を張るだけあって、通訳としては申し分なく、機転も目端もきく。山の暮らしに文句もないクオンは、なんなら叔父さん以上の戦力だったよ。
…なので、クオンのご両親と相談して、さらに高等学校に入るための推薦状と、入学金を役所に預けてきた。
クオンは山の暮らしに文句はないけれど、いつか海を見てみたい、アスラン中を旅してまわる商人か、巡察吏になりたいんだーと語っていたからな。それなら高等学校へ行くのが一番だ。
そのうえで、やっぱり村で暮らすとなるなら、それはそれで彼の判断だし。可能性と道は、少しでも増やしてあげたい。
あと数年後、大人になったクオンが大都に尋ねて来てくれたら、嬉しいな。
学者ってのもいいねって言ってくれたから、大学の後輩として来てくれれば、もっと嬉しい。
「うわ、おじちゃん飲み過ぎじゃない?」
「うるせー!やっと人の世に戻ってこれたんだ!酒くらい飲ませろお!」
「あーあ…せんせ、あのさ、せんせに、お客さんみたい。カンスフさんが探してきてくれって。おじちゃんは俺がどうにかするから、行ってあげてよ」
「俺に客?」
まさか、兄貴か?
いや、さすがに三ヶ月で弟欠乏のあまり政務を投げ出して追っかけて…来かねないな。うん。
「うん。カンスフさん、ちょっと困ってたぜ」
カンスフさんは、今回の調査団の事務仕事を一手に担ってくれている人だ。
クオンの事も高く買っていて、「役人なんかになるより、大学の事務員しない?」と勧誘している。
いつも飄々としている人で、先に送った荷物の半分が届いておらず、所在不明になっていても「あらーら」の一言で済ますような人が、困っている…とな。
「わかった。すぐに行くよ。あ、クオン、飯は食ったか?」
「まだだよ」
「じゃあ、ここで食べていきな」
財布から銀貨を取り出し、卓におく。俺たちが飲み食い…飲んだのはほとんどヅックさんだけど…した分と、常に胃袋が不満を訴える食べ盛り十三歳を一時的に満腹にするには十分な額だ。
「やった!ありがと!せんせっ」
嬉しそうに笑って、クオンはさっそくおばちゃんに向かって注文を始める。焼き飯に鶏肉の串焼き、鯰のスープ。どれも美味い。
特に鯰のスープは、見た目からは想像もできないほどあっさりと上品な味だ。作り方を教わったし、帰ったら家族に振舞ってみようと思う。
おっと、その前に、目の前の厄介ごとだな。本当に兄貴だったらどうしてくれよう。
おばちゃんに「ごちそーさま!美味かったよ」と声を掛けて外へ出ると、霧は小雨に変わっていた。
この地ではいつもの事だ。誰も慌てないし、傘をさしたりもしない。細く降る雨は、僅かな風でも軌道を変える。傘をさしていたってあまり役にはたたないしな。
俺も銀の糸のような雨に濡れながら、拠点になっている宿屋へと道を急いだ。
赤土に残る足跡は、すぐに消えてなくなる。俺がここに居た記憶も形跡も、すぐに忘れられていくだろう。
それでも、俺がこの地で過ごし、見て聞いて、体験した様々な出来事は、俺の博物誌に刻まれて百年後にも残る。
そう考えるとどうにも頬が緩んでしまって、通りすがりの犬に怪訝な顔をされてしまったけれど。
うん、頑張って書こう。百年後の人に、この銀の雨の感触を伝えられるように。
***
「カンスフさん、俺に客ですって?」
「お、思ったより早く見つかったね。そうなんだよ~。それもさ、軍人さんで」
兄貴?
軍務の途中で来ちゃったの?
いや、まて。兄貴と決まったわけじゃない。
確かに珍しい困り顔のカンスフさんに、恐る恐る「その人、俺と色一緒ですか?」と聞いてみる。
「色?ああ、髪の色とか?違うよ」
「あ、そーですか」
じゃ、兄貴じゃないな。なーんだ…って、その方が大変な事では?
