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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
32/89

山は登れば越える。仕事は始めれば終わる。(千里の道も一歩から)3

 「あ゛~…」


 声と溜息の中間くらいの音を出しつつ、胡坐をかいたまま後ろへ倒れる。

 ほふん、とクッションが衝撃を受け止め、伸び切った背筋が気持ちいい。


 終わった…仕事、終わった…。


 執務室へ礼服のまま連行されてはや二日あまり。

 途中、実家と通信したり、一応寝る時間と食べる時間は確保してくれたけれど、トイレ行くのも時間制、絶対に逃がさんと言う鋼の意志を感じる勤務環境の中、そりゃもう、仕事、するしかないよね…。


 いや、仕事が嫌なんじゃない。やらなきゃいけないことだっていう自覚はあるし、物凄い苦手と言うわけでもない。

 でも、一年間好きな事だけやっているという環境に甘やかされた身には辛いわけで。


 まず片付けたのは、俺の認可がいる案件。

 緊急性はないけれど、フフホトの運営に必要なものだ。


 本当に速やかに進めなきゃいけない案件は、ジャワルが代理で認可している。そうじゃない案件は、我が有能な領事官曰く「ご自身の存在意義を忘れないため」取っておいてくれた、らしい。


 まあ、ね。元々内政の才なんてものはないから、経験と学習で補うしかない様な凡才が一年間も何もしなければ、色々と錆びついているわけで。

 その錆を落とすのに、ちょうどいい感じの案件ばかり残されていた当たり、さすがと言うべきか。


 一例をあげれば、街中に花壇を設置したい。その為の予算、作業員、その後の花壇の手入れはどうするか、などなど。

 予算、妥当だと思う。作業員、いつもフフホト行政府の庭を管理してくれてるところの紹介か。あの親方さんの孫弟子なんだね。うん、妥当。

 その後の花壇の手入れ…継続して、設営したところが見回るけれど、街の人たちから有志を募るのか。いいんじゃないかな?


 その次に取り組んだのは、山と積まれた手紙の数々。

 謁見を希望する豪族、有力部族、商会、他国の貴族には、『いずれは会うこともあるかもでしょうが、今は忙しいからちょっと無理っす』と言う内容が印字された手紙に、『どうかお元気で。それじゃあ!』という二言を書いて、俺だという事を示す印章を押したもの。

 

 民からの、「二太子様頑張って!」と励ましてくれる手紙には、『頑張るよ!ありがとう!』という内容で、その手紙に書いてあったちょっとした問いかけ…好きな食べ物とか、女性のタイプとか、変わったところでは何故フフノールの水の色は他の湖より青いの?とか、そう言ったことに答える一文を添える。

 女性のタイプは悩みに悩んだ末に、『標本を捨てない』と書こうとして思いとどまり、『お互いに理解しあえる人』と書いた。間違ってない、と思う。

 

 神が後ろで囁いているとか、夫が浮気している気がするとか、学校で馬を百頭飼っていると言ってしまったとか、右手が暴走するとか、そう言った用意された答えでは賄えない手紙は…申し訳ないけれど、一読して終了。

 

 何件かは、フフホトの問題点の指摘に繋がったり、手を打った方が良い案件だったんで、調査するように指示を出した。


 そんなこんなの、難しくはないけれど厄介な仕事をすべて終えて、もう一度大きく息を吐いた。

 ああ、天井が目に優しい。文字が書いていないことにホッとするなんて、物凄く俺らしくないが仕方ないよな。


 「終わったのか?」

 「追加がなければな」


 転がったまま視線を声の方へと動かせば、クッションに埋もれながら読書中のだったクロムと目が合う。


 もちろん、クロムが俺の仕事を手伝う事はない。

 ウー老師が特別なのであって、普通、守護者スレンに書類仕事は求められないからね。

 しかし、主がせっせと仕事をしている中、守護者がどっか行くのもあり得ない。

 かと言って、後ろで黙って立たれていても気まずい。


 そんなわけで、クロムはこの二日間、寝たり読書したりして過ごしていた。

 あと、疲れ果てた俺が何か譫言を漏らすと、それについて突っ込んだり、「へー」「ほーう」「あー、すごいすごい」と相槌を打ったり。

 …いやこれ、相槌か?


 「あ、そのシリーズ、一年で二冊出てたんだなあ」


 まあ、細かいことは気にしないでおこう。

 そう思って視線を動かして見たのは、クロムが手にする本と、横に置かれた本の表紙。そこには、同じ書名が色違いで載っていた。


 「だな。この一番新しい奴、かなり面白いぞ」

 「大都までの船旅でゆっくり読むかなあ」


 あと四分の一ほど未読が残っている本は、『剣と鋏』と言うシリーズだ。

 主人公は二人。今まで十三人副官が逃げ出した断事官と、その副官に抜擢された若い官吏。

 どれほどの悪事を目の当たりにしても眉ひとつ動かさず、「証拠がない」と悪事を見過ごすかのような断事官に副官は反発しまくるんだけれど、それが誤解だって事に気付き、巨悪を決して逃がさない姿に尊敬の念を抱いていく。

 断事官も、思い込みが激しく、幼稚な正義感を振りかざす副官を疎ましく思っていたけれど、自分の過ちを素直に受け止め、反省し、成長していく姿を見て、徐々に『お荷物』から『相棒』へと評価は変わる。

 見所は二人の掛け合いと、小さな事件を足掛かりに、大都に巣食う悪を追い詰めていく描写だ。ちらっと表紙を見た最新刊では、迷子の犬が連続殺人犯へとつながるらしい。


 クロムは見た目に寄らず…と言うと怒るだろうけれど…けっこう読書家だ。

 俺みたいに字が書いてあるものは何でも読む、と言うわけではないけれど、図書館にもよく行っていたし、お小遣いの半分くらいは本の購入に使っていた。

 読まなきゃ読まないでなんとかなるけれど、やっぱり読みたかったようで、この二日で十冊くらい読破している。

 

 「…アステリアは悪くはねぇが、本が読めないのと便所が汚ぇのがな」

 「それはなあ。アスランと比べる方が悪いと思うぞ」


 クロムが呼んでいるような小説は、他国では吟遊詩人が歌ったり、講談師が語ったりするものだ。

 本もあるけれど、基本的に写本の為、庶民が気軽に読めるものじゃない。そもそも、字が読める人が少ない。

 

