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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
31/89

山は登れば越える。仕事は始めれば終わる。(千里の道も一歩から)2

 「ナランハル、今頃何をしてお過ごしなのかしら…」

 「そりゃあ政務に励まれていらっしゃるわよ」

 「そうだけどさー!何を召し上がったとか…」

 「一昨日、到着されてすぐに焼餅ハリコシを召し上がったらしいわ!」

 「どこかのお店のかなあ!わかったら絶対食べに行く!」

 「ねー!」


 青の湖(フフノール)を窓から望むことができる茶店は、朝の一仕事を終えた人々が、温かい茶とちょっとばかり摘まめるものを求めてやってくる。

 店内に入り、靴を脱いで座敷に上がり、頼まなくてもでてくる「いつもの」を口に運ぶ一瞬以外はしゃべり倒している女性客らも、近くの商店か工房で働いているのだろう。

 賑やかなお喋りは、その気がなくても耳に入ってくる。

 真剣な顔でメニュー表を吟味する少女たちを見守りながら、ガラテアは絶え間なく続くお喋りを聞いていた。


 「うーん、この文字がお茶って書いてあるのはわかったんだけど」


 ロットを教師に、少女たちはずっとアスランの言葉であるタタル語を学んでいる。簡単な挨拶や意思表示はできるようになってきたし、文字も覚えてきた。

 しかし、まだ実用には程遠い。ついこの間まで縁もゆかりもない言語と格闘していた少女たちは、次々に白旗を上げてナナイを見る。


 「この文字が牛乳で…つまり、これはミルクティーだね」

 「その後ろに書いてあるのは?」

 「塩か砂糖かってこと。この辺りで特別にお願いしなくて塩なしを選べるのって珍しいな」

 

 ナナイが指先を当てて解読すると、少女たちは真剣な顔で頷く。その光景は、ガラテアの口許を綻ばせるに十分な暖かさだった。

 解読しつつ彼女たちが注文したのは、緑茶だ。

 アスランでは珍しいものではないが、アステリアにはない。ハーブティとは違う甘みにどんな反応を示すかと、楽しみになる。


 「お姉さま、なんで笑ってるんですかあ」


 それを揶揄われたと思ったのか、一番年下のマリーアンが頬を膨らませて抗議した。その顔があまりにも可愛らしくて、ついにガラテアは声を上げて笑った。


 「違う。可愛らしいと思っていただけだ」

 「ほんとにー?」


 膨らんだ妹分の頬を指で押し、コニーが少し照れたように笑う。それから店を見渡して、表情を変えた。

 照れ笑いから、キラキラ輝く笑顔へと。


 「あたしたち、こーんなお店来たの初めてなんですよ!」

 「しかも、私たちだけでね!」

 「ねー!エリーやナナイはある?」


 問いかけられた質問に、真っ先にナナイが首を振る。


 「ないない!ティールームに行けるような服なんて、もってないよ!」

 「二回だけ!お母様に連れられてね。でも、今の方がドキドキしてる」


 なんとなく決めて入ったこの店は、桟敷席とテーブル席に別れ、木製のテーブルはわざと武骨に作ってあるのが伺えた。

 一行が陣取っているのは、一番奥のテーブル席だ。一番大きな窓がすぐ横にあり、少し透明度は低いが、硝子の窓越しにフフノールが見える。


 おっかなびっくりこの店に入った一行を、店主は笑顔でこの席に案内した。

 遠くからきた、季節外れの観光客に対する最大のもてなしなのだろう。

 その心意気に敬意を表し、メニュー表に書かれている中で一番高価な蜂蜜酒を、ガラテアは注文することにした。


 「お姉さまは?」

 「大都にはたくさん茶店がある」

 「そっかー。そりゃそーだよね」


 とは言え、ガラテアもアスランへやって来て初めて、庶民が気軽に入れる「茶店」と言う存在を知ったのだが。


 ガラテアの故郷にも、さきほどナナイが言っていたティールームはあった。

 だがそれは、貴族や裕福な商人の為のもので、二十歳にもならない少女たちが友人たちと連れだって入ったり、仕事の休憩時間に立ち寄れるようなところではない。

 東方にほど近いアステリアでは、茶は庶民であっても口にできるちょっとした贅沢品だが、西の果て、ガラテアの故郷では胡椒と茶は宝石に等しい。


 遥か東方まで旅して手に入れてくる大商会だけが扱う貴重品であり、いくら金を積んでも『御用達』商人は庶民に売ったりはしない。

 ティールームも当然、ふらりと入れるような場所ではなく、まずは誰かに招かれ、その誰かが主催する茶会に数回出席し、問題なしと見なされれば自分も茶会を主宰することが出来る。

 とは言え、低い身分で無理に茶会を開いても誰も集まらず、無駄に冷えていく高価な茶を見ている事しかできない。

 

 ティールームは社交場のひとつであり、女の戦場だ。


 精いっぱい着飾り、侍女を引き連れて参陣する。どの椅子に着席するかで、どちらの陣営かを示し、菓子に手をつける順番にすら、厳密なルールがある。

 騎士が高らかに家名と己の名を告げるように、優雅に、しかし主催者を霞ませない程度に華美に装い、挨拶し、話題を選ぶ。

 しくじれば招待状が届かなくなり、その届かない招待状と同じ数だけ開催された茶会の話題になるだろう。言うなら、首が晒された状態だ。

 

 馬鹿らしい。心底そう思う。

 しかし。

 

 あの頃、着飾って上品にカップを口に運んでいた令嬢のうち、何人が生き残れただろうか。

 今、茶のお供にする菓子を一生面命選んでいる少女達と同じか、それよりも幼かった彼女らがどうなったか、ガラテアは知らない。

 傭兵として暮らしてきた十余年は、「結末」を推測する経験をガラテアに与えた。できることなら、「死んだ方がマシ」な経験をせずに死ねていればいいと思うが、望みは薄いだろう。

 

 「もー、お姉さまってばあ!まだ笑ってらっしゃる!」

 「ああ、すまない。ちょっと、あちらのお喋りが可笑しくてな」


 笑って…いたのだろうか。

 そうかもしれない。故郷の事を聞かれた時、笑って話すような癖がついたのは、いつごろからだっただろうか。

 「オーディアの出身だがセスではない」「セスの事は気の毒に思うが、よく知らない」そう答える時、口許に浮かべる為の笑み。

 

 己が生き延びるために、死者を笑う。

 罪悪感は、いつでも海底に潜む雲丹の棘のように肌を刺し貫き、肉の中で砕けて苛む。

 けれど今は…その是非を問う時ではない。

 目の前の少女たちに、そんな感傷に付き合う義務はない。

 だから、まだ続く絶え間ないお喋りを利用させてもらう事にした。


 「おしゃべり?」

 「ファンの事を話題にしている。大人気だな」

 「ふぁ、ファン殿の事ですか!」


 意気込むエルディーンは、まだ恋心を完全に消火させたわけではないようだ。

 ただ、あの男はこの少女の手には負えない気がする。叔父と同種の人間なら、間違いなく。

 だが、それも余計な口出しをするのは下世話と言うものだ。どうにか結ばれたいと心底思っているというより、憧れと言う方が正しいだろう。

 それに加えて、己の騎士が犯した失態もある。中々に心中は複雑なはずだ。


 まあ、のんびりと見守ろう。どのみち、あれこれ口を出せる程、ガラテアも男女の機微と言うやつに詳しくはない。

 戦い方ならば教えられるが、そちらの経験は彼女らとほとんど差はない。ただ、汚いものを多く見てきただけだ。


 「さっきからずっと、何を召し上がったか、何をしておられるのか、何を着て、何を買い、何に興味があるのかをずっと話している。聞いていると、随分と絶世の美男子にされているな」