兄貴なら、「弟が不足してしまって…」でやって来ても不思議じゃないけれど、兄貴じゃない軍人が訪ねてくるとしたら、間違いなく厄介ごとだ。
士官学校時代の同期で、この辺に赴任しているやつはいないはずだし…そうなると、「俺」じゃなく「二太子」に会いに来たって可能性が高い。
「なんかさあ。顔色悪くてねえ。医者もいるから、まずは診せるかい?って聞いたんだけどね」
「とにかく、会ってみますね」
「そうしてー。あ、でも、拭いて着替えてからの方が良いよ。泥はねしてるし」
「はーい」
足もと見ると、草履を履いた足は赤茶色だし、ズボンも水玉模様になっちゃっている。確かに、客に会う格好じゃないな。
もう少し待ってもらうよーと言ってくれたカンスフさんに御礼を言って、俺の部屋へと向かう。このあたりでは、部屋の中で靴を脱ぐ習慣がない。蠍とか素足で踏んで刺されると厄介だしね。
宿の女将さんが、水の入った盥を持たせてくれた。ありがたく受け取って部屋に入り、標本やらで埋まった床の、寝台の脇、僅かに空いたスペースに静かに置く。
顔を洗った段階で水がちょっと茶色くなったってことは、結構な勢いで泥はねしてたな。手と草履ごと足も洗い、新しい服に着替える。
一日干しても何となく湿った服には、もう慣れた。
洗ったばかりの草履は濡れているけれど、まあ、一応客前に出ても問題はないだろう。
そう判断して、汚れきった水の入った盥を持ち、部屋から出る。庭に水を流し、盥を所定の位置に戻して…あ、客はどこにいるのかな?応接室として使っている二部屋の内、どっちかかな?
そこに居なきゃ女将さんに…と思って歩いていると、今度は宿の御主人に出くわした。ちょうどいい。聞いてみるか。
「え?離れにいるんですか?」
「うん。ちょっと偉そうな人だったし、人払いって言われてね。ファン先生、大丈夫かい?若いの集める?」
「いえ、大丈夫…だと思います。俺、一応、士官学校もでている準騎士ですからね。同期の親戚とかで様子を聞きに来たのかも」
それで人払いはされないよなあ。我ながら苦しい言い訳だ。
御主人は当然納得してない顔だったけれど、「何かあったら大声出すんだよ?」と言って肩を叩いてくれた。
人払いか。ますます、「二太子」案件か。
一応、ここに居るあいだは政務も軍務もしませんってことで、半年間せっせと仕事を詰めてこなしてきた。
それでも「二太子」との面会を望むなら、考えられることは二つ。
一つは、たんに「二太子」に顔と名前を見せたいだけってこと。
絶対にそう言うこともしないとは言ってあるけれど、どこかで聞きつけただけの奴がのこのこやってきた可能性は高い。
けれど。それじゃなかったら。
それでも、「二太子」を引っ張り出す必要があるほどの事態が、起こったって事だ。
少し顔をこわばらせながら庭を横切る俺を、鶏と家鴨と御主人夫妻のお孫ちゃんが が不思議そうに眺める。
彼女たちに何でもないよと笑顔を作って手を振って、茉莉花の白い花に囲まれた離れに向かう。
馨しい香りに、少し落ち着いた。
何が起きたとしても、調査が終わった後でよかった。そう思おう。
茉莉花の模様が刻まれた木の扉に、「入るぞ」と声を掛けて押し開く。
もし、この扉の向こうにいるのが刺客で、一太刀を待ち構えているのだとしても、扉で防げるように。
どん、と何かが床に当たる音がする。とりあえず、襲撃はなさそうだと判断して、慎重に扉の陰から中を覗いてみると…騎士服を纏った男が、平伏していた。
「ええっと…」
これはいったいどういう事…と思いつつ、一般客室より豪華な設えの部屋の中を見渡すと、壁に凭れてこちらを見ている顔見知りと目が合った。
「やあ☆」
「フタミさん!?」
「気配、出してなかったんだけどなあ☆ナランハル、さすがですね!」
「そりゃ、擬態している虫とかを見つけ続けてたからね。ここんとこ」
筋骨隆々の大男かつ、派手めの顔立ちのフタミさんは、犯罪を取り締まる機関である、御史台の官吏だ。ただ、表立って行動する断事官と違い、潜入捜査や密偵をこなす隠形吏である。
かなり目立つ容貌をしているけれど、フタミさんが本気で気配を消すと、目の前にいても「認識」できなくなる。
曰く、木にとまった虫を見ていても見つけられないように、意識に引っ掛からないようにできるのだそうだ。
「フタミさんが同行しているって言う事は…彼は、何かの証人とか?」
