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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
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座布団の穴より靴の穴(百聞は一見に如かず)2

 グルグルと咽喉を鳴らす…と言うより唸り声をあげるマナンの頭を、ファンは抱きしめ、その額に頬擦りする。

 その一時の別れを惜しむ光景を、クロムは三歩ほど…マナンが八つ当たりをする気になっても避けれる距離…を開けて、見守っていた。


 マナンに限らずファンの身近にいる動物は主には従順だが、その主が甘いことをよく知っている。怪我させない程度のちょっかいをクロムにかけても「コラー!」で済むと舐めてかかっている。まったく。もう少し厳しくするべきだ。

 ヤクモにそう言えば「なるほどねえ…」とまじまじクロムを見そうだが、当然本人に自覚はない。


 「マナン~…先にうちに戻ってるんだ。俺も必ず帰るからな。ボオルおじさんの言う事、ちゃんと聞くんだぞ?」

 「マナン嬢ちゃんは聞き分けの良い方ですからね。大丈夫でしょう」


 おじさん呼ばわりされた竜騎士隊長は、気にした様子もなく笑って拳で胸を叩いた。実際、彼がマナンを構う時には「ボオルおじさんだぞ~」などと言っているので、ファンの失言ではない。


 ヤルトミク率いる紅鴉親衛隊はクリエンにとどまるが、竜騎士隊は一旦大都へ帰還する。その後は、二人一組になって一月交代でクリエンに詰める予定だ。

 なにせ、飛竜は大食いである。五頭もいれば、毎日羊が一頭必要になるほどで、これから冬を迎える遊牧陣地で五頭養うのは難しい。

 腹が減ったからと勝手に羊や馬を襲ったりはしないが、痩せていく飛竜を見る竜騎士も、針のように細くなってしまう。


 「よろしく頼むよ」

 「お任せを。で、ナランハル。帰還された際には、俺らにも報酬を期待しておりますよ」

 「焼いた肉の専門店かあ。じゃあ、良い店を探しておいてくれ」

 「御意」


 左胸を叩きながら、深々と頭を下げる。その「心臓に誓った」拝命が、マナンを無事送り届けるのと良い店を探すのと、どっちに掛かっているのかとクロムは思ったが、どちらでも問題はない。できれば店の探索を重点的にやってもらいたいものだ。

 二太子ナランハルが興味を持って店を探していると聞けば、両手の指では足りないほどの紹介がありそうだが、王族を招待できるほど気取った店に興味はない。そういう店は皿ばっかり気を使って、肝心の肉は鼠の餌かと思うほどに小さいものだ。

 実際にそういう店に行ったことはないが、きっとそうだろうとクロムは思っている。ファンが聞けば「俺も行ったことないけれど、偏見じゃないかなあ?」と首を傾げるだろうが。


 「では、ナランハル。御前より失礼いたします。大都にてお待ち申し上げる」

 「ああ。気を付けてな」


 飛竜の鞍上へ上がり、ボオルは深々と頭を下げた。竜騎士たちも、隊長に習いそれぞれの愛竜に跨る。


 「マナン、また大都で遊ぶぞ!」

 「リリーゼちゃんもねえ!」


 ユーシンとヤクモが、大きく手を振る。

 その挨拶に応えるように、飛竜たちは翼を広げた。


 「…」

 

 次々と舞い上がり、旋回しながら登っていく飛竜たちを、ファンはひたすらに見詰めている。

 その顔に浮かんでいるのは、笑顔ではなく、どこか寂しそうな無表情だ。

 そんな主の顔を見ながら、クロムは眉を寄せた。


 「お前も一緒に帰ったって良かったんじゃないか」

 「そうもいかないさ。と言うか、サライに行くのも久々だし、わりと楽しみにしてるからな」


 クロムに向き直った顔には、もういつもの通り口角が上がっている。無理に作った顔ではない。

 それなら、しつこく追及するほどのこともないだろう。

 そう判断し、クロムはこくりと頷いた。


 「一年前は避けたからな」

 「そうそう。黄金月の夜は終わって、年末もまだだから、今はちょっと落ち着いてるかな?」

 「年越しを大都でってやつらが来るのは、もう少し先だしな」

 

 サライから大都までは、大急ぎで十日。急げば半月。普通に行けば一月と言うところ。年末まであと二月残している今の時分は、まだそこまで込み合ってはいないはずだ。

 来月になり、秋が終わって冬が来れば、サライを出るまでに年が明けるのではないかと言うほどに人でごった返す。完全なお上りさんの集団を連れて西門から東門まで抜けるのは、非常に難易度の高い冒険になるだろう。


 「宿が取れないのは申し訳ないからなあ。俺たちは野宿でもいいけどさ。女の子たちにそれはなしだろ」

 「当たり前だ。ナナイに野宿なんてさせられるかよ」

 「一泊小銀貨五枚程度の宿が開いてればいいんだけど…」

 「もっといいところ泊まろうぜ…」

 「じゅ、十枚程度とか?」

 「せめて、な」


 宿に泊まるとどんなに言っても、サライを守る老将ヤルトネリの屋敷に連行されそうではあるが。

 ただ、連行されれば金は浮くし、万人長が滞在するための屋敷だ。かなり良い設えに違いない。快適な滞在が約束される。

 けれど、それと引き換えに一日中涙もろい老人の思い出話に付き合わされ、何かすれば説教かと思うと、それはそれで嫌だ。

 やはり、何とかして宿に泊まろう。万人長の屋敷には配下の騎士共も寝泊まりしているから、うら若き女性を泊めるのはよろしくないとか何とか言って。

 内心にそう決意し、クロムはファンの肩を叩いた。


 「頑張れよ」

 「え?支払いを?」

 「それもあるがな。まあ、お前を一日二日貸し出せば納得してくれるだろ」

 「ちょ、誰に貸すんだよ!」

 「ヤルト爺様に」


 その名に、ファンも一瞬でクロムの懸念を理解したようだった。ああー…と間抜けな声をだして、腕を組んで空を見ている。


 「お前も守護者スレンなんだし、ついてくるべきでは?」

 「…まあ、半日くらいは、な。けど、あいつらその間は野放しか?」


 クロムの視線の先には、まだ飛竜たちへ手を振るユーシンとヤクモがいる。

 その後ろには、目を細めて空を仰ぎ見るシドの姿もあった。


 結局、シドとその姉、ガラテアもサライまで同行することになった。ウー老師の護衛という仕事中の為、その後はどうするかはまだ決めていない。

 自分たちと共に行くのが一番早いとなればそのまま大都まで道連れになるだろうし、寄り道するようなら先に行く。

 クロム的には未だ認めてはいないが、腕が立ち、信頼できるものが同行するのは悪いことではない。

 何しろ、ファンの兄でありクロムの師である一太子トールが、股肱の臣の護衛につけたのだから、十分に信頼に足るだろう。 


 「わーかー、馬と馬車とおっさんの準備があ、でーきましたーよー」

 「もう少し敬えんのか!?おぬしは!?」

 「あんまりー、仲良くするなってえー、姉上から言われてるんでぇ」


 シドを評価するクロムの思考を遮ったのは、賑やかに近付いてくる声だった。

 

 ややウンザリしつつそちらを見れば、馬車の馭者台にシギクトが座り、その隣にはガラテアが腰かけている。曳かれる客車の簾を引き上げてウー老師が顔を出していた。

 馬車に並んで歩いてくるのは、六頭の馬。これからサライまで旅の足となる馬たちだ。

 そのうちの一頭に、サラーナが跨っている。女官が纏う裾の長い服を着ていても、乗馬に支障をきたした様子はない。

 

 「サラーナ、見送りに来てくれたのか。ありがとう」

 「次にお目にかかるのは、春になりましょうか」


 するりと馬から降りて少し寂しげに笑うサラーナに、ファンは頷いて見せた。

 心配はいらないよ、と言外に伝える明るい眼差しに、サラーナの微笑もつられて華やぐ。


 「帰る時、サライで待ち合わせようか。サライまで移動するのがしんどいなら、尋ねていくよ」

 「クリエンで生まれる子は強くなると申しますが、義祖父様と義祖母様からサライで産んではどうかと申し出ていただいておりますので、おそらくサライにおりますわ」

 

 彼女のなかに子がいると聞いたのは、つい昨日のことだ。戦勝の宴に姿を見せないのを気にしたファンがヤルトミクに問うて「実は」と教えられたのだ。

 知らずとは言え散々働かせてしまったことをファンは詫びたが、当のサラーナ本人から、休んでいろと布団に押し込まれると、どうにも悪い事ばかり考えてしまうから、働いていたほうが気が楽なのだと笑われた。


