表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
19/87

座布団の穴より靴の穴(百聞は一見に如かず)6

 ほんの少し険悪…と言うほどでもないが、気まずい空気を纏ったまま、ファンたちは厩舎を後にした。

 その空気を司祭は感じたようだったが、追及はしない。僅かに首を傾げただけで客人たちを手招き、礼拝堂に向かう扉に手を掛ける。


 あえて何も言わずに見守るという姿勢は、おそらく騎士にとってありがたいものだっただろう。

 友人たちと抱き合って再会を喜ぶ主には知られたくはない事であろうし、男の意地という厄介なものもある。

 そのあたりまで察したかはわからないが、初老の司祭はにこにこと朗らかに笑ってファンたちを神殿の中へと促した。

 

 日の出から日没まで大扉が閉まる事のない大神殿と違い、ウルズベリの神殿は出入りの度に扉を開け閉めするようだ。

 建造されてからまだ十年余りの新しい神殿にしては、扉の取っ手は艶やかな丸みを帯び、司祭の手によって音もなく開いた。

 

 礼拝堂は外見通りそれほど広くはなく、一番奥で両手を広げて微笑を浮かべる女神アスターの神像に向き合うように、横四列、縦五列のベンチが置かれている。

 ベンチは子供なら四人、大人は三人座るのがやっとだろう。町の規模からすると、収容人数は少ない。

 ラバーナと言う大都市の出城であることを考えれば、もう少し広くてもよさそうなものだが、その分内装は凝っていた。

 並ぶベンチですら板に足をつけただけのものではなく、背凭れには精細な透かし細工が施され、毛織物の敷布が座面に引かれている。

 祈りを捧げる信徒たちを照らすのは、硝子窓から差し込む陽光であり、さらにその上に飾られたステンドグラスだ。

 特にそのステンドグラスは硝子の透明度と言い、着色と言い、一流の職人に相当な材料費と報酬を出して制作を依頼したのだろう。透過した陽光は色を与えられ、床に美しい薔薇を描き出している。

 

 そして、仄かに礼拝堂を漂う香り。

 鼻腔を打つようなものではなく、ユーシンですらスンスンと鼻を動かしているが、「臭い!」と顔を顰めたりはせず、むしろ香りを楽しんでいるようだ。


 「この香り…」

 「丹桂キンモクセイの香油を燻らせていますの。東方では今頃、金色の鈴が木に実るように咲いているのでしょう?一度見て見たいものですわ~!」

 「丹桂なら挿木で簡単に増やせますから、商人に頼めば仕入れて来てくれると思いますよ」

 「まあ~そうですの?素敵!さっそくお兄様に頼んでみようかしら~!」


 漂う芳香は、秋の香りと言うべきもの。

 アスランでは、秋になればこの花の香りがする茶を淹れ、寝る前には花を漬け込んだ白葡萄酒を嗜む。まもなく長く苦しい冬が訪れるから、太陽の色をした花と香りを取り込んでおけば、寒さで体調を崩さないと言われているからだ。

 もう少し寒さが厳しくなれば…いや、もう小雪の舞い始める大都なら、花を砂糖で煮詰めた蜜を湯に溶かし、そこに糯米もちごめで作った団子や甘藷を浮かせる甘味が出始める。

 元々はカーランの料理だが、小宝湯ティムタムショルはアスラン人なら誰もが一度は口にしたことがあるだろう。

 サライに行けばあるよなあと、去年は口にできなかった味を思い出しているのはファンだけではあるまい。すぐ横にいるクロムも、きっと同じことを考えている。


 「ささ、こちらですわ」


 司祭が一行を手招いて目指すのは、アスター像の安置された最奥、その両端にある扉だった。

 ベンチの間、中央の通路をすいすいと進み、女神アスターの前でほんのわずかに足を緩め、目を閉じて腰を傾ける。それだけで司祭は女神像の前を通り過ぎた。

 流石にやや戸惑った空気を感じたのか、振り返ってにっこりと笑う。その顔に、無精を誤魔化すような焦りはない。


 「アスター様は、お腹をすかせた子供を待たせてまで礼拝をせよとは、決しておっしゃりませんわ~」

 「なるほど」


 女神像の前を素通りすることに、少々エルディーンとその騎士は戸惑ったようだったが、当の司祭がさっさと進んでいるのだ。そして、まだ涙目の友人たちも気にした様子がない。

 意を決したように、エルディーンは一度だけ女神に向かって目を閉じ頭を下げ、友人たちに手をひかれるまま歩き出した。その後ろに、同じように一礼したレイブラッドが続く。

 

 エルディーンの戸惑いと無縁の少女たちの様子に、「すっかり右方に馴染んでるなあ」と、ファンは微笑ましく思った。左方なら、たとえ飢え死に寸前でも、女神像の前を素通りすることは許さなかっただろう。

 女神への侮辱と言う意味ではなく、神官見習いがそんなことをするのは許されない、という意味で。

 

 かと言って、司祭や少女たちが女神を軽んじているわけではない。

 ある意味、彼女たちは女神を信じきっている。

 その愛を、慈悲を信じ、形式よりももっと大切なことがあると思うからこそ、長い旅をしてきた客人に対し、礼拝よりも食事を先にと勧めているのだ。

 正直、ファンたちにとってもその判断はありがたい。ここで礼拝の強要などをされれば、猛烈に文句を言う輩がいる。いや、真っ向から悪態をつかなくても、腹の虫が礼拝の途中で代弁する。おそらく、全員。

 だから、司祭の判断はファン達の為だ。女神も決して、彼女の信仰を咎めることなどするまい。


 司祭に続いて季節の草花が彫り込まれた扉の先へ進むと、中庭とその先の建物をつなぐ回廊だった。左手の扉の先は、中庭越しに見る限り二階建ての建物だ。

 大神殿と同じく、傷ついた人が休む治癒室になってるのかもしれないと、ファンは中庭に植えられた薬草や、滋養効果のある野菜を見て推測した。

 

 「この先は食堂や談話室、巡礼の方が参られた時の宿坊になっておりますのよ~」

 「あれ?そう言えば、皆もあそこに泊まってるんですか?さっきの厩舎に馬車がなかったけど」

 

 ファンの疑問に、司祭は緩やかに首を振る。


 「宿坊にお泊めいたしますのは、巡礼の方のみですわ~。わたくしも夜は自宅へ戻ります。神殿に泊まるのは、先ほど厩舎へご案内させていただいた二人だけなの」

 「じゃあ、ナナイ達は…」

 「わたくしの自宅に。馬車もそちらですわ~」


 巡礼と彼女は言っているが、その前におそらく、「金に余裕のない」が付くのだろう。その中には、「巡礼」と言うことにしている困窮しきった人も含まれているのかもしれない。