 印刷は、カーランで生まれ、成長した技術だ。

 なにせ、カーラン文字は一文字一文字が意味を持ち、字を間違えると文章が可笑しくなる。馬に乗っているはずなのに、母に乗ってしまったりとか。

 字自体も複雑で、同じ内容の文章を書くのにもタタル文字の三倍は墨を使うと言われている。

 さらに、字が下手な人が写本をすれば、何が何だかわからない。


 そこで、木を彫って字を作り、そこに墨を塗って紙を押し当てれば同じ内容、同じ文字のものを大量に作れるのでは?と、とある賢人が思い付き、実行してみた。

 彼の名は伝わっていないが、字が綺麗だった彼は親に写本をやらされていて、それが嫌で嫌で仕方なく…で思いついたのが木版印刷だったそうな。


 どんな目的だったとしても、印刷と言う技術が生まれたのは素晴らしい。

 おかげで、たくさんの本が読めるしな。

 特に西方の図鑑や博物誌は、完全に趣味の産物であることが多くて、製本が甘かったりするから、読むそばから崩壊したりするし…。

 けど、印刷されてきちんと製本したものなら、崩壊の心配もないし、書き込みもできる。

 祖父ちゃんに貰った図書館の本たちを版に写して印刷、製本を行い、貴重な原本は保管庫に収蔵するって作業を初めて十年近く。半分くらいは終わったけど、増えてもいるからなあ。


 子供でも手に取って読むことが出来る本が増えれば、博物学に親しむ人も増える。千人のうち一人くらいは、将来博物学者を志すかもしれない。そうでなくとも、世界をるのは良い事だ。

 大都は内陸部にあるから、海を見たことがない人は大勢いる。けれど、海を知らない人はいない。これって、結構すごい事だと思うんだよね。


 「で、この先はどうすんだ?」

 「ええっと…もうすぐ昼か。夜はたしか、フフホトにある商会の商会長らと食事だな…。あー…気が重い」

 「お前ら兄弟がさっさと嫁娶らねぇから噛みつかれるんだろ」

 「兄貴がまだなのに俺が結婚するのもなあ…。相手もいないことだし」

 「その相手を押し付けられるから気が重いんだろうが」


 レイブラッド卿に伝えたように、俺の子には王位継承権がある。まあ、だからと言って、俺の子が未来のアスラン王になる可能性は限りなく低いけれど、無ではない。

 その豆粒の様な可能性に掛けたいって人もいれば、王族の外戚になりたいって人もいるわけで。


 ただまあ、どっちにしろ、「俺の妻になりたい、させたい」んじゃなくて、「二太子の妻になりたい、させたい」んだよな。

 それが悪いとは言わないけれど。結局、どう足掻いたって王族の婚姻には政治が絡むもんだからな。

 でも。

 

 「…俺はともかく、兄貴はできたら…好きな人と結ばれてほしいなあ」

 「アイツが女に惚れるってのは、お前がそうなるより想像できねぇし、大抵の女は兄馬鹿っぷりにドン引くぞ。一太子だろうがアスラン王だろうが」

 「まあなあ…。けどさ、好きな人が出来たら、俺に向ける愛情の重みが分散するかもしれないだろ?ごく普通に兄貴が政略結婚したら、どうなるかものすっごく予想がつく」

 「確かに」


 兄貴のことを嫌っているとかそう言う事は、大祖クロウハ・カガンの名に懸けてないけれど、たまに重いのもまた事実。

 妻をほっといて「弟おおお!」はなあ…。

 でもって、俺の方が先に結婚したら、それこそ小説の中の鬼姑の如くになりそうだし。


 「だから、好きな人と結ばれて、『弟おおお!』じゃなくて、『妻あああ!』になってほしい」

 「それ、相手の女に擦り付けてるって言わんか?」

 「まあ、そうとも言う…」


 語尾が曖昧になったのは、まだ見ぬの兄嫁に対する罪悪感じゃなく、なんだか軽快な音が聞こえてきたからだ。

 タタン、スタタン、と言う音は、打楽器のようにも聞こえる。けれど、こんなところで打楽器を鳴らす人はいない、よなあ?


 そう思って首を傾げていると、クロムが身を起こし、腕から外しておいた盾を掴んだ。音はだんだん大きくなり、そして入り口に掛けられている布が捲られる。


 「ナ・ランハル!」

 「変な拍子つけて呼ばないでくれ…」


 じゃあーん、と言う音が聞こえたような。

 完全に無表情を保つ警護の騎士らの間を通って入ってきた…いや、踊りながら進んできたジャワルの足。それが、打楽器の正体だったらしい。って言うか、うるさいよ。存在そのものが。


 「つ・い・に!終えられたのですね!ア!」

 「次をもう持ってきたって言ったら泣くぞ」


 やめろよ目をクワってすんの…。ええ…、もう次の仕事なの?ほんとに?


 「とりあえず、踊らないで普通に話してくれ。今、疲れているからキツイ」

 「吾輩の舞でせめてもの鼓舞と癒しをと」

 「それ、両立はしないし、鼓舞られても癒されてもいないからな?」


 大袈裟に床に崩れ、打ちひしがれたジャワルを、クロムが気味悪そうに見ている。気持ちはわかるが、もう少し抑えような?


 「で、本当に…次の仕事?」

 「はい」


 起こした身体を、再びクッションに埋もれさせる。ああ…せめて、少しだけでも外出て、採集させてくれませんかね…?


 「…どれくらいある?」

 「量で表すのは些か困難でございます。昼食の後は、三王廟と守護双神殿への参拝へ赴いていただきますが、はて、それを量で表せと命じられますと…」

 「書類仕事じゃないのか!」


 がばりと起き上がると、浅黒い肌のなか、真っ白い歯を見せながら何故か顔をぐるりと動かす。肩の位置が全然動いてないから怖いよ…。


 「本来ならば、フフホトに赴かれてすぐに参拝なさるべきでございましたが、地上の些事が塵も積もって山を成しておりました。勇ましきヘルカも麗しきウルカも、ご理解いただけましょう」

 「ああ、そう言えば、参拝してなかったもんなあ」


 確かに、執務室に入るより先に参るのが正しい。たぶん、あの立派な船でやってきた「二太子ナランハル」はそうしたんだと思うけれど。

 そうなると、二回も参拝したことにならない?いや、別に悪くはないけどさ。

 俺の顔からその疑問を読み取ったのか、ジャワルが顔を回した。頼むから普通に頷くとかしてくれ。


 「多少服装を整えることは必要でしょうが、共回りなどはなく、一個人として参拝いただくがよろしいでしょう」

 「それで良いの!?やったああ!」

 

 公式に、となると色々と面倒くさい。

 やっと俺の認可が下りたことで進む仕事も多々あるわけだし、年末までにある程度進めておきたい!ってなっている文官たちの仕事を増やすのは…気が引ける。

 迎える神殿側も、なんやかんやと大変だしな。今から行きまーすとなったら、総動員で大掃除からになるし、説法の後で出される茶やお菓子の準備だっている。せめて三日…いや、十日前に言え!となるだろう。


 まして、先日のは影武者だったんで、今回は本物行くからよろしくね、ともなれば、喜怒哀楽を超越する修行を積んだラヤ教の司祭だって、助走をつけて飛び蹴りする。されても仕方がない。


