幕間 東西を別ける
読み飛ばしても本編にまったく影響はありません。
百年前の世界観掘り下げ話になります。
「まあ、この先どうなろうとも、君と私は岩山の小石の如く変わらないのだろうね」
安酒は酔いやすいが、口当たりはまずく、何より臭い。
目の前の友人が吐き出す息には、その臭気と愚痴が混じり合い、色を塗るなら腐肉の緑と紫の混じり合った屍人の肌色だ。
そんな事を思いながら、ザイダルは自分も安酒を呷った。
彼らの国は、もうない。一月前にこの地上から消え失せた。
とは言え、消えたのはカリフタンと言う国の名と、治めていた王族と何万と何千人かの命だ。
王都から遥か西、隣国アステリア聖女王国にもほど近いこの街からも、太守やその家族、役人などがこぞって逃げ出し、残っているのは所謂うだつの上がらなかった連中で、そいつらが我が物顔に怒鳴り散らし、威張り腐っている。
そいつらが役に立たないことは、つい十日ほど前、町の西半分がアステリア軍に占領された時に実証済みだ。
逃げたお偉いさんたちがアステリアの貴族に保護を求め、その見返りに西半分を差し出したらしい。
ふんぞり返っていた連中は戦いもせずに逃げ散って、東西を別ける河にかかるいくつもの橋をぶっ壊し…そうぶっ壊したのだ!あの、新しいものでも百年以上の年数を耐えてきた橋を!…似合わない鎧を着て対岸を睨んでいる。
これが国が敗れると言う事なのかと、ザイダルは茫然と理解した。
一月前までの国が、地上の楽園で何一つ不満も瑕疵もない統治だったとは口が裂けても言えない。
それなら道端で暮らす乞食も、まだ胸も膨らんでいないのに客を取らされる娼婦も、親がパンを盗むのに失敗して飢え死ぬ子供もいないだろう。
だが、一応は誰もが守ろうとする規律があり、好き放題しすぎれば罰せられ、歴史ある建築物を破壊するような馬鹿者はいなかった。
今はそれすらない。騎士団気取りの連中がにらみを利かせているから略奪などは起こっていないが、時間の問題だろう。
幸いにして、ザイダルの家には略奪できるようなものは何もないから、奪われるのは精々自分の命くらいのものだが。
そんな状況で、仕事のない建築家が出来ることはと言えば、自称天才彫刻家の友人と安酒を呷って終わりを待つことくらいなものだ。
ザイダルは、王都カリードダードに生まれた。両親は魔導士であり、兄も姉も、弟も魔導士である。
この国…もうないが…カリフタンでは、『魔導士であるかないか』はつまり、『人間か虫か』くらいの区別になる。
役人や軍人はもちろん、商人や農家に至るまで多少なりとも魔力を持ち、魔導具を使用できることは「当たり前」である。
魔力がない、魔導具が使えないと言うことは、まともな仕事ができない欠陥品である、と見なされるのがこの国だ。
そんな国で「魔導士」を名乗るのだから、ザイダルの一族は名の知れた一門だ。優秀な魔導技術の発展を担う研究者を代々輩出していた名門になる。
そこに魔力を持たない子供として生まれたのだから、おぎゃあと出てきた瞬間に首をキュッとされなかったことを、少しは感謝するべきなのだろう。
一応、ある日突然才能が開花する、と言うことはある。血統が申し分ないのだから、何かのきっかけで魔力が発現することも…そう両親は思ったらしく、一応十歳までは育ててくれた。
愛情なんてものは欠片もなかったとは思うが、それでも路地で鼠を捕って食っている浮浪児に比べれば、はるかにマシな暮らしだ。
結局、十歳で完全に見切りをつけられたザイダルは、父の出張ついでにこの街に捨てられた。
これだけは言われなくても感謝している。
よくぞ、この街に捨ててくれた!と。
道端に放り出されて途方にくれ、いつもと同じようにザイダルは時間を潰すことにした。
適当な石や木を拾ってきて、それを組み立てていく。
上手く壁を作り、屋根を作り、小さな家が完成すると、それを四方八方から突いてみる。
崩れなければうまく言った証拠だ。崩れればどこかに無理がある。だからそれを探す。それはいつの間にかやっていた遊びであり、ザイダルが唯一知っている娯楽だった。
その日もそうして遊んでいると、いつの間にか男が一人、前に立っていた。
男はしげしげとザイダルの家を眺めると、突然、ちょんとはみ出ていた木を押す。
しかし、それでも家は崩れなかった。そこが歪なことは判っていたから、多少動いても大丈夫なように作ってある。
なんとなく嬉しくてにやけていると、男は立ち上がり、手を差し出した。
もっとでっかいもん作ってみる気はねぇかい?坊主。
でっかいもん。その言葉は、空腹と不安にぺちゃんこになっていたザイダルの胸を膨らませるのに、十分な熱量を持っていた。
うん!作りたい!
