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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
29/89

善き者と交われば月の光、悪しき者と交われば蛇の毒(朱に交われば赤くなる)7

 「ほんっとーに、動かないねぃ…」


 ファンの顔の前で手を振っていたヤクモが、感心二割呆れ八割の声を出す。

 その声も、全く耳に届いていないのだろう。視線は本の上の文字を辿り、あとは指先が頁を捲る以外、微動だにしない。


 「こうなるって、言ったろ」


 何をいまさら、と肩を竦めるクロムに、ヤクモだけでなくシドも苦笑しつつ頷いた。残るユーシンは驚きも呆れもせず、敷いた布団の上でころころと転がっている。

 クロムと同じく、ファンの生態には慣れている。わざわざ気に留める程の事でもない。


 予定を早め、出発は明日と決めたのは、一日かかった買い物の後。

 離宮に戻ると、「ナランハルがサライにいるという噂が流れている」という報告がファンたちを待っていた。

 できれば何事もなく…とは思ってはいたが、予想できなかった事態ではない。

 逆にもう少しサライにいると見せかけて、さっさと出発する方向で行こうと、夕飯前の話し合いで決まった。

 暗殺者が狙ってくるかは不明だが、目晦ましは多い方が良い。

 気象学士の予報でも、しばらくは晴天が続くようだと言う事だし、さっさと次の目的地、フフホトを目指そう…そう結論が出るまで、茶を飲みきるほどの時間もかからなかった。

 

 フフホトへ向かうのは、ファンたち一党にナナイ、そして神官たちとエルディーン、レイブラッドのみ。祖父ちゃんは一緒に行かない?と尋ねるファンに、バトウは笑みを浮かべて首を振った。

 この年で長旅はしんどい。転移陣で先に行っておるゆえ、必ずまた余に顔を見せるのだぞ…と孫の肩を叩き、旅の無事を祈る。

 二太子がそう決め、先王が頷いたのなら、反対する者はいない。名残惜しいと泣く老将を慰めながら夕飯を終え、湯浴みを済ませ、そして今に至る。


 魔導具の、少し青みがかった灯に照らされたファンの居室には、夕飯を取っている間に布団が敷かれていた。

 けれど、まだ月が昇り始めたばかりの宵の口。寝るには惜しく、かと言って有意義なことを始めるような頃合いでもない。

 布団の上でおしゃべりをするか、読書に没頭するか。

 そんな貴重な時間を、一行は思い思いに楽しんでいた。


 「ファンは本を読み始めるといつもこうだ!」

 「でも、すっごい速さで読んでいるから、ぼくらと一緒に寝る感じだね」


 一冊だけ!の懇願で選ばれたのは、当然のように辞典である。何の辞典かは不明だが、胡麻粒のような文字が、ひたすらに精緻に描かれたトカゲやイモリを囲んでいるのは見えた。

 殴れば人を殺せる分厚さだ。非力なものは支えるだけでも重労働だろう。

 

 「どーせ、この部屋にある本なんざ、全部頭に入ってんだろうになあ」

 「新しい本じゃないんだ?」

 「買うやつがいねぇのに増えないだろ。まあいい。ほっとこうぜ。たまにはコイツにも娯楽が必要だ」

 「こんな分厚い本を読むのが娯楽なのは、ファンくらいだがな!ユーナンだってこんな本は読まん!」

 「大学っつう魔境には、クソほどいるぞ」

 「大学かあ…ファンがいたとこだよねぃ。興味はあるけど、近付きたくないなあ。それよりさ、次に行くフフホトってどんなとこ?湖の畔の街で、お塩が特産品って言うのは聞いたけど」


 ヤクモの視線は、クロムとシドを往復していた。

 その視線を受けて、シドは期待に応えられないことに少々申し訳なさを感じつつ、首を振る。


 「俺も行ったことがないから、わからん。名は、聞いたことがあったような、ないような…」

 「そっかあ」


 だが、ヤクモは特に残念そうでもなく頷いた。元々、あまり期待をしていなかったのだろう。そもそも、自分が住んでいる街以外には詳しくないのが普通である。

 その「普通じゃない」情報を持っているから旅商人や傭兵は歓迎され、警戒されるのだ。


 「俺も行ったことはねぇが、話は聞いたことがある」


 残るクロムは、シドよりは詳しいようだ。しかし、主の所領とは言え、赴いたことはないらしい。

 それでも知識があると言うのなら、そこそこ有名な街なのだろう。


 「有名なもんが二つあるからな。一つは夏至の大花火だ」

 「はなび?」

 「でっかい火薬玉を打ち上げて、火花で模様を空に描くんだよ。夏至の日に湖の上で打ち上げる。フフホトのは特に見事なもんらしい」

 「ふええ~」


 火薬はカーラン皇国で発明されたものだ。

 アスランの攻城兵器には、火薬玉を城門や城壁に打ち込んで砕くものもあるらしいが…シドは見たことがない。


 だが、花火なら年始の大都で打ち上げられたのを見た。

 夜空に煌めく一瞬の華は、星よりも明るく、色鮮やかで。

 打ち上げの轟音と、観衆の新年を祝う歓声は、思いだせば口許が綻ぶ。


 一緒にそれを見た、大都で得た友人の顔、そして、彼の家の屋上で食べた、新年を祝う料理の味も舌によみがえって…満腹のはずの腹が少し切なくなった。

 友人の祖母をはじめとする面々が作る料理の味は、大都で五指に入ると言う評判だ。決して誇張ではない。戻ったら絶対に食いに行かねばと固く決意する。

 その時、この面子で行っても問題はないはずだ。 


 「花火か!見たことがあるぞ!そうか!なら、俺はフフホトに行ったことがあるな!たぶん!」

 「花火はフフホトでしか上がらねぇもんじゃねぇからわからんが、キリクと関係の深いとこみたいだしな」

 「そんなすごいの見たなら、覚えときなよう。見てみたいなあ。ぼくも」


 うっとりと視線を天井へ向けるヤクモは、どんな「花火」を想像しているのだろうか。新年の花火なら見れるぞ、と言おうとして、口を閉じておいた。いきなり見せたほうが、印象に残る。