「近い☆」
「ナランハル!千歳申し上げます!」
平伏したまま、震えた声で騎士が叫ぶ。あんまり大きな声は出さないでほしいなあ。万が一に備えて、御主人が若いの揃えて様子をうかがっているかもしれないし。
「声は小さく。人払いの意味がない」
「し、失礼いたしました!」
「とりあえず、起きてくれ。なんか、いたたまれない」
平伏したままの人と話すのは苦手だ。顔を見れないと言うのは不安になるしね。
おずおずと半身を起こした彼の胸元には、百人長であることを示す徽章が飾られていた。
百人長。その名の通り、百人の部隊を率いることが出来る。親衛隊を除く騎士としては、一番下の階級でもある。
つまり、本来なら二太子に目通りを願えるような立場じゃない。
そりゃ、緊張もするし震えるわ。
「えーと、まず、何がどうして貴官がここに来たのか、教えてくれるかな?」
三十前後くらいか。天卓山地やパラワクを含む、イフン地方出身者だろう。
俺たちよりも白い肌に、黒い髪。丸みのある低めの鼻やぱっちりした双眸は、典型的なイフン人の特徴だ。
「その前に、ナランハル。おかけになられては?立たれたままじゃ、彼、恐縮しっぱなしですよ☆」
「あ、そうだね」
籐で編まれた、釣鐘型の籠に腰を下ろす。この辺りではよく見られる家具だ。支柱から、前面があいた卵型の籠がつり下がり、底にクッションや茣蓙が敷かれている。
腰を降ろすとゆらゆら揺れて、気持ちがいい。
是非自宅にも置きたくて、職人であるクオンのお父さんとご兄弟に家族分注文してしまった。お土産としても悪くないと思うんだよな。
そんな事を思いながら百人長が口を開くのを待つ。
顔色は悪く、汗がぼたぼたと床に垂れる。
全身を覆うのは、細かい震え。
どうやら、とんでもない言いにくいことを、彼は俺に言いたいらしい。
しばしの沈黙。
鶏の声や、蛙の歌。蝉の求愛。様々な音が通り過ぎていく。
「…ナランハル、凶事を、いえ…我が、ゴラ軍の大失態を、申し上げます…」
***
ゴラはパラワクよりさらに南に位置する砦だ。
ゴラから東へ進んだムザクという街が、カーラン真皇国との最前線であり、ここは常に十二狗将の一人が領事官を兼任する、アスラン東方国境の要のひとつである。
カーランとアスランを隔てている、双頭龍山脈。
天卓山地はその南端に近い場所で、さらに南へ行くと、山地と言うか低山の連なりになる。場所によっては丘陵地帯とさえ言えた。
双頭龍山脈の大部分は、軍を率いて横断するなんて絶対にできない場所だ。竜騎士なら飛び越すこともできるけれど、それでも命懸けの行軍になるだろう。
つまり、山脈が山地になり、さらに丘になり、平地になった地点は、人とモノが行きかう路になる。
その路を行き交うのは、旅人や商人だけじゃない。
双頭龍山脈の北端と南端は、歴史上何度もアスランとカーランの両軍がぶつかり合う戦場になってきた。
ムザクはその南端を守護する大城塞であり、ゴラをはじめとする大小全部で十ヵ所の砦は、ムザクを包囲させないよう、連携を取り合える配置になっている。
北の国境都市、ルゥランが大城塞都市であると同時に、東方交易の要の商業都市となっているのに対し、ムザクはもう、バリバリに戦闘特化した防衛拠点である。
これは、俺たちが「カーラン皇国」と呼んで認めている国と、ムザクが睨み据える「カーラン真皇国」のとの付き合い方の差そのものと言っていい。
カーラン皇国の方は、すっごくいろいろあったし、ほんの十年足らず前、兄貴がルゥランからさらに先の二都市を分捕ったりはしているけれど、敵対はしていない。
同盟は結んでいないとは言え、お互いに新年の挨拶に使者が赴く。正式に取り決めてはいないけれど、親父と兄貴の治世、そして現カーラン皇王が存命の間は、戦端が開かれることもないだろう。
民間で言えば、カーラン人はアスランへやってくる異国の人の中では一番数が多いし、そのまま定住してアスラン人になった人も大勢いる。
対して、「カーラン真皇国」は、バチバチにやりあっている相手だ。
この「カーラン真皇国」は、俺らが「カーラン皇国」と認識している国の又従兄弟のようなもの…と言ったら、両国から怒られるな。とにかく、もとをただせば、同じカーラン皇国だ。
カーラン皇国の皇王は、必ず前皇王から『禅譲』という形式をもって継承される。その前に立太子を済ましていてもだ。