そう答えてからはや三十年。手を差し出してくれた師を見送ってからももう十年。
名建築家として名を馳せていた師の後を、そりゃもう夢中で追いかけて、結局抜けないまま只管足を引き摺って前へと歩く日々。
手がけた建築物はいくつもあるが、あの日、幼い頃思い描いたほど「でっかいもん」はまだ依頼すら来ていない。
そしてきっと、今後もないだろう。
何せ、「でっかいもん」を頼んでくれるのは金持ちだ。うんとうんと金持ちだ。
つまりは、国とか王様とか、貴族様だ。
その辺はみんな、もういない。
アスランと言う、東の狼によって食い尽くされた。
ただ、目の前で管を巻く自称天才彫刻家の友人らしい詩人の話によると、狼の巣で裸で踊っていたら噛み殺されたと言うべきことであるらしい。
そんなアホなことをする奴に心当たりはいないのでどういう事かと聞いてみれば、もう随分と前から、カリフタンはアスランにちょっかいを掛けていたそうなのだ。
アスラン王国。百年ほど前に突如として東の草原に興った、遊牧民の国。
建国王はおっかない男で、自分の父を騙し討ちにした連中に復讐するために着々と仲間を増やし兵を集め、時至れりと雷光の如く近隣部族を平らげ、滅ぼし、仇を皆殺しにして国を興した。
その勢いは二代、三代と続き、四代が先代の女王様である。
彼女は、ある意味普通の人間だった。
ちやほやされることを好み、お説教を嫌い、難しいことを考えるよりも楽しく暮らしたいと思う、ごく普通の人間だった。
当然のようにまともな家臣は遠ざけられ、おべっか使いがのさばる。
そして、どうやらアスランの王はおバカさんらしいと目を付けたカリフタンや他の国が、ちょっかいを掛け始めたのだ。
とは言え、まともに戦えばアスラン軍は強い。
なら内側から腐らせればいいのだと、あの手この手を繰り出す。
もし、ちょっかいを掛けていたのがカリフタン一国だけであれば、今この時、地図から消えていたのはアスラン王国の国名だったかもしれない。
だが、カリフタンとカーランと言う東西の大国、他にも様々な国がこの機にと手を出し、互いに牽制しあったことで、皮肉にもアスランは命脈を永らえた。
その消えそうで消えない命の灯が、とんでもない業火となり、カリフタンを焼き払い、カーランに致命傷となりえる火傷を負わせたのだが。
「しってるかね?アスランの五代目の王は、まだ二十歳にもならない少年だと」
彫刻家のとろりと酒に濁った眼が、浮かれたような熱を帯びる。
「しかも、とんでもない美形だと!ああ拝んでみたいものだ!できれば全裸を!」
「あと十日もしてアスラン兵がここまでくりゃ、不敬罪でしょっぴかれんぞ?」
「かまうものか!美しいものに服など不要!筋肉こそ最高の飾りだ!」
うっとりと視線を宙に這わす彫刻家の濁った眼には、顔も知らないどころか、髪の色もわからないアスラン王の全裸像が見えているのだろう。
***
アスランの五代目の王。
カリフタンを焼き払い、王族全てを皆殺しにしたと言うその王は、四代目の甥であり、孫にあたる。
アスラン四代女王は見目麗しい弟を何よりも誰よりも愛しており、なんとその弟が姪である女王の一人娘を妻にしたいと望むと、あっさりと与えてしまった。五代王になるかもしれない娘をだ。
それでいて、弟の妻となった娘に嫉妬し、さっさとアスランとカーランの国境付近、不毛な砂漠の中に建つ砦の太守に任命し、追い出してしまう。
それは、「生意気にも逆らう妻に見せしめを」と王弟が望んだためでもあった。
しかし、それらは全て、王女を守るために王弟と残った忠臣が仕組んだ芝居だった。
開祖の子は一人ではなかったが、家系が今も続いているのは王家以外では僅か一門。だがそこも後継はなく、開祖クロウハ・カガンの血を後世に残せるのは、もはや王弟と王女の二人だけと言えた。
今の状態では、どこぞかの国の間諜にそそのかされ、王女をあっさりその国に嫁がせるかもしれず、もっとひどい事になるかもしれない。
同じアスラン国内でも、次期アスラン王の夫と言う地位に目をぎらつかせた連中が狙っている。
姪を妻にと望んだのはそれらを避けるためにであり、そうすれば嫉妬深い姉が実の娘と言えど大都から喜んで追い出すとふんでの行動だった。
東方の砦への追放を勧めたのは、そこに信頼できる将が先に追放されており、追放後にどこかの勢力がちょっかいを出そうとしても追い払えるほどの勢力を有しているからだ。
大都から離れた王女を守り、やがて四代を糾弾して禅譲させることでアスランを取り戻す。
それが、彼とまだ残る忠臣たちの計画だった。
ただ、彼は大きな誤算をしてしまう。
不便はないか、辛くはないかと気遣い、自分を危険を顧みず守ってくれた叔父に王女は恋心を抱き、気丈にも不毛の地で「何一つ不自由はありませぬ」と言い切る姪に、王弟は心を動かされた。
叔父と姪である二人は、本気で愛し合ってしまったのだ。
女王の目を掻い潜り重ねた逢瀬の果てに、追放された王女はひそかに男の子を産んだ。実の叔父と姪の間に生まれた子である。アスランの倫理観でもあまりよろしくはない。
本来なら、女王の孫であり、次期女王の息子であり、更にその次の王にもなれる立場だが、その存在は隠され続けた。
