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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
13/87

蛇のまだらは皮に、人のまだらは心に(人は見かけによらぬもの)7

 彼らを見て、貴族とその騎士団が率いる「軍」であると、一目で判断できるものはどれだけいるだろうか。


 這う這うの体で危機を脱し(たと彼は思っている)、朝を待って本隊に合流できた騎士隊長は、半日ぶりに見る主君と同輩らに唖然とした。

 もともと、率いているのは傭兵にもなれない半端者の群れだ。どうにかそれらしく整えても、正規軍のような一糸乱れぬ行進など望むべくもない。

 だがそれでも、まともな服と鎧を着せ、全身鎧を纏った騎士について歩かせれば、民兵程度には見えていたはずだ。

 

 なのに、今は。


 思い思いの格好で地面に座り込み、暗く卑しい表情を浮かべ、貴重な糧食であるはずの干し肉を齧り、所かまわず放尿する。

 その様は、山賊にも劣る。


 これは、なんと表現すればいいのだろう。

 実際に戦に出たこともなく、賊の討伐ですらはるか後方で頷くだけだった騎士隊長の記憶に、この有様を表現する言葉はなかった。


 彼がもし、この様相を偵察していたアスラン軍斥候ほどの経験があれば、同じ言葉を思い浮かべただろう。


 敗残兵、と。


 彼らはもう、進軍しているのではない。

 ただ、逃げているだけだ。

 何から逃げているのか、それすらも分からないまま。


 ごくり、と唾を飲み込む。同時に口に広がる「不安」の苦み。


 神殿は落ちなかった。クローヴィン神殿が行う「悪事」を暴き、囚われている人々を救出する…と言うのが、ギメル男爵軍の「大義名分」である。

 だが、神殿は落ちなかった。落とせなかった。

 クローヴィン神殿は、彼らを自国の村を襲い、虐殺と略奪の限りを尽くし、友軍として同行していたアルテ子爵家の騎士団を騙し討ちにした「悪党」として糾弾するだろう。

 

 その先に待つ末路を思い、騎士隊長は背筋が凍るのを止められなかった。

 良くて騎士身分を剥奪の上、牢に繋がれて強制労働。

 いや、それは奇跡が起きた結果だ。

 間違いなく、斬首。

 非道の邪悪として、王都に首を晒されるだけではない。家族まで連座し、罪人として扱われるかもしれない。


 その可能性は、もちろん気付いていた。そうされても仕方がないほどの非道だと言うことは、わかっていた。

 けれど、右方バレルノ大司祭派であるクローヴィン神殿を「悪の巣窟」として討伐できれば、宰相の覚えも良くなり、出世の道が開かれるはずだった。

 目撃者は全て「悪の儀式」の犠牲者と言うことにしておけば良い。どれほど殺しても、所詮は田舎の農民だ。本気で追及するような者はいない。

 そう、(とんでもなく甘い)計算をしたからこそ、彼は主君が戦争ごっこを始めるのを止めなかった。

 

 だが、クローヴィン神殿の門扉は固く高く。

 破ることも、越えることもできなかった。


 先に村ではなく、神殿を襲うべきだったのだ。

 それはわかっていたが、連れてきた破落戸ごろつきどもが不満を漏らし、その憂さ晴らしに村へ雪崩れ込んだのを、止められなかった。

 主も抑えるどころか嬉々として村へと乗り込んだのだから、止められるはずもなかったのだけれど。

 どうにかせねばと視界を巡らせたとき、破落戸が村娘を抑え込み、身に纏う衣服を破り、悲鳴を上げ続ける娘を殴りつけたのを見た。

 その瞬間、沸き上がったのは、怒り。


 それは、自分のものだ。破落戸はおこぼれで十分だ。


 頭が真っ赤に染まるほどの衝動に、計画も思惑も、全て消し飛び。

 破落戸を押しのけて叫び続ける娘にのしかかる。

 気が付けば、神殿のことなど忘れ、ただただ、貪り、蹂躙していた。


 百人に満たない村だ。隅々まで蹂躙されるのにそれほど時間はかからない。

 しかし、その時間、僅かな時間を無駄にしたことが、神殿に防備を固めさせてしまったのだ。


 村の到達して、何日目だったか。

 拷問にかけた村人から他の村への行き方を聞いた主の友人らが、偵察してくると意気揚々と出発し、そして帰ってこなかった。

 主は友の未帰還をぶすくれた顔で聞き、そして翌朝、出発を命じた。


 騎士隊長は慌てた。神殿を落とせなければ、大義名分を失う。しかし、日に日に陰鬱に凶暴になっていく主を諫めることなどできるはずがない。そんなことをすれば、自分も村人と共に生きたまま燃やされる。

 ぐったりと動く余力もないほど衰弱した村人が、火をつけられた瞬間跳ねまわり、のたうち回る。それを見るのが、一昨日くらいからの主の娯楽だ。

 すでに、虐殺や略奪に加わらず、凶行に怯えた騎士二人と傭兵数人がそうやって死んでいる。我が軍に正気のものは不要なのだ、と主は吐き捨て、黒焦げになった死体を蹴りつけていた。そんな死に方で終わるのは御免だ。


 だから、己が何とかしましょうと、ずっと考えていた策を伝え、説得した。

 主は期待した様子もなかったが、特にだらけて集合に遅れた破落戸どもを使うことを許した。

 たったこれだけか、とも思ったが、神殿は扉さえ開けられれば中にいるのは非力な神官共のみ。

 一番美味いところは主に残さねばならないが、主はあまり女には興味がない。目当ての子爵令嬢さえ手付かずにしておけばいいだろう。

 女神官どもの僧衣を剥ぎ取る事を考えると、それだけで下半身が疼く。生かしてある村の女は、もう何をしても反応しない。それではつまらない。


 なんでこんな簡単なことを実行しなかったのかと、内心に主を嘲りつつも行った人質を使った開門作戦は、途中まではうまくいっていた。

 思った通り神官共は動揺し、一人二人見せしめに嬲り殺せば門を開く。

 そう思っていたのに。


 「アスランの、竜騎士…」


 主の、濁った声が吐き出された。 

 その息は、絶えず飲んでいる酒に掠れ、時折不明瞭になる。

 

 声だけではない。

 ギメルと言う人間を形作っていた型が崩れ、緩んできているように思える程、皮膚は弛み、崩れている。

 ほんの数日前、村を落とした直後はこうではなかった。むしろ、その型いっぱいまで満ち足り、破裂寸前まで膨らんでいたように見えた。

 

 だが、今はどうか。

 美食と美酒にのみ興味を示し、醜悪に肥える貴族を、ギメル男爵は心底蔑んでいた。しかし、今の主は、肥えてはいないが緩んでいる。あと数日たてば、人の形も保てなくなるのではと危ぶむほどに。


 「は、はい!何故アスランの蛮族どもがこのような場所におるのかと臣は愚考いたしまして、おそらく侵略のための偵察ではないかと!」

 

 神殿は落とせなかった。

 だが、明らかにあの竜騎士は神殿の援軍だと言うことは、見たし聞いた。

 

 「かくなるは、アスランの蛮族めらを捕らえ、クローヴィン神殿がアスランに内通していると吐かせましょう!」


 そうなれば、村を襲った凶賊から、救国の英雄に大逆転できる。

 保身のために口走った妄言ではあったが、言ってしまえば真実を見抜いたのだと膝を打った。それ以外になんの意味があって、アスラン軍が隣国の神殿にやってくると言うのか。

 

