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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
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座布団の穴より靴の穴(百聞は一見に如かず)4

 本来、遊牧民にとって武器と言えば弓か長柄武器である。

 遊牧民が馬から降りて戦うのは、相手にとどめをさす時か地上で喧嘩にでもなった時であり、剣はその時に使うものか、もしくは儀礼用として扱われる。


 しかし、一太子オドンナルガの手によって抜かれた一刀は、けっして「いざという時」の為のものではなく、実に優美ではあったが儀式のときだけに用いるような飾りでもない。


 切先から柄頭までは、ゆうに2シヤク(約1メートル)を超える。しかし、幅は長さと比べて明らかに細い。それゆえに、華奢な印象すら与えた。

 その細身の刀身には淡く揺らめくような刃紋が浮き、秋の陽射しを受けて淑やかに煌めく。

 見た目や造りからして、分厚いアスランやカーランの刀とは違う。

 気の遠くなるような時間と手間をかけて鉄を重ね、打ち、折り曲げ、また打つ。

 その技法は、遥か南海の島国、ヒタカミの業だ。


 柄にも、鍔にも、刀身にも、装飾は一切ない。

 ただ、その白く濡れたように佇む刀身は、美の到達点のひとつであろう。

 この美に余計な飾りは一切要らぬと、刀鍛冶の意志が聞こえてくるような至高。

 いや、ただ無心に天下の名刀を鍛え上げたら、比類なく美しいものだった。そういう美とも言えた。


 振り抜きの速さを極限まで追求した造りは、トールの戦い方に良く合っている。

 馬上では槍を使うが、最も手に馴染んでいるのはこの愛刀だ。

 ヒタカミ人である祖母より贈られて以来十年余り、常に腰に帯びている。


 しかし、どんな名刀であっても、通常ならば岩の皮膚を持つオルゴイ・ホルホイに向いた武器ではない。いや、オルゴイ・ホルホイを斃すのに向いた武器など、そもそも存在しない。

 なにせ、成長したオルゴイ・ホルホイの胴回りはあまりにも太い。アスラン王宮を支える最も太い柱と同じか、それ以上か。

 人間が振るう武器など、例え大剣や巨斧であっても、蟷螂の鎌のようなものだ。


 この魔獣を討ち果たすなら、通常は攻城兵器を用いる。

 投石器の岩でさえ怯ませる程度だが、それでも数を多く打ち込んで弱らせ、最終的には大型の弩で手槍ほどの長さの矢を飛ばして仕留めるのが、よく使われる手段だ。

 そんな手間をわざわざ放っておけばいなくなる魔獣に掛けたくはないから、アスラン人は家畜を取られても引き下がるのだ。

 

 ここが荒野なら、トールも放っておこうと判断する。

 興奮状態になったと言っても、三日くらい放っておけば落ち着いて土中に戻っていく。無理に仕留める必要はない。

 

 だが、とトールはアステリアの国旗が掲揚された神殿を眺めた。

 報告は受けている。賊に襲われたあの神殿を救出すべく、弟は軍を出した。

 興奮状態のオルゴイ・ホルホイが蓄電を終え、再度雷火の旋風を放てば…方向によっては、中にいる人間は全滅する。

 それでは、せっかく弟が軍を出した意味もないし、愚か者の慢心の巻き添えとなるのが納得できるほど、あの中にいる女神の信徒たちは罪深くもないだろう。


 ならば、斃す。攻城兵器がないのなら、己で代用するしかあるまい。


 最近、机仕事ばかりで動く機会もあまりなかった。鬱憤がどうにも溜り、くさくさしていたところだ。

 その鬱憤と、この後に待つサライの要人や商会長らとの『会談』と言う名の不愉快な時間のことを考えているうちに、気が付いたら愛竜ムカリに鞍を置いていたわけだが。

 夜までは何の予定もないのだし、連れてきている側近たちも、サライを守る主将のヤルトネリも、「あ゛ー!!」と叫んで一太子が飛び出していくのを見たのだから、少しくらい大目に見てくれる…に違いない。そう決めつけておく。


 「さて」


 駆ければ一呼吸の距離を置いて、トールはオルゴイ・ホルホイと向き合った。


 オルゴイ・ホルホイに視覚や聴覚はない。あるのは嗅覚と触覚だけだ。

 特に嗅覚は非常に発達しており、獲物や産卵期にある同族の微かな臭いをはるか遠くから捉えることができる…らしい。

 しかし、それだけでは近くにいる生き物の細かい動きまでは把握しきれない。目線や体勢がわからなくては、動きの予想が出来ない。追うにしろ、必ず出遅れるはずである。


 だが、今。

 確かに、オルゴイ・ホルホイはトールを補足していた。

 ぐねりと斑に発光する身体を曲げ、歩み寄る生き物へ注意を向けている。一歩前へ進めば、よどみなく追ってきている。


 何故、そうできるのか。

 そのことは魔獣の研究家の間で、かなり長い間論議の的となっていたらしい。

 そしてその件について、一石を投じたのは他でもないトールだった。


 生き物は、必ず電流を帯びている。それは微弱なものではあるが、生きている限りなくならないものだ。

 さらに、同じ流れの者はいない。小魚を網ですくえば、その数百といる小魚全てが、異なる強さの流れを持っている。

 トールには、それが感じられる。目を閉じ、神経を集中すれば、その電流が全身をめぐり、どのような輪郭をしているのか、どうやって動くのかがわかるほどに。

 

 オルゴイ・ホルホイにも同じものが見えているのではないか、と冗談交じりに弟に語ったところ、その直後におやつを放り出して大学へすっ飛んでいった。

 慌てて追いかけて追いつくと、オルゴイ・ホルホイの専門家…そんなものもいるのだ。あの大学と言う魔境には!…に、トールの話をしており。

 その後実験に付き合わされ二人そろって夕飯に遅れてしまい、母にこっぴどく叱られたことを思い出す。

 結局、正しいのかどうかはわからないが、弟は喜んでいたからいいだろう。


 「俺も様々なものに例えられるが、人型オルゴイ・ホルホイとか、そういう名では呼ばれたくはないな。

 が、やはりお前らは俺と同じものを見ているのだろうなあ」


 返答は、当然ながらない。

 オルゴイ・ホルホイは鳴き声を出すこともない。そんな機能は、この長虫には備わっていないのだ。


 だが、まるでトールの声に反応したかのように。

 正確に、狂いもなく、触手をはやす頭部は風圧と共にトールへ襲い掛かった。


 ずん、と響く音と共に、風が巻き土が吹き上がる。

 叩きつける風は生臭く、不快な熱を帯びてトールの顔を撫でていく。


 オルゴイ・ホルホイの動きは鈍い。機敏に動く必要はない生き物なのだから当然だろう。

 けれど擡げていた頭を墜とすように襲い来るこの攻撃は、十分に早く、重い。

 軽く後ろに跳んで避けたトールの嗅覚を、名状しがたい臭気が叩く。


 再び地面が揺れ、土と枯草が巻き上がった。

 持ち上がった岩盤をも砕いて進むオルゴイ・ホルホイの口。消化液と土に塗れた触手がのたくり、土と共に零れる枯草が、捩れながら溶けていく。


 次の一撃も、正確にトールを追っていた。

 間合いを詰めながら走るトールの動きを、『視ている』かのように追い、襲い掛かる。

 その当たれば骨が砕け、酸によって肉が溶ける一撃を、トールは回り込むように跳んで躱した。

 逆に、相手がトールの動きを『見て』いれば、突然視界から消えたように映るだろう。瞬時に位置を変え間合いを操るのは、先祖より伝わる剣術の肝である。


 だが、オルゴイ・ホルホイは惑わされなかった。

 持ち上がった頭が遠心力を借りて振り回され、悍ましい触手がそれぞれ意志を持つかのように蠢き、伸びてトールを追う。

 その攻撃範囲は広く、速い。再び跳んでも、助走なしの跳躍では逃げきれないほどに。


 しかし、トールは再び地を蹴って跳んだ。

 横でも後ろでもなく、上に。

 

