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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
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塩を入れたら溶けるまで(乗り掛かった舟)2

 「…おい、お前ら」


 楽しみに最後まで取っておいた茹で卵に被りつく姿勢のまま、ファンは固まった。

 かけられた声のもとには、台所の扉に半分隠れて足踏みを繰り返す中年の男。


 この宿、『樫の木亭』の主人だ。


 建物は古く、掃除洗濯は各自に任され、別に宿代も安くはないというこの宿は、野宿の厳しいこの時期くらいしか満室にならない。逆に言えば今くらいは主人もさすがに忙しいらしく、しばらく逗留するならまとめて宿代を払えと請求されて十日分支払ったのは、三日前。


 「えっと、宿代ならあと七日は支払い済みですよね?」

 「ちがう…そんなんじゃ、ねえよ」


 なんでさらに扉の陰に身を隠し、微妙に頬を染めるのか。

 頬を染めるという表現が、これほど気持ち悪い現象であるのも珍しいよな、と、視線を少しそらしつつファンは思った。


 「じゃあなんだよ。早く要件言って失せろ」


 最後に皿に残ったトマトの酢漬けから視線を離さず、クロムが吐き捨てる

 宿の主人のことよりも、苦手な食べ物を、どうやって好き嫌いを怒られずに(ヤクモ)に押し付けられるか考えている顔だ。


 「お前らに…客だよ」


 早く言え。それはファンたちパーティだけではなく、近くでやり取りを聞いていた冒険者たち全員が思ったことだろう。最初の一声で客の訪れを告げればいいだけなのだし。


 「あ、そうですか…その人は、どこに?」

 「門のとこ…っ!知らない奴だったから…!」


 そりゃあ宿屋なんだから、知らない奴も来るだろうし、ファンたちが顔馴染みの冒険者でも、この宿に泊まっていない連中は多い。


 「よんでやっても、別に…いいけど?」


 ちらりと視線を上げる主人に、ファンの曖昧な笑顔もさすがに凍る。顔を赤らめた上目遣いの中年男に愛嬌を感じられるのはかなり特殊な感性だろう。

 それでも「きもっ!」と罵倒できないのは、ファンの育ちの良さか生まれ持った性格か。

 なんとか話を続けようとして、何を言ったらいいか言葉を探しながら口を開く。


 「あー…えっと…」

 「あらあらあら!朝ごはん中でしたかしら!」


 葛藤の末にひねり出したファンの声が、途中でかき消される。

 陽気な高い声と共に、主人を豊満な肢体で押しのけて姿を現したのは、バスケットを両手で抱えた神官。

 首から下がる夜明けの女神の聖印は、朝の光にキラキラと輝いている。銀のプレートに埋め込まれた貴石の輝きだ。それは彼女の地位が、大神官であることを示していた。


 「え、ええ!?アニスさん!?どうしたんですか、こんなところに!」


 思ってもみなかった「客」に、ファンは危うく茹で卵を落としかけた。

 アステリア王都イシリスを震撼させたマルダレス山聖女神殿跡地の事件で、彼女は大神殿右方の調査団の一人だった。

 ファンたちが王都に戻った後も、麓の村で事件の後処理や犠牲者の埋葬、鎮魂を行っていたはずである。


 事件からおよそ一月。ようやくそれらも終わり、王都に帰還したのか。


 あの事件が完全に終わった証明のようで、なんとなくファンは嬉しく思った。

 もちろん、犠牲になった人々やその家族、大神殿にとっては、まだ生々しく傷口は開いている。だが、一区切りはついた。これからは、起こってしまったことの清算ではなく、これからに向けて動き始める。

 それは、悪いことではないだろう。


 「ファンさんたちにお手伝いしてほしいことが出来まして!」


 飛び跳ねるような足取りで、アニスはファンたちのテーブルへと歩み寄る。

 食べ物の美味しかった村の食事のおかげか、彼女の丸い頬はさらに薔薇色に輝き、豊満な手足は生命力に満ち溢れている。


 「お爺ちゃまがね、呼んできてほしいっていうものですから!でも、ほら、若い殿方ですもの!朝ごはんは大切でしょう?わたくし、ちょっと作ってきましたの!」


 バスケットから布が取り払われると、そこにはみっしりとパンが詰まっていた。


 「お口に会えばよろしいんですけれど!」


 うふふふ、と身を捩り、テーブルの上にバスケットを下ろす。期待に満ちたまなざしがファンたちに注がれた。


 「うむ!いただこう!」


 真っ先に手を出したのはユーシンだ。手に取るとほのかに温かい。大人の拳大ほどもある丸いパンに、ユーシンは大口を開けて齧り付く。


 「うまい!肉が入っている!」

 「ええ、濃い目に味付けをした豚肉のぶつ切りを包んで焼きましたの!いかがかしら?ああ、もしよろしければ、皆様も召し上がって?」


 にこにこと台所にたむろする他の冒険者へ呼びかける。


 「おい、俺らの分が減るだろう」

 「まあ、ほら、俺らは自分らの朝飯も食ったしな?でもクロムはちゃんとトマト食えよ?」

 「…チッ…」

 「野菜を食べないと便秘になりやすいんだぞ?」

 「草を食ってる牛を食えば、つまり草を食ったことになるだろ?」

 「ならないならない」 


 口をへの字に曲げたまま、クロムはバスケットに手を伸ばし、パンを掴んだ。同時に、最後に残ったトマトの酢漬けを箸で摘まみ口に放り込む。

ほとんど噛まずに飲み込み、顔を顰めながらパンに齧りつく。もぐもぐと口を動かす度に、顰めっ面は上機嫌な無表情に変わっていった。


 「あらまあ!東の方は、二本の棒で食事をするというのは本当ですのね!所作が素敵だわ!」

 「箸くらいなら持ってこれますからね。フォークやスプーンも使えますけど、やっぱりこっちのが楽なんです」


 それに採集も箸を使えた方が便利だし。一応食事の場なので、何をとは言わないが。


 「ぼくもねー、だいぶん使えるようになったんだよ!パン、いっこ貰っていいですか?」

 「ええ!お食べになって!さあ、ファンさんも!」


 バスケットを差し出され、ファンはおとなしく手を伸ばした。黙っていたら、口にパンを突っ込まれかねない勢いだ。


 「それで、呼んでるっていうのは…」

 「ええ、そうなの!大変なんですのよ!ああ、でも、詳しいことはお爺ちゃまがお話しするといっていましたから…あ!」

 「あ?」

 「いけない、わたくしったら!こちら、皆様でおわけになっていらして!」


 テーブルの上にバスケットを置き、とたとたと見た目よりずっと軽い足音を響かせて、アニスは駆け出した。


 「ええっと…結構あるな。どうぞ」


 樫の木亭に住んでいるのは、「成功していない」方の冒険者が多い。いつ来ても空いている上に、部屋を借りなければそれなりには安い。不用心だからと庭や床を貸さない宿がほとんどだが、ここは気にせずつっこむ。