次は君ね、と決め、さらに『禅譲』の儀式…これが年単位でかかる…を経て、ようやっと皇位は引き継がれ、次代の皇王が立つ。
けれど、今から五十年ほど前、それらを済ますことなく、皇太子を指名することすらせず、皇王が崩御した。
なにせ、まだ七歳だったんだから、そりゃあそうだろう、としか言いようがない。
実の子もいないわけだし、そもそも彼が皇位に就いていたのは、僅か八ヶ月。これを無計画と責めるのはあまりにも酷い。
七歳の子供が皇王になる、と言う背景には、もちろん様々な思惑があって、当然それに納得していない人は後宮の美女の数より多かった。
責められるべきは、そうした権力に群がり、食らいつき、貪った連中の方だろう。
結果、次期皇王はこの方だと、八人の皇族が担ぎ上げられ、それはそのまま、八つの勢力の権力争いとなり、そして、武力でのぶつかり合いへと、残念ながら当然に移行していく。
併呑と分裂、そして新たに名乗りを上げた勢力もあり、皇都周辺のみだった戦禍は、乾いた草原に火を放ったように燃え盛り、強風にあおられるように全土へと拡がっていった。
カーラン全土で繰り広げられた戦乱は二十余年続き、最終的に、現在の「カーラン皇国」が、二本の大河にはさまれたもっとも豊かで狭義の意味での「カーラン」である央原を制圧。三つの勢力を降して飲み込み、戦乱に一応の終止符を打つ。
とは言え、それを認めず、我こそが真のカーラン皇王である、とやっているところもあって、それが「カーラン真皇国」だ。
主張としては、カーランの皇位は男系のみが継承できる。けど、「カーラン皇国」の皇王は、前々代皇王の妹の曾孫と言う立場であり、継承権はもとからない、というものだ。
それに対し、真皇は七代前の皇王の三十九番目の息子の玄孫の孫であり、しかも男系の血筋であるから、皇位継承権もある!…と。
正直、それもう他人じゃん…と思うけれど、その真皇がなかなかの傑物で、戦も強く見た目も良い。
カーラン皇国では家柄が重要視されるので、白門と呼ばれる一定以上の家系でないと出世は見込めないが、真皇はそれを無視して人材を取り立た。
人懐こく、誰とも十年来の友人のように接する人柄に引かれて、敵勢力から加わったものも多い。
僅か百人程度の若者の集まりだった勢力は、今では兵の総数十万、カーラン南西部を本拠地とし、五倍以上の兵力を持つカーラン皇国と向き合っている。
親父は家出中に会ったことがあるらしいけど、彼を評して「飲みやすく、酔いやすい酒だね。へべれけになってから後悔しても、もう自力じゃ立てない」と言っていた。
親父は傭兵として彼の軍に加わったんだけれど、実際に彼の為に槍を振うことはなかった。
何故なら、下された命令が、到底うなずける内容じゃなかったからだ。
退却するため、小さな砦にこもり、追撃してくる敵軍の足止めをしてほしい。
その時、真皇は本当に心から哀しみ、泣きながら謝っていたよ、と親父嫌そうに語った。
言っていることは死ね、と言う事だ。哀しみながらも一切迷いもなく、真皇は傭兵たちに死ねと命じたのだと。
他の傭兵たちはその涙に自分たちも涙を流し、喜んで死ぬと誓った。雇われたばかりの、傭兵がだ。
その光景を見て、「怪物って言うのは、こういうのをいうんだなあって、七代を血も涙もない怪物呼ばわりしたことを反省したよー」としみじみ思ったそうだ。
親父は酔っぱらうこともなく、やってらんないから抜けまーすと軍を離脱し、難を逃れた。親父以外の傭兵は全員戦死だったらしい。
傭兵ってのはヤバいと思えば即座に逃げるし、寝返る。金だって、身命があってこそのものだしね。
それが最後まで敵に食らいつき、全員どれが致命傷かわからないほどの無残な有様になっていたと言うのだから…その酔いがどれほど強烈なものかわかるだろう。
ムザクは、そんな「怪物」がアスランへと浸食するのを防ぐための防衛拠点だ。
真皇に酔わないように、ムザクの領事官だけは例外的に、武官である十二狗将が務める。
なにせ、今までムザクの文武官合わせて六人、酔っぱらっているからね。
十二狗将は、その才、実績はもちろんとして、決して裏切らないという信頼がなければ任命されることはない。
その十二狗将でさえ、ムザクに赴任するのは三年と期限を定められている。長く向きあえば、それだけ危険が増すからだ。