 何もない空中を踏みしめ、更に蹴って、駆けあがっていく。


 いや、「何もない」わけではない。


 その羊の革で作られたブーツが踏みしめるのは、風や空気ではない。

 具現化させた自分自身の魔力だ。

 具現化した魔力は踏みしめられるたびに、蒼く儚く華のように散る。そしてまた一輪、駆ける先へと咲いてトールを支える。

 相対しているのが知力のないオルゴイ・ホルホイでなければ、その有り得ない光景に戸惑い、大きな隙を作っただろう。

 しかし、オルゴイ・ホルホイは戸惑うかわりに大きく身を震わせ、酸の霧を吹き上げた。


 『敵』は上にいる。速い。


 それならば、噛みつくよりも叩き潰すよりも、相手を突っ込ませて自爆させる。あるいは、自分に近付かないようにする。

 オルゴイ・ホルホイにそこまでの知能があるかはともかく、用いた手段は間違っていない。

 そうトールは内心に頷き、苦笑を浮かべた。

 もう少し知能があるか、『敵』を察することが出来れば、さっさと逃げてくれるのだろうが、哀しいことにそこまでの知能はこの魔獣にない。

 今、オルゴイ・ホルホイを動かしているのは、「攻撃された」ということに対する過剰反応だ。

 全力で反撃することで、捕食者を諦めさせるのがこの魔獣の生存戦略。

 この大きさまで育ったからには、幾度もそうやって捕食者を退けてきたのだろう。


 強引に斬ってしまおうかと思ったが、なかなかどうして、やるものだ。


 流石に、酸の霧に突っ込めば肌が破け肉が溶ける。

 吹き寄せる風に触れただけで肌がひりつくのだから、気合いとか速度とかでどうにかなるものではない。

 そう判断して後ろへ跳び、刀を一度、鞘へと戻す。


 「まったく。やはりオルゴイ・ホルホイは放っておくに限る。厄介なことだ」


 空に滑らせる指が描くのは、蒼い軌跡。

 軌跡は力を持つ記号となり、陣を構築していく。


 「俺がいなければ弟がずいぶんと苦労しただろう。俺が我慢しきれなくなって飛び出したのは紅鴉の導きに違いない。うん。きっとそうだ」


 再びその手は太刀の柄を握り。

 次の瞬間。まさに、瞬き一つの間の後。

 

 月夜の霜と謳われる白刃は、摩擦音すら置き去りに振り抜かれていた。


 斬撃は陣へと吸い込まれ、陣を構築する三つの記号が輝きを増す。

 右下にある記号は、『拡大』。

 左下には、『射出』。

 そして、二つの記号の上に『発動』。


 陣に吸い込まれた斬撃は、『拡大』され、『射出』される。もうすでに『発動』は済んでいる。ならばあとは。


 シャン、と刀が鞘に吸い込まれる音と共に。

 半ば以上切断されたオルゴイ・ホルホイの巨体が、ぐらりと傾いだ。


 「ムカリ!」

 

 それを見ながら、天に向かってトールは叫んだ。同時に大きく手を回し、『降下』を呼びかける。

 主の合図に、待ってましたとばかりに雲を突き抜け馳せ参じるのは、青銀の羽毛を持つ飛竜。

 マナンよりも二回りほど小さいが、顔だちが荒々しい。その鋭い視線は、彼らの好物である長虫の姿を捉えていた。


 白い牙が並ぶ口に、風が集う。

 加減によっては人を吹き飛ばす程度のものだが、今は当然威力を抑えるつもりなどない。


 「グォオオオオオオン!!」


 最大出力になるまで溜め、咆哮と共に叩きつける。

 狙うのは、主の刃が八割がた切断した場所。


 僅かな肉と皮だけでつながっていた部分は、至近距離から放たれた衝撃波を耐えることはできず。


 轟音と地響きが、周囲を揺らした。


 「よくやった」


 空中からムカリの鞍へと飛び移り、トールは優しくムカリの羽毛を撫でた。

 主の労いにグルグルと咽喉を鳴らしつつ、ムカリは仕留めたばかりの獲物の上で羽ばたきを繰り返す。

 

 オルゴイ・ホルホイは、まだ息絶えていない。

 斬り落とされた上半分は激しくのたうち、多くは地中に没したままの胴体も、頭部を喪ったまま前後左右に蠢いていた。

 オルゴイ・ホルホイの脳と心臓に当たる器官は、頭の部分にある。

 体液が流れ出ればその器官は停止し、全身が動かなくなる。巨大なオルゴイ・ホルホイほど、その時がやってくるのは早い。

 

 まずは斬り落とされた上半分の動きが、痙攣へと変わり、止まった。

 切断面から大量の体液が漏れ出て、そこに濃い黄色の半固体のものが混ざっていた。それがオルゴイ・ホルホイの脳にあたるものであるらしい。


 切り離された胴体部分にあるのは、消化器官や蓄電器官のみだ。

 理屈で言えば、心臓も脳もない部分は動いているだけで「生きている」とは言えないだろう。

 

 だが、頭部が動きを止めるのとほぼ同時。つまり、死んだと同時に。


 まるでそれを悟ったかのように、胴体部分は一度、ぴん、と伸びあがり。

 そして、釣るしていた糸が切れたかのように、倒れ伏した。


 断末魔はない。オルゴイ・ホルホイに音を出す器官はないからだ。

 ただ、足元を揺らす地響き。それだけが、百年近く生きたであろう魔獣の最期に寄り添う。

 

 トールは目を閉じ、魔獣の死を悼んだ。オルゴイ・ホルホイ自体に悪意などない。正しく放っておけば、殺さずに済んだ命だ。

 それに、死の砂漠で飛竜に狩られたのならば、肉の一片に至るまで他の命の糧となる。飛竜だけではなく、死の砂漠に生きる鳥や鼠の類、蜥蜴や虫、ありとあらゆるものがその恩恵によって命を繋いでいく。


 だが、この場に息絶えた魔獣を食い、己の命へと変えるものはいない。


 ただ腐り、土の糧となるのも正しい死の在り方ではあるだろう。

 しかし、人の住処が近すぎる。おそらく、放ってはおかれない。燃やされて灰になり、散らばっていくだけなら、この魔獣の死は無駄になる。


 「ムカリ」

 

 主の声に、ムカリは「グル」と唸り声をあげた。その口から、涎がポタリと垂れる。


 「まずはお前が食いなさい。灰となって散らばるよりも、アスランの飛竜の腹を満たす方がよかろう」

 「ギャオ!」


 主の声に、翼を大きく広げて勢いを殺しながら舞い降りると、ムカリは嬉しそうに、まだわずかに動くオルゴイ・ホルホイの上半分に駆け寄った。

 切断面からは体液と共に、柔らかい肉がこぼれ出ている。駆け寄った勢いのまま鼻面を突きこみ、尻尾の先を揺らしつつ思う存分咀嚼する。

 

 「オドンナルガ!」


 鞍から降り、愛竜の食事風景に目を細めていたトールは、呼ばれた声に顔を向けた。

 馬を駆けさせてくるのは、漆黒の具足に身を固めたヤルトミクと、もう一人。


 「バルト陛下、おひさしゅう御座います。帯刀中ゆえ跪礼をせぬ無礼を、どうか許されよ」

 「トールか…!いや、そんなことはどこだってしなくていい」

 「寛大な御心、ありがたく」


 聖王バルトはトールをしげしげと眺め、感心したように頷いた。しかし、その口から紡がれた言葉は、トールの戦いや強さに関したことではない。


 「いや、しかし、お前たち兄弟はわかりやすく両親に似ているな」

 「弟にお会いになりましたか!ますます父上に似てまいりまして!」

 「お前はますます母親に似てくるなあ。モウキに似たのは髪と瞳の色くらいか?」

 「母上には、中身はそっくりとよく言われますが…」

 

 トールの言葉に、ヤルトミクが微かに頷くのをバルトは見た。その動きに釣られて、笑いが零れてしまう。どうやら臣下の間では、周知の事実らしい。


 「よく駆け付けてくれたな。ファンを追ってきたのか?」

 「いえ、元々この時期はサライに滞在し、書類だけでは片付かぬ諸事を片付けるのですよ。

 …弟が来るのに合わせて、あと十日後にしたいと言ったのですが、いつの間にかいつもの日程で予定を組まれておりまして」


 主の意向を完全に無視してくれた書記官たちに思うところはないわけではないが、元が自分の我儘と言うのも理解しているし。文句は言えない。

 

 「ミクから報告は受けておりましたから、顔だけでも出すかと来てみたところ、面倒な事態になっておりましたので、手も出させていただきました」


 ムカリの背から、弟がちらりとでも見えないものかと目を凝らし、もしかしたらとほのかな期待を寄せて電位を探ると、巨大なものが地中から飛び出そうとしている事に気が付いた。

 地中を進む雷を纏った巨大な長いものと言えばオルゴイ・ホルホイしかありえない。何故、こんなところにと訝し気に思うよりも早く、その触手を生やした口が飛び出す真上に、人がいるのに気付いた。


 二人だ。オルゴイ・ホルホイが狙っているかはわからない。だが、確実に巻き込まれる位置にいる。

 どうするかと一瞬の思案のうちに、新しい電位が飛び出し、二人を後方へと放り投げたのがわかった。体勢を崩している。それを成したものが立て直して飛び退くより早く、オルゴイ・ホルホイは地を割るだろう。