 そう思ったのはシドだけではないらしく、クロムもユーシンも新年に大都で打ちあがる花火について何も言わなかった。代わりに口にしたのは、話の続きだ。

 

 「夏至前後は宿の値段が三十倍くらいになるそうだがな。で、もう一つは『迷宮』だ」

 「『迷宮』?」


 食いつくような声に、クロムの片眉が上がる。

 その不審げな顔に、シドは軽く手を振った。自分を落ち着かせるためにも。


 「あ、いや…すまん。アスランに『迷宮』があるとは知らなかった」

 「たしか、四つあるぞ。つっても、人が入れるのは一つだけだがな」

 「そなの?フフホトのは?」

 「入れん。入れるのは、オルゴイ・ホルホイどもがうじゃうじゃいる無漠ゴビにあるやつだけだ。まあ、辿り着くだけで一番近い町からも十日以上かかるらしいが」

 「冒険者が頑張るのぅ?」

 「ギルドみたいなもんはないな。その周辺に住んでいる遊牧民ですら、足を踏み入れるのは春と秋の短い期間だけっつう、クソみたいなところだぞ。無漠は」


 夏は汲んでおいた水が沸騰するほどの熱射。冬は飛竜ですら凍死するほどの極寒。

 『迷宮』のある中心部は水場もなく、遊牧民の案内がなければ近付くこともできない。頻繁に起こる砂嵐は目印を隠し、地形を変え、巻き込まれればそれ自体が命を奪う。

 さらに、オルゴイ・ホルホイをはじめとする魔獣が獲物を探して徘徊し、夜には遭難死した亡霊たちが出口を求めて彷徨う。

 そんなところにある『迷宮』に、わざわざ挑む馬鹿はいない。どれほどのお宝を手にしたところで、生きて帰れなければ意味もない。


 クロムの語る無漠は、『迷宮』以上に怖ろしいところに思えた。

 

 「で、フフホトの『迷宮』は湖の底に入り口がある」

 「あ、それは入れないね」

 「まあな。だが、フフホトの潜り手達は夏でも鳥肌が立つような湖の底に潜って、水晶やら紅玉やらが入った籠を、『迷宮』の中に入れてくる。で、翌年引き上がれば、運が良けりゃいくつかは魔晶石になってるそうだぜ」

 「でも、冒険者は入れないねぃ」

 「そりゃあな。それでも『水中呼吸』なんかの魔導使って入ろうとした奴はいたらしいが、出てきた奴もいない」

 「他のもそんななの?」

 「らしいぜ。火山の火口の中にあるとか、崖の途中にあるとかで」

 「…アスランは、『迷宮』の富に頼らずここまで発展しているんだな」

 

 呟いた言葉に、クロムが偉そうに頷く。


 「ったりまえだ。アスランの栄光と繁栄はンなもんに頼ったりしない」

 「なんでクロムがドヤるのさ…」

 「アスラン人はこういうヤツが多い!世界とはアスランの事だと思っているからな!」

 「その通りだろうが」


 実際、アスランの西の果てであるこのサライでさえ、驚くことばかりだ。

 百花回廊市場もそうだが、どれほど細い路地もしっかりと舗装され、雨水を流す溝が掘られ、その上には穴の開いた蓋石が被さっている。

 そんな街は、世界にも多くはない。表通りがそうであったとしても、裏路地は土がむき出しになり、雨水は汚泥となって壁にへばりつき、悪臭を放つ。

 だが、アスランはよほど小さな村や遊牧民の居住地を除き、田舎の町でも一定の規格で舗装され、石畳も溝も、崩れたり穴が開いていればすぐさま補修される。

 

 野蛮な馬賊の国、と聞いていたシドは、最初はかなり面食らったものだ。

 とは言え、一月もすれば納得したが。まさに座布団の穴より靴の穴。己の目で見れば、どれだけ本で読んでも話を聞いても分からなかったことも、あっさりと理解する。


 公路に隊商が絶えることはなく、運河に船の帆が膨らまない日もない。

 間違いなく、シドが今まで見た国々の中で、アスラン王国は最も栄えている国だ。

 故郷も交易でにぎわう港湾都市であったが、それでも人の数も流れていく商品の量も桁が三つ四つ違う。

 当然、富は湯水のように湧き出し、さらに快適に、人を増やすために使われる。


 それは、アスランの開祖に仕えた大宰相の方針なのだそうだ。

 ウー・グィという、現在胡散臭い軍師に名前を拝借されているその御仁は、軍師と同じく違う世界からやってきたのだという。


 彼の方針は『富国強兵』。


 国が富まなければ兵は強くならず、また、富んだ国を守ろうと兵は強くなる。

 国力を削り、民の暮らしをおろそかにして兵を揃えることは亡国への道であり、王として絶対に進んではならない道であると、開祖に説いた。

 

 アスランは良くも悪くも、開祖の遺訓を何よりも尊重する。

 途中断続の危機には瀕したが、開祖より数えて八代、そして九代目もその方針を変える気はなく、今に至っている。


 その結果が、アスランの民が誇らしげに口にする「大アスラン」という名だ。

 故郷を亡くし、ひたすらに東へと歩き続けてきたシドにとって、隠さない国への誇りは少し眩しい。

 

 いつか、自分も「大アスラン」と誇らしげに口にする日は来るのだろうか。


 故郷に帰るつもりはない。

 望郷の念よりも、荒れ果て、廃墟となった生まれ育った街を見る恐怖が上回っていた。

 このまま、アスランで傭兵として一生を終える。

 それが出来ればいいと思う反面、戻らなければ、と呪詛のように吐き出す幼い自分もいる。

 冷たい手が臓腑を触り、心臓をひっかく。 


 なんでかえらないの?

 おおきくなったのに。つよくなったのに。

 ねえ?