 「飛竜に乗っていたのは、間違いないのだな?」

 「無論に御座います!あと一歩で我が策なれりと思った瞬間、奴らが襲撃してまいり、我が騎士隊は奮闘すべく武器を取ったのですが、傭兵どもが飛竜に恐れおののき、大混乱となりまして…無理に戦って閣下よりお預かりいたしました兵を減らすよりはと、退却してまいりました」

 「飛竜…飛竜か」


 長々と述べた言い訳を、主は聞いていないようだ。だが、興味は敗戦の責任追及より、飛竜にあるらしいと見て取って、胸を撫でおろす。

 

 「飛竜…!何匹いた?」

 「え、そ、そうですなあ…空を埋める程におりましたが…」 


 嘘を重ねることになるが、構うまい。


 「なら、矢を射かけても一頭くらいは残るな…!くふふ、飛竜!跨って王都を襲撃したら、さぞかし愉快だろう!」

 「乗っていたのは、若造でございました。ナラ…なんとかと呼ばれておりましたが」

 「どうせ貴族の軟弱者だろう。良い家に生まれたと言うだけで飛竜に跨る資格を得たような弱者より、このギメルを背に乗せたほうが飛竜も誇らしいだろう」

 「左様でございますな!」


 敵は、僅か数人。十はいなかった。

 それなら、弩の一斉掃射で落とせるだろう。飛竜が生きているかは不明だが、あれは鱗や皮、骨ですら良い値で売れると言う。

 できれば頭骨は売らずに一つ欲しい。アスラン軍を打ち倒し、竜を殺したもの(ドラゴンスレイヤー)の証として。


 「お前の失態は、許す。どうせ失敗すると思っていたしな」

 「…はあ」


 僅かにムッとした感情が顔に出たのだろう。

 ギメル男爵は、口の端を釣り上げて嘲笑った。


 「お前が、どこぞの塞に立て籠もった際、敵が死にぞこないを引き連れて、門を開けねばこいつを殺すと脅したとして、開くか?開けば敵がなだれ込み、おのれらが殺されると解っていてな」

 「ああ…」


 それは、開けない。

 ギメル男爵はますます嬉しそうに顔を歪め、薄汚れた歯を剥きだした。


 「そんな馬鹿はおらん。神官だ司祭だと善人ぶろうがな。やつらにできるのは、精々安全な場所からお前を罵り、己が無事なことに小便を漏らす程安堵し、外面の為に死に損ないどもを憐れむだけであろうよ」

 「なるほど。さすがはギメル様…慧眼に御座います」

 「お前が阿呆なだけだ」


 ぎゃぎゃぎゃ、と声をあげて笑ったのち、ギメルは立ち上がった。

 豪華な天鵞絨のマントと鈍く銀に光る甲冑には染みひとつない。

 だが、それでも何故か薄汚れ、朽ちはじめているように見えた。


 「進軍を開始する。村をもう一つ潰せば、アスランの蛮族どもを呼びよせられるだろう。潰した村に降りてきたところを待ち受けて、射殺してやる」


 ギメルの声に、周辺の傭兵たちはのろのろと立ち上がった。億劫さもあるが、その顔には下卑た喜びも浮かんでいる。

 

 「アスランの竜騎士には女もいると聞く。うまく落とせれば、その女はくれてやるぞ」

 

 おお、と歓声があがった。男でもいたぶりゃそれなりに楽しいしな、とはしゃぐ声もする。

 その様子に、騎士隊長は…何故か不安がこみ上げ、背筋を震わせた。


 白樺の林のあちらこちらから、汚れた男たちが立ち上がり、騎士たちの怒号にいやいやながらも整列…とはとても呼べないが…する。

 淀んだで濁った空気を纏ったまま、晩秋の芋虫のようにギメル男爵軍は動き始めた。

 野営の跡を片付けることもせず、汚し果てたままで動き出したにも関わらず、進軍は始まらない。

 主な原因は、騎士たちが甲冑を纏うのに時間がかかっているせいだろう。


 それをギメルは咎めなかった。

 彼もまた、馬上に上がるのに手間取り、従者を殴り、罵倒するのに忙しかったから。


 ようやくギメル軍が「進軍」を開始したのは、日が更に高く昇り、朝が終わろうとする時刻になってからだった。


***


 馬蹄の響きが遠ざかる。


 「開戦!」の声と嚆矢の音。それが終わると同時に、見えざる糸に引かれたかのように騎士たちは動き始め、馬を駆けさせた。


 まずは二つに割れた軍の間を、ファンを先頭にクロム、ユーシン、ヤルトミクが続く。

 

 まっすぐに駆けていくファンの右横に無爪紅鴉旗を掲げるクロムが付き、左側にはサリンド紋旗を支える騎士が付き従う。

 左側の隊列からさらに十人の騎士が馬をあおって飛び出し、その後ろに続いた。

 

 それを見届け、ユーシンは左側の部隊に合流する。

 左翼は全員が軽騎兵だ。武装は最低限であり、纏うのは革鎧だ。鞍には短弓が留められ、背には矢筒が括りつけられている。


 ユーシンが馬の速度を上げて陣頭に躍り出た。半馬身遅れて軍旗を掲げる騎士が付き、大きくその旗を振るう。

 直後、左翼全軍の速度があがった。列を保ったまま、誰一人遅れも突出もせずに駆け抜けていく。


 続くヤルトミクが率いる右翼は、金属鎧を纏う重装騎兵だ。槍の他に槌や長柄斧を手にする騎士も多い。

 馬にも馬甲が付けられ、馬蹄の響きは重い。速度は左翼に比べれば劣る。だが、それでも、最後の兵が本陣から抜けるのに、百を数える程もなかった。


 そして、地を駆けていく騎馬軍のはるか上空を、竜騎士たちが往く。鞍に誰も乗せてはいないが、ファンの愛竜マナンもその列に加わっていた。


 「なんか、すごいねぃ…」

 

 その進軍を、ヤクモは少し離れて見ていた。

 騎士たちが並んでいたのは、ユルクが立ち並ぶ野営地から離れた場所だ。昨夜、飛竜で着地した地点である。

 光の路を作るほど並んでいた篝火は撤去され、均された土地だけが広がっていた。そこかしこにある馬の落し物がなければ、ここについ先ほどまで、千を数える軍がいたことすら信じられない。

 

 「アスランの進軍は、本当に早い」


 呟くシドは、胸甲ブレストプレートを含めて武装している。

 彼もまた、本陣護衛に加わっていた。その姉は、万が一に備えて女官たちが集まる陣屋にいるらしい。


 背負う片手半剣バスタードソードも使い込まれた部分鎧も、彼が歴戦の傭兵であることを示している。

 そのシドが言うのならそうなんだろうと、ヤクモは頷いた。


 「やっぱり、そうなんだねぃ。ふつーは、もっと、せいれーつ!とか、すすめー!とか、そう言ったりなんかするよね」

 「それもあるが、大抵はどこから動くか細かい決まりがある。こいつより先に動いたら無礼、とか、そういう面倒くさいやつだ」

 「アスランにもぉー、あーりますよー?」


 くあ、と欠伸をしながらシギクトが話に加わってくる。


 「一番隊から動くのがー、決まりですーねー。ここはー、千人隊ですからあー、まずー、百人隊が一番から十番まで分かれてましてえー。百人隊のなかでもー、十人隊が分かれてますー」

