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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
33/89

山は登れば越える。仕事は始めれば終わる。(千里の道も一歩から)4

 船の舳先が青い湖を割り、両側に設けられた外輪が白い路を描く。


 甲板に立ち、飽きることなくその光景を見ているユーシンに、ファンは「寒くないか?」と声を掛けようとしてやめた。

 わかりきった事を聞くより、未来に起こりかねない惨劇を止めたほうが良い。


 「飛び込むなよ。その服、濡らしたり汚したりしたら、侍従長がナルガと化すぞ」

 「む!それは困る!なあ、ファン、歌鯨はどうやったら捕れる?」

 「いや…捕るなよ」


 振り向いたユーシンの顔は紅潮している。

 本人は気にも留めていないが、やはり身体は風が冷たいと反応しているらしい。しかし、天色の双眸はキラキラと輝き、再び湖面に視線を移した。


 「俺も見てみたいし、ヤクモも見たがっていた!海の鯨とは姿形がずいぶんと異なるものなのか!?」

 「いや、あまり変わらないよ。ただ、色が白くて、口吻が長い。岩場に隠れた蟹や魚を捕まえられるようにそうなっているって、ゴレイル博士が言ってたな」

 「鯨は美味い!ヤクモやシドにも食わせてやりたいぞ!」

 「歌鯨は春先の一月しか捕っちゃいけないんで、今は駄目です」

 「むう!そうなのか…」


 残念そうに頬を膨らませるユーシンは現在、行動はどうあれ、誰がどう見ても「戦士、槍使い、男」の冒険者ではなく、低く見積もって貴族の子弟だ。

 もちろん、一番しっくりくるのは「王子様」である。


 キリク、クトラの両国の服装は、基本的に男女の差がない。男女とも袖と裾の長い着物を纏い、帯で止める。さらにその上から、羊の革や毛織物で造られた袷の外套を羽織り、片袖を抜いて太い帯を巻く。

 王子であっても、それは変わらない。だが、やはり素材は…それを着ている人間も含めて…段違いに高級品だ。


 肌着が絹なのは見えないが、着物は絹毛山羊の毛で織られ、軽く、暖かい。

 丁寧に鞣された羊の革で作られた外套には、金銀が聖なるアーナプルナの稜線を描き、青石、紅玉、珊瑚に真珠が天の星々を模している。

 さらに白貂の毛皮が衿と袖口を飾り、慶事の色である黒で纏められた衣装に映えていた。

  

 本人には「重い!動きにくい!」と大不評ではあるが、この状態のユーシンなら、フフホトに入る際に不遜な態度をとったあの若い兵士でも、一目見るなり膝を付いていただろう。

 同じく正装はしているものの、いまいち説得力に欠けるなあと自分を鑑みるファンとしては、苦笑するしかない。


 無事、祖先への参拝も済ませ、ただひたすらに曖昧な笑みを浮かべながら首を振り続けていた会食も終わり、ファンは最後の公式予定をこなそうとしていた。


 フフノールの対岸、クトラ自治区への訪問である。


 立場としては、アスランは国を喪ったクトラ人たちへ土地を貸し、保護している側だ。

 しかし、勇猛なクトラ傭兵の本拠地がアスラン国内にあると言うのは、アスランとしてもありがたい。

 特に、すぐ傍のフフホトはほとんど兵力を持たない重要拠点である。

 いざとなれば軍船からの砲撃があるとはいえ、隊商を狙う馬賊や近隣の村を襲う盗賊団相手には小回りが利かない。

 夏ともなれば観光客を狙う賊も集まり、旧クトラ王国内を我が物顔に闊歩する魔獣共も山を下りてくる。

 