 

 「アスランにはさ、冒険者っていないのぅ?」

 「いないとも言えるし、いるとも言えるな。『迷宮』をせめるやつはいねぇが、何でも屋はいる。冒険者とは言わないが」

 「あー、ぼくらみたいなお仕事してる人はいるんだねぃ」

 

 冒険者。

 その響きに、シドはびくりと思考から頭をもたげた。

 視界が鮮明さを取り戻し、のんびりとだらける三人と、相変わらずハイペースで本の頁を捲るファンの姿が映る。


 冒険者。

 その響きは、国と共に死んだ幼い自分の亡霊ですら、惹きつける。


 「冒険者、か。なりたかったな」


 雫が滴るように、その声は思考と関係なく口から零れていた。

 特に変な事ではなかったとは思うが、慌ててシドは手を振る。集まる視線は咎めているわけでも、馬鹿にしているわけでもない。だが、それでもなんとはなしに頬に血が上る。

 

 「あ…その、大した意味はない。俺の生まれは西のセス王国と言う国だ。セスには、『白の迷宮』という『迷宮』があり、冒険者が大勢いた。そんな国で生まれ育てば、大抵の子供は冒険者を夢見る。その程度だ」

 

 シドの視線は、誰とも噛み合うことなく自分の手に落ちていた。

 傷痕が走り、剣胼胝のできた手。その手は、彼がたゆまなく剣を振り、戦ってきたことを示している。

 だが、剣を振う先は『迷宮』に巣食う魔獣共ではなく、人間だった。


 自分シドは冒険者ではない。

 金で剣を振う、傭兵だ。

 

 「セスは、俺が八つの時に攻め落とされた。今、どうなっているかもわからん。『白の迷宮』はおそらく封じられていると思うが…」

 「封じる?」

 「『白の迷宮』はセスの街のはずれにあり、管理されていなければ中の魔獣共が出てきてしまう。だから、セス王家が毎朝行う儀式が三日途絶えると、仕掛けられていた封印が発動して入り口を閉ざす…そう聞いている」

 「そこの冒険者どもはいい迷惑だな。飯の種がなくなる」

 「そうだな」


 脳裏に甦るのは、緩やかな弧を描く入り江。

 紺碧の海面を覗き込めば珊瑚に彩られた海底が見え、色鮮やかな魚が行き交う。僅かに黄色味を帯びた白砂に打ち寄せる波は銀に煌めき、その波音は海妖精セレーナの笑い声だと言われていた。

 変わり者の叔父に連れられて、姉と一緒に砂浜を掘って蟹や貝を探したり、浅瀬で魚を追った記憶。


 不思議だ。

 いつもは、故郷を思い起こして出てくるのは、黒煙と赤い空なのに。

 亡霊の冷たい手と、尖った爪はもう心臓に取り付いていない。

 

 今、思いだすのは、子猫を掌に載せているような…くすぐったく、暖かい幸せな時間。その、二度と戻らない時間への、懐かしさ。


 だからなのかも知れない。

 いつもなら、その記憶の欠片が現れれば、全力で追い払っていた。時には酒精の力や女の肌を借りてでも見ないようにしていた思い出を、もう少し、もう少しと辿る。


 姉と二人で見つけた綺麗な貝殻は、いつだって小さな妹へのお土産にした。

 お土産の貝殻は毎回変わり映えがしなかったけれど、妹はいくつだって欲しがって、母からもらった綺麗な箱に大切にしまっては満足げに笑っていた。

 ちゅぎはいっちょにいく!と固い決意を表明する妹に、兄が人参が食べられるようになったらなと笑い、父がエンドウ豆もと付け加え、母がそれなら生のトマトもね、と締めくくる。

 癇癪を起して手足をバタバタさせる妹を姉が抱き上げ、おむつが取れたら母様に許可をもらってやろうと宥めて。


 妹は、結局一度も一緒に行かなかった。

 叔父が亡くなった後も、姉とシドは度々入り江を訪れていた。次の夏が来たら、あの子も連れてこようと言っていたのに。


 次の夏が来る前に、妹は燃えてしまった。

 

 その日、たまたまシドとガラテアは、湾に浮かぶ島に築かれた大海の主(ダロス)の神殿に詣でていた。

 何艘もの船がセスに向かって行くのも、別におかしい事とは思わなかった。オーディア五都連合の都市を、大型の船が行き交うのは日常の光景だ。

 もっとも外海に近いクラナッハ王国の船団がまっすぐにセスを目指していても、誰もおかしいと思わなかっただろう。

 

 その船団から数百の火矢が無造作にセスの街に撃ち込まれるまで、誰も。


 あとから聞いて、それと同時に陸地からもクラナッハ、カルガナの二ヶ国の兵がセスに攻め込み、民も商人も…それが自国の商人であっても…見境なしに殺し、王城へ突き進んだことを知った。

 セスの騎士団、守備兵は完全に虚を突かれ、組織だった抵抗もできないままに壊滅したらしい。

 それはそうだろう。オーディアは兄弟の国…国名は初代王の名前で、彼らは兄弟だ…、堅い結束で結ばれた仲間だ。

 その家族も同然の国が、突然攻め込んでくるなど思いもよらない。

 どれほど精強な騎士団であっても、完全な不意打ちにどれほど耐えられるものか。


 シドはガラテアと共に、故郷を覆いつくす黒煙を、空を染め上げる不吉な赤を、ただ見ている事しかできなかった。

 

 気を失ったわけではないだろうが、シドの次の記憶は「今日から俺が、お前の父だ」と視線を合わせて言い聞かす、義父ちちの顔まで飛んでいる。

 姉に聞いて、神殿から小舟で海を渡り、オーディアを脱出した事、五都市連合の残る二国、ゼネスかノークへ向かおうとしたが、果たせなかったことを知ったのは、随分たってからだ。


 追手に追われ、逃げに逃げて、ひたすら東へ。南フェリニスからアスランへ、西方から東方へ渡る時には、姉と二人だけになってしまっていたけれど。

 

 「冒険者…か」


 幼い頃の夢だ。

 家督は兄が継げばいい。自分は身体を鍛え、腕を磨いて冒険者になるのだ。

 信頼しあう仲間パーティと共に『迷宮』に挑み、魔獣を打ち倒して宝を持ち帰るのだと、無邪気に描いていた夢。


 封印されたのは、『白の迷宮』だけではない。自分の夢も、セスの滅亡とともに消えた。

 そう、思っていた。


 「んー…それじゃあさ」


 掛けられた声に、シドは顔を上げた。

 ぱたん、と音を立てて本を閉じ、満足げな表情を浮かべたファンが、その視線を受け止める。


 「ちょっと趣旨は違うけど、俺らと一緒に冒険者やってみない?」


 無造作に投げかけられた言葉に、シドは目を瞬かせた。

 今、なんと言った?