 「馬鹿達も連れて行くか?」

 「そうだなあ」


 思えば、ユーシン達にも二日間会ってない。

 一年間毎日顔を合わせていたわけで、たった二日だけれど、ずいぶん離れていたような気になるな。


 「行くかどうか聞いてみよう。今日の昼はみんなで食えるな!」

 「また、馬鹿から俺の飯を守る労力をはらうのか…」


 嫌そうに首を振っているけれど、口許が笑ってるぞ。

 なんだかんだで、クロムも会えなくて寂しかったんだなあ。

 口に出すと、面倒くさそうだから言わないけれど。


***


 フフホトの三王廟と、守護双神殿はフフノールに浮かぶ島にある。

 行きに船からも見たけれど、島と言っても岸から僅かに離れただけで、夏なら余裕で泳いで渡れる。冬は…まあ、自殺願望があるならどうぞ、というところだ。

 

 立派な橋がかけられているので、船でなくても渡ることが出来る。今回は俺の気晴らしもかねて、外で昼食を取り、それから橋を渡ってお参りすることになった。

 何しろ、橋を渡る手前は観光客や参拝客を誘う食堂がずらりと並ぶ。秋の終わりには半分くらい店を閉めてしまうけれど、逆に言えばもう半分は営業中だ。


 今日の昼食をと選んだのは、フフホトに来るたびに寄っているその中の一軒だ。

 小さな食堂だから、俺たちが入ると満席になった。まだ時間が早いせいか、お客さんが他にいなくてよかったよ。


 大きな窓から湖が見えたりはせず、やや草臥れた壁にはメニューが無造作に貼り付けられていて、それも黄ばみ、端っこが破けている。

 大都の女の子なら、店の中を見た瞬間用事を思い出すような内装だけれど、味は間違いないからな!

 実際、ナナイとエルディーンさんはちょっと怯んだ。けれど、神官女子たちは物珍しそうに中へ入っていく。

 ガラテアさんは…堂々と入場ですね。

 

 このあたりの名物は当然、フフノールで捕れる魚介類。特に、大粒の二枚貝であるシロヤリガイを使った料理が有名だ。

 今、俺たちに出されているように、そのまま炙って、パカリと開いたら塩を振って食べるのが一番美味い。

 …夏は、庭に組まれた簡易かまどに網を置いて、そこに生きたまま置いて炙るってのがフフホト名物なんだけれど、それを見て「美味しそー!」となるか「うわ…」となるかは人それぞれだからなあ。

 貝そのものすら初めて見る、ヤクモ達にはちょっと刺激が強すぎるかもしれない。


 「あー、クソ、このあと参拝じゃなけりゃ麦酒行くのに!」

 「ほう、意外だな。お前がそんなことを気にするとは」

 

 心底不思議そうに首を傾げるガラテアさんに、クロムはただ眉間の皴を深くした。

 

 「守護双神だけならともかく、三王廟いくのに酒飲めるか」

 「えー、でもさあ。クロム、今までそんなこと言わなかったよねぃ?」

 「一応、クロムもアスランの騎士だからな?」

 「おそらハフっ!不敬をなしたハフッ!ものの枕元ハフ!」

 「ユーシン、冷まして飲み込んでから話しなさい」


 熱々、かつ、噛み締めればじゅっとさらに熱い汁が出る貝は、話しながら食べるのに向かない。しばらくユーシンはハフハフと貝と格闘していたが、ごくりと飲み込んで、満足そうな溜息を吐いた。


 「不敬をなしたものの枕元には、亡くなったアスラン騎士の亡霊が立ち、戒めるそうだ!それが怖いのだろう!」

 「アホ!ンな子供だまし、信じてねぇよ!!」


 アスラン騎士たるもの、王家と、そして偉大なる三王には何があろうと忠を誓い、礼を尽くすもの。

 そう士官学校でも叩きこまれるからってことにしておこうな。うん。


 「ええっと、さて、ロットさん達、貝はどうです?食べられそうですか?」

 「本で見たことはありますが、本当にこのような殻に包まれているのですねえ」


 しげしげと眺めた後、ロットさんは鉄串で器用に身を剝がし、冷ましてから口に入れた。目が丸くなっているけれど、それは嬉しい方の驚きだったようで、口許がにんまりと笑っている。


 「皆も食べる時は気をつけなさい。本当に熱い」

 「身を剥がして、皿において冷ましてから食べたほうが良いよ~」


 女の子たちは、ナナイがしたように身を剥がし、皿にふうふうと息を吹きかける。どうやら怖がることはないようで、何なら一番おっかなびっくりなのはヤクモかもしれない。


 「要らねぇなら俺が食うぞ」

 「食べるよう!」

 「美味いぞ!海の貝も美味いが、これも美味い!」


 意を決してヤクモが貝を頬張り、ロットさんと同じ顔をしていると、本日のメイン料理が運ばれてきた。

 貝で出汁を取ったスープに揺蕩う黄麺シャルミン。これがこの店の看板料理で、フフホトまで来たら絶対に食べなければならない逸品である。

 

 「先生、今日は随分と可愛いお連れさんがご一緒なのねェ」


 最後に俺の前に鉢をおいた女将さんが、日に焼けた頬を持ち上げて笑った。

 勿論、彼女はナランハルの事を知らない。年に何度かやってくる、博物学者だと思っている。

 自己紹介でそう言ったし、フフノールの水質や生き物を研究、観察している王立青湖調査室の研究員たちも、ソウダネーと裏付けたからね。


 「博物学者だけじゃ食っていけなくてね。親父の友人のお子さんらを、大都まで案内する仕事を引き受けたんだよ」

 「あらまあ。そいで西のお嬢さんらとご一緒なのね。男の子らはお隣さんの?」

 「いや、二人とも大都に住んでる。俺一人じゃ危なっかしいってさ」


 お隣さん…つまりは、クトラ自治区の事だ。ユーシンは見るからにキリクかクトラの民だし、クロムの顔や手に入る刺青も、このあたりじゃ珍しい物じゃない。


 「先生、しっかりしてるけど珍しい魚や蛙見つけたら飛んでっちゃうものねェ。ま、がんばりなさいな!」

 「ありがとう。女将さん」

 「そうそう、青蟹もはいっているんだよゥ。どうする?」

 「それは是非貰うよ!大丈夫!サライで祖父ちゃんにも会ったから、金はある!」

 「ちっとはまけてあげるから、お小遣いはとっときなよ」


 ケラケラと笑いながら女将は厨房へと引っ込んだ。

 青蟹あるのかあ!これはついてるな!