 おそらくそれを解っていてなお、救おうと手を伸ばした。


 それは、まさしく勇士の行い。ならば、その行いに相応しい死に方をするべきだ。

 少なくとも、長虫の餌は相応しい死に方ではない。


 そう思ったから、地上に向けて転移の陣を発動させ、オルゴイ・ホルホイが咥えあげるすんでのところで抱えて避けた。なんだか抱え方が不評のようだったが。


 「そうか。我がアステリアの民を救ってくれたことに礼を言わせてくれ。ありがとう」

 「なんの。勇士の死に場所は長虫の口ではないというだけですよ。では、俺はこれにて失礼いたす。ミク、オルゴイ・ホルホイは大都に送る故、人を近付かせないようにしておいてくれ。ムカリが食べ終わるまではあのままにしておく」

 「御意に」

 

 左胸に拳をつける将軍に頷きを返し、トールは再び馬上のバルトを見上げた。


 「叔父上。いずれ正式にご挨拶に伺います。それまで、息災で」

 「ああ。楽しみにしている。兄弟そろってきてくれ」

 

 バルトの返礼はけっして社交辞令ではなく、本心からだ。叶うなら親子そろって会いたいが、さすがに大国の王を呼びつけるのはアステリアの財政的に厳しい。まだ自分が赴く方が現実的である。

 新年の挨拶にかこつけてこのままファンたちに同行したいくらいだが、さすがに怒られるのはわかっているので口には出さなかった。…近衛騎士団長が側に控えていなければ、ちらっとは口にしたかもしれないが。


 だが、その言葉に最も強く反応したのは、他でもないトールだった。

 獲物を見つけた狼のように目を細め、口角を持ち上げる。


 「…今のお言葉、ミク。しかと聞いたな?」

 「は…?」

 「兄弟に揃って挨拶に、と叔父上はおっしゃられた。聞いたな?」

 「是…」


 ヤルトミクにしては珍しくはっきりしない肯定ではあったが、トールには十分だったようで、満足げにうんうんと頷く。


 「これはもう!叔父上にお呼ばれしたからには行くしかあるまい!弟も納得してくれるだろう!ふはははは!」

 「はあ…」

 「よくわからんが、ファンに悪いことをしたか?」

 「…そうではない、と思いまするが…オドンナルガのお考えは、私には及びもつかぬことが多く…」


 公式に王子二人の訪問を受けるのなら、アステリアもアスランも色々と準備がある。トールの暴走であれば、その段階で誰かが止めてくれるだろうと、バルトは追及することをやめた。 


 「それでは、近いうちに!星竜が良き新年を御身に巡らせんことを!」

 

 跳ねるような足取りで向かうのは、冒険者たちが固唾をのんで見守る地点。

 その中に、先ほど別れたファンたちがいるのを見て、バルトは堪えきれずに噴き出した。

 

 「相変わらず…弟を可愛がっているな」

 「ご本人は、大祖の家訓を護っておるのだと仰られますが」


 大祖の家訓。バルトも幼い頃のトールに、胸を張って言われたことがあるのを思い出した。


 「兄は弟を信じ慈しみ、弟は兄を信じ敬う。だったか」

 「はい。善き家訓でございます」


 アスラン王家の祖となった異邦人は、実の兄によって国を追われ、家族を殺されたのだと言う。

 開祖はこれを絶対の家訓として、己が息子と娘に繰り返し教えた。

 開祖の子は息子八人に娘五人と大勢いたが、何も揉めることなく長子が後を継ぎ、その子供たちも同族の血を流すことはなかった。

 残念ながら四代と五代…祖母と孫であり甥は、その血の一滴までも搾り取らんとするような戦を繰り広げるのだが。


 「ああ。善き家訓だ。あの様子ならば、問題はないな」

 「ええ。相争うとしたら、お互いに王位を譲り合う時にございましょう」

 「奪い合う、ではなくか。しかし、トールで決まりなんだろう?」

 「無論。異を唱える愚物共は、我らが叩き潰します」


 きっぱりと言ってのけるヤルトミクの言葉に、バルトは頷いた。

 トールの即位を反対する連中がいるのは知っている。

 長男で出来物。人格も弟を溺愛しすぎている点を除けば問題はない。

 それでも反対するのは、トールの即位によって多くの貴族が失脚するからだという。

 

 トールとファンの母は、貴族ではない。それは後ろ盾を持たないという弱みであり、遠慮する相手がいないという強みでもある。

 妻や母の生家からの願いと言うのは、やはり断りにくい。モウキでさえ、母の実家である有力氏族に対してはあまり強く言えず、大都に帰還して八代大王となってから一気に三人も妻が増えてしまったほどだ。


 しかし、トールにそれはない。

 「母方の親戚」からの頼みで便宜を図ることはなく、むしろ地方で勢力を伸ばす貴族や、大都の宮廷に蔓延る派閥を危険視している。

 彼が即位すれば、間違いなくアスランの勢力図は変わる。それを危惧する者たちは、不倶戴天の仇とも手を取り合って追い落としを画策しているのだ。

 

 だが、どれほど画策しようとも、次代はトールで揺らぐことはないだろう。

 あるとすれば、本人が即位を断り、弟の誰かを推挙した場合である。

 それ故、ファンは反トール派からは担ぎ上げられ、トール支持派からは最大の敵として命まで狙われるという微妙な立場にいるのだ。

 アステリアに身を潜めていたのも、トール支持派の攻撃を躱すためだったとバルトは聞いている。


 まったく、そんなことを考える連中には拳と共に言ってやりたい。

 ファンなら容赦とするとでも?と。

 兄が即位しようが、弟が王冠を戴こうが、やることは変わらないだろうに。


 「その時には呼んでくれ、将軍。衰えたという自覚はあるが、百人くらいなら斬り伏せるから」

 「大王をして、真正面には立つなとおっしゃられた豪剣。百万の援軍を得た思いに御座います」

 「はは。俺と将軍の前に立つのはよほど運のない奴になるようだな」

 「なに、我らの敵となる時点で、頭が悪い。自業自得と言うものでありましょう」


 権力闘争と言うものが、そんなに単純なものではない事はよくわかっている。

 敵が分かりやすく武器を取って攻めてくるなら良いが、実際にはもっと陰に潜み、毒の棘が生えた蔓をはびこらせるのが奴らのやり口だ。

 だが、それでも。

 その毒蔓を引き千切り、踏みつぶし、守ることはできるはず。

 

 「まったくだ。では、将軍、会談の続きをしよう」 

 「はい。オルゴイ・ホルホイの死体は我が軍で管理いたします」

 「頼んだ」


 まだ、語らなくてはならないことはたくさんある。聞きたいこともまだまだある。

 遠ざかる友人の息子の背を見ながら、バルトは本題である捕虜の引き渡しと、その所業について確認すべく、口を開いた。


***


 「待たせたな!弟よっ!」

 「ぷんきゃ!」

 

 弾んだ声にまず応えたのは、呼びかけられた弟ではなく、その肩に陣取る雷公猫ベンケ

 いいお返事はしたが、相棒の肩に戻る気はとりあえずないらしく、咽喉を鳴らしファンの肩で足踏みを繰り返している。

 その柔らかな毛並みを指で撫でてやりながら、ファンも続いて口を開く。


 「兄貴。お疲れ様」

 「なに、あの程度!造作もないぞ!弟よ!」

 

 満面の笑みとはこのことかとばかりに顔中で「上機嫌!」と主張する兄に、ファンは随分鬱憤が溜まっていたのだなあと同情した。

 年末年始は、忙しい。冬に戦をすることはほとんどないが、一年の締めくくりと新年の準備で机仕事が一気に増える。それだけならなんとかなるが、会談や会食も毎日のように組まれる季節だ。


 王族であるからには、二人は接待される側だ。

 しかし、思ってもいないであろう誉め言葉を投げつけられ…トールは狂信的な賛辞を捲し立てられる事の方が多いが…いつの間にか娘を嫁がせたいという話になるのを毎晩躱していれば、疲れもするし鬱憤もたまる。

 大都にいたころはそれに加えて冬至の祭りの準備にも追われていたから、去年は金はないけれど楽すぎて、年末年始を迎えた実感がわかなかったほどだ。

 

 「ええっと、この人がうわさのトールさん…なんだよね?」

 「ああ。改めて紹介するな。兄のトールだ」

 

 恐る恐るファンの後ろからヤクモが顔を出す。何とか立ち上がれてはいるものの、その両脚は生まれたての子馬の如くぷるぷるしていた。

 

 「あのう、ぼく、ヤクモです」

 「ああ、君がそうか。脚はどうかしたのか?」

 「お馬に半日載ってたらおしりが…あ、あの、これ、ありがとうです!」


 ファンの後ろに隠れているというか、腕に縋っていないと立てないが正しい状態ではあったが、ヤクモはなんとか腕にはめた贈物を見せることに成功した。

 タタルの言葉をヤクモにわかるようにしてくれる魔導具は、トールが造ったと言っていた。それなら、礼を言わなくてはなるない。

 

