善き者と交われば月の光、悪しき者と交われば蛇の毒(朱に交われば赤くなる)3
鴉は、タタル語を話す人々にとって悪い印象を持つ鳥ではない。
人の傍にいれば餌にありつける確率が上がり、天敵である鷲や鷹もあまり近付いてこないと鴉は気付き、子に教え、仲間に伝え、いつしかそれが習性になっていた。
その為、縄張りに遊牧民が訪れると必ず住居の傍に鴉はやってくる。
「ユルクを建てて家畜囲いを作り、鴉が来たら家の完成」と謳われるほど、遊牧民と鴉の関わりは深い。犬や狼のように飼いならすわけではない緩い共存関係ではあるが、数百年以上、そうしてタタルの草原で人と鴉は生活していた。
草原で方向を喪ったら、鴉の後を追い掛けろ。
それは、遊牧民に伝わる知恵の一つ。
草原では、家も人も移動する。道など当然にない。
しかし、鴉があつまっている場所の近くには人が暮らしている。絶対に、ではないが、なんのよすがもなく彷徨うよりはずっと良いだろう。希望は水袋一杯の水よりも、命を永らえさせる。
そうした習性から「知恵者」「導きの鳥」と見なされ、西方のように死や不吉の前兆として忌まれることはない。
「鴉のように賢い」と言うのは純粋に誉め言葉であり、賢く、手助けを進んでする良い奴だ、と言う意味になる。
だが、「老いた鴉」となると、少し違う。
賢い、頭が切れる、と言う点では同じだが、同時に「狡猾」「残忍」と言う意味合いも含まれるようになる。
それは、「老いた鴉」は鴉によく似た邪悪な精霊であり、旅人をわざと人気のない荒野へと導き、力尽きて倒れた人馬の肉を貪り、魂を喰らうとタタルでは言い伝えられ、恐れられているからだ。
そして「老いた鴉」は、アスラン王国七代大王、バトウの異名でもあった。
その恐ろしさは、孫であるファンもよく知っている。
つい先日、マルダレス山で見せられた過去の記憶。
そこで見た祖父は、まさに「老いた鴉」そのものだった。
もし。
神官たちが気に食わないと首を振れば、よくて今日のうちにラバーナへ逆戻り、最悪の場合この場で惨殺だ。
祖父の後ろに影のように従う二人の守護者…彼らが、主の意志よりもその孫の情を尊重するわけがない。雪風と謳われた剣技の冴えを見せつけるだろう。
「どうした?そんなに驚くような事か?」
「そりゃ驚くよ!」
孫の声にバトウはからからと笑い、一歩進む。僅かに眉が寄ったのは、関節炎が治っていないからだろう。身体がぐらつき、靴を脱ぎかけた動きが止まった。
ファンが立ち上がり、駆け寄ろうとする前に…入り口近くにいた少女たちが素早くその身体を支える。
『お膝、痛むのですか?』
『性悪な親戚のようなものでな。寒くなると寄ってきよる。すまないな、お嬢さんたち』
返す言葉は西方語で、なおかつ上機嫌に思えた。
そういう顔をしながら激怒することもできる人だが、今ここでそんな事をする必要はない。おそらく本当に少女たちの行いに気をよくしているのだと見て取って、ファンは密かに安堵の溜息を洩らした。
「祖父ちゃん、こっちに」
改めて立ち上がり、上座を開ける。年老いたとはいえ大柄な男を支えるのは少女達には辛いだろう。なにより、バトウは己の祖父だ。孫である自分が手を貸さず、小柄な少女に任せておいていいはずがない。
「見よ、クドス。ラトラ。余の孫はまことに優しい。あれに似たのは顔だけだな」
「大君のお顔立ちにもよく似ていらっしゃいましたな」
「ふふ、であるか」
上機嫌に差し出された手を取って身体を支えると、小さく、細くなったな、と思う。記憶にある祖父は、自分と大差ない体格であったし、膝が痛い腰が痛いと呻いていても歩行が困難なほどではなかった。
先ほどまで自分が座っていた座布団に祖父を落ち着かせ、ファンは内心に「でも」と首を振る。
祖父の老いは悲しい。それほど遠くはないいつかに、別れは来るだろう。
だが、その感傷と祖父が油断ならない男であるという事実は別物だ。身体が弱ったからと言って、その性格や頭の切れまでどうにかなったわけではない。
油断して調子に乗れば、気が付けば無人の荒野で途方に暮れることになる。
その時に足元に散らばった屍と鴉の羽根にぞっとしても…どうしようもない。
『えっと、今更な気もするけれど、この人は俺の祖父なんだ』
『よく似ていらっしゃるから、そうだと思っていましたよ』
微笑みながらロットが頷く。僅かにその笑みが硬いことに、いつものファンならば気が付いたかもしれない。
しかし、今、この場でそのことに気付いたのは、面白そうに口の端を持ち上げたバトウだけだった。
『一年以上ぶりの再会でね。できれば、積もる話もしたい。申し訳ないけれど、買い物は俺ら抜きで行ってもらっていいかな?ヤクモも行っておいで。シドとガラテアさん、護衛兼通訳を頼んでいい?』
『ああ、かまわん』
『ありがとう。店の場所は、奥さんに聞いてくれ』
こくりと、若女将も頷く。彼女は当然、この老人が何者であるか知っている。
今でも首を竦めながら語られるような逸話も、それが真実であるということも、よく知っていた。
神官たちを、とりあえず祖父から離し、避難させたい。そのファンの判断を大袈裟と笑う気にはなれい。
『じゃあ、案内するヨー。ついといでネー』
『さあ、行くよ。皆』
『はい!ファンさん、お祖父様とごゆっくり!』
『エリーも、こっちこっち。…おじい様、またあとでごゆっくりご挨拶させていただきますね』
ぺこりと頭を下げるナナイの視線は、気遣わし気にファンとクロムに向かう。自分にとっては甘すぎるくらいの御仁ではあるが、ファンの心配は気の回しすぎではない。それはわかる。
おそらく、他者の命…いや、自分の命も含めて、彼とナナイ達とでは価値観に差がありすぎる。ここで友人たちの命を奪うのは、バトウにとっては何気なく花を手折る事程度の認識だろう。ファンやナナイが激怒したとしても、なぜそんなに怒るのかと首を傾げるだけだ。
その反面、決してバトウが「そんな意味もない無駄な事」をしないという確信もある。花を手折るのに罪悪感など持ち合わせもしないが、それで孫たちが怒るのならばわざわざしようとは思わない。その程度ではあるけれど。
『おお、ナナイ。ナナイも買い物か?小遣いは足りておるか?』
『はい。お店も順調ですから。もしよければ、痛みを和らげて身体を温める薬、作りますね』
『自分で稼ぎ、楽しみに金を使えると言うのはまことに素晴らしい。しかし、孫にちょっとした小遣いをくれてやりたいという老人の楽しみも奪わんでくれ。ラトラ』
「はい」
主の声に、禿頭の老人がナナイに歩み寄る。そのごつい手が抱えていた包みを、そっと差し出した。
「ナナイ様は、ますますお母上によう似てこられた。妻に娶る男は、よほど己を上げねばならんな」
ナナイに話しかけつつ、その柔和に細められた目がついと見るのは、ファンの横で警戒を解いていないクロムだ。
視線を受け、わずかに口角が持ち上げられた唇が開く。
「ご安心を。俺の男は天井知らずなので」