あまりよろしくない近親者同士の子であると言うのもあるが、女王がその存在に気付けば、何をするかわからなかったからである。
だが、秘密と言うのは露見するもの。
まして、見つかれば大きな傷となる秘密は、鵜の目鷹の目で探られるものだ。
ある時、ついに女王がその存在を知ってしまった。密告だったとも、どこかの国の密偵が探り出し、佞臣に告げたのだとも言われている。
女王は娘を十年ぶりに呼び出した。
必ず、孫を連れてくるようにと命じて。
王女は息子を連れて王都へと戻り、そして、殺された。
叔父との間に不浄の子を成した、と言う罪で。
二人の婚姻を命じたのは他ならぬ自分であると言うことを、この頃の女王が覚えていたかはわからない。
ただ、彼女が決定的に狂ったのは、この一件であることは間違いないだろう。
処刑を命じ、百人を超す射手が矢を放った瞬間。
刑場に飛び込んできたのは、女王の最愛の弟。
王弟は、その身で妻子を庇った。
無論、人一人の盾など何の役にも立たず、彼はもちろん、守ろうとした妻子にも無数の矢が突き立つ。
大都と辺境の街に引き裂かれ、それでも逢瀬を重ね、手紙をかわし、数える程しかあった事はなくても確かに愛情を育んでいた親子。
三人は絶命の瞬間、しっかりと抱きしめあっていた。もう決して、離れないと言うように。
最愛の弟が自分ではなく娘を取り、そして己の命じた刑で死んだこと。つまり、己が殺したと言う事。
それはもとから崩れかけていた女王の正気を、完全に破壊した。
宮廷は完全に停止し、思い付きで喚き散らす言葉が佞臣どもによって都合よく捻じ曲げられ、日に三つも四つも悪法が濫発される。当然大都は大混乱に陥った。
昼日向から盗賊が横行し、治安を守るべき兵は愛想をつかして家族を連れて王都から離脱するか、自分が奪う側となる。
アスラン王国は女王の狂気と共に崩れていくのだと、誰の目にもそう見えた。
だが、東の果て。砂漠の中で。
もう一人、狂気に目を光らせている者がいた。
王女が産んだのは、双子の男の子。
そして、王都へと連れて行ったのは、兄一人。
ただ一人。
残された弟は復讐の獣として唸り、そして、十五歳…アスランでの成人を迎えると同時に、咆哮を放った。
我はアスラン王国五代大王ジルチ。全てを正す、と。
まず、カーランとの国境の街を落して背後を固め、猛烈な勢いで王都へと進軍する。
この時の戦いで、カーランの皇族が突然死し、ほほ無傷での大勝を得ると言う幸運はあったが、その後の戦に於いて、ジルチは存分にその才を見せつけた。
卓抜した指揮能力だけではなく、個人としてもすさまじく強い。
まだ少年と侮り、首を刎ね飛ばされた猛者の数は十や二十では足りないほどだ。いや、侮らなくても戦って、死者の列に並ぶものも合わせれば、百を超す。
挙兵から一年足らずで王都を墜とし、祖母であり伯母の首を挙げて正式にアスラン王に即位し、宮廷から佞臣密偵を排除してのけただけでもとんでもない。
だが、それからわずか二年でアスラン国内の復興と治安維持を成し遂げると、彼は再び軍を興した。
罪あるものは、償え。
家族を奪ったのは、四代だけではない。
その狂気に油を注ぎ、嘲笑ったものはすべて同罪であると宣言すると、西征を開始したのだ。
それでも、その復讐の戦が始まった頃、カリフタン王国で危機を覚えていたものはほとんどいなかった。
カリフタンには魔導技術によって開発された兵器が無数にあり、攻撃系の魔導を操る魔導士も多い。
ただ馬に乗って矢を射かけるしかできない蛮族などに、負けるはずはないとたかを括っていたのである。
その慢心は、周辺諸国が次々とアスランに攻め滅ぼされ、ついにカリフタン王国に進軍した最初の一戦で打ち砕かれることになるが。
確かに、カリフタンの魔導兵器は強力だ。
だが、その兵器が開発されてから今まで、一度もカリフタンでは大きな戦が起こったことはなく、実戦がどういうものかを知る将すらいなかった。
魔導兵器が魔力を蓄え、その真髄を発揮するよりもはるかに早く。
アスラン軍が用いた投石器が密集した兵器を粉砕する。
ならばと投入した魔導兵は、魔導の射程範囲より先から放たれる矢の雨に打たれ、ただひたすらに屍を積み上げ、魔導具で武装した兵も右往左往するうちに馬蹄に掛けられ、槍に貫かれ、地を赤く染めていくばかり。
王都は巨大な結界を発動させて籠城を試みるも、ジルチの振うアスラン建国の際に雷帝より賜った神具、雷帝斧から繰り出された神雷によりあえなく砕かれ、あっけなく陥落した。
魔力により蒼く染まると謳われるカリフタン王家、シャイード家の血で沐浴場を満たしたジルチは、誰も蒼い血など持っていないではないかと嘲笑ったと言う。
***
見てみたかったな、とザイダルは思う。
魔導兵器を粉砕する投石器。どれほど巨大で、機能美にあふれたものだろうか。
なんでも、それはばらして馬や駱駝の牽く車に乗せることが出来、現地で組み立てられるのだと言う。
素晴らしい。ただ巨大な張りぼてを作り上げるなら誰にでもできるが、実用に耐えるものを作るには緻密な計算と設計が必要だ。
まして、ばらして組み立てるのであれば、当然緩みや歪みが出てくる。技師が同行して指示するのだとしても、長期間の輸送は部品を変形させ、劣化させる。それでも十分な威力を発揮するなら、最初からそこまで計算に入れて設計されていると言う事だ。
