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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
30/89

山は登れば越える。仕事は始めれば終わる。(千里の道も一歩から)1

 フフホトへ入るために並ぶ人の列は、7組、30人ちょっとくらいだった。

 俺を先頭、ロットさんらを中心に、一組とわかるようにごちゃっと並ぶ。


 門から出ていく人はほとんどいないようで、本来なら出ていく側の検問に当たっている守備兵も、入る側の検問を手伝っている。これなら、列が進むのは早いだろう。

 実際、荷の改めが必要な隊商以外は、すいすいと先へ進んでいる。

 

 「ええと、これは、人が少ない方…ですよね。きっと」

 「ですね。時間も中途半端ですし」

 

 がやがやと話しながら検問の順番を待つ人々を眺めつつ、ロットさんが嘆息した。

 これが夏なら、『フフノールの縁』からこの西門まで、人がぎっしりとならぶほどになるけれど。

 過ごしやすい気温に、目にも涼し気な青い湖。そして、夏至の夜に打ち上げられる花火と、夏のフフホトは人気の観光地だ。

 でも今は、湖で獲れる魚に脂がのるくらいしかないしなあ。

 まあ、あまり並ばずに入れるのは良い事だ。クロムがすでに苛ついているしね。


 「…」


 舌打ちどころか、歯ぎしりまで聞こえそうな顔で見据えているのは、十人ほどの客引きだ。

 サライに到着した直後に囲まれたのが、よっぽど嫌な経験になっているんだろう。声を掛けられないうちから警戒心全開にしている。

 ここの客引きはサライほどしつこくも強引でもないけれど、鬱陶しいことに変わりはない。

 ただ、数は少ないから一気に襲い掛かって…いや、勧誘しに来ることはなく、通行証を見せるために列にならんで足を止めた旅人に声を掛けている。

 うまくいけば、検問が終わり次第、宿屋飯屋へご案内、と言うわけだ。

 俺たちの二組前に並んでいる商人に断られた客引きの内、次へ向かうのに出遅れた四人ほどが、順番を飛ばしてこちらへ足を向ける。

 

 「宿はいらないよ。自分の家がある」


 先手必勝。ひらりと手を振りながら、言い放つ。

 それにいち早く反応したのは、客引きではなく馭者台に座るヤクモだった。ずいぶん馬車の扱いにも慣れてきて、一人で馬を進めたり、止まらせたりできるようになってきている。

 乗馬も「おしりいたい…」にならなくなったし、頑張ってくれてるな。


 「え?そなの?」

 「そりゃそうだろ。ここには仕事を片付けに行くって言ったじゃないか」


 まあ、お前さんらを案内するのは、俺の家…と言うか、フフホト離宮だけども。

 俺の家があると言うのも嘘じゃない。

 ただ、俺とクロムだけならまだしも、うちのパーティだけでもちょっと無理なくらい余裕がない。

 いや、部屋数は割とあるんだ。居間を別にしてもあと三つあるし。

 ただ、そのうち二つは寝台以外は本棚がみっちりと詰まっていて、居間も半分…いや、三分の二は本と標本に占領されているだけで。


 「そんなわけで、他を当たってくれ」


 宿の案内を持った三人は、すぐに俺らを諦め、さらに後ろへ向かった。

 俺たちの後ろに並んでいるのが、いかにもサライから…さらにその西から来たって風体の旅人だってこともあるだろう。

 馴染みの宿がなく、土地勘もないなら客引きについてくる可能性は高い。フフホトの宿は、夏以外ならサライほどぼったくらないしな。

 長い坂を越えて疲れた身体を休めるのに、一から宿を探すのは面倒だって場合なら、耳を傾けるのはそんなに悪いことじゃない。どうせ、並んでいる間は暇だしね。


 「いや、けどね、若旦那。後ろの人らも旦那のツレでしょ?」


 だが、残る一人がしつこい。どうやら、引いていきたいのは宿じゃないようだ。


 「フフノール遊覧いかがです?」

 「この時期に?売る品物を間違ってんじゃねぇか?」


 クロムがせせら笑いながら吐き捨てる。フフホトは初めて訪れたとは言え、クロムはアーナプルナ山麓で生まれ育っている。冬のアーナプルナ周辺の寒さはよく知っているんだろう。


 フフノールを遊覧船に乗って周るのは、フフホト定番の遊行レジャーだ。

 湖からアーナプルナの絶景を眺め、湖面に突き出た奇岩を愛で、島に降りて目の前の生簀から掬い上げられた魚を食べ、双守護神を祀る神殿に詣でる。

 それは定番になるくらい素晴らしいものだ。フフホトに来たなら是非一度はやるべきと言える。


 ただし、冬以外に。


 景色を見て「キレイだねー」なんて言っていられるのは、最初の短い間だけだろう。アーナプルナから降りてきて湖を渡る風は、とんでもなく冷たい。

 吐息が凍り、涙が睫毛に霜になって纏いつくほどではないけれど、景色を見て楽しむ余裕なんてない。漁師ですら嫌がるくらいなんだから。


 「大丈夫大丈夫。うちの船はね、膝掛つんでいますから」

 「いや、寒いよね?」


 その程度で防げるようなもんじゃないと思うんだけど。


 「でもねえ、若旦那!フフホトに来て、寒いくらいでフフノール遊覧を諦めるのはね…」


 客引きの声が止まる。

 止めたのは、クロムの剣呑な視線ではなく、前方…客引きからしたら背後だけど…から沸き起こったざわめきによるものだ。

 少しばかりの困惑が混じったざわめき。門周辺を警護するフフホト守備兵が門へと駆け寄る。


 「おい!どうした…」


 守備兵の誰何の声が、曖昧に消える。

 その視線の先は、入門を待つ列じゃなかった。並んでいた人たちも、纏わりついていた客引きも、糸に引かれたように左右に分かれていく。


 そうしてできた道は、門の先へと続いていた。

 フフホトの門は、低い城壁から柱が突き出て、その上に屋根と扁額が乗っている造りだ。

 門の先には良くあるように広場が設けられ、そこに馬車や牛車、馬や駱駝が繋がれているのが見える…わけなんだけれど。


 「…」


 街並みの代わりに見えたのは、一人の男。

 フフホトの住人たちや、旅人たちの視線を一身に集め…男は、両腕をぴしりと肘の高さまで上げて胸の前で指を突き合わせている。

 軽く波打つ長い黒髪と、上にピンと跳ね上がる口髭、全ての指にごてごてと嵌められた指輪に、金糸銀糸をふんだんに使った原色の服、寒いのに開けられた胸元から見える剛毛…全てが「胡散臭い」と全力で主張していた。


 「…なんだあのお触り禁止のメルハ人は…」

 「あー…そのだなあ」


 どうしよう。

 確かに、近寄っちゃいけない感じの相手だ。

 だが。困ったことに。俺はアレを、よく知っている。


 「あれ、俺の…部下」

 「は!?」


 クロムの目が見開き、物凄く嫌そうな声が喉から迸る。

 それが合図だったかのように、そのお触り厳禁のメルハ人は…踊り出した。


 「待ってた待ってた待ってましたよ!アヤヤヤ!!」


 やめろ、やけに切れのいい動き(ステップ)で接近してくるな!