 「ファン、それってなあに?」

 「青は、この場合種の特徴とか、フフノールの特産って意味じゃなくてな」

 「あ、手短に。うわあ、この黄麺すっごい美味しいねぃ!」

 「マジで美味いな。貝の出汁がすげぇ」

 「鍋一杯分でも食えるな!」


 ねえ、説明聞きたいの?聞きたくないの?どっち?


 しかし、澄み切ったスープの中に揺蕩う黄麺はやっぱりとんでもなく美味く、湯と麺しかないという究極にシンプルな構成が、この一品には相応しいのだと口に入れた瞬間に理解できる。

 これを食いながら「美味い!」以外の思考を保つのは難しい。食べ終わってからにしよう。

 そう判断し、しばし、ハフハフと美味を楽しむことしばし。

  

 「…懐かしいなあ」


 ぽつりと、匙を持ったまま呟いたのは、意外なことにウィルだった。

 みんなもそう思ったようで、一斉に視線が集まり、一気にその頬と耳が赤くなる。


 「え、ええっと!ええと、ですね!僕の生まれた村では、もっとちっちゃいんですけど、貝が獲れたんです!」

 

 あわあわと説明する。ヤリガイはその名の通り、槍の穂先みたいな形をしたかなり大型の貝だ。成長すると俺の掌より大きい。そこまでの大物は高級品なんで、こうした町の食堂で出されるのはその半分くらいだけどね。

 

 「大きくても、親指の爪くらいの大きさで、小川の底を掘れば、子供でも獲れて…」

 「そうか。美味しかったかい?」


 ロットさんの質問に、ウィルは顔を綻ばせて頷いた。


 「美味しくはないって、思っていました。たまに食べられる肉のスープの方がご馳走で…。僕たちは砂貝って呼んでいましたけど、水から煮るだけでスープとして食べられるので、ほんと、毎日食べていたんです」

 「うん」

 「けど、久しぶりに貝のスープを飲んで…もちろん、こっちの方がずっと美味しいんですけど、でも、故郷の砂貝のスープも、美味しかったなって、思い出して…」


 故郷の味か。

 離れてわかる美味しさってあるよな。まあ、俺は羊肉毎日美味しい~って食べてたけど。


 「美味しいって、すごいですよね。忘れていた故郷の味を思い出したり…」

 「初めて食べるもんでも、美味しいものは美味しいしね!」


 妹弟子の言葉に、ロットさんは微笑みながら頷いた。

 その視線が、恐る恐る…けれど、段々素早く匙を動かす騎士に向く。


 「レイブラッド卿、美味しいですか?」

 「…!あ、はい。大変に美味であると…思います」

 「さきほど妹弟子が言いましたが、初めて食べるものでも、美味しいものは美味しいですよね。私はそれも、人の強さだと思うのですよ」

 「強さ…?」

 「はい」


 ロットさんは名残惜しそうに最後の一匙を口に運んだ。初めて食べるもの。未知の味。それを美味しいって思うのは、確かにすごい事だよな。

 俺たちの先達は、そうやって少しずつ世界を識っていった。その結果が、今、こうして俺たちを感動させている。


 「まあ、とは言え、難しい事を考えず、美味しいものは美味しい!で良いと思いますよ。美食に国境なし!です」


 ロットさんの言葉に、レイブラッド卿は隈の浮き出た目を少し見開いた。

 それは国境の町ウルズベリで、ガラテアさんが騎士に説いたことと少し似ている。と言うか、その答えと言うか。


 辛いと思って覚悟して口に入れたら甘かった。そして美味しかった。

 そしたら、何故、だとか、敵国の料理だ、とか考えず、素直に美味しいでいいじゃないか。

 きっと、そう言う事じゃないかな、と思う。

 まあ、それが出来ないから苦しんでいるってのはあると思うけどね。


 次の料理も、きっと彼が食べたことのないものだ。けど、見た目に反して、食べたら絶対美味しいとおもんだけどね。

 

 「はい、お待ちどうさま」


 女将さんが両手で持って運んできた大皿には、ほこほこを湯気を立てる揚げ物の山が乗っている。

 どん、とテーブルに置かれたそれを見て、エルディーンさんは慌てて身を引き、シドとガラテアさんは身を乗り出した。


 「軟殻蟹ソフトシェルクラブか!」

 「お、二人は知ってるのか?」

 「ああ。故郷の名物だ」

 「味付けは違うかもだけれどね。きっとこれも美味いよ」


 子供の拳くらいの蟹は、フフノールで養殖しているものだ。湖でもいっぱい取れるけれど、脱皮直後で殻が柔らかいのをたくさん捕獲するのはさすがに無理だからね。


 「ファン、これ、どーゆーもの?」

 「蟹っていう硬い殻をもつ生き物の、脱皮直後を調理したもの。香辛料をまぶして揚げてある。ここのはマサラ風味だな。青蟹の青って言うのは、未熟、とかそういう意味でな…」

 「って言うか、ますます麦酒飲みたくなるもの頼むんじゃないっ!クソ!美味い!女将、麦酒頼む!」

 

 あー、クロムの限界を超えちゃったか。


 「私も一杯」

 「…俺も、頼む」

 「まあ、これと一緒に酒飲まない辛さは、三王様も分かってくれるさ。って、ことで、俺も!」


 これがまた、この季節のキンと冷たい麦酒に合うんだよなあ。

 それに、五代ジルチ王が大層この青蟹の揚げ物を気に入り、なんとか大都でも食べられるようにと転移陣を設けたのが、現在アスランの隅々まで張り巡らされている、転移陣を使った流通網の始まりだ。

 真面目が服を着て威張り腐っていると評された彼の右腕、宰相イシダジブでさえ、我慢できずに昼から麦酒を口にした、と言われている料理だし、怒られないんじゃないかな?


 まあ、怒られるなら俺も一緒だ。一緒に正座して受けよう。

 