ああ、本当に素晴らしい。できれば実物か、設計図を見たい。
建築は芸術であるが、追及するのは機能美であると師は常に語っていた。ザイダルも全く同意見だ。
ごてごてと見た目だけを重視して、住むには向かない家など論外である。
玄関の上のテラスに噴水があればそれは人目は引くが、住んでいる者は常に湿気と黴に悩まされる。吹き抜けを多用すれば明るく見た目も良いが、螺旋階段は地味に疲れるし、強度も下がり、何より冬が寒い。
名の売れている建築家たちが作り出した、『家』とは呼びたくない代物を思いだしつつ、ザイダルは更に酒を呷った。咽喉が痛い。
「まあ、こんな辺境には王様自らは来ないだろうよ。将軍を一人送って制圧しておしまいじゃないか?」
咽喉の痛みとコンプレックスを誤魔化すため、ザイダルは征服者を思って身悶えする友人に掠れた声を放り投げた。王都はすでに陥落している。それなら、西の果ての街までわざわざ来る必要はない。
放っておかれることもないだろうが、王自ら略奪しに来るほど裕福な街でもないのだ。この街は。
この街の財産は、この地に流れてきた芸術家たちが残した建築物や彫刻であり、全ての財産を身に着けるという遊牧の民が好むような金銀宝石ではない。
そういうものもあるにはあったとは思うが、とっくに逃げた連中が持って行ってしまったのだろう。太守館は絨毯まで引っ剥がされていたともっぱらの噂だ。
そうなると、略奪対象はおそらく人だ。ここ十日ばかり、町で女をほとんど見掛けない。皆、家の奥深くにこもっているのだろう。
アスラン軍が殺到すればどこにいても同じだが、今うろついている連中からは隠すことが出来る。
「わからないさ。カリフタンを完全に滅ぼしたと宣言するために、この地にも来るかもしれないよ。ああ、無粋な槍に貫かれる前にせめて一目…」
「一目見たら、彫像を一体彫り上げるまでとか何とか言って、死にたくなくなるぞ」
「なに、幽霊になって彫り上げるさ」
朗らかに彫刻家は笑い、空を仰ぎ見た。
時刻はまだ朝と呼べる頃合い。家の中で酒瓶を開けると臭くてたまらないと言う理由で、二人は石材が積み上げられたザイダルの家の庭で飲んでいた。
伸び放題の草は、そろそろ枯れて土に還ろうとしている。野外で飲むには寒い季節だが、酔っぱらって凍死するのも、馬の蹄に踏みつぶされて肉泥になるのも大差はない。死は死で、それはもうすぐそこまで迫ってきているのだから。
アスラン軍が街へ到達したのは、それから三日後の事だった。
威張り腐った連中の構築した防衛線など文字通り一蹴され、ザイダルは人馬一体と言う意味を目の当たりにした。
積み上げられた瓦礫や、雑に組まれた柵などものともしない。飛び越え、乗り越え、何もなかったように駆け抜けていく。
誰かが「アスラン軍だ!」と叫んだ声から、太守館の前に騎士団気取りの連中の首が積み上げられるまで、半日どころかその半分もかからなかっただろう。
次は街の略奪かと、酒を飲みながら見物をしていた屋根から降りて、気に入りの長椅子に寝転がり、その時を待つことにした。
待ちながら、城壁をどうやって越えたのだろうと思いを巡らせる。何か兵器を使ったのだろうか。投石器ではないことは確かだ。破壊音は聞こえなかった。
できれば、殺される前に聞いてみたい。答えてくれればいいが。あ、タタル語はまったくわからんなと次々に考え、可笑しくなって笑い、そのまま酔いに任せて目を閉じる。
肌寒さに目を開けると、ランタンを持った彫刻家が呆れた顔で見下ろしていた。
ランタンが必要なほど暗いと言うことは、それだけ時間がたったと言う事だ。どうやら完全に寝こけていたらしく、ついでに言えば死んでいない。
客のランタンの光を頼りに室内を見渡しても、何も壊れたり奪われた様子はなく、テーブルの上の飲みかけの酒まで手つかずだ。
「…貧乏人だと家見ただけでばれたんかな?」
「君と言う男は。今日くらいは飲酒を控え、正気でいたまえよ。昼過ぎに、アスラン軍から告知があったよ。三日間の猶予を与えるから、望む者は退去するように、とのことさ。その際、全財産の一割を徴収すると」
「…望まなければ?」
「アスランの民として生き、定められた税を納めること。アスランの法に従う事。なお、前より税は安いね。非魔導士税がないから」
「はあ?」
つまり、アスラン人になりたくなければ、三日のうちに出て行けと。
だが、それを拒まないのであれば、今まで通り暮らせる。そういう発表だ。
「残るなら一割没収もないのか?」
「そのようだね。略奪も起きていないよ。むしろ、この騒ぎに紛れてやろうとした連中が串刺しになっているけれど」
「…そうか。やっぱり、あれだ。機能美の良さを分かる連中は、蛮族なんかじゃないな!」
「無駄にこそ美は宿ると思うけどもねえ。まあ、いいさ。とりあえず、僕は今日からアスラン人になるよ。君はどうする?」
「アスラン人になっても酒の味は同じだろうさ」
「違いない」
くつくつと笑いながら「飲もうか」と彫刻家がランタンを持っていない方の手を掲げる。
そこに握られた酒瓶は、いつも飲んでいる安酒よりも上等な酒だ。
