座布団の穴より靴の穴(百聞は一見に如かず)3
小石と、土と、枯草。
それらが雨のように降り、視界を遮る。
けれど、地中から姿を現し、身をくねらせるものの姿は砂塵の幕すら突き抜けていた。
「オルゴイ・ホルホイ…」
掠れた声でその名を呼び、大きさを目測で測る。
赤黒い筒状の魔獣、オルゴイ・ホルホイ。
その先端にはのたくる触手が無数に生え、時折此方へ向ける口には、渦巻き状に歯…より正確に言えば、歯の役割を果たす硬質化した皮膚…が並んでいる。
完全に伸び上がれば、頭はクローヴィン神殿の城壁を超えるだろう。地上に出ているのは全体の三分の一程度のはずだ。
あの大きさなら、成虫になったばかりくらいか。渦巻き状に並ぶ歯の列を数えれば年齢がわかるけれど、さすがに見えないな。ここで鷹の目を使ったらクロムにものすごく怒られそうだし、やめておこう。
腸の虫。
本来なら、もっと北部の砂漠地方に棲息する魔獣。
とは言え、この灰色丘陵でも何度もその姿は確認されている。珍しいことは珍しいけれど、現れてもおかしくはない。
けれど、こんな大勢の人間…と言うか、生き物…がいる場所に姿を現す程、大胆な生き物じゃない。砂漠と違って硬いこのあたりの土は、掘り上げるだけでもかなりの労力を要するはずだ。
それが、何故?
「ちょ…リーダー…うそ、でしょ?」
俺の観察を止めたのは、呆然とした声だった。
「マジかよ…んなの…ねえって…」
「リーダー!だいじょぶだよね!?生きてるでしょ!!返事してよ!」
悲痛な声が砂塵を掻き散らすように響く。
そちらを見れば、突如現れた異形に怯みつつも剣の柄に手を掛ける冒険者の姿。
「このお!!!リーダー吐き出しなさいよ!!」
カティさんが剣を抜き、駆け出そうとする。それを慌てて、一党の斥候…ジェイルさんが留めた。
「待て!お前まで食われる気か!」
「放しなさいよ!!まだ腹かっさばけば間に合うかもでしょ!」
「魔導で援護するよ!あれ、何効くの!!」
「女神よ…!」
魔導士のノラさんと神官のコルデさんも臨戦態勢だ。
あ、そうか。彼女たちはオルゴイ・ホルホイの習性を知らない。
彼…あちらのパーティーリーダーのベルドさんは、女性二人をこちらへ抛り…本人は砂塵に飲まれた。
変わって現れたのは、巨大な長虫。最悪な想像をしてしまうのも無理はない。
でも、こっちから手を出すのは絶対にダメだ。止めなきゃ!
「アホ。落ち着け!」
俺の内心の声を感じ取ったというより、オルゴイ・ホルホイに竜騎士なしで挑むことの危険を思い出したんだろう。
落ち着け、と言いつつも、珍しく少々焦った声音でクロムが制止する。
その焦っているけれど全然表情に出ていない顔に、カティさんは当たれば痛みすら感じそうなほど、激しい視線をぶつけた。
「クロム!アンタねぇ!」
けれど、注意が自分に向いたことで逆にクロムは安心したんだろう。
一度、すう、と息を吐き、吸った後は焦りが抜けていた。
「おい、馬鹿。血の臭いは感じるか?」
「まったく!だが、変なにおいはする!臭い!」
「だ、そうだ。お前らも何にも感じないだろ。人が一人喰われりゃ、血の臭いがしないはずがない」
二人の言葉に、カティさんは止まった。ぱちくりと瞬きをしている。
クロムだけに任せておいても大丈夫そうだけれど、煽るからな。コイツは。俺もちゃんと説明しなきゃ。
うん。ただ説明したいだけとか、そう言うんじゃないから。本当に。
「みんな、落ち着いて聞いてくれ。あの魔獣…オルゴイ・ホルホイは確かに肉食だけれど、口に入れた瞬間噛み砕く習性を持っている。丸飲みにはしない」
より正確に言えば、噛み砕くと言うより擂り潰すなんだけれど…今言う事じゃないだろう。
どれだけ大きいオルゴイ・ホルホイでも、必ず口に入れた後はそうする。
何故なら、岩の如き強度を持った表皮とそのすぐ下の筋組織に比べ、オルゴイ・ホルホイの内臓は狭くて、肉もとても柔らかい。獲物は丁寧に擂り潰してから消化器官に送らないと、ズタズタに内壁が裂けてしまう。
それも一息に潰していくのではなく、咥えた獲物を叩きつけて仕留める…あるいは弱らせた後、地面に置いて吸い付くようにじわりじわりと中へと送り込んでいく、という食べ方だ。
洞窟と間違えてオルゴイ・ホルホイの口に入り、そのまま飲み込まれたっていう伝説が信じられない理由の一つが、この習性にある。
つまり、頭をもたげているオルゴイ・ホルホイは、何も食べていない。
「んと、じゃあ、だいじょぶそうってこと?あと、ユーシン、降ろして…」
「うむ!さすがにこのままでは戦い難いものな!」
ヤクモを肩から降ろしてから、ユーシンは面白そうな顔でオルゴイ・ホルホイを見ている。おい、殴りに行くなよ?