 「そう言うと思ったよゥ」


 どん、と皿の横に置かれたのは、ビールの入った薬缶と、頼んだ人数より多い盃。

 ほら、四人で飲めば、それほどの量でもないし、酔っぱらうとこまではいかない…かなあ?あ、持ち上げたらかなり重い。いや、これはダメかもしれんね。


 「えー、ロットさん、レイブラッド卿。少し、手伝いません?」


 それなら、飲む頭数を増やせばいい。そう思って声を掛けると、ロットさんは天を仰いだ。


 「ああ、女神よ。これより、異郷の神へご挨拶に伺うというのに、なんという試練をお与えになるのでしょう…」

 「でも、バレルノ大司祭なら?」

 「飲みますね。確実に。先生たちも」


 そう言ってニヤリと笑い、ロットさんは盃に手を伸ばした。薬缶から麦酒を注ぎ、手渡す。背の高い杯は冷たい麦酒で満たされて、ひんやりと潤う。


 「ああ、女神よ!信徒の意志が弱い事、どうぞ笑ってください!」


 青蟹を口に放り込み、咀嚼してから麦酒を流し込む。ロットさんの顔には、「至福!」と大きく書いてるのが見えるようだ。


 「あの、兄さま…なんだか、その…」

 「うん!美味しい!見た目はまるで虫のようですが、美味しいですね!」

 「魚と虫と羊、どれに一番近い仲間かと言えば虫ですけれど、蟹は蟹ですからね」


 海老を食べさせる時も注意が必要だな。あっちの方がより一層虫っぽいし。


 「そっかあ。初めて見ると蟹って食べ物に見えないんだね」

 「ナナイは…平気なの?」

 「だって、蟹って食べ物だし…美味しいよ?青蟹、こんなにいっぱい出されたの初めて見るよ!フフホトの名物なんだね」

 「フフホトでしか食べられないわけじゃないけど、元々フフホトの蟹は美味いからね。特にこの店のは絶品!」


 奥から、女将と大将の笑い声が聞こえた。でも、本当に一番美味いと思ってるよ?ええ、もう、麦酒が進みすぎて困る!


 「あ、美味しいねぃ!」

 「ち…ビビって食えなきゃ良いのに」

 「食べるよぅ!ファンとユーシンだけ食べてるのはちょっと不安だけど、クロムもシドも、ナナイだって食べてるじゃん!」

 「海にはもっとでかい蟹がいてさ。味が違うんだよなあ」

 「そ、その蟹は人を食べたりしません!?」

 「まあ、超大型種なら襲ってくることもあるみたいだよ」


 北海に棲む超大型種は、海中から船に取り付き、這い上がって人を襲う。しかし、身が旨いんで、蟹が人を食う数より、人に食われる数の方がずっと多いそうな。

 這い上がった瞬間、待ち構えていた大槌を構えた漁師たちにボコボコにされて、鍋で茹でられちゃうらしい。なんか可哀想だけど、美味いなら一回食べてみたいよね。


 「うん!食べてみる!」

 「私も!」

 

 少女たちの手が蟹に伸び、口に運ぶ。目を閉じているのは仕方ない。一度「虫っぽいな」って思ったら、中々払拭できないし。

 それでもすぐに「美味しい!」と言う歓声が上がって、なんだかにんまりしてしまう。

 

 「あのね、レイ…。本当に、美味しいの。その、食べてみてはどうかしら」


 二つ目を飲み込んでから、エルディーンさんがおずおずと騎士に声を掛けた。動かない騎士の前に、ロットさんが麦酒で満たされた杯を置く。


 レイブラッド卿は、じっとその盃を見ていた。


 冷たく、喉越しの良い麦酒は、アステリアのそれよりも味自体は薄い。けれど、しゅわしゅわと泡立つ表面は、琥珀色に揺らめいて誘う。


 騎士の手が、伸びた。

 

 皿から蟹をつまみ、口に放り込み、咀嚼する。ごくりと喉が動いて、嚙み砕かれた未知の味は身体の奥へと送られた。

 間髪入れず、麦酒の盃が傾けられる。一気に呷って流し込み、騎士は盃を口から離した。


 「美味い…」


 その顔には、ほろりと零れるような笑み。


 「美味しいですか?」

 「ええ、とても。香ばしさと、辛み…そこに麦酒を流すのは…素晴らしい」


 レイブラッド卿の感想に、ロットさんが大きく頷く。


 「ええ、本当に。得難い経験を後押ししてくれた、我らが大司祭に感謝いたしましょう。二杯目は、バレルノ大司祭に捧げると言う事で」

 「ふふ、そうですね」


 薬缶を傾け、盃に麦酒を満たしていく。飲酒のだしにされた大司祭だけれど、聞いたらきっと、「じゃあ、おれも飲まなきゃなあ」と嬉しそうに笑うだろう。

 

 騎士の顔からは、何かが取れていた。

 言葉にできるようなものではないけれど、例えるなら、雨が降った後の青空のように、すっきりと。

 うん。彼はもう、大丈夫そうだな。


***

 

 蟹がなくなり、薬缶も軽くなり、その後飲んだお茶で酔いも醒めた…と思うので、腰を上げて本日の政務の続きに移る。

 女将さんは本当に少しまけてくれたけれど、食べた量が量なだけに、結構なお値段になった。大目に金持ってきといてよかったよ。

 

 また来ておくれ~と手を振る女将さんに是非に!と答えながら、島へ渡るための端に向かって歩き出す。

 茶がなくても酔いが醒めようなくらい、湖を渡ってくる風は冷たい。サライで買った防寒具が、さっそく大活躍だ。


 「ええっと、これから向かうのは、アスランの昔の王様方をお祀りした神殿…なんですよね?」

 「そうだよ。大祖、開祖、五代の三人で、三王廟。より正確には、ここの廟はアスランの守護神である雷帝も祀られているので、一帝三王廟だね」

 「廟、というのは、神殿とは違うのですか?」


 何か書きつけているメモを見ながら、ウィルが問う。

 ちょっと覗き込むと、アスランの知識を片っ端から書きつけている。何か書いているなあと思って、合流してすぐに贈った鉛筆が役に立っているみたいだ。

 うんうん。覚書は大切だからね。特に旅の途中のそれは。

 清書しようと頁を開けば、思い出や感動がありありと蘇る。その、もう一度旅に出たような感覚が好きだ。


 すでに三冊目に突入しているアステリア滞在記は、最終的に何冊になるかなあ。上梓できたら、バルト陛下…は読まずに寝ちゃうかもしれないから、ウルガさんとイヴリン様に贈呈したいな。


 「他の国はわからないけれど、アスランで廟とつくのは、実際に生きていた人を神として祀った神殿のことだよ。仕える神官がいないのが特徴かな」

 「神官がいない?」

 「信仰しているわけじゃなくて、うーん、なんと言ったらいいんだろう。尊敬や御礼の為…と言ったらいいのかな?」


 信仰はしていないよなあ。祈りを捧げ、供物をそなえるけれど、それだけだ。

 

 「自分の親や先祖の墓に詣でるように、俺たちは廟に詣でてその偉業に感謝するんだ。三王廟はアスランの主要都市なら必ずあるけど、有名な役者や歌手を祀った廟、なんてのもあちこちにあるよ」


 同じ道を志す人が詣でたり、今度の公演が恙なく完走できますように、と劇場関係者が参ったりする。


 「他には、村の為に井戸を掘り続けて、ついに掘り当てた人が井戸の守り神として祀られたり、賊と戦って町を守り抜いたけれど亡くなった戦士たちの廟とかね」

 「なるほど!」


 ウィルがカリカリと、メモに聞いたことを書き連ねていく。

 このあたりの感覚は、東西で結構違う。西では、神は神、人は人だ。高名な司祭の絵や像が神殿に置かれていることはあるけれど、あくまで「偉大なる司祭」という扱いで、神じゃない。