 そうした時、すぐに兵力を増強でき、なおかつ信頼できるクトラ傭兵軍は、フフホトの統治になくてはならない存在だ。

 フフホトの主…しかも、年に数回しかやってこれない不詳の主としては、頭を下げて感謝を示すべきだろう。


 まして、今回はユーシンとナナイもいる。


 公式に生存が知られているクトラ王族は、僅かに三人。

 うち二人が、ユーシンの母であるアルナと、ナナイの母、ウルガだ。

 クトラの遺臣たちとしては是非にも会いたいだろうし、ファンとしても会わせたい。

 とは言え、ユーシンはともかく、ナナイはその存在を公にするわけにはいかないから、内密に、ではあるが。


 クトラ自治区へ向かう船…『ピヨちゃん号』ではなく、ちゃんとした船だ…に乗り込み、湖を渡っているのはファンとクロム、そしてユーシン、ナナイの四名である。

 ヤクモとライデン姉弟はフフホトに残り、神官たちの護衛についていた。


 護衛が必要なこともそうそうないだろうが、二太子として動く場合には、共回りにも理由がいる。

 実は他国の出奔中…になっているらしい…王子と、亡国の王子王女であったとしてもだ。

 それならお留守番してるからいってらっしゃーいと事も無げに言われ、こうして四人で船に乗って、現在に至る。


 「帰ったらうちのを呼んでやるから。そしたらお前もヤクモ達も見れるだろ。クロムは米粒ほども興味ないだろうけど…」

 「クロムだからな!味くらいしか興味がないだろう!」


 お前もなんじゃないかとは思ったが、口には出さずファンは行く手を視線を向けた。

 フフホトを出発した時は湖面しか見えなかったが、今はその向こうに城塞が見えてきている。


 クトラ自治区、アラウガハル。


 かつてこの街は、アスラン軍の塞だった。

 周辺国や帰属していない遊牧氏族から、フフノール公路と運河を辿る塩の道を守る為におかれた大城塞である。

 しかし、時の流れとともにフフホト周辺はすべてアスラン領となり、その機能を停止していた。

 一時は三万もの兵が詰めていたほどの規模である。クトラの民を収容するのにこれほど相応しい場所はなく、アーナプルナの麓であり、気候や習慣もあまり変わらない、と言う点でも申し分なかった。


 現在ではクトラ傭兵団の本拠地であり、アスランに暮らすクトラ人たちの故郷である。

 もうすでに、クトラ王国領ではなく、この街で生まれ育ったクトラ人が成人し、その子すら生まれている程の年月が過ぎた。

 だが、それでも。


 クトラの民たちが、聖なるアーナプルナに祈りを捧げない日はない。

 

 いつか、あの場所へ。

 雲を見降ろし、虹を眼下に眺める王都ニエリへ。

 

 その悲願がかなう日が、すぐには来ないことは誰もがわかっている。

 わかってなお祈り続けるその姿は哀しく、美しい。


 「…」


 何度も見た光景を思い出しながら、ファンは大きくなっていくアラウガハルの威容を見つめ続けた。


 船はゆったりと速度を落としつつある。

 船員たちが入港に向けて動き出し、指示と確認の声が飛び交う。


 「ユーシン、船室に戻ろう。ここに居たら邪魔になる」

 「わかった!」


 大人しく頷いたユーシンを連れ、ファンは船室へと続く階段に足を向けた。

 着いたら、まずは仕事だ。

 港から現在は行政庁となっているアラウガハル大城塞まで、二太子としてパレードをしなければならない。


 (二太子ナランハルの時、どんな顔にしてたっけ?)


 やはり、仕事はあまり穴をあけるものではない。

 再開した時に、あまりにもシンドイ。


 (それでも山は登らなきゃ越えられないしなあ…)


 面倒なことを始める時の慣用句を思い出しつつ、ファンはユーシンに見つからないよう、こそりとため息を吐きだした。


***


 「あ~…緊張した!馬車の中にいるだけだったのに」

 「疲れたか?水貰うか?」

 「ありがとう。でも、持ってきたからね、中で飲んでたよ、大丈夫!」

  

 手を貸して馬車から降ろしてくれたクロムに、ナナイはどうにか歪ではない笑顔を向けることに成功した。


 アラウガハルは、高い城壁に囲まれた都市である。

 だが、それでは他の都市と変わりない。

 アラウガハルが城塞都市と呼ばれるのは、まずその城壁そのものが、砦となっているからだ。


 城壁と言うよりも、巨大な砦が四方を囲んでいると言った方が相応しい。

 中には一万人以上の兵士が籠ることが可能であり、敵が迫った際には、矢の雨を砦から降らせることができた。


 それを一の砦とし、内部にはさらに拠って戦うための壁が三重に築かれ、その壁の要所要所に兵が詰められる楼閣が設けられている。

 それらを全て越えていったとしても、難攻不落とはまさにこのこと、と言えるような五層の大城塞が聳え立つ。

 

 とは言え、現在はその機能のほとんどが生活の為に使われ、かつてアスラン王国の最前線だった時代の面影はない。

 兵たちが時に死闘を繰り広げた路には商店が並び、眠りにつく前、故郷を想った兵舎は集合住宅に改造され、クトラの民たちが喪われた故国を夢見る。

 鬨の代わりに響くのは、日々を送る人々の声と山羊や毛長牛の鳴き声。


 それでも、城塞都市の面影は残り、路は狭く、まっすぐには進めない。三重の城壁に沿って進み、潜り、また何度も路を変えながら進み行く。


 その道すがら。

 全ての住民がやってきたのではないかと思えるほど、沿道は人で溢れていた。

 

 誰も彼もが歓声を上げ、上気した顔に笑顔を浮かべて、精いっぱい手を振る。

 狭い路を行くのだから、道に立っていられるのは両脇に一人二人が精々だが、その一人二人が延々と並ぶ。立つ余地がなかった人々は、道沿いの商店の屋根やバルコニーに登って同じように手を振り、一行を迎えていた。


 無爪紅鴉旗を掲げるクロムを先頭に、旗持ちの儀仗兵が二人、その後ろにファンとユーシンが並び、紅鴉親衛隊の騎士二十人が続く。


 ナナイは親衛騎士たちの後ろに付く馬車に、女官二人と共に乗っていた。

 彼女らは、ファンたちの侍従ではなく、ナナイの為の女官である。

 クトラ式の着物チュバの着付けに始まり、化粧や髪結いまでしてくれた上に、いざとなれば護衛にもなれる、という人材だ。

 