「小僧の事だとは言うておらんぞ。かかか」
反撃も予想通りだったのだろう。愉快そうに大口を上げて笑い、クロムの嫌そうな顔に、更に笑い声を響かせる。
「もう…おじ様、あまり揶揄わないでください」
「揶揄ってはおりませぬ。思ったまでを言ったのみ」
揶揄いに紛れて渡された包みは、ずしりと重い。「ちょっとしたお小遣い」で渡されるような額ではないだろう。
しかし、貰いすぎですと突き返すのは大変失礼なことだ。年長者…それも一族の長に当たる者からの贈り物を拒むと言うのは、あなたとの縁を切りますと宣言するに等しい。
それに返そうにも、すでに禿頭の守護者は笑いながら主の傍に戻り、その主は満足そうに頷いている。
ここは貰っておくしかない。お礼は、自分の技術を精一杯つぎ込んだ魔法薬を贈ろう。そう決意する。
『迷宮』から産出する材料も、このサライやこれから向かう予定のフフホトなら手に入る。値は張るが、この包みの中身を使えばどうとでもなる。
「えと、じゃあ、ぼくもナナイたちと?」
よし、と小さく拳を握るナナイからファンへと視線をうつし、ヤクモがおずおずと口を開いた。
指示は聞いたが、素直に従っていいものかと戸惑う様子のヤクモに、ファンはこくりと頷く。
「ああ。お前の買い物と、護衛な。俺たちの仕事なんだから」
「はしゃいでぼったくられるなよ」
「しない…って言いきれないけど、頑張るよ!もう!」
「はは、ヤクモなら大丈夫さ」
あのマルダレス山で見せられた、ドノヴァン大司祭の記憶。
その中で、ずっと若かったバトウが何をしたか…ヤクモも見ている。
怖い人だ、と思う。
バトウから見れば、ヤクモも神官たちと立場はそう変わらない。
急に孫の周りに現れた、有象無象の一人だ。気に食わないと判じられればそれまでだ。
少し前のヤクモなら、また仲間外れかと頬を膨らませたかもしれないが、あの記憶を見た後ではファンの気配りだと素直に頷ける。
それに、やはり身内だけで話したいこともあるだろう。
ユーシンも身内ではないが、幼い頃から知っているなら「身内のようなもの」だし、思い出話をしようにも、いちいち説明しなくてはいけない相手がいるのも気を使う。
なら、自分がやるべきことは言われた通り買い物と護衛だ。
ちょっと、そっちの方が楽しそうだしねぃ、と思ってしまったのは内緒にしておこう。
仲良くなった友人に、可愛い女の子と綺麗なお姉さんと一緒に買い物するのと、妙に緊迫した空気の中で自分が入れない内輪話を聞くのとなら、大抵の人間は前者を選ぶ。別に自分が特別軽薄なわけではない。
そう断じて内心のウキウキ感を顔に出さないように努めながら腰を浮かせると、バトウの視線がヤクモを捉えた。
あああ、すみません、別におじーさんのことが怖いわけじゃないんです、と言い掛けたのを飲み込んで、バトウの視線を受け止める。顔に曖昧な笑みが浮かんでしまったのは、間違いなくファンの癖が移った結果だ。
「そちがヤクモ、か」
「え?あ、はい!ぼく、ヤクモです!」
「であるか。であれば、そちも残れ」
「え?」
「孫の僚友と少々話をしてみたくてな」
そう言われてしまえば、残るしかない。立ち上がる寸前だった身体を、再び座布団に預ける。
(なんだろ…お前何者だとか言われるのかな。足手まとい…とか)
じっと注がれる視線に落ち着かず、もぞもぞと動いていると、ユーシンの手が胸を叩いた。左胸。落ち着けという意味の動作。
天色の双眸が言葉に出さず語るのは、なんとなくわかった。
(うん。そうだね。ぼく、何も悪いことも恥ずかしいこともしてないもん。堂々としているよ)
背を伸ばし、バトウの視線を真っ向から受け止める。睨んだりはしない。バトウも、ヤクモに何か言っているわけではないのだ。
なら、堂々としなくては。女の子たちと買い物できなくてしょんぼりした、なんてことがバレないように。堂々と。
微妙に重圧を増した部屋から、ナナイ達が出ていく。最後にガラテアとシドが微かに振り向き、眉根を寄せる。
おそらく心配してくれているのだろうその動作があまりにもそっくりで、さらに重さを増した空気の中、ファンは姉弟だなあと場違いに微笑ましく思った。
微妙に重い空気は、若旦那が注文された蒸留酒…店で最も値の張る、とっておきだ…を持って現れ、再び退出しても続いていた。
どう見ても、祖父と孫の再会と言う空気ではない。ファンの表情から、いつもの柔らかさが消えた。二太子の顔になったなと、仲間たちは密かに思う。
その変化を全く気に留めた様子もなく、バトウは手ずから酒を瑠璃色の硝子盃に注ぐ。とろりとした酒を満たした盃は、するりとファンの前に置かれた。
「飲め」
「有難くいただきます。大アスランの栄光に陰りなし」
姿勢を正し、膝をついて頭を下げる。額が床に着くまでは下げずに身を起こしたのは、酒宴での略式礼だからだ。
瑠璃の盃を手に取り、口をつける。とっておきの蒸留酒はさすがに強い。カッと灼けるような痺れが口と舌に広がり、それが去ると芳醇な味わいが残った。
「美味い」
「うむ。なかなか良い酒だ」
バトウも盃を唇につけ、ますます上機嫌だ。
アスランでは美味い酒、良い酒は舐めるものと言われ、特に蒸留酒は時間をかけて飲むものである。
「何を成したか、聞きおよんでおる」
ちびりちびりと酒を嘗めつつ、先代王は笑む。その笑みは、孫を褒める祖父のそれではなく、家臣へ褒美を取らせる王の笑みだ。
「良うやったな」
何を「良うやった」のか。おそらく、祖父はマルダレス山での一件も、灰色丘陵の掃討戦についても、調べ終わっている。
そのうえで咎めなく、「何のことか」を特定せずに褒めたということは…ファンがこの一年になした事の全てを、認めたという事だ。
いや、もっと根本的に、冒険者として過ごしている事自体、「良し」と頷いたのだ。
基本的に、両親も兄もファンの方針に反対はしないが、もろ手を挙げて賛成もしていない。
暗殺を避けるためにアステリアに身をひそめること自体は認めたものの、バルトかウルガの許に身を寄せると思われていたし、冒険者として自活すると様子を伺いに来た間諜に手紙を持たせた半月後には、難色を示す返答が戻ってきていた。
それでも最終的に「やめろ」と言いに来なかった辺り、両親も兄も、ファンの意志を尊重してくれている。
だが、祖父に知られたら相当拙いことになるとは思っていた。
祖父はファンの意志よりもアスラン王家の権威を重要と考える。
実際、それは間違ってはいない。大国の王子が冒険者として他国で暮らすと言うのは、王族の責務を放り出して遊び呆けているのと同じことだ。
バトウは、「老いた鴉」と畏れられる王であり、その治世は穏やかだったとは言えない。開祖と五代に次いでアスランの版図を広げた王の御代は、その拡がった国土の分、血に塗れている。
しかし、バトウが臣民から暴君として憎まれているということは決してなかった。