 東西交易の活性化は、多くの人々に富をもたらした。だが、その反面、多くの持たざる人々を生み出したのも事実だ。

 ラバーナで一旗揚げると生まれた村を飛び出したものの、奴隷のように酷使されて放り出された者もいれば、見通しの甘さや不運で全てを喪った者もいる。

 交易は見返りが大きいが、リスクも高いものだ。どれほどの大商人であっても、隊商一隊、商船一隻が戻らなければ破産する。その損を常に見据えて運用できるほどの商会は、それこそ数えるほどしかない。


 神官達が神殿で寝泊まりしないのは、そうした人々を一人でも多く屋根の下で寝かせる為でもあるだろうし、泊まり込むのが男性二人と言うところからして、万が一の場合に備えてのことなのだろう。

 女神の愛は無限だが、向けられる側の人間が全員善人とは限らない。

 飢えと貧しさは、人から尊厳も良心も削り取る。温かい食事と寝床に感謝する者もいれば、もっと寄越せよと理不尽な怒りを抱く者もいる。

 ほんの少し翳った彼女の笑みは、かつて人の悪意を間近に見たことが伺えた。


 「皆さまも、今夜は我が家へお泊りくださいませ~!少しだけ歩きますけれど、夕暮れの礼拝が終わりましたら、我が家へご案内いたしますから~」

 「ええっと、こんなに大人数が増えてもお邪魔じゃありませんか?宿をとりますよ」

 「そんな寂しいことをおっしゃらないで~!大丈夫、部屋数に余裕はありますからね。お兄様もお義姉様も楽しみにしておりますの~!」

 

 これはもう、固辞すれば逆に失礼に当たるとファンは判断した。

 歓迎の度合いによってはクロムが不機嫌になるが、一晩くらいは我慢してもらうしかないだろう。

 さすがに司祭の兄夫婦が、べったりと客人に纏わりついてあれやこれやと世話を焼くことはないとは思うが。

 そう言う親切とおせっかいの曖昧な領域にある干渉を、クロムは極端に嫌う。だからこそ、あらゆる意味で放っておかれるあの宿を定宿にしていたのだし。


 「では、お世話になります」

 「ええ!」

 

 嬉しそうに頷いて、司祭は回廊から建物へとつながるドアを開けた。

 扉の向こうには、左手側にドアが並ぶ廊下が続いている。反対側の壁にある大きな窓にはやはり透明度の高い硝子が嵌り、窓枠には蔓薔薇に遊ぶ小鳥が彫られていた。


 「やっぱ、金持ってんな」 

 「小さい分、どこもかしこも手と金を掛けているって言う印象だなあ」


 少々下種な感想ではあるが、素直に頭に浮かんだのはそれだ。この規模の神殿で、アスター信仰の総本山である大神殿と比べて遜色がない、というのは相当なことだ。

 しかし、嫌な印象を受けないのは、ベンチの敷布などの「あるとよいもの」や、窓枠の彫刻のような「ふと目に留まると驚く」ものに金がかかっているからだろう。


 一言で表せば「趣味がいい」。


 大神殿やクローヴィン神殿とは違い、ウルズベリのアスター神殿を建立したのは領主であるガラント伯のはずだ。彼の趣味を反映しているのであれば、その人柄も察せられる。

 

 「お兄様の趣味をこれでもか!と注いでおりますのよ~」

 「…お兄様?」

 「ええ。お兄様、見た目は完全におじさんなのに、可愛いものが好きなんですの」

 「ええっと…」


 流石に戸惑うファンの袖を、くい、とナナイが引いた。

 視線を向けると、その気持ちはよくわかる、というふうに頷かれ、口が開く。


 「ロージー司祭様はね、ガラント伯爵の妹さんなんだって」

 「まじか」

 「うん。それで、タバサたちのお師匠様のお師匠様」

 「そっちのは、すっごく納得する」


 笑い声と上機嫌を詰めに詰め込んだような二人の大神官を思い出し、ファンは頷いた。少し浮世離れした印象も、ややオーバーなリアクションも、間違いなく師から弟子へと引き継がれている。

 孫弟子である彼女たちも、いずれはああなるのかと思うとやや残念な気もするが、年相応の笑顔も明るさもなく、眉間の皴を年々深くして年老いていくよりはずっといいだろう。

 

 「それにしても伯爵家に、かあ。流石に緊張するな」

 「別にお前から特別に挨拶する必要はないだろ。顔見知りでもあるまいし」


 その言葉の裏には、「顔割れてないよな?」という問いかけがある。少なくとも、ファンの方にはガラント伯爵には会った記憶はない。向こうが此方の顔を知っている可能性も低いとは思うが、伯爵が八代大王ちちおやと会ったことがあれば…その時の記憶から、ファンがアスランの王子だと言う結論に繋げるのは可能だろう。

 特に20年前なら…今の父子より、年齢が近い分更に似ている。

 

 「そうだな。失礼のないように一泊の礼を述べておけばいいか」


 ファンの答えに、クロムは頷いた。そのうえで、あまりにも馴れ馴れしく接してくるのであれば警戒せねばと気を引き締める。親アスランの人物とは言え、それだけで信頼するのは危険だ。

 ラバーナと言う要地を治めているのであれば、アスランの強大さはよく知っているはず。その王子を囲う事の価値がわからないようなぼんくらでもあるまい。


 「さあ、こちらへどうぞ~!」


 食堂、と書かれた白磁のプレートが嵌ったドアを開け、司祭は手を差し出して入室を進めた。全員入るまでドアを押えて待っているつもりらしく、にこにこと笑ってファンを見ている。

 

 「あ、はい。それじゃ、失礼しますね」


 お先にどうぞと譲り合っても勝てる気はしない。ぺこりと頭を下げ、ファンは室内へと足を踏み入れた。


 「ファンさん!」

 「あ、ウィルさん。遅くなってごめんね」

 

 明るい日差しに照らされた食堂は、十人が並んで使えるような大きな長方形のテーブルが鎮座し、椅子が置かれている。

 その端に見知った顔を見つけて、ファンは顔をほころばせた。


 「皆さんのご無事を信じていました!ああ、怪我などもないようですね!」

 「ロットさんも、色々大変だってでしょう?」

 「慣れていますから。色々とね」


 くすりと笑って片目を閉じて見せるロットの師は、アニスである。つい一月前に大神官になって弟子を取るまで、彼は師の善意の暴走を一身に引き受けていた。旅慣れない少女たちの引率くらい、大した負担にならないのかもしれない。