 ファンたちの侍従官は、さらにその後ろに付いた馬車に乗っており、到着後はすみやかにそれぞれの持ち場へと散って行った。

 主であるファンは、その背に軽く手を振ると、「さて」と仲間たちを見回す。


 一行がいるのは、大城塞の入り口をくぐった先にある、大広間だった。

 天井は高く、馬や馬車に乗ったまま入れるようになっている。言うなれば、ここは大城塞の地下一階だ。土台から張り出すように造られ、内部へ進むには、奥の階段を登って行くしかない。


 「ふむ!万が一に踏み込まれても、高所から矢を射かけられる造りなのだな!」

 「そう言う事。二階からも弓を打てるようになっているしな。階段を落とせば簡単には登れないし。百年前は、木で造られた階段が置かれていたそうだよ」


 今は立派な石造りだ。並んで十人は歩けるほどに幅広く、絨毯が敷かれている。

 それがいつもあるものなのか、それともアスランの王子を迎えるというハレの日の化粧なのかは、ナナイにはわからない。

 だが、少なくとも「とっておき」にはなっているようだ。絨毯には汚れもなく、美しい花模様を見せている。


 その階段の上には数人の人影が見えた。

 ファンを見ると、拳を胸の前で合わせ、ゆっくりとこちらに向かってくる。


 賓客を迎えるならばすでに待ち構えていてもよさそうなものだが、クトラとキリクでは、狭い場所へ入ってきた相手を囲むのは大変に失礼な事らしい。

 確かに、建物などの中に入った瞬間、周りを囲まれて襲われれば、ひとたまりもない。

 そんな事はけっしていたしません、と示す為に賓客から離れた場所で待ち、ゆっくりと、武器を持たず、攻撃する意思がないことを示しながら近寄ってくる。

 それが、クトラとキリクでは正式な作法なので、お気を悪くされないでくださいね、と、馬車の中で女官が教えてくれた。


 元々、そんな作法がなくても気を悪くするようなことはない。むしろ、少し余裕があるのはありがたい。

 ここに至るまで、本人に聞きたかったことがたくさんできた。

 彼らが到達すれば、こうして無駄話をしている暇はない。慌てて、ナナイは聞きたかったことを問いかけた。


 「えっとさ、ファン、ファンが来ると、いつもああなの?」

 「ああってのは…」

 「あの、道沿いの人たち」


 馬車が震えるほどの大歓声。アステリアでも、凱旋した父を民たちがああして迎えていただろうかと、少しおかしくなる。


 きっと父さん、照れてるな。


 その父以上に照れそうな王子は、「あー」と呟いて頭を掻いた。結われた髪に刺さった簪が揺れ、この場に残った侍従長が眉をピクリと動かす。


 「俺一人なら、あそこまでは。今回は、クロムとユーシンがいたからさ」

 「…ちょっと、まて。クッソ腹が立つが、この馬鹿がいて盛り上がるのはわかる。だが、何故俺まで?」

 「お前が俺の守護者スレンだからさ」


 クロムは黒い騎士服に、ユーシンと同じ前袷の外套を羽織り、片腕を抜いている。これがクトラとキリクでの外套の正式な着方だ。

 外套は更に帯でとめるが、その際にたっぷりと前側は余裕を持たせて巻く。そうしてできた外套と服の間にものを入れて持ち運ぶのだと、ナナイは今日初めて知った。

 

 今、二人の懐にあるのは蕎麦粉が詰まった袋でも鶏でもなく、親から戦士の証として贈られた小刀ククリである。

 肩から革帯で吊るし、抜くときには左腕で脇を締めて鞘を固定し、右手で「アーナプルナの風のように」抜刀する、のだそうだ。


 正直に言って、きっちりと騎士の正装に身を固めたクロムは格好いい。そのクロムに対して歓声が上がるのは、わかる気がする。

 恥ずかしくて口には出せない…と言うか、クロムをまじまじ見ると顔が赤くなりそうなので、まっすぐ見ることさえできないが。

 