戦は多かったが、そのたびに民を兵に取りたて、戦費を搾り取るようなことはしない。彼が臨時の徴兵を命じたのは、アステリア聖女王国への報復戦の時のみである。
その際も、長く同盟国であり、良き隣人として親しんできたクトラ王国を滅ぼし、明朗快活な性格で親しまれていた二の姫を惨殺した国への報復戦と知れば、徴兵の号令をかける前に志願兵は殺到していた。
バトウにとって戦とは、得るものが支払うものよりはるかに大きくなければ意味のないものであり、国民を疲弊させてまで起こすものではない。
そして彼は、贅を尽くした宮殿にて美女に囲まれ美酒美食を貪るより、草原で馬を走らせ、出来の良い家畜を育てることに楽しみを見出す性質だった。
戦に強く、かと言って無暗に兵を出し、臨時徴税をすることもない。版図が広がれば交易も安定し、余裕ができた分は本人が貪るのではなく、公共事業や減税と言う形で民に還元する。
畏怖され、決して親しまれはしないが、名君。
それが、七代大王だ。
そんな王が、遊び惚けていると判じた孫を認めるわけがない。
しかし、バトウはファンの一年間を褒めた。認めた。
遊んでいると判じたわけではない。「良くやった」と頷いた。
つまり、これ以降も「連れ戻せ」と命じられることはない、と言う事。
「お褒めの一言。何よりの褒美にございます」
盃を置き、深々と頭を下げる。すぐ後ろで、クロムも同じく拝礼しているのを感じた。
「顔を上げよ。これから先は祖父と孫だ」
「うん。ありがとう、祖父ちゃん」
顔を上げて見たバトウの顔は、柔らかに笑んでいる。王の笑みではない、自慢の孫を愛でる祖父の笑みだ。
その顔をいきなり見た時にはどうなるかと肝を冷やしたが…どうにかなったらしい。
「さて、ユーシン。それからヤクモ」
「はい」
「は、はい!」
その笑みのまま、バトウの視線は二人に移った。いつもの様子のまま頷くユーシンと、改めて背の伸びたヤクモを見て、更に口を開く。
「祖父として、アスラン王国七代大王として問おう。これより先、ファンの往く手には困難と難敵が待ち構えておるだろう。
場合によっては死ぬかもしれん」
「それが何か?」
事も無げに答えたユーシンに、バトウは笑みを深くした。かつて娘の夫として認めた若者の面影を、この若い王子に見出してしまうのは仕方のないことだろう。
あの若者も、獅子のように勇敢だった。愛する娘を娶りたいと、異国の王に堂々と宣言しに来るほどに。
「死ぬまではいかぬでも、死んだほうがましだと思うような痛みを味わうかも知れぬ。絶望に四肢をもがれ、憎悪にのたうつやも知れぬ。
それでも、灯と共に歩むか?」
「当然でしょう!そうならぬよう、俺は槍を振うだけだ!」
にかっと笑いながら言い放つ言葉は、そうした痛みを知らないから言えているわけではない。
地獄を見たことのない者が、「恐れを知れぬもの」「狂戦士」などと呼ばれるわけがないのだ。
「そうか。では、ヤクモ。そちはどうだ?」
「ぼくは…」
蘇芳色の双眸が伏せられる。僅かに揺れる恐怖の欠片は、再び視線が上がった時にも消えてはいなかった。
それでも、ヤクモは視線を外さず、じっとバトウを見つめる。
「ぼくは、痛いのも怖いのも嫌だし、死にたくもないです。…でも」
ぐ、と膝の上に置かれた拳に力が籠る。この一年でずいぶんと硬く、節くれだち、荒れた指。何度も肉刺ができ、潰れ、それでも剣を握ることを、ヤクモはやめなかった。
痛くても、辛くても。もちろん、バトウが問いかける痛みや苦痛は、肉刺が潰れつ程度のものではない。それは判っている。
けれど、全く違うものでもない。
やめること、逃げることはできる。できるけれど。
やめたくない。逃げたくない。
恐いからと前へと進む足を止め、痛い辛いと手を引っ込めて。
「みんなと一緒に冒険できないのも、ぼくだけなんともなくて、みんなが痛くて、苦しくて、死んじゃうのは…もっと嫌だから」
背中を見送るだけの自分になるのは、絶対に嫌だ。
「ぼくが何ができるかなんてわかんないし、ぼくはまだ弱いっちいし、あんまり役に立ってないけど。でも、できることは何もないわけじゃない。それに、ぼくが足手まといになるなら、ファンはちゃんと、ぼくを置いて先へ進める人だから」
ヤクモの存在が戦力の低下につながるなら、連れて行くには力不足と判断したのなら、ファンは包み隠さずそれを説明し、別の行動を指示するだろう。灰色丘陵の掃討戦の時のように。
だから、お前はついてくるなと言われるまでは、共に歩む。
それにまだまだ自分は強くなれるはずだ。
置いていかれたくないなら、鍛錬をする。強くなる。
単純な話だ。悩むような事ではない。
「だからぼくは、一緒に行きます」
「であるか」
返答はそっけない。しかし、バトウの口許には満足げな笑みが浮いていた。
「どれほどの地獄であろうとも、己で進んだ地獄ならば笑って往けるものだ…開祖の言葉よ。そちらに贈ろう」
「有難く受け取らせていただきましょう!」
ユーシンの返答にバトウは頷き、酒杯を傾ける。どうやら、この老人の試験を無事合格したらしいと理解して、ヤクモは詰めていた息を吐きだした。
己で進んだ地獄か、と先ほどの言葉を内心に呟く。
アスランの開祖について、ヤクモはファンから聞いた程度の事しか知らない。八代に渡る王国の礎を築き上げ、草原を屍で埋め尽くし、血の河を溢れされた人物。
彼は、その道を地獄と思いながら突き進んだのだろうか。
それでも往かなければならないと、苦痛と恐怖に歪む口角を釣り上げて。
「ファンよ」
「うん」
地獄を笑いながら歩んだ男の子孫二人の満月色の瞳が、互いの姿を映しあう。
「今更そちの覚悟を問う気はない。全て背負い往くは当然ゆえな」
「うん」
己が死ぬ覚悟など、そんなものはあって当然。
一人では成し得ないことをことを成さねばならないのだから、今ここに居る誰の命が喪われたとしても、止まらない覚悟でさえ問うほどの事でもない。
「クロム。そちもだ。守護者になると口にしたからにはな」
「無論」
二人の返答に、バトウは静かに盃に唇を寄せる。頷きなどはない。当然のことを確認しただけなのだから、わざわざそれに対して反応を見せる必要もない…そう告げているかのような祖父の動作に、ファンは内心眉を寄せた。
何故、祖父はわざわざこんなことを聞いてくるのだろうか。
ユーシンとヤクモの覚悟を問うのはまだわかる気がするが、ファンとクロムについては祖父の中ですでに結論が出ている。
それでも口に出したということは、これから先が本題なのか。
口の端を引き締める孫を、祖父の視線が静かに捉える。
「では、問うぞ。ファン。ならば何故、あれを生かしておるのか」
「…!」
「そちに重傷を負わせ、近衛騎士を十名殺害した。十二分に死罪が相応しい。戦になるのを防ぐという理屈はわかるが、どうとでもなることは良くわかっておるだろう。
あれが再びそちの前に立つ時、友に矢は向けられぬと逃げるのがそちの覚悟か?」