 「母親似だとよいな。特に娘なら」

 「クロムのような減らない口を持って生まれないよう、雷帝様にお祈りせねば」


 白い指が躊躇なくクロムの頬をつねり上げる。

 痛ぇと文句を言う前に、指はぱっと離れた。それでも威力は絶大だったようで、頬をさするクロムの眼は、うっすらと涙目だ。


 「…サラーナさんみたいに、いきなり実力行使に訴える手を持たないようにお祈りしたほうが良いんじゃないか?」

 「うーん同感でーすねえ」


 馭者台から降り、小さく抗議の唸り声をあげるクロムの横に立って、シギクトは大きく頷いた。

 

 「二人とも、そこに座りなさい?」

 「あ、あはは、ミクみたいに丈夫で、サラーナみたいに強い子が生まれると良いな!」


 慌てて取り成すファンを見て、サラーナは小さく溜息を吐いた。

 子供のころから変わらない、弟をしかる時の顔と癖。

 きっと、生まれた子供をしかる時にも、同じことをするのだろうなと思って、なんだかファンはくすぐったいような気持ちになる。


 「二人とも、ナランハルに免じてお説教は止めておきますが、他所の女性にそんなことを言ってはいけませんよ?世の女性がみな、姉のように優しいとは限りません」

 「ねーえ、シド君。同じ弟として聞きますがあ、姉より……な、女性ってぇ、見たことありますぅ?」

 「たぶん、今見ているか、同じくらいじゃないかと思う」

 「シド。今誤魔化した部分、何が入る?」

 「綺麗な女性じゃないか?姉さん」


 しれっと答えつつも、シドの膝は軽く曲げられ、腕は持ち上がり、完全にどんな攻撃にも対処できるよう体勢を整えている。それを見て、シギクトは深く頷いた。

 

 「きょうだいってえ、色々ありますけどお、姉弟より上下関係がはっきりしてるのってー、ないですよねー」

 「えー、ぼくも姉さんいるけど、優しいよお?たぶん…」

 「なんでたぶんなんだよ」


 首を傾げつつ反論するヤクモに、クロムがつっこむ。その刺青の入った頬は少し赤くなっていた。


 「うーんと、一度おうち戻ってから旅に出るまで、半年もなかったからなあ。慣れてきたらうーんと恐いかもだし」

 「優しい姉なんてえ、都市伝説じゃなったんでーすねえ」

 「若君。シギクトの口を可及的速やかに縫い付けたほうが良いのでは?」

 「なんかそんな気がしてきた…」

 

 ファンとウー老師の言葉に、「やーめーてー」とシギクトが離れる。

 そして、ファンから数歩の距離を取って、両手を目の高さで組み合わせ、膝をついた。ファンを見上げる顔に、先ほどまでのふにゃふにゃとした笑みはない。

 二十代の若さで千人隊の書記官ビチグチに任命された俊英の顔になっている。


 「ナランハル。御身恙なく」

 「ありがとう。シギクトをはじめ、皆の道の先に、紅鴉が導きあれ」

 「伝令軍牌ケタイ・ケルリクはいつでも応じられる状態にしておきます。些細な事でも、何かあればすぐにお呼び出し下さい」

 「本格的な運用はアステリアに戻ってからになるけれど…頼りにしている」


 深く深く頭を下げた後、ぴょこんとシギクトは立ち上がった。

 その顔には、いつもの表情。さきほどの顔でもう少しいられないのかと、サラーナが額を抑えた。


 「クロムー、若があ、どーしよっかなーって悩んだらあ、すぐに使っちゃってくださいねえー。殿下がおっしゃるにはあ、クロムが正式な守護者になったらあ、クロムの血でも動くようになるそうなんでえ」

 「そうなのか。良いこと聞いたな。シギクトさんもたまには役に立ちますね」

 「やっぱあ、お口縫うのはあ、クロムじゃなーいですかねえ?」

 「へー、どういう仕組みなんだろ。今のクロムじゃダメってことだよな」

 

 確かに、クロムは未だ守護者の儀式を受けていない。それを受け、歴代の大王に報告して初めて、守護者と認められるのだ。

 とは言え、その前と後で何かが大きく変わるとは聞いたことがない。守護者が魔導を授かるということもないし、なにかすごいことが出来るようになるわけでもない。

 しかし、伝令軍牌が作動するということは、その儀式を経ることによって、クロムに「何か」が付帯するのだろう。

 今考えても答えは出るまい。帰ったら兄に聞いてみようと、ファンは腰のポーチに収納している伝令軍牌をそっと撫でた。

 

 そのポーチが微かに震える。

 それが地面から伝わる振動によるものだということは、近付いてくる足音と馬蹄の響きが、発生源のありかと共に教えていた。

 

 「ナランハル!」

 「ミク、そっちも準備できたか?」

 「是。出立いたしますか?」

 

 馬を曳くヤルトミクの後ろには、同じく下馬し、馬の手綱を持つ百人の騎士。

 ヤルトミク直属の彼らは、すでに完全武装に身を固めている。重装騎兵の行軍は、歩くだけでも大地を揺らし、大気を震わせていた。

 一緒に馬を曳いているエルディーンとレイブラッドが、少々顔を強張らせる程に。


 聖王バルトとの会見にあたり、どれほどの兵を連れていくかと言うことは、当然議論された。

 多すぎては威圧と取られ、少なすぎては侮られる可能性がある。

 十人くらいでいいんじゃないか、というファンの意見に反対し、百、と言う数字を出したのはウー老師だった。


 『話を聞くに、それだけおれば何があってもどうにかできましょう』

 

 何かってと、さすがにファンは眉を寄せたが、ウー老師は胡散臭い笑いを浮かべ、髭をしごいて「信用しないのは失礼だ」と言う無言の抗議を封殺した。


 『もしも、冒険者の中に宰相やらの意を受け、アスランとアステリアの仲を崩そうとする者がおった場合、百の精鋭騎士を目の当たりにすれば思いとどまりましょう。十や二十ではならぬのです』


 口をにたりと歪めながら語る軍師の説明に、意義を挟む者はいなかった。

 軍とは、戦う事だけが役割なのではない。戦わせないことが最大の役目なのだと軍師は締めくくり、そして精鋭百騎、それも一目で強いと判る重装騎兵を連れていくことに決まったのだ。


 「それじゃあ、行こうか」

 「うー、ぼくも馬乗る!がんばる!」

 「なに、落ちそうになったら俺が担いでいこう!そう急ぎ足でいくのではないのであろう?」

 「ウー老師乗っけた馬車もあるしな」


 あまり早く行軍しては、またこの軍師の腰が壊れる。痛い擦れもっとやさしくと喚き散らす胡散臭い中年を、純粋無垢な少女たちに見せるのはアスランの恥…いや、犯罪だ。


 「馬車、誰が動かすのう?」

 「んー…シド、できる?」

 「たぶんできない。やったことはないが、俺にそんな才能があるとは思えないな」

 

 ファンの質問に、シドは首を振って答えた。

 馬車馬もよく訓練された馬だ。先導すれば馭者がいなくてもついては来るだろう。だが、一応人も乗せているのだから、万が一があった時が困る。鹿や野牛が飛び出してきたときとか。

 

 「誰ぞか近衛騎士を一人、馭者に任じますか?」

 「良いよ、ミク。俺が馭者台に座る」

 「…何もお前がやらんでも…」

 「だってクロム、馬車乗ると酔うし。ユーシンに任せるのは不安しかないし」


 言いながら、さっさと馬車へ歩み寄る。


 「となると、消去法で俺じゃないか?…で、その、ガラテアさん。もう少しですね、場所開けてくれないかなあ?」

 「何故?」

 「えっと、その、近いって言うか…」

 「だから何故?」

 「…ソノママデイイデス」


 ガラテアに…特にその豊満な部分に…触れないように、慎重にファンは馭者台へ上がった。

 その様子に、エルディーンがほんの少し頬を膨らませたのを見て、クロムが「ガキどもが…」と吐き捨てる。


 「ガラテア嬢。末将それがしがその距離に近寄ったら、容赦なく『聖壁』発動しとらんかった?」

 「ああ。あなたは不快だからだが、それがどうした?」

 「もう少し、こう、穏便な言い回しとか言えぬの!?」

 「ふむ。不快は不快。ファンは少なくとも、見ていて不快ではない。臭いもないしな」


 ふふ、と笑う顔に邪気や悪気はなく、美しい。

 ウー老師と言えど反論を押えられ、しおしおと客車の中に顔が引っ込んでいく。


 「え…と、じゃあ、出発しようか!」

 「うむ!」

 「賛成だ。これ以上グタグタ漫才やってたら、年が明ける」

 「それじゃあ、ミク。騎乗の号令を。こっから先は、ナランハルはいないことになってるからさ」

 「御意」


 どん、と拳で胸を叩いた後、ヤルトミクは馬の鞍に手を掛けた。


 「騎乗!」


 響き渡る大音声と共に、鞍上に身を跳ね上げる。 

 後ろに続く百騎は、一拍遅れてそれに続いた。

 