 俺の内心の声など当然聞こえず。あやしいおっさんは激しい音楽さえ聞こえてきそうな勢いで踊りながら、門から出てくる。

 そういう妖魔だって言ったらたいていの人は信じそうだな。アバレオドリウサンクサイ・オッサンとかって名前つけて。


 門から出てきたおっさんから、慌てて人々が離れて行く。まあ、正しいな。俺だってそうしたいのはやまやまだ。

 でも…なんでこいつがここに居るかって言ったら…俺を逃がさない為、だろうし。

 逃げれば、もっと俺の嫌がる方法で追ってきそうだしな…。

 いや、そりゃ今日の夕方までは逃げようと思ってたけど!仕事するよ!ちゃんと!


 「さあ!さささあ!乗って行きましょ乗りに行きましょ遊覧船!ヤ!」

 「いや…寒いし…」


 俺の拒絶に、弾かれたように後ろに跳び、片足で跳ねながら両手をつきだして振る。顔が全然動いていないのが怖い。

 って言うか、遊覧船乗るの?いきなり執務室連行のうえ書類積み上げじゃなく?

 

 「それは損!損!損!乗れば楽しい乗らなきゃ哀しい!そ・れ・が!ナナナ!遊!覧!船!」

 「頼むから普通にしゃべってくんない?…むしろ、喋れ。踊るな」


 どうやら俺の方が話が通じると見たらしい守備兵が、恐る恐るこっちを囲みだす。

 その動きに、クロムが茫然状態から復活する。剣の柄には触れていないが、盾が括りつけられた左手をゆっくりと上げていく。

 とりあえず、まずは「話が通じる」方のクロムを抑えよう。左手をとんとんと叩くと、おとなしく下げた。

 けれど、顔には硬質の無表情が張り付き、もし、守備兵が取り押さえようと動けば、問答無用で殴る。そう鋼青の双眸は言い放っている。

 

 「おい、なんの騒ぎだ!」

 「隊長!」


 詰所から出てきた上官を見て、守備兵たちはほっとしたように叫んだ。

 それとは真逆に、守備隊長は結局まだ踊る変なおっさんをみて目を点にしている。


 「い、いかがしましょう!隊長!捕えますか!」

 「え、いや、この方は…」


 あ、もしかして、隊長さんも知ってる?

 まあ、知ってても無理はないか。十人長なら顔を見たことはあるだろう。直接報告に行くこともあるもんな。

 門の向こうから守備兵が捕縛の為に飛び出してこないのも、向こうの十人長も誰だかわかっているから…だよなあ。


 「あー、もう!いいから踊るな!止まれ!これは命令だ!」

 

 いい機会、かも知れない。 

 未だに委縮しているエルディーンさんと、明かに憔悴しているレイブラッド卿の為にも。

 どうせ、フフホトで仕事をすれば、「ナランハルが今フフホトにいる」と言うのは知られ渡るわけだし。

 それなら、自分から名乗って…身分を明かしてしまった方が、少しは二人の気持ちも軽くなるかも。


 あ、でもな。

 俺は良いよ、俺は。うん。

 けどだ。


 この明らかにアレなおっさんが、この街の行政を取り仕切る領事官ダルガチと知ったら、叛乱起きないか?

 いや…むしろ、その確かな政治手腕で尊敬を集める領事官が、こんなのだったってことで「裏切られた!」って暴動にならん?

 

 …ごめん、エルディーンさん、レイブラッド卿。もう少し、身分隠します。


 「すいません、この人…『知り合い』、でして。とりあえず、踊るのやめさせます」

 「さっさとしろ!」


 怒鳴りつける守備兵に飛びかからないようクロムを抑えつつ、曖昧な笑みを浮かべて頷く。

 守備兵の後ろで、十人長が「アババババ…」って感じで血の気を引かせていた。このおっさんが誰かを知っていれば、わざわざ迎えに来た相手がどんな立場かは推測できるもんなあ。

 それに、俺の顔も見たことがある可能性も高いしね。俺も何となく、彼の顔に見覚えがある。


 「わかったよ!遊覧船でも何でも乗るから、踊るのやめ!見ろ、女の子たちが怯えて…ないけど、お客人が嫌がっているだろ!」

 「ふむ…吾輩の舞を御理解いただけないとは、残念です」

 

 すん、と静止したおっさんに安堵の溜息を吐いたのは、俺よりも周りの守備兵達だろう。十人長にはあとで「怒ってないしむしろごめんね」と伝言して、胃薬も差し入れよう。


 「隊列変更!クロム、ヤクモ、ユーシンは最後尾に!」

 「なんでだよ」

 「なんでもだ」


 珍しく俺が強く言い切ったからか、クロムはちょっとムッとしたものの、おとなしく後ろに下がる。

 途中、踊りを真似してクネクネしだしたユーシンをひっぱり、剣呑な顔を向ける守備兵を威嚇しつつも、神殿組の馬車の後ろについた。慌ててその後を馭者台から飛び降りたヤクモが追う。


 「どうした急に?」


 代わりに、最後尾についていたガラテアさんとシドが前に出てきた。俺の警護を交替できるようになった当たり、クロムにも余裕が出てきたのかもしれない。 

 まあ、警護する必要もないと思うんだけどね。そっちの理由なら、なおさらだ。どんな時も気を張っているんじゃなく、不要な時は抜くことを覚えるってのは、大切だからな。

 仲間を信頼し、状況を読む。兄貴が聞いたら弟子の成長を喜ぶだろう。


 「ちょっとね。別に後方警戒しなきゃいけないわけじゃなくて…」


 俺の視線の先を、ガラテアさんは辿り、まだ時折肩を上げ下げするおっさんにたどり着いた。


 「あれのせいか?」

 「うん。まあ」


 とりあえず、更なる暴走していないところを見ると、一応自重しているみたいだ。


 「一応聞くが、弟は…」

 「シドは問題ない。…たぶん」

 「万が一があれば殴るが、よいか?」

 「その前に俺が張り倒します」


 俺たちの前が逃げるようにフフホトへ入り、時折ちらちらとこちらを振り返りつつも、広場の先へと去っていく。集まっていたやじ馬も、守備兵に追い散らされて解散したみたいだ。


 「まったく…あんたのツレ、なんなんだ」


 検問に当たっていたのは、まだ若い兵だ。声が微妙に高いのも、若さを強調している。

 「ん」と顎を突き出しながら手を出しているのは、通行証パイサをだせってことだろう。クロムを後ろに下げといてよかった。ここに居たら、もう彼は殴られているか、顔を鷲掴みにされている。

 そうなったら俺やこのおっさんの立場を明らかにしなきゃいけないし、すかさず先輩に「おい!」と背を叩かれた若い兵は斬首だ。

 旅人に向かって偉そうにするのは、その旅人が王子じゃなくても駄目だけど、ちゃんと怒られているからね。これ以上罰を与える必要はないよな。


 俺が差し出した黒漆の通行証を見て、先輩兵士の方が「おや」と言う顔をした。

 ひったくるように手に取った若い方は、ひっくり返したり透かしたりと、贋物であることを見つけようとしているようだ。

 まあ、ある意味贋物ではあるけど。本来の俺の通行証は、腰のポーチに納めている伝声軍牌ケタイ・ヤルリクであるとも言えるし。王族は通行証造らないからなあ。うちの家族、祖父ちゃんも含めて全員『贋物』の通行証持っているけれど。

 

 「準騎士殿でしたか。それなら、お連れの方々の通行証は不要です」

 「ありがとうございます。もし何かあれば、コレの身許は行政庁に『踊り狂う変なおっさんに迷惑しました』って言ってくれれば、すぐ証明してくれるので…」

 