 「…たぶん、俺が言っているのとは違うやつだな」

 「そーでーすかあ~?」

 「んーと、シドが言ってるのは、エラい人から動くってことでいいの?一番隊の人が一番エラいとか、そーゆーのはないの?」


 今だって、ファンが先頭だった。この軍の中では、間違いなくファンが一番偉いのだから、偉い人から動くで間違ってもいないだろう。


 「んー、おなじ百人長、十人長同士でえ、偉いとか偉くないとかはないでーすねえー。ナランハルが先頭なのはあー、ナランハルが作戦上一番前にでるからでーす」

 「他の軍は、そういうのがある。あっちの隊長がこっちの隊長の先輩だとか舅だとか、家の格がどうとかでな。実際に戦が始まれば偉い奴ほど後ろに引っ込んでいくことが多いが」

 「ふええ~」

 「大抵、最初にぶつかるのは傭兵だ。一番死ぬ場所に騎士を配備する国は、あまりない」

 「聞いた話によるとおー、ヒタカミもそーらしいでーすよお。一番槍はーとても名誉なことでえー、身分ある人にしかー、許されないのだとかー」


 ヒタカミ。確か、アスランの南の海に浮かぶ島国で、ファンがいつか行ってみたいと言っていた国だ。

 なんでも、南海にあるが標高が高い場所が多く、山の上では雪も降るが麓は裸で過ごせるほど暖かく、独特の文化と生き物に満ちている国なのだとか。

 ファンは「他じゃ類を見ないほどの多種多様のキノコが生えているんだって」とうっとりしていたが、ヤクモはキノコに対してそれほど思い入れもないので、ふーんと聞き流していた。

 それよりも、ヤクモの本来の故国であるシラミネは、ヒタカミから戦を逃れてやってきた人々の興した国である、と言うことの方が興味がある。

 

 ヒタカミの人々の頭にも、角が生えたり生えなかったりして、生えないとハズレ扱いされたりするんだろうか。

 でもまあ、角のない自分も幸せに暮らしているし、きっとヒタカミの「ハズレ扱い」された人も、「それがどうした」と気にせず生きているのだろう。

  

 「一番槍かあ…ユーシンが自分がやるって言ってたけど…」

 「話には聞いたことがあったが、あいつが『恐れを知れぬもの(ナラシンハ)』なんだな。とてもそうは見えなかったが」

 「う?それ、ユーシンのことだよね。聞いたことあるの?」

 

 少し顔を顰め、シドは頷いた。


 「ああ。あまり良い話じゃないが」

 「そっか…。じゃあ、聞かないことにするね。友達の悪口は聞きたくないし。シドさんも言いたくないでしょ」


 どんな風にユーシンが語られていようとも。

 ヤクモが知っているユーシンは、ただ一人なのだから。

 だから、それが真実であっても、悪口だ。そんなものを聞く気はない。

 

 シドはほんの少しの間、ヤクモを無言で見つめていた。

 への字になっていた口許が上がり、笑みを浮かべる。


 「シドでいい。そうだな。俺も言いたくない」

 「でしょ!」


 同じく笑って頷き、ヤクモは視線を仲間たちが駆け去っていった方へと戻す。

 もう、騎行によって生じる粉塵もなく、ただ馬の蹄の跡だけが枯草と土を捲り上げている。


 仲間たちが必ず帰ってくることを、ヤクモは疑っていない。

 だが、それでも。


 (マース様、マース様。ファンたちが、戦いに行きました。どうか、怪我とかしないよう、苦しい思いをしないよう、お守りください)


 ヤクモは信仰する神を持たない。育った国でも故国でも、きっと守護神は祀られているけれど、ヤクモはどんな神かも知らなかった。

 だから、今ここで祈るなら。

 英雄の守護神であり、ファンに刻印を授けた神、マース神がいいのだろうと判断し、内心に手を合わせる。

 

 (どうか…どうか、お願いします)


 神官ではないヤクモに、マース神の反応はわからない。

 けれど、頬を撫でていく風は心地よく、優しく。


 マース神の返答のように、思えた。


***


 芋虫のような速度でギメル軍は進んでいく。


 聞き出した通り、白樺の木…どれが白樺かはギメルにはわからなかったが、ぽつりぽつりと離れて生えている木を目印に、進軍を続ける。


 先頭を行くのは、無論総大将たるギメルだ。

 死を厭い、恐れる正気のものとは違い、己は狂気に満たされている。もっとも死に近い場所に身を置くのは当然だ。

 

 後ろに続くのは、騎士団三十名。いや、何人か脱落したから、もう少し減っている。だが、何人か減ったところで問題はないのだから、三十名でいいだろう。

 

 「竜騎士…竜騎士か」


 考えるだけで顔がにやける。

 アスラン王国の竜騎士について、当然ギメルは知っていた。自在に空を駆け抜け、どれほど城壁が高く堅くとも飛び越えて、単騎攻め込むと言う命知らずども。

 竜騎士は討ち取り、飛竜だけを手に入れるつもりだったが、そんな正気より狂気に近い連中ならば、配下に組み込むのも悪くはない。

 どこかの良い家、良い血筋に生まれたと言うだけで飛竜を与えられるようなものの前で、部下が全てギメルに忠誠を示したら…そいつはどんな顔をするだろうか。


 そうして、窮地に駆け付けた味方と思っている竜騎士たちを従え、空からあの忌々しい壁を飛び越えて、クローヴィン神殿を襲撃したら。


 ぐつぐつと濁った笑いが喉の奥からこみ上げてくる。

 

 己は異常者だ。死と流血を望み、安楽な生活より戦場を望むような狂者だ。

 だが、そんな異常者を作ったのはこの世界だ。そして、この国であり、貴族と言う連中だ。

 

 男爵家に生まれたと言うだけで、何故伯爵家に生まれたものより低級だとされる。

 馬にもろくに乗れず、槍も剣もお遊戯のようにしか振り回せない弱者に、何故ギメルが負けなければならない。


 本気を出して勝利しただけで、何故罵倒され、殴打され、額を地にこすりつけて謝罪しなければならない。


 ああ、忌々しい。

 それを強要した父とかいう生き物は、一月前に消えた。もっと長持ちするかと思ったのに。己が打たれた半分程度で妥協していたのに。半年程度しか持たなかった。


 きっと同じ痛みと苦しみを、貴族と言うだけの若造に頭を下げなければならない竜騎士たちは抱えている。

 それをギメルが理解した時、竜騎士たちは鉄血の忠誠を誓うだろう。

 そうしたら、彼らもしくは彼女らの痛みを、共に貴族の若造にぶつけてやる。

 アスランの貴族の血も、濁った赤をしているのだろうか。


 「ギメル様!」


 次々に沸き上がる楽しい計画を、騎士の声が邪魔をした。

 咄嗟に剣を抜こうとして思いとどまる。騎士は全身鎧を纏っていた。切り捨てるのは少々面倒くさい。


 「前方に、敵…です!騎馬兵です!」

 

 そして、続く言葉は、ギメルの目にぎらついた光をともさせた。


 騎士のガチャガチャと煩い指の先を見れば、右手側に丘がこんもりと盛り上がる地形。

 その丘の麓に、馬に乗った人間がいた。


 目を凝らし、見る。

 「敵」は動かない。まだこちらに気付いていないのだろう。

 人数は…少ない。十か、そこいらか。

 

 「く、くははあ!」


 沸き上がる失笑を抑えきれず、ギメルは吹き出した。

 