 

 「…え?」

 「『迷宮』には近寄りもしないし、やってることはトカゲ駆除ではあるけれど、一応冒険者ギルドに登録された冒険者だし。

 あー…やっぱり灰色丘陵はもうちょい調査したいなあ!できれば初夏あたりに!」

 「行かせねぇっつったろ…で、こいつをスカウトすんのか?」

 「間違いなく兄貴が払うより報酬は少ないし、宿はちょっと…なんというか、癖のあるおっさんが経営しているボロ宿だけど。どうかな?」


 ファンの顔は穏やかに微笑んでいるが、けっしてシドを慰めるための台詞ではないだろう。

 第一、ファンはシドを慰めなくてはならないと思っているはずがない。知らないのだから。

 亡国セスがシドたちの故郷であることは、叔父の姓から推測し当てたが、何故シドたちが母方の姓を名乗っているのかまでは知らないはずだ。

 それを知っているのは、トールとあの胡散臭い軍師のみのはずである。

 

 いや、とシドは思い直した。国が滅ぼされるのは十分な悲劇だ。その亡国の生き残りを慰めるのはおかしなことではない。


 だが、それでも。


 ファンの誘いは、決して慰めるためだけの、社交辞令ではない。

 短い付き合いだが、そんなものを口にするような男ではないと、わかっている。

 たぶん口にするなら、もっとズレた、とんちんかんな慰めになる。なんとなくわかる。


 「いいじゃん!シドがいればクロムとユーシンへのツッコミが楽になる気がするし!」

 「俺も賛成だ!これからも手合わせが出来るという事だろう!」

 「クロムはどう思う?」


 主の問いに、クロムは僅かに口をへの字に歪め…それから偉そうに腕を組んだ。


 「別に良いんじゃね?なんかあった時、俺と馬鹿がお前の傍を離れても、二人残るのは悪くない。逆に、馬鹿とコイツを斥候に出して俺が残ることもできるしな」

 「そだな。戦士、男がまた一人増えるのも、うちのパーティっぽいって言うか、既定路線というか…まあ、シド次第だけどね」

 「冒険者…」


 冒険者。

 幼い頃の夢。あの時思い描いたように、『迷宮』には挑まないけれど。

 仲間と共に、冒険へ。


 「あー…それにあたっては、もう一つ、言っとかなきゃなんないことがあるな」

 「言っとかなきゃなんないこと?ファンがアスランの王子だってこと以外にもか?」

 「兄貴から、どこまで聞いてる?ユーシンの事は…」

 「キリクの王子だろう」

 「クロムとヤクモについては?」

 

 ふるりと首を振る。正確には、「ものすごく態度がでかくて生意気な守護者スレンと、頑張る少年がいる」とは聞いているが、その程度だ。


 「あー…クロムはユーシンのはとこで、クトラ王家の血を引いてる。んで、ヤクモは…」

 「ぼくもねぃ。シラミネの王子…らしーんだよね。いちおー。だけど、育ったのは別の国だし、ぜんっぜん実感ないんだけどね」


 さらっと言われたことに、さすがにシドは目を丸くした。

 なんという一党だ。全員、王族とは。

 確かに世の冒険譚では、石を投げれば冒険者に扮した王子に当たるのではと思えるほど、ありふれているが。


 実際にいるとは、思わなかった。

 

 「あと…まあ、今のことも、これから見ることも、他言無用でお願いしたい。兄貴たちはもちろん知っているけどね」


 ファンが差し出したのは、本の頁を捲っていた右手。

 その掌は、大国の王子とは思えないほど使い込まれ、硬く荒れている。剣を握って振るってきたというより、農夫のそれに近い。

 

 「…!」


 その掌に浮かび上がる、灯の様な模様。


 「これは…まさか…」

 「そ。灯の刻印。とはいっても、魔王だの邪神だのは今んとこいないから安心してくれ。俺の役目は、華々しくそう言うのを斃すんじゃなくて、企みを潰すことだから」

 

 灯の刻印。強大な魔と戦う為に英雄の守護神マースより授けられる、特別な印。

 灯を授かった英雄たちの物語は、当然幼いシドの大好きなものだった。


 その灯の英雄が、目の前にいる。


 亡命を求めたら、いきなり一太子が「話を聞こう」と傭兵宿に乗り込んできたときくらい、びっくりした。

 だがしかし、これだけ王族が集まる一党がいるのなら、その頭目が灯の英雄…とはまだ呼べないが…でもおかしくはないのかもしれない。

 どっちにしろ、ありえないことだ。なら、それが重なるのは…一周回って、ありえるのかも?しれない。そう納得する。 

 

 「企みを、潰す…」

 「うん。黄昏の君の暇つぶしをね。アステリアであったことを教えるから、それを聞いてどうするか考えてみてくれ」

 「待て。お前に語らせたら夜が明ける。あの変な蜂のバケモノの説明だけでな」

 「え…いや、そんな…」


 視線が床に落ちてうろうろと彷徨うのに、クロムは大袈裟に舌打ちしてとどめをさした。主の返答を待たず、口を開いて物語を紡ぐ。


 「黄金月の夜アルタンサルン・ハラムあたりにな…」


 薬草取りに行ったまま帰ってこない冒険者。

 突然の女神のお告げ。

 ナナイの依頼で、満月花を取りに向かったマルダレス山で待ち構えていた、いるはずのない魔獣。

 狂気の魔導士と、その研究。


 そして、異形と化したドノヴァン大司祭。


 「まあ、そんなことがあったんだよ」


 そんなこと、で終わらせるにはずいぶんと一大事だが、乗り越えられた危機は「そんなもの」なのだろう。

 武勲を誇るでもなく淡々とクロムは語った。


 「大変だったよねぃ。ユーシン大怪我しちゃうし、ぼくもおしり超痛かったし!」

 「片手片脚が折れただけだ!大怪我ではない!」

 「普通に重症だと思うんだけどなあ…まあ、そんなわけで、俺らと冒険者になると、もれなく万魔王の眷族との戦いが付いてきますが、どうだろ?」

 「そうだな…」


 それは、間違いなく命懸けだ。

 だが、幼い頃に思い描いた冒険者は、命の危険などない、安心安全な立場だったか?