 翻って東では、祀れば神だ。

 良い事をして死後、神として祀られるのはもちろん、アイツやっと死んだけど、悪鬼悪霊になって害をなさないように、とりあえず祀り上げていい気にさせよう…という理由で廟を建てることもあるし。


 「人間じゃなくても、竜に馬や犬、猫…樹や石など、様々なものが神として祀られてたりするよ」

 「…それは、その、雷帝は…お怒りにならないのですか?」

 「なったことがないから、今も続いているんじゃないかなあ。雷帝神殿の一角に、そうした廟があったりするしね」


 大都でも、大祖が育て、開祖の愛馬となった「タユグロウ」を祀った黒馬廟には、毎日たくさんの人が参拝に来る。

 特に夏の大祭ナーダムの前には、競馬での優勝を祈願して参道までみっしりと人が詰まるほどの大盛況だ。

 

 でも、面白いな。そっか。西の考え方だと、神様が怒るって捉えるのか。

 俺たちの考え方だと、神殿の近くに廟を建てると、そこで祀られる神は神殿の神様の配下とか眷属になるから、むしろ喜ぶとされる。

 三王廟に雷帝も祀るのは、死後、三王は雷帝の眷族というか、その麾下の将となったとされているからだしね。

 

 「あの、なんとなく、竜や馬はわかりますが…石や樹、というのは?」

 「ずーっと昔からそこに在るものは、人よりも多くの事を見てきているから」


 俺の返答に、ウィルは首を傾げた。この辺は、育つ間に培ってきた感覚なんだろうしなあ。

 

 そんなことを話しながらしばらく歩くと、目的の橋が見えてきた。

 防腐に漆で赤く塗られた欄干は、湖の青に良く映える。天気が悪いと全てが灰色に塗りこめられるけれど、今日は快晴。

 吹き付ける風の冷たささえ我慢できれば、青い湖に掛けられた赤い橋と、その橋が繋ぐ常緑樹に覆われた島、そこに見える鮮やかな色彩で飾られた廟と神殿は、まさに絶景だ。


 とりあえず、お参りに行くけれど行きますか?と聞いて、全員で来たわけだけれど。

 三王廟はともかく、守護双神殿は…ちょっと、皆に刺激が強いかもなあ。


 「えっと、もう一回確認ですが、参拝するってことでいいんですよね?」


 寒そうに首を竦めながらも、目の前の光景をしっかりと見つめているロットさんに尋ねる。


 「ヘルカとウルカの像は…わりと、西の人から見ると奇抜ですが」

 「ファンさんの蔵書でお姿を拝見させてもらいましたが、確かに。しかし、お姿が我々の思う神と違っているからと言って一礼もしないのは、女神アスターの御心に背くと思うのですよ」

 「ん?ヘルカとウルカは何か違うのか?」

 

 ロットさんの返答に、今度はユーシンが首を傾げた。

 逆に、西方の神像はあっさりしすぎているというか、人間に近すぎるものなあ。最初、大神殿に行った時、ユーシンは女神像がただの飾りだと思ってたし。

 

 「西方の人から見ると、顔も手も多すぎるってとこだな」

 「ふむ!人と同じ数の目で世界を見渡し、二本だけの腕で救済を行うのは中々骨がおれそうだがな!」


 いしし、と笑って欄干に飛び乗る。こら!やめなさい!子供が真似したら危ないだろ!


 「早く行こう!俺もヘルカとウルカに、この一年に成した戦を捧げねば!」

 「だからってはしゃぐな馬鹿!そのまま落ちろ!」

 「俺はクロムではないから問題ない!さあ、行くぞ!」


 そのまま欄干を身軽に駆けていく。ああ、もう、ほら、前を行く親子連れのお子さんが真似して欄干によじ登ろうとしてるじゃないか!

 慌ててお子さんを欄干から引きはがし、お母さんに渡してすいませんと頭を下げる。幸い、お母さんは怒ることもなく、こっちを振り返って「早く早く!」と手招くユーシンをうっとりと見ていた。

 

 「とにかく、降りなさーい!!」

 「もぅ、駄目でしょー!ユーシン!」


 いつもならわりと素直に聞くけれど、今日はその気がないらしい。仕方ない。さっさと追いついて拳骨にしよう。


 橋を渡りきると、二本の柱が立っていて、その頂点から地上に五本の綱が張られ、青い布が無数に巻きつけられていた。


 「これは、オボーって言うんだ。この先は神域であることを示しているので、この先、同じものを見たら、その先へ進むときは注意してね。神域では、祀られる神によって違うけど、色々な禁忌があるから。まあ、普通にしていれば問題ないけどね」


 さっきのユーシンみたいなのは駄目だけどな。あーもう、石頭め。拳が痛いよ。


 「三王廟での禁忌は、親が子を、子が親を虐げること。兄弟姉妹で罵りあう事。あ、あの程度は大丈夫」


 すぐ近くで、まん丸に着ぶくれしたよちよち歩きの子が、抱っこを拒んで「やーの!」とお父さんの手を払いのけている。

 お父さんが困りながらも笑って我が子を抱え上げると、顔を真っ赤にして泣き出した。


 「可愛い~!」

 「歩きたいんだね~!がんばりやさん!」


 女の子たちの声に、何を言っているかはわからなくても、表情で我が子が褒められた事を理解したんだろう。

 彼女らとあまり歳の変わらなさそうな若い父親は、照れ笑いを浮かべ、泣きわめく我が子を抱えて先へと進んでいった。


 「特別に願掛けをする場合は、オボーの周りを三回まわり、叩頭した後に青い布を綱に巻き付ける。それからお参りするんだ。この先の旅の無事を祈って、ちょっとやるね。神域に向かって右が男が願掛けするオボー。左が女性のオボーだよ」


 右側のオボーに一礼してから向かい、とことこと周回する。その間、口を開いてはいけない。頭の中で、願い事を唱えながら歩く。


 どうか、全員無事でこの旅を終えられますように。皆の旅の思い出が、善きものとなりますように。


 三回目が終わったら、叩頭用に敷布があるので、そこで膝を付き、頭を下げる。三回、額を地面につけたら、立ち上がって布を巻いて終了だ。

 布はちゃんと持ってきた。外套のポケットに入れておいたそれを取り出し、誰かの願いの上に巻き付ける。

 下になる布ほど願いが届きやすい…風で飛んだりしにくいからね…とされるから、被せることに罪悪感を持つ必要はない。


 「俺もやる!」

 「布あるか?」

 「大丈夫だ!ジャワル殿がくれた!」


 取り出した布は、どう見ても高価な絹布で、なんか縁取りや刺繍も凝っているし、間違いなく身を飾るためのものだと思うんだけど。

 まあ、いっか。どうせユーシンが身に着けることはないんだし、願掛けに使われるなら鞄の奥でクシャクシャになって忘れ去られるよりいいだろう。


 先ほど俺がしたのとは違い、ユーシンは踊るような足取り…いや、踊りながら回る。

 それは別に、布をくれた踊り狂うおっさんに敬意を表しているわけじゃない。


 「ユーシン、まだ、はしゃいでるのぅ?」

 「ヘルカとウルカは常に踊っている神だから、ああして舞いながら周回するのが正式なんだ。反対側で女性が同じように舞うのが更に正式だけどね」

 