 「あの、あの、怪我とか…!痛いところとか、ありませんか!?僕、治癒の御業も授かったので、もしあれば…!」

 「わお!すごいじゃん!ちょっと前なら、おしりと足が痛かったけど、もうだいじょーぶだよ」

 「筋肉痛程度で御業使うんじゃねぇよ」

 「だいじょーぶっていってるでしょ!」


 いつものやり取りに、強張っていたウィルの顔が安堵に崩れる。ぐい、と目許と、ついでに鼻を神官服の袖で拭い、再び現れた顔はくしゃくしゃだったが確かに笑っていた。


 「では、お食事をお持ちしますので、お待ちくださいませね~!ロット、ウィル、お飲み物お出ししてちょうだいな」


 そう言い置いて、司祭はとことこと部屋を出ていく。人数六人の神殿では、司祭と言えど座ってばかりはいられないのもあるだろうか、おそらく彼女の性分だ。

 鼻歌と弾むような足取りは、演技や建前ではない。空腹を訴えるお客様に食事を出すのが楽しみで仕方ない、と宣言しているかのようで、見送るロットの口に苦笑が浮かぶ。


 「私が注いでいくから、ウィルはコップの用意を頼む」

 「は、はい!」

 

 師の指示に、ウィルはテーブルの端に接しておかれたワゴンへと歩み寄った。

 そこには布ナプキンが被せられた木製のコップが重なっている。素朴だが大きさや厚みの揃ったそれは、作っている工房の技術力の高さがうかがえた。


 「さあ、皆も、ファンさんたちに席をおすすめして」

 「はいっ!」


 神官見習いの少女たちは、笑顔で椅子を引き、さあさあと招く。エルディーンは手を引かれ、抱き着かれながら腰を下ろす羽目になっていた。弾んだ明るい悲鳴があがり、続いて巻き起こった少女たちの笑い声は輪唱のようだ。


 「おい、また孫を見る爺さんの顔になってるぞ」

 「だから、どんな顔だよ…」

 「あー…なんとなく、わかるね」

 「ナナイまで言う!?」


 ファンの抗議の視線を、ナナイはくすくすと笑いながら受け止めた。


 「だって、ほんとそんな感じなんだもん。ファン、きっといいお祖父ちゃんになるね」

 「孫どころか自分の嫁もいないけどな!?」

 「婚約者などもいないのか?いてもおかしくないと思うが」


 首を傾げながら問うガラテアの言葉に、友人たちとはしゃぎあうエルディーンの動きが一瞬止まる。その不自然な動きに少女たちは顔を見合わせ、それからお互いの意志を確かめるように頷きあった。


 「いないよ。うちは自分の嫁は自分で探してきなさいって方針に親父の代からなったから。兄貴もまだだしね」

 「ファンはトールさんが結婚してないから自分も大丈夫って言ってるうちに一生終わりそうだからなあ。伯母様が強硬手段に出そうだよね」

 「すでに孫見たいって挨拶のように言うからな。でも、ま、先に兄貴だろ。そんでもって、俺の孫よりさらに先に、俺たちの食事と紹介だ」

 

 ファンの視線は、いつもよりさらに口数が少なくなっているシドに向かった。軽く目を閉じて腹に手を当てているところを見ると、相当腹が減っているのだろう。

 ガラテアもうっすらと微笑んでいるだけで自己紹介を始める気はないらしい。これはもう、食事をある程度進めて、空腹以外の事を考えられるようにしてからのほうが良いだろう。

 

 「どうぞ」

 「ありがとう、ウィルさん」

 「この神殿のごはん、とっても美味しいんですよ」

 「なにせ、大先生が腕によりをかけますからね」


 弟子の置いたコップに向けて、ロットは真鍮製の水差しを傾けた。

 淡い木目を埋めていくのは、白くとろりとした飲み物。牛乳よりも粘度の高いそれに、ファンは目を輝かせた。


 「もしかして、タラグ!!」

 「タラグの匂いがするぞ!間違いない!」


 虚ろだったユーシンの目に光が戻り、「飲んでいいかっ!」と問いかける。流石に食事まで待てと言い難く、ファンはロットを見た。


 「どうぞ、お飲みください。咽喉も乾いたでしょう」

 「ありがたく!イダムよターラよ照覧!」

 「照覧あれ、まで言いなさい。まったく…」


 一応小言は呟いてみたものの、ファンも堪えきれずにコップに口をつけた。ほんのり冷たい感触と共に口に広がるのは、懐かしい甘酸っぱい味。

 絞った乳を発酵させてつくる乳酪ヨーグルトは、アスラン人だけではなくキリク人にも馴染みの味だ。

 食いつくようにカップを口許に押し付け、一気に呷ったあと、ユーシンは目を閉じて嘆息した。

 口許が乳酪で汚れていても、少女たちはおろか、ロットとウィルまで目を奪われて動きを止める。


 「もー!なんでそんなにべったりつけるのかなあ!逆にどーしたらこーなんの!」

 「知らん!だが、美味い!キリクで飲むタラグとは違う味がするが、美味い!」

 「キリクのは毛長牛ヤクで作るからなあ。ここのは普通の牛だろ」

 「初めて飲んだけど、美味しいねぇ」

 「だろ?この辺は秋になってもタラグが作れるんだなあ。アスランやキリクじゃ、夏の飲み物だよ」


 家畜が仔を産むのは春先で、乳が出るのは夏の終わりごろまでだ。乳牛ならもっと長く搾乳できるが、気温が低くなると発酵しない。そうなると、牛乳はそのまま温めて飲むか、汁物ショルになる。

 

 「私たちの故郷でも、これは飲んだり食べたりしている。飲むときは冷たい水で割って飲むな。アイリャンと言う」

 「ああ。懐かしい味だ。大都にもあったのか。気付かなかった」

 「そうなのか?屋台で売ってたりするんだけど」

 「馬乳酒かと思っていた」

 「馬乳酒こそ、あんまり売らないなあ。自分ちでつくるものだし」


 大都で生まれ育ったアスラン人は、一生馬にも乗らず、馬乳酒を飲まないで過ごす者の方がはるかに多い。あと百年もすれば、遊牧を続ける氏族も半減するだろう。

 その時、今のような強国でいられるかはわからない。アスラン騎兵の強さは、遊牧と言う生活様式が育むものなのだから。

 百年後。流石に自分ファンは生きてはいない。もしできたとしても、孫だってわからないほど先の話だ。

 ただ、馬乳酒アイラグ乳酪タラグを「夏の味」として楽しむ人々は残ってほしいと思う。

 