 そろそろあの宿屋も卒業しなさいと、ファンは良く怒られるほどだ。

 それでも意外と主人は人を見る目はあるようで、止まっている連中は貧乏だが人がいいのが多い。


 ヤクモより年若い、子供と言っていいような年齢の冒険者が、ベッドではなく床の上とは言え宿に泊まっていられるのは、なんだかんだと報酬は安いが安全な依頼を同じ宿に泊まる連中が回すからだ。無駄話、雑談に見せかけて、冒険者の心得なんかも教えている。

 そんな彼らを…この宿に女性冒険者などという希少種はいない…ファンは好ましく思っているし、仲間意識もある。くれた相手が良いと言うなら、分け合って食べたいと思う程度には。


 「いいのか?」

 「皆さんで食べてって言われたしね」


 一番近くにいたのっぽの戦士が、満面の笑みで身を乗り出した。

 彼は先ほど、乾パンと牛乳で朝食を済ませたばかりだ。それでも水ではなく牛乳を飲めるだけ、まだ余裕があるともいえる。


 「そいじゃまあ、遠慮なく」


 ひょいひょいと、彼は二つパンを取った。


 「ほれよ」


 そのままパンを放るのは、台所の床の上に麻袋を置いて座る二人の少年。

 驚いた顔でパンを受け取り、その重みに顔をほころばせる。彼らの朝食は水と萎びた林檎だった。

 お礼の声とパンに食らいつく音が混じり言葉になっていないが、戦士は気にせず「ほほ、こりゃ美味そう!」と歓声をあげつつ、もう一つパンを手に取り、大口を開けて齧り付く。


 「皆も食べるよな?」


 言いながらも、ファンは立ち上がって「当然!」と手を挙げた冒険者たちにパンを配り歩いた。

 ここで我先にと殺到しないのは、やっぱりこの宿の連中は流民でも破落戸でもなく、冒険者だからだろうと思う。


 「ごめんなさいね!わたくしったら!本当にそそっかしくて!この間もお爺ちゃまを説話室に置いてきちゃって、お爺ちゃまったらそれをいいことにお酒を飲んでね、午後の会談を、そう、うふふ、『サボった』のよ!『サボった』!まあ、悪いことばね!」


 賑やかな声が近付いてくる。どうやら、誰かを伴っているようだ。


 「あら、皆様、お口にあいましたかしら!」


 冒険者たちがパンをむさぼる光景に、アニスは丸い頬を持ち上げて笑った。まだパンを口にしていなくても、彼女が作ったのなら絶対に美味いと思えるような笑顔だ。

 そのアニスの後ろに隠れるように、二人の少女がバスケットを持って佇んでいる。

 二人とも、ファンの記憶にある顔だ。


 「君たちは…」


 豊満な大神官の後ろから、おずおずと少女たちは歩み出る。

 それを見て、ヤクモがきりりと表情を引き締めた。寝癖と口許のパンくずが、精悍さを台無しにしてはいるが。


 「おはようございます」


 年上の少女が、口を開く。


 「私たちも…左方から、アニス先生のもとに移ったんです」

 「そっか」


 彼女たち…聖女候補の少女は、言うならば不正の生き証人だ。

 今回の不正と腐敗は暴かれたとはいえ、彼女らの口から生々しい真実が語られるのを好ましく思わない連中は多い。

 バレルノ大司祭が先手を打って保護をしたのだと、ファンは察した。

 何より彼女らも、そのまま忘れて左方で過ごすのは御免だろう。

 忘れられるわけがない。騙され、商品として売られそうになったことは、彼女たちの心に大きな疵として残り続ける。


 けれど、今、少女たちの顔には苦しみや痛み、恐怖はない。

 あるのは、はにかんだ笑顔。年相応の、こちらの口許も綻んでしまうような。


 「改めまして…私は、タバサ。この子は…」

 「マリーアン、です!あの!」


 少女、というより女の子、と言った方がしっくりくる彼女は、大きな目をきらきらと輝かせながら、一歩前へ進み出る。


 「あの、あの、猫ちゃんの飴…ありがとうございました!」

 「気に入ってもらえたら何より」


 猫ちゃんの飴、というのは、マルダレス山でふるまった飴のことだろう。

 瓶に張られたラベルの絵を、彼女はよく覚えていたらしい。


 「それでね、あのぅ…」


 もじもじと、マリーアンは言いよどむ。


 「なになに?困っていることあるならいってよ!ぼく、助けるから!」

 「こんなガキにその気になってるのか?さすがに童貞は守備範囲が広いな」


 ごん、とクロムの頭に拳骨を落とし、ファンは腰を曲げた。小柄な少女と視線を合わせ、なるべく紳士的に笑って見せる。


 「なにかな?」

 「あの、猫ちゃんのお店、アスランへいったらすぐわかりますか?」

 「うん。動植物園前にあるからすぐにわかるよ」


 ファンの返答に、ぱあっと笑みが広がる。


 「大都(アスク)にいくのかい?」

 「そのことでお願いですのよ!」


 母親のような優しい微笑みでやり取りを見守っていたアニスが、ぽんと弾んだ声を上げた。


 「詳しくはお爺ちゃまに!さあ、タバサ、マリーアン!」

 「はい、先生」


 タバサはまず自分が持っていたバスケットを、ファンたちの卓の上に置いた。

 続いてマリーアンからも同じようにバスケットを受け取り、横に並べる。


 「うふふ、こちらは」


 声を本人的には低く抑え…台所中に響いていたが…アニスは精いっぱい悪そうな笑みを浮かべる。


 「…賄賂…ですのよ!」


 言ってから口を押えてとんでもないことを言葉にしてしまったとでもいうような顔で、きょろきょろとあたりを見回す。


 「美味そうな匂いだ!」


 それに全く注意を払わず、ユーシンは中身を隠していたナプキンを取り去った。

 とたんにふわりと広がるのは、甘い匂い。

 黄色い断面を見せて綺麗に等分されたパウンドケーキが、二つのバスケットを占領している。

 バターと蜂蜜の香りは、甘いものが似合わないむさい冒険者たちの顔を緩ませた。


 「ずいぶん美味そうな賄賂ですねえ」

 「お断りしにくくなるかしら?」


 口を押えたまま、目だけをファンに向けてアニスは囁いた。囁きというには大きすぎる声であったけれど。


 「なりますねえ」


 パウンドケーキの断面の黄色さは、卵を惜しまずたっぷり使った証拠だろうし、甘いけれども胸やけを起こしそうな甘ったるさではない匂いは、かなり上等の蜂蜜を使ったからだろう。