 「あはは…でも、ファンがアスランで人気があるのは事実だからね」

 「そうなの?」

 「うん。と言うか、大王陛下と后妃様、それからファンのお兄さんのトール殿下は、すっごい人気があるんだよ。ファンもそれにつられてって感じかな」


 ナナイの説明に、少女たちは興味津々だ。それを援けるかのように、注文した茶と焼き菓子が運ばれてくる。

 蕎麦粉に卵と砂糖を入れて練り、焼き上げたこの菓子は、フフホトの名物でもあるらしい。素朴な甘みとカリっとした歯ごたえは茶請けにぴったりだ。

 この店のものは魚と花を模した形をしていて、「可愛い!」と歓声が上がった。

 店主はその歓声に顔を綻ばせて立ち去った。さっそく細く白い指が菓子に伸び、カップの取っ手を掴む。


 「王様は慈悲深くて、民を思いやっている御方なのかしら?だから人気があるとか?」

 「内政に力を入れている方でもあるけど…それより、お二人が結婚に至った話かな」

 「ええ、どんなの!?」


 身を乗り出す友人たちに、ナナイはちょっと困ったように笑って茶を啜る。

 ナナイにとって、アスラン王とその后妃は親戚の伯父伯母のようなものだし、何より自分の両親の悲恋が様々な歌や詩となっていることを考えると、なんだかとても恥ずかしい。

 

 「后妃様は、元々カーランの方でね。陛下がまだ若い頃…ちょっと出奔して、武者修行しているときに出会ったんだって」


 そこまでの説明で、少女たちの顔は紅潮し、目はうっとりと潤みだす。

 身分を隠し、異国を旅する王子。そして出会う、美しい少女…まさにそれは、物語の定番だ。


 「ソウジュ伯母様…っと、后妃様はトンクーって言う地方を任されている将軍の更に配下の将の娘で、身分は平民。それで、ならず者に襲われていたところを陛下が助けて、それがきっかけで結ばれたっていうのがまず人気でね」

 「うんうん!」

 「それは…恋におちて…しまうわ」


 視線を伏せ、エルディーンが呟く。

 彼女がファンに恋心を抱いたのも、そうして助けられたからだ…と言う事を考えると、あの親子の得意技なのだろうかと、ガラテアは少し可笑しくなった。あからさまに笑わないだけの分別は持ち合わせていたが。

 

 「あと、すごく気さくで、街中で迷子を慰めていたのが后妃様だった、とか、売れないお菓子屋さんのお菓子を絶賛して、臨時の売り子をして完売させたのが后妃様だったとか…そういう話がいっぱいあるね」

 「なんて言うか…ファンさんのお母様らしいね」

 「ファンの人に対して物怖じしない性格は、間違いなく伯母様譲りだろうなあ」

 「兄の方は、結構人見知りだしな」

 「ファンさん、お兄様と仲が良い…んだよね?」


 恐る恐るの問いかけは、物語では王族の兄弟とは敵同士であることが多いからだろう。

 実際、王子同士の不仲が原因で揉める国は、古今東西を問わず枚挙にいとまがない。より正確には、その間隙をせっせと広げる、それぞれの陣営の思惑のぶつかりあいが事態を深刻にしていくのだが。


 「すごく仲良いよ。と、言うか…」


 現在のアスラン王国の王子は五人。成人しているのはそのうち二人で、同腹の兄弟で仲は非常に良好。

 弟は兄が王位を継ぐべきだと平素から宣言しており、今までの功績を鑑みても、長男の立太子は文句のつけようもない。

 それなのに、兄の即位の邪魔になりかねないと弟には暗殺者が送られ、弟の支持者はなんとか兄を王太子につけまいと暗躍する。


 過去、「不仲」とされ、互いの首を求めて戦いあった王子たちのうち、どれほどが本当に不仲だったのか。

 暗殺者を送られ、悪評をばらまかれ、それを「あいつがやった」と言われてなお、互いを信じ続けられる兄弟の方が珍しいだろう。

 「裏切られた」と思えば、その怒りと哀しみは目を曇らせ、耳を塞ぐ。そうなれば、もう一方も「何故信じてくれない」と絶望する。

 ただの権力争いでしかなかったはずのそれは、「復讐戦」へと転がり落ちていき…元から不仲の兄弟同士のそれよりも、悲惨な戦いとなった場合も多い。


 だが、トールとファンに限って、どれほど裏工作をしたところで、その信頼にひびを入れることすらできまい。

 あの兄弟を知れば知るほど、その確信は強固なものになる。

 何より、トールを一番信じているのは、弟であるファンだ。

 兄が自分を裏切る事など天地がひっくり返ってもないと、信じている…と言うより、「常識」としている。

 

 「トールさんは…ねえ?」

 「ああ」


 その人によっては神経を逆撫でし、一番触られたくないところを土足で踏み抜くような「常識」は、他でもないトールが、ファンがそれこそ腹の中にいた時から植え付けたものだ。


 「あれはよく、世界最強と讃えられる。本人は否定するがな」

 「十番目以内には入っているだろうがなって、言いますよね。でも…」


 ガラテアとナナイは、同じ種類の笑みを口許に浮かべた。

 考えていることも同じだろう。なんとはなしに、「せーの!」と口を開く。


 「「本当に世界一なのは、兄馬鹿っぷりだ」から」


***


 「おおおおおお弟よ!!!おとうとおおおお!!」

 

 アスラン王国、大都、星竜宮の執務室。

 大きな卓の上には、いくつも箱が置かれ、どの箱も溢れ出そうな書類で満たされている。

 どれも一太子オドンナルガ自らが決裁しなければならない案件であり、重要なものだ。

 しかし、当の一太子の視線も意識も、一欠片でさえ書類に向いていなかった。


 「そうかそうかそうか!フフホトに着いたか!偉いぞ弟よ!予定通りであるな!さすがは弟だ!素晴らしい!」

 『予定通りにって言うのは、それほどの事じゃないと思うけどなあ』


 苦笑する顔が浮かぶような声が、書類を押しのけておかれた伝声軍牌ケタイ・ヤルリクから響く。


 伝声軍牌は貴重品だが、当然主要都市には配置されている。

 どうやらフフホト府の誰かが大都に報告をした方がよろしいのでは?と進言してくれたらしく、伝声軍配が反応したと報せが来たのは、朝議が終わる頃合いだった。

 最初の通信は半刻後に再度起動させて、通話を願いたいというもののみで、伝声軍牌を見守り、管理している通信官はすぐさまそれを報告した。


 たまたま、その報告を最初に受けたのがまさに朝議の席から退室したトールであったことは、雷帝の思し召しか兄馬鹿の執念か。

 本来なら、王であり父にまずは伝えるべきなのだが、今はちょっと込み入っているから!と伝声軍配を奪って執務室に立て籠もり、待つ事しばし。

 