 「クロム、酸っぱいの嫌いじゃん。これはいいの?」

 「タラグには砂糖か蜜を入れて飲むだろ」

 「クロム、甘酸っぱいものは好きだからな~。でもこれ、たぶん糖ははいってないぞ。乳自体が甘いっぽい。こっちのタラグはこういう味なのかもだけど」

 「美味しいよね。アスランのより、確かに酸っぱくないと思う」


 コップを干したクロムの横で、ナナイもにこにことご機嫌な様子でカップを持っている。その様子を見下ろすクロムの双眸がとんでもなく柔らかく、ヤクモはへあーっと息を吐いた。溜息と言うほど重くはないが、呼吸にしては荒い。そんな吐息に、ファンが苦笑する。


 「クロムだって四六時中不機嫌なわけじゃないから…」

 「知ってるけどねぃ。他の人にも、あの百分の一くらい愛想をむけてもいんじゃない?」

 「にっこにこで愛想のいいクロムなんて、ナルガと同じくらい警戒したほうが良いと思うけどなあ」

 「クロムが吐くなら毒の吐息ブレスだな!」

 「あ゛?」

 「そういうとこだと思うぞ…クロム」


 ファンに続いてクロムをやりこめようとしたユーシンが、鼻をひくつかせて止まる。整いすぎた顔に浮かんだのは、期待を込めた喜び。


 「さあさあ皆さん、お食事をお持ちいたしましたよ~」


 白パンがこんもり盛られたバスケットを持つ司祭に続き、三十半ばほどの女性二人がワゴンを押しながら入ってくる。ワゴンの上には湯気を惜しみなく噴き出す大きな鍋が乗り、カップと同じく木製の皿が二段目に並んでいた。


 女性神官二人は、ワゴン二段目の皿をてきぱきとテーブルに並べていく。その隙間を縫うように、ロージー司祭が布ナプキンを各々の前に広げ、そこにパンを置いて回った。朝焼かれたパンなのだろう。まだふんわりと柔らかい。

 

 木製の皿には、すでに料理が盛られていた。

 長方形に整えられ、何かの植物の葉を巻かれたものが三本、皿を埋めている。

 

 「挽肉を葡萄の葉で巻いて蒸した料理ですの~」

 「ああ、前にサライで同じような料理を食べたことがあります」

 「うふふ~。当家の葉包み(サルマ)は、更に上からソースを掛けますの」


 司祭の言葉に応えるように、女性神官は慣れた手つきで鍋から皿へと中身を移していった。大匙でかき混ぜられるたび、胃袋を叩く芳香が食堂を染めていく。


 「大蒜、けっこうきかせてるんですね」


 トマトの甘みと酸味が混じり合った匂いの中に、確かな存在を主張するのは間違いなく大蒜だ。

 トマトと大蒜。この二つの組み合わせで不味い料理を作る方が難しい。誰かがごくりと喉を鳴らし、誰かの腹が耐えきれず、切ない悲鳴を上げた。


 「これはですね~、たーっぷり大蒜を入れなくては美味しくないのです。だから、絶対にご飯前に乳酪を飲まないとなのですわ~」

 「なるほど」


 食前の牛乳や乳酪は、大蒜の匂いを消すと昔から言われている。故郷の飲み物を振舞う、おもてなしの意だけではなかったらしい。

 

 「そして、食後はりんごたっぷりのアップルパイ!これは、我が家のしきたりなのです~」

 「わあ、絶対美味しいじゃん!それ~」


 ヤクモが思わず漏らした声に、司祭は満面の笑みを向けて頷いた。


 「もちろん!女神さまに誓って、絶対に美味しいですわ~!」


 司祭の自信を裏付けるように、葉包み(サルマ)は実に美味だった。

 塩で味付けされた挽肉は、葡萄の葉ごとナイフで切れば肉汁を溢れさせ、トマトソースの嵩を増していく。

 そのソースは匂いが主張する通り、がつんと大蒜が効いていた。それでいて、トマトと玉ねぎの甘みが大蒜を尖らせすぎず、まろやかに仕上げている。

 それに一躍買っているのは、最後にさっと掛けられた乳酪だろう。

 肉と大蒜が揃えばただ一緒に煮ただけでも無限に食える十代男どもだけではなく、少女たちも目を輝かせながら頬張るほど、食べやすく後をひく。


 特にエルディーンの盛んな食欲は、友人たちと司祭を驚かせた。流石にユーシン、クロム、シドには負けるものの、ヤクモより二口ほど早く食べ終え、少々物足りなさそうにパンで皿の上をこそげ取る。

 

 「気に入っていただけたようで、嬉しいわ~」

 「あ…」


 司祭に声を掛けられて、初めて自分がガツガツと平らげたことに気付いたのだろう。頬に続いて、耳まで真っ赤になった少女に、司祭は頷いて見せた。


 「いいのですよ~。美味しいと、ついぱくぱくと食べてしまうもの~。料理したものとして、光栄だわ~。それに、見ていて気持ちの良い食べ方でしたもの。皆さんもですけれど~」

 「実に美味かった!もう少し多ければもっとよかったが!」

 「ごめんさいね~。ふふ、男の子がたくさん食べること、忘れていましたわ~。甥もあなた方くらいの頃は、よく厨房に忍び込んでは、義姉様に叱られておりましたものねえ」 

 「いやほんと、どんだけ食うのかってくらい食いますからね。コイツら…」

 

 食料枯渇と言う失態は確かに自分のミスだが、その原因の一端はこいつらの無限の食欲であるとファンは言いたい。

 まあ、ガツガツ食べる様子が気持ちよく、つい言われるままにお代わりを渡していた自分の甘さが最大の原因であると言う自覚はあるが。

 

 「晩餐は、たっくさんご用意いたしますわね~!ああ、楽しみですわ~!では、お茶とアップルパイを持ってきますわね~」

 「司祭様、私たちが持ってきますから、そんなにウキウキと全部ご自身でなさらないでくださいな」

 「お客様を放っておくのはよろしくありませんよ」


 女性神官たちに窘められ、ロージー司祭は「あら、失礼」と目を丸くし、それから悪戯を見つかった子供のように首を竦めた。

 その様子に、師の姿を思い出したのだろう。ロットの口許にはっきりと苦笑が浮かぶ。

 