となると、彼が言う「大失態」とは、ゴラの千人長二人のうちどちらかが酔ったか。
ゴラが堕とされたとしても、それだけならどうにでもなる事態だ。ただ、今現在はちょっと事情が異なる。
「…率直に、一番気になっていることを聞く。今、ゴラで訓練中の、士官学校生は無事か?」
アスラン騎士になるための学校、士官学校。
二年の机上教育と訓練を行ったあと、戦闘が起こっている地で実戦訓練を行い、その後に騎士として認められる。
毎年の卒業生三百人弱は、本人の希望や適性を見てどこに行くか決められるんだけれど、確定しているのは南フェリニスと北フェリニスの国境沿いだ。
間違いなく戦闘が発生するし、戦闘以外にもやることが多いから、訓練としてはうってつけだからね。
他は、都市部から遠く、盗賊や魔獣の被害が起こっているような場所がいくつか候補として上がり、そこから三ヵ所ほどに絞って生徒が送り込まれる。
ゴラは三年前、初めて候補に挙がった地だ。
この地域は、なにせムザクががっしりと睨み据えているから治安がいい。
侵略予定の地の治安悪化は常套手段だし、民衆の叛乱が起これば絶好の機会になる。まして、相手は人心への侵略を得意とする王だ。何を仕掛けてくるかわからない。
つまり、生徒たちが意気込んでやって来ても、戦う相手は蚊とか泥、と言う結果に終わる。
それでも、と候補に挙がったのは、カーラン真皇国の侵攻回数が増えてきたからだった。
この地、イフン地方と大都をはじめとする、アスランの多くの地とでは気候が全く違う。
いざ、守備兵を増員しようとしたとき、イフン地方出身の将官が足りず、他地域出身者を向かわせることは避けられないだろう。
その時に備え、気候を一度でも経験させておこうと言う提案があがったんだ。
どうしたもんかと議論が交わされ、現地の文武官の意見も聞き、試験的にやってみるか、となったのは、提案されてから二年後。
ちなみに俺は反対派だった。もし、最初の提案があった年に決定されていれば、俺の代で行くことになったわけだけれど。
そんなのさあ…立場も忘れて採集観察にふけるに決まってるだろ~?
絶対に当時現地を守っていたアシェラ将軍に、尻を百叩きされてしまう。彼女、俺にも兄貴にも全く容赦ないからな。
尻の痛みと恥辱を避けるべく、そう言う事なら、千人長候補になった士官を現地に赴任させた方が良いのではないか…って提案もした。
俺の意見は、左遷と受け取った士官が酔わされるかもしれないと却下されたけど。まあ、確かに。
そんなわけで今年の生徒のうち、六十人が前線から程よい距離のゴラへと旅立ったのは、半年前。
ゴラはいざ実戦となった時、ムザクへ兵糧や武器を供給する集積基地だ。
実戦はなくとも、武器兵糧の管理や移動については学べるし、狙われやすい輜重隊を守り切る困難さや、重要性も見せつけられる。
騎士となった後、どこに赴任するかはまだわからないけれど、どこでだってとても大切な事だからな。
でも、だ。
その生徒たちが、酔わされたとしたら。
戻った後、士官学校の同輩や後輩にも「口当たり良く、酔いやすい酒」の酩酊を広めてしまったら。
俺の懸念を、百人長はすぐに察したんだろう。
びくりと背を震わせ、口許を歪ませながら、それでも何とか、言葉を紡ぐ。
「…いいえ、ナランハル…そうではない。それよりももっと、恐ろしいことです」
「もっと、恐ろしい?」
顔全体を歪ませ、強張らせた百人長は、悲鳴のように、叫んだ。
「お預かりした生徒六十名のうち、二十九名が…!戦死いたしました!!」
六十名のうち、二十九名が戦死。
その意味を理解するのに、たっぷり三十くらいは数えられたと思う。
「残念ながら、真実ですよ。ナランハル」
「…何があった?」
荒い息を吐きだしていた百人長は、俺の問いに答えることなく崩れ落ちた。慌てて駆け寄ると、真っ青な顔で白目をむいている。様々なものが限界を超えてしまったんだろう。
「ちょっと、眠っててもらいましょう☆」
フタミさんが懐を探り、取り出したのは小さな筒。その蓋を外し、中身を百人長の口の中へと滴らせる。
「それは?」
「取り乱したときなんかに飲むと、スーッとなる薬☆今の彼なら、気絶じゃなくて睡眠になるかな☆」
その言葉を裏付けるように、荒かった呼吸が穏やかなものになっていく。相変わらず白目をむいているけれど。