 『えーっと、報告遅れてごめん。ファンだよー。今、フフホト』


 と言う声が凝視していた伝声軍牌から聞こえた瞬間、こらえきれずに放出した魔力が華となって舞い散る。

 それを見せられている側近たちは「きめーっすわ…」とドン引いたが。

 そして何かファンが言うたび、褒めちぎるトール…と言う現在の状況に至っていた。


 「む…弟よ、何か声が疲れているようだが、大丈夫か!?兄がすぐさま駆け付けたほうが良いのではないのか!?」

 『あはは、ただの仕事疲れだよ。ひっさしぶりに仕事してるからなあ。一昨日昨日と一日半かけて、なんとかだいぶん片付いたけれど』

 「そうかそうか!よくやったぞ弟よ!しかしやはりしんどいのならば兄が…」

 『いや、兄貴も今の時期は仕事山盛りでしょ。ここでサボったら俺が大都に着いた時にツケを払う事になるよ』

 「む…それは…」

 『っていうか、もう十日もしないでそっち着くし』


 その十日が長いのだ弟よ…と言う顔をしている一太子に、同じく卓に向かい筆をとるウー老師をはじめとする側近たちは胸を撫でおろした。

 こんな時期に仕事を放り出されてはたまらない。年明けに向けての軍の新編成は大詰めを迎えている。

 それ以外にも、毎日なんだかんだと厄介ごとは湧き出て、それを片す必要があるのだ。


 「十日で着く、と言うことは、もう明日明後日にもフフホトを発つのか?」

 『そうしたかったんだけどねえ。会食やらなにやらはやっぱり避けられないみたい。最短で三日後にフフホトを出る予定だよ』

 「ふむ…そうなると」

 『ジャワルは変人で変態だけど本当に有能でね。船を手配してくれてた』

 「おお、そうか!」

 『囮の船を出航させた二日後に、こっちも出航するよ。客船を装って、乗客は全員紅鴉親衛隊だけど』

 「…今のところ、襲撃はされておらんな?」

 『ないよ。大丈夫』


 暗殺者についての報告は、逐一きている。報告を聞くたびに膨れ上がる殺気が、側近たちから不評だ。

 

 『んで、兄貴。親父や母さんは?』

 「ん?お二人ともお元気だぞ」

 『そーじゃなくて…近くにいないの?』

 「星竜君わがきみ。流石にそれを誤魔化すのは如何かと存じまするが」


 放とうとした誤魔化しを、ウー老師が留める。その細められた目は、トールではなく山と積まれた書類と、それからもう一つ、本日の飛び入りの仕事との間で視線を往復させていた。


 「う…」

 『兄貴、もしかして…今いるの、星竜宮かどっか?』

 「その…父上は、少々、お忙しく…」

 「若君。ご名答にございますぞ。今から陛下に伝声軍牌をお届けいたしますので」


 コホン、と言う咳払いの後に掛けられた声に、軍牌の向こうから溜息が漏れた。


 『あー、もう…母さん怒るよ?』

 「こ、この件は、母上には内密に…」

 『バレると思うけどなあ…』


 息子たちの「悪事」は、不思議なくらい母親にはお見通しなものだ。今まで両手の指に余るほど標本を燃やされたファンは身に染みている。

 トールにはこっぴどく叱られた経験はほぼないものの、だからと言って母を侮ったりはしない。世界最強と讃えられる魔導騎士でも、怖いものは怖い。


 「よいですな。星竜君」

 「うう…わかった」 

 「善哉よきかな。さ、では、さっそく。サモン」

 「はい」


 主の眼前から伝声軍牌を取り上げ、ウー老師は部屋の一方に声を掛けた。

 そこには木材を組み合わせて作られた「木」がある。枯れ木ではなく、一部樹皮を残してあるが、大部分は木取りされており、所々に麻縄を巻きつかせてあった。

 絨毯が引かれた床にどっしりと台座が据えられ、「木」は天井にまで届いている。そこから伸びた「枝」は、部屋の隅々にまで達していた。


 よく見れば、荒縄は毛羽立ち、樹皮には鋭い爪痕が残る。

 それを成し遂げているのであろうこの「木」の主は、枝の一本に陣取り、根元で立ち上がって伸びをし、ついでに欠伸までした人間を見下ろしていた。


 「ピャワ!」

 「…サモン、ベンケが呆れているぞ」

 「仕事なさそうだから、いいかなって」


 一太子の御前で堂々とサボってうつらうつらしていた人間に、なおも雷公猫のベンケは「ピワワワワ!ピャン!」と文句をつける。

 のっそりと歩き出したのを見て素早く降りてくると、先ほどまで陣取られていた場所の匂いを嗅ぎ、その場で爪を研いだ。

 そこには他よりも毛足の長い絨毯が引かれ、彼女のお気に入りの場所だ。何度も嗅いでは爪を研ぐ様子は、憤りの大きさを表している。


 「小娘おじょうさんはお怒りのようですなあ」 

 「あの絨毯はもう寝ないかも知れん。取り換えるか」

 『ん?ベンケなんか鳴いてない?』

 「サモンがベンケの領地に侵入した挙句、座り込んでな」

 『え?サモンいるの?なんで?』

 「なんとなく、あれは鍛えれば良い将になるような気がしないでもないと…俺の近習に引き取った」

 『そうなんだ!おい、クロム、サモンいるってよ!』

 『はあ???サモンがトールの近習?トール、血迷ったか?』


 飛び出してきた声に、サモンは口の端を持ち上げた。

 

 「ほら俺…優秀だし?」

 「自分で言う事かいな…。ともかくサモン、陛下の許に伝声軍牌をお届けしてまいれ」

 「りょ。…じゃなくて、承知いたしまーた」

 『今からでも考え直した方がいんじゃね?』

 「口の悪さなら、おぬしと双璧であるからのう…。ぬしらの指導教官、頭における地肌の面積が二割は増したっちゅう話ぞ?」

 「お気の毒」


 サモンは黒髪黒目、一見すれば一重で切れ長の双眸と言い、がっしりとした長身と言い、二十歳前と言う年齢に似つかわしくないほど落ち着き、大人びた印象を受ける。

 見目の良さも相まって、学生時代は同期かつ幼馴染のクロムと共に、女生徒や一部の男子生徒の熱い視線を浴びまくったものだ。

 入学して半年も過ぎると、二人とも「あれはない」と結論付けられていたが。


 落ち着いているのは、めんどくさがってあまり動かないだけ。

 大人びているのではなく、表情筋があまり活発ではないだけ。

 サモンを一言で表せと言われれば、彼を知るものは皆「怠惰」というだろう。


 だが、こういうヤツは自分が楽をしたいから、有能なものを引き立て、それを上手く使う手腕に長ける。また、最小限の労力でどうにかするために、効率化も得意だ。

 サモンの「サボり」を好意的に見れば、その片鱗は発揮していた。だからこそ、トールも自分の手元で育ててみる気になったのだが。


 「はっきり言って、兄もちょっと早まった気はする!だが、まあ…悪い奴ではないしな」

 「いえーい…」

 『褒めてねーよ。自分を納得させてるだけだろが』

 「うう、では、弟よ。大都にて待っているからな!なるべく、なるべく!!早く帰ってくるのだぞ!」

 『うん。待ってて、兄貴』

 「うむ…あ、それと…」

 『じゃあ、一旦切るね!親父んとこついたら、そっちから起動してくれ!』

 「あああああああ!!!」


 中央で燐光を放っていた金の鴉が沈黙する。光の失せたそれは、現在ではただの石板だ。

 それを元通り絹布で包み、ウー老師はサモンに手渡した。


 「落とすでないぞ?」

 「さすがにそれは…子供じゃあるまいし」

  

 何故か咎めるような顔で見返されて、ウー老師のこめかみが引きつる。

 この有能だが人を苛つかせる軍師にまるで動じず、それどころかごく普通にカウンターを喰らわすことができるのも、トールがサモンを取り立てた一因なのだが…あえて口にはしていない。しなくても、他の側近たちはわかっている。


 スタスタとサモンは歩き出し、控えの間に入る前に、入り口の前に立つ者に視線を向けた。

 そう言えば、トールが軍牌をもって駆け込んできてからしばらくして、連れてこられていた…気がする。

 

 年のころは、五十前後か。弛んだ頬が作る皺がそう見せているだけで、本当はもっと若いのかもしれない。

 一太子の御前に参上するだけあって、身なりはとてもいい。顔立ちやその身なりから、遊牧民ではなく、西の血が濃いのだと知れた。

 おそらくは、どこかの貴族だろう。サモンはそう結論付け、視線を前に戻してその横を通り過ぎる。自分に関わりのない、無視しても問題はない相手と判断した結果だ。


 どう言いつくろっても無礼な動作ではあるが、その貴族らしい男は何も言わず…むしろ男の方こそ、サモンに気付いていなかった。

 