「飲むともさ」
最底辺から下の下になった程度の酒ではあるが、それでも今日の酒は旨いだろう。
どうやら、まだ自分は石と木を組んで建物を作れるようだ。
それは、ちょっとだけマシな酒で祝うに値する。
***
「あー…」
ちょっとだけマシな酒は、ちょっとだけ強かった。
彫刻家は朝日に照らされながら、芸術的な姿勢で床に転がったままである。大股開きで片脚だけ机に乗せ、手は右手を頭上に左手を垂直に伸ばしたポーズを名付けるならば、『迷惑な酔っ払い』だろう。
それよりはまだ見られた格好で目を覚ましたザイダルは、顔を洗うために庭に出た。片隅にある小さな池は、ある日突然水が湧き出して出来たもので、いつでも新鮮な水を湛えている。二日酔いの朝にちょうどいい冷たさだ。
酒でむくんだ顔に水を叩きつけ、口を濯ぎ、ようやく泥のようなものから人間に戻れた気がする。
うん、と伸びて欠伸をしたところで、庭の入り口に佇む人影に気が付いた。
まだ、若い。少年と言っていいような若者だ。
毛皮のマントを羽織り、頭巾のような形の帽子をかぶっている。
見慣れない衣服は黒と赤を基調にしていて、首元や手首にはじゃらじゃらと金の装身具が重ねられていた。
アスラン人だ。
咄嗟に思ったのは、そのこと。
遊牧の民は持てるだけの財産を身に着ける。あまり似合わない仰々しい金細工も、彼は身を飾るためではなく、財産として持ち運ぶために纏っているのだろう。
勿体ない、と続いた感想は、あまりにもその金細工がごてごてとして悪趣味で、彼に相応しいとは思えないものだったからだ。
筋肉こそが最高の飾りだと喚く友人の言葉も今なら頷ける。
何かを熱心に見続ける若者の顔立ちは、それほどまでに整っていた。
帽子から零れる、淡い金色に輝く髪。まるでそれは、今降り注いでいる朝日のような色合いだ。
見上げている双眸は、それよりも濃い金の色。こちらは満月の色だとザイダルは頷いた。
一人の人間が、太陽と月をその身に宿している。なんという贅沢か。
ふと、その満月色の双眸がザイダルに向き直った。
美の神が全神経を注いで、怜悧な刃物を用いて切れ目を入れ、この形を作ったのだと言われても信じられるような目鼻立ち。
目がぱっちりとして、鼻は大きく高く、唇が分厚いのが美形の条件ではあるが、一重の切れ長であっても、高くも大きくもない鼻であっても、薄い唇であっても、美しいものは美しい。
大輪の薔薇ではなくても、凛と咲く桔梗は美しいのだ。
「お前が、あれを作ったのか」
放たれた声は、カリフタンの言葉だった。少したどたどしいのは、彼の母国語ではないからだろう。
それでも、征服者が被征服地の言葉を覚えているということに、ザイダルは驚いた。
「言葉、伝わらないか」
「あ、いや、ちゃんと伝わっているよ。あれってのは…」
若者の指さす先へ、ザイダルは身を捩って視線を巡らせた。
そこには、ザイダルの家がある。より正確には、二階から隣の塔にかかる、空中回廊があった。
塔の中はザイダルの仕事部屋だ。塔には入り口がなく、二階の廊下から空中回廊を通って行くしかない。誰に頼まれたのでもなく、コツコツと組み上げ、作り上げた秘密基地である。
アスラン軍がやってきたら匿ってくれ、と頼まれて、昨日までは近所の女子供が何人も隠れていた。彫刻家がやってきたときにはもういなかったが。
たぶん御礼くらいは言われたと思うが、記憶は曖昧である。
「ああ、そうだよ。俺が造った」
「壊れないのか」
「壊れないように造ってある」
若者は溜息を吐いて頷き、再び熱心に空中回廊を眺めた。
異国の若者を感動させているらしいという事がようやく脳に浸み込んで、ザイダルはアスラン人に対する見解に「芸術を理解する」と言う一文を付け加えた。たぶんその文字は得意満面に踊っている。
鼻の穴を膨らませるザイダルに、若者は視線を戻した。形の良い唇が開かれ、磨き上げられた貝殻のような白さの歯が見える。
友人ならうざったいくらいにその美を褒めちぎり、そこら辺の石に鑿を叩き込みそうだ。
そんなことを思っていると、若者は少し首を傾げてから、言葉を発した。思いついた言葉を、翻訳していたのかもしれない。
「橋を作りたいのだ」
「橋?」
「橋だ。大きな橋だ」
戦で一旗揚げて、故郷に橋を架けたいのだろうか。
橋の建築は個人でどうにかできるものもあるが、基本的には国や街の仕事だ。どれだけ住人が不便を訴えても、お上が聞く耳を持たなければどうしようもない。
だから戦で活躍して、褒美として橋を架ける許可を得たいと思っているのなら、なんとも健気だ。美形の上に健気だなんて、上司や上官やお貴族様にいいようにされないか心配ですらある。
これだけの美形なら、男でもいいという連中は履いて捨てる程いるだろう。ザイダルだって本来その気はないが、頷く自信がある。
とりあえずそんな感想を心中で踏みつけ、地面に埋めて真面目くさった顔を作った。
「大きな橋か。それがないと大変なのかい?」
「どうだろうか。わからない。だが、不便ではあるように思える」
「ふむ?」
「東西をつなぐのは、良い事、悪いことがある。だが、作ることで東と西が別たれる。俺はそれが欲しい」
言っている意味が解らない。
東西をつなぐ?東西をわける?