 なにより、彼女らが手間をかけて作ってくれたのだと思えば、それだけでも断りにくくなる。


 しかし、依頼を受けるにしても時間がかかるものはさすがに厳しい。宿代を払い込んでいるあと七日のうちに解決するものならば問題はないけれど。

 冬至までに大都にたどり着くこと。

 それは絶対の条件ではあるが、できれば五日くらいは余裕をもって到着したい。


 「まあ、まずは話を聞きに行こうか」

 「受けるつもりか?」

 「内容によるけど、大司祭だって俺が冬至までに大都に帰らなきゃならないことは知っているだろ。それを邪魔するような事はないと思うんだよな」

 「ま、あの爺さんは金払いがいい。受けれるなら受けてやってもいいな」


 パウンドケーキに手を伸ばし、一つ摘まみながらクロムは口許を緩ませた。

 甘いものなど好みません、というような顔をしているが、意外とクロムは甘党だ。甘いものも辛いものも好きだから、味がはっきりしたものが好きともいえる。

 その分、酸っぱいものは苦手だが。

 ぱくりと食いつくと、目元も緩んだ。お気に召したらしい。


 「甘くてうまい!イダムよ、ターラよ!照覧あれ!」

 「君たちは食べないのぅ?」

 「あら、よろしいの?では、二人とも、いただきましょう!」


 躊躇いなく手を伸ばしたアニスに、少女たちは顔を見合わせ、わずかに肩を震わせたのち、頷きあった。


 「はい、先生!」


 細い手が伸びて、パウンドケーキを一つずつ摘まむ。


 「さって、じゃあ、みんな。賄賂のおすそ分けするよ」

 「待ってました!」


 すでに先に配ったパンは、跡形もない。バスケットが冒険者たちに回され、順繰りにパウンドケーキが減っていく。


 「うふふ、大勢で食べると、美味しいですわよねえ!」


 その様子を、アニスは嬉しそうに見守る。最後に少年たちへ回ってきたバスケットの中身は、四切れだった。


 「お、四つ残ったか。さすがに俺たちも腹いっぱいだから、食べちゃってくれよ」


 それを見て、ファンが声をかける。


 「…いいんすか?」

 「貸し一つ、な」


 控えめな声に、クロムが答える。


 「何かあれば死ぬ気で恩返ししろよ」

 「クロムは馬鹿だから明日には忘れる!食うと良い!」

 「…お前に馬鹿と言われるのは、本気で腹が立つな。俺が馬鹿ならお前は何だ。おい、ファン。虫より馬鹿な生き物ってなんだ?」

 「虫は別に低能なわけじゃなく、ちゃんと環境に適応している生物だぞ?」

 「ああ、確かに俺は馬鹿かもしれん。お前に聞いても無駄だということを失念していた」

 「いつものやり取りで喧嘩じゃないからねぃ。心配しないで」


 きりっと顔を締めてヤクモが締めくくる。パウンドケーキをしっかりキープしたままでは、あまり様にはならなかったが。


 「じゃあ、お話、伺いますね。ちょっと待ってもらっていいですか?」

 「わかりましたわ!こちらで待たせていただいても良くって?」

 「お嫌でなければ」


 むさ苦しい冒険者が詰まった、決して綺麗とは言えない台所だ。

 けれど、アニスは気にした様子もない。二人の少女も、珍しそうにあたりを見回している。

 それでも、早くした方がいいだろう。

 皿に残っていた茹で卵を口に押し込みつつ、ファンは正真正銘今年最後の仕事のために、まずは洗い物をまとめはじめた。


***


 大神殿に赴くのは、前回の依頼を聞いて以来…ということもない。


 預かってもらっている馬に会いに行くため、用事のない日は足を向けている。

 とは言え、裏口から厩舎へ直接行くので、大門をくぐるのは久しぶりだ。


 改めて門を見上がれば、白煉瓦で組まれ、様々な彫刻が門を飾っている。

 女神アスターの説話の多くは、女性が主人公だ。虐げられ、不当に扱われた女性たちが、アスターの導きによって幸せになる物語が多い。

 門を飾る彫刻によって語られるその物語は、喜びを花や動作で表す女性像で締めくくられていた。


 「あらためてみるとさあ。やっぱり、あれって意地悪だったよね」


 ヤクモが呟くのは、聖女神殿跡地に現れた偽りの門のことだ。

 ファンたちの脱出と救援を妨げたそれは、この門をとことん愚弄し、嘲笑う代物だった。

 とは言え、この門の奥で行われていたことは、偽りの門の方が正確だったと言われても仕方がないことだが。


 あの一件で、やりづらくはなっただろう。けれど、腐敗が一掃されたわけではない。左方に所属する神官見習いたちの待遇が、劇的によくなったわけでもない。

 むしろ、ドノヴァン大司祭は見つければ不正や虐待には厳しかった。その目が無くなったのだから、ほとぼりが冷めればひどくなる可能性すらある。


 だが、それについては大神殿でどうにかしなければならない。


 隣国の王子といえど、手を突っ込めることではないし、するべきではないだろう。

 もちろん目の前で殴られる人がいれば助けるし、それを躊躇うつもりもない。

 大司祭から、冒険者としてではなく二太子(ナランハル)として助力を求められるのであれば、できる限りのことはする。


 けれど、なんとなく今回は違うだろうなとファンは判断していた。

 それであれば、「冒険者の」ファンにお願いは来ないだろう。


 「…兵が出ているな」


 いつもより低く、硬い声でクロムが呟く。

 その声が指摘した通り、門には甲冑を身に着けた一隊が整列していた。

 軍装が、ただの兵士ではなく騎士隊であることを教える。アステリア聖王軍は少数精鋭主義のため、一般兵でも装備は他の国よりもいいが、それにしても甲冑はない。


 「今日は、王妃様が礼拝に来られる日ですのよ」

 「そうなんですか」

 「ええ。月に一度の!ですから、護衛の騎士様もいらっしゃっているのですわ!」


 その返答に、ちらりとファンはクロムへ視線を向ける。

 主の視線を受けて、クロムは首に巻いている布を上げて口許まで隠した。

 クロムは、母親似だ。今はスーリヤと呼ばれている彼女は、アステリアの王族である。

 彼女がアステリア聖王国から失われて30年。それでも、古参の騎士の中には彼女を顔を見て覚えているものもいるかもしれない。


 クロムは当然、アステリアの王族ですと名乗り出るつもりは毛頭ない。血筋で言えばクトラ王族でもあるが、復興のための旗印になる気も一切ない。


 全身を飾るクトラ戦士であることを示す刺青は、その意思の表れだ。

 クトラやキリクの戦士は刺青を施すが、王族はしない。ユーシンも目立たないところに一か所だけ施しているが、それは首を取られた後、誰だか判別がつくようにと入れた印だ。戦士であることを示すものではない。