 弛んだ頬に血の気はなく、唇も身体の両脇にぴたりとつけた手も、はっきりと見て取れるほど震えている。

 充血した目には涙が浮かび、ただ、絨毯の模様を凝視していた。


 「ああ、放っておいてすまなかったな」


 ゆったりと座り直したトールの声に、一際大きく男は震える。

 先ほどまで「弟~!」と喚いていた声とはまるで違う。

 雷雲に先駆けて吹きすさぶ、冷たく重い風のような、声。

 

 「さて。何故ここに単身連行されたか、わかっておるな?」

 「…いえ…殿下、ご、誤解でございます…な、何故、わたしめが…」


 震える口から押し出された声は、小さく、弱い。

 連行。それはまさに連行だった。

 男は貴族ではあるが、王宮に仕官してはいない。王宮の正門を潜ったことすら数少なく、何か催しがあれば、誰かの招待で招かれることもある程度の身分である。


 今日、男が訪ねるつもりだったのは、一太子ではない。別人だ。

 身支度を整え、さあ馬車に乗り込もうとした時、別の馬車が停まり、そこから降りてきた騎士によって、引き摺るように押し込まれ…そして、星竜宮ここにいる。


 「ふぅむ。時に貴公。オドンナルガの御前にお招きいただくという栄誉に対し、どうも顔色が悪い。恐れ多いのは察するが、それでは流石に無礼ではなかろうかや?」

 「い、いえ!!そのようなことは!!」


 弾かれるように否定し、やっと男は自分が「立っている」事に気が付いたようだった。慌てて平伏し、床に額を擦り付ける。


 「お、オドンナルガ!御前に参上いたします、え、栄誉をお与えいただき、まことにその、光栄!光栄の極みと存じ上げます!」

 「ほう、父上を差し置いて、俺の前に顔を出すことが光栄の極み、か」

 「いえいえ、いえ!そ、そうではなく、その!!わ、私は以前より、オドンナルガを、ええ、その、王太子にこそと、はい!申し上げておりですね…!」


 顔中から吹き出す汗が、絨毯に染みを作っていく。ようやく納得して肩にやってきた愛猫の寝床と同じく、この絨毯も変えるかと、トールは内心溜息を吐いた。


 「親族会議クリルタイに出られるでもない卿が俺を支持することに、なんの意味が?」

 「その!!し、臣は非才の身ながらも、ヨアジ氏族の方々と、多く、多く、面識を持っておりますれば!」

 「ほう?」

 「と、特に、ヨアジ氏族、ヒチアジ家の家長、トスロ様と!!」


 ヨアジ氏族は、アスラン四大氏族のひとつで、他国で言えば大貴族…公爵にあたる。小国と言っても過言ではないほどの領地と都市の運営を任されており、発言権は強い。

 次期王を決める親族会議でも、その存在は決して無視はできない。そして、四年前に行われた最初の親族会議で、トールの立太子に待ったをかけた最大の派閥だった。


 面と向かって反対したわけではない。ヨアジ氏族は三つの家系で構成されるが、そのうちのひとつ、ヒチアジ家の家長が病を得て伏せてしまったため、決めかねます…という棄権だ。


 しかし、参加者の三分の二の支持を得ることが立太子可決の条件である。

 四氏族のうちでも最有力のヨアジ氏族、さらにその主流である二家の棄権は、他の参加者の判断にも影を落とした。

 

 結果、賛成が半数を超えていたものの、四分の一は不賛成、残りは棄権と言う結果で、最初の親族会議は終了している。

 その結果に一番安堵したのは、まだ王太子と言う立場になりたくなかった当のトール本人だったのは、反トール派からすれば皮肉な話かもしれないが。


 反トール派の最大派閥は、父王の第二夫人の生家だ。四大氏族ではないが有力な一族で、遊牧を止めて定住し、他の氏族や貴族達とも親交が深い。


 先王が予定していた后妃は、本来第二夫人の叔母だった。

 王太子が出奔し、勝手に妻を娶ってきたことで、妙齢だった彼女に待てとも言えず、また、彼女自身も他に想う相手がいた為、姪である第二夫人が嫁ぐことになったのだが。


 第二夫人やその生家からすれば、本来后妃になっていたのは自分であり、親族は外戚となって権勢を振うはずだったのに、と言う思いがある。

 それはあくまで、勝手な思い込みだ。例え予定通りに后妃を迎えていたとしても、その一族の専横を許すはずはない。そこまで気を使わなくてはならない相手でもないのだ。


 先王がその家の娘を息子の妻に、と選んだ最大の理由は、最初の候補が己の妻の姪の友人だったという、それだけのことである。

 そして、適度に他の有力氏族や貴族に繋がりがあり、王家を脅かすような力のある家でもない。目に余るような行為をすれば、粛清しても問題ない…そう判断されたからこそ、妻の紹介を受け入れた…と言うのが実情だ。


 だが、思い込みに乗る連中はいる。


 四氏族ほど有力ではない第二夫人の実家には、付け入る隙があると見た連中がすり寄っているのと、トールが王となればより一層貴族出身者を排除し、平民出身者を重用するのではないかと危惧しているからだ。

 すぐさま反乱を起こすようなこともないが、無視もできない連中である。鬱陶しいことこの上もない。


 それらに対する、トールを支持する派閥の最大勢力はアスラン軍そのものである。

 成人前から陣中に身を置き、数々の武勲を打ち立て、生きる伝説となった姿に心酔する者は多く、一部は熱狂的な信奉者とさえ言えた。


 その伝説に惹きつけられるのは、軍人や兵士だけではない。

 民…特に、大都に住まう人々は、トールが王太子に…そして、九代大王になることに何の疑いも持っていない。

 立太子が宣言されれば、お祭り騒ぎを通り越して、乱痴気騒ぎになるだろう。

 

 母譲りの様々な詩句をもって讃えられる顔立ち。その容姿に似付かわしくない、多くの武勲。

 おまけに(側近たちはその話題になると目を逸らすが)性格も弟想いの優しい兄だと聞けば、支持しない理由がない。

 一太子オドンナルガトールの名を聞けば、アスランの民たちは「次代もアスランは安泰、大アスランの栄光に翳りなしだ!」と誇らしげに胸を叩く。

 遊牧民は少なくなり、強さを至上とする気風が弱まってきても、やはり強い王は安心するし頼もしいものだ。

 

 しかし、支持派の中には、そうしたトールへの信頼ではなく、己の都合で支持を打ち出している連中もいた。

 後ろ盾を持たない一太子の後ろ盾になろうと企む者たちである。


 ヨアジ氏族、トスロはまさにその筆頭と言えるような存在だった。


 「ほう、トスロ殿と」

 

 トールの声に、僅かに震えが収まる。

 前回の親族会議の際、トスロが棄権せずに賛成に一票を投じていれば、既にトールの立場はアスラン王国王太子であったはずだ。

 つまり、反対に回られるわけにはいかない重要人物であり、その一派と知れば些細な問題など見逃さざるを得ない。


 そう、二太子ナランハルの暗殺未遂などと言う、些細な問題は。


 現在、トール以外に王太子となる可能性があるのは、二人のみ。

 一人は、先王の兄の息子である、現宰相。

 そしてもう一人は、二太子。


 三太子と四太子は王位継承権はあるものの、まだ成人していない。

 どれほど第二夫人が周りに怒鳴り散らそうとも、国法を曲げることはできず、横槍を通せるほど寵愛もなければ実家の力もない。


 宰相は推されたとしても引き受けるはずもなく、となれば、実質対抗馬は二太子のみだ。


 兄に比べて「御しやすい」と思われる二太子を担ごうとする者は多い。

 後ろ盾がないのは二太子も同じだ。そして、兄と比べて色々と「劣る」のだから、王位に就かせればさぞかし恩に着て、後ろ盾となった者たちを重用するだろう…と両陣営とも見ている。