確かに、橋が掛かれば橋の向こうは東でこちらは西と、わかりやすくなるだろう。この街のように。
「ここから東は我らの領域であると、知らしめようと思う。祖の如く、地の涯てまで飲み込む気はないから」
「ううん、すまん。お前さんの言っていることがよくわからんのだが…」
「この街で、世界の東と西を別けたい。河をもっと広く、深くし、街を二つにする。半分に割り、高い壁で覆い、その壁から伸びた橋で東西を繋ぐ。できるか?」
「…つまり、今、街のど真ん中を流れているシムルグ河を改修して、もっと川幅を広く、川底を深くする。ここまではいいな?」
「いい」
こくりと若者が頷く。
ザイダルは脳裏に、その設計図を描こうとして首を振った。「ちょっと待ってろ」と言い残し、まだ友人が前衛的に転がっている居間から羊皮紙と炭をもって飛び出し、いつか何かに使えると思って放置してある大理石の巨塊に広げる。
「まず、川幅を広げて、街を二つにわける、と」
今は小舟が四艘ほど行き交える程度の川幅だが、それを倍にすると仮定する。
かなりの数の建物を壊し、住人に立ち退きを迫ることになるが、今は考えない事にしておいて、二つの半円を描いた。
「外壁は今は河を跨いで円形になってっけど、それをちとぶっ壊して、完全に半円形にするってことだよな?」
「そうだ」
「で、そっから橋を伸ばす、と」
新たに作った内側の壁に城門を築き、そこから橋を架けるという事か、と描いていくと、若者の首が左右に振られた。
「違う。ああしたい」
指さすのは、空中回廊。
「城壁からああいうのが出て、東西を繋ぐ。屋根があり、壁があり、その中だけ東西が混じる」
「屋根があり、壁がある橋、か…」
聞きながら描いていくのは、巨大な建物と呼んでいい橋だ。
流石に、橋桁がいる。世界の東西を繋ぐなら、通行量はとんでもないことになるだろう。馬車が余裕ですれ違えるような広さと、強度が欲しい。
橋桁が支えない部分に負担がかかるから、上手く散らさなくては。
高さもあるなら、風の抵抗も大敵だ。壁には窓が絶対に要る。風を通り抜けさせ、けれど通行の妨げにならないように。また、その風に逆らい続ければ弱い部分から折れていってしまうから、ある程度揺れるように。
「できるか?」
「まあ…な」
ある程度夢中で描いてから、ザイダルは自嘲と共に手を止めた。
何をやっているんだ俺は。子供の言う事にマジになって。
「できるさ。ただな。いくつも条件がいる」
「条件?」
「まず、金だ。とんでもない金が要る」
材料の煉瓦を作るだけでも、どれほど金が必要になるか。
ある程度は城壁の一部を壊したものを流用できるだろうが、その十倍…いや、百倍は新しく作らなくてはならない。特に、根幹部分に使うのは、特別に硬く丈夫なものでなくては駄目だ。
「それから当然、人手だ。あと、時間。十年やそこらで終わるような工事じゃないぜ」
「そうか」
「で、建築家」
「お前では駄目なのか?」
「一人じゃどうしようもないねえ。最低、河の改修と城壁造りと橋の建築で三人は必要だな」
河の改修は建築家の仕事ではないだろうが。
つまりは、夢物語だ。この若者がどれほど武勲を立てて、例えばこの街の太守になれたとしても、そんなに金がかかることを王様に認めさせるのは難しい。
そもそも、太守になるのが大変だ。いくら美形でも、顔だけで何とかなるものではない。
だが、若者はふむ、と頷き、なにやら考え始めた。だから諦めろというザイダルの意志を汲まず、まっとうな助言と受け取ったらしい。
「いくらかかるのかは、見積もりを出さねばならないな。イシダジブに計算させよう」
「ん?」
「お前の他に、後二人だな。理解した。イシダジブと親しかったものが城壁づくりを得意としたらしいが、それはこの世にいない。お前、誰か知らないか?」
「んん?」
「知らないのか。良い。許す。もし、思いだしたら推挙せよ」
「あのな、お前さん…夢はでかいほうが良いけどさ」
一瞬、とても楽しかった。
世界の東西を別ける橋。そんなものを、もしこの手で設計出来たら。造れたら。
でっかいもんを造りたくて、自分は師匠の手を取ったのだから。
だが、夢物語は現実にはならない。
莫大な金と人手に時間。
時間なら持っているが、他の二つには縁がない。
「王様でもなきゃできねぇよ」
「…?王ならできるのだろう?」
「いや、そりゃそうだが…」
「だから、俺は命じようと思う。イシダジブは水攻めをした事があると言っていた。河川の改修は任せても良いか」
とりあえず、そのイシダジブというヤツを酷使しすぎだろう。
会ったことのない、この若者の友人だろうか?に深く同情しつつ、さて何と言ってよいかと思案するザイダルの耳が、馬蹄の響きを捉えた。