祖父の声は淡々としており、厳しく詰問をしているようには聞こえない。
だが、曖昧に誤魔化すことも、先送りにすることも許されないだろう。
ぬるいと断じられればファンを引き摺って大都へ赴き、二太子殺害未遂の犯人を処するために軍を興し、南フェリニスに進軍する。そういう人だ。
「…色々、考えたんだけどさ」
東への帰路を辿る直前。宿で常連と話していた時、改めて見えたこと。
自分の中で乱雑に書き殴った、仮説とも呼べない思い付きのメモを集めて、読みながら考えをまとめるように。
言い逃れではなく、「何故、自分を殺そうとした男を生かそうと思うのか」ということを説明するために。
どのみち、向かい合わなくてはならないことだ。
ここで祖父に聞かれなくても、大都へ戻れば父や兄に問われる。
その時に明確な答えが出せなくては、二人はファンからこの問題を取り上げて、自分たちで対処してしまうだろう。
それは、嫌だ。
嫌なら、納得させなくてはならない。何故、そうするのかを。
「最初は、戦の要因になることは、ひとつでも減らすべきだから、と思っていた。それこそが黄昏の君の狙うことかもしれないし、そうでなくても、ないようにできるなら戦は起きないほうが良い」
「うむ」
盃を唇に当てたまま、頷きはせず声だけが返る。納得はしていない。だが、ファンも今では、それが理由とは思っていないのだから当然だ。自分ですら首を傾げる答えを、人に納得させられるはずがない。
「けど、それって結局、言い訳だった。言った時には、本当にそう思っていたし、今でも判断自体は間違っていなかったと思うけど。
でも」
もっと奥。思いついた理由の底の更に下。「殺さないでくれ」と叫んだ時に、心の真ん中で弾けた意志。
それを言語化するのに、一年かかってしまったのかもしれない。
理由は、ひとつではない。もっとぐちゃぐちゃに混ざりあい、別の後付けも混ぜて隠し、理解しないようにしようとしていた。
嫌なもの、恐ろしいものだと蓋をして、土をかぶせて岩を乗せて。一生見ないで済ませられるなら、それが良いと願って。
だが、それは泥の奥から、岩を持ち上げて手を伸ばし、ファンの足首を掴んでいる。それに気付いてしまったのだから、もう目を背けることはできない。
「祖父ちゃんが気にしているように、友達だから殺したくない。これもある。俺のせいでアイツが死ぬのは嫌だって、どうしても思っちゃうし」
それも偽らざる本心だ。本心の一番上、まだ人に見せられるところ。
「けど、それってさ。つまるところは、これ以上アイツに嫌われたくない、憎まれたくないって言う自己保身でもあるんだよね」
その一番上をぺろりと剥けば、見えてくるのは見せられないし、見たくもないドロドロとした粘液質な感情で。
「ほら、俺ってあんまり人に嫌われたことないから、すごい自分が嫌な奴って言うか、悪いことをしたんだなって思って」
思っていたより、自分は嫌な奴で、殺したいほど嫌われていた。
それが恥ずかしくて、苦しくて、「そんなことはない、嫌いじゃないよ」と言ってほしくて、助命を嘆願した。命を援ければ見直してくれるかも。そんな一縷の期待が体が、なかったとは言えない。
「けど、それで全部かと言われれば違うんだよね。そうなら、次に会ったとき…戦うことを考えないと思うんだ」
再会が穏やかなものになるとは、思っていない。
イメージすればどうしても、己の手には弓と矢がある。
「もっとよくよく考えて…みたくなかったんだけど、この旅に出る前に思ったんだ。俺は結構、悔しかったんだなって」
逃げ回り、狩られる側になったファンを、友は笑っていた。
何故こんなことを問う声に、君が無能だからだと答えた。
「二太子としてアイツを処断すれば…たぶん、俺の負けなんだ。アイツは心底勝ち誇って死んでいくと思う」
やはり君は弱い。君一人では何もできない。
二太子ではない君は、何も成せない。
死ぬのはかつての友で、それを見下ろすのはファンだ。
しかし、彼は血だまりに首を転がしながらも、顔全体に浮かべるに違いない。
勝利の笑みを。
「実際には、二太子襲撃を計画実行した時点で、俺じゃなくてアスランへ宣戦布告しているようなもんだから、国として処罰を求めるのは当然なんだけど。でも、あいつはそれをやったら、それみたことかって喜ぶと思うんだよね」
アスランの王族を殺そうとした。
どんな理由や大義が友の中にあろうとも、それは大きな罪である。ただの殺人ではない。アスラン自体へ牙を剥いたと断じられる。
ならば、「アスラン王国」として罪を問うのは当然のことだ。
それをおそらく友はわかっていて、わかったうえで、己の勝利への鍵にしようとしていた。
あの晩、襲撃が成功すれば良し。
失敗してアスランが引き渡しを求め、王族の身分剥奪の上、処刑されたとしても…そのことで、南フェリニス自体にも報復処置がとられ、家族や国民が無残な死を迎えたとしても、彼の中では「勝利」になる。
ファンが己の弱さのせいで、無能なせいでと悔やめば悔やむほど、晒され腐乱した生首は、崩れた口を開いて嗤うだろう。
「被害妄想かも知れないけどさ。そんなこと言ってたから。そんなの、悔しいでしょ」
どうやっても勝ちだと嘲笑うなら。
相手の「どう」を上回るか下回るか、はたまた斜め上を錐もみ旋回していくような手を打って、勝ち誇るにやけ面をひっぱたいてやる。
「俺が死ぬか、アイツが死ぬのが向こうの勝利条件ならさ、俺もアイツも死なないのが俺の勝利条件だ。それにさ」
祖父の満月色の双眸を見つめ、ファンはにたりと笑ってみせた。
「子供の喧嘩に親が出張られちゃ、子供としてはカッコ悪い事この上ないよ。喧嘩売られたのは俺なんだから」
勝手に勝ち逃げされて胸糞悪いのは、他の誰でもない自分だ。
いきなり殺しにかかられて、騎士たちを殺されて、何をやってもこちらの勝ちだと決めつけられて、そうだねと済ませられるものか。
「アイツにとっては、たぶん俺がどうにかして助命嘆願したって事だけで結構イライラしていると思うんだよね。計画が上手くいかないと機嫌悪くなる奴だったし」
「それを一生続けさせるのがファンの勝利か?」
「まさか」
まあ、それはそれで楽でいいが。
決して、向こうはそれで良いと思ってはくれまい。必ず、次の機会を狙うだろう。
兄が即位すれば、ファンがその妨げになるから殺すという大義名分は消えてなくなる。それでもファンを狙うなら、もっと剥き出しの本音をぶつけてくる。
…もしかしたら、その剥き出しの本音は、穢金の眼の形をしているかもしれない。
「アスランの王子としてじゃなく、俺は俺として、奴をぶちのめす」
一対一なら、ファンに勝ち目はないくらい実力差はあるけれど、その実力差を埋めるために、知恵というものはあるのだから。
どうにかしてこうにかして、最後は気合いとか根性とか、そういうもので何とかすることになるかもしれない。でも。それでも。
「喧嘩って、そういうもんでしょ。祖父ちゃん」
「違いない」