 あれが、名高いアスラン騎兵なのか。

 跨る馬は小さく、まるで婦女子の乗るポニーのようだ。

 太陽の光が反射していないところを見ると、金属鎧すら纏っていない。

 いや、全身鎧を身に着けた騎士を乗せたら、あんな小馬は潰れるだろうから、そこはちゃんと考えているようだ。

 金属鎧の重さに耐えられないのは、人間の方かもしれないが。


 生意気にも、風に二本の旗が翻っている。白地に黒い模様が染められた旗と、赤地に鳥の絵が描かれた旗だ。

 白地の旗の模様が花模様であることが見えて、ギメルの失笑はより深く大きくなる。


 小馬に跨りお花の旗を翻し、騎士団ごっこか。


 「あ、あの赤い旗の模様!昨日の竜騎士が乗っていた飛竜も、身に着けておりました!」

 「ほう…」

 「それに、あの金髪!もしや、ナラなんとかやも!」

 「飛竜に落されたか?まあいい。飛竜をどうしたか捕らえて吐かせる!行くぞ!」


 馬の腹を蹴る。小馬とは違い、跨る馬は人をも蹴り殺す巨躯を備えた名馬だ。逞しい四肢を跳ねるように動かし、放たれた矢のように走り出す。


 その動きに、ようやく敵どもは気付いたようだ。

 応戦の気配も見せず、くるりと反転して逃げ出す。


 その判断の速さは、褒めてやる。


 舌なめずりをしながら、ギメルは更に馬をあおった。

 従う騎士たちが遅れてついてくる。はるか後方でドタバタと音がするのは、傭兵どもも走り始めたからだろう。

 

 はっきりと、小馬を駆けさせる敵の背中が見えた。

 数は、十三。先頭を行くのは、金髪に赤い布を巻いた男。その左右に旗持ちが続き、五人ずつの騎兵が遅れながら続く。


 先頭の男は、やはり昨日偉そうに振る舞ったと言う貴族だろう。風に靡くマントは、遠目に見ても上等なものだ。

 あれはできれば、傷をつけずに剥ぎ取りたい。光も通さないような漆黒は、ギメルの好みだ。奪い取り、戦利品として勝者を飾るのにふさわしい。


 猛追撃に、敵の背中が近くなる。しかし、敵も必死。馬の速度を上げて何とか逃げ切ろうと足掻く。

 だが、あんな小馬では、乗り手の重量に負けて潰れる迄そうは時間がかかるまい。


 何が騎馬の民だ。

 いや、アスラン騎兵はその名に相応しいのだとしても、怠惰に堕落して育った貴族は違うのかもしれぬ。まともな馬にも乗れないくせに、戦場にのこのことやってきた愚かさよ。


 妄想と酒に濁ったギメルと、必死のその背を追う騎士たちには理解できていなかった。


 逃げているように見える敵軍の隊列は全く乱れておらず、上空から見れば矢の形を保ち続けて馬を駆けさせている事。

 

 荒い息を吐き、涎の泡を口の端に浮かべ始めたギメルらの軍馬と違い、彼が「小馬」と嘲った馬たちは、まだ余力を残して駆けている事。


 敵は一度も振り返っていないのにも関わらず、追跡者との間隔を一定に保っている事。


 そして、歩兵である傭兵たちと騎兵である騎士たちの間が、姿が見えないほど空いてしまっている事。


 その全てを、理解できなかった。

 一つでも思い至れば、追跡をやめて引き返しただろう。

 もしくは、アスラン軍についてもう少しよく知っていれば、不自然さに馬を止めたかもしれない。


 本気で馬を走らせるアスラン軍が、こんなに鈍いわけがない。

 逃げているのなら、ギメルらの追跡で背中が見える程、ゆっくり走らせるわけがない。


 だが、誰もその違和感に至ることはできず。

 後続と十分に離れ、いくつかの丘を右手に左手に通り過ぎた後。

 

 それは、始まった。

 

 「!?」


 ギメルは、見た。

 先頭を駆ける…つまり真っ先に逃げている貴族の双眸を。

 その、満月の色をした眼を。


 濁った思考が、そんなことはあり得ないと理解を拒む。

 全力で馬を疾走させながら、顔がはっきり見える程に身を捩るなど。


 まして。


 両手を手綱から離し、弓を構える、など。


 ありえない。


 先頭に続き、左右に分かれる騎士たちが同じように振り返る。手に弓を持ち、矢を番え、馬の速度を保ったまま、後ろを向く。

 

 ギメルの脳に、敵が半馬身開けながら広がって馬を走らせていたことの意味が走る。

 彼は決して、無能ではなかった。歪み、濁り、緩んでいたが、最後まで意味が分からなく居られるほど、無能ではなかった。

 

 だが、その意味を理解することを、ギメルは拒んだ。

 ありえない。そんなわけがない。違う。何かの間違いだ。

 矢を射るために開けられた間隔だと?

 そんなわけはない。そんなこと、できるはずがない。馬とは、前を向いて乗るものだ。槍を振い、剣を回そうとも、手綱は決して離してはならないものだ。

 だから、これは違う。

 

 偽装退却。敵の誘導。

 否定しても浮かぶ、戦術書に書かれていた文字。


 そんなわけがない!!己は異常者だ!!安楽ではなく戦乱に適して生まれた者だ!

 その己が、釣られるなど、そんなわけが、そんなわけがない!!

 第一、貴族が、怠惰で臆病な弱者が、自ら餌になるはずがない!!

 だからこれは違う!違う違う違う違う!!


 否定の言葉が水泡のように沸き上がり、弾け。

 十一本の銀の光が、ギメルの横を通過した。


 重いものがぶつかり合う音。潰れた声。馬の悲鳴。


 振り向けない。

 見たくない。

 

 そう思った瞬間、ギメルの横に馬が進み出る。いや、ギメルの馬が足を緩めたのだ。騎手の指示が止まり、戸惑う馬は止まりはしないが速度を落とす。

 手綱を掴む騎士の手が真っ先に目に入り、ギメルは兜の下で唾を飲み込んだ。なんだ、驚かせるな。そうだ、こちらは金属鎧を纏っているのだ…弓などで傷付いたりは…しな、い。


 手は、確かに手綱を握っていた。

 その手が繋がる肩も変わりない。だが。

 肩が支える首。

 

 その首を守る鎖帷子を突き抜け、矢が、突き刺さっていた。


 兜の端から、血の泡が拭きこぼれる。ようやく自分に何が起こったのか察したように、騎士の手は手綱から放れ、咽喉を掻きむしろうとし。

 支えを失った身体は、後ろ向きに馬から落ちていった。


 「な、なに…なんだ、なんだ、なんだあああ!!!?」


 何について聞きたいのか、確かめたいのか。

 それは喚き続けるギメルにもわからない。

 

 ただ歪み、滲む視界の先で、「敵」が反転するのが、見えた。


 旗を馬の鞍に差し、飛び出してくる一騎。

 額と双眸の下に刻まれた刺青。鋼青の瞳。


 「なんだか教えてやるよ。雑魚」


 放たれたのは、まだ若い声。

 硬質な無表情で覆われた声が消えないうちに、両者の距離はなくなっていた。


 「お前は俺の主を害そうとした。万死に値する」


 反論は、思考にすら上がらなかった。

 ただ、破裂する、恐怖。

 視界と思考と赤黒く塗りこめていく其れ。


 次の瞬間、ギメルの頭を強烈な打撃が揺らし。

 恐怖は意識を包み込み…共に落ちていった。


***


 「ふん」


 盾強打シールドバッシュで敵の総大将…にしては雑魚かったが…を失神させ、クロムは駆け足を続ける馬の手綱を握った。馬の首に突っ伏すように雑魚は気絶している。落馬しても構いはしないが運ぶ手間は省けた。良いことだ。