 「ほら、俺って今まで守護者いなかっただろ」

 「ああ」

 「弟にすらいるのに、俺にはいないってことで、フフホトの民もアラウガハルの人たちも、なんか心配って言うか、やきもきしてたらしい」


 本来、守護者は同じ月に生まれた、ヤルクト氏族の子が生まれた時からそう育てられるものだ。

 しかし、ファンは同月に生まれた子がいなかった。アスラン全土を探しても、同じ月の生まれのヤルクト氏族がいなかったのだ。

 結果、ファンは守護者を持たずに成長し、その必要性も特に感じることもなく、クロムがなると言い出すまで、「まあ、いなきゃいないでいいか」と暢気に構えていたのである。


 別に守護者が多くいれば良いというものでもなく、いないからと言って能力人格その他を疑われるようなものでもない。

 だが、そうは言っても他の王子たちにはいるのに、うちの二太子ナランハルにはいないと言う事が、どうにもフフホトとアラウガハルの民にはもどかしかったようだ。


 「その俺が守護者連れてきて、しかもクトラ戦士だろ?そりゃ盛り上がるって」

 「クロムが半分クトラ人って、そんなに有名なの?」

 「いや、まったく知られていないけど、刺青で分かるよ。色が独特だしな。この色と彫り方は、決して余所者には教えないからね」

 「そっかあ…」


 ファン、慕われているんだね、と胸中に呟く。

 もちろん、初めて会った時から、ナナイはファンが王子であることは知っている。だが、実際に王子らしいことをしているのは見たことがない。

 ナナイにとって、ファンは「いつもちょっと変わったことをしている、親戚のお兄ちゃん」だった。

 改めて、ファンが民衆から熱狂的に手を振られ、ただ進んでいくだけで歓声を受ける存在なのだと実感した。


 それに、その待望の守護者が、クロムだと言うのは…なんとなく、誇らしくて、嬉しい気も、する。


 「っと、質問はまたあとで受け付けるよ」

 「うん。僕も聞きたい事、まとめておく」


 聞きたい事。ファンがすぐ、お嫁さん勧められるのは知っているけど、まさか、その守護者にも、とか、ないよね?

 うーん、でも、クロム、綺麗なお姉さんとか紹介されてしまったら、とりあえず手は付けちゃうかも…


 ぐるぐると回る嫌な思考を、ナナイはぎゅっと袖口を握りこんで封じ込めた。

 その動作を見たらしいクロムの、「大丈夫か?」と問いかける視線を感じる。


 大丈夫だよ、と声に出す代わりに、ナナイはクロムを見上げて頷いた。

 無表情だったクロムの口の端が仄かに持ち上がり、目尻が緩む。


 だから、その顔、反則だって!


 ますます袖口を握りしめ、皺になっちゃうと慌てて放す。これで更にクロムから声を掛けられれば、巣を覗かれた子鼠よりも慌てふためいてしまっただろうが。


 「よくぞ、おいでくださりました。ナランハル」


 声を掛けてきたのは、クロムではない。

 ファンよりも背丈は低いが、ゆったりとした着物を着ていても判る、鍛えられた身体。

 それはもう、老人と呼ばれるようになった年齢になってさえ、衰えることを拒絶しているようだった。


 「また会えて嬉しい限りですよ、将軍」

 「つい先月、死神めの首根っこを捕まえて、フフノールに放り込んでやりましたからな」

 「それは死神が悪い。将軍に会うのなら、二十年後のいついつに行きますと、先に約束をしておかないと」

 「はて、あと二十年も生きよと仰るか」

 「ええ。今年生まれた曾孫さんが伴侶を娶るまでは頑張ってもらわないと」

 「婿めも孫婿めも五度、フフノールに放り投げてやりましたしなあ。曾孫の婿めも同じくらいは投げませんと、確かに不公平ですな」


 呵々と笑う日に焼けた小麦色の顔には、いくつもの傷痕が刻まれ、その右目は巻き付けた布の下に隠されている。

 厳つく、恐ろしいと言ってもいい顔だ。

 一喝すれば、熟練の兵ですらすくみ上るだろう。


 だが、何故かナナイは優しい人だと思った。

 残る左目でファンを見つめる視線が、とても柔らかく、穏やかだったからかもしれない。

 そして何故か…この人を知っている気がする。そう思う。


 「この方は、アラウガハルを…クトラの民を守る、ナジャリフ将軍。クトラ王に軍旗を賜った、最後のお一人だよ」


 紹介を受けて、ユーシンの目が輝いた。

 ぴょん、と跳ねるように前へ出て、老将に向き合う。


 「おお、貴殿が!その右目は、氷龍の左目と刺し違えたとお聞きしている!」


 動作と同じく、飛び跳ねるような声に、ナジャリフ将軍はニタリと口許を釣り上げた。


 「もう後1シヤク槍が長ければ、脳まで刺し貫けたのですがな」

 「なるほど!氷龍と一戦交える折には、長槍が良いのだな!」

 「あー。将軍。失礼。こちらは…」

 

 コホン、と咳払いし、ファンがユーシンの肩を叩く。

 老将の武勇伝に目を輝かせていたユーシンも、自分がまだ名乗っていないことに気付いたらしい。

 

 胸の前で右掌に左拳をつけ、にぱ、と笑う。


 「失礼いたした!キリク王国、シーリンが子、ユーシンだ!」

 「なんと、失礼いたしましたのはこの爺にございます!ユーシン様!」


 ぐわ、とナジャリフ将軍の左目が見開き、慌てて膝を付く。

 いや、彼だけではなく、将軍に続いてやってきたいた二人の武官と、三人の文官らしい男たちも、口々に言葉にならない歓声を上げ、床に伏せた。

 ファンは首を傾げつつ、彼らを引き起こす。主賓よりもその同行者に対して膝を付くのは無礼ではあるが、当然咎める気はないようだ。


 「あれ?連れて行くと伝わっていませんでしたか?」

 「まだ、馬車の中におられるかと…!ああ、確かに、アルナ様によう似ておられる…!それに、アリュク殿下の面影がござる…!」

 