犠牲者がいないなら放っておくのが一番なんだから。
天敵である飛竜たちがいれば頭の上すれすれを飛ばせて、地中に逃げ帰らせることができるんだけど…帰しちゃったしな。
けど、飛竜がいなくても、捕食の為にでてきたんなら、何も自分が食えていないことを理解すれば諦めて地中に戻るはずだ。多少時間はかかるけれど、下手に手を出すより絶対に良い。
「リーダー、無事なの?」
「突き上げられた衝撃で怪我しているかもしれないけれど、少なくとも食われてはいないよ。習性的に考えて」
「ほんと!?じゃあ、リーダーは!」
「くそ、砂煙、早く収まれって…おい、こっちに誰か来る!リーダーか!」
斥候の指さす先には、確かにこちらに向かって歩み寄る人影。
砂煙に霞んで良く見えないけれど、しっかりした足取りである事は見て取れる。
「もおおお!!心配させんじゃないわよ!岩!顔面岩!」
「だ、誰が岩じゃい!」
響いた声は、確かにベルドさんのものだ。
カティさんの表情がクシャリと歪み、それからぱあっと笑った。
けれどその横で、ジェイルさんが首を傾げる。
「…あれ、なんか、変じゃね?」
「へ?」
「リーダーにしては小さいっつうか…え?」
砂煙は落ち着き、徐々に幕を薄くしていく。
こちらへ歩み寄る人影も、一歩ごとに曖昧な輪郭からはっきりとした姿形へと変わっていった。
こっちを見る、何とも言えない複雑な顔…ほんとこれ、どういう感情の発露?…なベルドさん。
そして、そのベルドさんを横抱きにする、小柄で目深にフードを被った、人。
身に纏うのは、顔を隠すフードのついたマントと、アスランの毛織物で作られた胡服。複雑な刺繍の縫い込まれた帯と革帯には、大小二本の剣が吊られている。
そのどれもに…はっきりと、見覚えが、あった。
え…ちょっと、待って?
俺の顔も、今、どんな感情を浮かべてる?
「え…リーダー、何してんの?なんでお姫様だっこ?」
「俺にもよくわかんね。気が付いたら、こうなってました?」
あんなに満面の笑みを浮かべていたカティさんも、顔を顰めて指をさす。
ベルドさんはますます顔に困惑を貼り付けて、首を振った。
「すまぬ。少々、間に合わなさそうだったのでな」
続いた声は、低く、落ち着いた男の声。
その声に、ベルドさんはちょっとぎょっとした顔を浮かべ、俺はもっと呆然とし、クロムは天を仰ぎ、ユーシンは目を輝かせた。
「まあ、長虫の口に入るよりはいくぶんましであろう。許せ」
とん、とベルドさんを重さを感じさせない動作で地上に降ろすと、人影はフードを跳ね上げた。
深い青色のフードから現れたのは、朝日の色の髪。
その髪がかかる顔立ちは、はっきりと東方の血を示している。
特に目を引く、やや目尻のあがった杏仁型の双眸は、鮮やかな満月の色。
「ちょっと…リーダー」
「な、なんだよ」
「なんでそんな美少年にお姫様抱っこなのよ!!立場をわきまえなさいよ!!」
「立場ってなんだよ!なんとなくわかっちまうけど!」
カティさんの言っていることはめちゃくちゃなんだけれど、たぶん、誰もがなんとなくわかった。
いや、抱えるにしてもさ、もうすこし抱え方があるんでね?なんで横抱き…。
一番負担がない方法をとっただけだとは思うけど、十分大男に分類される、俺より年上の冒険者にやって良い抱き方じゃないと思うんだよなあ…。
「美少年…では、ないのだがなあ」
カティさんの声に、ほんの少し眉を寄せる。それだけで、周りを囲む冒険者たちから溜息が漏れた。
「うそ…ユーシンきゅんクラスの美少年って、まだいたの…」
「いや、こりゃ、好みの問題だろうが…こっちのがいいってやつ絶対いるぞ?女装したら絶対超絶美少女じゃん…」
俺の前でも、そんなことを言っている。
当然クロムにも聞こえたのだろう。空を仰いでいた顔が前に向き直り、猛烈に嫌そうに顔を顰めた。
「美少年じゃねぇよ…」
「何よクロム。まだ謎の対抗意識?さすがに諦めなさいよ。あんたも顔は良いけどさあ」
「アホ。いっぺん脳みそほじくり出してよっく洗ってこい」
「それは言いすぎだけど…確かに、美少年じゃあない、な」
だって、年が明けたら二十九歳は、『少年』って言えないだろ?
カティさんたちが「ファンちゃんまで?」と驚いたように声を上げる。
その声に、問題の『美少年』はこっちを怖ろしい勢いで見た。
あ、見つかった。
いやむしろ、よく、今まで気付かなかった。
つかつかつか、と走ってはいないけれど、とんでもない速さで歩み寄り、俺の手前、数歩先でぴたりと止まる。
そして、そのままぐるぐると俺の周りをまわりだした。
「えっと…?」
え?何?何これ?何の儀式してるの…
「ちょっと、あの…」
「ふ…ふふふ…危ない。騙されるところだった」
「へ?」
うんうんと、何かにとても納得した様子で頷きを繰り返す。
あ、これ、頭の中でだけ万事解決した時の癖だ。
「また、俺は生み出してしまっていたようだな。は…ははは!そうだ、こんな都合よく会えるなど、ありえん!だから是は幻だ!!幻覚だ!!」
「あの、もーしもーし…?」
「く!声までそっくりとは…!我ながらあまりにも精緻に作りすぎだ!