 先輩兵士はまだ念入りに調べている若い兵士から通行証を取り上げ、丁寧に返してくれた。不満そうな後輩の頭を引っ叩き、「どうぞ」と門の先を示す。

 後ろを振り返って見ると、十人長は失神寸前なご様子で、部下たちが慌てて支えている。胃薬より先に、「ほんっとーに気にしてないから!」って伝言と、休暇を与えたほうが良いだろうか。


 「先へ行くよー!フフホトは坂が多いから気を付けてね~」

 「はい、わかりました!」


 振り返ったまま、皆へ声を掛ける。ユーシンだけじゃなく、女の子たちも踊りの真似をしていた。その中にエルディーンさんも混じってて笑っていたのを見て、少しホッとする。


 久しぶりのフフホトの町は、記憶と変わらない光景が広がっていた。

 この街の造りは、巨大な円形階段に例えられる。

 

 緩やかなすり鉢状になっているこの地は、普通に建物を建てると斜めになってしまう。だから段上に土地を均し、人が住める平地を造成してきた。

 この地に人が住み始めた頃は湖の畔に一段だけだったそうだけれど、今では全部で十段を数え、湖に添って南北に長く街が築かれている。

 一番高い位置に存在する西門から見れば、白い石畳と青い屋根が並ぶ街並みが視界に入り、この街が『青の街(フフホト)』と呼ばれることに納得するだろう。

 

 「サライより、目に優しいな」

 「フフホトはあまり壁を塗らないからね」


 俺の横を歩きつつ、ガラテアさんが目を細める。シドも同じ感想のよう…いやちょっと違うか。屋台見てるな。

 うちの面々と旅を続けて食欲が増したのはエルディーンさんだけではなく、シドもらしい。本人曰く「我慢が利かなくなった」そうだけど。

 我慢?なんだそれは!食えないなら意味はないな!って奴がそっちゅう腹減ったコールしてりゃなあ。自分だけ我慢しているの、あほらしくもなるよね。

 今も、後ろの方から「良い匂いだ!腹減った!」って喚いている声がするし。


 ガラテアさんの言う通り、フフホトはサライの様なあふれる色彩はない。壁は白っぽい色が多く、極彩色に塗られていない。

 なによりもフフホトを彩るのは、建物の向こうに見える青の湖(フフノール)と、その水面を見下ろすアーナプルナの蒼い山影。

 それに合わせるように、行き交う人々の服装も、俺たちの前をぷりぷりと歩くおっさんを除いては、落ち着いた色合いだ。


 大通りにはもちろん多くの人が行き交うけれど、サライのように様々な国の人々が、交易の品を抱えて…ではなく、地元の人が普通に歩いている印象だ。ちょっと遠巻きにされているのは、間違いなく先頭のおっさんのせいだけど。

 特産品の塩を積んだ牛車に、馬たちが興味を示している。さっきも塩を嘗めさせたけど、もっと欲しいんだろう。

 

 「どこまで進むんだ?」

 「遊覧船って言ってたから、波止場までかなあ」


 フフホトの街は湖に添って広がっている。東西に短く、南北に長い。門は西と北にしかなく、西門と北門の間に宿屋や問屋が集中し、西門から南側は住宅地、そしてフフホト一帯を統治、監督する行政庁が置かれていた。

 

 段を一つ降りる場所の両脇には短い階段が設置され、その階段にはさまれてスロープがある。

 サライと違って厳格に歩道と馬車が行き交う車道は区別されていないんで、階段を使うよりそのままずんずんと傾斜を下る人の方が多い。階段は歩くところと言うより、そこで座っておしゃべりをしたり、一休みする場所になっていた。


 そんな光景を眺めならが下っていくと、波止場が見えてくる。空気に水の匂いが強くなり、波の音と水鳥の声が聞こえだすと、もう目的地はすぐそこだ。


 夏は観光客でごった返す波止場も、冬の始まりである今の時期は閑散としていた。漁業もフフホトの主要産業のひとつだけれど、昼過ぎはもう漁師たちは自宅へ帰っている時間帯だしな。

 運河を渡っていく交易船は、北の波止場に停泊するから、ひたひたと青い波の打ち寄せる波止場は、穏やかな陽光と静けさに包まれていた。


 聞こえるのは、遠くの人の声と、水鳥の声。そして、波の揺れる音。

 長閑な光景に、ロットさんとウィルが一息ついたように見えた。ずっと、賑やかでどこに行っても誰かいるって感じだったからね。 


 でも…これは。


 「…いくらなんでも、人がいなさすぎないか」

 「んー…まあなぁ」


 ロットさんらとは逆に、シドが緊張をみなぎらせた。いくらなんでも、こんなに人がいないことは普通ない。

 ぶらぶら散歩している人や、湖に向かって自作の詩を朗読する人、それを完璧に無視して水面を見つめる釣り人など、いないはずがない。


 それに何より、通常なら桟橋に所せましと係留された船が並んでいるはずだ。

 だが今は、青い水面が輝くばかり。船影は遠い湖の先にしか見えない。


 「!」


 クロムが剣を抜き、ユーシンが槍を構える。

 その険しい視線は、建物の陰から突然現れた人の群れに突き刺さり…そしてばつが悪そうに逸らされた。


 現れたのは、黒と赤を基調にした軍装の騎士たち…つまり、紅鴉親衛隊だ。

 どうやら人払いをしていたらしい。


 「ナランハル、千歳申し上げる!」


 声を張り上げ、片膝をつくと同時に左胸を打ったのは、よく知っている百人長イル・ジャウンだった。彼に続き、他の面々も同じように片膝をつく。


 「皆、出迎えありがとう。でも、どうしてわかったんだ?」

 「サライより急使がきておりましたし、宿駅を通過されるごと、報告がきておりましたもので」

 

 …まあ、そうなるか。


 「さあて皆さま。改めまして名乗りましょう。吾輩はジャワル・ダルワンシャン・オドバ・シャルパ…」

 「このフフホトの領事官ダルガチ、ジャワルだ。つまりは、俺に代わってこの街を統治している」

 

 自己紹介をぶったぎって説明すると、クロムがものすごく眉間に皺を寄せた。もう後ろを守る必要はないと自己判断したのか、よっぽど突っ込みたかったのか、ずかずかと歩み寄ってくる。

 うーん…クロムなら大丈夫かなあ。年齢的に。

 

 「なあ、ファン」

 「ん?」

 「お前ら兄弟は、側近に胡散臭いおっさんを迎えなきゃなんないって呪いでもかかっているのか?」

 「…ないと思うけど、たぶん」


 どんな呪いだ、それ。

 ほら、百人長吹き出しちゃったじゃん。


 「そのような面妖な呪いなどはないかと存じますが、領事官殿はオドンナルガにお仕えせんとメルハの密林より参られた…と聞きおよんでおります」

 「じゃあ、トールが呪われてんのか」

 「いや二人しかいないからな?胡散臭くないひとのが大半だからな?」


 やれやれと思って見渡すと、大神殿組は硬直している。

 まあ、いきなり武装した騎士百人がわらわら湧いて出ればこうなるか。さっきまで和んでいたしなあ。不安になるのも無理はない。


 「あーっと、噛みついたりしないから…」

 「ナランハル、もっとこう、別の表現はなかったのですか?」

 「え、じゃあ、襲い掛かったりしない…」

 