そっと瞼を閉ざしてやった後、フタミさんは彼を長椅子の上に運んだ。ゆっくり休んでほしい。
「何があった?」
先ほどと同じ質問をする俺の顔は、百人長に負けず劣らず青褪めているだろう。心臓の音はうるさいほどで、胸が動いているのが見えるようだ。
「盗賊に襲われている助けてほしい…と訴えられ、お守り役だった百人長の一人がゴラの管轄じゃないって断った。
けれど、生徒たちは何しろ実戦経験を積めないことが不満だし、助けを求める民を放置して、なにが騎士か!ってなっちゃったみたいでね☆」
口調は明るい、いつものフタミさんだけれど、少し厚めの唇から、牙のような八重歯が覗いている。双眸も鋭く、全く笑っていない。
「生徒同士で『軍議』の結果、半数の三十人が助けに向かい、残る三十人はそれを誤魔化そうって事になってね。で、まず、発覚が遅れた」
「うん」
本来なら、ありえない話だ。
通常、生徒たちは十分経験を積んだ騎士が十人長として預かり、指導を行う。
そんな事をすれば、すぐにバレて止められるだろう。
だけれど、今回のゴラには六人もそれができる騎士がいなかった。現地採用の十人長が多く、言葉の壁が立ちふさがる。
結果、三人の十人長が二十人ずつ統率し、さらに二人の百人長が束ねるという、歪な形での配置になった。
そこまでは聞いているし、知っている。その歪さが仇になったか…。
「夜のうちに抜け出して出立し、朝の点呼の時に発覚しました。けど、どうしていないのか、どこへ行ったのか、残る三十人が中々口を割らなくてね☆
何が起こったのか、わかるまでに朝から昼まで時間を浪費しちゃったみたいなんですよね~」
「約半日か…」
「しかも『襲われる村』の場所がわからないと来た☆」
「え?」
「助けを求めに来た村人、何せ生徒たちと一緒にいってしまいましたからね☆で、どこの村か、名前も大まかな場所も、残った生徒は聞いていない。
ここでねぇ…」
フタミさんの双眸に、すっと影が差す。普段、この人を「元暗殺者」と言っても信じる人は少ないだろう。
筋骨隆々、明朗快活な大男の彼が密偵と言うのを、まず信じてもらえないだろうけれど。目立つじゃん、って。
でも今、昏い光を双眸に宿し、牙を晒して哂う彼を見れば、疑う人はいまい。
「ゴラの千人長がですね、責任のなすりつけを始めちゃったのです★自分は悪くない、見てなかった百人長が悪いんだ、とか★」
「…うん」
「連れ戻すための部隊を出すにしろ、お二人のうちどちらかが許可を出さなきゃいけない。あそこで寝ている彼が独断で自分の部隊を動かしまして、自らも馬を駆って門を飛び出したのはその日の夜って言う有様で★」
一日の遅れ。
それも、どこに向かったかわからない相手を追跡するのに…一日、か。
「まあ、さすがまだお尻に殻がついているお坊ちゃんたちだけあって、わりとすぐに方向が分かって、追跡で来たんですが、残念ながら」
「間に合わなかった、と」
「はい。一名、息絶える前に発見されて保護されたので、ギリギリ間に合ったと言えなくもないですけれどね☆」
握った右手が、軽く震える。同じく震える左手でそれを抑えながら、沸き上がる想像を必死に堪えていた。
アイツは、しっかり者だから、きっと残った三十人のうちの一人だ。
そんな危険なことに、明かな罠に、飛び込んで行ったりしない。
この、ゴラでの新兵訓練について、俺が詳しく知っているのは、一つ大きな理由がある。
今回、俺の母方のはとこが、参加しているからだ。
親戚でもあり、幼馴染でもあるそいつが、ゴラでの訓練に旅立った時、一刻も早く天卓山地へ向かいたかった俺は、羨ましがりつつホッとしていた。
訓練とは言え実戦だ。
毎年必ず、一割程度の死者が出る。
けれど、ゴラではほとんど実戦の可能性はない。命を落とす可能性は低く、あとは体調に気を付けていれば無事に戻ってこられるだろう。
そう思っていたのに。
「その一名の生存者ですが、マシロ、と言います」
「!!」
はとこの、名前。
生存者。生きている。
なんとか足を踏ん張り、へたり込むことは避けられた。
はとこだろうと知らない子だろうと、アスランの為に掛けられた命の重さは同じだ。あからさまにその生存を喜ぶことは、死んだのが別の誰かでよかったと喜ぶことと同じだ。
少なくとも、ナランハルと呼ばれているときに、マシロの生存を喜ぶのは…駄目だ。
でも…容体を訪ねるくらいは、良いよな?