 「えっと、じゃあ、今のうちに紹介しようか。この二人は、ガラテアさんとシド。ええっと、ウー老師はちらっと見たっけ。あの人の護衛に兄貴が付けてた傭兵で、ウー老師は兄貴が引き取ったんで、一緒に大都に行くことになった」

 「え、トールさんと会ったの?よく離してくれたね」

 「あいつ、仕事サボってたみたいでな。一応、そのままサボり倒すって言う阿呆な真似は自重したみたいだ」

 「まあ、忙しい人だもんね」


 年末に向けて、アスランの王族たちが文字通り「死ぬほど忙しい」のをナナイは知っている。

 ファンが去年の年末に「手が空きすぎて落ち着かない…」と助けを求めてきて、店の帳簿の整理や、大掃除をほとんどやってもらってもまだ、そわそわとしていたのを思い出した。

 たぶん、他の家族たちも仕事がなくなったら、同じことをするだろう。

 逆に言えば、今のトールはまだ、「サボろう」と考える余裕があるようだ。本当に忙しくなってくれば、そんなことを考える隙間もない。ただひたすら、押し寄せる書類の山を片付ける生き物になる。


 「そう言えばトールと手合わせできなかった!大都に行ったら絶対にするぞ!」

 「お仕事の邪魔しちゃ駄目だよ?」

 「なに、トールの息抜きになんだろ。好きなだけボコボコにされて来い」

 「お前も呼び出されているだろうが!一緒にいくぞ!お前を半殺しにするまで、トールは俺と手合わせしてくれないだろうからな!」

 

 心底嫌そうな表情を浮かべたものの否定はしないクロムが、ユーシンの言葉に嘘がないことを物語っていた。

 覚悟は決めたかと、ファンは声に出さず内心で頷いた。

 まあ、決まってなかったとしても、どこまで逃げても兄は許さないだろうし、必ず首根っこを引っ掴んで屋上に連れていくだろうが。


 そんなやり取りを可笑しそうに見ていた司祭の視線が、ふと動いた。

 皆の前に置かれた皿は、すっかり綺麗になっている。

 だが、騎士の前には、まだ半分も減っていない料理と、手付かずのパンがあった。


 「あらあ、お口に合わなかったかしら~?」

 「あ、いえ、そんなことはないのですが…申し訳ない。食欲が…」

 「食わないなら貰ってやるぞ!」

 「お前が食べるとクロムとケンカになるから…エルディーンさん、食べられそう?」

 「え!?あ、はい!レイブラッド、大丈夫?」


 主の気遣わしげな声に、レイブラッドは何とか頷いた。

 だが、その動作は力なく、強い意志は感じられない。


 「しかし、エルディーン様に食べ残しなどを…」

 「何を言いますか!作ってくださったものを残す方が失礼です!」


 絶対、食いたいだけだろ…とクロムが小さく呟いたが、幸い彼女の耳には入っていないようだった。

 ヤクモと並んで筋肉痛に呻いていた彼女だが、乗馬の心得があった分、慣れるのも早かった。そのかわり、自分でも驚くほど食欲があるのだと困惑して、ガラテアに相談をしていたりするのをファンは知っている。

 それは異常なことではなく、動けば動いた分腹は減るのだし、何しろ身近に食欲の塊がうじゃうじゃといるのだから、釣られてもおかしくはない。むしろ正常である。


 「旅の疲れが出たのかしら~。それなら、早めに拙宅へご案内してもよろしいのですけれど、あなたは騎士ですわよね~?」

 「はい。そうです」

 「でしたら、騎士神の神殿にお参りしてみてはどうかしら~?元気が出るかもしれなくてよ~?」

 「え」

 

 司祭の声に反応したのは、レイブラッドではない。

 気の抜けた、子供のような…と言ってもいいような声をあげたのは、その騎士神の刻印を持つクロムだった。

 

 神の恩寵の印である刻印は、神によって与えられる条件が違う。

 騎士神はその御業を人ではなく剣か盾に宿すことを許す唯一の神だが、その代わり刻印を授けるのはただ一人。

 『灯の英雄』の傍らでその身を護り、剣であり盾となる騎士、ただ一人にのみ、恩寵は与えられるのだ。


 刻印は必ず、その神自身が授ける。だから、当然クロムは、騎士神リークスと対面したことがあり、言葉も交わしている。

 だが、もう一度会いたいかと問われれば、こう答える。

 絶対に、嫌だ!と。


 「この町、ンなもんあんのかよ…」

 「他にも、交易神と大地母神の神殿もありますわ~」

 

 罰当たりなクロムの言葉を咎めることなく、むしろ自慢げにロージー司祭は言葉を続けた。

 30年前は女神アスター以外の信仰を認めなかったアステリアでは、未だに他の神々への敬意は薄く、貴族階級は特にその傾向が強い。

 だが、伯爵家に生まれ、神殿を預かる司祭である彼女は、多くの神殿がこの町にある事を、好ましい事として捉えてるようだった。


 「こんな小さな町なのに、神殿が四つもあるって、素敵じゃありません~?神様たちが、ウルズベリでお茶会をしているようで」

 「綺麗な町ですものね」

 「うふふ、今は一番お花が少なくて寂しいですけれど、騎士神の神殿と大地母神の神殿が向き合う広場には、とっても素敵な樹があるんですのよ」

 「そうなんですか?」

 「ええ~!今が一番美しいの~!ぜひ、ご自身の目で見てらして~」

 「レイブラッド、行ってみましょう」


 エルディーンの水色の双眸が、彼女の忠実な騎士を見据える。

 その強さに、レイブラッドは僅かにたじろぎ…そして、頷いた。

 

 「…あなたが、何かに悩んでいることは…知っています」

 「…!」

 

 小さな声に、騎士は更に動揺した。びくり、と肩が震え、血の気が顔から抜けていく。


 「何を、悩んでいるのかまではわかりませんけれど…でもね、騎士神リークス様はあなたに御力を授けてくださった尊き神。きっと、その前に跪き、祈りをささげることは…あなたの為になるわ」

 「エルディーン様…」

 「勿論、お声が得られるわけじゃないでしょう。でも、あなたがクローヴィン神殿でどれだけ司祭様をお助けして、皆を護ったか…その前にも、マルダレス山で、私たちを助けてくれたこと…それらを騎士神へ報告するのは、騎士としての義務です」


 その過程で思い出してほしいと、エルディーンの目は告げている。

 