ほとんど間を置かず、騎馬がザイダル家のささやかな門の前に止まり、騎手が飛び降りてくる。
『ここに居る』
『勝手に動き回るなと何千回言えば理解する?』
『聞く気はないから何万回言っても無駄だな』
交わされるタタル語の会話の意味は分からない。
わからないが、馬の鞍から降りるやいなや少年の頭に拳骨をおとした、自分より少し若そうな男がイシダジブであろうとなんとなく推測できた。
神経質そうな顔立ちは、これ以上ないくらいに苛立っている。普段からよほど苦労させられているのだろう。
だが、その苛立ちよりもザイダルの動きを止めたのは、イシダジブ…と見られる男に続いて馬を止めた、十人以上の騎馬兵だった。
決して雑兵ではない。手に持つ武器や、纏う甲冑が上質すぎる。
そんな騎士たちが、鞍から滑るように降りて膝をついていく。
「この男に、橋の建築を命じる」
『はあ?』
続く言葉がカリフタンの言葉であったのは、ザイダルにも聞かせる為か。
「他に、城壁を作る建築家と、河川改修をする建築家?が必要だそうだ。イシダジブ。見積もりを出し、河川改修を成せ」
「…はああ?」
「お前の友、城壁造りの名人だったのだろう?習っていないのか?」
「習っていたら、それもこの俺に成せと命じるのかこの暗君は」
「ちょうどいいかと思って…」
「俺を殺す気か!!!そも、奴が得意としたのは石垣造りであり、城壁ではない!」
「そのへんは臨機応変かつ柔軟に」
「………」
怒りで声も出ない様子のイシダジブに、騎兵たちから気の毒そうな視線が向けられる。ザイダルもきっと同じ温度の視線を向けている。
「ふざけるな暗君。よいか、城壁を築き、橋を架けるという事業は、決して片手間にできるものではない。国家百年の大計だ。
俺が予算を組む。それはやる。他の愚物共に任せてはおけぬ。だが、だが、だが!!指揮だの設計だのは、これぞと見込んだものを吟味し、任せろ!」
「イシダジブならできるかと思って…」
「できるがやらん!!俺が成すより善いものを作る者を選べばよいのだ!!とりあえず、一人はあの男だな!と言うことは、お前のその絢爛豪華に狂った頭の中で、ああいう橋を架けたいと思いついたという事だな!」
おそらく、イシダジブにとってもカリフタン語は母国語ではあるまい。時折、発音がおかしい。
だが、よくもまあこれだけ悪口を交えて捲し立てられるものだ。どうやら押し付けられっぱなしではないらしい。たぶん、半分くらいは押し返せているのだろう。
イシダジブの指さした空中回廊を見て、若者は嬉しそうに笑って頷いた。初めて見る笑顔に、慌てて目を逸らす。あまりまじまじと見ていると、自分の中の可能性に気付いてしまいそうだ。
「おい、そこの汚いの」
「…俺?」
「お前以外に何がいる。良いか?これが良いのは顔と才と血筋だけだ。あとはおかしい。どこもかしこもだ。顔に釣られると一生を棒に振るぞ」
顔と才と血筋が良ければ、後は何が悪いというのか。
吐き捨てたイシダジブは、書きかけの設計図に目を止め、「正気か…」「国庫を空にする気か…?」「カライリの方がまだマシだ…」などと呟きながら、炭を手に何やら書きつけ始めている。見たことのない文字なので、何と書いてあるかはさっぱりと読めない。
「…どれだけ楽観的に見ても、国を傾けるような事業だ」
「傾かないようにすればいい」
「だが、やる価値はある。この西征で大量の捕虜が手に入り、それ以上の浮民がでた。そいつらを一ヵ所にまとめ、監視し、働かせるのは反乱の防止につながる」
「そうか。ではやれ」
「頼みがある。いつか俺が死ぬとき、その前に思い切りお前のその顔を殴らせろ」
「反撃で殺してしまったら許せ」
「許さん」
怒りのあまり頬をひくつかせ、顔を紅潮させたイシダジブの血走った視線が、ザイダルへ向いた。あまりの鬼気迫る表情に、思わず後退る。
「おい、お前」
「お、おう」
「おって、正式に沙汰を出す。この先三十年、酷使されると肝に銘じよ」
「三十年…」
「十年やそこらで、築き上げられると思うたのか?そうならお前の能力を疑うが」
「いや、そうじゃなくて…あのな、その、あんたら、なんなんだ?」
イシダジブの視線は、再び若者へと向き直る。怒りすぎて逆に静まったようにすら思える後ろ姿は、子供が見たら泣くかも知れない。それくらい怖かった。
『おい、お前…名乗りもせず、話していたのか?』
『あ』
『お静まりを!!お静まりを!!』
『放せ!!殴る!!』
『今、反撃でうっかりイシダジブ殿が亡くなられてはアスランの損失にございます!!』
何を話しているかはわからないが、長身の騎士に抱えあげられて子供のように手足を振り回すイシダジブの様子からして、かなり苛つく回答があったのだろう。