「一時は危険でしたが、今はなんとか。普通に超☆重症なので、おそらく後遺症などは残るでしょうけれど、奇跡的に目鼻耳に四肢や内臓の欠損なし!ですよ☆」
「そ、そっかああ…」
明らかに顔に出てたんだろう。フタミさんが目を細めた。
それは、さっきまでの哂いとは違う、日向のような温度の笑みだ。どうやら見逃してくれたらしい。
「さて☆では本題です。ナランハル。この一件、ムザクに報告して御終いにします?」
「報告しないわけにはいかないけれど、それならフタミさんがわざわざ彼を連れて俺に会いに来るはずがないなと思っている」
マシロがいるから、じゃあるまい。この人は俺の部下ではなく、御史台の官吏だし、俺にそこまで気を使う必要はない。そう言う人でもない。
となると…なんでだ?言ってくれる気はないみたいだから、考えろって事か。
まず、普通にこの一件をムザクに報告したとしよう。
今、ムザクを守っているのは…ジャスワン将軍。十二狗将の中でも若手で、もっとも最近、十二狗将となった人だ。
悪い人じゃないし、平時は気の良いお兄さん…って年でもないけれど、自分の事を「おにーさん」と言うので、そうしておこう…なんだけれど、戦となると『赤狼』の異名に相応しい戦い方を見せる。
「赤狼将軍に狙われれば、降伏する機会は一度きり…開戦前だ」と恐れられる彼がこんな報告を聞いたら…怒り狂う。間違いなく千人長二人は無事じゃすまないし、「盗賊」を探し出すためには何でもやるだろう。
該当地域の村人を引っ立てて、尋問くらいはやりかねない。拷問まで行かなかったら、むしろ将軍少し丸くなりました?と感心する。しちゃいけないけど。
でも、それはちょっとまずい。あまりこの地の将兵を脅かせば、それだけ真皇に酔わされる可能性が高まる。やりようによっては、民もだ。
だから、俺?でも、それだけじゃないよなあ…。第一、俺がしゃしゃり出たところで、今の俺は大学の調査隊に属する、ぺーぺーの学者で、兵力だってない。
兵を貸してくれと言われればそりゃ出してくれるけれど、その兵の中に酔っ払いがいれば、最悪二太子暗殺と言う事態を迎える。
いやむしろ、それを狙っている可能性すらあるんだよな。
俺が一人死んだところでアスランに影響はあまりない。兄貴と違ってそんなに国政や軍事に関っているわけじゃあないし。
だが、二太子を殺したのが同じアスラン軍の裏切り者だった…となれば、責任追及を恐れて震えあがる連中は大勢いる。
そこに、殺される前に我が国に逃げてきなさい、と優しく声を掛けられれば、部隊を率いたまま国境を越えて逃げ出す者もいるだろう。
そうなればますます締め付けは厳しくなり、アスラン軍同士で戦うことすらあり得る。
元々、別の地域から来た仕官や将と、現地出身の将兵には隙間がある。その隙間を、疑心暗鬼と恐怖、猜疑と憤慨が広げていけば…相手に地の利と人の和を渡すことになりかねない。
うーん…でも、そうなるとますます、俺はおとなしくして、出来るだけ速やかに大都に戻るべきだな。それを言いに来たんだろうか?
「実はですね☆紅鴉親衛隊、三隊三百人と千人長が一人、いま、ムザクにきてまーす☆」
「へあ?」
「ナランハルを単独で危険地帯に行かせるわけないでしょ☆半分以上はバテバテで、動けないですけどね☆」
「えええ!?それじゃあ本末転倒じゃないか?俺が一番元気だったりしない?」
「大丈夫☆百人ちょっとは元気でーす☆」
つまり、二百人近くは駄目なのか…。
「無断で親衛隊を動かしたことはごめーんねって、陛下がおっしゃっておられましたよ☆ただ、これも将来を見据えた訓練を兼ねているのでね」
「将来?」
「本格的にカーラン真皇国とやりあい始めたら、ムザクには貴方かオドンナルガが入ることになるでしょ☆まあ、十中八九、ナランハルかな☆」
「んー…まあ、そうだろうねえ」
兄貴がムザクに入るとすれば、それはもう、カーラン真皇国を攻め滅ぼすと決まった時だ。
アスランとかの国の国力、兵力差を考えれば、できなくはない。
けれど、今は未だ、その準備が整っているとは言い切れないし、征服した後どうするのか、と言う懸念がある。
五代から七代にかけ、アスランの版図は大きく拡がった。むしろ、拡がりすぎた。
統治が追いつかず、叛乱が続出している地域もある中で、カーラン真皇国を攻め落としたところで、維持するのは厳しい。
兵は今までにない規模で割かなくちゃならないだろうし、カーラン皇国との関係も悪化するだろう。次はこちらかと身構えられるのは当然だ。
アスランとしては、「話ができる」カーラン皇国に頑張って攻め落としてもらい、併呑してほしい。そうなればムザクもルゥランと同じく、交易の中心地のひとつにできるだろう。