だが、待てよ?いつものアレなら、別に抱きしめても頬擦りして可愛がっても、問題ないのでは?俺が作ったのだし」
あー、脳内だけで話がどんどん進んでいっているな。
しかもなんか、嫌な方に進んでいってない?頬擦りとか勘弁してくれ…。
「いや、だから、ね?おーい、ちょっと…」
「いかんいかん!それは裏切りだ!やはり、きちんと本物にせねば!!危ない、危うく誘惑に負けるところだった…」
どうしよう…これ…。
ちらりとクロムを見ると、盾をぶんぶんと振っている。盾強打する気満々だな。
いやまあ、たぶん躱されると思うけど…。頑張って当ててもらったほうが良いのか?これは。もしかしたらなんか治るかも?
周りの冒険者たちは、急にタタル語で何やら自問自答した出した姿を呆然と見ているが、ドン引きしている人はいなさそうだ。よかった。タタル語分かる人いなくて。
そのタタル語がわかるようになっているヤクモは、なんか見てはいけないものを見ている顔をしているけどね。うん…そうなるよなあ。
「いやしかし、今までで最高の出来だな…とりあえず、拝むか」
「拝むなッ!」
いい加減しびれを切らしたらしく、クロムがつっこむ。渾身の勢いを乗せて繰り出された盾強打は、やっぱりあっさりと躱された。
悔しがるその顔を、ぽかんと満月色の瞳が見つめる。
「…クロム?」
「他の誰に見える!?」
「…なんということだ…周りの人間まで模造を…?しかし、クロムをこんな精密に再現することにいったい何の意味が…?」
「知らねぇよっ!!つうか、勝手に人をお前がひり出した悍ましいもん扱いするな!!」
ゆっくりと視線が、クロムから俺に移る。
繰り返される瞬き。そのたびに広がる理解。
うん。本物ですよー。俺。
っていうか、そこまで精巧なものを作り出してたの?やっぱりいろいろと駄目だったんじゃあないか?
「ええっと」
凝視される居心地の悪さと、ぷんすかしているクロムの苛々に押し出されるように口を開く。
なんでいるの、とか、なにやってるの、とかは後回しにしよう。まずは、言いたかったことを伝えよう。
「ひさしぶり、兄貴。会えて嬉しいよ」
俺の言葉に、五つ上の兄…トール・オドンナルガ・アスランは、目をさらに大きく見開いた。
「弟…」
「うん。俺だよ。兄貴」
「おとうと…おおおおおおととおおうとおおおおおお!!!」
全身に走る衝撃と浮遊感。なんか、ぐるぐる回る視界。
あ、これ、たぶん、抱きかかえられた上に、なんか回ってるな。兄貴が。それで、俺が振り回されていると…。そういう状況だな。たぶん。
「こら!!ふざけんなこの阿呆!!ファンを離せ!!放心してるだろうが!!」
「トール!手合わせだ!手合わせしよう!!」
クロムの声の直後、ユーシンの声がしたと思ったら新たな衝撃が襲い、視界が一面の空になった。
ああ、ユーシンのタックルを受けて、兄貴もろとも地面に倒れたんだなあ…。
どっこも痛くないのは…がっしり掴まれている腕とかは痛いけど…兄貴が咄嗟に庇ってくれたんだろう。
あー…綺麗な秋空だなあ。鳥が舞っている。ずいぶん高いところを飛んでるな。渡り鳥かなあ…。
「馬鹿ども!!今すぐ退け!!トールは大都へ帰れ!!さっさとしろ!!」
「なんか、前にファンが絶対こーなるって言ってたよーな気がする…」
仲間たちの声が遠い。
もう、どーにでもなーれ…と空を見続けていると、ちらりと過る、赤黒い影。
ああ、そうだ!放心している場合じゃない!
「兄貴、ユーシン!今はそれどころじゃない!オルゴイ・ホルホイを何とかしないと!みんなに手を出さず下がるように報せなきゃ!」
何とか身を捩りつつ半身を起こして訴えると、俺の腰辺りにしがみつく格好になっている兄貴が、ふむ、と頷いた。いいからどいてくれる?
「弟よ。おとうとでおとうとなのだ。故に、おとうとである」
「さっぱり意味が分からん事いってんじゃねぇ!!おとうとで喋るな!」
「む!おとうと…!!」
「兄貴、お願いだから治って?ほんと、ほんとーに。あと、どいて?」
「馬鹿、お前も手を貸せ、引っ剥がす!あ、おい、シド!お前もだ!!お前、トールの足もて!俺は首を持つ!」
「…さすがに苦しいと思うが。ユーシン、槍だ」
首を傾げながら、シドが馬の鞍に掛けたままだったユーシンの槍を差し出す。一挙動で起き上がったユーシンが、笑ってそれを手に取った。
「ありがたい!確かにあれは、少々殴りたくないな!」
「少々で済むのか?」
「さて、ファン!あれは普通に殺せるものか?」
わくわくと瞳を輝かせながら、ユーシンはまだぐねぐねと前後左右に身をくねらすオルゴイ・ホルホイを見上げた。
なんだろう。あの動き…何かを探しているような?