 周回の後の作法は同じ。俺がやってた時にはなかった人垣ができてるのは、仕方ないってことで。


 「うぎぎ…おモテになりおって…」

 「嫉妬は禁忌じゃないけど、褒められた事でもないからやめときなさい。さ、行くぞ」

 「待て。俺もやる」

 

 戻ってきたユーシンと入れ替わるように、クロムが進み出た。そのままスタスタと三周し、オボーに額付く。


 「お酒飲んだの怒られるの、怖いからかなあ?」

 「はは、どうだろな」


 騎士服を着て、初めての参拝だもんな。気合も入るさ。

 まあ、その辺つつくと面倒くさそうだからやめておこう。ここから先は神域だ。いつもの調子でギャーギャー言っていいところじゃない。


 オボーの間を通り、参道へと進む。

 途中で道が別れているのは、右へ進めば三王廟、左へ進めば守護双神殿にたどり着くからだ。

 どっちもお参りする場合には、守護双神殿へ先に参るのが慣例だ。

 いくら偉大な王であっても、三王はもともと人間だからね。アーナプルナの守護神を後回しにするのは、人の家を訪ねて、その家の家長に挨拶しないようなものだから、とても行儀が悪い。

 

 「守護双神殿は、同時にラヤ教の寺院を兼ねているんだ」

 

 足もとから石畳が消える。剥き出しの地面は、多くの足に踏み固められているけれど、石や木の根も飛び出していて、歩きやすいとは言えない。


 「ラヤ教では、喜怒哀楽を超越し、世界と一体となることを目標に修行を重ねる。道が整備されていないのも、楽をしようとすることそのものを否定するからだね」

 「そして、ヘルカとウルカは舞踊によって地を固め、我らが住む地を造られた!それを模している!」

 「ユーシンが…蘊蓄を、垂れた…だとぅ?」

 「俺はヤクモたちに、キリクのことを知ってもらいたいからな!キリクは良い国だ!アスランほど人はいないがな!」

 「じゃあやっぱり、一回キリクに…」

 「それは断る!」


 実際に見せてみたら、聞くよりずっと知ってもらえると思うんだけどなー。

 苦笑しつつ道の先を見ると、朱色の袈裟を肩に掛けた僧侶数人がこちらを見ていた。手には鉢を持っているから、これから午後の托鉢に行くんだろう。

 もう素肌が痛いくらいの気候だというのに、みんな薄着だ。袈裟の他には薄い貫頭衣を来て、毛織物の帯を巻いているだけで、足元も素足に草履のみ。

 別に現在特別な修行中ではなく、ラヤの僧侶たちは高僧も入門したての小僧さんも、みんなこんな服装である。


 「む、食い物も金も持っていない!」

 「ほい。飴と財布。一人につき、銀貨三枚までな!」

 「ありがとう、ファン!」


 歩き始めた一団の前で、ユーシンは俺が渡した飴の袋と財布を握りしめて待つ。僧侶たちは足を止め、手に持つ鉢を前に出した。

 最初の三人、大人の僧侶たちの鉢には銀貨を、その後ろに着く、十歳くらいの子と、もう少し小さい子の鉢には飴を入れる。


 「飴は溶ける。今、口に入れていくがよい!」


 小僧さんは鮮やかな色の飴と、ユーシンと、前に立つ兄弟子たちを交互に見た。食べたいと、そのあどけない口許がムニュムニュしている。


 「いただきなさい。もっともだ」

 

 先頭の僧が、微笑みながら頷く。ぱあっと小僧さんの顔が輝き、手が伸びて飴を掴み、口へと運んだ。

 喜怒哀楽を超越するのがラヤの教えだけれど、それを無理やり拒み、なかったことにするのはむしろ囚われる。だからまあ、修行を妨げた、と言うわけではないってことにしとこう。


 「功徳を積めたこと、感謝いたす!」

 

 手を合わせ、ぺこりと頭を下げる。その頭頂部を、先頭の僧…一番高位の僧だ…がそっと撫でた。

 そして、ほとんど足音を立てずに歩き出す。小僧さん達ですら、静かなものだ。

 ただ、通り過ぎる時、にこーっとユーシンに向けて笑った。飴、美味しかったみたいだな。


 他の参拝に訪れた人々も、同じように鉢にお金や食べ物を入れ、頭を撫でてもらっている。彼らが戻ってくる頃には、鉢は満杯になっているだろう。フフホトはキリク人やクトラ人もたくさん住んでいるし、ラヤ教徒も多い。


 「あの、あの方がたらは、何をなさっているのでしょうか?」

 「托鉢と言って、街を歩いて食べものやお金を貰うんです。修行の一環ですね」

 「修行…ですか」


 神殿もお布施や寄付で運営しているけれど、どこの神殿も自分とこの畑や牧場をもっていたりする。御業の行使でもお金取るしね。

 

 「ラヤ教では、僧侶が畑や家畜を持つことを禁じています。僧侶が口にしていいのは、自然に生えているもの、野の獣や魚、そして、人々が善意でくれるものだけなんですよ。托鉢で金銭や食べ物を喜捨することは、功徳を積む行為であり、幸運になって還ってくるとは言いますが、偉そうだったり、乱暴な僧には誰も何もくれません」

 「そうして喜捨をもらえずに飢えて死ぬと、餓鬼プタラになる!」

 「なるほど。我が身を顧みる修行なのですね。左方のお偉方が街を練り歩いても、確かに何一つ貰えなさそうだ」


 ロットさんの辛辣な感想に、ウィルは何とも言えず困った顔をし、少女たちも真面目な無表情を保った。


 「先生方なら、何か勘違いしてお菓子や何かを配り歩きそうですけどね」

 「もう、お兄様!」


 しかし、追撃が。堪えきれず引き出し、ロットさんの手をたしたしと叩いて抗議するも、大神官は涼しい顔だ。


 「ええと、その感想はまたあとで!先へ行きましょう!とは言え、入れるのは拝殿までですけれどね」


 俺は一応、座主に挨拶してくるかなあ。ユーシンも連れて。


 神殿は石と木を組み合わせて造られている。朱塗りの壁と柱、屋根は瑠璃色で、欄干や扉には金細工が嵌めこまれ、陽光にきらきらと輝いていた。

 大きく開け放たれた拝殿の前には台座があり、そこには大きな香炉が置かれ、微かに揺蕩う煙は芳香を放っている。

 その後ろには茣蓙が敷かれていて、いくつかの靴が並んでいた。靴番の僧が長い棒でこの辺に脱ぎなさいと指示してくれた。


 「布靴は持って来てるかな?」

 「はーい!」

 「拝殿の中では素足になるか、素足に布靴を履くかのどっちかだから。靴下は脱いでね」

 