税収も上がるし、現在はカーラン真皇国の攻撃を避けて外洋船でやってくるトンクーの商人たちも、もっと沿岸沿いを進むことが出来る。陸路での交易も盛んになる。良い事だ。
「その時、紅鴉親衛隊の方々がへたばってちゃ困っちゃうからね☆」
「つまり、どれくらい順応できるかの試験も兼ねてたってことか」
「そういうこと☆なので、動かせる兵はいるんですよ、ナランハル」
それはわかった。
けど、俺が動くのはやっぱり不味くないかなあ?なんか、ジャスワン将軍をないがしろにしているみたいだし、
「おにーさんに相談もできなかったのかなあw」とか言いながら張り付いた笑顔で迫ってくる将軍との対面はちょっと…いや、かなり嫌だ。
それに、俺にも若くして十二狗将になった将軍にも、敵は多い。二太子がしゃしゃり出てきたのは、将軍を信用していないからだ、なんて言い立てていろいろ余計なことをされる懸念もある。
けど、将軍に任せるとやりすぎるし…それはそれで、何言われるかわかんないし…ううーん…。
俺がしゃしゃる正当な理由でもあればいいんだけど。
「これは、ウー老師とジャスワン将軍の参謀殿が出した策なんですけどね☆」
悩んでいると、フタミさんが指をピンと立てた。
「ナランハル、ちょっと無能で感情的な王子サマ☆になってくれませんか?」
「え?」
「身内がひどい目にあったから、自分の手で賊共を八つ裂きにしないと気が済まない!って、ジャスワン将軍の制止も聞かず乗り出したって感じで☆」
あー、なるほど。ジャスワン将軍も被害者にしておくのか。
まあ、十二狗将が俺如きがワガママをほざいたところで、聞く義理も従う義務もないんだけれど。
でも、兵権を譲れと言ったわけでもなく、賊退治を自分でやると言い出した程度なら、任せても不思議はない。
将軍は俺の機嫌を損ねる事なんて、鼻の頭にくっついた蒲公英の綿毛くらいにしか気にしないけれど、それを見る周囲は、二太子をないがしろにはできないからだ、と解釈してくれるだろう。
公私混同する俺の評判は下がるし、ジャスワン将軍も二太子に逆らえないと言われるかもだが、将兵と民に怯えられ、対立してしまうよりずっといい。
「ジャスワン将軍は、賛同しているの?と言うか、既に報告は受けているんだね」
「勿論☆将軍は、危ないと思ったらすぐに引いてこっちに任せるように、でもなるべく粘って賊共の首を挙げてこいって☆」
「うん、それは、絶対に賊を討ち果たして来いって事だね…」
うん。でも。
ぐ、と右拳を握り締める。
身内を傷付けられて、腹が立たないはずはない。
間違いなく、マシロたちは罠にはめられた。
いくらなんでも、補給基地であるゴラに、しかも見るからに二十歳前の若いのが圧倒的多数の集団に、助けを求めるなんて怪しすぎる。
士官学校の生徒たちは、アスラン全土からやってくる士官候補だ。
座学も訓練も、時間と資金をたっぷりと掛けて育てる。
そのうちの二十九人が喪われたと言うのは、将来的に見れば損害はかなり大きい。
まして、ゴラでの実地訓練を済ませたなら、カーラン真皇国戦での戦力増強に大いに役立っただろう。
その芽を、摘んだ。
そう考えるのは、重く捉え過ぎなのかもしれないが、士官候補生を狙い打たれたのは…事実に近いはず。
本当にただの賊なら、ほぼ全滅するまで執拗に攻撃を加えない。自分たちだって反撃で死ぬ可能性があるんだから、むしろ身を潜めて隠れる。
反撃の余地もなく一方的に蹂躙できるほどの兵力差があるような大盗賊団なら、すでにムザクに捕捉されている。
同数の三十人いれば、それだけの人間が食っていくのに、どれほどの食料が要るか。
一日二食としても日に六十食。それだけの量を略奪で賄うのなら、痕跡を捕らえられないわけがない。
まして、新兵とは言え武装した集団だ。
槍を持ち弓を構えた三十人に襲い掛かると言うのは、容易な事じゃない。
おそらく、相手は正規兵に近い存在のはずだ。
戦は非情だ。弱く、最も効率的に打撃を与える場所に攻撃するのは、何も間違っていない。それを卑怯だと罵ることはできない。
引っかかった方が悪い。それは揺るがせない事実だからだ。
けれど。だからと言って。
やり返さないわけはないんだよ。放って人任せにする?冗談じゃない!
アスランと言う狼の尾を踏んだらどうなるか。
見せてやるよ。こんな小手先の策を考えてくれた奴に。
「紅鴉親衛隊をゴラに移動させてくれ」
「承知」
す、とフタミさんは頷き、片膝を床に着く。
「あと、煙草と線香をそれぞれ大袋に三つくらい」
「おや?ナランハルは煙草吸うように?」
「いいや」
俺たちが調査用に集めたのは、もう使い切ってしまったからな。
けど、絶対に必要だ。
「蛭とダニが食いついたら、煙草か線香で落とすのが一番だからね」