 アリュク、という名にナナイは覚えがなかった。後で質問する項目の一つに加えておこうと、内心に頷く。


 「それから、こちらは、クロム。俺の守護者(ナランハル・スレン)です」

 「おお!ついに守護者を!」


 老将の視線がクロムに注がれ、そして僅かに細められた。

 刺青は確かにクトラ戦士のもの。しかし、顔立ちや肌の色が、クトラ人とは違う。

 それを訝しんでいるのかと、ナナイは僅かに不安に思った。


 「…失礼ながら、問わせていただく。其方の父の名は?」

 「答える必要が?」


 不愛想を通り越して無礼な返答に、ナジャリフ将軍は僅かに怯んだ…ように見えた。だが、すぐに首を軽く振って持ち直す。

 

 「いや、すまぬ。不躾であった。質問を変えさせてもらおう。其方、父と母、どちらがクトラ人か?」

 「父が。母がアステリア人だ。だが、両親の名誉にかけて、俺は二人が望んで生まれたのだと断言する。疑うようなら、血の誇りに掛けてあんたの顔の傷を増やすが」

 「すまぬ、すまぬ。年を取ると疑わんでも良い事が気にかかってな。其方を見ればわかる。ご両親に愛されて育ったと言う事がな。そうでなければ、こんなに堂々と跳ね返らんわい」


 再び呵々大笑し、老将はファンに視線を向きなおす。


 「良い守護者を見つけられましたな。ナランハル」

 「ええ。自慢の守護者ですが、後で拳骨落としておきますんで」


 なんでだよ、俺悪い事してねぇじゃん、と言うクロムのぼやきを無視し、ファンはナナイを見た。


 「彼女については、落ち着いてからにしましょう」

 「さようですな。立ち話のままと言うのは申し訳ない」


 もしかして、ファン、気を使ってくれた?


 同じように、クトラ人が母だと答えたら、どうなるか。

 クトラ人とアステリア人の間に生まれた子は、少なくない。

 だが、そのほとんどは母親がクトラ人だ。


 30年前の侵略の時。

 多くのクトラ人女性が凌辱され、そのほとんどは命も奪われた。

 だが、生き残り…望まなかった子を宿したものもいる。


 王都の生き残りはもちろん、アステリアの後発隊が進行しながら踏みにじって行った村々の人々、そして、途中で「戦利品」をもって離脱した者たちが連れ去った女性…彼女らは戦後アスランに保護され、この街(アラウガハル)に居ると、聞いたことがあった。


 そうした、混血児の一人として見られないように、説明を避けたのか。


 そうじゃない。僕の父さんと母さんも、僕が生まれるのを望んでいた。

 そして、たくさんたくさん愛して、育ててくれた。


 だから、何を言われたって、さっきのクロムみたいに跳ね返せるよ。

 

 元から、そうした「憐みの目」もしくは「聖なる血を穢した異端の子」として見られるのは覚悟の上だ。


 それでも、母が語る故郷クトラ…その一端に触れたかったから、アラウガハルに一緒に行くかと聞かれた時、頷いたのだから。


 母が語ってくれた、天空の王国での暮らし。

 糸を紡ぎ、機を織り、刺繍を施し、身に纏う。

 母はまだ子供で、糸紡ぎがやっと許されたばかりで。

 母や姉、おばや従姉妹たちが機を織り、刺繍するのを見ながら、糸を紡ぐ日々。


 これが一生かと思うと、退屈すぎて困りましたけど。

 それでも、上手くできた糸を見せると、両親は満面の笑顔で褒めてくれて、兄や姉も喜んでくれて。

 天馬を駆って岩山を往くのも楽しかったし、谷間で染料になる花を摘み、その蜜を吸うのも好きだった。

 

 そう言って笑う母は、笑いながら泣いているように見えた。

 母に、その時摘んだ花を渡したら、蜜を集めて飲ませてあげたら、泣かずに笑ってくれるだろうか。

 いつか、その花を、自分の目で見て。摘んで。花の蜜を、舌で味わって。


 アラウガハルには岩山もなく、母が集めた花もなさそうだ。

 けれど、かつての『クトラ王国』の面影が残るこの街に、来てみたかった。

 

 馬車の窓からそっと見た街並みは、あまりフフホトと変わらない。

 ただ、至る所に綱が張られ、旗が翻る。

 それは、ヘルカとウルカに捧げる音楽なのだと、ファンに教わった。


 アーナプルナの風が旗を揺らし、音を立てる。

 決して止むことのないその音は、一枚二枚ならただの音だ。

 だが、何千、何万と言う旗が奏でれば、天上にまで届く楽曲となる。

 決して同じ音はない、終わりのないその旋律。


 それをなぜか懐かしいと思うのだから…間違いなく、自分にも誇り高い天空の民、クトラ人の血が流れている。

 そして同時に、常の劣勢をものともせず、ついには勝利を掴んだ、勇猛な父の血だって流れているのだから。


 だから、きっと、どんな目で見られても、胸を張っていられるよ。


 ぎゅっと、拳を握り締め、想いを込めてナナイはファンを見上げた。

 その、僅かに振り向き、自分を見下ろす満月色の双眸を。


 (あ…)

 

 見下ろす双眸には、全てわかっていると言っているような、穏やかな笑みが宿っていた。

 その笑みを見た瞬間、カチコチに固まっていた決意も、覚悟も、ふわりと解けて消える。


 (なんて言うか…ファンって、こういうとこが…みんなに慕われてる理由なんだろうなあ。エリーも、これにやられたのか)