 

 馬の扱いは遊牧民には劣るものの、クロムも騎士として認められる程度には習熟している。宥めながら円を描くように並走し、緩やかに足を止めさせていく。


 見渡せば、動いているのはもうアスラン騎兵だけだ。

 この雑魚の率いていた騎士もどきは、全員急所に矢を立てられ、あるものは落馬し、あるものは馬の上で息絶えている。

 アスラン軍が通常用いるのは、連射に適した短弓だ。しかし、今回釣りに加わった騎士たちは、全員長弓の名手だった。

 ファンの用いるシドウの大弓ほどの威力はないが、この程度の距離ならば、金属鎧がただの重りにしかならない貫通力を持つ。


 その弓をもって、馬を疾駆させたまま身を捻り、後方へ射撃する。

 この戦法は、決して秘中の秘策などではない。アスラン軍と交戦した国なら、必ず記録に残っている。

 しかし、この連中は知らなかったようだ。知っていれば、のろのろと馬を走らせるアスラン騎兵の後ろをついてきたりはしないだろう。


 思ったより遅い…気付かれてるかなあと、主に余計な心配までさせやがって。のろまどもめ。

 内心に敵とも呼びたくない雑魚共を罵りつつ、クロムは馬を歩ませた。


 「持ってきたぞ」


 馬の手綱をひいて並走させたまま、クロムは主の元へと戻った。

 鐙から足を離し、御大層な甲冑を纏った雑魚を鞍上から蹴り落とす。

 こんな汚物を乗せていては馬も辛かろうと言う気遣いと、万が一襲い掛かってきたときに主にその汚い手が届かないようにするための警戒だ。


 「ありがとう、クロム」


 僅かに上がっている息を整えながら、ファンが頷く。全力疾走に堪えたわけではないだろうから、圧倒的な雑魚を踏みつぶすことに少々しんどくなっているのだろう。


 主に負担をかけている雑魚どもが煩わしく、クロムは唾を地に転がる男に吐き掛けた。さすがに、コラ、行儀悪いぞとファンが咎める。


 馬の捕獲とまだ生きている敵のとどめに回っていた兵たちが、集まる。二人の騎士が滑るように馬を降り、ギメルを手際よく縛り上げた。

 一人がひょい、と全身鎧に覆われた体を担ぎ上げ、馬の鞍に乗せる。もう一人が左右にだらりと垂れ下がる手足を縄で繋ぎ合わせた。

 再び重しを乗せられた馬は、鼻息を吐き出して不満げだ。その鼻面を撫でてやりながら、クロムは主に視線を戻した。


 「生かして捕えろ、と言われたからそうしたが、どうすんだ?アステリアへ引き渡すのか?」

 「まあ、それが妥当だろうな。それと、もう一つ…」


 ファンの満月色の双眸が、じっと気を失ったギメルを見据える。

 その白目がみるみる充血をはじめたのに気付いて、クロムは声を上げようとし…止めた。

 こんな近い距離で鷹の目を使わなくてはならないのなら、用途は一つだ。


 隠されたものを観る。それも鷹の目の力。

 この雑魚に隠されているものがあるとすれば、月の向こうから覗く、百と八つの眼のひとつ。


 「…ないな」


 ほう、と息を吐きだし、ファンは頷いた。

 いつの間にか握っていた拳を緩め、クロムも主に向かって頷く。


 「ま、こんな雑魚に構うほど、奴も暇じゃあないんだろ」

 「それもそうだな」


 ふふ、と顔を緩め、ファンは僅かに下を向いた。

 邪神の扇動がなくても、人は人だけで邪悪を、非道を成す。

 それは、よくわかっている。だが、わかっていても、辛い。


 あまりにも簡単に釣れた。上空で警戒している竜騎士たちからの報せもない。と言うことは、別動隊などやはりいない。

 

 この男が何故、こんなことをしたのか。

 

 その理由は、正しくは「お喋り」してもらわなければ知ることはできない。

 だが、ほぼファンは確信していた。


 あまりにも行き当たりばったりな行動。準備も備えもなく、攻め込む場所のことすら調べない杜撰さ。

 彼におそらく、目的や目標などはない。


 やりたかった。

 だから、やった。


 ただ、それだけ。

 ただ、それだけで、ひとつの村を滅ぼし、百人近い村人を殺した。


 何故、そんなことが出来るのか。そんなことをしたかったのか。


 「…右翼左翼に合流しよう」


 顔を上げ、駆けてきた方…西へと視線を向ける。


 「そろそろ、終わっているとは思うけどな」


***


 傭兵たちの駆け足は、あっという間に終わった。

 バラバラと足を止めだし、へたり込む。

 元々、忠誠心などで従っているわけではない。何が何でも大将に追いつき、共に戦うのだ、などと思っている傭兵は一人もいない。 

 

 サボるな、歩け!と煩い騎士たちも、もう全員先へ行った。今頃、敵に追いついて楽しんでいる事だろう。

 最後まで足を動かしているものも、走ってはいない。脚が動いているだけだ。惰性で前へと進みながら、はあはあと大口を開けて息をする。

 

 その目に、白い光が映った。

 同時に耳と足の裏に届く、地響き。


 「は…あ?」


 それが何であるか、傭兵が理解するよりも早く。

 みるみる近付き、形を変えていく。


 白い光から、白銀の甲冑を身に纏う、騎士へ。

 そして、地響きから馬蹄の轟へと。


 「キリク王国シーリンが子、ユーシン!」


 鐙を踏みしめ立ち上がり、ユーシンは槍を後ろ手に構えた。

 脳裏に浮かぶのは、部屋の隅の血溜り。豚小屋で腐っていく騎士たちの遺体。

 報いねばならない。その絶望に。恐怖に。


 「今は、紅鴉親衛隊ナランハル・ケシクの客将だ!」


 軍馬として育てられたアスラン馬は、怯みもせずに武装した人間のただなかへ躍り込む。その前肢が地を蹴るよりも早く、ユーシンの槍は一閃していた。


 昨晩、親衛隊に属する鍛冶師が磨き上げ、研ぎあげたキリクの名槍は、こともなげに人体を切断し、血と肉と臓物を散らす。

 それをユーシンは追わない。更に馬を先へと駆けさせる。

 

 白銀の閃光が絶え間なく弧を描く。それは必ず、赤を引き連れて右へ左へと軌跡を残す。

 無駄な動きは一切ない。ユーシンの槍が動くということは、敵兵の死体が増えることを意味していた。

 ほんの数呼吸のうちに、ユーシンは傭兵の陣を正面から斜め右へと突き抜ける。


 弛緩しきっていた傭兵の群れが、その速度に適応できるはずもなかった。

 百五十人ほど残っていた傭兵たちの隊列は、ファンの動きに釣られ引き摺られ、すでに列とは言えない。ただだらだらと長く伸び、数人で固まっている者もいれば、一人二人とばらけている者もいる。

 少ない数をさらに密集させることもせず、騎馬が駆け抜ける空間を作ってしまっていた。

 

 だが、もしも彼らがぴったりと身を寄せ合い、盾(ファランクス)を構えていたとしても、結果はほとんど変わらなかっただろう。

 