 神殿を囲む悪党を一掃できなかった。

 飛び出してきた魔獣をただ見ている事しかできなかった。


 だが、それがなんだと言うのか。


 何度、彼は主の命を救ったか。

 弱者を護ろうと盾をかざしたか。

 

 それは決して、たったこれだけと恥じるような材料ではない。

 

 あっさりと己が積み上げてきた知識を訂正した彼女と違い、レイブラッドが生きて身につけた善悪の基準を崩され惑っている事を、彼女はわかっていない。

 だが、それでも、エルディーンは己の騎士を信じ、誇っている。

 

 その信頼は、揺らぎ惑う騎士の精神を繋ぎ止める。

 的外れだなどと言えようか。実のところ、主が指摘した事もまた、レイブラッドを揺るがせる一因でもあるのだ。

 

 絶対悪のはずだったアスラン人が人を救い、魔獣を斃す。

 それを見ているだけの自分。

 悪を斃し、正義を貫くために鍛えた剣の腕は、いったい何の役に立ったかというのか。

 

 だが、主はそれで良いと言ってくれる。

 その弱さで救えたものを見ろと言う。


 「そうですね。行ってみましょう。エルディーン様」

 「…はい!」


 嬉しそうに頷き、少女は忠実な騎士の皿に乗った葉包みへ向けて、フォークを突き刺した。


***


 「ほんっとーに行くのかよ…」

 「一応さ、挨拶しといたほうが良いと思うんだよね」


 たっぷりのリンゴを乗せたアップルパイと香り高い紅茶を十分に堪能したファンたちは、ぶらぶらと騎士神の神殿があると言う北広場へ向かっていた。

 アスター神殿はもっとも東側に建設されるから、一旦大通りを西へと向かい、途中南北を貫く道に出たら、今度は北へと向かえばいい。


 ガラント伯爵の屋敷もそのすぐ近くにあると言うことで、食事の片付けや午後の礼拝を終わらせたら、司祭たちも北広場へ向かい、そこで待ち合わせることになった。

 ロットやウィル、タバサたちもその手伝いをするので、午後のやや弱まってきた日差しの中、北へ向けて歩いているのはファンたち一行にナナイを加えた面子である。


 北広場へ向かう通りは、徒歩でゆっくり歩いても清潔そのもので、路上で生活する放浪者や乞食は見掛けない。道を行く人々は生活に追われている風もなく、どうやらこの町に暮らせるのは、ある程度以上の収入がある者だけなのだろうと察せられた。

 周囲を見ながら、再びクロムが「金持ってやがんな」と呟く。


 「住民税が高いか、昔からラバーナに住んでいた人しか移住が認められなかったんだろうなあ。ますます冒険者ギルド浮いてるけど」

 「お上品な冒険者ってのは、間抜けな物語の中だけかと思っていたがな」


 それでもこの町に冒険者ギルドを置くのは、やはり戦力の分散を狙っているのだろう。

 王都よりも目につくのは、衛兵の多さだ。威張り腐った様子はなく、気さくに住民や旅商人に挨拶をしながら巡回しているが、この程度の規模の町にしては多い。

 治安維持の名目で兵力を増強し、実際に巡回を強化することで疑いの目を向けられることを防いでいる。

 調べれば、衛兵のほとんどは伯爵の私兵ではないかとファンは推測した。アステリア兵ではなく、ガラント伯爵家の兵。

 いざという時、アステリアではなく、ガラント伯爵家に忠誠を誓う兵。

 

 今夜会う伯爵に、決して油断してはならないなと改めて思う。

 ロージー司祭の人となりから察して、おそらく悪辣な人物ではあるまい。しかし、目的のために堂々と面従腹背を行える人物でもある。彼が親アスラン派であるのは確実としても、「アスランの誰に親しいか」まではわかっていないのだ。

 最悪は一太子支持かつ二太子排除派である場合。

 その時は、あちらにファンがナランハルであると気付かれれば、迷いなく暗殺にかかるだろう。サライで三日は足止めされるのだから、時間は十分にある。


 「あーあ…本当に面倒くさいよなあ」

 「ん?」


 思わず漏らした愚痴に、クロムが目を細めた。しまったと焦るが、曖昧な笑みで誤魔化せそうもない。ますますじっと見つめる…いや、睨みつけてくる。


 「いやさ、冒険者って気楽でよかったなあって。飯と宿の心配だけしてれば良かったし」

 「お前は他にもいろいろと気を回していたと思うがな」

 「まあ、そうだけど…まだ会ってもいない人のことを、疑ったりはしなくて良かったし」

 「別にお前があれこれそこまで気を回すことはない。最低限の警戒だけしてろ」

 「大神殿行く時、あんなに武装しろって怒ってたのに」

 「俺が間に合えばいいだけの話だ。…結構、俺はやれる奴だって、こないだ実感したからな」


 視線を前へと逸らし、後半は囁くような小声で吐き捨てる。

 その横顔を、ファンはしばし見つめ、それから大きく頷いた。

 

 「そうだな。お前は本当に、自慢の守護者スレンだよ」

 「そうだ。だから、お前は無防備にだけなんなきゃいい。あーだこーだと理屈をこねくり回すのは、虫だの草だの、そういうもんだけにしろ」


 クロムは、実際のところ実戦経験がほとんどなかった。

 新兵訓練で実戦は行った。だが、逆に言えばその程度だ。

 その点は職業傭兵であるシドはおろか、キリク南部戦線で名を馳せたユーシンにも大きく劣る。

 訓練なら、文字通り死ぬ寸前までやった。完全に呼吸と心臓が止まっていたぞ、と笑いながら言うトールの顔を殴りたいと思いながら、指先すら動かせなかったのも一度や二度ではない。

 そして、訓練と実戦は違うものだと、クロムは理解していた。


 いざ、その時が来たら。

 自分は使い物になるのか。

 震えて剣も握れず、立つ事もできないかも知れない。


 その不安は常に影のように付きまとった。

 置き去りにして逃げることも、消し去ることもできない。

 どこまでもどこまでも、自分の足の裏に張り付いて付きまとう不安


 だが。

 冒険者として実戦を重ねるごとに少しずつその影は薄くなり。

 一戦を重ねるごとに、確固たる自信へと変わっていく。


 身体は常に意志を裏切らず、手は震えず足は大地を駆けた。

 そして、あの一戦。

 巨大な、自分よりはるかに強く恐ろしい魔物とさえ、怯むことなく戦えた。


 自分は主の期待を裏切らない。自分の意志を裏切らない。

 やれば結構できるやつだと、自分自身を信じることが出来た勝利。

 実践に勝る訓練はない。それこそ、「座布団の穴より靴の穴」。その通りだ。

 