 戦士の刺青を彫り込んだのは、クトラ王族ではなく、勇猛無双にして忠義を全うするクトラ戦士であるという宣言だ。

 刺青を入れると告げた時、クトラ王族である父は僅かに息をのみ、そして頷いた。


 君の一生だもの。反対はしない。


 そう呟いた声の裏で、父が哀しんだことはわかっている。戦いとは無縁の穏やかな一生を望まれていたことはわかっている。

 けれど、クロムが決めたのは、そうではなかった。

 それを謝るつもりはない。間違ったことをしたとは思っていない。

 さっさとファンを守って黄昏の君とかいう覗き魔を追い払い、主は学者として自分はその護衛として、争いとは無縁の穏やかな一生を送ればいいだけの話だ。


 幸いにというか当然にというか、騎士たちは何の反応も示さなかった。

 むしろ注目は、大神官と並ぶファンが集めている。

 騎士たちもマルダレス山にてドノヴァン大司祭の最期を看取った冒険者の話は聞いているのだろうから、あれがそうかと思っていたのかもしれない。

 すれ違う神官たち…さすがに王妃が来ているからか、参拝者の姿はなかった…へ、にこやかに挨拶をしつつ、アニスはずんずんと歩いていく。


 ただ、冬薔薇が咲き始めた庭から進むのは、礼拝堂ではなく右の通路だ。


 「こちらですわ」


 おそわくわざと進みにくく配置されている垣根の先にあったのは、瀟洒な平屋の建物だ。窓にはガラスが嵌り、屋根や雨樋には青銅の小鳥や花が飾られている。

 規模からみて、部屋の数はそう多くはないだろう。春にはその奥にある花壇に囲まれたテラスでお茶会(ティーパーティー)でも催すのかもしれない。むしろ、その為の建物のように見えた。


 「ささ、お入りになって」


 躊躇わずにドアを開けると、アニスは振り返ってファンを手招いた。


 「お爺ちゃま、ファンさんたちをお連れいたしましたわ!」

 「おう、ご苦労さん。んじゃ、ちくっともういっちょ使いたのま。リタにこっちへこいってよ」

 「はいはい」


 そんなやり取りと共に、扉が大きく開かれる。

 入ってすぐは、狭いがエントランスのようだ。

 飾り棚の上にある花瓶には冬薔薇がいけられ、しっとりとした芳香で客人を出迎える。その奥にある扉を開けて、小柄な老人が立っていた。


 「ご無沙汰しています。バレルノ大司祭」

 「馬に会いに来るなら人にも会いに来いよ。まったく」


 苦笑交じりの文句に、ファンは「すいません」と笑って答えた。


 「ほれ、さっさと入ってこい。寒くてかなわんわい」

 「では、お邪魔しますね」


 一瞬考えて、ファンはそのまま足を進めた。西方では靴を脱ぐ習慣はない。とはいえ、こういったいかにもな場所に来ると、土足で踏み込んでいいのか考えてしまう。

 アスランなら、待機していた下足番が座らせて靴を脱がせるだろうが、いないということは土足のままが正しい…そう判断して、高価そうな絨毯の上にそろそろと足を降ろす。

 躊躇ったのはクロムも同じなようだが、主に続いて室内に踏み込む。


 一月前、バレルノ大司祭と知り合う前なら、クロムはおそらく剣の柄に手をかけて、真っ先に踏み込んだだろう。

 今回は武装しろ、と口うるさく言わなかったことも含めて、大司祭をかなり信用出来ているようだ。


 「おう、適当に座ってくれ」


 室内は、明るく、暖かった。高い位置にある窓から秋の陽射しが差し込み、暖炉にはちろちろと炎が踊っている。敷き詰められた毛足の長い絨毯は、地面からの冷気を完全に遮断していた。

 室内に配備されているのは、向かい合って並ぶ二人掛けソファが四台と、背凭れのない椅子が二脚。それぞれの横に、サイドテーブルが添えられている。

 壁際に置かれたチェストは何かを収納するためのものではなく、調度品の一種のようだ。前面には美しい風景画が嵌められ、上に置かれた小さな女神像が、地上を見守る女神という構図を作り出している。

 おそらく、大神殿に詣でた貴族がおしゃべりをするための建物なのだろう。奥へ続く扉の向こうは、歓待する神官が控える部屋になってるのかもしれない。


 「ヤクモ、お前はファンと座れ。何かあれば肉盾になれよ」

 「なんにもないでしょ!」


 ぷんすかと頬を膨らませるヤクモと、さっさと背凭れのない椅子に腰かけるクロムに、バレルノ大司祭は皴だらけの顔を緩ませた。

 大司祭個人は信用していても、警戒を完全に解く気はない。

 そう主張するような動作は、若さであり何よりも主の安全を重視することの表れである。

 老人から見れば、眩しく…微笑ましい。


 「変わんねぇなあ」

 「たった一月ですからね」


 バレルノ大司祭に手を貸しながらソファに座らせ、ファンも向かいに腰を下ろした。その隣に、ちょこんとヤクモが収まる。


 「怪我はどうだい。まだ痛むか?折れちまったんだろ?」

 「もうなんともない!」


 ヤクモの隣の椅子に腰を下ろしつつ、ユーシンは折れていた腕を上げて見せた。

 袖をまくって手袋を外せば、わずかに左右の腕に太さの差がある。落ちた筋肉の分、右手は力が衰えているが、それをユーシンは問題とみなしていなかった。その分動かせば取り戻せる程度のことだ。