 裸足が正式だけど、今の時期は床が冷たいしね。女性は基本、布靴を履くもんだ。すでに参拝している地元の方々もそうしている。

 

 「ひぁ、つめたっ!」


 俺らを習って素足で踏み出したヤクモが、小さく悲鳴を上げた。だから布靴持ってきなって言ったのに。

 

 「持ってるけどさあ。男で履いてるの、ぼくだけなの格好悪いよぅ。ウィルだって裸足なのに~」

 「僕は、その、神殿で慣れてるから…」

 「ヤクモ君。ウィル。私が履きにくいから、履きません?」


 ヤクモとウィルは顔を見合わせ、頷きあって鞄から布靴を取り出した。おお、ロットさんうまいなあ。顔を見ると、にこりと笑って片目を閉じる。


 明り取りの窓から差し込む陽光と、像の前に備えられたたくさんの燭台に照らされて、拝殿内は暗くはない。

 誰かが、息をのんだ。

 

 暗くないその空間は、溢れるような色彩と躍動に満ちている。


 壁にも、天井にも、華や草木、獣、そして人が描かれていた。

 皆手足をくねらせ、腰を逸らせて踊っている。

 天井にだけ描かれている天人たちは楽器を持ち、全身でその音色を示す。

 静まり返っているはずの拝殿なのに、何故かさざなみのように音が押し寄せてくる…そう感じる程に。

 楽器の演奏、手拍子、足踏み…それらが、直接魂に響いてくるかのようだ。


 そして、その音に乗り、踊る二柱の神。


 五つの目と四本の腕、そして乳房を持つ男神ヘルカ。

 三つの顔と八本の腕に男性器を持つ女神ウルカ。


 伸ばされた指の描く曲線、腕の緩やかな動き。

 限界まで捻られた腰の皴、持ち上げられた脚の筋肉。

 永遠に踊る二柱の神々の、ある一瞬を切り取った…そうとしか表現できない神像は、見上げるほどの巨大さ。


 しかし、踏みつぶされるような圧迫感を覚えないのは、二柱の神が浮かべる笑みのおかげだろう。

 親の様な、伴侶の様な、恋人の様な…あらゆる愛情を内包して見守るようなその笑みは、ただひたすらに優しい。


 冷たい床をものともせず、ユーシンは神像の前へと進み出る。 

 そして、参拝用の敷布のない床に、膝を付き、神像に向かい倒れ伏す。


 「ヘルカよ!ウルカよ!シーリンが子、ユーシンの戦い、照覧いただけたか!」


 無論、神像は答えない。けれど、答えが欲しくて、褒めてほしくて、ユーシンはやっているわけじゃない。

 二柱に見られても構わないほど、恥じない戦いをしたのだと言う事。

 それがこの、ユーシンの祈りだ。


 でもなんとなく、気のせいなのはわかっているけれど、より一層、二柱の微笑が優しくなっているように思えるよ。


 「ええと、ファン…」

 「ん?」


 かすかな声に振り向くと、ナナイが袖を引いていた。その後ろには、視線を床に這わす少女たち…含むヤクモとウィル…がいる。


 「やっぱり、その…刺激、強すぎるみたい」

 「あー…」


 再び、ヘルカとウルカの像に視線を向ける。

 二柱の神は、様々な装飾品を身に着けているけれど、服らしい服は薄絹を纏わせているだけだ。

 そのたわわな胸も、股間で臨戦態勢になったモノも、しっかりと剥き出しになっている。


 うーん…初めて見るだろうしなあ。この手のもの。

 

 「それじゃあ、そこの端の敷布で座って、手を合わせて。目を逸らしていても、それで参拝したことになるし」

 「小娘共はわかるが、なんでお前まできょどってんだよ」

 「だって、ふつーに直視できないよっ!」


 ヤクモにも刺激が強すぎたか。サライでお店行かなかったしなあ。

 ちなみに、ガラテアさんは直視しながら敷布に座って手を合わせていた。強い。

 

 俺たちも参拝を済ませ、戻ってきたユーシンと共に拝殿を出た。

 挨拶はまた今度にしよう。あと二日三日はいるわけだから、機会はある。残しといたら、クロムがヤクモを揶揄いまくってお坊さんに怒られそうだからな…。


 「次の三王廟は、服着てるから…」

 「しかし、素晴らしい神像でしたね。動きだしそうなほどでした」


 ロットさんはしっかり見ていた。感心しきり、と言うように頷きを繰り返す。

 

 「あの神像は、今から百年くらい前に、カイラス大僧院から神像造りの天才と呼ばれた僧を招いて、五年かかって完成させたものなんですよ」

 「服を纏っていないのは、何か謂れや理由があるのですか?」

 「理由というか、ヘルカとウルカは基本裸なので…」


 臨戦態勢なのは、その生命力の強さを表していると申しますか。

 西方の神々はきっちり着ているものなあ。この辺が、野蛮だと言われる一因なのかもしれない。


 三王廟へ続く道は、きっちりと舗装されている。

 何せ、三王廟は必ず国が建て、管理しているものだから、一年の予算も組まれているからな。


 「さっきも言いましたが、廟は、神官がいません。拝んでも御業を授けられることもないし、教義があるわけでもないですからね」

 「それでは、荒れてしまうのでは…」

 「代わりに、廟守と言う管理者がいます。掃除したり、補修したり、お供え物を焚き上げたりする人ですね。

 廟守になる人は祀られている神の子孫や、近隣の名家から派遣されますが、三王廟は国の施設なので、役人が務めます。多くは、退役した将や引退した文官です。大変な名誉職なんですよ」


 話しながら見えてきたのは、守護双神殿に比べれば大人しい、黒塗りの壁に青瓦の建物。


 さて。参拝したら、俺の枕元にご先祖様がお叱りに現れなきゃ良いけども。

 大丈夫だよな。ユーシンじゃないけど、己に恥じるようなことはしていない…と思う!


 「さあ、いきましょう!」


 うーん、とりあえず、靴下繕って履いているのは、問題ないよなあ?

 こっそりオオトカゲの鱗を集めているのとか、ええとそれから…。


 うん。問題ないってことに、しとこう。

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― 新着の感想 ―
[一言] あぁ、外国に行きたい。 異文化に触れたくなりました。
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