 「俺たちも乗るか。ヤクモ、台なしで乗れるようにはなったろうな?」

 「自信ないけどね!頑張るよ!」


 意を決したように歩み寄るのは、一番小柄な馬だ。サラーナがそっと、その馬の手綱を取りヤクモへと手渡す。

 

 「落ち着けば、必ずできますよ」

 「は、はい!!」


 綺麗なお姉さんに微笑まれて、奮起しない男がいるだろうか。いや、いない。

 ヤクモもふんすと鼻息を吹き出し、習った通りに鞍の前部にあるでっぱりに手を掛けた。片足を鐙にかけ、もう片足を跳ね上げると同時に腕の力も使って身体を持ち上げる。

 

 「ま、鞍に上がるくらいはな」

 「普通に褒めらんないの!」

 「褒めるようなことしてねぇよ」

 「クロムは素直ではないですからね。お気をつけて」


 サラーナが手綱を渡す気になったのはヤクモだけのようで、あとは自分で取れと言わんばかりに数歩引く。

 一瞬考えてから、クロムは一番落ち着いている馬の手綱を取り、シドに突き出した。


 「お前、コイツな。足が重そうだから素人にはちょうどいいだろ」

 「気遣い、ありがたく受け取ろう」


 少しばかり持ち上げられたシドの口の端に威嚇の視線を向けた後、自分はその横の斑毛の馬の手綱を取る。たんたんと首筋を叩き、馬がクロムの観察を終え、落ち着いたのを見て取ってから騎乗した。


 「おい馬鹿。一頭はお前が手綱を取れ」

 「まあいいだろう。俺は二頭面倒見てやってもいいぞ?」

 「ふざけんな馬鹿」


 空馬は二頭。替え馬と考えればいいだろう。ファンなら、馭者台から並走する馬の鞍へ飛び移るくらい当たり前にできる。 

 重装騎兵百騎に守られているクローヴィン神殿までの道中はさすがにちょっかいかけてくる馬鹿はいないだろうが、問題はその先だ。

 目につく連中は完全に潰したが、村に居座っている間に逃げた賊がいないとは限らない。荒野から脱出するために馬を奪いに来る可能性はある。

 その時にファンを馭者台に縛り付けておく意味はない。なんとなくだが、ガラテアなら馬車馬を気合いで制御しそうな気がする。馬は群れで生きる生き物だ。コイツには逆らってはまずい、と言うのをちゃんと察知する。


 「出立!」


 ヤルトミクの大音声が再び響き渡り、跨る駿馬は蹄を鳴らして乗り手の視線の先へと歩みを始めた。

 その後ろに三隊ずつ並び、騎士たちが続く。

 一度だけヤルトミクは振り向き、妻に視線を送った。その心配そうな眼差しに、サラーナは笑みを浮かべ、胸の前で手を合わせて一礼を返した。

 

 騎士たちの後には野営の物資や、聖王へ送る挨拶の品を積んだ荷馬車隊が続く。

 彼らが任を終えて戻るころ、ここにはすでに陣はない。

 国境を越えた先の本来の場所までは三日はかかる。その間、寝泊まりするための簡易ユルクや、食料を積んだ馬車は五輌にもなった。


 さらにその後ろに、ファンたちは続いた。クロムとユーシンを先頭に、馬車の左右をヤクモとシド、エルディーンとレイブラッドと言う組み合わせで固める。

 

 晴れ渡った秋空の下、アスラン軍は進軍していく。

 三十年前の報復戦以来初めて、公式にアスラン軍がアステリア領内を往き、聖王にまみえる。

 後の歴史学者が、両国の関係はこの一件から変わったのだと評する会談に向けて。


***


 「クローヴィン神殿だ!」


 誰かの声に、冒険者たちは歓声を上げてなだらかに続く丘陵を我先にと駆けのぼる。

 息を切らせながら昇りきれば、突如広がる平地の先、堅牢と名高いクローヴィン神殿の外壁と、青空へ手を伸ばすような尖塔が現れていた。


 王都イシリスを出立し、すでに五日。

 疲労は足を鈍らせ、野宿を続ける身体は痛い。

 けれど、秋風渡る荒野に聳えるクローヴィン神殿の威容は、それを忘れさせた。


 「おお、見えたか」

 「陛下!」


 その声に、冒険者たちは疲れの滲む顔を輝かせた。

 本来なら、自国の王が近くにいるのだ。すぐに膝をつき、頭を下げるのが正しい礼儀だろう。

 だが、この行軍中に聖王本人が礼儀よりも親しい態度を望むことを示し、適応能力の高い冒険者たちは、すっかりそれを受け入れていた。


 「素晴らしい景色だ。草がすでに枯れているのが寒々しいが…全力で馬を奔らせたくなるな」

 「騎士団長さんがまた嘆きますよ」

 「なに、あれはアイツの趣味みたいなものだ。俺が逆にお上品な、どこに出しても恥ずかしくない王になったらアイツは一気に老け込むぞ」


 快活に笑い、聖王バルトは眼下の光景を愉しんだ。

 神殿の門は未だ閉ざされているようだ。だが、硬く守り引きこもっているというよりは、残党を警戒してのことだろう。

 そうでなければ、アスター女神を示す真円の紋章と、アステリア聖王国の白鷲を象った紋を染められた旗が、歓迎するようにはためいてはいるまい。

 それに混ざって洗濯物もはためいているのも、安寧を取り戻した証だ。


 「あ、陛下!あれ!」

  

 冒険者の一人が、神殿の先を指さす。

 バルト達から見て神殿より北東に位置する丘の頂点に、続々と騎馬の集団が現れていた。


 「アスラン軍だ!」

 「うわ、何人いるんだ!?まだ出てくるぞ!」

 「全員騎馬かあ~」


 冒険者たちは口々に感想を述べながら、目を輝かせてアスラン軍を見ている。まだ、個人の顔が見分けられるような距離ではないが、それでもバルトは目を凝らして、友人に似すぎていて気の毒になるとウルガに評された顔を探した。


 「陛下、此方も軍を進めましょう」

 「ああ、その方が早いか」

 「…先に一言申し上げさせていただきますが、決して単騎で先に行かれませぬよう」

 

 騎士団長の釘差しに、バルトはしぶしぶながら頷いた。その様子に団長の眉はピクリと跳ね上がり、先ほど聖王が言った事を聞いていた冒険者たちは、必死になって笑いを堪える。


 「さて、もうひと踏ん張りだ。行くぞ!」

 「おー!」


 笑いをなんとか気合いの声に変え、冒険者たちは丘陵を駆け降りる。誰ともなく歓声が上がり、はしゃぎながら走っていく若者たちの様子を、バルトは頬を緩ませて見守った。


 「よし、騎士隊も冒険者に続くぞ!」

 「御意」


 いうなり馬を駆けさせた王の背を見ながら、騎士団長は口を開きかけ、笑みの形で再び閉ざした。

 とりあえず冒険者たちを追い抜く気がないなら、それはそれでよしとするべきだろう。


***


 アステリア騎士団が聖王を先頭に神殿前に整列し、冒険者たちがやや離れた後方で休憩に入ると、クローヴィン神殿の大門は中からゆっくりと開かれた。

 進み出てきた老齢の司祭は、恰幅の良い神官に支えられていたが、怪我を負った様子も衰弱した様子もない。


 「司祭。この度は災難であった。救援が遅れたこと、まことにすまぬ」

 「いえ、陛下!こうしていらっしゃっていただいたことで、どれほど我らが救われたか…!」

 