おそらく、「降ろせ!殴らせろ!」と騒いでいるのだろうイシダジブに目もくれず、若者はザイダルの前に歩み寄った。
足音もなく、しなやかなその歩行は、まるで猫のようだ。
「我が名は、ジルチ・アルタイハン・アスラン」
「へ…?」
「アスラン王国五代大王。お前は、我が民となるを選んだものか?去るを望む者か?」
「残ろうかと…」
「そうか」
ふ、と唇と双眸が笑みの形を作る。
そして、腰が抜けて座り込んだザイダルを、不思議そうに眺めた。
「あ、アスラン王…様?」
「そうだ。あ、お前の名、知らない」
「お前はそういう事もすっぽかして仕事の契約を結ぼうとしていたのかこのドアホウ!!」
「失念していた。挨拶は大事だと父上も母上も兄上も言っていたのに。俺は悪いジルチだ」
「…い、いや、誰にでもうっかりはあるからな。お前がドアホウなのは変わらんが、その、悪いというほどではない」
結局、一番甘いのはこの男ではあるまいか。
脱力しつつもそう思うが、期待を込めてこちらを見つめる満月色の双眸に背を伸ばす。
「ザイダル…です」
他に何と言えばいいのか。捨てられたときに姓もなくした。建築家なのはもう知られている。売れないとか、理解されないなんて言う前置きはつけたくない。
だから、名だけ。それでいいかと開き直ることにした。
「わかった。ザイダル。これは俺たちはもう知らないものではない。これでよいか、イシダジブ」
「と、ともかく!正式な契約書は見積もりを出してからだ!どれだけの報酬を支払うのか、それはある程度全容が見えぬと決められぬ!よいか、五日後招聘する!その際、どのようなものになるか、大まかでよい!話してもらうから考えておけ!あと、推挙できるものがいればそ奴も待機させておくように!」
「頼んだ。ザイダル。あと、その時には俺もあの橋を渡って塔に行ってみたい」
微笑んだまま空中回廊を指さすアスラン王に、ザイダルはただ頷くことしかできなかった。
***
その後。
名高いシムルグ大橋は、着工から四十五年の歳月をかけて完成する。
大橋の設計、建築指揮を担ったザイダルは完成を見ることなくこの世を去り、その八年後、引き継いだ弟子の手によってようやく開通を果たすことになる。
完成直後はアスランと西方諸国との緊張が続く時期でもあり、貴重な東方の文物を購入できる街として、交易商人はこの橋を渡ってアスラン側の街、サライを目指した。
アステリア聖女王国がアステリア聖王国となってからは、更に東西交易は活性化し、多くの旅人が世にも珍しい回廊のようなこの橋を行き交う。
誰もが、シムルグ大橋を「東西を別ける橋」と呼ぶ。この橋以外にもシムルグ河にかかる橋はあるが、世界の西と東の境目はと聞かれれば、交易商人たちはこの橋だと言うだろう。
ザイダルの名はこの橋と共に歴史に残り、それまで無名だった彼を、どうやって五代大王が見出したのか…それは様々な物語になって残っている。
多くの物語では、世界を別ける橋を作りたいと王が思い、建築家たちを呼びよせて作らせようとするもありきたりなものばかり。最後に謁見した建築家が名は知られていない天才がいるとジルチに教え、会いに行くという話だ。
それが真実かどうかを判断するには、五代大王に仕え、その御代を支えた名宰相イシダジブの日記を読み解くしかないだろう。
だが、几帳面な彼らしくなく、このあたりのことは曖昧にしか書かれていない。
現在でも、シムルグ大橋の試行品とされているザイダルの家と空中回廊は残っており、貴重な橋の設計図などを見学することが出来る。
ただし、塔の中にまで行くことが出来るのは、アスラン王家とアスラン王が許可を出した者たちだけだ。
万が一の時に大橋を一瞬で崩すことが出来る方法を書いた説明書きが残っているからだと囁かれてるが、それよりももっと巷間に広く伝わる噂がある。
塔の中には、ジルチ本人をモデルにした裸像がある、という噂だ。
ザイダルの友人が彫り上げたそれは、細部まで本人そっくりに彫り上げられており、あまりにも精巧すぎるので普段は服を着せてあるのだとか。
だが、決して人目に触れないようにしているのは、裸像はそれ一体だけではなく、名宰相イシダジブのものもあり、衆人の目に触れさせれば千年の怨霊となってアスラン王家を祟ってやる!と言い残したからだ…と。
真実は、アスラン王族に聞くしかないだろう。
それについて尋ねられたことがある、当代の二太子、ファン・ナランハル・アスランはこう答えたという。
真実が美しい物語とは限らない。宝石のように輝くこともあれば、石ころのように地味な時もある。
だが、今もシムルグ大橋は世を東西を繋ぎ、人々はその中を通って東方と西方を行き交う。それでいいじゃないか、と。
彼自身は塔の中を見たことがあるのかと重ねて問えば、曖昧な笑みが返ってきたそうだ。