 百人長は悲しげな顔をして、それからロットさんらに向き直った。胸に手を当てたまま腰を折り、一礼する。


 「ようこそ、ナランハルのお客人よ」

 「は、はい!ええと、よろしくお願いいたします…」


 慌ててロットさんが馭者台から降りて、手を広げて膝を折ろうとし…取りやめて百人長と同じように腰を折った。

 ここはクトラ人も多いから、アスター信徒であることは隠した方が良いって言う俺の言葉を覚えていてくれたらしい。


 師と兄弟子に倣い、ウィルと女の子たちも慌ててぺこりとお辞儀した。その一生懸命な様子に、もうすぐ十歳になる娘を持つ百人長が破顔する。

 前に会ったときは「最近娘がね…お父さん、ウザいって言ったんですよ…」と遠くを見ていたけど…娘さんの反抗期は終わっただろうか。

 

 「ぼくらもご挨拶した方がいいよねぃ」

 「うん、そうだよね」

 「ならば俺からだ!キリク王国シーリンが子、ユーシン!世話になる!」


 ユーシンの名乗りに、百人長じゃなくジャワルの方が反応した。やっぱりなあ…。


 「おお…こちらの方が、あの、ユーシン殿下…!!!そうではないかと思っておりましたが…!!」

 「む?俺を知っているのか?」

 「もちのろんにございます!おお、ナランハル!吾輩、貴方様にお仕えして良かった…!けれど、出来ればもう五年ほど前に…!!」

 「お前さん、そのころまだ、カドワ王国の高級ごく潰しだったじゃん…」


 この胡散臭いおっさん、メルハ諸王国のひとつ、カドワ王国の第一王子の第三夫人の弟の妻の甥と言う身分で、「明日から本気出す」を四十年ばかり続けたのち、アスランにやって来て本気を出したという経歴を持っている。

 その本気を出したきっかけと言うのは、うちの兄貴なんだけども。


 「ユーシン、有名なんだねぃ」

 「うむ!『恐れを知れぬもの(ナラシンハ)』と蔑まれるのを聞いたか!」

 「そのような蔑称、吾輩の清らかな耳には入りませんね」


 俺の前で百人長が顔を押えて空を仰ぐ。指の隙間から覗く目が、「やっちまいますか?」と聞いているけれど…。

 俺が警告するより、実際に見せたほうが早いかな。相手がユーシンなら気にしないだろうし。ほんとにアレなこと言いだしたら、どうにかするってことで。


 「おお、キリクの宝珠、三界の至宝…!ふはぁ…!」


 なんだか湿った感じの吐息をはきだし、くねくねとうねる。

 その様子に、ヤクモが困った顔で呟いた。


 「え…と。ごめん、このひと、気持ち悪いね」

 「おお、そちらの御仁も中々…ナランハルぅ!ついにナランハルも、少年の美しさを御理解したと」

 「違います」


 人を変態仲間に引き込むんじゃない。

 どゆこと?と目で問いかけてくるヤクモとナナイ、それからさりげなく首巻を上げて顔を隠したクロムの疑問に答えよう。誤解されたくないし。


 「えー…このおっさんは、その…」

 「このジャワル!美少年を愛すること大陸でも五指に入ると自負しております。が!無理強いや無体を働くような下種ではない!その点、誤解なきよう!」


 胸張って言う事か?

 沈黙が落ちた波止場に、長閑な水鳥の声と波の音だけが響く。

 それを破ったのは、不穏なクロムの声だった。


 「…もう一度聞くが、このおっさんがここの領事官なんだよな?」


 領事官は、任地においては王と同じ権限を持つ。税収、治安維持、道や施設の整備、裁判などは領事官に一任され、その権限は大都の各官長に匹敵する。

 つまり、私腹を肥やそうとしたり、権限を悪用しようとすれば幾らでもできる立場って事だ。クロムの不穏さは、その「権限の悪用」を疑っての事だろう。


 「あー、一応本人の名誉と、俺の名誉のためにも言っておくが、本当に無理強いしたりしないよ。税金を払えなかった家の息子さんを連れ帰って、美少年ハーレムとか作ったりしてそうだけどやってない」

 「私も証言いたします。そのような蛮行に及べば、すぐに首を刎ねられるのですが…」


 ちらりと弛んだ首を見る視線に、ジャワルは口を曲げて髭を撫でた。


 「そのような真似、美少年を愛する心が許しませんね!それでユーシン殿下、もしよろしければちょっとこう、項の匂いをくんくんさせて…」

 「はい不敬罪。捕縛していいぞ」

 「御意!」

 「ちょ、やめ!しておりません!せめて一嗅ぎしてから捕縛されたいっ!!そ、そんなことよりナランハル!間もなく迎えが参ります故、観念して宮においでくださりませ!」


 意外と俊敏に、百人長と面白がって追い回す騎士たちの手を避けつつ、ジャワルが叫ぶ。あー、やっぱり迎えに来たのってそういう事か。

 

 「此処まで来て逃げないよ…。逃げる気なら、フフホトにこないって」

 

 一見、やっと訪れた領主を歓迎し、護衛するかのように見えるが。

 その実、これは俺が逃げないよう捕縛するための陣だ。

 でもさあ、わざわざ百人隊駆り出す?フフホトにいる兵士は全部で五百人。うち二百人は紅鴉親衛隊で、その百人がここに居るわけで…。

 …そりゃ、行くのは今日の夕方にしようとは思ってたけども。


 「ファン、信用ねぇな」

 「まあ、一年間寄りつかなかったのは事実だしな…」

 「あ、お船くるよ!」


 俺の信用問題はヤクモの一声でかき消された。皆、「まあ、しょうがねーな。ファンだし」って顔で納得しているのは腑に落ちないケド…まあいいか。

 

 ヤクモの指先の向こうから、ぐんぐんとやってくるのは、白い帆を張り、両脇に外輪を備えた中型船だ。大運河を行き交う交易船としては一般的なタイプである。

 けれど、大きな湖沼のないアステリアではお目にかかることはない。ヤクモはもちろん、神官組にエルディーンさんも、その姿に見入っていた。


 「ファン、あの船、なんで水車ついてるの?」

 「基本は帆に風を受けて進むけど、あの外輪が回ることでも前へ進めるんだ」


 外輪を回す動力は人力か魔導。魔導式は動かす魔導士が必要だし、魔晶石が高価だからあまり普及はしていない。かと言って、人力はとにかく疲れる。

 いろんな学者や技師が、人力や魔導に頼らずどうにかする方法を模索しているから、百年後には「昔はこんなふうに動かしていたんだよ」と語られるようになるのかもしれないな。


 船が近付いてくると、帆には大きくアスランの国旗が描かれているのが見えた。帆柱ではためくのはサリンド紋で、つまり、王族が乗った船だと示している。

 船首には波を蹴立てて走る駿馬の像が備えられ、大きくはないけれど美しい船だ。砲台や床子弩バリスタを備えているから、交易船や客船じゃなく、軍船だな。

 船は女性に例えられるけれど、この船はさしずめ、凛々しい女性騎士といったところか。


 船の上では忙しそうに接舷の準備を…してないな?こちらに敬礼をおくって…えっと、通り過ぎていきましたけど?


 騎士たちに取り押さえられているジャワルを見ると、ふるりと首を振った。


 「あの船は囮。その影に潜みやってくる船こそ、ナランハルをお連れいたします御船にございます」

 「…止めたんですけどね。私は」


 ぽつりと百人長が不穏なことを言った。

 確かに、通り過ぎて行った船から離れるように、こちらへやってくるさらに小型の船がある。

 いや、あれ、船か?