「あー、コホン。それには及ばぬ。ユーシン」
「何故だ?」
「オルゴイ・ホルホイは基本的に憶病な魔獣だ。少々脅せばすぐに逃げる。こちらから攻撃を仕掛けて、敵であると認識されない限りはな」
「えっとお、でも、脅かすってどうやって?」
あ、兄貴の故障が治った。
名残惜し気に腕に力を込めたあと、じわりじわりと兄貴が俺からはがれていく。少し浮き上がったところで、一気にクロムとシドが引っ剥がしてくれた。
「ここまで、ムカリで来ている。今も上空に待機しているからな。呼べばよい」
「一応聞くけど、何しに来たんだお前…」
「弟に1イリでも近付けば、弟の吐いた空気を摂取できるかと思ってな…」
「うっわ、気持ちわりぃ…最悪だな、お前」
「うるさい!世の中の兄の九割は同じことを思うものだ!」
絶対違うし、世の中の兄に謝るべきだな。
ムカリは兄貴の飛竜だ。見上げると、確かに雲の隙間を舞う影がある。渡り鳥よりもさらに上。言われなければ俺だって気付かないほどの高さだ。
あんな位置から、よく地上の危機を見つけたなあ。さすが兄貴と言うべきか。
「ええっと…ファンちゃん、そちらの美少年さんって…」
「あー…」
見渡せば、引きつつも興味津々な皆の顔。
そりゃあ、気になるよね。害がないのかとかそういう意味でも。
「えっと、俺の兄。なんかちょっと、こっちに来てたみたい」
「あにっ!?」
「うん。兄。兄貴は魔導士で、魔力が強すぎて老化が阻害されているんだ」
ごくまれに報告される妖精症と呼ばれる症状で、伝説に語られる大魔導士の中には、数百年を若いままの姿で生きたものもいたと言う。
ただ、兄貴の場合は「脂が辛くなってきた…」とか言ってるから、軽度の妖精症と重度の童顔なだけの可能性も高い。
「弟よ、この方々はお友達か?」
西方語に切り替えて、兄貴が周りを囲む冒険者たちへ視線を巡らす。
ひゃあ、という黄色い声は、女性陣だけじゃなく男性からも上がったような気が…。なんていうか、いろいろ大丈夫か?みんな。
「うん。同じ冒険者ギルドの冒険者さんたちだよ」
「そうかそうか…弟が世話になっている。兄のトールと申す。手土産の一つもなく、申し訳ない。後日、必ずや正式な挨拶に」
「来なくていいから!!」
釘差しとかないと、本当にやりかねない。「弟をよろしく」なんて言われながらお菓子でも配られた日には、翌日どんな顔してギルドに行けばいいんだよ。
「さて、弟もおそらくわかりやすく懇切丁寧かつ正確に説明したかと思うのだが」
「いや、まだ名前くらいしか説明してないよ、兄貴」
「む、そうなのか。では説明するとよい。兄はその声をじっくりと聴こう」
うんうん、と日向の猫みたいに目を細めて頷く兄貴に向けて、クロムが顔を顰めて見せた。
「コイツに説明させんな。話が長くなりすぎるわ…っていうか、今はそのほうが良いのかもしれんな」
「めずらしいじゃん。クロムがファンに説明させてあげるだなんて」
「聞いている間はちょっかい掛けねぇだろ」
くい、と親指でオルゴイ・ホルホイを指す。いや、俺だって、そんな説明が長ったらしいばっかりじゃないって思うんだけどたぶん。
「ええっと、オルゴイ・ホルホイは積極的に人を襲ったりはしないし、一回狩りに失敗すれば諦めて地中に帰る。動きは見ての通り鈍重だから、再度地中から飛び出してもう一回捕食しようともしない。食事は半年に一度、半仮眠状態なら一年は生き続けられる魔獣だからね」
「見た目に寄らず平和主義なのね…」
「ただし、攻撃を仕掛けられると興奮状態になって無差別に反撃する。攻撃範囲も広いし、表皮は固いうえにぶよぶよで武器は通りにくいし、魔導の効きも悪い。知能はほとんどないから、精神支配系の魔導はやるだけ無駄だしね」
つまり、放っておくのが一番。
アスランの遊牧民は、子供を「オルゴイ・ホルホイが食べにくるよ!」と脅すけれど、逆に言えば子供くらいしか怖がらないほど、脅威度の低い魔獣と言える。
「もし、怒らせたら?」
「オルゴイ・ホルホイは地上に落ちた雷の力を吸収し、内部の特殊な器官に溜めていくんだけど、興奮状態になると自分中心に放電を行って、外敵への攻撃を始める」
アスラン人でオルゴイ・ホルホイを怖がるのは子供くらいだ。
けれど、オルゴイ・ホルホイを侮るアスラン人もいない。
もしも自分の大切な家畜が襲われて食われたとしても、絶対に諦めてすぐさまその場を離れる。
それは、オルゴイ・ホルホイの「反撃」は、とんでもなく恐ろしいものだからだ。
「自然の落雷は凄まじく速いから、直撃されても上手く身体を抜けていけば死なないこともあるし、死体は入った場所と抜けた場所が焦げているくらいで綺麗なものなんだけれど、オルゴイ・ホルホイの放電は違う。
まず、興奮状態になると、オルゴイ・ホルホイは溜め込んでいた雷の魔力を周囲に放出する。この雷は狭い空間でぶつかり合いながら一定時間その場でとどまるんだ」
「『落雷』の魔導と同じ原理だね。あれも落ちているように見えるけど、筒状に魔力で壁を作って、そこに雷を発生させるからって…え、それじゃあ…」
流石魔導士。何が危険なのか、もう察したみたいだ。