 それゆえ、トスロ一派は二太子を「始末」することは次代の政敵を排除することに繋がり、一太子にも恩を売れる一石二鳥の良策と考えていた。

  

 二人をよく知るものが聞けば、失笑どころか爆笑するような話だが。

 

 些細な事だと、男も、トスロも思っていた。

 王族を弑することは当然重罪だ。一族どころか三族まで累が及び、僅かでも関わったものは厳罰を受ける。


 だが、それが当の王の意向であれば。

 まして、首謀者が王であっても手を出せない、四大氏族の家長であれば。

 

 仲が良い兄弟と言っても、王族同士の兄弟など、生まれた時から潜在的な敵のようなものだ。

 現にナランハルがここ一年姿を見せないのは、「襲撃されて重傷を負った」と言うことにして蟄居させ、親族会議を欠席させるためだという噂がある。

 

 それでも、直轄地であるフフホトには姿を見せるだろうと、暗殺者を送り込んだ。

 自分だけではなく、他にも数名、同じように動いたものがいるらしい。

 できれば、自分が送り込んだ暗殺者が成果を上げてほしい。

 そうなれば、次代の王宮で宰相は無理でもいずれかの長官になれるか、どこかの都市の領事官ダルガチを拝命することが出来るやも…と、今朝まで皮算用をしていたのだ。


 「そのトスロ殿ですがなあ」

 

 びくり、と男は背を震わせた。

 カーラン人らしい胡散臭い文官の、妙に間延びした声。

 それはひどく、不吉に聞こえた。


 「そろそろ来るか」

 「ですなあ」


 その声を待っていたかのように…実際、待機していたのだろう…、控えの間から来客を告げる騎士の声が響く。


 「入れ」

 「おはようございます。殿下」


 入口に掛けられた布を、両脇に控える近衛騎士が捲る。その向こうから現れたのは、三十半ばほどの長身の男だった。

 黒髪をきっちりと後ろになでつけ、一分の乱れもなく騎士服を纏っている。その胸に飾られた徽章は、星を掴む竜。

 二万五千を数える星竜親衛隊を指揮する権限を持つ者だけが、その身につけられる徽章である。

 残念ながら、額を絨毯に擦り付けたままの男の目には入らなかったが。

 

 「親衛隊長ラーシュ・アーレ、御前に参上いたしました」

 

 だから聞かせたわけではないが、騎士は穏やかな、しかしよく通る声で名乗った。ほぼ毎朝顔をあわせる主従だが、彼が挨拶を省略したことはない。

 す、とよどみなく片膝を付き、左胸に拳を添わす。手本のような一連の動作に、トールは横に立つウー老師をじろりと見据えた。

 

 「よいかスットコドッコイ。これが正しい挨拶だ。お前の、昨日遊んだ女の感想から入るのは挨拶と呼ばん」

 「そもそもその前に、『弟がっ!弟がっ!』と末将の挨拶など耳にも入れていなかったと思うのですが」

 「う、それはそのう…ともかくだ!ラス、おはようだ!今朝は良い朝だな。何せ、弟と話せた。さらに新たな忠臣を得ようとしている」

 「おお、ファン様は健やかなご様子でございましたか?」


 片膝を付いたまま、ラーシュは口許を綻ばせた。聞くまでもなく、主の様子から元気にやっていることは承知したのだろう。


 「仕事で疲れていたようだったがな…かわいそうに。かわいそうにっ!!!ああ、俺が今すぐ行って、元気づけてやりたい!!」

 「余計に疲れ果てるでしょうなあ…」

 「残念ながら、私も同感です」


 音もなく立ち上がり、ラーシュはその若葉色の双眸を僅かに主から逸らした。

 視線が向くのは、今自分が入ってきた入り口だ。騎士らはいまだ、布を捲り上げたままである。


 「おお、入ってもらわねば。ヨアジの同胞を待たせたままにはできぬ」

 

 トールの言葉に、平伏したままの男は、伏せたまま顔を笑む形に歪ませた。

 ヨアジの同胞。

 つまり、ついにトスロが一太子に朗報を聞かせ、その後ろ盾となる事が決まった…のか?


 ならば自分が呼ばれたのは、雇った暗殺者が成し遂げたのかもしれない!

 そう、ナランハルの暗殺を…?


 いや、先ほど、これ以上ないほど上機嫌で一太子が話していたのは誰だ。

 親衛隊長がその様子を尋ねたのは、誰だ。


 「ファン様は健やかか」と問われ、一太子は何と答えた。

 「仕事で疲れている」…つまり、死んではいない。


 心臓が、大きく、痛むほどに強く、鼓動を打つ。


 「オドンナルガ!千歳申し上げる!」


 鼓動と血脈の音に紛れて聞こえたのは、若々しく張りのある声だった。まもなく五十になろうという、トスロの声ではない。

 思わず顔を上げて声の方向を見れば、騎士服ではなく胡服を着た偉丈夫の姿が見えた。

 その顔には、見覚えが、ある。正確には、右頬を引き攣らせる火傷痕に。そこに火傷を負った人物を、見た気がする。


 トスロを訪ねたおり、見かけたような覚えがある。ならば、ヨアジ氏族の誰か、と言うのは間違いない。

 それならば、トスロの遣いか。だが、どうして、嫌な予感が膨れ上がるのが止まない?


 その火傷痕。あれは、なんだったか。

 汗で視界が滲み、どくどくと脳を揺らす鼓動は、正常な思考を妨げる。


 そんな男のすぐ横で片膝を付き、火傷の男はその引き攣れた頬を、笑みの形に歪ませた。


 「ヒチアジ家を先日継ぎました、タイルと申します。非才ながら全力を持ちまして、大アスランの為に尽くさせていただきます!」


 淀みのない名乗りに、トールの顔にも笑みが浮かぶ。


 「うむ。わざわざ足労であった。本来ならこちらから使者を送り、賓客としてもてなさねばならぬが、それは年が明け、羊が仔を産みだす前に改めて行いたいと思う」

 「身に余る光栄にございますが、不作法者ゆえ、華やかな席で礼を欠かぬかと心胆が縮みまする。かえって、略していただいた方がありがたく。

 ましてまだ、毛刈りが終わっておりまぬ」

 「ふむ、そうか。では、肉と酒だけ用意して、宴を開こう。来てもらえるだろうか?」

 「毛を刈り終わった羊を捌き、御前に」


 羊の毛刈りは、夏の始まりに行う。全てが凍てついていく、この時節に行うものではない。

 だが、この時節に毛を刈る羊もいる。年老い、冬を越せないと判断された羊だ。

 先に人がその命を地に帰し、残る肉、皮、血ですら、冬を越すための糧となる。

 転じて、それは人員整理や…粛清の意味として用いられていた。


 今、この火傷痕の男は何と言ったか。

 ヒチアジ家を継いだ、と言っていなかったか。


 トスロには、八人の息子がいた。だが、その中に火傷痕を顔に刻まれた者はいなかったはずだ。

 