 老司祭は深々と頭を下げ、彼に続いて歩み出てきた神官たちも、同じように膝をついて感謝の意を述べる。

 確かに、聖王軍は間に合わなかった。けれど、見捨てられていないということだけで、どれほど籠城の心の支えになった事か。

 神官たちの聖王を見る眼差しには、その感謝が十分に込められている。


 「司祭様、聖王陛下も、我々冒険者も、敬虔な女神アスターの信徒です!見捨てるわけがないではありませんか!」


 膝を折り祈るように礼を述べる司祭たちへ、明るく強い声を投げかけたのは聖王でも騎士団長でもなかった。

 冒険者でありながら馬に騎乗した青年は、何かと冒険者側と騎士たちの間を取り持ち、彼らの代表のように振舞っている。

 しかし、ギルドからはそのような申し送りは来ていない。

 

 つまりは、でしゃばりということだ。

 

 あまり好ましい男ではないと近衛騎士団長は思ってはいたが、それを口にするほど若くはなかった。

 でしゃばりであろうとなんだろうと、役に立っていることもまた事実。しかし、こうして近衛騎士の一員にでもなったかのような口を挟まれると、少々苛立ちもする。

 そもそも、冒険者たちには後方待機を言い渡してあるのだ。それなのに堂々と居残っていること自体、命に背いていると言える。

 

 そんなやり取りを気にした様子もなく、バルトは現れた丘陵の麓に陣を構えたアスラン軍へと目を凝らした。

 司祭との挨拶はもう済んだ、と判断したというより、我慢できなかったのだろう。

 風に靡く旗は二本。アスランの国旗と、紅鴉旗。サリンド紋を掲げていないのは、今ここに王族がいないことの証明である。

 

 近衛騎士団長は先日伝令の使者としてやってきた竜騎士に、指揮を執ったのは二太子であるという報告を受けている。だが、会談については将軍に任せるつもりのようだ。

 それは、ある意味アステリアに配慮した結果とも言える。

 アスランの王族が直々に救援に駆け付けてくれたのだとすれば、その見返りとして何かしら差し出さねばなるまい。土地か、宝物か。あるいは、王女の一人か。

 だが、二太子はあくまで救援を「許可した」だけで、千人長の判断で動いただけと言うことにしてもらえれば、その見返りはぐっと軽いものになる。


 20年前の内乱時、協力してくれたのはあくまでアスランの遊牧民の義勇軍で、王太子が参戦したという事実は、両国の史書には一文たりとも記載していない。

 もしも大王の命を受けて王太子が参戦したという事になっていれば、このクローヴィン地方はアスランの領地として地図に記載されることになっていただろう。

 千人長のみの参戦であれば、謝礼金だけでなんとかなる。貧乏なアステリアの国庫にとってはそれでも苦しいが、クローヴィン神殿が救われ、周辺の村の救援も間に合ったことに比べれば大したことではない。

 

 「司祭殿。詳しい状況の確認などは、アスラン軍との会談の後でよろしいか?」

 「無論に御座います。ナランハル様には、この老いぼれが女神の下に召されるまで、その御身のご多幸を祈らせていただきますとお伝えください」

 「師が身罷られた後は、不肖ながらこの弟子めが引き継ぎます。神殿をお救い下さった事、どれほど感謝しても足りません!」


 老司祭を支える恰幅の良い神官の目から、耐えかねたように涙がこぼれた。

 

 「私は北の村で神殿を預かっておりますが、そこにもアスラン軍の方が大事ないかと来てくださり、私をクローヴィン神殿まで送ってくださいました!その御恩に報いるためにも、必ず!」

 「うむ。その心掛けはまことに良し。しかし、その…この一戦、ナランハルはいらしておらぬ…とご本人が申しておられるので、な」

 

 苦しい騎士団長の言葉に、老司祭と神官は少々戸惑う。だが、すぐに老司祭は事情を呑み込めたようだ。それは、わずかな間でもファンと直に言葉を交わし、彼がどんな人物であるかの一端を知れたことが大きいだろう。

 

 「左様でございましたか。しかし、話に尾鰭はつくもの。クローヴィン神殿をお救い下さった竜騎士様がナランハルであると噂になっても、それは…」

 「まあ、噂とは盛られるものであるからな。もし、アスラン王国より問い合わせが来れば、そのように答えよう」


 にっこりと老司祭は笑い、再び頭を下げた。恩人をいなかったことにされるのは納得できかねるが、公式にはそうではなかったとすることに異論はない。そう言外に伝えている。

 やはり、30年前の戦いと20年前の内乱を潜り抜けた老人は強いと、騎士団長は内心苦笑した。


 「おお、使者が来るな!」

 

 その苦笑を止めたのは、聖王の弾んだ声だ。

 使者の証明である無地の旗を掲げた騎士が馬を走らせてくる。

 手綱をしごいた様子も、拍車をかけた様子もない。だが、馬は軽やかな足取りで、まっすぐにバルトに向かってきていた。

 その、僅かな体重移動だけで馬を自在に走らせる馬術に、「ああアスランのものだな」とバルトは懐かしさを感じた。

 どれほど馬に乗っても、そこまでは到達できなかった領域。生まれる前から馬に乗る、遊牧民だからこそ身につけられる術。


 「聖王陛下に申し上げます」


 騎士の口から放たれたのは、懐かしいタタルの言葉だ。それも、ややヤルクト訛りが入っている。バルトには問題なく聞き取れるが、ただタタル語を習っただけのものでは、混乱するだろう。

 通常、使者は向かった先の言語を話す。その証拠に、同じことを流暢な西方語で使者は告げた。

 つまりは、あまり周りに知られたくないが、バルトには伝わる事を申しますと言っているのだ。


 「ヤルクトの同胞がお会いするのを楽しみにしておいでです」


 ヤルクトの同胞。つまり、ファンの事だろう。

 使者はほんのわずかに口角を持ち上げて告げた後、真顔に戻って再び口を開く。


 「千人長イル・ミンガンヤルトミク将軍がご挨拶に参りました。ぜひ、ご尊顔を拝したいと申しております」


 続いて出た言葉は、西方語になっていた。

 これならば、同じことを二回、二種の言語で繰り返しただけと思われるだろう。

 どちらの意味でも承知であるという意味を込めて、バルトは頷くと共に左胸に手を乗せた。


 「マルティノ!すぐに行くぞ!」

 「かしこまりました」


 騎士団長は近衛騎士を呼びよせ、すでにアスラン軍の使者に馬を並べているバルトについていくように指示する。

 古参の騎士たちは明らかにうきうきしている主にちょっと呆れた視線を繰りつつも、その命に従って聖王の後に続いた。

 彼らも、この先でアスラン軍と共に聖王を待っているのが誰かを知っている。古い友人の息子に会うのに、真面目くさった顔でお行儀よく振舞えとは言えまい。


 「まて、そなたは下がれ。この先に行くのは近衛騎士のみだ」

 

 当たり前のように騎士たちに続こうとした冒険者へ、騎士団長の厳しい声が飛ぶ。

 走りだそうとした馬を、少々大袈裟に…騎士団長にはそう見えた…棹立たせ、冒険者は不服を隠そうともせずに騎士団長を見据えた。いや、すでにこれは、睨んでいると言っても良いだろう。


 「しかし、騎士の方々だけではあまりに無勢!お守りに行きます!」

 「良い。陛下が危険に晒されることなど万に一つもない」


 場数を踏んだ騎士でさえ背筋が伸びる騎士団長の厳しい声に、それでも冒険者は怯まなかった。鈍感なのか、自分が叱責されていることに気付いていないのか、さてどちらだろうと騎士団長は内心に呟く。

 どちらにしても厄介だ。


 「しかし…そこまでアスランを信じてよろしいのでしょうか?」


 それでも反論するでしゃばり冒険者の顔立ちは…まあ、端正であろう。だが、それにもまして、「どんな顔をすればいいのか」わかっている。

 今は「王の身を案じ、放任する近衛騎士団長に処罰を恐れず忠告する」顔か。

 この数日、そうやってこの冒険者は常に求められる顔を見せ続けている。

 その結果、従騎士や騎士見習いは心酔と表現しても良いほど、この男に懐いてしまっていた。

 今も、上官である騎士団長よりもこの男の主張を指示している。その背後に並び、騎士団長へ尖らせた口を見せているのだから。


 この程度の底の浅さも見えないのは、甘ったれた育ちのせいか、若さゆえか。

 どちらにせよ、鍛えなおしが必要だろう。やがて騎士となり、アステリアの盾となる者たちがこの様では不安が過ぎる。

 それが見えただけでも、この行軍は無駄ではなかった。

 そうやって「無駄ではない」「やってよかった」を探すのは、20年前の苦しい戦いの時からの近衛騎士団長の癖である。


 「アスランが最も嫌うのは、友好関係にあるものを騙し討ちにすることだ。それを自ら為すようなことは絶対にあり得ぬ」

 「しかし!」

 「あともう一つ、そなたは大きな勘違いをしているようだ」

 