くっくと笑って、バトウは盃を傾けつつ、ファンの少し中身の減った盃にも酒を注ぐ。
「喧嘩とは、そういうものだな」
「だから、アスランとしては南フェリニスの動きに気を付けては欲しいけれど、それ以上の手を出してほしくないんだ」
結局、メモを集めて状況証拠を揃え、仮説を立ててぐちゃぐちゃ考えてみても。
色々本心を捲ってみれば、最後に出てきた答えは「悔しいから」だった。
「あいわかった。確かに、子供の喧嘩に出張るのは、大人のやる事ではないな」
「わかってくれて嬉しいよ」
俺が嫌いで、目障りで、見たくもないならそう言えばよかった。そう言って、二度と会いたくないと言えば、受け入れた。
ごく普通に考えて、嫌いだから殺すってあんまりだろう。
まして、自分たちの立場はなんだ。
王族だ。
民の上に立つ代わりに、民を守る義務のある王族だ。
王族同士でお前が嫌いだぶっ殺すなんて真似をすれば、どうなるか。どうやっても国を巻き込み、民を犠牲にする。
お前の「嫌い」は、無関係に生きる人を巻き込み、踏みつけにしても優先されるような大層なものなのか。
王太子であり、いずれ王となる自分が嫌なのだから、その巻き添えを食っても我慢しろと民に言えるものなのか。
そんなわけ、ない。
決して勝てない実力差があっても。そんなことは関係ない。
かつて友と呼んだ相手だからこそ、その間違いを、甘ったれた特権意識を、許してはおけない。
「…ひとつ、口を挟んでよろしいか」
「良い。許す」
硬質な声は、ファンの後ろで膝をつくクロムの口から、唸るように漏れていた。
バトウの頷きに上がった顔、その鋼青の視線が向くのは、許可を得た先代大王ではなく、己の主だ。
「あのクソ野郎は、俺が必ずぶっ殺す。お前が殴るのはその後にしろ」
いつもの口調で、いつものように不機嫌そうに。
クロムはファンの決意を事も無げに却下した。
「…死体を殴る趣味はないんだけど」
「俺はお前の守護者だ。俺が討ち取れば、広義の意味でお前がやったことになるだろ。それで我慢しろ」
「ええ~…祖父ちゃんに俺がやるって宣言したのに?」
「ファン様」
ファンのか細い抗議を叩き落としたのは、かつて紅鴉の守護者だった男の声だ。
その剣筋は雪すら切り裂く、と讃えられた剣士の黒い双眸が、ファンをじっと見つめる。老いて鋭さを増した顔に浮かぶのは、叱責。
思わず首を竦めたファンに、もう一人の守護者が笑う。
「主を傷つけた大罪人を、譲れなど…例え主と言えど、承服できるものではございませぬ」
「左様左様。小僧の悔しさ、口惜しさ。殺されかけたファン様の比ではございませんぞ。まあ、譲れて、こちらが斬り捨ててまだ何とか心の臓が動いておる程度の時に、とどめを譲るくらいですかなあ」
「いやそれもう、ほぼ殺しちゃってるよね?…じゃあ、クロム、先に俺が一発殴ったらあとは任せるってのは?」
声もなく、三人の守護者が首を振る。
「話聞いてたのか。お前は」
「いや、それなら良くない?ダメなの?」
「あたりまえだ。お前の前にまた姿を現すことだけでも万死に値する。そんなクソを殴るな。汚れんだろうが」
「ええ~…」
主のか細い抗議を若き守護者はフン、と鼻を鳴らして叩き落とした。絶対に言うことを聞く気はない、と主張するその顔に、ファンの眉が下がる。
「…お前は、奴をぶっ殺すって覚悟だけがっちり固めとけ。それでいい。お前が一度敵と見なしたやつに容赦するとか日和るとか、そういう事は絶対にないが」
「さすがにそんなことしたら、ご先祖様に叱られるよ」
「だからって、何ともないわけでもないだろ。お前の手で奴をぶっ殺せば引き摺る。で、俺は奴をぶっ殺してやりたいと心底思っている。押し付けたとか思うな。双方の希望が嚙み合った解決方法だろうが」
「クロムの勝ちだな。ファン」
「祖父ちゃん…」
「不満があるのなら、もっと弓の腕を磨き、クロムの剣より先に矢を放つ事よな」
くつくつとバトウは笑い、盃を干した。アスランの酒宴では、酒は飲み干さず継ぎ足し継ぎ足し舐めるように飲む。完全に飲み干すのは、この話題はこれでおしまい、と言う意味だ。
それでも食い下がれば、「酔いすぎだから頭を冷やしてこい」と外に放り出されても文句は言えない。まして、年長者に対して異議申し立ては許されないし、祖父はアスラン王ではないが、ヤルクト氏族の族長である。
族長の言に逆らうには、相当の覚悟と根拠が必要で、そのどちらも今、ファンは持ち合わせていなかった。
(誰よりも早く、矢を放つ、か)
だから、口を閉じて思いを巡らせる。
あの日。襲撃された時、一矢も放つことはできなかった。
完全に油断していた自分が悪いのではあるが、そもそも弓を持ってすらいなかった。
(…俺は、アイツを殺したいんだろうか)
対峙は避けられないとは思う。なかった事にもできない。
けれど、殺したいか、この世から消し去りたいのか、と言えば、そこまでの憎しみや怒りは沸き上がってこない。
勝たねば、という義務感はある。ファンを守るために一人、また一人と命を落とした騎士たちの為に、必ず己が勝者にならなければいけない。
だが、アスラン王家の力を使わずにかつての友を討ち取ったとしても、それは果たして勝利になるのだろうか。
勝利条件は、どちらも死なない事。
それは咄嗟に言い放ったことではあるが、正解であるように思えた。
王太子がアスランの二太子を殺そうとして返り討ちにあった。
それは、どう事を納めようとしても、大事になる。
南フェリニスは実質アスランの属国だ。アスランの怒りを買って見捨てられたら、と震えあがる者は多い。
そうした者たちは、この一件は「悪者」がいて、南フェリニス自体は関係ないのだ、という形にもっていこうとするだろう。
その時、「悪者」とされるのは、反アスラン派だ。
十把一絡げに「反アスラン派」と言われてはいるが、現在の依存しきった状態から脱却するべきだ、というまっとうな主張をする人々もいる。
ファンの友人が所属し、鉱山奴隷の救済を行っている団体に協力的なのも、こうした人々だ。
しかし、「悪者」と見なされれば区別はない。むしろ、まっさきに槍玉に挙げられるのは、まともな意見を持ち、堂々と独立を叫ぶ人々の方だ。
まっとうな意見と言うのは煙たいものであり、他ならぬ南フェリニス王自身が誰よりも顔を顰めているのだから、ここぞとばかりに排除に乗り出すだろう。
現在でも、南フェリニスでは反アスランを掲げての犯罪行為は、通常よりも罪が重くなる。それはさらに加速し、「反アスランだ」と言うだけで罪になるまで時間はかからないだろう。
そうなれば、「政敵」「商売仇」「気に食わない」と言うだけで「あいつは反アスラン派だ」と密告され、囚われ、処刑される国となる。
ただ戦が起こるよりも、悲惨な状況だ。それが黄昏の君の狙いであるなら、まんまと企みを成功させてしまうことになりかねない。
いや、黄昏の君が関わっていないのだとしても、それが己が成したことの結果だという重みを、一生背負っていかなくてはいけないのは、辛すぎる。