 「若いってのはいいねぇ。おれなんざ骨折ったら寝たきりまっしぐらだわな」

 「ユーシンはさすがに、回復速すぎですけどね。御業で骨はくっついたとはいえ…」

 「食って寝れば治るのだ!」


 今度は微笑ではなく、愉快そうにバレルノ大司祭は声を上げて笑った。


 「おう、そうか!まあ、なによりだ。また厄介ごと押し付ける身としちゃ、怪我人相手じゃやりにくい」

 「厄介ごと、ですか」

 「まあな。正直、頼める義理じゃあねぇが…ふたつ、依頼があンのよ」

 「報酬次第だ」

 「け、しっかりしてらァ」


 くつくつと笑いながら、バレルノ大司祭はソファの背凭れに体重を預けた。


 「まあ、まず一つはな。毎年アスランの国王陛下へとご機嫌伺いをしているのは当然知っとるわな」

 「はい。それで五年前にお会いしましたもんね」

 「おう。あんときゃまだ体が動いたからな。死ぬ前にもういっぺん大都にゃいきてぇけどよ。大司祭としてじゃなく、小金持ちの爺としてさ。

 ま、それはいいとしてだ。今年もそろそろご機嫌伺いに出発しようと思っとる。新年のご挨拶って名目でな」


 アスラン王に新年の挨拶をするなら、確かにもうそろそろ出発しなくてはならない。

 大都に腹心がいるとは聞いていたが、その腹心が四方八方に手を回していても、挨拶の順番が回ってくるのは年が明けて十日は過ぎてからだろう。

 それでも、年末どころか冬至には大都にいなければ、約を違える可能性ありとして取り消される。


 冬至前から年末にかけて、大都へ入るのは至難の業だ。

 ただでさえ込み合う門は夜明けから閉門まで行列が絶えず、押し出されれば並びなおし。救援を求めに来た急使でもなければ、特例で先に進めてくれるなどということはない。


 その為、アスラン王へ「御挨拶」したい氏族長や貴族らは、秋の終わりには大都に入っているのが常識だ。もっと気の早い人々…もしくはもっと早く楽しみたい人々は、黄金月の夜にはやってきて、それから続く祭りを楽しむ。


 「で、だ。その護衛を、お前さんらに頼みたいと思ってな。…狙っとる連中も、大神殿の護衛に紛れてくるとは思うまい?」

 「あ」


 ファンは目を瞬かせ、クロムを見た。

 兄の支持者に殺されかけて、アステリアへやってきたのは一年とちょっと前。

 その後、彼は故国へ返されたとは聞いている。だが、諦めたとは限らない。


 その支持者…ファンの友人だった男の目的が、一太子の対抗馬となりえる二太子を排除することから、ファンという人間を殺すこと、にすり替わっている可能性もあるからだ。


 前者なら、兄の即位が揺るぎないものになれば、殺す理由はなくなる。

 仲良くもできないが、なかったことにはできるだろう。


 だが、後者なら。

 今年は必ず、ファンが冬至の祭りにやってくると待ち構えているのであれば。


 必ずどこかで仕掛けてくる。


 ファンとしては、できる限りことを大きくしたくはない。何もないならそれが一番だ。

 だからこそ、今は隠居して遊牧生活をしている祖父のもとを訪れ、そのお供に紛れて大都へ入ろうと思ったのだが。


 「悪くはないな」


 クロムも頷く。

 もし、先代大王である祖父の前で襲撃が起これば、今度はもう誤魔化せない。

 前回は被害者であるファンの説得で思いとどまった王たちが、止まらない可能性は非常に高い。


 (あのクソ野郎だけは)


 クロムは硬質な無表情の奥で、怒りを噛み締めた。


 (必ず、俺の手で、斬る)


 今でも忘れられない。主の胸に吸い込まれる白刃。吹き出す赤い血。

 その時、主の顔に浮かんでいたのは、負傷による苦痛でも、死の恐怖でもなかった。


 凍えるような、哀しみ。

 それだけが、主の顔にあった。


 クロムの知る限り、ファンがその満月の色をした双眸に「絶望」を宿したのはその時だけだ。


 一瞬で、ファンは理解したのだろう。

 友が、本気で自分を殺そうとしていることを。

 その決意が、どうにかして翻らせられるものではないということを。

 もう、友人に戻れる可能性は、ない、ということを。


 友だった男の凶行を公にすれば戦が起きる。それをファンは避けた。

 今更指摘して大事にすれば、主の意に反する。それはできない。

 けれど、公にならないような場所で襲撃されたのならば、ひっそり討ち取ればいいだけだ。


 (お前は、俺の主を裏切った。哀しませた。万死に値する)


 そのためにも、先代大王の前での襲撃などということは避けたい。

 孫を溺愛している先代大王なら、生まれてきたことを後悔するほどの苦痛を与えてから殺すだろうから、それはそれでスカッとする気もするが。

 やはり、討ち取るならば自分の手だ。


 「あー。でも、祖父ちゃん俺が来るの楽しみにしているだろうからなあ」

 「ちょっと寄ったりしちゃうとか?」

 「『ちょっと』寄れるかなあ…」

 「祖父ちゃんていうと、先代大王か。そりゃ、大神殿の使者連れてってのは無理だろうな」

 「あ、そうじゃないんです」


 顔を曇らせた大司祭に、ファンは慌てて手を振った。


 「祖父ちゃんは一回復讐を果たしたらそれで気が済む人なんで、別にもう大神殿については何も思ってませんよ。許してなければ、再建自体認めない…いや、ちょうどできたところで横槍入れて破棄させるとかしてきますから」

 「ファンのおじいちゃん、怖すぎない?」

 「恐ろしいが、良い方だ!」


 ユーシンの評価に、ヤクモは余計に眉をひそめた。


 「ユーシンが恐ろしいって表現するのが、すでに怖いんだけど…」

 「ユーナンがそう言っていた!だから、そうなのだろう!俺は良い方だと思う!肉を食わせてくれるしな!」

 「肉で買収されてるじゃん!」

 「どっちかっていうと餌付けの方が正しいな。うん。

 祖父ちゃん、俺が来るの楽しみにしすぎているんで、その後も絶対一緒に大都に行く予定立ててると思うんですよね。

 なんで、それを台無しにしちゃうとかわいそうかなって」

 「『老いた鴉(シン・ハル)』がずいぶん丸くなったもんだなあ」


 感慨深く、大司祭は息を吐いた。

 彼が知るアスラン先王は、苛烈な為政者だ。逆らうものには一切の容赦はせず、その尊厳や命を奪うことを楽しんでさえいた。

 それに、大司祭が聞いていた情報によれば、七代バトウと八代モウキの親子仲は良いとは言えず、常に廃嫡の噂が付きまとっていた。十代終わりから二十代半ばにかけて、モウキの姿がアスランから消えていたこともある。


 再び現れた彼は大都には戻らず、アスラン西方国境で遊牧生活を送っていた。

 その間に勝手に結婚、子供まで作ったのだから、王と王太子の仲はさらにこじれたと、大都で情報収集にあたっていた部下は冷や汗を流していた。


 モウキは、聖王国に対して非常に友好的だ。当時の聖王だったダレン王とも親しくしていたし、その息子バルトの馬術、弓術、槍術の師でもある。


 隣国の…しかも強大な国の王が、アステリアに対して友好的というのは非常にありがたい。

 もし、王太子モウキが廃嫡され、侵攻主義者が王太子になれば、弱り切ったアステリアなど格好の獲物にしか見えない。血統的には彼一人しか候補がいなかったとはいえ、報告のたびに女神に祈ったものだ。