 なおも言い募ろうとした顔めがけ、近衛騎士団長は冷たい声をぴしゃりと叩きつけた。


 「あの程度の数、陛下が斬って捨てようと思えばなんの問題にもならぬ。そなたよりもはるかに、陛下はお強いのだ」


 例え油断したところを囲んだとしても。

 その程度で負けるような人ではないと、近衛騎士団長は断言する。

 お守りせねばなどとは烏滸がましい。もしもあれが敵軍だったとして、同じく突っ込んでいけば守られるのは間違いなく、この冒険者の方だ。


 「これより先は、冒険者であるそなたを同行するわけにはいかぬ。従騎士や騎士見習いらと共に、下がっておれ」

 「…」

 「下がれ、と申した」


 僅かに上体を傾け、冒険者代表は馬首を返した。その不機嫌な背中に、従騎士たちが続く。

  

 「やれやれ。厄介な坊ちゃんでしたなあ」

 「まだ終わってはおらぬ。宰相の手駒となり果てぬよう、見ておく必要があるか…」

 「宰相をぶったおし、その後釜に座りてぇって顔してますけどね」

 

 残っていた近衛騎士が苦笑しながら肩を竦めた。

 確かにそんな顔だ。善は己で、あとは悪。正しい自分が報われ、世は正義に満ちるべきだと信じて疑っていない。

 それが若さゆえの視野狭窄なのか、もう直らない性格なのかまでは、まだ騎士団長にも判別つきかねるが、どちらにせよ、今追及したところで意味はないだろう。

 それよりも案じなければならないのは、はしゃいでいる聖王陛下が何をするかと言う事だ。

 そんな団長の内心が伝わったのか、近衛騎士は視線を前方に戻した。

 

 「さあ、我らも急ごう。陛下が待ち切れずに突っ込んでいってしまう」

 「ですねえ。じわじわ前進してますし」

 

 司祭たちに神殿に下がるようにと伝えた騎士団長が前に出たのを、前進了承の合図と見て取り、バルトは使者へ声を掛けて馬を駆けさせた。

 元々、それほど距離があったわけではない。すぐに間は縮まり、アスラン騎士の顔が見え始めた。


 槍の穂先を下に向け整列する隊長たちは十人。

 その前に一人、巨躯を黒く塗られた金属鎧に包み、兜を抱える将が立つ。

 バルトの接近を見て取り、彼だけはするりと馬から降り立った。 


 「お目にかかる、大きな光栄、です。聖王陛下」


 やや硬く、ぎこちない西方語。

 頭頂を残し、側面や後頭部の髪を刈った独特の髪型は、彼がヤルトの家のものだと言うことを教えている。


 「申し上げるのは千人長、ヤルトミク。西方語は難問、以降は…」

 「いや、タタルの言葉で話してくれ。将軍」


 通訳を使う無礼を詫びようとするヤルトミクをタタル語で遮ると、分厚い唇が柔らかく笑んだ。

 

 「かたじけない。不勉強故、ご迷惑をおかけいたす」

 「なに、タタルの言葉の方が、俺も気楽に話せるのだ。昔に戻ったような気分になる」

 

 辺境の雨漏りのする屋敷で、父や母と、そして従姉と暮らしていたころ。

 異国の友人と同じ言葉で話したくて、勉強と言う勉強を嫌った己が唯一両親に強請って、家庭教師まで付けてもらって習得した言葉。

 あの頃は、大人になったらアスランに渡るつもりだった。剣一本で将軍にもなれると聞いて、それなら俺も!と胸を高鳴らせたものだ。


 「では、正式な会談や捕虜の引き渡しは後程。まずは、お会いください」

 「ああ!」


 ヤルトミクが片手をあげると、ほとんど間を置かずに百人の騎士たちが左右に割れた。その恐ろしいほどの練度に、騎士団長たちがわずかに怯む。

 その顔に「ちょっと行ってくる」と投げかけて、バルトは馬を歩ませた。


 兵の壁が割れた先には、一輛の馬車とそれを囲む騎馬。

 馬車の馭者台に座っていた青年が、大きく手を挙げる。


 その、淡い色の金の髪。満月の色と呼ばれる瞳。

 いや、なによりもその相貌そのものが。


 「…モウキ…!」


 呟いた声に、ヤルトミクを含めた騎士たちが微かに笑う。

 

 「お間違えになるほど、似ておられますか」

 「ああ…!生き写しとはこのことだな!」


 弾んだ声に押し出されるように、バルトは馬を馬車へと進めた。

 アスラン式の馬車の馭者台には、赤い髪の娘も座っていた。堂々と座るその娘に対し、この軍の主であるはずの青年は寄れるだけ端に寄っている。


 「久しいな!前に会ったときはモウキに似てきたと思ったが…」

 「ははは。俺は母さんに、三歳の時にこれからの顔がもうわかるって言われた男ですよ?」

 「別に悪い顔じゃないんだ。よく見れば別人とわかるしな」

 「よく見なきゃいけないくらい似てるってのも、息子としてはちょっと複雑です」

 

 曖昧な笑みを浮かべてから、馭者台を飛び降りる。あくまでも隣の女性に触れないようにしているのが、なんとも可笑しい。

 そこまで初心な年でもあるまいに、とは思うが、兄弟二人とも妻はおろか、愛妾すら置いていないのだと思い出して、一族では珍しい晩熟なのかもしれないとますます可笑しくなる。


 「お久しぶりです。バルト陛下」


 そんなふうに面白がられているとは思いもしないのだろう。両拳を胸の前で合わせ、ぺこりと頭を下げる。

 目上の親族に対するアスラン式の礼だ。親族として礼を送ってくれたことに、可笑しさが退き跳び、胸の中に温かいものが広がる。


 「何年ぶりだ…あの時は未だ、騎士にもなっていなかったな」

 「俺が十五くらいの時でしたっけ。八年ぶりくらいかな」


 馬から飛び降り、ファンの両肩を三回叩く。このアスラン式の返礼には、「こんなに大きくなって」と言う意味が込められているらしい。久しぶりに会う親族の若者の成長を喜ぶ仕草なのだ。

 上がったファンの顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。

 その顔を見て、やはり似ているが、似ていないと考えを改める。

 

 父のモウキは、一見すれば人懐っこい笑みを絶やさない陽気な男だ。

 けれど注意深くその視線を受ければ、実際には欠片ほども心を許しておらず、常に観察されていることに気付くだろう。

 一度懐に入れてしまえば情の深い男である。父王の怒りを買って廃嫡される可能性もあると言うのに、自前で一軍を率いて救援に駆け付けてくれたほどに。


 さっさと終わらせて帰るよ。息子たちに顔忘れられたくないし。


 そう事あるごとに言いながらも、全てが終わるまで国境の川を越えることはなかった。

 彼が率いるアスラン軍は常に前線を担い、決して少なくない数の騎士が命を落としたが、その亡骸に酒を含ませ、弔いの歌を歌いながらも、最後まで。


 その友人と同じ顔をしている息子の視線に、あの野生の狼のような相手を探る気配はない。

 とりあえず受け入れ、あとで分類するんだよ、あの子は。と前に会ったときに言われたことを思い出す。

 自分はどう分類されているのだろうか。少し頼れる親戚のおじさんくらいにはなっているだろうか。

 もっと頼ってもらいたいところだが、あまりしつこくすると迷惑に思うかもしれない。そう考えて、口に出したのは精いっぱいの要望だった。


 「アステリアにいるのなら、もっと顔を出せ」

 「一介の冒険者が王宮に行って、バルト陛下お願いしまーすなんて言ったら、即牢獄行きですよ」

 「む…なら、やはり俺が訪ねていくか」

 「大騒ぎになるんで止めてください。今回のことで陛下の顔知られちゃってるし」

 

 真顔で言われて、渋々頷く。

 そうやっている時の表情は、母によく似ていた。二人の子なのだから当然ではある。だが、なんだかそれがおかしくて、つい笑いが零れた。


 「え、なんかおかしいこと言いました?」

 「いや、お前は本当に、モウキとソウジュの息子だなと思ってな。今の、しかる時のソウジュにそっくりだったぞ」

 「ええ~?そんな恐い顔してました?俺」

 「ああ、してたしてた。肝が縮み上がるかと思ったほどだ!」


 息子には怖い顔と認識されているのかと思えば、ますます笑いがこみ上げてくる。

 アスラン王国八代大王(ハーン)后妃ハトゥンソウジュは、その容姿を「可憐至極」「水晶の花」「天上に歌う小鳥」と、讃えられる女性だが、その見た目に反して夫を尻に敷き、息子たちに畏れられる女傑だ。