 ユーシンの後に続き突撃を敢行するのは、三十隊三百人の軽騎兵。

 速度を保ちながら、武器を振い肉塊を増やしていく。

 いや、三百の騎馬は、駆けるだけで攻撃になるのだ。

 疲れて座り込んでいた傭兵の何人かが、馬蹄に蹴り飛ばされ、転がったところを踏みにじられ、瞬く間に肉泥と化していく。


 「に、にげろっ!!!」


 誰かが叫び、次の瞬間その首が消えた。

 だがそれでも、いち早く脱落し、座り込んでいた後方の傭兵たちが立ち上がる時間は稼いだ。

 声にならない叫びを吐き出しながら、傭兵たちは転がるように逃げ出す。

 隊列が長く伸びていたのが、この時だけは傭兵たちの有利につながったと言えるだろう。

 列の後ろ、早々と脱落した兵たちが「逃走」できる距離があったのだから。


 だが、その逃走は長く続かなかった。


 先ほどまで歩いてきた、その先。

 安全だったその先に、今、確かに往時はなかったものが立ち塞がる。


 黒い壁のような、騎馬兵団。

 その先頭に立つ猛将が構えるのは、二本の節くれだった鉄鞭。

 一本の長さは、長剣ほどもある。だが、その長さも重さも、ヤルトミクには心地よい。


 竦む傭兵らを、怒りを宿す眼が捉える。


 民を嬲り、殺し、それを愉しんだからには、相応の報いを受けることは覚悟の上だろう。

 だが、彼が今まで見たどの賊徒も、いざ勝てない相手を見ると震え、弱者を踏みにじるのかと泣き叫ぶ。

 その性根に、反吐が出る。


 そうだ、踏みにじるのだ。あのお優しいナランハルですら、そうしなければならぬと決意したほどの悪行を成したものを、生かしておくわけにはいかない。

 

 「掃討せよ!続けぇ!!」

 「是!」


 ユーシン率いる軽騎兵の馬蹄が轟ならば、これは津波だ。

 音が壁のように攻め寄せ、地が揺れる。


 先頭を行くヤルトミクの鉄鞭が、無造作に振るわれた。

 今まで走ってきた方角へ、傭兵だったものは吹き飛び、叩きつけられる。

 一打された頭は、文字通り弾け飛んでいた。


 突っ込んでいく重騎兵を避ける形に、軽騎兵は道を開ける。槍を鞍にかけ、手に持つのは弓だ。

 軽やかに荒野を駆けながら、道を反れて逃げようとする傭兵を射抜いていく。


 ウー老師が指示した通り、アスラン軍は東西に軍を伏せた。

 つまり、敵軍が目指す方角と、やってきた方角に。

 

 ユーシン率いる軽騎兵は泥炭池を避けながら丘陵に添うように布陣し、釣り役のファンたちが駆け抜けていくのを待つ。

 騎兵だけを釣り上げたのを見届けた後、歩兵隊への突撃を敢行するために。


 ヤルトミク率いる重装騎兵隊は道をそれ、ひそかに敵軍の背後へと回り込んだ。先行する軽装の斥候が道を示し、危険なぬかるみを避けながらではあるが、それでも他国の騎兵隊の進軍速度よりはるかに速い。

 

 本来なら、背後から軽騎兵が奇襲し、隊列が崩れたところに重装騎兵が突撃する陣形ではある。

 だが、殲滅を目的とした戦だ。討ち漏らしはできない。

 それならば、西を…背後を取るのは、重装騎兵の方が適任であろうよと、ウー老師は指示を出したのだ。


 それについて、ヤルトミクに否やはなかった。


 重装騎兵が泥炭池に囚われれば、間違いなく這い上がることはできない。助けに行こうにも、周りの土も脆く、救助者が道連れになるだけだ。馬甲を纏った馬も、同じ運命をたどるだろう。

 そんな危険な罠がどこにあるのかもわからない地を、軍を率いて大回りし、敵の背後を取る。


 その程度、アスランの千人長ができないわけがない。


 危険すぎる、東は私が、などとほざいたのなら、一族総出で滅多打ちにされ、妻に三日三晩は説教されてしまう。それはいけない。自分と違って妻はか弱いのだ、三日も寝なければ体に障る。特に、今は。


 そして、策は成った。

 いや、この程度策とも呼べぬと、あの人を食った軍師は言うだろう。

 実際、これは戦ではない。戦とは、少なくとも己も命を危機を覚えるものだ。


 こんなものは、ただの駆除だ。庭の木にたかった毛虫を燻し、落として踏みつぶしているようなものだ。

 紅鴉親衛隊のやるようなことではない。

 

 だが。


 思い出すのは、灰色の丘陵を渡るフラガナの民。その民が助けてやってくれと訴えた、隣国の村。

 

 危害は決して加えぬから安心してほしいと伝えに行ったヤルトミクに、村人たちは深々と頭を下げて礼を述べてくれた。西方語は片言しかわからないが、村長をはじめとする村人たちが、心から感謝しているのは伝わった。


 村長の姪だという娘が抱いていた赤ん坊が、じっと己の厳つい顔を見つめる。

 思わず目を細めると、きゃっと笑った。


 この賊どもが為した悪行を聞く限り、もし目論見通りに村に到達していたら。

 あの赤子は、二度と笑うことはなかっただろう。

 

 もちろん、辺境の村に生まれた赤子が無事に成長できるかはわからない。賊でなくても、その命を奪うものはたくさんある。これからやってくる冬の寒さすら、容易に命の炎を消し去る。


 だが、それでも。

 守れて、良かった。


 願わくば、あの赤子と…今は未だ、兆しでしかない妻のなかの我が子が、このような賊共などに関らず生きていけるように。片っ端から叩き潰して回ろう。世に邪悪は尽きぬと言っても、潰せば確かに減るのだから。

 そのためならば、己は返り血を浴び続け、赤熊と呼ばれ続ける。

 

 やはりこれは、紅鴉親衛隊に相応しい仕事だ。

 邪を討ち、善く生きようとするものを守る。

 導きの神獣、紅鴉の名を冠する軍として、これ以上相応しい働きがあるだろうか。


 ヤルトミクは駆け抜けた後に全軍を停止させ、整列を命じた。

 馬を反転させ、兵の間を歩ませる。何も言わずとも、数年にわたって付き従ってきた騎士たちは、馬を寄せ将軍の通る道を開けた。


 兜を外し、眺め見る荒野はやはり「戦場」とは呼べないと判ずる。

 抵抗は、まるでなかった。武器を構え、戦おうとする者は一人もおらず、逃げ惑い、立ち竦むものを踏みつぶすだけの「作業」だった。


 馬甲を纏い、重装の騎士を乗せた馬が駆け抜けた一帯の土は抉れ、賊だったものの残骸がこびりついている。

 放置しておけば獣を呼ぶから、埋めるか燃やす必要はあるが、そちらの方が骨が折れそうだ。

 せめて、この光景を、理不尽に蹂躙された村人たちの魂が見ていればいいと思う。ほんのわずかでも、その無念を慰めることになれば、この賊共の死にも意味は生まれるだろう。


 目を閉じ、村人たちの魂が導かれることを祈る。

 短い祈りを終えて目を開けると、軽やかな馬蹄の響きが近付いてきていた。

 視線を向けると、思った通りの人物が馬を進めている。


 「ヤルトミク殿」

 「ユーシン殿下、良い槍でしたな」


 声を掛けながら馬を寄せてきた隣国の王子の甲冑には、白銀の上に点々と赤い印が散っていた。それをユーシンは気にした様子はない。

 血と戦闘に猛り狂うこともなく、ユーシンは軽騎兵を預かる将として、非の打ちどころのない動きを見せていた。

 