 「なに、役に立てたなら良いのだ。大した手間がかかっているわけでもない」

 「う…なんかすごい強者感…でも、聞いてたより怖くないねぃ」

 「む?」

 「なんか、すぐ首刎ねるとか、怖い人だと思ってました」


 ファンの腕に掴まったまま、ぺこりとヤクモは頭を下げた。その様子を見て鷹揚に頷いてから、くるりと満月色の双眸がクロムに向く。


 「クロム。大都に戻ったらちょっと星竜宮の屋上まで来い」

 「…なんでだよ」

 「どうせお前が針小棒大に俺のことを伝えたのだろうが!」

 「してねぇよ!!」

 「クロムに稽古をつけなおすなら、俺と手合わせをしろ!トール」


 嫌そうに言うクロムを押しのけ、ユーシンが割り込む。キラキラと瞳を輝かせ、頬を上気させた姿に、周囲の女性陣がさざめいた。

 やり取りはタタル語のため、なんと言っているかわからないが顔の麗しさは言葉を超える。なにより、ユーシンのことをよく知る冒険者たちは、きっと「手合わせしよう!」と言っているのだろうと正しく推測していた。

 美少年と美少年(見た目)の剣劇。

 それはさぞかし見ものに違いないと、黄色い声も上がる。


 「ヤルトミク殿に手合わせをしてもらったのだ!完膚なきまでに負けた!次に会う時はもっと強くなると約したのだ!だから、クロムよりも俺を鍛えてくれ!」

 「そうか。ミクは強かっただろう?」

 「ああ!強い!真正面から強い!」


 我がことを褒められたようにユーシンは大きく頷いた。手合わせの際の興奮を思い出しているのだろう。ますます頬が紅く染まる。

 その様子を、トールは満足げに眺めた。 


 「おまけに将としても優秀だ。うむ。そんな優れた将が忠誠を誓う弟は、やはり世界の至宝なのではないだろうか…」

 「無理やりそっちに持ってくなよ…ほんとお前、気持ち悪いな」

 「兄貴の唯一にして最大の欠点だよなあ…これ…」

 「唯一か?もっとあるだろうが。むしろ、トールは強いって言う一点で他の欠点をカバーしてるだけだろ」

 「ははは。クロム。屋上」

 

 け、と吐き捨ててクロムもさりげなくファンの後ろに回る。代わりに近くにいたシドをぐいと前に押しやった。

 少々戸惑いつつ、素直にシドは一歩前に出た。何しろ、今現在の雇い主はトールだ。今後どうするか、確認する必要があるだろう。


 「おお、シド。ご苦労だった。余計な仕事までさせてしまったな」

 「いや…問題ない。大したことはしていないからな」

 「時に、仕事の内容を少々変更したいのだが」

 「変更?」

 「ああ」


 トールの視線は、馬車へと移動した。

 

 「ガラテアもいるな。あのスカポンタンは馬車の中か」

 「ああ。起きている…とは思うが」

 「良い。ちょっとあちらで話そう。弟たちもちょっと来てくれ」

 「ん。了解」

 

 目線で他の冒険者たちに「ちょっと行ってくる」と報せ、ファンは兄の後を追って歩き出した。縋りつくヤクモを支えながらだから、その歩みは遅々としたものだったが。

 当然、それに苛立つのはクロムである。


 「おい、馬鹿。この雑魚をさっきみたいに担げ。ちんたらしてんじゃねぇよ」

 「俺は構わんが、ヤクモ。担いでも良いか!」

 「え?あんまりよくないよ!」

 「そうか!」


 こくん、と頷くと同時に、ユーシンはヤクモを担ぎ上げた。肩に腹がぶつかり、くぐもった声が漏れる。


 「良くないって言ったでしょ!」

 「嫌だとは言われなかったからよいかと思った!」


 快活に言ってのけるユーシンの肩で、「いいよもう…」とヤクモが溜息をもらす。

 その光景を、トールは柔らかな眼差しで見ていた。


 「報告は随時受けていたがな、弟よ」

 「うん」

 「お前の判断は正しかった。兄がそう断言しよう」


 ユーシン拾ったんで一緒にアステリアに連れていくね、という手紙の一文を呼んだ時には、さすがに連れ戻しに行こうかと腰を浮かしかけたが。

 だが、それを押しとどめたのは、徐々に大きくなるユーシンの悪評だ。

 敵を求め、死と破壊をまき散らす狂戦士。

 初めて報告を受けた時にはあのユーシンが、そんな馬鹿な、と密偵を一瞬疑ったほどだ。続いた報告により、なぜそうなったのかも理解できてからは、手を出すか出さないかで悩みに悩んだが。


 あのままキリクにいれば、遅かれ早かれユーシンは壊れる。


 それを誰よりも理解していたのは、当のユーシンと片割れであるユーナンだろう。

 だからこそ、ファンがアスランから脱出し、アステリアに向かったと聞いてユーシンもその後を追ったのだ。


 王宮を抜け出し、ファンに合流すべくアーナプルナ山を越え、行き倒れはしたものの無事出会ったという奇跡は、まさに紅鴉の導きと言える。

 当然ユーシンはファンがどういう行路を辿るかなど知る由もない。予想もできなかったはずだ。


 ただ、鴉が西へ飛んだというだけで進んだにしては出来過ぎている。

 紅鴉も、アーナプルナの双神も、この少年が狂戦士として戦場に果てるよりも、世界を救う英雄となることを望んでいるのに違いない。

 そう思ったからこそ、キリク王にしばらくユーシンを預かりたいと自ら言いに行き、アスランはユーシンの即位を望んでいると居並ぶ諸将や大臣、王族貴族らに見せつけた。


 弟の判断は間違えていないと言い切ったが、同時に己の判断も誤りではなかったと内心に頷く。

 もうすでに一度、影ながらアステリアの危機を救っている。そしてなにより、ユーシンの顔が違う。トールたちがよく知っている顔だ。

 手負いの野獣のように目を爛々と光らせ、牙を剥く狂戦士の顔ではない。


 「うん、俺もそう思うよ。ありがとう。兄貴」

 

 ありがとう、の中には、キリクに対して行った様々な工作に対する礼が含まれている。本来なら、同行させると判断したファンが行うべきことだ。

 だが、ファンが行えばキリク王夫妻とユーナンは納得してくれても、ここぞとばかりにユーシンの廃嫡に乗り出すものはいただろう。

 トールだからこそ、その動きに釘をさせたのだ。


 「どういたしまして、だ。弟よ」

 「それで、シドに新しい仕事って?」

 「うむ、まずはあのスットコドッコイを引き摺りださねばな」


 馬車の前で足を止め、じとっとその中を睨みつける。

 待機していたエルディーン達は不穏な気配にそわりと後退り、馭者台に座っていたガラテアは気にも留めずに地に降りて歩み寄る。


 「シド、ガラテア。あのスットコドッコイの護衛、ご苦労だった。不快な思いはしなかっただろうか」

 「杖をへし折った」

 「そうか。首でないなら何よりだ。その護衛の任、今ここで解く。報酬は約束通り支払うので安心してくれ」


 トールの言葉に、シドは首を傾げた。まだ大都までの道のりは長い。


 「…よいのか?」

 「ああ。オルゴイ・ホルホイを大都に送るついでに、あれも送る。いきなりオルゴイ・ホルホイを放り出すのもなんだし、まずはあのアンポンタンを送って準備をさせようと思ってな」


 トールの視線はますます険しくなるが、馬車の中で何かが動く気配はない。

 

 「あれの気に入りの芸妓から、ちょっと殴り倒したくなるレベルの請求書が届いてな…この一年、ツケであがっていた分の請求らしい」


 吐き捨てるような語気に、今度はガラテアが首を傾げた。

 雇い主は基本的に金に対して鷹揚だ。庶民が一生かけて稼ぐような金額でも、「ちょと高いな」くらいですませる。

 それがここまで言うからには、とんでもない金額のはずだ。

 流石にそれほどの金額をツケてくれるような店は、大都にもない。


 「いくらになった?」

 「ざっと銀貨千枚というところか。今の相場で言うならな」


 ますますガラテアの首が傾く。銀貨千枚なら、トールからすれば精々眉をしかめる程度だ。ガラテアなら首をへし折るだけでは済まさない金額だし、弟のシドですら剣を振り下ろす枚数ではあるが。

 しかし、相場というのは銀相場の事だろうか。それなら、随分妙なツケだ。銀貨ではなく、銀塊で払うと約したとでもいうのか。 


 「相場?」

 「いやはや、妓女の耳は梟よりもいい。先月、ある商会から髪留めを買ったのだ。母上に差し上げようと思ってな」

 