 勿論、バルトもその雷に打たれたことがある。

 つい酒を過ごして夜中だと言うのに騒ぎ、突然一緒に飲んでいたモウキが土下座したのを見て顔を上げた時。

 四十年と少しの生涯で、恐怖した瞬間を三つ上げろと言われたら迷わず挙げる。そのくらいは怖ろしかった。


 「まあ、親子ですからねえ。似るのも仕方ない」

 「そうだな。いやしかし、背が伸びたな。前は、俺の胸くらいだったか。もう、モウキは抜かしたか?」

 「二十歳くらいの時に抜きましたね。ほんの小指の先程度ですけど」

 「悔しがっていただろう?」

 「どうかなあ?俺の赤ん坊の時の服握りしめて泣いてましたが」


 息子に背丈を抜かされると言うのは、どういう気持ちなのだろうか。

 バルトには娘しかいない。全員健やかに成長しているが、さすがに背丈を抜かされることはないだろう。

 四人の娘たちはバルトの宝だ。息子が良かったなどとは思ったこともない。だが、こうして育った姿を見ていると、なんだが不思議な心持になる。


 それは、焦りにも似ていたし、寂寥も伴うような気もする。

 同じ雄として、自分を脅かしかねない若い力を羨んでいるのかもしれない。

 それと同時に、なんだかホッとしたような、肩の荷が下りたような心持にもなるのだ。

 もう、この息子がいれば、自分が力尽きても家族を託すことが出来る、守ってくれるという確証を得た安堵。

 叔父のような存在の自分でさえそう思うのだから、父である友人の心はもっと複雑だろう。

 複雑さなら、娘を嫁に出すという苦行を四回やる予定の自分も、十分だとは思うが。

 

 「バルト陛下?」

 「ああ、すまん。ちょっとらしくもなく感慨にふけってしまった。馬車の周りにいる者たちは、ファンの一党か?」

 「一党もいますし、そうでない人もいますが…紹介しますか?」

 「ああ、頼む」


 頷いて見せると、ファンは振り返り仲間たちへ向かって手で招く。

 弾けるように下馬して駆け寄ってきたのは、アステリア人らしい少女と騎士然とした男だ。

 残る四人のうち三人は馬から降りたが、一人は馬上のままだ。その一人を囲んで、何やら話しているようである。


 「え、謁見を賜りまして、恐悦至極に御座います!!聖王陛下!!」

 

 駆け寄る勢いそのままに膝をつき、少女が震える声を絞り出す。その緊張が微笑ましく、つい口許の笑みが深くなった。

 

 「君は…冒険者には見えないな。ああ、アルテ子爵令嬢か。無事で何よりだ」

 「わわ、私如きのことを、気に掛けていただいていなど…!恐れ多い…!」

 「イヴリンも身を案じていた。大都は良い街だ。楽しんでくると良い」

 「は、はい!…じゃ、ちが、ええと、御意!!」


 深々と頭を下げる少女と同時に、隣に跪く騎士も頭を垂れる。おそらく彼もかなり緊張しているのだろう。その首筋や耳は赤い。それでも主の恥になるわけにはいかぬと言うように、完璧な騎士の礼を取る姿は好感が持てる。

 

 「ファン!」


 何かを言い掛けて口を開こうとしたファンを、掛けられた声が留めた。

 ファンの視線に釣られるように、バルトも声のした方を見る。

 

 「どうしたユーシン」

 「ヤクモが馬から降りられん!乗ったまま挨拶をしても良いか!」

 「ええ?どうしたんだ?すいません、ちょっと行ってきます」

 「いや、馬上のままで構わん。しかし、本当にどうした?」

 「そういう失礼をする奴じゃないんで…たぶん、長時間馬に乗ったせいで、脚が強張っちゃってるのかな?」


 そのやり取りから判断したというより、面倒くさくなったのだろう。

 布を頭と顔に巻きつけた騎士が手綱をひき、騎手が乗ったままの馬を曳いて歩き出す。


 「えっと、大丈夫か?ヤクモ」

 「降りようと思ったら、足がめっちゃ痛い…」

 

 ひん、と半泣きになっているヤクモに、クロムが鼻を鳴らした。


 「お前雑魚なんだからしょうがねぇだろ。諦めてそのままにしてろ」

 「雑魚じゃないもん…クロムの馬鹿あ」

 「はは、クロムは自分も同じ状態になった事あるから、気にすんなって言ってるんだよ」

 「ほんとにい!?いいように取り過ぎじゃない!?」

 「ははは」

 「ファンこっち見て!ちゃんとぼくの目を見てもっかい言って!」


 叫んだ瞬間痛みが走ったのだろう。へにゃへにゃと鞍上にしぼんでいく。ヤクモを乗せた馬が、「大丈夫?」とでも言いたげに馬首を曲げて様子をうかがっていた。


 「あー、失礼いたしました。まず、馬を曳いているのがクロム。俺の守護者スレンです」

 「…どうも」


 胸に拳を当て、腕を上げるが、どうにもやる気のない礼である。若いのは声と布に隠された顔の中、唯一覗く双眸から察せられるが、それ以外はわからない。

 だが、守護者とは極言すれば主以外に興味がない、なんていう連中がほとんどだ。例え大王の前であっても、守護者であれば膝をつかない事さえ許容されている。

 それならば、自分が咎めるのは逆に失礼だろう。ファンが「こら!」と小さく叱っていることだし、なによりモウキの守護者たちは、もっと無礼だった。 


 「俺はユーシンと申す!この無礼者の又従兄弟となる!お見知りおきいただければ幸いだ!」

 「ウルガさんとも親戚にあたります」

 「…となると、アルナ殿のご子息か!」


 バルトの返答に、ユーシンの顔がぱあっと輝く。

 その顔に、好物を前にしたウルガの面影を見出して、なるほどと頷いた。


 「母上を御存じか!」

 「お会いしたことはないがな」

 「ユーシンは公式には今、兄貴の下で修業中ってことになっているんで…コイツはキリクから出てきて武者修行中の冒険者、と認識ください」

 「お前も西方の万物を調べに来た博物学者だものな?」

 「そういう事です」


 キリクは小国だが、海上貿易の拠点を持ち、長年メルハ諸国からの侵略を防ぎ続けている強国だ。その王子が…それも第一王子がアステリアにいると知れば、必ずよからぬ謀を巡らす者はでてくる。

 ならば「いない。いるはずがない」と言うことにした方が良いのだろうし、本人もそう望んでいるのだろう。

 何しろ、「武者修行中の冒険者」のくだりで大いに胸を張り、得意げな顔をしていたのだから。

  

 残り二人は、自分から名乗る気はないらしい。それを見て取って、ファンが少し困った顔で口を開いた。

 

 「こちらは、ガラテアさんとシド。姉弟です。兄貴が、馬車で寝ている星竜の守護者(オドンナルガ・スレン)の護衛につけた傭兵で、とりあえずサライまで一緒に行く予定です」

 「そうか。トールも息災か?」

 「んー…ちょっと、その…なんか、少し、駄目っぽいですねえ」

 「ファンのようなものを作り出しているらしい!大都に行ったら、見れるだろうか!」

 「俺は即座に壊してほしいけどね。そんなもん」


 なるほど。駄目と言うのは病だとかそういう事ではないようだ。いや、一種の気鬱の病なのかもしれないが。

 

 「それ以外は元気みたいですよ。親父も母さんも」

 「そうか」

 「親父たちに、バルトさんに会って話して、元気だったこと、確かに伝えますね。会えて良かった」


 陛下、ではなくバルトさんと言う呼び方は自然に出たように感じられた。その証拠に、言った本人が少ししまったという顔をしている。

 勿論、咎める気はない。むしろ、陛下よりずっといい。


 「ああ。モウキ達によろしく伝えてくれ」

 「はい。じゃあ、俺たちはそろそろ行きます。会談の時間を削るわけにはいかないし」

 「秋の日は短い。気を付けて行けよ」

 「ありがとうございます。あなたの往く道に、紅鴉の導きがあらんことを」


 ぺこりと一礼し、馬車へと向かう。

 その背がずいぶん広くなったと思い、またあの感情が沸き上がってきた。

 あまりにも短い、まさに挨拶だけで終わった再会だったが、元気な顔を見て、声を聴けた。十分だ。

  