 勿論、自分が最強だなどと言う気はない。だが、やれることはわかった。

 なら、強くなればいいだけだ。

 どこかで自分の限界に直面する日はきっとくる。だが、その限界は恐れていたよりもずっと先にあるらしい。

 少なくとも、自分は恐怖と絶望に膝をつくような奴ではなかった。

 主と同じように、絶望を拒み、血塗れの希望を掴もうと足掻く方だった。


 だから、自分はもっと先へ、主と共に往ける。

 それが証明できたのだから、不安など引き連れて歩く必要はない。


 「お前の敵は、俺が全て斬る。それだけだ」


 新たな決意はやはり囁くようで。

 だが、伝わらなければいけない相手には伝わった。他の連中に聞かせる必要はないし、聞かせたくもない。

 

 「ありがとう、クロム。でも、頼むから扉に凭れ掛かって剣を抱えて寝るのはやめてくれよ。俺の守護者はお前しかいないんだから、肝心な時に眠くて動けないなんて洒落にならない」

 「わかってる。…こないだ、クリエンで散々おっさんどもに言われたしな」

 「そうそう。メリハリは大事な…って、もしかして、あれかな?」


 ファンが指さすのは、道の先に広がる緑と、そこから青空へ突き出したような黄。

 

 「黄色い樹…?だよねぃ?あれ」

 「うむ!すごく黄色いな!あれは大都で見たことがあるぞ!確か、臭い樹だ!」

 「別にあの樹自体が臭いわけじゃないけどな?」


 なんとなく、全員の足が早くなる。

 早足から小走りになりながら通りを辿れば、広がる緑は芝生の色だと知れた。

 そして何よりも目を引くのは、鮮やかな黄色に染まった樹。


 「やっぱり、銀杏だ!」


 青い空に眩しいほどの黄色が映える。芝生の上にも独特の形をした葉が落ち、豪奢なモザイク模様を描いていた。


 「銀杏?」

 「この樹の名前な。雄株と雌株があって、ユーシンの言う臭いってのは、実の匂い。果肉を落して種ごと炒ると美味いんだけど、果肉が腐る途中が独特に臭い」

 「へえ~。葉っぱ、変な形だねぃ」

 

 足元に落ちていた葉を摘まみ上げ、ヤクモはしげしげと眺めた。好奇心に輝く双眸に、ファンが口を開こうとする寸前、ヤクモの声が機先を制する。

 

 「あ、どうしてこんな形なのかとか、何の仲間なのかとかいらないからね?」

 「う…つか、銀杏は銀杏ただ一種の植物で、なんの仲間とかない珍しい植物だし…」

 「うん、そう言うの要らないの」


 青空に葉をかざしながらすっぱりとヤクモは言い捨て、ただ鮮やかな黄色と不思議な形を愛でた。

 その前髪を揺らす風が新たに樹から葉を散らす。くるくると回転しながら蒼穹に舞う様は、目を奪われるほど美しい。

 

 「うわあ、綺麗だねぃ。あ、鳥だ」

 「取って食うか!」

 「食わないよ!!」

 「む、珍しい!白い鴉だ!」

 

 ユーシンの声に全員の視線が銀杏の樹、その上へと集まる。

 鴉は黒い。紅鴉とて、紅いのは頭から尾までの一線だけで、爪の先まで「真の鋼の如く」黒いものと決まっている。

 だが、銀杏の樹の上を舞う白い影は、確かに鴉の形をしていた。


 「へえ!珍しいなあ。町中にいると天敵の鷹や梟がやってこないから、白くても生き延びられるのかもしれないな」

 「白いと駄目なの?」

 「黒い鴉の群れに居れば目立つから、どうしても狙われやすい。アスランじゃ見かけるのは幸運の印と言われてるよ」

 「きっと、騎士神様が祝福してくださっているのですね!ね、レイブラッド!」

 

 無邪気に天啓だと喜ぶ主に、レイブラッドも白い鴉から目を離さず頷く。

 これをそうだと受け止めるのは、さすがに自分に都合よく考えすぎなのかもしれない。

 だが、全く無関係だと切り捨てるのは、あまりにも…美しすぎた。


 澄んだ青空。そこに向けて金色に燃えるような葉を広げる樹。

 そして、その上を舞う白い鴉。


 「神殿へ…参りましょう。エルディーン様」

 「ええ!…あ、あの、皆さんはどうしますか?」


 エルディーンの質問に、ファンは一緒に行くよと頷こうとして、止まった。

 なんとなく、右の掌が熱い。

 それは、刻印を発動させた時の感覚によく似ていた。


 「…クロム、額が熱かったりしてるか?」

 「お前もか。なんかジンジンする」


 不機嫌そうな返答に、ファンは頷いた。

 全く嫌な感じはない。だが、明かに自分たちの刻印が反応している。


 「えっと、俺は白い鴉観察したいから、残るよ!」

 「俺はこいつの守護者だ。いかんと言うなら残る」

 「先に行っててくれる?鴉がどっか行ったら追いかけるから」


 誤魔化し方としては、間違ってはいないよな、とファンは内心に頷いた。むしろ、自分が白い鴉に食いつかない方が不自然だ。

 