「そう。ぶつかり合って留まる雷の魔力は熱を生み、空気を燃やして風を作る。そうして十分に温度が上がると、オルゴイ・ホルホイは雷を留めていた魔力を解いて放出する。
結果、広範囲に雷を纏った疾風が吹き荒れるんだ」
飛竜たちはそれを知っているから、オルゴイ・ホルホイが地上に飛び出して来たら一目散に上空に退避し、雷を使い果た後で狩る。
人間だけでこの魔獣を狩るのが難しいのは、この攻撃を地上で避けることはほぼ不可能であり、それを防ぐためには最初の一撃で仕留めなくてはならないからだ。
そして、オルゴイ・ホルホイの生命力は、半年飲まず食わずでもあの巨体を支え続けられるほどに強く、表皮は投石器から放たれた岩ですら無効化する。
「やべえじゃん!!おい、下がれ下がれ!攻撃するんじゃねえ!!」
俺の説明にベルドさんはぎょっとしたように目を見開き、すぐさま警告を発した。
同じように聞いていた他の冒険者たちも弾かれたように走り出し、どうしたらよいかと戸惑う面々へ「武器をしまって下がれ!」と叫ぶ。
「お前、斬りかからなくてほんと良かったな…」
「うん。お礼言っとく。ありがと」
どういたしまして、と答えながら、ジェイルさんは未だうねうねとしているオルゴイ・ホルホイを嫌そうに見つめた。
「陛下たちに言わなくても大丈夫かね?」
「ミ…アスラン軍は、オルゴイ・ホルホイについてよく知っているから、止めてくれてると思うよ。矢を数本撃ち込んだくらいじゃ、攻撃されてるって気付かないし」
バルト陛下も、名前と形容、そしてその代名詞とも言える攻撃については聞いたことくらいあるかも知れない。
それに、あの人は未知の魔獣にいきなり攻撃を仕掛けるような無謀は、きっとしない…と思う。
「見た通りおバカさんってことか」
「ただ、攻撃されたと気付いたら必ず反撃してくるから。手出ししないのが一番いいんだ」
「なるほどねえ」
顔見知りの冒険者たちが集まってくる。顔は知っているけれど仲良くはない人たちも、何とはなしに近くに寄ってきていた。見た目は十分怖いからな。オルゴイ・ホルホイ。
上空から見れば、クローヴィン神殿のすぐ横にアスラン軍とバルト陛下の騎士団、それから離れて、オルゴイ・ホルホイ。さらにそれを遠巻きにする俺たち冒険者って図だ。
「本当に大丈夫なのか…?あれ」
「けどさ、確かになにもしてこねぇしな」
「気持ち悪いけど、それだけだよね」
武器に手を掛けている人はいるけれど、抜いている人はいない。良かった。ベルドさんたちが警告してくれたおかげだな。
あとは兄貴に頼んでムカリを呼んで貰えば問題ない。つか、兄貴近い。周りが微妙な視線を向けているから、もうちょい離れて…
「む」
俺の内心が伝わったのか、兄貴が一歩前に踏み出す。
ちょっとホッとしてその顔を見ると、日向の猫みたいな笑みが消えていた。
「弟よ、あれらも友人なのか?」
「え?」
兄貴の指が、オルゴイ・ホルホイから少し離れた場所…そこに集結しだす一団を指さす。
「おいおい!アイツら、仕掛ける気か!」
「あれ、白い炎の連中だろ?魔獣退治の専門なんだし、やれるんじゃね?」
ベルドさんが吠え、ジェイルさんが皮肉気に続いた。
いや、どうなんだろ…そりゃ、オルゴイ・ホルホイより強ければ問題ないけども。
「どうなのだ?弟よ?」
首を傾げながら問う兄貴の瞳には、「友人じゃないなら見捨てても良いな?」というもう一つの質問が隠されている。
と、言うことは、勝てるって思ってないな。兄貴は。
「戦士は前に出ろ!魔導士と弓手はその後ろに!」
秋風に乗って、そんな号令が聞こえてくる。
見れば、十人ほどの前衛が武器を構え、その後ろに三人の魔導士と二人の弓手が控えている。
魔導士三人か…。
矢を数本射かけられたり、ちょっと剣や槍でつつかれるくらいなら気付きもしないオルゴイ・ホルホイでも、『火球』やなんかをぶつけられれば、当然「攻撃された」と察知する。
そうなれば、あの程度の距離じゃ躱しきれない放電が空間を焼き、興奮したオルゴイ・ホルホイはさらに暴れ回るだろう。
勿論、倒しきれるなら問題はない。
ちらりと兄貴を見ると、僅かに目が細められた。
兄貴は人の魔力も見ることが出来る。どうやら、オルゴイ・ホルホイを仕留められる火力はないと判断したみたいだ。
つまり、攻撃を仕掛けた瞬間、彼らの死が決まる。
オルゴイ・ホルホイの放電は、盾や鎧じゃ防げない。神官が混ざっていれば『聖壁』なんかでどうにかできるかもしれないけれど…かなりの時間、『聖壁』を維持できなければ、効果が切れれば黒焦げだ。
いくら悪い話を聞いて、不快に思ったこともある相手だとしても、そんな死に方をしても良いとは思えない。
それに、今、灰色丘陵は枯草が覆っている。
この辺りには沼地もなく、水分をたっぷり含んだ苔類も生えていない。
逸った攻撃は、クローヴィン神殿周辺を巻き込む火事を巻き起こす可能性もある。
貴重な動植物が、灰色丘陵の固有種が、こんな愚行で燃えるなんてあってはならない!
「ルゥーイ!!」
俺の呼びかけに、馬たちが反応して駆け寄る。そのうちの一頭、替え馬用に鞍をつけていた鹿毛に乗り、鐙に足を突っ張って立ち上がった。
鹿毛は良し来た!とばかりに駆け出した。目指すは冒険者なのに馬に乗って指示を飛ばす、彼のもとだ!