 船首…と言うか、船の前面は鳥の顔になっている。甲板はなく、すぐ船室になっている箱舟だ。外輪は横ではなく、船尾についている船らしい。通った後に、白い泡沫の路が出来ている。

 それはいい。それはいいんだけど…。


 まず、色が黄色い。一部じゃなく、全体的に鮮やかに黄色い。

 そして、船首の鳥は、鷲や鷹と言った猛禽じゃなく、どう見てもアヒル。くちばしが平たいしな。でも、黄色いからより正確に言えばアヒルのひよこだ。

 そのつぶらな真ん丸の目は、何故かやや上目遣いになっていて、船の横腹にはちいさな羽根もついている。


 船から一人の騎士がひょこりと上半身を出し、そのまま屋根に上る。手には舫い綱の束を持っていた。身に纏うのは騎士身分を示す軍服でも、足は裸足だ。その方が滑らないしね。

 ひらりと屋根から桟橋へ飛び移り、騎士は綱を係留柱に結び付け、さらにグイと引っ張った。その動きによってアヒルちゃんは桟橋に横づけになる。

 すぐ近くで見ると喫水はかなり高い。どうやって乗り込むのかと思っていると、ぱかりと開かれた横腹の扉から階段が降ろされた。

 船体の横には窓が並び、窓にはすべて硝子がはまっている。まあ確かに…これなら寒くはない…と思うけども。


 「…これに、乗れってか?」


 クロムの嫌そうな声は、女の子たちの「可愛い!」と言う歓声にかき消された。

 うん…これ、乗るの?


 「さあさあ!楽しいフフノール遊覧の時間ですよ!」

 「俺は屋根に乗っていいか!」

 「駄目じゃない?」


 ユーシンはともかく、ヤクモも目を輝かせている。船自体珍しいもんな。

 どうしてくれようかと思っていると、百人長がすすす、と後退る。

 

 「ではナランハル。馬と馬車は我らが」

 「一緒に乗らない?」

 「残念ながら、定員は二十名なのです…」


 本当に残念なんだろうなあ!?

 っていうか、お前さんくらいは乗れると思うんですけども!


 「ささ、どうぞどうぞ。フフホト技術部が持てる全てを詰め込んだ軍船、『ナランハルの栄光』号での船旅、存分に楽しまれなされよ」

 「ちょっと待ってくれ」

 「なにか?」

 「いや、名前もだけど、軍船なの!?これ!?」


 ちなみにフフホトは行政庁が置かれる都市の中で一番、軍備が薄い。なにしろアスランの奥深く、まず攻め込まれる場所じゃないからだ。古くから人が住み、街が築かれたここいら一帯は魔獣の害もほとんどない。つまり、安全地帯だ。

 だから外壁も街と外の境目を示す程度のものでしかなく、万が一、攻められた場合には、船を出してフフノールに浮かぶ島に避難することになっている。


 陸上の戦力は少なくとも、フフホト守備軍の所有する二艘の大型軍船は強力だ。両側に備えられた合計四十門の火砲が砲撃を行い、敵陣を蹂躙する。城壁が低いのは、この時に射線を遮らないように、という意味もある。


 とは言え、軍船も建造から結構な時間が立ち、そろそろ新しいのを造って引退させようか、と言う話は出ていた。建造されてから実戦に使われたのは僅かに一回。

 その一回で、もう二度とフフホトに攻め込むのはやめようと思わせるほどの戦果をあげたわけだけれど。

 

 そんなわけで、確かに三年ほど前、俺は新しい軍船の建造を許可した。建造されてすでに三十年近くが経過しているわけだし、肝心な時に火砲をぶっ放したら、同時に衝撃で船もバラバラになりましたじゃ洒落にならない。

 

 だから、それはいい。開発したこと自体はね。

 確か、その開発費と建造費は、フフホトの年間予算二年分くらいだったと記憶している。

 その…フフホトの民の税金が、このアヒルちゃんになっちゃったの…?

 暴動とか起きない?直轄地で暴動発生とか、親父と兄貴のみならず、祖父ちゃんやご先祖様に合わせる顔がないんですけど…。


 「ご心配なく。『ナランハルの栄光』号はあくまで試作機。新型軍船はまだ図面にしか存在しておりませぬ」

 「…ちなみに予算はどれくらい残って…」

 「なあに、あと半分とちょっとはありますから!」


 一年分の予算を掛けたアヒルちゃんかあ…。

 

 「ささ、詳しくは乗り込んでから説明いたします」

 

 いそいそとアヒルちゃんへ誘う濃いめのおっさんと言う、何とも言えない光景だけれど。

 さっさと乗り込まないと、いくら人払いしていても誰か来ちゃうかもしれないし。

 『謎のアヒルちゃんに拉致される一団!』とかの見出しで新聞の一面を飾るのは嫌だしなあ。

 いや、それならまだいいけど、『ナランハル、領事官と共に美少年美少女を連れて遊覧!』『建造費用はどこから?』『フフホト行政府は新型軍船と言い張る!』なんて見出しまで踊ったら…最悪だ。


 「仕方ない。乗ろう」

 「マジでか」

 「人払いまでして、囮の船を動かしたってことは、『ナランハルがフフホトに来た』ってこと自体は隠さないんだ。それなら、フフホト行政府前はじきに人で溢れる。陸路で近付けないなら、湖から行くしかない」


 騎士たちがじりじり包囲を狭めてきているしな。

 覚悟を決めて、ジャワルに示されるまま階段を上がる。


 「へえ」


 中は、見た目より広かった。

 二人が余裕を持って並んで座れる二人掛けの座席…革張りだ…が通路を挟んで並び、背中を曲げなくても歩くことが出来る。

 僅かに揺れは感じるけれど、歩行困難になるほどじゃない。これだけ安定しているなら、クロムも酔わない…かなあ?


 「ナランハルはこちらへ」

 「え?」


 差し招かれたのは、入り口から見て右手側。一段高く狭くなった座席だった。

 そこの左側に座っているのは、たぶん技官だ。文官の官服とも、騎士の軍服とも違う動きやすい服装もそうだけれど、なんとなく纏う空気がそうだと示している。


 言われたとおりにそちらに行くと、席は左右と真ん中、三席あった。左の席は技官がいるから、右の席に座る…が、間髪入れずにクロムに真ん中に戻された。そして、当のクロムは右側の席にドスンと腰を下ろす。

 

 「窓際に座るな」

 「大丈夫だと思うけどなあ…さて、皆、乗り込んでくれ」

 「おう!」


 当然ながら真っ先に乗り込んできたのはユーシンで、俺たちの座る席のすぐ後ろに陣取った。何か違和感を感じてよく見ると、槍を持っていない。


 「おい馬鹿、槍どうした」

 「む?百人長殿に預けたぞ!代わりに剣を貸してもらった!ククリもあるし、問題ない!槍がなくても、俺はクロムより強いからな!」

 「あ゛?」

 「ふわあ~!中、こうなってるんだねえ!」

 「…姉さん、できれば、一人で座りたいと思うんだが…」

 「贅沢なやつだな?」


 クロムの威嚇は、次々乗り込んでくる面々に弾かれた。ヤクモはユーシンの横に腰を下ろし、きらきらとした目で船内と、窓越しの湖面を眺めている。

 シドはガラテアさんと壁に挟まれて、大きな体を精いっぱい縮こませていた。可哀想だけど…耐えてくれ。流石にガラテアさんも、意味もなく暴力振るったりはしない…と思うんだけど。


 「わー、中は結構あったかいね!」

 「あ、見てみて、魚跳ねたわ!」

 「どれどれー!」


 女の子たちは元気いっぱいだ。先導する騎士が左右同じ人数になるようにと指示すると、「はーい!」と良い御返事をしてささっと分かれる。ナナイも入れて丁度六人。空いたもう一席を示して、まだ戸惑うロットさん達へ手を振り招く。