(もっと、考えよう)
どうしたら、その絶望を避けられるか。
どうするのが、最善になるのか。
(幸い、まだ時間はある。祖父ちゃんに相談したら南フェリニスごと踏みつぶせばいいって言うだろうけど…親父や兄貴にも相談してみよう)
三人とも同じ意見だった時には、納得させられる意見を出さなくてはいけないけれども。
(三人を納得させられる意見が出せれば、そりゃあ妙案中の妙案だしな)
そのためにも、もっと考えなくては。
とりあえず、それが今の結論だ。
(とにかく…勝つのは俺だ。それだけは、諦めない)
それだけは判っている。
今は、それだけで十分だ。まともに考えることも避けていたほんの少し前に比べれば。
ぐちゃぐちゃに膿んだ傷を開き、腐った肉を取り除き、縫い合わせるだけの気力が出てきた。
痛いから、見たくないからと避けていた治療を始められたのは、大きな前進だ。
だから、ファンもまた、己の盃を手に取り、甘く灼ける酒を飲み干す。
この話題は、今はここまで。
「次」は、もっとしっかりと、その場で思いついた走り書きではなく、祖父たちを…そして、クロムを納得させる案を出す。
とんでもなく難しい、けれど、やるしかない。
咽喉と食道を走り抜ける酒の熱と共に、ファンは決意を飲み込んだ。
***
「ここだヨー」
旅駱駝亭の若女将が案内したのは、一見ごく普通の民家のような建物だった。
四角い箱型の建物の入り口には、旅駱駝亭と同じように分厚い布が垂らされ、外気を遮っている。見た目通り重たいそれを、若女将は躊躇いなく捲った。
「いらっしゃいませな~」
「お客さん連れてきたヨー。二階あがるヨー」
「どーぞどーぞ~」
返答は西方語で、一行を迎えたのはひょろりと細い青年だ。すぐに、彼によく似た顔立ちの少女が籠を手に歩み寄ってくる。
「アステリアから来た人たちだヨー。冬支度必要だヨー」
「ほいほい、承知承知。それじゃあ、声掛けてきますねえ」
建物の中は、入り口に大きく浅い箱が置かれ、その箱の高さに合わせるように床が高くなっている。建物自体は煉瓦でつくられているが、床には木の板が嵌められ、その上に絨毯が敷かれていた。
内壁はなく、広い一間をいくつかの衝立で仕切っており、右手奥には木庭の階段が見える。衝立の向こうには人がいるようで、話し声などが微かに聞こえていた。
「ここはネー、商談をしたり、買い物をするための取引所だヨー」
「お店に行くのではなく?」
「買いに行ってもいいけどネー。サライは容赦なくぼったくるからネー。若様も一緒なら値切ってくれるけど、ワタシも店もどらなきゃだしネー」
わかったようなわからないような心持で若女将に続いて靴を脱ぐと、店の少女がニコニコと笑いながら籠から布靴を取り出し、並べる。旅駱駝亭のものと違って刺繍などはないが、代わりに鮮やかな色に染められていて、少女たちの口からは歓声のような吐息が零れた。
「上履きもご入用です?」
「そだネー。靴下と上履き、両方いるヨー」
「はいな~」
心得たと頷いたのは、最初に声を掛けてきた青年の方だ。客人らが全員店の中にあがったのを見てから、入れ違いに外へと出ていく。
「こっちヨー」
戸惑う神官達に手招きをして、若女将はずんずんと階段に向かって歩き出した。慌ててその後を少女たちは追いかけ、さらに続こうとしたロットたちを、やんわりとガラテアが留める。
「女の買い物に男が混じるのは良くないな」
「そうだネー。旦那さんらは一階ネー」
「はあ…」
目を瞬かせるロットの肩をつんつんとシドがつつき、衝立を視線で示す。
「あそこがあいている。あっちに行こう」
「ええと、そういうもの…なんですか?」
「俺も詳しくはないが、たぶん。知っていることは、座ってから話そう」
「あ、そうですね。入口で立ってたら邪魔ですし」
店の少女をちらりと見ると、にこにこと笑ったまま頷かれた。そういうものであるらしいと飲み込んで、シドに続いて絨毯を踏みしめ、店の奥へと進むべく布靴を履く。
「あんたもこい。商売の邪魔になる」
入口で直立不動の姿勢を取ろうとしたレイブラッドに、シドはひらりと手を振って見せた。
眉を寄せる騎士の腕に、ロットが手を掛ける。
「シドさんの言う通りです。行きましょう」
「…信用できるのですか?」
「今更でしょう」
警備するつもりだったらしい騎士の腕を引き、ロットは困っている弟子にもシドについて進むように促した。
衝立で仕切られた囲いはざっと見て六つほどあるが、半分ほどは埋まっているようで、人の声や気配がした。漏れ出る声が何を言っているのかはわからないが、明るく笑い声が混じる。
午後の陽射しとあちこちに置かれた火鉢に暖められた店内の空気は穏やかで、初めて足を踏み入れる緊張感はあるものの、それよりも物珍しさの方が勝った。
興味深げに周りを見回しながら進む神官師弟に、騎士も眉を寄せたまま続く。
その様子を見ながら、シドは先ほど指し示した衝立の奥へと潜り込んだ。
見事な鹿の透かし彫りが施された衝立は、壁以外の三方を塞いでいる。中にはもう一枚厚手の絨毯が敷かれ、座布団が五枚、適当に置かれていた。
壁際に陣取り、座布団を引き寄せながらシドはさっさと腰を下ろす。ロットたちも同じように座り込むと、絨毯の下に更に何か敷かれているようで、床の硬さや冷たさは全く感じない。
三対の視線に促され、渋々ながらもレイブラッドも膝を折り、落ち着かなさそうに絨毯に腰を下ろした。
先程の店でもそうだが、こうして座るなら、靴を脱いで上がるのは当然だと感心するロットとウィルに、シドが「ここは取引所だ」と告げた。
「取引所は…客がこういうものが欲しいと伝えると、扱っている店から商品をもって商人がやってくる。今回みたいに、色々なものを買う時には手っ取り早い。少し割高になるが」
「アスランでは一般的なものなのですか?」
「たぶん。俺も大都くらいしか知らないが」
「えと…でも、あの、買うのって、肌着と手袋…とかですよね?その、店は一軒いけばいいのでは…」
無駄遣いして来いと言われてはいるが、そう言われたからといってパーッとつかえるような度胸はウィルにはない。おそらく、師であるロットにもないだろう。
少しでも安くなるなら、せめて自分たちだけでもそうするべきなのではないかと思ってしまう。
だが、シドはふるりと首を振った。
「いや…アスランじゃ、靴下と外套を同じ店じゃ買えない」
「え、でも、同じ身に着けるもの…ですよね?」
「小さな町ならわからんが、サライくらいの街なら外套を売るような店はそれしか扱っていないし、靴下やなんかの肌着を扱う店には帽子や靴はない。帽子は帽子屋、靴は靴屋にしかない」
思わず、師弟は顔を見合わせた。
二人とも、神殿と言う俗世から離れた場所で暮らしてはいるが、買い物くらいはしたことがある。衣料品店に行けばなんでもある…と言うのが二人の認識だ。