 「できれば羽根の一枚くらいは蒐集したい。よければ、ユーシンとヤクモは残って手伝ってくれ」

 「いいぞ!礫で落とすか!」

 「やめなよう!でも、白い鴉の羽根ならぼくも欲しいかも!」

 「俺も騎士神に興味はないから、手伝おう」

 「私もだな」


 残すことで、姉弟を厄介ごとに巻き込むかもしれない。しかし、ここで参拝を無理に進めるのは不自然にもほどがある。

 それに何より、レイブラッドは主と二人で騎士神に祈りを捧げたいだろう。彼の悩みの種とはアスラン人(ファン達)なのだから。


 「じゃあ、エルディーンさん達は神殿へ。俺たちは白い鴉の調査ってことでいいかな」

 「わかりました!行きましょう、レイブラッド」

 「はい」


 騎士の頷きと眼差しに、少々感謝の色が見えたのは思い込みではあるまい。


 銀杏の樹から見て広場の北東と北西に、それぞれ神殿らしい建物がある。

 西側の、棹立ちになった馬の彫像が門の左右に並ぶ神殿が騎士神の神殿だろう。それを目指して少女と騎士は歩み去る。

 荒々しくも優美な馬を見て、クロムが嫌そうに目を細めた。


 「いや、馬に罪はないからな?」

 「わかってる。どうしてもあの苛つく口調を思い出してな」

 『ええ~、それもう恋とちゃうん?』


 ファンのクロムの双眸が同時に見開き、声のした方…すなわち、銀杏の樹を見上げる。

 その視線の先にいるのは、見事に黄色く染まる葉で飾られた銀杏の枝。

 そこに止まる…白い鴉。


 『やっだあ、クロムちゅわ~ん!意外と情熱ぅ~!カー、罪な男やでほんま!カラスなだけに!』

 「馬鹿!あのクソ鳥に向かって礫投げろ!俺が許す!」

 「む、そうか!」


 言うなり投じられた礫を、鴉は間一髪伏せて避けた。反射的に尻が上がっていたらしく、尾羽が散らされて銀杏と共に舞う。


 「馬鹿!しっかり狙え!」

 『ちょ、なんなん!!この仕打ち、いくらなんでもひどないカー!』

 「うるせえ!」

 「え、と、クロム?」


 戸惑ったナナイの声に、クロムは目を瞬かせた。ちらりとファンを見ると、その満月色の双眸は仲間たちの反応を探っている。

 

 「えっと、ヤクモ。あの鴉、なんて鳴いてるように聞こえる?」

 「え?そいえば、普通のカラスよりガーガー言ってるかも~」

 「そっか。そう聞こえるんだな」

 「ファンには違う感じに聞こえるの?」

 

 頷くべきか、首を振るべきか。

 どういうことかという意志を込めて、ファンは白い鴉を…いや、騎士神リークスを見つめた。

 

 以前、相対した時には白馬だった。

 おそらく、騎士神は白い動物に姿を変えることが出来る神なのだ。騎士神の伝承にも、白い鷹や狼の姿で英雄の前に降り立った、という一節がある。


 『まあ、君らのツレならええんやけどぉ?ほら、ワイ、そんなやっすい神やないし?』

 「…」

 『いややん、クロム。めっちゃガン飛ばすやん…カーんべんしてや、カラスなだけに』

 「………」

 『なにツレから石もらっとん?ほんまキミ、もうちょいワイに感謝してもええんやで?ちょ、ファンも止めたってや!』

 「えーっと…なんて言いますか」


 冷静に考えて。

 今、自分たち以外には、騎士神の言葉は届いていない。

 そうなると、会話を続けると言うのは鴉に向かって話しかける変な人、という見え方にならないだろうか。


 『ん、まあ冷静に考えてかなりおかしい人やね』

 「わかってるなら…」

 『んーでもぉ、こんなとこで顕現しちゃったの見られて噂されたら恥ずかしいですしィ』

 

 羽根で顔を隠した騎士神に、「誰に?」とツッコみたい衝動をファンは何とか抑えた。ユーシンはともかく、ヤクモとナナイの視線がすでに不審げだ。


 こほん、と不自然な咳をひとつ。


 さて、どうするか。

 実はこの鴉は騎士神で…と説明してしまうか?

 ユーシンとヤクモはクロムが騎士神の刻印を授かっていることを知っている。あっさり信じてくれるだろう。だが、ナナイ達は。

 何より、なんて言っているのかと聞かれて、ありのまま答えるのは拷問に等しい。

 だが、その部分を抜かすと特に何も言っていない。


 『まー、そんな難しゅう考えんと。ほらね、すぐ傍にボクの事務所ありますやん?あんまファンサしとると、囲みできてまうやん?ちょお挨拶したらすぐ行くから』

 「じゃあ、さっさと失せろよ…!」

 『そんなカーリカリせーへんと。いやあ、カラスってなかなかむつかしいわあ。やっぱ、馬のがいいわね』


 何が、とは言わなかったが、クロムの双眸に鋭さが増し、ユーシンから受け取った礫を投擲する姿勢に移る。

 あわててその手を掴み、ファンは騎士神に声に出さず呼びかけた。それでも意志は伝わるはずだ。


 (騎士神リークス。あなたの御業に何度も救われました。ありがとうございます)

 『ええんやで』

 (それで、何故顕現を?何か伝えたいことがあるんですか?)


 騎士神の頭がひょこ、と下がった。頷いたらしいが、鴉と言う生き物の構造上、頭が下がって尻が上がる。


 「いちいちイラつくな…」

 「クロム、さっきからなんでイライラしてるの?ファンが鳥かまってるから?」

 「…巣を見つけるとか言い出したら、全力でとめるぞ。お前ら」


 言いたいことはあるが、ここはクロムの誤魔化しに協力をしよう。

 そう決めて、ファンは何も言わず騎士神を見上げる。


 『いちおね、どないしとんかなあって顔見にってのと、クロム、刻印使うたびに血ダッラダラやん。たぶん、クロムは気にせんへんけど、ファンが心配しとんちゃうんか思って。苦労性やし。きみ。紅鴉だけに』

 (えっと…意味が分からないと言うか…いや、クロムの流血については、確かに心配していますけど)

 『うん、鴉って黒いやん?ほんで、苦労とクロをね、あと、クロウもね…』

 (…?)

 『切り換えていく。ま、そのことなんやけど、うち帰ったら守護者の儀式?そんなんするんやろ?』


 とりあえず理解できる話題だ。なんでそこに跳ぶのかはわからないが、ファンは内心に頷いた。下手に身体も動かすと巣を探そうとしていると勘違いされて、一斉に空気読めとかそんな時間ないだろうとか言われそうだ。


 『それ終わったら、わりと解決すると思うわ』

 (どういう事…ですか?)

 『今から教えてもしゃーない。そん時がきたらわかるよって。せやから、カーんと構えときや!鴉なだけに!』

 (…………。)

 『…ほな、また…やっぱ鴉あかんわ…せめて梟にしとくんやった…』


 一瞬、すん、と細くなってから、騎士神は白い翼を広げ、羽ばたく。

 その姿はまさに神々しい。いまだにブツブツと『そしたらなあ、ホーっと感心したらとか、ホーっとしたとかなあ…』と呟いている言葉が聞こえなければだが。

 

 「あ、カラスとんでっちゃう…」

 「手を放せファン!」

 「いや、駄目だろ」

 『駄目に決まっとるやん!まあ、会えて嬉しかったわ。そのうち、マース兄さんも顔出すよって、そんときにな!カーんどうの再会といこうや!』


 一瞬、ファンの手が緩み。

 礫が銀杏の葉を、派手に散らした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