 違う。

 危険を冒す者。それが、冒険者だ。


 『迷宮』に挑むのも、万魔の王に挑むのも、危ないという点では変わりない。

 一歩先へ足を踏み出した瞬間、天井と床がせり出して潰されるかもしれないのが『迷宮』だ。理不尽な死を恐れるようなら、元から足を踏み入れるなと言われておしまい。それなら。


 万魔の王、その眷属に挑み。

 万魔の王、そのものに立ち向かうのも。

 大して、変わらない。


 あの日。故郷と共に燃えてしまった幼いシドが、そっと袖を引く。

 その顔を見れば、きっと。

 今の自分と、同じ眼をしている。

 亡国へ誘う死霊ではなく、明日を語る生者の眼を。


 『迷宮』に挑むだけが冒険ではない。

 己の力量を信じ、仲間を信じ、この手で奇跡を起こす。

 

 生き延びるために、強くなった。その強さを。

 もう少し、違う事の為に。

 幼い頃の憧れを、夢を。

 それを実現するために振っても…その先を目指しても、良いんじゃないか。

 

 そうして、懸命に今日を生きていればいつか。

 いつか、怯えずに過去に向き合える気がする。

 その時、故郷へと足を向けるか、別の事をするかはわからないけれど。


 黒煙と赤い空ではなく、波打ち寄せる入り江と、砂浜を思いだせるようになる…そんな気がする。


 どちらかと言えば不愛想で、人に馴染めない自分が、こんなにも無防備に間抜けな顔をさらけ出せしているのは、間違いなく、ファンたちを『仲間』と思っているからだ。

 

 挑むべき冒険があり、信じられる仲間がいる。

 それなら。


 「…俺は、冒険者になりたい」

 「うん」

 「ただの傭兵上がりの戦士だが、よろしく頼む」

 

 ぐ、と握った拳をつきだすと、ファンの拳が当てられた。ほのかな熱を感じるのは、その拳の中にある灯のせいか。


 「やったー!シド、これからもよろしくねぃ!」

 「トカゲの肉は美味いぞ!食わせてやるからな!」

 「言っとくが、俺が先輩だからな。年上だからってでかい面晒すんじゃねぇぞ?」

 「…ほんとにお前は、何と戦ってるんだ」


 仲間。仲間か。

 いい響きだ。幼い頃に思い描いた仲間は、魔導士もいれば神官もいて、決して戦士ばかりではなかったけれど。

 戦士、男ばかりの一党に、さらに戦士を加える。バランスが悪いことこの上ない。

 既定路線だとファンは笑ったが…それならもう一つ、「またか」を加えても良いだろう。


 「改めて、名乗る」


 あの日から、ずっと、口にしなかった名前。

 シド・ライデンの方がずっともう、馴染んでしまってはいるけれど。

 なんとなく、黙っているのは嫌だった。

 冒険の仲間に隠し事はなしだ。他に何か、皆隠し持っているのかもしれないけれど。

 それと、自分が「隠す」のは全く別の話。

 俺は、仲間に隠し事をしたくない。だから。

 

 「ニキアス・エルンシド・セス・アンテドゥス。シドと呼んでくれ」


 この世でもう、姉からしか呼ばれない名を、告げる。


 「セス…って、もしかして…」

 「亡国セスの第二王子だ。つまり、驚いたことに姉さんはお姫様、と言うわけだ」


 見た目だけなら、あれ以上『お姫様』らしい人は見たことがないけれど。

 仲間たちの顔が微妙な表情になるのを見て、シドは口角を上げた。


 「その顔をしたからには、共犯ナカマだからな。姉さんには黙っていてくれよ?」


***

 

 サライよりさらに東を目指す度は、拍子抜けするほどに順調だった。

 天候にも恵まれ、サライを出て三日目に少々小雨に降られたものの、降り始めたのは宿泊予定の街目前だったため、行程に影響を及ぼすこともない。

 

 街道は荒れることなく整備され、行き交う旅人の姿が途切れることもなく、また、休憩できる茶屋や宿場町が完全に視界から消えることもない。

 賊や魔獣…さらには暗殺者の襲撃など、影も気配すらもなく、一行は徐々に寒さを増すとは言え、穏やかな晩秋の街道を東へと進んでいった。


 とは言え、冒険者たちはともかく、神官たちの顔に疲労の色が見え始めていた。

 どれほど快適であっても、旅はやはり非日常だ。高級な宿の寝台よりも、薄く軋みを上げる自分の寝台のほうが疲れは取れる。

 

 それでも、ファンは同じ町で二泊以上の滞在を提案しなかった。

 幸い、寝込むほどの疲労ではなく、発熱や激しい嘔吐や下痢などの症状もない。

 それならば、予定通りフフホトまで踏破して、しばらく休んだ方が良い…そう判断したからである。

 もちろん、今日は一日休みたいという要望があれば拒むつもりはなかったが、誰からもその声は上がらなかった。

 

 地平の彼方まで続く道。

 時折その道を塞ぐ、百頭以上の羊の群れ。

 群れは羊だけではない。牛や山羊はもちろん、生きた駱駝を初めて見た時には、大きな歓声が上がった。

 駱駝飼いの少年がそれを見てケラケラと笑っていたが、それでも感嘆の声は止まらない。


 そうした旅の光景が、先へ先へと心をいざなう。

 