それは神官と言う清貧を旨とする立場でなくても、ごく普通に暮らしている人々も、冒険者だってそうだろう。
ちらりと騎士を見ても、同じような表情を浮かべているのだから、決して自分たちが世俗に疎いわけではない。
外套や上着は解れれば繕い、破れれば継ぎをあてる。親から子へと引き継ぎ、親子どころか孫まで同じ外套を着ていることも珍しくはないほどだ。どれほど良いものでも、年に数着売れるだけでは商売にならない。専門店があったとしても、それは貴族相手の工房と言うやつだ。
だがどうやら、アスランでは違うらしい。
「服だの帽子だの靴だのを一緒に売っている店はあるが、そういう店は高い。名牌品を売っているか、俺にはよくわからんが、似たような傾向の一揃えを買う店だ」
「妹弟子たちを連れて行ったら、大変なことになりそうですね…」
「あのくらいの年頃でも買える程度の品を集めている店もあるそうだ。一つの建物の中に、服屋や靴屋なんかが並んでいるらしい。縁がないので行った事はないが」
軽く肩を竦めると、シドは壁に背を預けた。氷青の双眸が瞼に隠される。
「寝ていても、何かあれば起きる。ファンの顔を潰すような真似はしないだろうから、変なものは売りつけられない。安心して選んで買うと良い」
言い切った後、零れるのは穏やかな寝息。あっという間に寝入った顔を見て、ロットが笑いながら溜息を吐く。呆れたのではなく、自分の緊張の糸もきれた。そんな安堵の溜息だ。
「…お疲れだったのだろうなあ。私もひと眠りしたいくらいだ。緊張しすぎたよ」
「師父、あの、かっこよかったです!あの、橋の人たちに向かって行った時…僕は、動くこともできなかったのに」
「師父、じゃなくて先生で。先生と呼ばれるほどのものでもないけれど」
「あ、すいません…」
左方では師の言葉は絶対であり、決して逆らってはならないものだった。
だが、右方ではそうではなく、いつか弟子は師を超え、善き友となれるようにと教える。
ロットも左方から右方へ入門しなおした経歴を持つ。弟子の戸惑いがよくわかるのだろう。今のは失敗でも何でもない、と言うように笑って、話題を変える。
「さて、妹弟子たちがはしゃぎすぎていないと良いけれど」
「そうですね…でも、その…」
「はしゃいでる…よなあ」
「…ええ」
「エルディーン様も…お元気になられて良かったのですが…」
三人の視線は、衝立の向こうにある階段へと、そしてさらにその先へと向けられた。
正面から見ると、階段にも絨毯が敷かれ、艶やかな木目を彩っている。
片側は壁、もう片側は床から天井まで柵が備えられ、床に近い場所には野の花や兎、中程には鳥、二階に近い部分には、雲と天女のレリーフが嵌めこまれていた。
二階も一階と同じく、広い一間を衝立で仕切っている造りだが、内容が少々違う。
敷かれている絨毯がより一層華やかな模様になり、衝立は透かし彫りの木枠ではなく、精緻な刺繍の施された布が銀の枠に掛けられたものだ。置かれている座布団も、花の形をしていたり、ふわふわとした飾りがついていたりと可愛らしい。
幽かに聞こえる他の客の声は女性の声で、全体的に「女性向け」であるように思えた。
「二階は、女性専用なんですか?」
「そだネー。専用ってわけじゃないけどネー。アスランの取引所はどこもこんな感じヨー」
「そうなんですか?」
「女の買い物は長いネー。一日つかうこともあるでショー。男はさっさと出て行けるように一階、女は二階を使うのヨー。じゃあ。あたしは店もどるヨー。若様たちが迎えに来るだろうから、それまでここにいてネー」
にっかりと笑って手を振り、若女将は登ってきた階段を下る。入れ違うように先ほどの少女とは違う若い女性が、薬缶と籠を下げてやってきた。若女将と親しげに挨拶を交わし、軽やかな足音を立てながら歩み寄る。
「今、商人を呼んでいますから、しばらくお待ちくださいね」
「商人を呼ぶ?」
エルディーンが首を傾げ、ナナイとガラテアが「ああ」と頷いて、シドと同じような説明を少女たちにした。反応が驚きや戸惑いよりも「素敵!」「どきどきする!」などなのは、取引所の二階が女性用になっているのと同じ理由からだろう。
「こちらのお茶と茶請けはサービスです。ただし、セルフですけれど」
籠からカップと、緩く縛られた布包みを取り出し、それを絨毯の中央で解く。白い布の上に転がっているのは、色とりどりの干し果物だ。
「商人が来たら連れてきますからね。寛いでお待ちくださいな」
「わかった。よろしく頼む」
「はいな」
明るく笑って女性は来た時と同じように歩み去る。どうしようと顔を見合わせる少女たちに、ガラテアが籠を指さした。
「冷めないうちに茶を戴こう。注いでもらえるか?」
「あ、はい!」
「そうだね。アスランだと、出されたものに口をつけないのはすっごく失礼にあたるから、皆お腹いっぱいでも一つくらいずつは食べて」
「全部食べれそうだったり?」
「さっきまであんなにお腹いっぱいだったのになあ」
明るい笑い声と共に、少女たちがてきぱきと動き出す。分担してカップを配り、薬缶から茶を注いで、白い布の上で存在を主張する干し果物を見分し始めた。杏と葡萄は判るが、一際存在感を放つ深い赤い実がわからない。
「これは干し棗だよ。ただ干しただけじゃなくて蜜漬けになっているから、甘くておいしいし、お茶に入れても良いんだよ」
「へえ~!食べて見よ!」
さっそく手を伸ばしたコニーがぱくりと齧りつく。途端に口の端が持ち上がり、目が輝いたのを見て、他の少女たちも手を伸ばした。
「あまっ!」
「不思議な食感ね!半分はお茶に入れてみようかな」
「うんうん!」
「棗は食うと髪が綺麗になるとアスランでは言われているな」
「そうなんですかー!」
「あ、でも、一日三つまでにしとかないと、お腹が張っちゃったり、逆に緩くなるからね」
「だいじょぶ!一人二つだから!」
いち、に、と数えれば、どうやら三つ目はないようだ。安堵してしまったのは、数があればあるだけ手が伸びてしまう、その誘惑を防げたからだろう。
髪が綺麗になるのは大変興味があるが、お腹を壊すのはいただけない。ちょっと花摘みに行きたいので…と馬車を止めるには、相当な勇気がいる。
そのあたりの事情を察したのだろう。ガラテアが己の髪を一房摘まみながら、口を開く。
「カーランでは棗を絞って髪に塗るそうだ。かの国では、髪が美しいことが美女の条件の一つであるらしくてな。アスランでも売っているから、買うと良い」
「あ、それならさ、エリーちゃん、それ買おうよ!」
「え?でも、高価なものでしたら…だったら、ちょっと…」
「だって、ファンさん、お母様がカーランの方なんでしょ?髪が綺麗な人、好きかもよ?」
「そっそれはっ!!」
真っ赤になって棗を齧るのを止めたエルディーンに、少女たちはきゃあと歓声を上げる。
ガラテアは微笑ましそうにそれを見守り、ナナイは僅かに口の端をひきつらせた。
「え…もしかして、エリーは、ファンの事…好きなの?」