「おい!くっそ!行くぞ、トール!」
「弟は本当に優しい良い子だ…なんという慈悲。やはり弟よ…」
「意味わかんねぇよ!!巻き込まれる前に連れ戻す!」
後ろでクロムが叫び、兄貴がなんかほざいている。
馬車馬以外の馬たちが駆け付けてきたから、二人とも乗馬できる。
兄貴が本気になれば一瞬で追いつかれて捕獲されるから、何とかその前に!
「待って!攻撃しちゃだめだ!ほっとけば引っ込む!」
俺の声に、指揮をしていた頭目…確か、キールさん、だっけか…が、此方を見る。
その双眸に宿るものすごい嫌悪感に…次の言葉が一瞬詰まった。
嫌悪感…嫌悪感なんだろうか?一番近いのは、顔の周りを飛ぶ蠅を見る目と言った方が正確な気がする。
「君は…確か、ギルドに所属するアスラン人だったか。アスラン人からすればなにか特別なものかもしれないが、あれは魔獣だ。俺たちは魔獣の討伐に慣れている。安心して任せてくれ」
その嫌悪感を感じさせない、明るく快活な声。
けれど、うっかり流して受け入れると、あとから込められた毒に嘔吐くような声だ。
さて、どう応じたものかと思っていると、クロムたちが追いついてきた。
俺の横で馬を止め、キールさんの視線に…そこに込められた毒に顔を顰める。けれど、そんなものを気にするようなクロムじゃない。
硬質の無表情に顔を変えて、口を開く。
「てめぇらが雑魚で一撃じゃ仕留めらんなくて死ぬから、ご親切に警告してやってるんだろうが。おい、気が済んだろ。下がるぞ。いいじゃないか。こいつらが死んだところで哀しいわけでもない。バカが減るのはむしろ良い事だろ」
いや、そうなんだけど、もう少し言い方ってものがなあ…。
クロムの言葉に、キールさんの目は人相が変わるほど歪んだ。
「…魔導士隊、放て!」
そして、口から飛び出したのは…俺やクロムへの反論ではなく、有無を言わせない命令だった。
まずい!こっちの言っている事、聞く気が一切ないぞ!この人!
「待って!!」
俺の声に、魔導士たちは一瞬戸惑ってくれた。
けれど、そちらに顔を向けたキールさんの視線を受けて、すぐに詠唱を始める。
ああ、そりゃそうだよな!自分のリーダーの指示優先しちゃうよなあ!
けど、ほんとにダメなんだって!
俺の焦りも空しく。
空気が収縮していく。特に一番真ん中にいる魔導士さん…名前を知らない…の杖の先に向かって。
残る二人も詠唱しているのに、何かが発動している様子はない。けれど、魔力は動いている。
同時に、頬に冷気を感じた。
「穿て!『氷槍』!!」
高らかな声と共に、空中に巨大な氷の塊が生成され、それは先を尖らした槍の穂先の形へと変わっていく。
ああ、そうか、三人の同時詠唱による集団術式か!もしかしたら、いけるかも!?
「ほう?」
兄貴の声に、俺とクロムはぎくりとして振り向いた。
明らかに、怒りを含んだ声。
その満月色の双眸は僅かにすがめられ、じっと大掛かりな魔導を構築する魔導士さんを見つめている。
彼女の生み出す氷の槍は…いや、それはもう、先のとがった氷の柱と言っていい大きさだ。
もしかして、あれなら…いけるのか?
その問いを乗せて兄貴に首を傾げて見せると、はっきりと首を振られた。
まあ、そうだよなあ。オルゴイ・ホルホイの多く生息する北部砂漠地帯は、日中と夜の気温差が夏と冬くらいある。低温も高温も、その生命活動を妨げるものにはなれない。
あとは貫通力か、単純にぶつかった瞬間の打撃力頼りになるけれど、そのどちらもオルゴイ・ホルホイには効果が薄い。
もしもオルゴイ・ホルホイを魔導でどうにかするなら、衝撃波を四方八方から当て続け、内臓にダメージを与えるのが一番現実的だ。
そうでなければ、超高火力の一撃を叩き込むか。
オルゴイ・ホルホイを即死させられるほどの魔導を放てる人が、この世に何人いるかはわからないけれど。
そのうちの一人である兄貴は、視線をオルゴイ・ホルホイに向けた。俺たちも釣られるように身をくねらせる魔獣に向き直る。
氷の巨槍は霜を陽光に煌めかせながら、オルゴイ・ホルホイに向かって放たれる。
速度は…思ったより遅い。眼で見て躱せる程度の速度だ。けれど、オルゴイ・ホルホイに視覚はない。
逃げようとする様子もなく、まともに氷の巨槍はその頭にぶち当たった。
パリン!という澄んだ音。
オルゴイ・ホルホイの巨体を隠す程の白い靄。
ああ、当たった後はその場で極低温の靄になって敵を固めるのか。
靄っていたのはほんの数呼吸。その白い輝きが晴れると、現れたのは上半分ほど凍り付いたオルゴイ・ホルホイ。
どうだ、と言わんばかりにキールさんが俺たちを見て口角を釣り上げる。
うん、確かにすごい。よく練られた術式だ。
…でも。
「あ…」
息を切らしながら見つめていた魔導士さんが、ひび割れた声を漏らした。
その視線の先には、激しく身を振りたくるオルゴイ・ホルホイ。
身を覆う氷は耐えかねるように剥がれ落ち、変わってオルゴイ・ホルホイ自身が青白い光を帯び始めた。
放電の準備だ。反撃が、来る!