 「オドンナルガ、見苦しいものをお見せいたします」

 「構わぬ。むしろ俺が持ってまいれと命じたのだからな」


 火傷痕の男…タイルは、震える男を見下ろしながら立ち上がった。

 その黒い双眸の奥に、隠し切れない昏い喜びが踊っているのを見て、嫌な予感は更に嵐のように荒れ狂う。


 「オドンナルガに献上を」

 「是!」


 次々に入ってきたのは、タイルと同じように胡服を纏った若者たちだった。全部で五人。

 各々手には箱を持ち、タイルが肩から掛けていた羊の毛皮のマントを床に広げると、跪きながら箱をその上に置いていく。


 「では、ご覧くださいませ」


 タイルが、もっとも近くに置かれた箱を持ち上げた。箱の四面は覆いであり、その動きにつられて中に入っていたものが姿を現す。


 まず、あふれ出した中身は異臭だった。


 生臭く、胸が悪くなるような甘さを含んだ、鼻の奥にこびりつく臭い。

 思わず鼻を口を覆った男以外、この部屋にいる誰もがその臭いに慣れていた。


 戦場ではありとあらゆる場所で嗅ぐことになる臭い…死と、腐敗の臭い。


 「ひ、ひいいい!」


 男の口から、くぐもった悲鳴が漏れる。直後に思いきり息を吸ってしまい、死臭に噎せ返えった。激しく嘔吐きながらも、視線は「それ」から離せない。


 「それ」。


 どろりと赤く濁った眼で、天井を仰ぎ見ている…トスロの、首。

 

 「逆賊トスロめは、畏れ多くもナランハルを害せんと企み、奴の息子共もその悪事に加担しておりました。本来ならば三族誅滅となるところを、我らの手で討ち果たさば許すという寛大な処置…我らヨアジ氏族一同、心より感謝いたします」


 朗々と罪状を告げるタイルの声に、一太子は深く頷いた。


 「伯父を討つと言う事は、実に苦しい決意であっただろう。しかし、正義の前に肉親の情を押し殺したその忠節、まことに得難いものである。これからも、ヨアジの同胞を率い、大アスランの繁栄に力を貸してもらいたい」


 伯父…つまり、トスロの甥。

 そこに思い至った瞬間、男はタイルをどこで見たのか、理解した。


 まだ、夏の盛りの頃。盗人に罰を与えるのだと、トスロとその長男が柱に縛り付けられた者の顔に、まだ燻る松明を押し付けていた。


 あとから聞いた話では、彼はトスロの異母弟の息子…つまりは甥であり、彼が育てた馬を、トスロの長男が召し上げたのだそうだ。

 甥とは言え、彼の祖母は買われてきた妓女であり、母親も卑しい身分だということで、ヒチアジ家のものとはみなされていない。

 屋敷に入ることも許されない者であると、トスロの三番目の息子は薄笑いを浮かべながら説明した。

 それなら素直に馬でも何でも差し出せばいいものを、図々しくも奪い返しに来たものだから、「立場を判らせるために」顔を焼いたのだと。


 その甥が…トスロの首を持参し、「ヒチアジ家を継いだ」と言っている。

 残るはこの中身も、首だった。よく見ることはできなかったが、見なくても分かる。トスロの息子たちの首だろう。


 何故、どうして、こんなことになった?

 王族の暗殺などと言う大罪を企てたのも、大きな盾(ヒチアジ家)が守ってくれると安心していたからだ。だから、トスロの誘いに乗った。


 その盾は…ただ悪臭を放つだけのモノと成り果てている。

 男の目は、その横に並ぶ己と己の家族の首を、幻視した。


 「さて。タイル殿」


 男の背が、波打つように震える。

 いや、背だけではない。衝撃にいったん止まっていた震えは、もうどうしようもないとばかりに男を揺らしている。

 もし、もう少し男に胆力があれば、立ち上がって逃げ出していただろう。

 だが、震えは立つ力さえ男から奪い去っていた。


 「どうぞタイルと呼び捨てください」

 「わかった。では、タイル。この者の顔に、見覚えは?」


 注がれる視線に、男は股間が生ぬるく濡れるのを感じた。

 だが、それを恥と思うような余裕はない。

 男の下半身と絨毯を濡らすものに顔を顰めながら遠ざかったのは、ウー老師だけだ。


 「お許しを!!お許しを!!」


 自らが作った異臭を放つ水溜まりに顔をつけながら、男は叫んだ。

 タイルが自分の顔を覚えているとは思えない。顔を焼かれながら、通り過ぎる客の顔を覚えるような余裕はないだろう。


 だが「ある」と答えられれば。


 実際にはなくても良いのだ。タイルにとっては、伯父に繋がるものは全て、憎しみの対象だろう。

 そうでなくても、点数稼ぎのために「このものも、大罪人でございます」と答えれば。


 三族皆殺し。

 釈明も弁明も通用しない。己の血縁が、ただ己と血が繋がっていると言うだけの罪で殺されていくのを見せつけられた後で、もっとも苦痛を与えられながら殺される。

 

 あまりの絶望と恐怖に、男の口からは嗚咽が垂れ流され、部屋に満ちる。

 それを遮るように、タイルは答えた。


 「申し訳ございませぬ。オドンナルガ。覚えがございませぬ」


 だが、聞こえてきた声は、良い方に男を裏切った。

 小便を滴らせながら顔を上げれば、首を振るタイルと、その言葉に頷くトールが見える。


 再び涙があふれ出し、身体が弛緩した。

 湿った絨毯に手を付きながら荒い息を繰り返し、助かった、助かったのだと内心に喚く。


 「そうか。致し方ない。何、聞いてみただけだ」

 「こやつも、大罪人でございますか?」

 「まだ、未確定でな。さて、それではもう一度聞く。こやつの顔に、見覚えは?」


 す、とトールの指が、己の背後を指す。

 問いかけられているのは自分だと、霞む意識の中で男は理解した。

 そして、指の先を無意識のうちに追った瞬間。


 そこに在るはずのない者を、男は見た。


 いつの間に、そこにいたのか。

 タイルに負けず劣らずの偉丈夫だ。三十前後に見える顔には、屈託ない笑みを浮かべている。


 「な、何故…何故、何故!!」

 「見覚えがあるようだな」


 トールの声に、男は悲鳴をあげた。認めてしまった事に気付いたのは、その悲鳴が途絶えた後だ。


 腕利きだよ。元はヒタカミの殺し屋だったって話さ。


 そう説明を受けながら雇った。一度だけ、顔も見た。

 裏切りを防止するために、雇い主の顔は見るのが雇われる条件だと聞いたし、男も今後の出世を掛ける相手を見ておきたかったから。

 

 ナランハルを殺すために雇った、暗殺者。

 金さえ払えば何でも売る、と噂される商会に頼み、斡旋してもらった男。


 「う、裏切ったのか…」

 「いやだな。人聞きの悪い。裏切ったんじゃなくて、俺はもともとこっち側なだけだよ」


 明るく悪びれない声は、暗殺者とは思えないと斡旋された時に思ったものだ。

 今、にこやかに暗殺者は同じ声で告げる。


 「二度目まして。俺はフタミ。元ヒタカミの殺し屋って言うのは嘘じゃないけどね!あなたを裏切ったんじゃなくて、違う嘘を吐いただけ。本当は、御史台に所属する官吏なんだ。騙して…ゴメンね☆」

 「あ、あああああ!!あああああああああああああああああ」

 

 一度は助かったという安堵。

 その直後に叩きつけられた絶望は、男の精神を破壊した。

 

 思考も何もなく、ただ生き延びたいという本能が男を支配する。

 いや、それよりも、一人だけ死にたくないという悪足掻きの方が正しい表現に近いのかもしれない。

 

 「ぬをっ!?何故末将!?ちょ、やめ!あっちにしなされー!!」


 飛び起き、男はウー老師に向かって突進した。人質にしようとしたのか、縊り殺したかったのか、男にもわかるまい。どこにそんな力が残っていたのかさえ、わからないのだから。

 だが、その異臭を放つ手がウー老師に届くよりも早く。


 男の動きが止まった。

 その身体には無数の糸が巻き付き、動こうとすれば神経を針でつついたような激痛が走る。

 