 その後、越権行為とさえいえるアステリア内乱への参戦を見逃したあたりから、親子仲は修復されたとは見ていたが。


 「まさに孫は黄金に勝るってやつかいね」

 「俺が赤ん坊のころ、殺されかけたらしいですけどね」


 軽く答える声に、バレルノ大司祭とヤクモは目を見開いた。


 「親父、勝手に母さんと結婚しちゃって、子供まで作っちゃったし。祖父ちゃんは義母上を后妃にするつもりだったみたいで」

 「…良く、許したな」

 「やっぱり親子なのか、祖父ちゃんと親父は好みが同じだったらしく。殺すつもりでうちに来て、母さんを見たらなんか納得したって言ってましたね~」

 「いいの!?それで良いの!?」

 「結果的に生きているし、良いんじゃないか?母さんも気にしてないし」


 偽情報で釣られて、馬を三頭潰しながらも駆けつけたモウキが見たのは、我が子を膝にのせて妻と談笑する父の姿で、それから壮絶な親子喧嘩が勃発したらしいが。

 最終的には、喧嘩の声と殴り合う音でファンが泣き出し、母に親子ともども怒られて反省文を書かされたと聞いている。

 兄はそれを見て、母だけは怒らせないようにしようと幼心に決意したそうだ。


 「まあ、祖父ちゃんも事情を話せばわかってくれるか。大都で祖父孝行すればいいわけだし」

 「なに、そっちの事情があるなら、こっちは国境までの護衛でもいいぜ。アスランへ入れば、身分を偽りっぱなしにもできんだろう」

 「いえ、受けるのなら、大都まで護衛しますよ。塩を入れたら溶けるまでっていいますしね」 

 「どういう意味?」

 「鍋に塩を入れたら、溶けるまで見てろ、もしくは混ぜろってことで、一度手を出したら最後までやれって意味だな」


 ファンの説明に、ヤクモはとりあえず頷いた。クロムが突っ込みを入れず、ユーシンが寝ていないところを見ると、アスランで使われる言い回しなのだろうと納得する。


 「俺は護衛の方に賛成だ。先代は三日三晩くらいお前を可愛がれば我慢してくれるだろ」

 「どっちにしろ、冬至の日までには大都に着けるしな…ってわけで、寄り道しますが構いませんか?」

 「こっちは構わんが、うちのもんにバレねぇか?お前がアスランの王子だって知られたいわけじゃねぇんだろ?」

 「祖父ちゃんも先代大王だと看板掲げているわけじゃないですからね。タタル語がわかれば周りの話でバレるかもですけど。いったん別れて、途中の街で合流してもいいですし」


 なにより、アステリア人の感覚として、一国の王であった人物が草原で遊牧をして生きているということ自体、思慮の外だろう。

 この人が先代アスラン王だと紹介しても、冗談だと受け取られそうだ。


 それになにより、自分が王子と言っても信じられないと思う。

 ユーシンなら顔で納得されそうではあるが。


 そんなファンの内心の呟きを遮ったのは、呼び鈴の軽やかな音だった。

 続いて扉の開く音。クロムの手がさりげなく剣の柄にかかる。

 

 「お待たせいたしました」


 ゆっくりと扉が開き、まず中へ入ってきたのは、バレルノ大司祭の腹心であるジョーンズ司祭の凛とした姿だった。齢とは美しさを損ねるのではなく、重ねるのだと体現するような美女は、ファンを見てぎらついた笑みを浮かべる。


 「ファン様、お久しぶりですね。あ、髪の結び方、少し変えられました?その方がモウキ様に似ておられて、とても良いと思いますよ、ふふふふふ」

 「ファン、結び目変えようぜ。お前の貞操が危ない」

 「…いつも通りなんだけどなあ」


 言われてみれば、いつもより少しだけ高い位置で髪を結んでいるかもしれない。

 すすすすと近付くジョーンズ司祭の前に、クロムがすっくと立ちふさがる。


 「うちの主を性的な目で見る五十路を、そばに寄らせるわけにいかん」

 「そんなこと、思っていませんよ!ええ、ほんと、絶対、たぶん?」

 「最後自信無くなってんじゃねぇか!」

 「おい、リタ!さすがにやめとけ!いろんな意味で!」

 「クロム、女性に対してそれはどうかと思いますよ。事実であっても」


 お叱りの声は、部屋の内外から飛んだ。

 苦笑しながら入ってきた人物を見て、クロムは剣の柄から手を離した。意図してというより、驚いて、だろう。珍しく目が丸くなっている。


 「ウルガ叔母さん?」

 「はい」


 今日は黒いローブではなく、ゆったりとした外套で華奢な身体を覆い隠している。室内の温かさに目を細め、形のいい唇が溜息を吐いた。


 「寒くなってきましたねえ。クトラに住んでいた時は、このくらい暖かい方だと思っていたんですけど」


 外套を脱ぎながら言い訳のように呟く。下に纏っているのは、アステリア軍の軍服だ。どうやら仕事中に抜け出してきたらしい。


 「仕方がないわ。もうあなたは十五年もここで暮らしているのだもの」


 最後に入ってきた人物が、扉を静かに閉める。


 足音もなく進み出てきたのは、女性だった。

 顔だちは栗色の巻き毛に被さる帽子と、そこから伸びるベールによって隠されている。ウルガより頭一つ背が高く、女性にしてはがっしりとした体格だ。

 一目で上質なものとわかる毛織物のマントを外すと、華美ではないがやはり高級品と思えるドレスが現れる。裾も袖も長いが引き摺るほどではない。

 それでも、彼女が相当に身分の高い貴婦人だということは疑いようもない。


 ファンはさすがに混乱して、バレルノ大司祭に視線を送った。

 軽く見ても、彼女は大貴族の婦人だ。召使が付き従わず、自分でマントを外すことがあり得ないくらいの身分だろう。

 それは身に纏う品々からの判断というより、彼女が纏う気配から察したものだ。


 アスランとは違い、アステリアでは貴婦人ならびに貴族令嬢が見知らぬ男の前でマントを外すなどということは、大変にはしたないことになる。

 そもそも、エスコートもせず放っておいていいのか?一応は目を通してある西方の礼儀作法について書かれた本を頭の中で読み返してみるが、相手がさっさとマントを脱いでソファに腰を下ろした時にどうするかなどは書いていない。当たり前だが。