 母がいつも使っていた髪留めが何かの拍子に外れて床に落ち、弟不足で注意散漫になっていたせいで気付くのが遅れ、踏んで壊してしまった。だから、その代わりになるものをと買い求めたのだと、何でもないように説明する。


 「だが、母上はもう新しい髪留めを買っていてな。そんなに高価なものは普段使えないから、俺が妻を娶ったら贈ればいいと。壊したことは謝ってもらったから、もうよいと仰られてしまった」

 「…普段使いに、話から察するに銀貨千枚の髪留めか?」

 「見た目が気に入ったのだ。淡紅の真珠を組み合わせて、イントルの花を象っていてな。お似合いになるだろうと思ったのだが…」


 似合いそうだからと言って、銀貨千枚の髪留めを母に贈る息子もどうかと思うが、一番そう思ったのは贈られかけた母に違いない。

 とりあえず、髪留めは母の髪を飾ることなく、トールの手にあるようだ。そして、それを妓女に知られたという事なのだろう。


 「ふむ。それでその髪留めをツケのかたにと強請られたのか?」

 「まあ、そうだ。しかし、渡してしまえば既成事実が出来てしまうからな。だが、金で渡すとなると、品物を送れなかった詫びを込めてもう少し色をつけるべきだろう。それを交渉するのも実に面倒くさい。そう言った事は自分でどうにかしろと」

 

 装身具を贈る、というのは、つまりは身請けする宣言のようなもの。

 勿論正式な夫人にはなれないのは当然としても、愛妾として王宮に住まえるのであれば、妓女としてはこれ以上ないほどの上がりだ。

 いささか強引すぎる手でも、相手の弱みがあれば付け入ってみるだけの価値はある。上手く事が運ばなくても、ツケた金額よりも多くの金が手に入るのだし。


 「と、言うわけだ。聞こえているな。タワケ者」

 「いやあ、星竜君わがきみ。末将、ちゃんと年末には払う気満々でござりましたよ?」

 

 ぴらりと馬車の覆いを開けて、ウー老師が顔を出す。満面の作り笑顔を見る限り、主がやってきたことをとっくに感知していたのだろう。


 「ならば金は問題ないな。これから弟を迎える準備をする俺の時間を…これ以上削るというなら、お前の来年の俸禄をその妓楼にくれてやるぞ!」

 「それはさすがに与え過ぎでござろう!!」

 「嫌ならさっさとやれ!このスカポンタン!!」


 タタル語の応酬に、エルディーンが目を丸くする。意味が分かれば子供の喧嘩かと呆れるが、わからなければ何事かと思うだろう。

 何しろ、見た目的には初老の男を少年が責めているようにしか見えない。

 

 しぶしぶと馬車から降りたウー老師に、トールは大股で近寄る。歩きながらも陣を構築し、己が守護者スレンの目の前に叩きつけた。


 「場所は俺の執務室だ。半刻後にオルゴイ・ホルホイの死体を送るので、四番練兵場を開けておくように伝えよ」

 「ええ?もう少しですなあ、弟君に末将の活躍を聞いたりして…」

 「行け」


 身を捩るウー老師の髭を引っ張り、陣の中へと進ませる。


 「ひたたた!?あんまりですぞお~!!」

 「お前の厄介ごとを押し付けられた俺の方があんまりだ!」


 ぱっと髭から手を離すと同時に、ウー老師の姿が消え失せる。あとには、僅かに青く燐光を浮かび上がらせる転移陣が残るだけだ。

 

 「ええ!?」

 「ふむ、転移の陣を見るのは初めてだろうか」

 「て、転移?」 


 西方語で声を掛けられ、エルディーンは目を瞬かせた。

 それはお話の中でなら、何度も見たことのある魔導だ。

 絶体絶命の危機に瀕した主人公たちを、味方である大魔導士が転移させて救い、彼らの宿命を語るとか。

 

 「アスランではそこまで珍しい魔導ではない。陣を固定することで輸送につかっていたりもする。詳しくは、弟たちと我が国を訪れた際にその目で見ればよい。サライにもあるしな」

 「弟…?」


 エルディーンの視線はユーシンに向く。その視線に苦笑しつつ、ファンは自分を指さした。

 

 「違うよ。こっちこっち」

 「え?」

 「ファンの兄、トールだ」


 ファンの兄、という言葉を理解すると同時に、エルディーンは思わず後ろへ跳んだ。あわててレイブラッドが転びかけたその身を支える。

 その動揺をもたらしたのは、兄にしては若すぎる外見か、アスランの王子であるファンの兄なら、当然トールもそうであるという事実に思い至ったせいか、本人にもわからない。

 ただ激しく瞬きを繰り返し、それから思い出したようにぴょこん!と頭を下げて一礼する。上擦った声の「エルディーン・アルテともうしましゅ!」という名乗りに、トールは口許をほころばせ、それから真剣な視線をクロムへと送った。


 「…時にクロム。あのお嬢さんと弟とは…」

 「なんもねぇよ。あの小娘が麻疹に掛かってるだけだ」

 「む、そうか…」


 交わされた会話がタタル語でなくても、動揺しているエルディーンには聞こえなかっただろう。もし聞こえていたら、レイブラッドごと後ろに倒れていたかもしれない。

 

 「さて、ガラテア。シド。次の仕事だが」

 「ああ」

 「このまま弟たちを護衛して、大都に戻ってほしい。同額だそう」

 

 仕事の内容に、シドは目を瞬かせた。

 どのみち、大都に戻るつもりではある。姉弟二人連れより、ファンたちに合流した方が危険も少ない。むしろ、シドたちが頼む側だ。


 「一人でも信頼できるものが弟の傍にいてほしいのだ。ただでさえ年末に向けて治安も悪化するしな」

 「わかった。承ろう」

 「姉さん」


 弟の声に、ガラテアはくすりと笑う。その邪気一つない笑顔を姉が浮かべた時は、碌でもないことを考えている事が多いと身をもって知っているシドは、逆に口許を引き締めた。


 「姉さん…?」

 「良い話だ。受けない理由はない」


 とりあえず、何を考えているのか言う気はないらしい。

 口許を引き締めたまま、シドは無言で天を仰いだ。


 ああ、大海の主(ダロス)よ。あなたのしもべをどうか少しくらいは、ほんのわずかにでも、髪の毛一筋ぶんでいいから、お諫めください。


 内心の祈りが大海の主に通じたかどうかはわからない。たぶん、通じていないだろう。通じたところで、その諫めが姉に届くかは別問題であるし、更に姉がおとなしく従うかはもっと違う話だ。


 「頼んだぞ。二人とも。とりあえず前金はこれでよいか」


 はめていた指輪を無造作に抜き取り、トールはシドへと放った。受け止めたそれを見れば、明かに純金とわかる輝きを放っている。

 

 「貰いすぎだと思う。絶対に高いだろう。これ」

 「今、金目の物をそれくらいしか持っていないのでな。何、成功報酬の先払いとでも思ってくれ」

 「売るのが面倒なやつだな。まずは潰すか」

 「姉さん。もっと違う感想はないのか」

 「ない。何を言っている?」


 男物とは言え、細かく彫り込まれた鳥の意匠は綺麗だし、姉の指を飾ったって良いと思うのだが。

 そう言えば、母たちが朝から昼までかかって結い上げた髪を、動きづらいと掻きむしって解いたなと思い出す。昔からそういう人だった。


 「確かに引き受けた」

 「ああ、頼む。弟もそれでよいな」

 「俺としてはありがたいよ。このあと、ナナイや神殿の女の子を護衛して大都まで行くからね。女性の手が増えたほうがいい」

 「おお、ナナイも来るのか!」

 「うん。ウー老師が事情を知っているから、聞いてね。んでもって」


 真顔になって、ファンはトールを見つめた。

 あまりにも真剣な弟の顔に、トールも息をのむ。


 「母さんがアステリアに攻め込むって言いだしたら、止めて」

 「うむ。心得た」


 娘も欲しかった母は、ウルガを妹のように、ナナイを姪のように可愛がっている。

 何らかの不愉快な事情でナナイが家を出てアスランへ向かっているのだとすれば、后妃の名の下に親征をしかねない。

 