 ただ、そこにいて、笑っている。

 それだけで、なんだか安心できる。


 それは、アスランの王子と言う立場が育んだものなのか、持って生まれた資質なのかはわからない。

 いや、きっと、持って生まれ、そして育んだ才能なのだろう。


 こくり、と頷きと返すと、笑みが深くなった。

 ファンも頷き返し、視線をナジャリフ将軍に戻す。


 「では、参りましょう。ナランハル。そして善き友の方々よ」

 「お招きいただきます。将軍」

 

 その言葉を待っていたかのように、クトラ側の侍従官や女官が進み出て、両脇についた。彼ら彼女らの静々とした歩みに合わせて、一行も先へと…大城塞へと続く階段へと向かう。


 毛足の長い絨毯には土汚れのひとつ着いておらず、老将軍に先導されて歩む廊下もまた、この大城塞の歴史を感じさせるものではあったが、掃除が行き届き、晩秋の陽射しを取り込んで明るい。

 

 「あの、不躾なお願いを一つ、いいでしょうか?」

 「ナランハルがお願いとは、珍しい。無論、よろしいですとも」


 その廊下の先、大きく扉の開け放たれた部屋が、目指す場所らしい。

 ファンがナジャリフに声を掛けたのは、先頭に立って戸を潜ろうとしたまさにその時だった。


 「少しの間だけでいいので、ナジャリフ将軍だけと話したいんです」

 

 ファンの申し出に、随行していた武官と文官は顔を見合わせ、その後、示し合わせたように老将軍を見た。

 全員の視線を集めた老将軍は、僅かに左目を細め…そして、頷く。


 「その程度の事でお願いなどと申される必要はござらん。命じられれば良い」

 「貴方はアスランの同盟者ですが、俺の臣下ではありません。そもそも、アスランの万人長たちにだって命令なんて出来ないですよ」

 「ううむ、ヤルトネリ将軍らは、命じるよりもお願いする方が利きそうですしなあ」

 「いつまでも坊主頭扱いされて困ります」


 笑いながらナジャリフは同輩たちに待機を申し付けた。戸惑った様子ではあったが、異を唱える者はいない。

 ナジャリフ将軍と現アスラン王一家の親交は、クトラが滅びる前から続いている。

 ナランハルからすれば、生まれた時から親戚のように付き合ってきた相手だ。積もる話もあるのだろうと、同意を示して下がる。


 アスラン側の随行する侍従官や騎士も廊下に残し、ナジャリフに続いて部屋に入ったのは、ファンたち四人だけだ。

 クロムは当然のようにファンの後に続き、ユーシンも気にした様子もなく、ナナイはファンに促されて部屋へと足を踏み入れる。


 「わあ」


 思わず、ナナイは声を漏らした。


 厚手の絨毯が敷かれ、人数分の座布団あるのは、見慣れたアスラン式の応接室だ。

 しかし、目を奪ったのはそれではない。


 飛び込んできた、鮮やかな色彩の数々。


 部屋は壁の一面が大きな硝子張りになっており、そこからフフノールの湖面が見える。まずは、その眩い青。

 更に、窓の外はテラスになっており、青磁や白磁の壺や鉢が、所狭しと…しかし窮屈には見えない距離を測って置かれていた。


 その壺や鉢だけでも、十分に鑑賞に堪えるものだ。

 だが、それだけではない。


 主役はあくまでも、その壺や鉢に植えられた、菊だ。

 花の形も色合いも様々な菊たちは、今が盛りと咲き誇る。風に揺れ、鮮やかに。

 

 菊は、カーランから伝えられた花である。

 アステリアでは見ることはなく、アスランに入ってから何度か見掛けたが…これほど見事に、大きな花を咲かせているのは初めて見た。


 子供の頭ほどもある白い花を咲かせる鉢もあれば、小さな紅の花が滝のように、壺から更に床にまで到達するほど並んでいるものもある。

 壺に描かれた貴公子が、その花を愛でているように見立てられているのが面白い。

 よく見れば、菊の花に隠された場所には美女が佇み、貴公子は花とその先の美女を見つめているのだとわかった。

 

 「ナランハルがお出でになるのはこの頃であろうとお聞きしましてな。花匠らが張り切りました」

 「綺麗だなあ。感動しましたと伝えてください。後で、もっとじっくり見せてもらいますね。あれは確かカーラン南西部の…」

 「あ、あの!僕も後で見せてもらっていいですか!」


 絶対に長い蘊蓄を垂れる。


 いつもなら、即座にクロムがファンの額を引っ叩くなりして止めるが、さすがに今はできないようだ。それならばと、ナナイは咄嗟に割って入った。


 「もちろん。菊は香りも良い。少し摘んでいかれよ。茶に入れるとよい」

 「ありがとうございます」


 菊花茶は、秋の茶だ。今だと少し時季外れではあるが、飲んで悪い事はあるまい。

 