 やがて進行方向右手に、守護双神の住まうアーナプルナの山並みが見え始めてくると、肌を触る風は急に冷たさを増した。

 それだけではなく、平坦だった道は緩やかではあるが上り坂になりだし、体力をじわりと削る。


 サライを出て九日。

 一行が足を止めたのは、今までとはまるで違う、あきらかな上り坂の手前だった。


 「この坂…『フフノールの縁』を上りきれば、もう到着だよ」


 ゆっくりと弧を描きながら続く坂道を、ファンは分厚い手袋をはめた手で指さした。

 すでにアステリアから持って来ていた手袋では指先が冷えてしまって役に立たず、サライで新たに購入した手袋に変えている。


 「さすがに馬の負担が大きいから、ここは徒歩だ。具合が悪い人はいるかな?」

 「すっごいきっつそうだけど、頑張るよ」

 「どーしても駄目になったら言ってね?ナナイ。アスター様に御業をお願いするから!」

 「これ、さすがにそんなことでアスター様に縋ってはいけませんよ」

 

 ロットの声に「はーい」と少女たちの声が重なる。その無邪気な光景に、同じように坂の手前で立ち止まる人々の疲れた顔にも笑みが浮かぶ。

 やはり、誰から見てもこの坂は厳しい。旅慣れた様子の隊商たちも、近隣の村に住んでいると思われる地元民も、一気にそのまま坂へと突入はしないようだ。

 そして、そうやって人が溜まるなら、必ずそこに茶屋なり飯屋なりがあるのがアスランである。


 坂の手前には、宿駅ジャムチがあり、その敷地に添って茶や軽食を売る屋台が並ぶ。

 枯草の上に絨毯を敷いた休憩所もあり、坂を眺めながら英気を養う旅人たちが座っていた。


 「ファン!」

 「わかってるよ。このまま行くのはさすがにしんどい。いったん、昼休憩にしよう。けど、お腹いっぱい食べるとこの後がきついから、軽くな。うちの連中にはそうしろとは言わないけど」

 「当たり前だ!腹がすいたらいっぱい食うものだ!」

 「ぼくは満腹まで食べないよぅ。お腹痛くなりそーだもん」

 「まずは馬の汗を掻いてやろう。その辺でいいかな」


 馬をつなぐ杭などもあるが、ここはアスランだ。そしてファンは、生粋の遊牧民である。鞍を外し、馬車馬も軛から解いてやった後は、そのまま好きにさせた。


 手綱も鞍も外されたというのに、馬たちは駆け散ることもなくまとまって汗を掻かれるのを待っている。

 エルディーンとレイブラッドの愛馬も、神殿の馬車を牽く馬たちも同じようにしていた。

 今、ファンたちが乗っているのは、クリエンから乗ってきた馬ではなく、ココチュが連れてきてくれた自分たちの馬だ。ただ、シドが乗る馬だけは引き続き紅鴉親衛隊の軍馬である。

 

 だが、馬たちの頭目はファンの乗る流星栗毛と認めているようで、特に諍いを起こす様子はない。アスラン馬は気性が荒いことで知られるが、それは人間相手のことで、馬同士はすぐに打ち解けて仲良くなるのも特徴だ。

 種類の違う神殿の馬も、エルディーンたちの愛馬も、すっかり群れの一員として馴染んでいた。


 汗を掻いてもらった馬は、まるで手綱を引かれているかのように人のいない草地へと歩いていき、のんびりと草を食み、寛ぐ。

 同じように自由にしている馬たちと鼻を突き合わせて挨拶したり、我関せずでころりと転がったりと逃げる様子はない。


 もっとも、逃げたとしてもすぐに呼び戻せる自信が、当然ファンにはある。そんなことはしないという自信の方がより大きいけれども。

 正直、馬よりもよほど人の方が御しにくい。

 頼むから屋台の料理を食いつくして店じまいさせました、なんてことはしないでくれよと内心に呟きながら、駆け出したユーシンの後を追って、屋台の方へと足を向ける。


 「このへんって、どんなご飯たべるのぅ?」

 「そば粉と小麦粉を混ぜたものが主食だな。それを練って具を包んで焼いたり、水で溶いて薄く焼いていろんなものを挟んだり」

 「美味しそうじゃん~!」

 「屋台が結構あるってことは、そこそこ美味いってことだ。まずけりゃ誰も買わん。一件しかない屋台はまずいわ高いわでやりたい放題になるからな…」

 「ここの屋台は美味いよ。なにせ、場所代が結構高い上に、数の制限があるからな。売れないとすぐに追い出される」


 絶対に客が来るとわかっている場所なのだから、それは当然だ。夏になれば近くの村人が瓜や桃を売りに来るが、今の季節はそれもない。残るは、高い場所代を支払ってもなお儲かるレベルの店だけである。


 「お、焼餅ハリコシが焼きたてだ。数もあるし、あれにしようか」

 「いいな!焼餅は好きだ!」

 

 丸い鉄板にぎっしりと並んだ拳大の焼餅が、ふっくらと焼き色を付けて食欲をそそる匂いを立ち上らせている。店主はちらりとファンたちを見ると、よく似た色に日焼けした顔へ、満面の笑みを乗せた。

 