 「クロムが落ち着いているのだから、ナナイは無事なのだな」

 「兄貴が雇ってくれたクトラ傭兵団がこっそり護衛しているからね。引き継いだら王都へ戻ってもらうけど。ウルガさんが心配だし」

 「叔母上が危険なのか…?ますます母上をお止めせねばならんな…」

 「よろしくね」


 真顔のまま、ファンが応える。同じく真顔で頷いて見せた後、トールは弟の後ろに目線を向けた。

 その目線に弾かれるように、クロムが身体を反転させる。剣の柄に手を置き、抜き放つ前に、肩の力を抜いた。


 「なんか用かよ」


 少し照れ隠しを含んだクロムの声は、いつもよりさらにぶっきらぼうだ。しかし、その声に怯むことなく、ベルドは大きく頷いた。

 彼の後ろには、彼の一党パーティが続いている。皆、やや緊張した様子だが、敵意はない。こっそりとクロムの手が柄から離れた。


 「お礼を言いに来た」

 「礼?」

 「ああ。助けてくれて、ありがとうございました!」


 ばっと音が出る程の勢いで腰を折り、ベルドはトールに謝意を述べた。

 仲間たちも同じように頭を下げる。


 「ほんっと、うちのリーダーを助けてくれて、ありがとう!」

 「リーダー、死んじゃったかと思ったもん」

 「まじ、命の恩人だもんな」

 「ありがとうございます…!貴方に女神の加護があらんことを!」


 口々に掛けられる言葉に、トールの口許に笑みが浮かんだ。

 

 「なに、勇士の死に場所は長虫の口ではない。そう思っただけのことだ」

 「でもぉ。どーやってリーダー助けたんですか?すんごい魔力の反応があったから、魔導を使ったんだってわかったけど」

 「飛竜の背から転移しただけだ」


 事も無げに言われ、魔導士は「そっかあ」と頷きかけ、そして止まる。


 「ノラ?」

 「え?無理くない?なにそれ?無理…」

 「アスランでは転移陣の使い手は珍しくないぞ」

 「ええっ!?そうなんですかあ!?でもお、魔導の研究もアスランが一番進んでるし、そうなのかなあ?」

 

 正確には、すでに固定された転移陣を調整し、維持する魔導士は少なくない。だが、その場で陣を描き、発動させられるのはアスラン王家に連なる者だけだ。

 そして、精霊石の補助もなくやってのけるのはトールだけである。

 だが、それをここでいう必要はない。一応、弟は身分を伏せているのだし。


 「お兄さん、竜騎士なんっすか!!」


 身を起こしたベルドの顔は、興奮に紅潮している。ふんすと鼻息荒くなりつつ思い描くのは、先日見た飛竜の優美な姿だ。


 「ああ。あそこで食事しているのが、俺の飛竜、ムカリだ」


 主の視線に気づいたのか、ムカリは長い首を持ち上げた。満足そうに舌なめずりをすると、ゆっくりと歩み寄る。


 「ぷっきゃ!」


 ファンの肩でベンケが吠えて飛び降り、草原を駆けていく。ムカリはそれにこたえるように翼を下げた。

 小さな猛獣はその翼を駆けのぼり、鞍を占領する。どうだ、とばかりの得意げな顔に、冒険者たちの顔にホンワカと笑みが浮かんだ。


 「めっちゃ可愛い…」

 「だっこしたーい!」

 「やめとけ。鼻か耳を食いちぎられるぞ」


 ほわほわと呟く冒険者たちに、クロムは冷たい一瞥と声を投げかけた。

 いや、クロムにしては珍しく、むしろ親切な忠告のつもりである。

 

 「ほんとに、雷公猫は家族以外には凶暴だから…」

 「あんなに可愛いのにねえ」

 「ぼくも触りたいんだけど、駄目って言われたよ~」

 

 熱い視線をどう思っているのかはわからないが、当のベンケは涼しい顔だ。くぁと欠伸を漏らし、鞍の上に寝そべる。

 その仕草は猫そのものだが、クロムはともかくファンが言うなら本当に危険なのだろうと、冒険者たちは撫でることを諦めた。さすがに指も鼻も耳も、喪うのは困る。


 「やっぱ飛竜はかっこいいよなあ…」

 「申し訳ないが、ムカリも見ず知らずの者が近寄るのは嫌がる。雄の飛竜は雌より小さいが、気性が荒いのだ」

 「そなの?ファン」

 

 ヤクモが思い出すのは、つい先日共に過ごした飛竜たちだ。一番仲良くなれたのは背に乗せてもらったリリーゼだったが、マナンをはじめ、他の飛竜たちもヤクモを警戒したり嫌がったりする様子はなかった。


 「というか、雄は気性がとんでもなく荒いか、人懐っこいかのどっちかだなあ。ムカリはとんでもないほうだけど」

 「俺はムカリとも仲良しだぞ!」


 言うが早いか、ユーシンはムカリに歩み寄る。一瞬目を細めたムカリだったが、すぐに誰か思い出したのだろう。顔を近付け、ユーシンにこすりつける。


 「俺も挨拶しとこうか。クロムは?」

 「…やめとく」


 親愛の情と言うのは判っているが、オルゴイ・ホルホイを食った後の口で咥えられるのはまっぴらごめんだ。

 落ち着いた性格のムカリなら、そこまではしないかもしれないが、正直舐められたくもない。


 「いいなあ…ファン…ユーシンも…」

 「飛竜に興味があるのなら、大都を訪ねてみるがよい。訓練場に足繫く通えば、飛竜は顔を覚える。そうすれば、多少近付いても怒りはしないぞ」

 「マジっすか!」


 アスランには竜騎士だけで構成された部隊もあるという。

 つまり、多くの竜騎士が飛竜を駆って空を往く姿も見れるかもしれない。


 「浪漫だ…!!」

 「リーダーの浪漫はどうでも良いけど、アスランは行ってみたいね」

 「是非来てみてよ。季節は夏のほうが良いと思うけどね」

 「いくらくらいかかるのかなあ…」


 歩いていけば運賃は無料。なるべき野宿を繰り返せば、宿泊代も浮く。

 しかし、ずっと野宿を続けるわけにもいかないだろう。いざ大都に入ろうとしたら、あまりの汚さに追い出されるかもしれない。


 「んーと、国境の街まで行けば、大都に向かう隊商の護衛とかも募集してたり?」

 「どっちかって言うと傭兵の仕事だよなあ。でもさ、王都でもアスランまで行く護衛の仕事募集、見たことあるぜ」

 「なんですぐに引き受けないのよ!」

 「仕方ねぇじゃん。そのころ、アスランってなんかおっかねぇ国って印象だったんだから!」


 肩を竦める斥候に、ファンは苦笑を浮かべ、エルディーンは顔を真っ赤にして俯いた。まさにその印象で悪口雑言を叩いた記憶は、当分薄れてくれそうにない。


 「今なら見た瞬間もぎとってるわ。まあ、競争率はあがってそうだけど」

 「ファンちゃんたち見て、話を聞いて、ヒャッハーな国からなんかすごい国って印象変わったもんね」

 「せめて国境まで行く仕事ないかなあ?サライって、魔導の研究も盛んな街なんだよね~。おっきな学校があるんでしょ?」

 「魔導研究は、百年前に併呑したカリフタン王国から引き継いだ部分が多いからね。サライはもともと、カリフタンの街だったし」

 「冬はねぇだろうけど、春になったら依頼の張り出し板は要注意だな」

 「だね!」


 中堅どころに位置するベルドのパーティは、それほど金に困っていない。しかし、仕事で行くのではなく遊びに行くとなれば、その為の軍資金がいる。できれば稼ぎながら行きたいところだ。

 

 「アスラン行くなら、ぼったくりに気をつけろよ。特にサライの悪徳商人どもは容赦しねぇからな」

 「まじ?」

 「うーん。客引きにはついていかないことをお勧めするね。平気で三倍くらいの値段を吹っ掛けてくるから」

 

 サライの西門をくぐると、まず待ち受けているのは客引きの群れだ。宿を紹介するというものや、食事処へと引っ張っていく者、商品を売りつけようとする者など様々だが、共通するのは全員ぼったくりである、という事だ。


 「気を付けるね!てか、ヤクモっち、気を付けてね!」

 「うん!ファンの隣を離れないよ!」

 「そうしろ。迷子になったら捨ててくからな」

 「クロムはいつもこうなのか?ヤクモよ」


 穏やかに尋ねる声に、ヤクモは思い切り頷き、クロムは顔を顰めた。


 「まったく。不詳の弟子が迷惑をかけているようだな。よおく言って聞かせよう。身体に直接な。というわけで、屋上。忘れるなよ」

 「お前が忘れとけ」

 

 クロムの悪態に、もう一度「屋上」と言い捨て、トールは弟の右手を取った。


 ついに、この右手に刻まれた運命が動いたのだと聞いている。

 それは、過酷な道だろう。

 できることならば、変わってやりたいほどだ。

 

 だが、同時に、この弟の右手は運命を切り開き、必ず世界を救うと信じている。

 その為に、その偉業を助ける為に、己は類まれな力を持って生まれたのだと…灯がこの手に宿った時に、理解したのだ。

 