 「ああ、そうだ。将軍。将軍だけになってもらったのはですね。この子に会わせたくて」

 「え?」


 ぽん、と肩に手を置かれ、ナナイは戸惑ってファンを見た。

 もう会っているし、話もしている。どういう事?と問う視線は、老将軍の表情の上で止まった。


 ユーシンが名乗った時よりも大きく、左目は見開き、半ば開けられた口の端は震えている。

 その震える唇からは、吐息のような、声のような、どちらともつかない音が漏れていた。

 ごくり、と何とか口を閉じ、鍔を飲み込み、老将軍は一度目をこする。

 赤く充血しだした左目は、僅かに潤みだしていた。


 「やはり…その子は…!」

 「はい。ナナイです。ナナイ、ナナイのお祖父様がさ、ナジャリフ将軍の兄上なんだよ」

 「え!?」

 「ウルガさんのお父上な。ナナイも、本当に小さい頃だけど、将軍にお会いした事あるんだよ」


 そっか、それでか。

 すとん、と理解が広がる感覚に、ナナイは内心に頷いた。


 どこかで会った事がある。それは、気のせいではなかった。


 「手を触れても…よいかね?」

 「え、は、はい!もちろんです!」


 老将の震える手が頬に触れる。

 かさついて、大きく、硬い掌。

 けれど、暖かい。

 そして、やっぱりこの掌を知っている。

 

 「あの、昔も、こうやって撫でてくれましたよね?」

 「うむ…まだそなたが三つの時だ。ウルガがアステリアへ戻ると言い出したと連絡をもらってな。駆け付けた」


 ああ、この人は、僕の父さんが誰だか知っているんだ。

 

 兄のただ一人の忘れ形見。国は滅び、家族も失い、それなのに、残った姪が、憎んでも憎みあまる敵国で暮らすという。

 反対しないわけがない。それでも。


 「…母さんの意志を、尊重してくれたんですね」

 「ウルガは…姉上によう似ておる。一介の文官だった兄を見初められて、先王陛下どころか王家の方々全員を説き伏せて降嫁された姉上に、見た目も中身もそっくりだ」


 会ったことのない祖母の話。

 母がクトラ王家の血筋なのは知っているけれど、祖母が王族だったのかと、初めて知った事実に口許が緩んだ。

 ほんの少しだけ聞けた祖母の面影は、間違いなく母にも宿っている。

 

 ナナイの頬を撫で、それから頭を撫でて、老将軍は手を放した。

 潤んだ目を押え、笑う。


 「あの時は、本気で叱りつけたが…私が間違っておったよ。そなたを見ればわかる。まっすぐに、柔らかく育っておる。虐げられて育ってはおらぬ」

 「はい。父さんはちょっと過保護なくらいです」

 「娘を持つ父親と言うのはな、どうあっても過保護になるのだ。婿めを湖に投げ込むくらいには」

 

 それはどうなんだろうと思わないでもないけれど。

 認めてもらえたことは、嬉しかった。


 少し過保護で、たまにはうんざりすることもあるけれど、ナナイにとって父は大切な家族だ。

 アステリア人と言うだけで、母を攫った悪人のように思われたくはない。

 正式に結婚できていなくても、両親の間には間違いなく愛情と絆がある。

 その情も絆も、そのままもう一人の母であるイヴリンと、妹たちにも繋がっていて。

 

 その絆を、認めて、褒めてくれた。

 じんわりと胸に広がる暖かさを絵にしたら、きっと窓の外で咲き誇る菊のようだろう。

 

 「ウルガさんが生きていることは、クトラの皆さんにも周知の事ですが…ナナイの事は、公にしたくないと言われていますから」

 「ああ、その方が良い!愚か者が何かしでかすやもしれませぬ故な!」


 クトラでは、女性王族に王位継承権はない。

 だが、クトラ王家の血を引く者が今や僅か数人と言う状況では、血を引いていると言うだけでクトラ王に推戴される可能性もある。

 野心に憑りつかれた馬鹿者が、クトラ王家の血を引いた我が子を得たいと考える…それは、決してあり得ない話ではない。


 「うむ…その、ナナイ」


 一瞬激昂したナジャリフ将軍だったが、一つ咳ばらいをして真面目な顔になる。


 「まだ…星の飾り(オドンチメグ)の花冠は、贈られておらぬよな?」

 「えっと…花冠、ですか?」


 それって確か、いつかクロムがくれるって約束してくれたやつだ。


 思わずクロムを見ると、相変わらずの無表情だが、その鋼青の双眸にほんの僅か、焦りがある。


 「そう言えば、ユーシンもフフホトに着く前に、その花が咲いているかって、聞いてたっけ…」

 「ああ、聞いた!大切な事だからな!なあ、クロム!」

 「うるせぇですよ。黙りやがれください」

 「…何語だそれ」


 ユーシンへの暴言か、それとも二人の間に漂った微妙な甘さと温度を持った空気を察してか。

 老将軍の眉が吊り上がる。


 「…ナランハル。守護者どのと、ほんのわずかな間でよいので、一対一で『話し合い』をしたいのですが」

 「ええっとですね!!大丈夫ですよ、あの、アスラン流の付き合いはしていませんからね!!」


 馬も男も、乗って見なければ駄馬か悍馬かわからない、と母親が娘に伝えるようなアスラン流の交際は、他国から見れば目を剥くのはわかっている。

 