 「はーい。そこまで、ね」


 飄々とした声に、男は反射的に振り向こうとし、直後に全身を駆け巡った激痛に、ついに意識を手放した。

 床に倒れ伏した男の身体に、もう糸はない。

 入室してきた近衛騎士たちが、こうなるのが分かっていたように手際よく、糸の代わりに縄をかけていく。


 「殺すな。狂わすな。もう少し吐かせたい」

 「御意」


 騎士が男を担いで持ち去り、首の入った箱も、持ってきた若者たちが回収して続く。

 残ったのは、トールの側近たちと、タイルのみだ。


 「哀れ、と言えば哀れですなあ。無漠に落した胡麻粒を見つける程度の奇跡が起きてことが上手くいったとしても、トスロめが約を守るとは思えませぬわ」

 「まあ、おバカさんってのは仕方ないっすね!それにしてもくせぇ!」

 「ぴゃん!」


 ウー老師の気の毒がっているというよりは馬鹿にした声に続いて、文句が二つ上がる。

 盛大に顔を顰めて鼻を抑える黒髪の少年と、「だねぇ」とへらへら笑うクトラ人らしき青年、そして一太子の後ろにいる男…順繰りにタイルの視線が動き、溜息をもらす。


 「いつの間にお部屋におられたのか…いや、私が気付かなかっただけ、ですかな?」

 「ん、そうですね!先ほどの方が連行されてくる前から、俺たちはここにいましたよ!」


 明るく答えられ、タイルは再び溜息を吐きだした。


 「なんと…それなりに、気配を読む術に長けていたはずなのですが」

 「んー…そうねぇ、森に木があっても誰も気にしないし、気にならなきゃ見えてないのと同じこと。そう言う事~」

 「いちおー、俺らはこれで飯食ってるっすからね」 


 黒髪の少年は、タイルにも面識があった。顔に負わされた火傷にと、魔法薬を持ってきたのが、「しろ」と名乗るかの少年だったからだ。

 

 一太子の遣いっす、と名乗ってやってきた彼を、何故か最初から警戒せずに受け入れてしまったのも、「これで飯を食っている」という技なのかもしれない。

 ただ、あの時のタイルは、それが例え一太子ではなく、魔族の遣いであっても、トスロとその息子たちを殺せるならば喜んで魂を差し出しただろう。


 手塩にかけて育てた愛馬を奪われ、返してくれとそれでも丁寧に訴えたタイルに、トスロの長男は半分腐った干し肉を投げつけた。

 あの性悪の馬なら最後に残ったのがそれだ、と告げられ、長年にわたり何とか維持してきた忍耐の糸がブツリと切れ…それが邪魔な自分を排除しようとする伯父の罠だとわかってはいたが、堪えきれなかった。


 当然のように多勢に無勢で押さえつけられ、顔に燻る松明を押し当てられ、散々に殴られ、蹴られて放り出されたあの時。

 もし生きて目を開けられたら、絶対に復讐をすると雷帝に誓ったのだ。


 そして、目を開けた時…目の前にいたのは、既にこの世にいない両親ではなく、一太子の遣いだと名乗る少年で。


 友人たちは話がうますぎると訝しがり、これもトスロが仕掛けた罠だ、事を起こさせて全員殺そうとしているのだと、離れていく者もいた。


 逆に言えば、しろが本当に一太子の遣いであり、トスロらと戦うための資金や武器、トスロの専横に不満を持つ氏族の若者たちを集めてきたのに一番驚いたのは、タイル本人だったかもしれない。

 

 「タイル。貴殿の父君、ナヤン殿については、父上からよく聞いていた」

 「え…」

 「ヒチグチ家より引き離し、近衛騎士に抜擢したいと思っていたそうだ。トスロめが、身分をわきまえよとナヤン殿の母上…つまり、貴殿の祖母君を人質に取り、断らせたそうだが」


 父は、寡黙な男だった。遊牧民らしく黙々と仕事をし、どんな苦境でも弱音を吐かず、愚痴など零したこともない。

 貧しい暮らしの中で母が病に倒れ、ろくな薬も飲ませてやれずに亡くなった時も、下げた頭を踏みにじり、一銭も渡さなかったトスロを恨むようなことは言わず、ただ自分の不甲斐なさを詫びていた。

 

 「…父は…良く、陛下の事を語っておりました」


 寡黙な父が、唯一雄弁になるのは、八代大王について語る時。

 その武勇伝は何度聞いても胸を躍らせたし、なにより父が朗らかになるのが嬉しくて、自分も母も、よく話をしてくれとせがんだ。

 

 小さなユルクの中で、外の風に負けず語られる父の昔語り。

 魔獣に襲われ、瀕死の重傷を負った父が言い残した言葉を思い出す。


 「決して陛下に背かず、大アスランに身命を捧げよ。天に顔を向けて死ねるような、善き一生を過ごせ…父の、遺言でございます」

 

 タイルは、霊の導きだの祟りだのは信じない。

 もしそんなものがあれば、トスロらがのうのうと生きているわけがない。

 そう思っていた。


 だが、一太子の遣いは瀕死のタイルを救い、ついに復讐はなった。


 (父さん、母さん。どこかで見ていてくれるか)


 トスロの首を刎ねたのは、タイルの振るった斧だ。

 だが、その時、もし、タイルが亡霊を見ることが出来る目を持っていれば、無数の腕がトスロの身体に絡みつき、引き摺り倒すのが見えたのかもしれない。


 いくら堕落した暮らしをしていても、奴も草原に生きるもの。

 まさか、馬に跨ることが出来ずに落下するような無様は、通常ならば考えられない。


 「…弁明にしか、聞こえないと思うが」


 困ったような、むにゃむにゃとした声。

 それが一太子の口から洩れていることに気付いて、タイルは目を丸くした。

 戦場で万軍を指揮する将の声とは思えないような、自信無げな声だ。


 「俺が、貴殿に目をつけたのは、ナヤン殿の子息だったからではない。貴殿の忍耐強く、常に冷静であろうとする思考、そして決して諦めない強い意志。誇り。それらが、ヨアジの頭領となるに相応しいと思ったからだ」

 「…オドンナルガ…」


 利用されているのだと思っていた。

 それでいい。復讐が遂げられ、さらにそれがアスラン王家の助けとなり、アスランの安寧を次代へと引き継ぐ、その一助になるのであれば。

 全てが終わった後に塵芥の如く埋められようとも構わない。


 だが、一太子のどこか困ったような、ばつが悪そうな顔は、逆に心苦しくなるような賛辞が、本心からだと告げていた。


 「俺は、おそらく良い王にはなれない。だから、多くの助けがいる。後世に愚王に仕えた大馬鹿者として、貴殿の名も残ってしまうかもしれない」

 「何を…!」

 「俺は、次の世の為に、四大氏族や貴族共の力を削ぎ…身分が高い低いなどと言う選別や、平民と言う呼び名を無くしたいと思っている。今は俺に尾を振る連中も、本気で取り組めば牙を剥くだろう。

 四代に続き、アスラン王国を乱した愚か者として史書に記されるやもしれん」

 「逆に法治を徹底し、実力による登用を当然とした賢王として三王廟が四王廟になるやもしれませんぞよ?