 「良い若者になったな」

 「このようなこと、臣たる己が申し上げるは、はなはだ無礼であるとは存じ上げておりますが…」


 離れて立って見守っていたヤルトミクが、重い足音を立てながら歩み寄る。

 その動作に、足音はわざとだな、とバルトは判じた。その気になればこの戦士は、虎の如く音もなく接敵できるだろう。

 

 「どうか、アステリアにナランハルが滞在中、庇護いただけるようお願い申し上げます」

 「ああ。約束しよう。将軍」

 

 物理的な危険などなら、きっとファンは自力で何とかする。

 だが、巨漢の将軍が危惧しているのはそういう事ではあるまい。

 例えば、宰相。あの義父であり最大の敵である男が、ファンの存在を嗅ぎ付けたら何をするか。

 具体的には思いつかないが、おそらく不愉快なことになる。20年前の自分のようなことになるかもしれない。


 イヴリンを娶ったことについては、もう後悔はしていない。彼女のことは尊敬しているし、男女の情はおそらく互いにないが、家族の親愛は間違いなくある。妻は誰かと聞かれれば、即答でイヴリンだと答えられるほどに。


 けれど、あの当時は、魂が粉々になるかと思うほどに苦しかった。

 良く生きていたものだと感心するほどに、辛かった。


 背負うものがアステリア一国でなければ。

 アスラン軍の前で平伏した父の姿が脳裏に焼き付いていなければ。


 おそらく、戦いで生死を分けた瞬間、容易く死を受け入れただろう。


 あんな苦しい思いをさせるわけにはいかない。

 あの老人は心の柔らかく暖かな部分を抉り、踏みにじることに何の躊躇いも持たない。弱みを見つければ、迷わずそこをついてくる。

 守られなければ。若者が老人の醜悪な欲望を満足させるために犠牲になるなど、あってはならない。

 

 「さて、では会談をはじめよう。将軍、騎乗してくれ。俺もそうしよう。アスランではそうするのが正式だろう?」

 「それは、我が大王に少々事実と異なることを教えられておられると思いまするが…」

 「そ、そうなのか!?あいつ、これがアスラン流だといつも言っていたが…」

 「臣にはこれ以上申しかねますが、偉大なる大祖クロウハ・カガンに、我が祖先が初めてお会いした折には馬上でございました。その一件に倣うという事では如何でしょうか?」

 「気遣い済まぬ。将軍。いつかモウキにあったら、俺の口から文句を言っておこう」


 思い出せば、ウルガが呆れていたような気もしないでもない。

 何十年も騙されていたことに腹が立つというより、笑いがこみ上げてくる。


 「ふふ、その時が楽しみだ!」

 「せめてもの情け、后妃が同席していない席で追及をお願いいたします」

 「さて、どうするか」


 くすくすと笑うバルトの前を、馬車が行く。

 その馭者台に座ったファンが大きく手を振った。


 「では、また!お会いできてよかった!」

 「ああ!気を付けて行けよ!皆!」

 

 ハイ!と大きく返答するエルディーンに続き、クロムが軽く拳を胸につけ、目礼する。

 その眼差しにどこか懐かしさを感じ、バルトは目を瞠った。


 「では、失礼する!」

 「次は、ちゃんとあいさつしますっ!ごめんなさい!」


 どこで見たのかと記憶を探るも、元気のいい声に思考は遮られる。

 まあ、いい。

 すぐに思い出せないということは、遠い記憶なのだろう。それを引き出すために一行の足を止めるのは、さすがに悪い。


 「ミク、後は頼んだよ!」

 「御意!クロム、しかとナランハルをお守りするのだぞ!」

 「言われなくとも。ミクさんもサラーナさんを守ってやれよ!」

 「其れこそ言われなくともだ!」


 親しげな別れの挨拶は明るい。しかし、去り行く背中を見る将軍の目は、はっきりと潤んでいる。

 彼の祖父か伯父であろう老将軍も相当涙もろかったことを思い出し、そういうところも似るものなのかとバルトは感心した。追いかけた記憶はどこかで零れ落ち、懐かしいと思った印象だけが残っている。


 「陛下」

 「ああ、見送りは済んだ。会談を始めよう。まずは捕虜の受け渡しだな」

 「っその、前に、お渡ししたいものがございます」


 ぐいと目を擦ったヤルトミクの声は僅かに上擦っている。それを気付かなかったことにして、バルトは続く言葉を待った。


 「将軍、贈物をお持ちいたしました」

 「うむ。あれ以外は敷布の上に並べよ」

 「是!」


 荷馬車に乗っていた騎士たちが、てきぱきと敷布を広げ、その上に持ってきた贈物を並べていく。


 「この甕は…酒か!」

 「はい。アフダルの葡萄酒にございます」

 「おお、あれはうまいな!」


 満面の笑みを浮かべたバルトの横で、騎士団長も小さく唾を飲み込んだ気配があった。百年前にアスランに併呑された地域で造られてきた葡萄酒は、鮮やかな緑色をしており、僅かな酸味と苦みが、爽やかな甘みの中に溶けている。

 アステリアでも東方国境辺りではまだ贖えるが、王都までくると値段は跳ね上がり、王であっても口にはできない高級品だ。

 

 「それから昨日捌いたものではありますが、羊の肉。今宵の宴にご利用ください」

 

 どさりと置かれた革袋は全部で五つ。皮を剝ぎ、食べやすく捌いてあるようだ。さすがに内臓や血の腸詰は、昨日のうちに食われてしまったのだろうなと、少々残念に思う。

 あれを肴にアフダル葡萄酒を飲めば、それは感動するほど美味かっただろうに。


 「そしてもうひとつ。これはナランハルより、第一王女殿下に、と。不要であるならば、このまま臣が引き取って帰ります」


 騎士が両手で抱えて持ってきたのは、木の皮を編んで作られた籠だった。

 それを持たせたまま、ヤルトミクの手がそっと蓋を外す。


 「これは…」


 籠の中にはふんわりとした毛布が曳かれ、それを寝床としていたのだろう。半分目が閉じている仔犬が一頭、顔だけ起こしてバルトを見ていた。

 顔立ちや仕草はまさしく仔犬だが、随分と大きい。兎狩りに使うような小型の猟犬なら、もう成犬と言っていい大きさだ。

 くあ、と綺麗な桃色の舌を伸ばし欠伸して、仔犬は完全に起き上がった。頭が身体に比べて大きいせいか、ぐらりと揺れる。だが、しっかりと毛布に踏ん張る四肢は太く、掌も大きい。直に可愛いアンバランスさはなくなり、精悍な若犬になるだろう。


 「フラガナの狼犬です。ちょうど乳離れしたのがおりまして、王女殿下の騎士に推挙いたしますと、ナランハルが」

 「なるほど。狼犬…狗は、アスランではユルクに残す家族の守り手として贈るのだったな」


 手を伸ばし、籠のなかからふわふわとした生き物を抱き上げる。

 仔犬は熱心にバルトの匂いを嗅ぎ、何かを納得したらしく、頬を嘗め始めた。まだ短い尻尾は、千切れそうなほどに激しく振られている。


 「いかがでしょうか。こやつは陛下に仕えたいと申しておりますが」

 「俺の騎士にしたいぐらいだが…ステラに取り上げられるだろうな」

 

 連れて帰った時の娘の顔を想像すると、どうしても頬が緩むのを止められない。まして仔犬の柔らかい舌で舐められて、真剣な顔が維持できるほど鋼の意志を持ち合わせていなかった。


 「有難く受け取ろう。王都に戻ったら、ナランハルにも礼状をしたためさせていただこう」

 

 返答の代わりに巨躯の将軍は、腰を折って一礼した。

 ファンが同じ腹の仔犬を一頭、これから生まれてくるヤルトミクの子の守り手として贈ったこと、将軍がその仔犬にめろめろになったことを、同行する騎士たちの誰もが知っている。

 流石に揶揄いを含んだ笑いは胸の内に押しやって、騎士たちは将軍に倣うように一礼して下がった。


 「酒と肉と、それからこいつ…俺が名前を付けたらステラに怒られるか?こいつを連れて本陣まで下がってくれ。残るのはマルティノだけでいい」

 「御意」


 一番犬好きと知っている騎士に仔犬を渡すと、まだ嘗め足りなかったのかヒャン!と小さく吠える。腕に受け取った騎士の顔はでれりと崩れているが、見なかったことにしてやろうと頬を拭った。