 「ファン、大丈夫ですから。彼女が気にしていないんだから、あなたも気にしないでいいんです」

 「え、あ、そう、ですか?」

 「クロムも座りなさい」


 てきぱきと指示を出すウルガに、ファンとクロムはおとなしく従った。


 「ウルガ叔母上、お元気そうで何より!俺はこの通り、完治した!」

 「もう。いい子にしていなさいと叱ったというのに」


 それでも、従姉の息子を見るウルガの目は暖かい。


 「ナナイが言うこと聞かないんだからと怒っていましたよ。薬も苦いからと拒否されたって」

 「苦いものは好かん!」

 「本当に、この子は…」


 二人のやり取りに、貴婦人はくすくすと笑った。


 「この子がユーシン?」

 「ええ。まったくわんぱくで…」

 「俺のことを知っているのか?すまないが、俺はあなたを知らぬ。ファンは知り合いか?」

 「いや…初対面だと思うけれど…そうですよね?」


 ファンの戸惑う声に、貴婦人はこくりと頷いた。

 唯一見える口許が、悪戯っぽく微笑んでいる。


 「ええ。ただ、ここは大神殿の談話室。身分や家の関係を一時忘れて語り合う場所ということを、ご納得いただけるかしら?」

 「ええっと、はい」


 ちらりとみた大司祭がわずかに頷いたのを見て、ファンも首を縦に振った。

 おそらく、彼女はファンがどこの誰であるか知っている。ユーシンについてもわかっているようだ。

 それでも信用していいと思うのは、ウルガが打ち解けている様子を見せているからだ。ちょこんと二人並んで座っているが、気を許しあっている友人同士に見える。


 すっと、貴婦人の手が帽子を外した。


 露になった顔は、おそらく美女とは呼べないだろう。

 双眸は細く、頬骨と鼻は高すぎる。男であれば精悍と呼ばれたかもしれない。


 だが、それでも、彼女は貴婦人だった。


 柔らかな光を宿す新緑の色をした瞳は、物怖じすることなくファンを見ている。

 どこかで容姿を悩んだ日もあったかもしれない。けれど今は、誇り高く前を向いている。そんな強さを感じさせる瞳だ。


 「私は、イヴリン。イヴリン・フォン・モルガン。ファン・ナランハル。お会いできて嬉しいわ」

 「…!」


 咄嗟に立ち上がって膝をつこうとしたファンを、貴婦人の視線が止める。


 「さきほど、談話室のマナーをご納得いただいたわね?」

 「…失礼しました。西方の礼儀に疎いことをお詫びいたします。レディ・イヴリン」

 「わかっていただけて嬉しいわ」


 左手を胸に当て、膝をつかずに深々と腰を折る。それはアスラン式ではあったが、口調と合わせて、彼女の身分がファンと同等に高いことを表していた。


 「やはり知り合いか?ファン」

 「知り合いっていうのが、互いのことを知っているというならそうだな。初対面ではあるけれど」

 「…どゆこと?」

 「俺と会ったことのない人でも、ファン・ナランハル・アスランを知っている人は多いだろう。そういう事」


 ファンの返答に、ユーシンはますます首を傾げ、クロムとヤクモはまさかと身を固くする。


 「いくら身分を忘れてと言っても、まるっきりとはいきませんし。ちゃんと紹介しましょう。意地悪しすぎですよ、イヴリン」

 「ふふ、ごめんなさい。若い男の子とおしゃべりするのなんて、久しぶりのことだから、つい、ね」


 もう、とウルガに肩を叩かれ、イヴリンはおかしそうに笑う。


 「彼女…イヴリンは、このアステリア聖王国の王妃です」


 さすがに、クロムとヤクモは息をのんだ。だが、ユーシンは一つ頷いて口を開く。


 「そうか!キリク王国シーリンの子、ユーシンだ!」

 「ウルガから聞いていましたが、本当に綺麗な顔立ちね。けれど、役者のような、とは違うわ。そうね、情景の詩人リステンの一節を借りるなら、『ただ透きとおる、天をただ透きとおる風…その名は初夏』といったところかしら」

 「さっぱりわからん!」


 ユーシンの返答に、王妃イヴリンは声を上げて笑った。


 「ええっと、ナナイのお母さんと、仲良しなんですね?」

 「ええ。世間では恋敵と思われているけれど」


 内乱を共に戦い、愛し合い、けれど結ばれなかった聖王バルトと参謀ウルガの悲恋は、登場人物の名前を、舞台を変えて様々な形で語られている。

 街角で吟遊詩人が、村の祭りで旅の劇団が、どこかの工房で画家が、高らかに歌い、演じ、描く。

 その中で敵役として語られるのは、宰相の娘であり聖王妃となった女性。

 つまり、目の前の彼女だ。


 「皆様は、緑帽の詩人の歌を聞かれまして?彼の歌う王子と白鹿の姫の物語はとても素晴らしいそうね。ああ、何とか聞いてみたいものだわ」


 それは、20年前の内戦の舞台と登場人物を変えた物語として、よく使われるものだ。

 悪い貴族によって国を追われた王子が、白鹿の化身である姫に助けられ国を取り戻すが、王子に横恋慕する貴族令嬢により姫の正体が暴かれ、白鹿姫は森の奥深くへと駆け去ってしまう、という筋書きである。


 「ええっと…」


 おそるおそる、ファンは口を挟んだ。


 「あの、御不快では…ないんですか?かなり、悪くいわれますけれど…」

 「だって、物語ですし。結果的に私がウルガと陛下の仲を裂いたのは事実ですもの」


 くすりとお淑やかに笑って、イヴリンは横に座る友人の手を握る。


 「私は、陛下の妻ではあります。けれどその前に、ウルガの友人だと自負していてよ」

 「バルトさんの婚姻に、最後まで反対していたのは彼女なんですよ」

 「だって私、陛下のことは好みではないんですもの」


 お淑やかな笑みは一転、つんとすましたものに代わる。


 「もっと演劇や詩、音楽について語り合える方が良かったわ」

 「バルトさん、全部寝ますからね。その辺は」

 「ええ。しかも、鼾までかくのよ。信じられないわ」

 「そういう人なんですよ。字だっていまだに勢いで書いてて、良く見たら八割は誤字とかざらにありますし。あの人、戦うことに全能力の九割振ってますからね。それ以外はポンコツです。ポンコツ」


 勢いよくこき下ろされる聖王に、さすがにファンは内心同情した。

 たぶん、娘がここに居たら、同じ意見で盛り上がりそうだし。


 「それでも、私が聖王妃にならなければ、ウルガと陛下が掴み取った勝利が砂の楼閣となるのだもの…仕方がなかったのよ。私が断固拒否して尼僧にでもなれば、お父様は妹を王妃として押し付けたでしょうし、妹はお父様が望むとおりにしたでしょうからね」