 「早くロット兄さま!ウィル兄さま!」

 「エリーもだよー!ここ、ここ!」

 「あ、うん!」


 ロットさんとウィルが着席し、その後ろにレイブラッド卿が、エルディーンさんは一人でタバサさんとコニーさんが座った座席の後ろに腰を下ろした。船に乗るのは、彼女も初めてだろう。目は輝き、顔は久しぶりにはしゃいだ笑みに彩られている。

 そんな初航海をこんなアヒルちゃんでいいんだろうか…。まあ、彼女たちは好意的にみているからいいか。外野がなんと言おうと、本人が良いならそれでいいよな。うん。

 

 「さあ皆さま!出航いたしますよ!」


 最後にジャワルが乗り込み、一緒に乗船した騎士が階段を引き上げる。舫い綱も解かれ、扉の中へと投げ込まれた。

 

 「扉閉めます」

 「了解!」


 重い音とともに、扉が完全に閉まり、閂が掛けられる。改めて視線を前に向けると、俺の目の前には大きな窓が広がっていた。が、アヒルちゃんの首と後ろ頭しか見えない。


 「ナランハル。ここが言うならば操舵室になります」

 

 上機嫌に説明する技官の前には、確かに舵がある。俺とクロムの前にもあるけれど。

 足もとには漕ぎ板があり、舵が設置されている盤面には、内側から光を放つ珠が溝に嵌っていた。

 珠は溝の一番左にあり、その上には寛いでいるアヒルちゃんの絵がある。真ん中にいくと駆け足になっていて、一番左は…なんか飛んでいた。


 漕ぎ板は踏み台…足を突っ込む為の囲いがついている…を鉄棒の端につけたものを二本組み合わせて作られていた。これを踏み込んで回すことで、歯車が回り、それが船尾にある外輪に連動しているんだろう。

 けど、こんな小さな漕ぎ板で、これだけの船を動かすのは…足が死ぬと思う。一度動き出せばある程度勝手に進むけど、最初の一漕ぎがめちゃくちゃ重いよなあ。


 となると、盤面に嵌った珠が本来の動力だ。つまり、魔導で動かし、万が一の時は人力でもどうにかできるようにしているんだろう。完全に魔導力で動く船も、大抵はこういう装置が組み込まれている。

 航行中に魔力が尽きて二進も三進もいかなくなったら大変だからな。

 

 「さて、ナランハル!この『ナランハルの栄光号』は…」

 「この名前辞めない?『アヒルちゃん一号』とかでよくない?」

 「…その名付けですと、この船は『アヒルちゃん三十八号』となりますが…」


 そんなに失敗してんのかい。

 とりあえず、その過程で誰か一人くらい、「外観に拘るのよそうか」とか言ったりしなかったんだろうか。ぜったいそのあたりに失敗の原因があると思うんだけど。


 「じゃあ『ぴよちゃん号』で…」

 「わかりました。戻りましたら書類にそのように。命名はファン・ナランハル・アスラン様である事と共に記載いたします」

 「…地味に嫌だけど良いよもう…」


 これを栄光にされた紅鴉に申し訳ないしな。俺のネーミングセンスの悪さは一部で有名だから今更だ。


 「では改めまして。『ぴよちゃん号』は、魔導力船です。操舵席三ヵ所のうち、どれか一ヵ所で動かすことも可能です。つまり、二ヵ所破壊されても一ヵ所生きていれば航行可能であり、同時に最大出力にすることで、三倍の出力を得ることも可能です」

 「ふんふん」


 見た目はアレだけど、本当に最新式の軍船なんだなあ。


 「目下の問題点は、最大出力にいたしますと、その約五拍から十拍以内に水面から離れて飛び、方向制御を喪う事ですが」

 「…駄目じゃん」

 「理論的には、馬の最大速度の五倍ほどまで出せます」

 「それ、中の人は無事なの?」


 クロムは聞いてるだけで無表情だけど血の気を引かせている。馬の五倍って、相当早いよ?椅子から転げ落ちたら、一瞬で一番後ろの壁まで叩きつけられるんじゃないか?


 「そのため、運用的には無人のまま最大出力になるよう遠隔操作し、敵船に特攻させる…となります」

 「速度抑えて良いから、もっと大切に使える運用を考えてくれ!」


 一年分の予算だよ!?


 「そ、それより、どうやって出航するんだ?君が船長でいいのか?」

 「いいえ。この『ぴよちゃん号』の画期的な点は、航行に技能を必要しないという事です。むろん、悪天候や想定していない航行には必要ですが。

 さ、ナランハル。動力珠を左へ。真ん中より先にしますと急発進しますので、お気をつけて」


 この、飛んでいるアヒルちゃんの絵まで動かしたら、この船も飛ぶのか…。そんな危ないもん、ストッパーもなく剥き出しにするのどうなの?


 慎重に駆け足よりずっと手前くらいまで珠を動かすと、船が動いた。

 するりと桟橋を離れ、湖へと向かって行く。え、でも、俺も誰も、舵を弄っていないよ?


 「航行コースには、全部で三十個の浮き球を置いています」

 「うん」

 「この船は、そこから発信される魔導信号を目指して進んでいきます。一度信号を捉えれば、動力を停止するまで操舵の必要はありません。人的損失を出すことなく、特攻攻撃が可能です」


 へええ~!それはすごい。

 確かに、それが出来れば敵船へ突っ込ませることは容易だな。けど、ここに敵船が現れること自体ない。

 もっと平和で実用的なことに活用しようよ。船長や船員なしで船が動くって、かなりすごいと思うんだけど。


 「わああ、動いたあ!」


 俺の引き攣り笑いは、後方の歓声で消された。

 『ぴよちゃん号』は、人が走る程度の速さで進んでいく。もう少し、速度を上げても良いかもな。

 

 「クロム、大丈夫か?」

 「今んとこ」


 なら、もう少し。珠を左に動かすと、速度が上がった。再び歓声が沸く。


 「ご乗船の美少年とその他の生物の皆さま。左手側をごらんください。そちらに見えます大きな島が、『ウルカの櫛』と呼ばれる奇岩でございます。見ての通り、波により岩肌が削られて櫛状になった岩は天下一の奇岩と呼んで差しさわりなく、その合間を抜ける風は天女の奏でる笛の音の如く。ま、今は戦乙女の鬨の声でございますが」


 ジャワルが無駄に美声を朗々と響かせて観光ガイドをしている。まあ、これはこれでいいか。


 「なあ、この棒はなんだ?」


 景色に全く興味のないクロムが、つんつんと盤面から突き出た棒を突く。上下左右に動かせるような溝はなく、根元に押し込めるような穴があるから、ガコンと押し込むと何かが起きるんだろう。

 間違いなく、ろくでもないことだろうなあ…。


 「それはですね」


 よくぞ聞いてくれました!とでもいうように顔を輝かせ、技官はアヒルちゃんの頭を指さす。


 「それを押し込むことでアヒルの嘴が開き、反しのついた衝角が飛び出します。敵船に船体を固定させ、乗り込むための装置です」


 だから何故、まずありえない船同士の一戦を想定した装置が多いんだ…。

 そもそも、なんでそれで見た目がアヒルちゃんなんだ…。

 目の前、アヒルちゃんの首じゃなければ、気を張って操舵する必要もないし、良い景色を悠々と見られるのになあ。


 仕方ないので左右の窓から外を眺める。


 冬とは言え昼過ぎの陽射しは明るく、水面を輝かせている。ときおり飛び出すのは、この湖に多く生息している蜻蛉魚だ。発達した胸鰭を持つこの魚は、勢いよく飛び出すことでしばらく胸鰭を広げて滑空する。歌鯨や大型の鱒から逃れるためにそういう機能を持ったと考えられ、フフノールの固有種。ちなみに、塩焼きが旨い。