 「俺は間違いなく名馬ですが、まだ、試してませんので」

 「当たり前だ馬鹿もん!!ええい、ちょっと外に出ろ!湖に投げ込んでやる!」

 「お断りします。それより、さっさと会談を始められては?」


 さりげなく間合いを取りながら怒りを流すクロムに、老将軍は一瞬本気で突進しようとし…先に己が守護者の頭を引っ叩いたファンに免じて、止まった。


 「すいません、けど、コイツなりにナナイは本当に大事にしていますので…」

 「俺もそれは保証しよう!だからさっさと花冠を作ればよいのだ!」

 「…まだ、自分の畑も毛長牛もいねぇのに、できるか」

 

 ぽつりと呟かれた言葉に、老将軍は大きく溜息を吐いて首を振った。


 「はあ…まあ、わかった。だが、花冠を贈る前に、私に言えよ」

 「湖に投げ込まないなら」

 「投げ込むときは、俺もやろう!」

 「だからうるせぇっつってんだろですぜこのお馬鹿様」

 「無理に敬語…?敬語か?混ぜなくて良いから…」


 どうやら何か納得した様子の男たちではあるが、ナナイはどうにも面白くない。


 「ねえ、オドンチメグの花冠って、どういうこと?」

 「あー…それは、だなあ」


 ぐい、とクロムに詰め寄り、その鋼青の双眸をしっかりと見上げる。

 珍しく、困った様子を露わに、クロムはやたらを瞬きを繰り返し、意味もなくユーシンの腕を叩く。こちらも滅多にないことに、やり返しもせずユーシンはニヤニヤと笑っていた。


 「その…」

 「その?」

 「渡す時に言うんじゃ、駄目か?」

 「…駄目って言いたいところだけど」


 なんとなく、やりとりから察したその意味。

 それがあっているかどうかだけでも、知りたい。


 「その前に、ちゃんと…アステリア流に、言ってくれるなら、ね?」


 アスラン流は、ちょっと怖いから。

 けど、考えていることがあっているなら、嬉しいから。

 

 「俺にだって、時と場所を選ぶくらいの感情はある。今は、すまん。少なくとも、馬鹿のいないところが良い。馬鹿だから猿みてぇに騒ぎまくりそうだし」

 「あー、うん。じゃあ、アステリアに戻る前までに」

 「わかった」

 「誰が猿だ!だが、俺は確かに聞いたからな!ナナイ、このへたれが誤魔化すようなら俺に言え!」

 「ナナイ、私にも言うのだぞ?何時でも放り込みに来る故な」

 「あー!だから嫌だってんだよ!」


 よく考えたら…いや、よく考えなくても、今、これ、そうとう恥ずかしい。

 顔が熱い。どうしよう、やばい。後で思い出したら恥ずかしくて死ねる。皆がいなくてよかった。でも、クロム、やっぱり、その、僕の事…。


 「あー!!」


 一度に溢れ出したあれやこれに、ナナイの許容量はあっという間に突破されたようだ。

 顔を抑えて窓際に走り、見つけた出入り口からテラスへと脱走する。


 「あーと…ちょっと、女官たち呼んでくる」

 「う、うむ、それがよろしいでしょう」

 

 お前らのせいだぞ!と言わんばかりの目で、老将軍とユーシンを睨みつけるクロムの肩を叩き、ファンは扉の外に声を掛けた。

 呼ばれた女官たちが一礼して室内へと入り、ナナイの姿を探して視線を巡らせる。


 「ナランハル?ナナイ様は…」

 「ちょっと、今、パニックになってテラスにいるから、側にいてあげて」

 「ナランハル?」

 「苛めたりしたわけじゃないから!うん!」

 「それならばよろしいのですが」


 「本当ですよね?」と室内の男どもを睥睨し、女官はテラスへと足を進めた。菊の大鉢の傍で顔を抑えてうずくまるナナイに足早に近寄っていく。


 「さ、て。それじゃあ。皆さん呼んで、はじめましょうか!」

 「そうですな!ああ、ナランハル!ナランハルに是非お会いしたいというものがおりましてな!」

 「俺に?」

 

 首を傾げたファンに、何とか威厳を取り戻したナジャリフが頷いて見せる。


 「アグンと申す呪術師、覚えておいででしょうかや?」

 「アグンさん!もちろん!お世話になりましたからね!彼がこちらに?」

 「ええ。謁見を許されますか?」

 「はい!わあ、懐かしいなあ。元気でしょうか?」

 「五日前、青蟹の食べ過ぎで腹を壊して呻いておりましたが、今はもう無様を晒すような事は御座りませんでしょう」


 外に声を掛けてまいります、と、老将軍が踵を返す。

 その隙に、クロムは主に問いかけた。


 「どういう知り合いだ?」

 「三年前…ククルン山地の戦いで、お世話になった傭兵だよ」

 「ククルンの…」

 「確か、アスランで新兵が全滅した戦であったか?ファンが出陣したのは」

 「ああ」


 先ほどまでの柔らかい表情を消し、ファンが頷く。


 「間違いない。戦ってのはいつだって嫌なものだけど…あの一戦は、本当に、嫌な戦いだった。敵も、自分も」

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