 「兄さんどうだね?全部で30個ある。全部買うならまけとくよ!」

 「中身は?」

 「油菜の炒めが半分と、豚肉のマサラが半分だ!」

 「油菜炒めの焼餅、美味いんだよなあ。よし、買おう!」

 「ありがとよ!で、だ、そうなりゃちょっと咽喉も潤したいよな。俺の弟がそこで酒と茶を商っていてね…」


 しばしのち、屋台の主人の妹がやっている休憩所に、一行は腰を下ろしていた。

 大きな真鍮製の皿の上には笹の葉が敷かれ、その上に焼餅が重なっている。具によって皿を別けてくれたので、この中身は何だろうと思いながら齧り付くことはない。


 「お待ちどうっ」

 「ありがとう。置いてくれ」


 さらにやってきたのは、薄い生地で何かをくるりと巻いた料理だ。焼餅と違って湯気を立ててはいないが、生地の柔らかさから冷たくもないことが伺えた。


 「これは何ですか?」

 「ポーポーと言います。薄い生地で餡をくるんだお菓子ですね。クロム、好きだろ」

 「お前にしては珍しく気が利く。ありがたくいただくぞ」

 「大都でよく食べたけど、ほんとはこの辺の料理なの?あのね、美味しいんだよ、これ」


 クロムとナナイが真っ先に手を伸ばし、少女たちもそれに続く。先にお菓子を食べるんですか、とロットが呆れたが、興味が勝ってしまったのなら仕方がないだろう。


 「ポーポー食べて焼餅食べて、またポーポーって言うのは甘いしょっぱい甘いの理にかなった食べ方ですから」

 「中の餡なんだろ~」

 「林檎の甘露煮か、栗の甘露煮か、甘藷の甘露煮だ」

 「どれも見た目は同じだし、どれでも美味しいね!あ、これ甘藷だあ」

 「私の、りんごみたい!」

 「わわ、初めて食べる!何これ、美味しい!」

 「栗ってこんなに甘かったっけ?」


 口々に上がる歓声に、ポーポーの屋台へと足を向ける人の数が増えたようだ。

 そんな光景を見ながら、焼餅を齧り茶を啜る。酒も随分と勧められたものの、何とか断ることが出来た。

 酒精を帯びた身で坂道は大変にきつい。一番ごねそうなクロムがおとなしく茶を啜っているのも、かつて従軍中にこっそり飲んでいたのがばれて、全力で丘を駆けあがるという罰を喰らったことがあるからだ。

 丘を登りきると同時に、鼻からも噴き出す勢いで戻したあの経験は、絶対に特にナナイの前では繰り返したくはない。

 

 山と積まれた焼餅とポーポーが綺麗に消えうせ、茶も飲み干してさらにしばし。

 

 「じゃ、行こうか」


 ファンの声に、一行は目の前に聳える『フフホトの縁』を見た。

 馬だけを連れた遊牧民はそのまま跨って進んでいるが、隊商も馬や駱駝から降り、馬車を押しながら坂を上っていく。

 

 「馬車は…押した方が良いですか?」

 「いや、荷が入っているわけではないし、下手に押すと危ないから、俺たちの馬も馬車につないで馬力をあげます」


 馬たちを呼びよせ、アスラン式の馬車に二頭、神殿の馬車に三頭、繋いでいく。軛ではなく積んできた牽引用の太い綱だが、坂を登りきるまでならば十分その役目を果たしてくれるだろう。


 「よーし、お前たち、登りきったらとっときの塩をやるからな。いくぞ、フルゥーイ!」


 ファンの声に、流星栗毛が力強く足を踏み出す。

 麓から見上げるととんでもない傾斜に見えた坂道も、登りだせばそれほどではない。だが、どこまでも続くかのようにすら思える。


 「登るより、下る方がしんどいんだ。下りは反対側に道があるから、正面からぶつかることはないけれど」

 「帰り道が、怖いですね」

 「帰りは別のルートも考えてみましょうか」


 登り始めは話す体力のあった少女たちも、半ばまで来ると荒い息を吐くだけになる。いや、少女だけではなく、ロットもウィルも喘ぐように息をし、必死に足を動かしていた。


 「クロム、ナナイを担いであげて。他は手分けして荷物を」

 「任された」


 ひょい、と足をふらつかせるナナイを、クロムが抱え上げる。目を大きく見開き、抵抗しようとして…やめた。降ろされても、歩ける自信はない。


 「あ、ありがとう、クロム」

 「ナナイは羽根より軽いからな」


 そのやり取りに、荒い息を吐きながらも、少女たちの顔に笑みが浮かぶ。

 

 「はあ…っはあ…っ、ナナイ、ってさ」

 「う、ん!クロムさんと…」

 「絶対、お付き合いし、てる、よねぇ…っ!」


 恋人同士と言うのは、幼い頃から神殿に入った少女たちにとっては、ドラゴンのように縁遠い存在だ。

 できればもう一組、エルディーンもその幻獣のような存在になってほしかったけれど。


 あの暴露事件以来、エルディーンは少しファンとの間に距離を置いている。合わせる顔がない、というところなのだろう。

 そういう時、どうしたらいいかの妙案を捻って出せる程、彼女らは人生経験を積んでいなかった。王子様と子爵令嬢では、釣り合っているのかいないのか、よくわからないし。


 そんな身分など気にせず、愛する者同士が結ばれるのが一番だ。

 だが、芋虫を食べたという事実を乗り越えられるのか、と言う大問題もある。


 とにかく今は、エルディーンがどちらかを乗り越えるのを待つしかない。

 そのエルディーンは、息を荒げ、顔を赤くしながらもグイグイと坂を上っていく。荷物も背負ったままだ。

 少女たちは頷きあい、互いに手を繋ぎ、力を貸しあってその背を追う。


 そして、唐突に、空へと突っ込むように。

 坂道は、終わった。


 「わあ…!!」


 『フフノールの縁』と言う名の意味を、誰もがここにたどり着けば理解する。

 

 登りきった先は、ゆったりと下っていた。傾斜は緩く、先を行く馬車もつんのめるような勢いはない。

 まさに、ここは『縁』だった。

 さらに天から覗き見れば、まるでスープ皿のように見えるだろう。


 その底に、湖が蒼く輝き、その岸辺に青い屋根が連なる街がある。


 「ここが『青の湖(フフノール)』、そして、その畔の街『青の街(フフホト)』」


 音痴の癖に、歌うような声は風のように軽やかで、心を弾ませるような旋律だった。


 登りきった先はちょっとした広場になり、疲れた顔をした人馬が休んでいる。ファン達も後続がつっかえないように広場の中ほどまで足を何とか進め、眼下に広がる絶景を眺めた。