 「大都で待っている。弟よ」

 「うん。待ってて。必ず帰るから」

 「サライに戻ったら、お前がもうすぐ来ることを伝えておこう。あまり大騒ぎしないように、とな」

 「よろしく」


 くすくすと笑う顔は、一年前よりどこか吹っ切れている。

 この一年、心を癒したのはユーシンだけではないのだと知って、トールは弟の右手を握る手に、ほんの僅かに力を込めた。


 「では、俺はオルゴイ・ホルホイを送り、サライに戻ろう。後六刻には会食の予定があってな。ものすごくいきたくないが」

 「あー、時間を久しぶりに聞いたよ。アステリアだと、朝の開門と夕方の閉門を報せる鐘くらいしかないからさ」

 「時計をもっていかなかったのか?」

 「動かす魔晶石を買えないからね。ネジ式の奴だと、どうしても狂うし。時刻合わせできないなら、いらないかなって。特に不便はなかったよ」

 「そうか。時に縛られない暮らしと言うのは憧れるな」


 うん、と笑って頷く弟の手を離し、トールはクロムを見つめる。


 「守れ。良いな?」

 「当然だろ。っと、これ返す」


 投げられたマントを掴み取りながら羽織り、トールは弟子の左胸に拳を付けた。


 「お前の守護者任命の儀式もある。心して掛かれよ」

 「楽勝に決まってんだろ?あのおっさんたちもできたことが俺にできないわけがない」

 「そう言われると何も言えんな…まあ、お前なら、何も問題はないだろう」


 左胸につけられた拳に、力が籠る。

 

 「お前も、十分にいかれているからな」

 「なんだそりゃ」

 「儀式に臨めば、わかる」


 に、と笑って拳を離し、トールは足を前へと進めた。

 ムカリがその歩みに従い、くるりと方向を変えて歩き出す。揺れる鞍の上で、ベンケはなんのこともないとばかりに居眠りをしていた。


 「では、しばしさらばだ!弟よ!」

 「兄貴も気を付けて。あんまり鬱憤溜めないようにね!」

 「何、帰ってきたお前の顔を見れば吹き飛ぶ!」


 ひらひらと振り向かないまま手を振って、トールはまっすぐにオルゴイ・ホルホイに向けて歩いていく。

 その背中を見ながら、クロムは呆れたように溜息を吐いた。


 「全財産賭けても良いが、アイツ今、号泣してんぞ」

 「賭けにならんな!」

 「ええ!?泣いてるの!?」

 「トールだからな!ファンと再会してまた離れるというのは、十分泣く理由となる!」

 「あ…あはは…兄貴も頑張ってるから、そのくらいで」


 実のところ、ほんの少しファンも目が潤んでいたのだけれど。


 兄は弟を信じ慈しみ、弟は兄を信じ敬う。

 それを家訓とするのは、ファンだって同じだ。


 突然の、電光のような再会と別れ。それに何とも感じないほど、ファンは兄への情がないわけではない。

 

 もっと、話したかった。


 この一年、互いに何があったのか、思う存分語り合って。

 同じ羊の肉を食い、同じ鍋で沸かした茶を飲んで。

 同じ床で寝るのはさすがに勘弁願いたいが、同じ陣屋で眠りについて。


 だがそれは、永遠に叶わないわけではない。

 遥か、東の先。けれど、辿りつける場所に、帰るべき家はある。

 そこで、兄はもちろん、父も母も待っている。


 むしろ、ほんの少し先取りできたのだと喜ぶべきだ。


 目をきつく閉じ、そして開く。

 兄の背はもうずいぶんと遠い。だが、今はその遠さに嘆くことはすまい。


 「さって。俺たちは大神殿の神官さんたちと待ち合わせている町へ向かうよ」

 「おう。気を付けてな。俺らは埋葬の手伝いや残党の探索だ」

 「そっちこそ、気をつけて。…村は、だいぶん酷い有様みたいだから」

 

 ファンの言葉に、ユーシンが微かに頷く。

 その沈痛な同意に、ベルドは改めて覚悟を決めた。


 「そういやさ、あいつ、どうしたんだろ」

 「あいつ?」

 「ほら、帰ったはずなのにいた奴だよ!」

 「あー…すっかり忘れてたわ。そういや、いつの間にかいないな」


 斥候はきょろきょろとあたりを見回したが、目当ての人物を見つかられはしないようだった。激しい舌打ちが、それを物語っている。


 「もういーじゃん。何が気にかかるのよ」

 「怪しい奴をもーいーじゃんって捨て置く方がありえんわ」

 「…そう言えば、あの人、オルゴイ・ホルホイが出てくる前からなんか地面を気にしてたな…」


 言いながら、ファンは浮かんでいた疑念が再び浮かぶのを抑えられなかった。

 オルゴイ・ホルホイの本来の住処は、もっと北の砂漠地帯だ。

 確かに、灰色の丘陵でも目撃例はある。だが、「目撃例がある」と「棲息している」はだいぶん違う。


 オルゴイ・ホルホイは生きている動物よりも死体を好む。なるべく動かずに栄養摂取するために、狩りを行うのはどうしようもなく食料がない時だ。

 だが。今ここには、狩りを行わなくても手に入る食料がある。それも、大量に。


 村人たちの遺体もそうだし、賊共の死体だって埋まっている。食料を得る為なら、そちらを狙うだろう。

 確かに、生物は時折とんでもなく矛盾した行動をとることはある。あるが、今回もそれで片付けていいものなのだろうか。


 それに、もう一つ何かを見落としている。そんな気がする。

 

 「おい、考えたってしょうがねぇだろ。ま、あの白ウンタラの連中も恥曝したわけだし、少しはおとなしくなるんじゃないか」

 「まあ、ちょっと気の毒だったな。オルゴイ・ホルホイはアスラン人にはなじみの魔獣だけれど、アステリアじゃあ知らない人の方が多いだろうし」

 

 確かに、判断するには材料が少なすぎ、脅威はもう過ぎ去った。

 それなら、無理に分析し、仮説を導く必要はないだろう。


 「俺は奴のツラ覚えたからな。これから気を付けるわ」

 「まあ、怪しいなら警戒しとくに越したことはないしね」


 それよりも、互いに考えなくてはならないこと、やらなくてはならないことはたくさんある。そちらに注力した方が賢明だろう。


 「じゃあ、また春に!」

 「ああ!生きて会おうぜ!」


 こつん、と拳を付け合わせ、パーティリーダー二人は再会を誓った。一党の面々もしばしの別れを惜しみ、そして無事を祈りあう。

 


 …その光景が丘の向こうに隠れた場所。

 その場所で、二人の冒険者が同じように向き合っていた。


 だが、互いの顔に信頼や親愛のぬくもりはない。

 あるのは、見下ろす側の蔑みと、見下ろされる側の怯え。


 「…す、すみません、キールさん…あんな大物が出てくるなんて…」

 「言っていたよな。ただのサンドワームの一種にすぎないと」

 「ほんと、ほんとにそうなんです!あんな、でっかいのじゃなきゃ!」

 

 ガタガタと震えながら、男に懐にしまい込んだ瓶の事を考える。

 瓶に入っているのは、オルゴイ・ホルホイの体液だ。


 産卵期に入ったオルゴイ・ホルホイが分泌する体液。

 それを先回りして昨日の夜から地面に撒いていた。


 男は魔獣使いと呼ばれる職能のものだ。とは言え、操ったり手懐けたりできるわけではない。

 単に、魔獣をおびき寄せる手段に長けたものの総称である。

 魔獣をおびき寄せるには、その生態を知り、「餌」を作らなくてはならない。

 ファンですら驚くほどの知識を有しているのが本来の魔獣使いだが、男はそこまでの領域に達してはいなかった。

 ただ「餌」を買う伝手がある。それだけである。

 勿論、まともな伝手ではない。かつて盗賊の一団に属していたころ知り合った伝手だ。

 だが、それでも白い炎の誰よりも魔獣には詳しい。


 オルゴイ・ホルホイについても、当然知ってはいた。

 アスランの遊牧民が落雷や旋風のように扱い、家畜を取られれば諦める魔獣。


 でかいのが出たら、諦めて逃げろよ。


 そう、闇商人は言っていたが、成長しきったオルゴイ・ホルホイは本来の住処である砂漠に集う。その厳しい環境では生きていけない若い個体が、灰色丘陵の地下にいるのだと聞いていたから、この「餌」を買ったのだ。

 

 見た目は悍ましく、しかし先制攻撃はしてこない。

 一撃で弱らせ、とどめを颯爽とさして見せれば、聖王の覚えも良くなるはずだった。


 しかし。


 「餌」に釣られたのは巨大な成虫。

 まさか、全く攻撃が通じず、むしろ反撃で一網打尽になるところだったとは。


 まさか、まさか、と男は震える胸中に繰り返す。

 