「す、すす、好きだなんて!そんなそんな、いえ!!ファン殿はと、とても、とても素敵なかたですけどっ!!」
「あー…」
困った顔で頷くナナイに、タバサが思案顔を向ける。
「もしかして…ナナイもファンさんのこと…」
「それはない」
きっぱりと音がしそうなほど断言して、ナナイは言葉を続けた。
「ファンはなんていうか、従兄弟のお兄ちゃんって感じだし。小さい頃、一緒に育ったしね。恋愛感情は絶対にない」
「そ、そう…それはよかった…」
あからさまにホッとした頷いて、それがつまり先ほどの質問の肯定になっていると気が付き、エルディーンは耳まで赤く染める。
新しい友人の、誰が見ても分かる恋心に、ナナイはしばし考えこんだ。
(どうしよう)
はっきりと言っておくべきか。それでも好きだと言うのなら、それから応援しても良いのだし。けれど、そうではなかったらあまりにも友人に対して残酷なことをしようとしているのではないだろうか。
(でも…僕なら耐えられるかって言ったら、絶対に嫌だしな…)
沈黙してしまったナナイに向けて、まだ真っ赤なエルディーンが口を開いた。頬まで染めてはいるが、どこか諦めたような、痛みをこらえているかのような表情は、この恋が実らないことを他の誰でもない自分が分かっている。そんな顔だ。
「身分違いなのは…わかっているのだけれど」
「でもさ!!貴族のお姫様と冒険者の恋って、お話によくあるよ!」
「うんうん!そうだよ!」
「あ、えと、そうじゃなくて…」
あ、エリーはファンがどう言う人かわかっているのか、とナナイは内心に頷いた。まあ、確かに、子爵家のお嬢様と冒険者では身分が違いすぎる。
実際には、アスラン王国二太子と隣国の子爵家の娘と言うもっと隔たった身分の差なのだけれども。
しかし、ナナイが言いたいことは違う。もし、身分の差だけが問題なら、ファンはもちろん、両親も兄も気にしないだろう。むしろ、虫や植物より人間の女性に興味を持ったと大喜びする。
そう。問題はそこだ。
「えっと、ファンって冒険者の前に学者なんだ」
「学者様なら、冒険者より認めてもらえそうじゃない?!」
「ねー!」
盛り上がる友人たちに、ナナイはこの先を告げるべきかどうか、本気で悩んだ。
だが…遅かれ早かれ、友人は知ることになる。
それなら、まだ恋の病と呼べないような引き始めのうちに手を打つほうが良いだろう。それでも良い!と盛り上がって、ふとした時に思いだして苦しむよりは。
「博物学って言って、なんていうか、色々なものを分類する学問なんだって」
「私の叔父もそうだった。魚や貝や海毛虫を集めては絵にかいて説明文をつけていたな」
「そうそう。そういう学問なんだけれど…ファンはとにかく、自分で確かめたい派なんだよね」
実際に手に取り、眺め、どういうものかを調べる。その興味の対象は、けっして動植物や鉱物だけにとどまらない。
「その中には、その土地の文化とか風習とか…そういうのも入っていて、そこの人たちが食べるものなら実際に食べて味の感想なんかも書き記していくんだ」
ファンがアステリアに来る前。カーランとの国境にある、天卓山地で行ったという調査をもとに書かれた『天卓博物誌』。執筆者の一人として名前が載っているんだ~とはしゃいだ手紙と共に送られてきたそれは、確かに興味深い書物だった。
一年のほとんどを霧に覆われる山間に住み、山の斜面にあるわずかな平地を棚田として利用し、足りない食料はど森から採集して生きる人々の記録。絵で見ても実在が信じられないような不思議な動植物。
ファンが綴った項は、十分に面白かった。ある項目以外は。
「それが…なんであろうとも…。あのね、エリー。君、虫って平気?」
「え…」
「芋虫とか、蜘蛛とか」
「ぜんぜん、平気じゃない…」
うん、とナナイは頷いた。彼女たちがマルダレス山で何に襲われたのかも聞いている。なお一層、恐怖の対象になったかもしれない。
「ファンはね…それが現地の人たちが食べるものなら、食べちゃうんだよ」
「……!……!!!」
詳細に書かれた、昆虫食に関する項目。食べ方や調理法まではまだわかるとして、味まで記載されているということは…当然、食べたのだろう。
ナナイの知るファンは、人に食べさせてその感想を自分のもののように書くような人間ではない。間違いなく、食べている。
「芋虫食べた口と…キスとかできる?」
「…無理…」
しん、と静かになった空間に、エルディーンのか細い声が落ちた。
「それに、ファンと結婚したら虫の標本とかに囲まれるからね。嫌がられたら見せないようにするとは思うけど、あいつ、親しくなると油断してくるから。虫触った手どころか、掴んだままやってきたりするよ」
「絶対むりぃ…」
半泣きで首を振る友人に心は痛むし、親愛なる兄貴分の恋を始まる前にぶち壊した罪悪感はある。けれど。
(ごめん。ファン。でもこれはきっと、最良の道なんだ)
盛り上がれば、虫触ったくらいどうとでも…となるかもしれない。
だが、逆に盛りさがった時、こいつ、芋虫食ったんだよね…と思ってしまえば、後は破局まっしぐらであろうし、その時、皮肉なことにファンの身分が離縁を阻む。
アスランでは離縁自体は珍しくもなく、咎められることもない。だが、王族だけは別だ。どうしてもいやだ、耐えられないとなれば、どこかに離宮が建てられて幽閉されて一生をすごすことになる。
同じように、アステリアと違い当然とされる「結婚を前提としないお付き合い」も許されないし、エルディーン自身が受け入れられないだろう。
アステリア貴族の子女にとって、男性に手を触れあうという事…まして接吻など、プロポーズに等しい。結婚する気はないと言われれば、それだけで深く傷ついてしまう。
手を繋ぐことも、頬を触ることも、アスランではただの親愛の表現だ。流石にキスまで行けば…親愛が恋愛に変わるとは思うけれど。
ふと、頬を触る硬い感触の指先の事を思い出す。
心の中で大きく首を振り、ナナイはその指の持ち主の事を思考から追い出した。さすがに、友人の恋路をぶち壊した直後に考えてはいけない気がする。
「ふむ」
嘆くもの、慰めるもの、虫かあ…と眉を寄せるもの。
それぞれの少女たちの、本人たちは大真面目なのだろうが、微笑ましいやり取りに、ガラテアは形良い唇をほころばせた。
「そんなに虫は…駄目なのだろうか。まあ、叔父も生涯独身であったしな」
むしろ、虫がどうと言うより、想いを寄せる女性より、虫に興味がいってしまうのが原因だとは思うけれど。
叔父も夜会で、どこかの淑女と踊り、テラスで一涼み…と良い雰囲気になった時、目の前を過った蛾を追いかけて以来、縁談と言う縁談を断られるようになったのだと、母や伯母が嘆いていたのを思い出す。
叔父自身はまるで気にした様子もなく、海毛虫を捕まえて長さを測っていたものだが。
「ファンもそうなりそうだな」
実も蓋もない未来予測に、商人が来たと告げる声が重なった。