 無理な突撃を繰り返し、敵を全滅させるが率いる部隊も壊滅する。


 そう伝え聞いていた「恐れを知れぬもの」の戦いぶりとはかけ離れ、ヤルトミクが知っているユーシンの槍捌きそのものだった。

 今も狂奔に囚われた様子はない。隣に馬を止めると、鮮やかに笑って口を開いた。

 この惨状を前に笑えるのは、それはそれで少しおかしいのかもしれないが、それならば自分も同じだ。


 「うむ。ヤルトミク殿。貴公にひとつ、頼みがあるのだが!」

 「ほう?如何なされた?」

 「貴公の双鞭、実に見事!ぜひ、手合わせを願いたい!」


 年の離れた従弟が、こんな顔で肩車を強請るな。

 そう思い出し、くすりと小さな笑みが漏れる。


 「是非にも。キリクの獅子の爪、受けてみとう御座る」

 「おお!では、後程!赤熊の剛力、実に楽しみだ!」


 更に輝いたユーシンの笑顔に、従う騎士らが動揺するのが伝わった。恐れ多いと叱るべきなのだろうが、これは致し方ないだろう。


 「ナランハル、参られました!」


 さて、どうするかと迷った数瞬に、その声が重なる。

 

 「ファン!」


 くるりと馬の首を返し、ユーシンが駆け去る。結局怒る時期は外れた。不問に処すことにしようと決め、ヤルトミクも馬の首を軽く叩く。


 掃討を行っていた騎士たちが、武器を収め整列を始める。

 その先にある無爪紅鴉旗の元へと、ヤルトミクは馬を進めた。

 

***


 「…っ!」


 浴びせられた声と、顔に掛けられた刺激にギメルは目を開けた。

 目に見えるのは、枯草と土。そして、靴。


 誰かが、己を地に転がし、見下ろしている。


 そのことに怒りがこみ上げ、喚きながら身を起そうとして…できなかった。

 何かが背に乗っている。手が動かない。脚も。


 動かないのは手も足も縛り上げられているからだと理解できたのは、喚き続けて息が続かなくなってからだった。


 はあはあと息と吐きつつ、目の前に立つものを睨みつける。

 

 淡い金色の髪を、赤い布で飾る若い男。

 騎馬兵を引き連れ、ギメルを釣った男。


 それを認識した瞬間、心臓が凍えた。


 動けない。縛られている。見下ろされている。

 つまり。


 己は、捕らえられた。


 「わ、わたしは!!」


 どんどんと煩い鼓動を押しやるように叫ぶ。

 アスランについて、いくつかは知っていた。

 実力主義を掲げており、身分や人種、出身国に関らず、有能なものは取り立てられる。

 それは、敗軍の将ですら適応されるはずだ。善く戦った将を、アスラン軍は憎まず投降すれば丁重に扱う、と。


 つい先ほど、「生まれだけで優遇される貴族の若造」を嘲り、罵ったことをギメルの記憶には残っていない。全力でその知識にすがった。


 「わたしは、アスラン軍に投降する!今後は、アスラン王に仕えよう!」


 震える口を持ち上げ、なんとか笑みを作った。この若造がどれほどの身分かはわからないが、一軍を率いれるならば投降を受け入れ、推挙するくらいはできるだろう。

 

 「このギメルは、人を殺すことは何とも思わないものだ!必ず戦で役に立つ!必ずだ!アスラン王が軍を興し、西方諸国を併呑する際には、先導しても良い!」


 そうだ、己にはできる。裏切り者と罵られようとも、気にも留めずに故郷を蹂躙することが。


 「アスラン軍は戦士を拒まないと聞く!だから…」

 「確かに、アスランは戦士を拒まない」


 なおも言いつのろうとする声を遮られ、咄嗟に怒りが顔を覆うが、それを慌てて押し込めて笑みを作る。

 

 その歪な表情を見下ろしながら、ファンは吐き気を堪えた。

 

 人を殺すことを何とも思わない。

 それのどこが、誇らしげに言う事なのか。

 

 なおも言い募ろうとする声を遮ったのは、これ以上聞きたくないからだ。

 突然襲われ、全てを奪われた村人たちを穢すような言葉を、聞きたくなかった。


 「だが、お前は戦士ではない。ただの…ただの愚者だ」


 クソだ、と言い掛けたのを飲み込み、相応しい言葉を探して、出てきたのはそれだった。

 ギメルの顔が赤黒く染まる。命乞いをする相手にすら、罵られれば我慢できないのだろう。まるで癇癪を起こした子供だ。いや、子供だってこの状況なら堪える。

 

 「お前は戦士と言うが、戦っていない。ただ、誰でもできるが決してやらない事をやって、得意になっているだけだ。

 糞の山に飛び込んで、誰にも真似できないだろうと誇ることを勇気とは言わない」


 ギメルの顔はさらに赤くなり、見開いた目は飛び出しそうなほどだ。

 ついに我慢できなくなったのか、喘ぐように息を吸い込み、何かを叫ぼうとする。


 「黙れ。ナランハルは発言を許していない」


 その赤く染まった顔を、容赦なくクロムの靴が蹴り上げた。

 殺さないように十分手加減した一蹴ではあったが、歯が折れ、むせて吐き出された空気と共に零れる。

 

 「お前は、ここでは殺さない。聖王陛下に引き渡し、アステリアの法にて裁かれるがいい」


 痛みと出血にまともに呼吸ができず、背を振るわすギメルの顔が弾かれたように上向いた。

 その目に怒りを押しのけて広がるのは、雪崩れ落ちてきそうな、恐怖。


 「そな…いや、いやだ…たすけて、ゆるして、ください…役立つ、かならず、だから、だから…ああ、お願いします!!」


 首を振り、歯の抜けた口を必死で歪ませ、ギメルは縋る。

 彼が刑場へ胸を張って進もうと言い放ったのは、僅かに五日ほど前。

 それをファンもクロムも知らない。

 後ろに控え、こめかみに血管を浮き出させるヤルトミクも、うんざりした顔を隠せない騎士たちも知らない。


 だが、知らなくても、その命乞いが醜悪なことに変わりはなかった。


 「連れていけ」

 「御意」


 背を踏んでいた騎士が屈み、縛られていた足を掴んだ。そのまま、一礼して引き摺って行く。


 「いやあ、いやだああああ!!たすけてええええ!!!ああ、あああああああ!!」


 声は止まらず、再び馬に積まれ、運ばれて通り過ぎていくまで、尾を引いていた。


 「いやはや。みっともないものですなあ」


 その不快な残響を押しのけて、耳障りは良くないがそれよりはましな声が掛けられる。

 

 「あ、ウー老師。来たんですか」

 「目も覚めまして、朝餉も食いましたからな」

 

 髭をしごきながら、ウー老師は騎士たちが後始末を続ける荒野を見渡した。

 残骸を土ごと掘り返し、近くにあった大きめの泥炭池に放り込む。原型をとどめているものは草を払った場所に積まれ、燃えにくい装備をはがされていく。

 その作業を黙々と、騎士たちは行っていた。不快な作業ではあるが、不満は口に出さない。必要なことであるのなら、何も言わずに行うのがアスランの男だと叩き込まれている。


 「ふむ。目標は成せたようですな」

 「万が一取りこぼしがいたとしても、十にも満たぬだろう。念のため、竜騎士が上空から捜索しているが、報告はないな」


 ヤルトミクの言葉に、ウー老師は重々しく頷いた。あとは兄上に「ウー老師のおかげで助かった」と伝えていただくだけだ。

 