 成長しきったオルゴイ・ホルホイをただ一人で倒し、青銀の飛竜を駆る魔導士。

 それは、ただ一人の名を男に思い起こさせる。


 「あ、あの!あの魔導士なんですが!」

 

 男の声に、キールは微かに頷いたように見えた。

 その動きに励まされ、男は更に口を開く。


 伝えねば。あの魔導士に敵対してはいけない。いや、金髪のアスラン人冒険者。あいつが、男が考えている通りの者ならば、絶対にあいつにも手を出してはいけない。

 

 「あの…まど…」


 男の目に、秋空が映り、そして、何も見えなくなった。


 「…クソ…」


 刎ねた首を蹴り飛ばし、踏みつけ、キールはしばし荒い息で肩を揺らした。

 今まで、多少は役に立っていた。だが、この肝心な時にしくじるとは。


 「俺は…どうしてこんなに不運なんだ」


 長男に生まれなかった。ただそれだけで、家督を継ぐこともできない。

 ならば実力でのし上がろうとすれば、足を引っ張られる。

 いったい自分が何をしたというのかと、女神に問い詰めたいほどだ。


 「おーい、キール」

 「こっちだ」


 首に更に剣を突き立てようとした動きを止めたのは、一党の戦士の声だった。

 丘の上から影が差し、それから驚いた声が降ってくる。

 

 「え…そいつ…」

 「俺が斬った」


 丘を滑るように駆け降りる戦士に向ける顔は、痛みをこらえているように見えた。


 「王都に戻ったはずの彼がいたように見えたから、追いかけたんだ。そうしたら、あの魔獣は自分が呼んだと…言われた」

 「なにっ!?」

 「どうやら、宰相派の誰かに惑わされたようだったよ。バルト陛下の暗殺が狙いだろう。それを聞いたら、切るしかなかった。彼の懐には、まだ魔獣を呼べる餌があるだろうしな」

 「なんだって…じゃあ、俺たちの一党に入ったのも…」

 「もしかしたら、そこから狙っていたのかもな」

 「くっそ!盗賊団上がりなんか信用するなって言われたのを、キールが庇って仲間に入れたってのに!」


 憤る戦士に向け、キールは力なく首を振る。その双眸から雫が頬を伝い、魔獣使いの死体に、ぽたりと落ちた。


 「だからこそ…俺の手で。終わらせなくてはいけなかった」

 「キール…」

 「だが、死んだ後まで辱める必要はない。彼はここで埋葬して、皆には黙っておいてくれないか?同じように過去に傷を持つ仲間が疑われるのは避けたい」

 

 そっと首を胴に寄せ、跪いて祈りを捧げる。その姿は、心底仲間の死を悼むリーダーの姿だ。


 いや、もうすでに彼の中では、「そういうこと」になっている。


 この魔獣使いは、邪な目的をもって白い炎に入団し、悪辣な企みを抱えていた。

 そして、その邪心はキールの剣によって断たれた。無論、仲間を斬るのは己を斬るに等しいほど辛い。だが、やらなくてはならなかったから、剣を振った。

 ああ、哀しい。だが、己はやり遂げた。アステリアの平和のために。


 もし、戦士に近衛団長ほどの経験があれば、切り離された首に蹴り痕がある事を不審に思っただろうし、そもそも無理がありすぎる説明に疑念を抱いただろう。

 だが、白い炎の副団長である戦士は、仲間を疑うなど考えたこともない善人であり、リーダーの高潔な姿に潤んだ目には、僅かな痕跡は写らなかった。

 

 浅く掘った穴に魔獣使いを埋め、二人は丘を登る。 

 それとほぼ同時に。


 その視線から逃れるように、オルゴイ・ホルホイの巨体が、転移の陣によって遥か彼方へと送られて行き。


 灰色丘陵クローヴィンの動乱は、幕を下ろした。


***


 冬の風が、アステリア王都イシリスを舞う。

 しかし、その王都外れの一角だけは、北風の精霊たちですら避けて通るほどの熱気に包まれていた。


 十重二十重に人垣を作る民が待ち受けているのは、クローヴィン神殿を襲い、近くの村で非道をなした罪人。

 広場の真ん中には木の台が設えられている。ちょうど人が一人、寝転ぶほどの大きさのその台に、大悪人が縛り付けられるのを、民衆は今か今かと待っていた。

 

 「ずいぶん詰めかけてるな」

 「柵が倒されんことを祈るか」

 「まったくだ。ほら、さっさと歩け」


 その広場へと向かう為、牢獄の廊下を騎士たちは罪人を引っ立てて歩いていく。

 罪人はひっきりなしに何かを呟いているが、意味を成しているのは「助けて」「死にたくない」の二つだけで、あとは呻きのような悲鳴のような、とにかく言葉ではない。ただの声だ。


 「ったく。この期に及んで漏らしやがって。掃除する奴の身にもなれよ」

 「最後の願いで下剤を強請っておけよなあ」


 忌々しそうに騎士が鼻をつまんで悪態をつく。罪人の後ろには、足を伝って落ちた汚物が点々と続いていた。

 本来なら、貴族を処刑するときには眠り薬入りの葡萄酒が差し入れられ…まともに飲めずに無理やり飲まされることもあるが…意識を失った状態で刑場に運ばれる。

 しかし、このギメルと言う元男爵にはそれが許されなかった。

 聖王バルトが直々に爵位の剥奪を宣言している。元貴族であれば、眠り薬入りの葡萄酒が振舞われることはない。

 

 「さっさと行こうぜ。臭くてかなわん」

 「おお。しかし、いい天気だな。今日も」


 廊下の先、開け放たれた扉の向こうには、雲一つなく青い空が見えていた。

 アステリアの冬の初めはこうした晴天が続く。年が明けて春が近付くと曇天や雨が多くなるが、しばらくは雲すら淡雪のように空を飾るだけだ。


 騎士たちはその晴天の下へと歩みを早める。引き出されるギメルには、久しぶりに見る日の光だ。

 だが。

 その窪んだ眼に映るのは、冬の陽射しではなかった。


 淡く白い陽射しが届かない廊下の端。

 そこに佇む影。


 首と腿から血を流し、腐りかけた顔でギメルを見て嗤う初老の男。


 「おい、踏ん張るな。手を掛けさせるんじゃない」

 「さっさといけ。引き摺りだされたいのか」


 身を引いたギメルに、騎士たちの罵倒が飛ぶ。それでも後退ろうとする罪人に、騎士たちは舌打ちを漏らした。


 「まあ、そうなるとは思ったがな」

 「仕方ない。くそ、終わったら鎧を洗わないと」

 「まったくだ。糞の臭いが染みついちまう」


 枷の嵌られたギメルの腕に手を回し、騎士たちは両脇からそのだらしなく緩んだ身体を持ち上げた。

 獄中生活で随分瘦せたはずだが、それでも弛みきった印象は変わらない。

 獣のような悪臭に、騎士の顔がますます険しくなる。


 ようやく現れた罪人に、民衆から罵声が飛んだ。

 重なり合い、怒号のようになるその声よりも、ギメルを怯えさせるのは騎士に重なるようについてくる嗤う男だ。

 

 「いや、こいつを…こいつを、追い払ってくれ…!たすけ、たすけてくれ!」

 「何言ってやがる」


 首を振りたくるギメルを、騎士たちは処刑台へと固定する。暴れる身体を横たえ、丈夫な革のベルトを肩、腰、膝に渡し、ぎっちりと締め上げた。

 

 「いやだいやだいやだいやだあ!!こいつを、こいつを…ああ!悪かった!あやまる!!あやまるから!!」


 うつ伏せに固定されたまま喚くギメルに、騎士は蔑んだ一瞥をくれて離れた。残るのは、嗤う男だけ。

 ギメルの横に立ち、にたにたと口を歪ませているのがわかる。


 「刑を執行する!」

 

 民衆の罵声が、歓声に変わる。

 その声と同時に、ざくざくと刑場の土を踏む音が近付いた。それが何を意味するか、狂い掛けたギメルの本能が理解する。


 「いやだあああ!!死にたくない!助けてくれええ!!!」


 叫ぶ口に、腐りかけた男の顔が近付いた。

 鼻を打つ腐臭に、ギメルの悲鳴が噎せ返る咳に変わる。


 『これが、死だ』


 にたりと男は…アルテ家騎士団長は嗤う。


 『これが、死だ。良かったな。お前が望むものだ』


 望んでいない!いやだ!違う!


 そう叫ぼうとしても、声はもう言葉にならず。

 首に重いものが叩きつけられ、全身が揺れた感覚。


 それが、ギメルと言う狂人が最期に得たものだった。

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