 「では、改めて将軍。此度の事、アスラン側から見たことを教えてくれ」

 「是」


 ヒャンヒャンと言う可愛い声を聞きながら、「アスランではこれが正式」な馬上へとバルトは身を跳ね上げる。

 僅かな思慮の後、ヤルトミクも同じく鞍上へと登った。


 「それではまず、被害から…」

 「うむ」


***


 「ん…?」

 「どうした?」


 枯草は柔らかく、行軍で疲れた脚を投げ出して座れば、ふんわりと受け止めてくれる。

 そうやって輜重隊が昼食の用意を始めるのを見ていた冒険者ベルドは、座り込むどころか寝転がった仲間が何かを見つけて身を起こしたことに目を細めた。

 この仲間は腕のいい斥候だが、疲れたら何もしない。まして安全が確保されたところなら、周囲の警戒すら周りに押し付けるような奴だ。

 そんな奴が身を起こすなど、よほどのことである。


 「どしたの?リーダー。なんか余計岩っぽくなってるよ。顔」

 「岩っぽいってどんな顔だよ!!」

 「鏡見る?」

 「見ねえよ!それより、本当にどうしたよ」

 「いや、アイツ」


 斥候の指の先には、ポツンと座る一人の冒険者がいた。

 座っているが、そわそわと上体は動き、何度も立ち上がろうとしては思い直したように座る。

 どう見ても寛いでいない。


 「お昼ご飯、待ちきれないんじゃない?」

 「食事、中々美味しいですものね」


 のんびりと魔導士と神官が予測するが、それにしても不審だ。

 時折地面に手を置き、何かを探っているような様子も見せている。


 「いや、アイツさ。こないだ離脱した奴じゃね?」

 「え?」

 「ほら、馬と荷物持って、残ってたやつ」

 「そっかなあ?あんな人だっけ?」


 仲間の声に、ベルドも首を傾げた。

 確かに、そんな奴はいた。斥候が気にしていたのも覚えている。

 けれど、それとあの不審な様子を見せる冒険者が、同一人物かと問われても判断がつかない。


 「お前らの目って節穴か何か?ぜってぇアイツじゃん」

 「いや、覚えてねーって…」

 「アイツ、残ったはずだよなあ。なんだってここに…」

 「気のせいじゃないの?」

 「絶対アイツだよ!くそ、ファンでもいりゃ、覚えてただろうに!」


 異様に人の顔を覚えるのが上手い同業者の名を喚き、斥候は腹立たし気に草をむしった。

 

 「けどさー、例えそうだったとしても、別にいいじゃない?やっぱり追加報酬欲しくなったとかさ」

 「まあ、確かに」

 「そりゃあそうだけどなあ…」

 「あ」

 「お、思い出したか!」

 「そーじゃなくて、ファンちゃーーーん!!」


 飛び上がるように立ち上がって手を振る視線の先には、馬車の馭者台から降りてこちらに向かってくる、数日前に王都で別れた冒険者たち。

 ヤクモだけはユーシンが引きおろし、肩に担いで持ってきていたが。


 「やあ、アスラン軍に同行させてもらってたんだ。ついでに違う仕事も受けた」

 「それはそうとして、ヤクモっちどうしたん?」

 「足いたいの…おしりもいたいの…」

 「慣れない乗馬で…」


 ベルド達一党の中で馬に乗れるのは、騎士の家系に生まれたベルドだけである。乗馬訓練を始めたばかりの尻の激痛と脚の強張りを思い出し、ああ、と同情を込めて頷いた。


 「おい、こいつらに構うより、さっさと先に進もうぜ」

 「アスラン風の格好でちょっとかっこいいやん!と思ったけど、やっぱりクロムは性格さいてーだわ…」

 「別にお前に好かれたくないからどうでも良い」

 「こんにゃろう…!」

 「はは…けど、クロムはある程度懐かないとこういう軽口も叩かないから…」

 「ファンちゃんに免じて許すけどね!ファンちゃんもかっこいいじゃーん!似合う!…ユーシンきゅんは、ちょっと、直視できない…」

 「そりゃ、自分の国の服だしね?」


 見慣れない衣裳を褒めているうちに、顔馴染みの冒険者たちが集まってくる。皆、口々にファンたちの無事を喜び合った。

 行軍中に敵がいなくなった自分らとは違い、ファンたちは予定通り救援が来ることを伝える使者となったなら、敵の目を掻い潜っての仕事になったのだろうと。

 そう案じられて、ファンはへらりと笑って肩を竦めた。


 「いやあ、俺らも到着する前に、アスラン軍が来ててね。特に何もしてない」

 「そうなのか?そりゃ幸運だったな!」

 「本当にね」


 曖昧な笑みは何かを誤魔化しているのだろうとベルドは思ったが、無理に聞くほどの事でもあるまい。言いたくないことを見たのかもしれないのなら、特に。

 クローヴィン神殿は確かに無事だ。しかしその近くに見える村は、遠めに見ても静まり返り、生者のいる気配はなかった。

 生存者はごくわずか。大半は殺されたのだという情報を思い出し、眉をしかめる。

 そこでどれほどの非道が行われたのか。もしその一端をファンたちが見てしまったのなら、思い出したくもないだろう。


 「あー、くっそ、ファンちゃんいても前いなかったからなあ!」

 「え?何が?」

 「なんかねーぇ?あの人、アスラン軍から竜騎士さんが来てさ、帰りたい人は帰って良いよってなった時、離脱した人だって主張してんの。一人で」

 「そうなのか?でも、別に離脱した人でも良いんじゃ…?」


 先ほどもそれで納得しかけた問答だったが、斥候は難しい顔で首を振った。


 「勘でしかねぇけど、アイツなんか、隠してる」

 「だから、何をよ」

 「勘だっつってんだろ!」

 「何も根拠なく人を疑うのは、女神もお許しになりませんよ?」


 でもなあ、となおも言い募ろうとした斥候だったが、それよりも早く口を開いたのはクロムだった。

 その鋼青の瞳は鋭さを増し、じっと不審な冒険者を見据えている。


 「あいつ、確かに胡散臭いな」

 「だっろ!!」

 「どうする、ファン。アスラン流に『おしゃべり』するか?」

 「いや、絶対ダメだろ…」


 疑念を持つ者が二人になったからと言って、どうにかするほどの根拠はない。眼を離さなければいいかとベルドは判断し、しぶしぶそれに斥候も同意した。


 「ファンちゃんたち、お昼どするの」

 「もうちょっと先に行ってから食べるよ」

 「えー、どうせならここで食べればいいじゃない?給仕の人に、分けてもらえるか聞いてくるよ!」

 「さんせーい!行こ、カティちゃん」


 笑いながら魔導士は歩き出し、それに三歩ほど遅れて元貴族令嬢、現在女戦士のカティが続く。

 その様子に、なんとなく張りつめた不穏な空気もくだけ、冒険者たちは表情を緩ませた。

 だが。

 ふと、ファンの視線が何かを捉え、その表情が硬くなる。

 

 「…?」

 「なんだ、どうした」

 「馬たちが…」

 

 ファンの視線の先には、馬車の側に残してきた馬たちがいる。

 草を口に咥えたまま、耳を左右に向け、明らかに何かを警戒していた。


 「…!馬車に戻るぞ」

 「ああ。みんな、何か変だ!気を付けてくれ!」

 「変って…ん?なんだこれ…?地響き?」


 すとんと身を伏せ、斥候は枯草を押しつぶし、耳を地面に押し当てる。

 すぐにその細い目が、大きく見開かれた。

 

 「おい、なんか…なんか来てる!地面の中だ!」

 「!!」


 それを聞いた瞬間、ベルドは走った。

 斥候のいう地響きは、彼の耳にはまだ届いていない。

 だから、彼を動かしたのは、ただの勘だ。


 冒険者としての、勘。

 今まで幾度となく身を助けてきたそれが、走れと彼に命令する。


 走れ。走れ。喪いたくなければ。

 

 十数歩の全力疾走の先、ベルドは手を伸ばし、それを…仲間二人の手を掴む。


 「え?ちょ、なに!?」

 「リーダー?」


 戸惑う二人を、身を捻りながら今走ってきた方向、残る仲間たちがいる方へとぶん投げる。

 

 「いってぇ!!なにすんの!!」

 

 抗議の声を聞いて、成功したことを知った瞬間。


 激しい振動が、足の裏を揺らし。

 身体が、浮いた。

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