 彼女は宰相の娘であり、宰相の権力の源ではある。

 けれど、その専横を阻む最大の壁という話は事実なのだと、その顔を見てファンは理解した。


 「それでは結局、貴族共の勝利。栄光の旗をつかむのが、反乱を起こした連中からお父様に代わっただけね。私は、そんなこと絶対に認められなくてよ。だって私は」


 にっこりと、薄い唇が笑う。


 「バルト陛下と、ウルガの友人なのですもの。二人があきらめない限り、私も戦うわ」


 その誇りと自信に満ちた表情は、美しかった。

 戦いとは剣だけで行うものではない。その後にやってくる戦いの方が、いつ終わるとも知れない苦しいものだ。

 それでも彼女は勇敢に先頭に立ち続ける。

 権力のために娘を使った父が、邪魔になった娘を排除しようと動かないはずがない。父に向けられる殺意をドレスの袖で払い飛ばしながら、彼女は今も戦っている。


 「それで、ひとつ。冒険者であるあなた方へ、依頼したいことがあるのです」

 「吟遊詩人を連れてきて、とか?」

 「ああ、そんな魅惑的な依頼をしめさないでくださる?それでは依頼がふたつになってしまうわ」


 大袈裟に手を振って、イヴリンは否定した。


 「ファン。あなたはエルディーン嬢のことを覚えていらして?」

 「はい、もちろん。実家に戻ったんですよね。彼女が何か?」

 『…縁談なら断れよ』


 ぼそりとタタル語で呟かれたクロムの声に、ウルガが眉を寄せる。とがめているのではなく、まったくこの子は、と困った顔だ。


 「アルテ家は、アステリア北部ではそこそこ広い領地を持つ貴族よ。王位継承権はありませんし、あくまでもそこそこ、ですが」

 「はい」

 「彼女は第三夫人の産んだ娘。それほど興味もない対象だった。けれど、さすがに冒険者になるべく出奔したことは…許せなかったようね」


 まあ普通は、貴族令嬢が冒険者になるというのは反対されるのだ。

 それを納得させるには、冒険者として名を上げるとか、よほど物わかりのいい両親であるとか、兄弟姉妹がたくさんいて一人くらい何しても気にされない立場であるとか、そういった理由が必要になる。

 それでも諸手を挙げて賛成、などとは言われないだろう。

 息子であれば冒険者として武名を轟かせ、それをもとに騎士から将軍へと立身出世を果たす可能性もなくはない。けれど、女性ではそんな未来はない。

 アステリア軍は女性だという理由で拒むことはないし、騎士試験もそうだ。

 けれど、現在アステリア軍にいる女性はウルガをはじめとしてほんの数十名。騎士に至っては片手の指で足りるほどという現実がある。


 「激怒したのはいいけれど、アルテ子爵も刺青まで入れた娘をどう扱っていいかわからず、困っていた。そこに、その困った娘を娶りたいという申し出があったの」


 イヴリンの双眸が、すっと細くなる。


 「宰相派の男爵から」

 「ファン、男爵と子爵ってどっちが偉いんだっけ?」

 「子爵だな」

 「通常なら、下位の貴族へ娘を…というのは渋られますわね。けれど、子爵にはある意味傷物になった娘を片付けたいという弱みがある。

 そして重要なことは、子爵は反アスラン主義ではあるけれど、宰相派ではない、ということ」

 「…取り込み工作ですか」


 こくりとイヴリンは頷いた。その眉間には隠し切れない嫌悪感が、皴となって刻まれている。


 「妻の父が主催する夜会に赴いても、その際に紹介したいと他の宰相派を連れ込んでも、なんの問題もなくってよ。

 …最終的に、宰相閣下が開催する夜会に招待されれば、実に名誉なことね」

 「いきなり来て~っ会おうよ~っていうのはナシなの?ファン」

 「できなくはないけど、失礼とかになるんじゃないか?全然関係ない貴族と仲良くしようとしていたら、内通とか反乱の計画でもあるんじゃないかって見られたりするだろうし。宰相派だって一枚岩じゃないだろうしな」

 「ご名答。圧倒的に優勢な宰相派が押し切れないのは、中で足の引っ張り合いがあるからですわ。

 お父様は俗物であると同時に怪物。権力闘争の手腕と、行政能力は西方諸国の中でも抜きんでているでしょう。

 けれど、後継者であるお兄様はただの俗物なの。権力とは無限の金と女を齎すだけのものと思っていてよ」


 宰相は、もう六十歳を過ぎているはずだ。そろそろ、世代交代の文字が様々な頭に浮かんでいるのだろう。

 参謀派が宰相派に圧勝しているのは、若さだ。

 宰相が老齢により引退、もしくは死亡し、能力のない息子が後継者となれば、必ずその無能を指摘して追い落としを掛けると、宰相派の誰もが…当の息子か、その取り巻き以外は…思っている。


 だが、それは同時に、宰相家に取って代わる千載一遇の好機でもある。


 有力貴族となり、賛同者を増やし、次期宰相のさらに次を狙う。

 それを見据えて力を蓄えでいる野心家を現宰相が見過ごしているはずもない。

 あからさまな真似をすれば、反乱を企んでいると潰される。

 婚姻関係を結び、徐々に勢力を広げていくつもりなのだろう。同じ宰相派であれば、誰が敵か味方かはわかりにくい。狙うなら、別の勢力だ。


 むろん娘を娶っただけでは意味がない。重要なのは、貸しを作ったという事なのだ。

 娘の愚行が吹聴されれば、恥をかくのは父である子爵である。灯の英雄を自称したなどと知られ渡れば、どれだけ後ろ指をさされることか。

 そんな爆弾を娶って隠してくれた婿殿に、損にはならない協力を求められれば、首を横に振るのは難しい。


 「むろん、その男爵はまた別の貴族につながっているのですけれど。乙女の決意を何だと思っているのか。一度、クラウストーラの戦乙女三十篇を通しで観劇するべきね」

 「あの、一篇が一晩かかるっていう…?」

 「あら、ご覧になりまして?」

 「簡略版なら…それでも一日かかって、最初の城からでませんでしたけど…それで、エルディーンさんは…」

 「一度全編ご覧になると良いわ。

 結論から申しますと、彼女は無事。軟禁されていた自室から脱出し、彼女の騎士と共にアスター神殿へ身を寄せていてよ」


 女神アスターは、不当な扱いを受ける女性を守る女神でもある。

 望まない婚姻や、夫の暴力などで離縁を望む女性が駆け込む避難所として機能している神殿もあるのだ。

 多くの神殿は領主が建立する。しかし、そうした駆け込み所となる神殿は、大神殿が王家から土地を与えられた、領主の支配を受けない独立した神殿だ。たとえ子爵であっても、娘を出せと命じることはできない。

 だが、神殿の領域とされた場所から一歩でも外に出れば、そこは俗世。子爵の私兵が手荒に彼女を扱っても、神殿側が抗議することもできない。

 子爵は、二重に顔に泥を塗られたことに怒り狂っているだろう。神殿が兵に囲まれていてもおかしくはないくらいだ。


 「ファン。彼女を救出し、アスラン王国へ避難させてください。それが、私からの依頼です」

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