 「なあ、ファン。あれはなんだ?」

 「ん?」


 歌鯨でも発見したかとクロムの指さす方向を見ると、そこにあったのは、歌鯨の白い丸っこい頭ではなく、明かな人工物だった。


 はっきり言えば、檻。

 人一人が横になれる程度の広さと、立っていられる程度の高さを持った檻が五つほど、湖面から突き出ている。

 …結構先だから、女の子たちの目に留まらないと良いんだけど。


 「さて、右をご覧ください!岸からも橋で結ばれておりますあの島には、ヘルカ神とウルカ神を祀る神殿と、我がアスランの大祖、開祖、五代を祀る三王殿がございます!毎月吾輩はかの神殿に詣でまして、舞を偉大なる双守護神に捧げております!」


 ジャワルの声に、乗客の視線は檻とは逆方向に向いた。そう言う気遣いはできるやつで、良かった。

 振り向いてみると、バチコンと片目をつぶってよこす。うざったいけど感謝するよ。


 「あれは、フフホト版の箱刑だ」

 「なるほどな。まだ生きてるやつもいるが…こっちのが甘くないか?水は好きなだけ飲めるだろ?」

 「そうでもない」


 箱刑は、アスランで最も重く、厳しく、残酷な処刑法だ。

 その名の通り、罪人は格子がはまった窓が一ヵ所だけ空いた箱に押し込められ、草原に置き去りにされる。

 その状態で十日生き延びれば無罪放免。ただし、その十日間、何人たりとも近付くことは許されない。


 十日後には、大抵格子から手をつきだし、息絶えた罪人が箱の中に入っている。


 手の届く範囲の草はむしり取られ、土は抉れ、自分の出した糞尿に湧いた蛆ですら食った形跡を、罪人の生死確認を行ったものは見ることになるだろう。

 

 ここフフホトでは、その箱刑を湖に浸した檻で行う。あの檻がある辺りは大きな棚岩があり、船の難所だ。知らずに進めば船底をぶつけて沈没を招く。陸地から近いし、棚岩の上に建てば水位は膝くらい。泳げなくても溺れることはない。

 けれど、すぐに助けが来なければ、夏でも冷たい水温は体力を奪い、立っていられ無くなれば膝をつき、やがて、倒れる。そうなれば、待っているのは溺死だ。


 『フフノールの檻』に入れられたものは、ずっと立ち続けていなければならない。

 力尽き、座ればさらに水温は熱を奪い、体力を削り取る。そしてずるずると倒れれば…水は容赦なく鼻や口から肺腑へと乗り込み、命の火を消し去る。


 それほどの刑を喰らうと言うのは、よっぽどの罪人だ。ちらりと技官をみると、興味なさそうに檻を眺め、肩を竦める。


 「暗殺者どもですよ」

 「暗殺者?」

 「ええ。ナランハルのお命を狙ってフフホトに入り込んだ暗殺者どもです」


 クロムの目許が険しくなり、それこそ斬って捨てそうな目で檻を見る。

 生きているのは、おそらく二人。一人はもう、格子に縋る体力もないようだ。辛うじて、引っかかっている、というところ。おそらく、日没前には他三人と同じく、ゆらゆら揺れる溺死体に変わるだろう。

 もう一人は、何とかまだ立っている。大きく口を開けて叫んでいるみたいだ…って、鷹の目、使っちゃってたな。

 視線を技官へ戻す。微かに感じていた痛みが引き、視界が切り替わった。


 「誤認ってのは…ないよな?」

 「私は詳しくはわかりませんが、きちんと『お話し合い』をした結果だそうですよ。その前に、密偵達がしっかりと裏を取っていたようです」

 「…そっか」


 やっぱり、狙われてたのか。俺。

 今まで欠片も兆候がなかったから、やっぱり俺如きを危険を冒してまで狙う馬鹿はアイツくらいなんじゃないかと思ってたんだけど。


 「当然の報いだな」

 「ええ。ナランハルを害そうなど、当然の報いです」

 

 …厳しい刑罰は、見せしめのためだ。

 暗殺者を雇った連中に「お前もこうしてやるぞ」という脅しだ。

 密偵が裏を取っているなら、雇った相手も分かっているはず。俺が生き延びれば「二太子暗殺未遂を公にされたくなければ、わかっているよな?」と告げることもできる。

 

 俺が殺されれば、そんな取引は使わない。親父も、兄貴も。

 間違いなく、雇い主は箱か檻に詰められる。雇い主だけではなく、その家族も。例え小さな子供でも、明日をもしれない年寄りでも。


 そんな悲劇を起こさないためにも、殺されるわけにはいかないなあ。

 遠ざかる檻をちらりと見て、強く、そう思った。  


***

 

 フフホトの街並と湖の絶景を眺めながら進んでいくと、アヒルちゃんの頭越しに大きな建物が見えてきた。


 全景は見えないけれど、よく知っている。

 湖に突き出るように建設された四階建ての城。これが、フフホトの行政府だ。

 ここで働く文官は二百人以上。消費する紙を運ぶため、十台の牛車が列を連ねるのは毎朝の光景。

 『ぴよちゃん号』は、すいすいとその中に設けられた船溜まりへと向かう。

 そこには大小いくつもの船が浮かび、先ほど俺たちの目の前を通過した中型船もあった。

 

 「えっと、止まるのは動力珠を完全に右に?」


 少し速度を落とすため、動力珠を動かしながら訪ねると、技官はにちゃりと笑いながら首を振る。


 「いいえ。信号が『進め』から『停止』に切り替わりますと、外輪の動きが逆回転いたしまして、速度を落とします」

 「うん。そう言うのはすごいと思うよ」


 技官の言葉通り、がこん、と揺れたあと、船の動きは目に見えて遅くなった。後ろから楽しそうな「きゃあ!」と言う声が上がり、「大丈夫です、少し寒い風はいりますよー」と騎士が呼びかける声がして、扉の開く音がする。

 さっきと同じように、屋根に上って舫い綱を投げるんだろう。


 位置が高いからよく見えないけれど、桟橋にはやっぱり紅鴉親衛隊が詰めているようだった。

 うん、よく見えないんだけど、なんか、網持っているのが複数いる気がするんだけど、気のせいか?そんなに俺、土壇場で逃げそうだと思われているの?