 そうなれば、末将も陪神として祀られちゃう!?おほっ!素晴らしい!」


 弱音ともとれるような言葉を、軍師が否定する。愚王などと残させるようなことはさせない。そう、暗に言い放つ。


 「軍師殿が祀られるのは些か不安を覚えますが、四王廟となるのは良いですね」

 「そーだねえ。殿下がみーんなにすごいねすごいねって言われるの、良いなあって思うよお」

 「俺はどっちでもいいっすわ。貰えるもんさえ貰えれば」

 「あー…まあ、ともかくだ。貴殿をヒチアジ家の家長に、いずれはヨアジ氏族長にと言っておいてなんだが、俺はその権勢を削ぎ落すつもりでいる。申し訳ない」

 「何をおっしゃいますか」


 氏族長の権勢など、欲したこともない。

 羊を飼い、馬を育て、時折うまい酒を飲む。それだけで十分に幸せなのだ。

 

 幸せなのに、さらにその上、己を見出し、本来なら側近にしか吐露しないであろう胸中を語り、申し訳ないと詫びてくれる。

 そんな主君を得て、その偉業を手助けできるなど。


 これぞ、男の本懐。善き一生そのものではないか。


 途中、道半ばで無残な死を遂げるとしても、きっと己は天に顔を向け、死ねる。

 不甲斐なさを詫びるかもしれない。ここまでしかお助けできず、ご迷惑をおかけすると、悔し涙が頬を伝うかもしれない。


 けれど、きっと父のように、天を仰いで死んで行ける。


 改めて膝を付き、拳を左胸にあてた。先ほどまでとは違う。心からそうしたいと思っての動作だ。


 「このタイル。オドンナルガに…そして九代大王に、一生を尽くします。いえ、死後も四王廟の露払いとなりましょう」

 「いや、そこまでしなくてもよいが!だが、ありがとう。嬉しい」


 ひょい、とクッションから立ち上がり、トールが歩み寄ってくる。その肩から身軽に雷公猫が飛び降りて、主の座席を奪った。


 見上げるタイルの目に、朝日の色の髪と満月の色をした双眸が大きく映る。


 (ああ…)


 その黄金の血統(アルタン・ウルク)の証が、何故そう呼ばれるのか…タイルは、はっきりと理解した。


 夜を祓い、闇を照らす光。

 眩い光に、どれほどの人間が救われたのだろうか。


 アスランが建国される前、ヤルクト氏族は野の獣と同じ扱いを受けていた。

 四氏族はそこまででもなかったが、それは囚われた女子供が、家畜市で売られるか、奴隷市で売られるか程度の差だ。

 

 ただ追われ、反撃を試みてもすぐ叩き潰され、逃げ回る事しかできなかった先祖ら。

 その眼に、この色はどれだけ眩く映っただろうか。


 家族、多くとも氏族単位でしか動けなかった先祖らを率いて「軍」とし、狩る側だった者どもを次々に打ち破り、鎖に繋がれていた一族を助けだした開祖クロウハ・カガンの雄姿。

 

 それはまさに、光そのものだっただろう。

 深い感動に言葉を無くし、ただタイルはその場に額づく。


 多くのものをトスロには奪われた。


 愛馬だけではない。羊も牛も、なんだかんだと取り上げられ、それ故に暮らしは厳しかった。

 両親も、気候が厳しく、魔獣が闊歩する地に追いやられることがなければ、死ななかったかもしれない。

 

 だが、あの悪党の首は、一生を捧げるに相応しい主君をタイルに与えてくれた。

 その一点だけは感謝するべきだろう。


***


 「はあ…疲れた…」


 タイルも退室し、絨毯を取りかえるから部屋から出てくださいと侍従官たちに追い出され、トールは私室に移動していた。

 とは言え、仕事を持ったままウー老師をはじめとする側近たちもついてきているので、別に休憩ではない。


 「やはり、初対面の相手と話すのは緊張する…。タイルが良い人でよかった…」

 「だーから、言ったじゃないっすか。かなり良い人でマトモっすよって」

 「だが、初対面だ!緊張する!」

 「はーい殿下~、落ち着いて~甘ーいお茶だよ」

 

 ふんわりと湯気を立てる八宝茶に、トールは顰めていた顔を綻ばせた。

 

 「うむ…ありがとう。マルト。お前もたまにはまともな事をする…」

 「ええ~、ひどい」

 「いや、マルトさんの躁糸は本当に見事!でも、右中指に結んでいた糸、数日前の血が残っていますよ☆」

 「ありゃあ~。拭いたと思ったんだけどなあ」


 元暗殺者同士のやり取りに、ウー老師が首を振る。

 自分がこの二人か、同程度の暗殺者に狙われればひとたまりもない。ぜったいに死ぬ自信があるし、もしかしたら死んだことに気付かないかも知れない。

 味方でよかった、と胸をなでおろすとともに、かつて自分を殺した相手のアホさ加減に、なんだか微笑ましくなった。


 「なにニヤついてんすか。気持ち悪い」

 「なに、ちょっと昔のことを思い出してのお。行動が読める阿呆と言うのは良い。和む…」

 「トスロの事か」

 「軍師殿の策、まことにお見事。執務室で筆をとるだけで戦に勝ってしまわれるとは」

 

 思い出していたのはもっと昔の阿呆の事だったが、褒められたので黙っておくこととする。

 

 前回の親族会議でトスロが仮病を使って立太子を流した時、その魂胆をウー老師は見抜いていた。

 あの男が求めているのは、立太子の阻止ではなく、己が最大の支持者となっての立太子でございますよ、と星竜君わがきみに告げた時の…嫌そうな顔を思い出す。

 それだけでほぼ意図が伝わったのは、いい加減長い付き合いだからと言うのもあるが、やはり主が聡明であるからだ。

 こういう、話がすいすいと伝わるのは良い。どういうことかと聞かれて説明するのに悦を感じるには、少々年を取りすぎてしまった。


 その問答は、前世…と言ってよいのかは曖昧だが…に散々やった。おそらく、何かしらの書物にでもまとめられているだろう。

 偉大な先達と並んで、後の世の軍師の手本となっているのなら、大満足だ。だから、それはもういい。


 宰相になるという夢も、前世で叶えた。それももういい。

 かつて開祖に仕えた先達は、ウーと言う国のゆうれい

 その名にちなんで名乗る名だが、己のは少し違う。


 己は、ウーと言う男のゆめだ。


 若く理解ある主を至上の座に押し上げ、その褒美として巨万の富と住み心地の良い屋敷をいただき、料理の上手い家生めしつかいを雇う。

 そして妓楼に上がって美女に囲まれ、悠々自適の余生を送る。

 

 「今よりはマシな世」を目指し突っ走り、最後はそれをよしとしない連中に殺された男の見る夢が、今の自分だ。

 ならば、こき使われた後にはそれくらいいいだろう。夢なのだから。


 「しかし、よい味方を得た。これで煩い蠅共の駆除が進む」

 「千里の道も一歩より、と申しますでな。親が偉ければ子も出世、寒門に生まれればどれほど有能でも芽を出せず、では国は衰えていく一方でございますからなあ」

 「ああ。これで弟が煩わしい思いをせずに済む!」

 

 満面の笑みを浮かべて言い放った言葉に、ウー老師は目は細め、ラーシュは礼儀正しく口を閉ざし、マルトは首を傾げ、しろは脱力した。


 「ナランハルが煩わされておいでなのですか?」


 唯一、フタミだけが首を傾げる。


 「うむ!学者などと無駄なことをと、弟を、弟をっ!愚弄するような事をほざくわ、今回のように命を狙うわ!!そんなクソ共に明日を生きる資格はないッ!!」


 大国の一太子であり、頭脳明晰、武勇に優れ、軍を率いれば無敵てきなし

 さらには一騎打ちの相手に「顔に見とれて負けた」と言い訳されるほどの美貌。


 天に二物どころか考えられる限りありとあらゆるものを与えられ、どれか一つでもあればと万人に嫉妬されるような御方であるというのに。


 「きめーっすわ…」


 しろの呟きに、ウー老師は深く頷いた。

 今でもこの調子だというのに。


 いざ、二太子が戻った時、どれほどの惨事が引き起こされる事やら。

 

 間違いなく、その一番の被害者となるファンに向け、ウー老師は心の中で手を重ね、深く深く一礼した。

 

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