「おい、トール!なんとかしろ!」
「弟とお前だけ連れて下がっても良いのだがな」
なお強くなる発光を見ながら、兄貴が肩を竦めた。
「弟よ、付き合う相手は選びなさい。兄は、このようなもの達と仲良くするのは感心しないぞ」
「赤の他人だ。名前も知らねえよ」
「ふむ。それならば良いのだが…しかし、一応弟が助けようとした相手ではあるしな。まあ、いい」
その指が、空中に陣を描く。本来なら指の動きだけで何も残らないもの。
けれど、指の軌跡に従って、青く光る陣が形成されていく。
「己が分をわきまえる機会を与えてやろう」
掌ほどの大きさの陣に向かって、ふ、と息を吹きかける。
陣はひらりとその息に飛ばされて、するりするりと飛んでいく。
それとほぼ同時に、オルゴイ・ホルホイの準備が終わった。
巨体そのものが天から降りた稲妻であるかのように、青白い光が迸り。
その迸りは無数の雷撃となって、オルゴイ・ホルホイを中心に奔る!
ひ、と漏れた声が、どの冒険者の者だったかはわからない。
吹き付ける熱風が、何もない空中に燐火を灯し、それを更に飲み込んで渦を巻く。
旋風は青白く輝く雷を纏い、この世のものとは思えないほど、美しかった。
無論、それに飲み込まれれば、間違いなく死ぬ。
顔の判別どころか、男女の区別もつかない黒焦げになって。
それでも、俺とクロムが逃げようと馬を走らせもしなかったのは、兄貴の描いた陣が、旋風の前に辿り着いたからだ。
俺たちの家系に伝わる、『転移』の陣。
彼方と此方を繋ぐ扉。
俺が髪紐一つ分の精霊石の力を借りてやっと成したそれを、兄貴は事も無げに生成する。己の魔力だけで。
空中にとまった陣の、『発動』を示す記号が強く輝き。
次の瞬間、陣はクローヴィン神殿すら覆うほどに大きく展開していく。
広範囲を無差別に薙ぎ払う雷火の旋風は、ぐにゃりと歪み、そして。
陣に吸い込まれて、消えた。
「どこに飛ばしたの?」
「この遥か上空。飛竜でさえ辿りつけぬ領域だ」
事も無げに言いいながら兄貴はマントを外し、クロムに向けて放った。そして、何故か首の後ろをごそごそとやっている。
「起きなさい。ちょっと動くから、ここで待っているのだ」
「おい、人をお前の従者みたいに扱うんじゃない!つか、何やってんだよ」
「弟には違うものを預けたいから仕方なかろう!こら!痛い!爪を立てるな!」
爪を立てる?
兄貴はどうやら、服のフードにいる何かを取り出そうとしているらしい。いや、何かはわかる。兄貴のその場所を定位置としているのは、彼女だけだからだ。
「ベンケ?」
「いった!!!」
兄貴の悲鳴と共にその頭によじ登り、目を真ん丸に開いて俺を見ている獣。
その毛皮は俺たちの髪と同じ色。カーラン渡りの黒茶のような縞が前脚と背中を飾り、今は見えないけれど腹には同じ色の斑紋がある。
大きな耳に、少し横に潰れた形の小さな頭。
少し短い尻尾をピンと建てて震わせながら、「駱駝の喉笛すら噛みきる猛獣」と名高い雷公猫は、「ぷんにゃ!」と一声吠えた。
「一緒に来てたのか!俺の事覚えててくれたんだなあ!ありがとう、ベンケ!」
「ぷっきゃお!ぷっぷ!!」
当然でしょ!と言っているように聞こえる鳴き声を迸らせながら、ベンケは兄貴の頭から伸ばした俺の手に飛び移り、ととと、と肩までやってきた。
すんすんとこめかみ辺りのにおいを嗅ぎ、ふわりと背中を弓なりに膨らませる。
雷公猫は、子猫の時から人の手で育てても懐かない猛獣だ。
けれど、若い雷公猫は時折、自分の仲間と認めた人間についてくる。
かつて、俺たちの先祖、大祖クロウハ・カガンの親友にして家族、ベンケがそうだったように。
それ以来、アスランの姓を名乗るものが見初められた時には、必ずその雷公猫の名はベンケにすると決まっている。
冗談じゃなく、国法で。もちろんそれを決めたのは、開祖クロウハ・カガンだ。
「ベンケ、弟のもとにいなさい。俺は少々、あのみっともない血腸詰を斬らねばならぬ」
「おい、あれを食い物に例えるな」
「む…では、なんと…んー…」
「普通にオルゴイ・ホルホイでいいじゃん…」
ベンケの頭突きで頬を潰されながらも答えると、これ以上なく顔を輝かせて「そうだな!弟よ!」と喜ぶ。
その喜色満面のまま、兄貴はオルゴイ・ホルホイの異形の姿へ向き直った。
「クロムの腕前がどう上がったのか見てやりたいところだが、その腰に吊るしている鈍らではどうにもなるまい」
「うるせーよ。じゃあ、お前の腰のもん貸せよ」
「ははは。断る。俺の癖のついた一刀、お前では扱えまいに。それなら鈍らと同じことよ」
剣の柄に手を掛け、兄貴はポカンとこちらを見ている白い炎の面々に視線を向けた。特に、その頭目じゃなく、青い顔で杖に縋りつく魔導士さんに向けて。
満月色の双眸に、僅かに浮かんでいるのは憐みの色。
「そこな女性よ。もう、今の術式は使わぬほうが良い。あなたに二人分の魔力を流し込み、構成している集団術式のようだが、負担がかかりすぎる。心臓か脳が負けるぞ」