 

 「よし…いくか」

 「ナランハル!『ぴよちゃん号』の素晴らしさ、御理解いただけましたでしょうか!」

 「えっと…まあ…」

 「でしたら、開発予算の増額を!是非に!」

 「前向きに検討いたします」


 いっそ軍船より、遊覧船として開発した方が良い気がする。確かに全然寒くなかったし、これなら冬のフフノール遊覧もできるだろう。

 まあ、軍船の老朽化もまた事実だし、あー…仕事増えた…。


 扉から真っ先に階段を下ったのはクロムで、その右手はしっかりと剣の柄に掛けられている。暗殺者が実際に来ているってわかったからなあ。また、気を張っちゃうなあ。


 「おお、貴殿がナランハルの守護者スレンか!聞いていた通りの若者だな!」


 そのクロムに声を掛けたのは、もう一人の紅鴉親衛隊の百人長だ。

 彼の明るい笑顔と、さらにその後ろに控える大型の魚を掬う網を持った騎士たちに、さすがのクロムも気をそがれたようだ。

 馴染みの顔に手を振りながら俺も階段を降り、やや困っているクロムの肩を叩く。


 「ああ。自慢の守護者だよ。よろしくな…でもって、網、構えない。逃げないから」

 「ナランハル!千歳申し上げる!しかし、そうおっしゃられましても、昨年、目を離した隙にフフノールに飛び込んで泳いで逃げられましたからなあ…」

 「うん。あの時は冷たかった。夏でよかった」

 「…お前、そんなことしてたのかよ…」

 「どうしても確認したいことがあってな」


 満月の夜にしか卵を産まないコケカエルの産卵を見過ごしたくなくてな。その理由を言うと怒られそうだから言わないけども。


 「さて、ではナランハルと守護者殿は吾輩と共に。侍従官らはお客人らを離宮へと!」


 切れよくターンしながらジャワルが手を打ち鳴らすと、ささささっと男女の侍従官が近寄ってきた。


 「と・く・に!アーナプルナの青玉、地上の星たるユーシン殿下は丁重に!」

 「その馬鹿は一番雑に扱っていいだろうよ」

 「クロムは殴るが、言うことは正しい!俺は少々雑に扱っても壊れんぞ!」


 ユーシンは船旅が楽しかったらしく、上機嫌だ。すれ違う時にクロムに蹴りを放ったくらいで、おとなしくついていく。

 その風を切り裂くような蹴りを事も無げに避け、クロムは俺のやや後ろに着く。どこにだって行ってやろうじゃねぇか、と、硬質の無表情を浮かべた顔には決意が書いてあった。


 「では、ナランハル」

 「うん」


 居並ぶ騎士たちの間を通り、ジャワルに着いて歩き出す。行政府の中へと入ると、向かう先は…俺の執務室じゃないな?


 「どこ行くんだ?」

 「その旅装ではさすがに。最も美しいのは美少年の裸体であると吾輩、常々思っておりますが、そうでなければ少々服装にて修正いたさねばなりません」

 「いや、美少年でも服着せてあげなさいよ」


 角を曲がり、階段を登る。なんか、やけに人の気配がない。いつもなら、どこの部屋でも文官たちが忙しく仕事をしていたり、サボっておしゃべりに興じていたり、寝ていたりするはずだ。


 「こちらに」

 「あー…」


 連れてこられたのは、衣裳部屋。

 離宮まで戻って着替える時間がないときに、ささっと支度を住ますための部屋だ。

 普段なら、箪笥がちょいちょいと置いてあるだけの、殺風景な小さな部屋だけれど。


 今は、鬼気迫る表情の侍従官が十人ほど、その小さな部屋に待ち構えていた。


 「まずは御顔と御髪を!」

 「はい!」

 「さあ、ナランハル、守護者殿、こちらへお座りください!」


 手を引っ張られ、床几に腰かけさせられると、帽子が剥ぎ取られ、髪の編み込みが解かれる。間髪入れずに頭にかぶせられたのは、熱く湿った布だ。それでごしごしと髪が拭かれ、違う布で顔が拭かれ、櫛が終わったところから梳かしていく。


 「次!」

 「はい!」


 あれよあれよと言う間に、服が剥ぎられて違う服を被せられる。さっきまで着ていた暖かく軽い旅装に比べると、冷たく重い。正装だなあ。ついでに耳まで重くなって、耳飾りをつけられた事を知る。


 「ナランハル、失礼いたします。動かれぬように」

 「ん」


 す、と目尻に何かが触った。紅をさされたらしい。別にしなくて良いとおもんだけどなあ。


 「完了いたしました!」

 「ご苦労!」


 見下ろせば、来ているのは黒絹に金細工がふんだんに施された胡服デール。襟元や袖口には黒貂の毛皮があしらわれ、いつの間にか嵌められた金の腕輪が隙間からちらりと見える。

 内側に来ているのは、ツギをあてたシャツなんだけどねえ。肌着も繕ったやつ着ているし。

 素っ裸にされてそっちまで取り換えられるよりマシか。なんか焦っているから、時間がないみたいだしな。


 「クロム、似合うじゃないか」


 クロムが着ているのは、騎士の…それも、紅鴉親衛隊の騎士だけが纏うことを許される礼服だ。胡服なのは同じだけれど、デザインが俺が纏う服と同じで、そこから金細工と紅鴉の刺繍を除いたものになっている。


 「…もう少し、まともに着たかった気がするが…」


 本来なら、親衛隊への任命と共に下賜されるものだからなあ。

 こんなババババっと着替えさせられたんじゃ、感動も薄れるか。


 「でも、悪くない」


 それでも、クロムはちょっと照れたように笑った。悪くない、か。それならいい。

 守護者の儀式が終われば、正式にもう一度、下賜しよう。俺の手から、必ず。


 「では、こちらへ」

 「正装に着替えさせられて、何やるんだ?」

 「ナランハル。一日の始まりはなんであると」

 「へ?」

 「気持ちの良い挨拶から、善き一日は始まります!さあ!」


 湖を渡ってきた冷たい風が、顔に当たる。

 ジャワルが明けた扉の先は広間になっており、さらにその先、絨毯を渡った先の扉が全開になっていた。

 絨毯の両脇には騎士たちが並び、開け放たれた扉の先、露台バルコニーも槍を持った騎士が立つ。

 

 魚が泳ぐ様子が描かれた絨毯の上を、その魚を追う歌鯨のように進む。

 そのまま露台に出ると、全身を包んだのは風と冬の空気。そして。


 「ナランハル!」

 「ナランハル!」

 「ナランハル!」


 二太子おれのなを呼ぶ、大歓声。


 三階に設けられた露台から見下ろせば、行政府前の広場に詰めかけた文官と、次から次へと入ってくるフフホトの民たちの姿。


 「このフフホトの主が戻られたのです。挨拶をせねば」

 「ああ、うん。そうだな」


 止まない歓声に向けて、大きく手を振る。

 長らく不在にして、ごめん。

 何もせず、放り出していて、ごめん。


 みんなは、こんなにも俺を…待っていてくれたのに。


 「そうです。皆、ナランハルのご帰還をお待ちしておりました」

 「ジャワル…あ、文官長たちも…」


 ジャワルの後ろに控えているのは、フフホト行政府の各部門の長官たちだ。

 彼ら彼女らは恭しく一礼し…え、と、なんで、紙の束をもっているのカナ?


 「ええ、大変長らく…お待ち申し上げておりましたよおおお!!!」

 「今夜は月が沈まぬうちに眠れると思いめさるな!」

 「なあに、たったこれだけ、たったこれだけですよ!!」


 ヒィ、と言うくぐもった音が、俺の咽喉から漏れた音だと気付くより先に。


 「さあ、挨拶は終わりました。参りましょう、ナランハル!」


 両脇を、がっちりと文官長らに掴まれる。

 く、クロム!クロム、助け…。


 「まあ、身から出た錆ってやつだな。安心しろ。警護はする」

 

 絶望に打ちひしがれる俺の耳に、「やったーこれであの案件片付くぞー!」「仕事進むー!正月は実家帰れるう!」「年越し案件になって予算請求しなおしにならなくてよかったああああ!」と言う声が、歓声に混じって聞こえていた。


 教訓。

 仕事を、放置しすぎるのは、やめましょう。


 俺、今日は寝台で眠れるかなあ…。

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