 「春なら、この辺り一帯全てが花咲く草原になってね。フフホトに植えられたイントルの花も一斉に咲くから、とんでもなく綺麗なんだ。いつか、見に来てくれたら嬉しく思う」


 ファンの説明に、少女たちは肩で息をしながらも大きく頷き、その光景を脳裏に描いた。

 一面の花咲く草原。その先で輝く、蒼い湖と街。

 その夢のような幻想は、ユーシンの「あ!」と言う声で掻き消える。


 なんだなんだと集まる視線を意にも介さず、ユーシンは槍の穂先を、今は枯草と青草が混じる草原へ向けた。


 「そうだファン!ここは星の飾り(オドンチメグ)は咲くのか?」

 「ん?クトラの谷ほどじゃないけどな」

 「だ、そうだクロム!いや、お前はまだ、自分の土地も毛長牛もいなかったな!」


 珍しく意味ありげな笑顔を浮かべるハトコの顔を、クロムは思い切り不機嫌な視線で突き刺した。


 「何が言いたい」

 「堂々と揶揄っている!」

 「お前らほんっと―に元気だなあ。まだ少し先はあるんだから、暴れないで体力取っておきなさいよ」


 ナナイを降ろしてから一瞬でユーシンに飛びかかったクロムに、ファンの声が届いているかはわからない。

 ただ、楽しそうに高笑いを響かせながら攻撃を避けるユーシンと、「死ねクソが!」と吠えるクロムに向けて、ほぼ全員がそう思っただろう。

 

 二人が「い―かげんに止めなさいッ!」というファンの一喝と、「殴って大人しくさせるか?」と言うガラテアの声に止まるころには、全員水も飲み終わり、呼吸も正常に戻っていた。


 「さて、もうひと頑張り行こうか」

 「街へはすんなり入れるのか?」

 「俺たちは隊商じゃないからね。荷の改めもないからすぐに入れるよ」


 ゆっくりと坂を下っていくと、フフホトの街が近付いてくる。難所を越えた旅人たちの足取りは軽い。

 今日は何を食べるか、どこで飲むか、宿はどうする、そんな話があちこちで花開き、これから待ち受ける検問に緊張した様子はなかった。


 「なんかさ、ふしぎなとこだね。お皿みたい」

 「この地形には伝説があってな。昔々、ヘルカとウルカがいつものように踊っていると、ウルカの耳飾りから宝珠が一つ外れて、落っこちてしまった」

 「ほう!ウルカの耳飾りか!どれほどの大きさなのだろうな!」

 「とんでもなくでっかかったんだろうなあ。宝珠の落ちた周囲の地面は抉れ、できた穴からは水が湧き出し、フフノールを作った。それで、この辺りはこういう地形なんだって言う伝説だよ」

 「迷惑過ぎない?」

 「人がこの辺りに住み着く前の話だしなあ。まあ、この伝説をそのまま信じられないけど」


 そんな伝説を信じたくなるほど、フフノールの青さは美しい。

 おそらく、女神の耳飾りに嵌っていた宝珠は、深い深い色合いの青玉サファイアだったのだろう。

 だが、今この街を領地とする王子は、そんな伝説を否定する。


 「そうしてできた湖にしては、生態系が豊かすぎる。おそらく、かつてはもっと大きな川や湖に…もしくは海に繋がっていたはずだ。それが長い長い時を掛けて閉じられ、今のフフノールになったんだと思う」

 「へー」

 「特にその象徴と言えるのが、歌鯨だ」


 ファンの説明に全く気のない相槌を打っていたヤクモだが、耳慣れない名前に首を傾げた。


 「うたくじら?なあに?それ」

 「白くて、歌を歌う小型の鯨だよ。近縁種が違う湖に暮らしているから、おそらく太古の昔はそこと繋がっていたんじゃないかと」

 「くじらってなに?」

 「水棲の哺乳類で、足の代わりに尾鰭があり、手の代わりに胸鰭がある。見た目ほぼ魚だけれど、空気を吸うために水面から鼻を出さなきゃいけないし、卵じゃなくて仔を産んで乳で育てる。もっとも、魚じゃなく哺乳類であると分類されたのは、四十年くらい前でつい最近だけどな」

 「へええ、見てみたいなあ」

 「うちで半分飼ってるのがいるから見れるぞ」

 「ほんとっ!?見たい見たい!」


 そんな会話をしているうちに、一行はフフホトの入り口にたどり着いていた。

 他の街のような高い城壁はなく、蛇行しながら街を囲む壁は子供でも乗り越えられる程度だ。

 

 そして、大抵の街がそうであるように、城壁の外には屋台が並び、宿の客引きがうろつく。サライほど激しい勧誘はないが、次々にやってくる旅人や隊商に声を掛けては、自慢の設備や安い宿代を捲し立てていた。


 「検問の間、アイツらおっぱらっておくか?」

 「そうだなあ…」


 クロムの不機嫌そのものの視線に、何人かの客引きは肩を竦めて他へと向かう。クロムの刺青を見れば、クトラの戦士と即わかるくらい、この街の人々はクトラ人に慣れている。


 客引きの中にも、明かにクトラ人の特徴を宿したものが混じっている。色素の薄い髪と、小麦色の肌。身に纏う服もアスランの胡服ではなく、袷の着物チュバが多い。


 「クトラ自治区…あるんだもんね」

 「そうだな」


 ナナイとクロムの小さな声に、エルディーンと…そして、ロットとウィルも眉根を寄せた。


 この街の対岸は、クトラ自治区だ。

 何故、アーナプルナに王国を築いていたクトラ人たちが、ここに住んでいるのか。

 それは、その罪は、アステリア聖女王国にある。


 「でも、今の大神殿の罪じゃない。アステリア人の罪でもない」


 その曇りを、ファンの声が追い払う。


 「さあ、行こう。いや、今こそ言うべきだね」


 振り向いて、にっこりと笑い、ファンは手を差し伸べた。

 片手は、旅の仲間たちへ。

 もう片手は、彼の街へと。


 「ようこそナランハル・アスランの治める街、フフホトへ!」

 

 言い切った笑顔が、へにゃりと歪む。なんだかこれから虫歯を抜くぞと宣言された子供の様な顔。


 「俺はこれからしばらく、政務おしごとでーす…。皆は、ゆっくりしていってね…」

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