「…っ!」
「もし、やれと命じられているのであれば、どのような言葉で飾ろうとも、その内実はあなたに『死ね』と言っているということを忘れるな」
魔導士さんはさらに顔を青褪めさせ、兄貴の双眸から目を逸らした。壊して隠した皿を目の前に突き付けられた子供のような怯え方だ。
ああ、彼女はわかっててやってるんだな。わかっているけれど、わかりたくないんだな…。
「アスランの魔導士殿。忠告はリーダーとして俺が受け止めよう。彼女の体調には十分注意を払う。けど、その言い方はどうだろうか。まるで彼女が力不足だと言っているようじゃないか」
たぶん、それをやらせているだろう張本人は、あくまでも仲間を侮辱されて怒っている顔で兄貴を見ていた。
ある意味凄いな。自分に向けられた非難を、一瞬ですり替えたよ。怒っているのは自分で、非難されるべきは失礼な魔導士って構図にしちゃってる。
ただ、兄貴にそれを気にした様子はない。たぶん、ちょっと気になったから言っただけで、言ったからもうどうでもよくなったんだろう。
「力不足か。実際にそうだろう。命を削って術式を構築したにも拘らず目標を達成できていないのであれば、そう言われても致し方あるまい。事実だ」
「何を偉そうに!」
白い炎の一党だろう、金属鎧に身を固めた戦士が吠える。
まあ、実際偉いからなあ。俺と違ってただ王子なだけじゃなく、政治、軍事共に兄貴はアスランの中心にいる。
アスランの雷神。雷帝の斧。天雲の龍。地上の嵐。
そう呼ばれるのは、一太子と言う身分によるものじゃない。
全て、その強さを見た味方と敗者が口にした名だ。
吠える戦士をまるッと無視し、兄貴は俺に向き直った。意識の片隅にもひっかけていない。
その証拠に、口に出したのは彼らへの反論じゃなかった。
「弟よ、オルゴイ・ホルホイに対するにあたり、気をつけねばならぬことは?」
「え?そりゃ、放電と、その後の帯電。全身に雷を帯び、さらに強力な消化液を吐き出してくること」
急にどうしたんだろう。兄貴ならよく知っていることなのに。
反射的に答えると、うんうん、と頷かれた。
オルゴイ・ホルホイは一度放電したらすぐにもう一度同じことはできない。あの魔獣の発電器官はそれほど優秀ではなく、地中を進むことで発電をするからだ。
けれど、一度放電したオルゴイ・ホルホイは、身を護るために皮膚を帯電させ、岩すら溶かす消化液を霧状に噴き出す。
攻撃すれば辺り一帯を焼き払う反撃を繰り出し、それを凌いでも接近戦を拒む電撃と毒の息。
そして、それを耐えて斬りつけたとしても、その皮膚は岩よりも固い。
刺激しなければ去っていくのだから、決してアスラン人がこの魔獣に手を出さないのは何故だか、こうしてその習性をあげていくだけで分かるだろう。
「つまり、あの魔獣を被害を出さず倒すには、どうしたらよい?」
「刺激せずに立ち去るのを待つか、高火力の一撃で屠るか、だね」
「うむうむ。さすが弟である。よいか、よく聞くがよい。お前らの作戦自体は間違えていなかった。だが、失敗した。それは何故か」
「それは何故か」の部分だけ、兄貴の声の質が変わる。
ずん、と肝を揺らすような声。
その声に、馬上のクロムの背がびしりと伸びた。そのことに気付いて、ものすごく嫌そうな顔をしているけれど。
けど、これは仕方ない。
これは、命じるものの声だ。
魂を打ち据え、膝を折らせる。
乗馬せずに地に立っていたら、俺だって膝をついていたかもしれない。
「答えられぬか。では答えてやろう。そこのクロムなら、お前らが雑魚だからだと言うだろうが、正確には違う。
敵を知らず己を知らず。慢心の果てに招いた敗北だ」
杖に縋る魔導士さんが、がくりと膝をついた。その両脇の二人も、引き摺られるように習う。
前衛たちも反論することはできず、ただ突っ立って兄貴を見ていた。
その顔色は、怒りで赤くはならず、血の気が失せたように白い。
ただ一人、キールさんだけが、目を血走らせて兄貴を睨み据えていた。
「目を閉じ、闇雲に腕を振り回して勝てる戦いなどないぞ。配下の命からすら目を背け、お前は何を見ているつもりだ」
「配下…配下だって!?違う!俺はみんなを仲間だと思っている!配下などと思ったことは一度もない!あんたにとっては、弟も友人も、配下なのかもしれないがな!」
ここぞとばかりに兄貴の言葉尻を捉え、嬉しそうに噛みつくキールさん。
流石に何か言おうと口を開いたクロムを、兄貴は軽く手をあげて押しとどめる。
「見苦しい」
声を荒げることもなく、ただ一言。
それきり、キールさんたちに興味を喪ったかのように視線を外す。
向き合うのは、発光しはじめたオルゴイ・ホルホイ。
するりと馬から降りて、その巨体を見据え、ゆっくりと前へと進んでいく。
その足取りにおびえた様子は当然ない。悠々と、急ぐでも躊躇うでもなく。
オルゴイ・ホルホイとの距離が半分ほどに近付いたころ。
兄貴の手が、腰の佩刀を抜き放った。