 「さて、早くバルト陛下に報せなきゃな。まだ進軍してないなら、止められるかも」

 「あいや、それはお待ちなされ」

 「え?」


 進軍が始まれば「やっぱりなしで」は言いにくい。始まる前に中止できればそれに越したことはないだろうが、軍師は首を振る。


 「これは、アステリアにとっても良い経験を得る機会に御座る。進ませた方がよろしい」

 「なんでだよ。確かに、冒険者は後金取りはぐれるから文句が出るだろうが」

 「アステリアの初動が遅いのは、宰相が異を唱えるからであり、そもそも兵が少なすぎるからよ」


 訝し気なファンとクロムに、ぬふふ、とウー老師は笑って見せた。この辺りは二人の…いや、首を同じく傾げるヤルトミクもそうであるし、アスラン自体の経験の無さと言える。

 地方領主が賊となり村を襲い、今も包囲を続けているなどと聞いて、出陣に異を唱えるようなものはアスランにはいない。速やかにその地方の総督が出陣を命じ、地方軍が駆け付ける。

 そもそも王に判断を仰ぐほどの規模ではない。アスラン王がそれを知るのは、討伐が終わった結果の報告を受けた時だろう。


 つまり、彼らには「兵をかき集めなければならない」経験もなければ、「正当な出陣」を邪魔されることもない。アスラン軍が強大無比であるからこそ、思いつかないことだ。


 「今後も、同じことがおきんとは限らん。まあ、これほどの阿呆はそうはいないであろうし、今回のことでいたとしても牽制にはなるじゃろが…。

 が、同じことが起きた時、アスラン軍が近くにいるとは限りませんでな」

 「今回は…兄貴の過保護のおかげだしね」

 「左様左様。そも、毎回アスラン軍が尻を拭くのであれば、この国はもはや独立国とは言えますまい。

 では、いざ有事が起こった際にはどういたすか。

 冒険者と言う常在しつつも浮いている戦力を軍と成す、と言うのは、この国にとって最適解でありましょうや」


 急な徴兵は難航するものだ。武器を握ったこともなく、野宿の経験もないようなものを兵に仕立て上げなくてはならないのだから、当然だろう。

 それに対し、冒険者は常日頃から武装し、野宿にも慣れている。長距離を歩くことも問題がない。

 そしてギルドを通し、緊急クエストという形で、僅か一日もかからず十分な人数を集めることが出来た。


 この経験は、実践が伴わなかったとしても無駄ではない。

 むしろ、その先へ進めるべきだ。


 「これは、一種の行軍訓練と思えばよろしい。どれほどの速度で動くことが出来、糧食は如何ほど必要となるか。結果を見れば、麗しのウルガ殿なれば今後の糧とできましょうぞ」

 「なるほど…」

 「まあ、これが餌で、聖王が釣りだされたのであれば話は別ですがな。それでも、王都には正規軍が残っておる。壮大な釣りを仕掛けられるような者がおるのであれば、正規軍が残り、餌が狙っていない魚に食われた時点で手を引きましょう」


 それを思いつけ、実行できる程度の能力の持ち主なら、負けが確定しているのにさらに自分の首も差し出すような真似はするまい。

 

 「まあ、あと三日ばかりしたら、戦勝の報告を出せばよろしい。なあに、親衛隊ケシクが動いたことが伝わっていれば、バルト陛下の御心は平らかでありましょうや」


 このアステリア聖王国で、誰よりもアスラン王国の戦力を正確に把握しているのは、聖王バルトとその参謀。

 知己知彼(敵を知り己を知れば)百戦(百戦するも)不殆(あやうからず)

 先達の残した言葉は正しい。

 たとえ国が違っても、世界が違っても、人が違っていても通じる真理だ。

 そしてそれが出来ることが、名将の条件のひとつであると言うことも不変。


 聖王は政治力はどうあれ、名将である。親衛隊が動いたという情報を得た時点で、勝利は確信しているはず。それでも軍を動かしているのなら、行軍訓練としての貴重さに気付いているからだろう。

 

 「ま、あとは…この国のことはこの国のものに任せましょう。いい加減若君が戻られぬと、星竜君が『若君のようなモノ』を完成させてしまいそうですしなあ」

 「だからそれ、なんなの…怖いんだけど」

 

 ようやく、強張った顔に苦笑とは言え笑みを浮かべたファンに、ウー老師は首を振って見せた。


 「末将の智謀は、未知なるものの究明に在るものではござりませぬ故…むしろ、若君の分野なのでは?」

 「博物学は自然にあるものを分類する学問で、無理やり生み出した何かを調べる学問じゃないよ…」


 溜息と共に吐き出された言葉に、騎士たちから笑いが起きる。

 その、ここにはいない一太子の兄馬鹿に呆れた笑いが、「灰色丘陵討滅戦」の終わりを告げた。


***


 「あ、なにあれなにあれ!」

 「ん?」


 仲間の指さす先を、冒険者は目を細めて見た。

 騎士の家に生まれ、騎士にならずに冒険者として野を馳せる青年が、東を目指し始めてから今日で三日目。緊急クエストを受注してからは五日が経過している。


 軍に交じっての行軍は、初めての経験だ。しかし、騎士の家に生まれたからには、どれくらいで進めるものなのかはなんとなく理解している。

 その予想よりは、だいぶん早い。進軍を遅くする完全武装の騎士がほぼおらず、健脚の冒険者が主体になっているからだろう。

 クローヴィン地方へ行ったことのあるやつの話では、明後日の昼前には到着するんじゃないか、とのことだった。


 ずいぶん早いが、囲まれている神殿や村にとっては遅すぎるだろう。

 特に、襲撃された村が無事であるとは、いくら楽観的な彼でも思えなかった。

 逆に言えば、もう手遅れだと判断したからこそ…バルト陛下は無理のない進軍速度を保っているのかもしれない。


 「鳥…じゃねぇよな?でかすぎる。おい、ちょっと上るぜ。ベルド」

 「って、おい!」


 言うなり斥候は、軽い身のこなしで背負う荷物に足を掛けた。途端に人一人分の重みが肩にのしかかる。

 頭目の両肩に足を乗せ、斥候は高所を手に入れて「あれ」と騒がれたものを見つめた。


 「すげ…飛竜だ。たぶん」

 「マジか!」

 「ちょ、揺らすな!あぶねっ!」


 飛竜!

 その名は、何度か聞いたことがある。異国の騎士が跨る、空を往く優美な生き物。


 「前行こうぜ!前!」

 「飛竜なら、アスラン王国の方ですね」


 騒ぐベルドを、神官がやんわりと止める。女神アスターに仕えるこの一見優男は、パーティの誰よりも怪力だ。先ほど斥候がよじ登った背嚢を掴まれて、ぐえっと声が出た。

 

 「あ、ファンちゃんの言ってたアスラン軍かあ!助けに来てくれたんだね!」

 「だろうなあ。まあ、俺も飛竜みたいし、前行こうぜ」


 軽い音を立てて着地した斥候が、聖王とその近衛騎士の方を示す。

 飛竜は聖王から少し離れた地点に着地していた。


 「あたしも!」

 「竜騎士さん、かっこいいかな!!かな!」

 「ふむ…好奇心は女神も咎めておりませんし、行きますか」

 「おっしゃ!!」


 ようやくつかんだ手が離れ、ベルドは興奮に鼻息を荒くしながら先へ進んだ。

 同じように前に出て、飛竜をもっとしっかり見たいと騒ぐ冒険者が三分の一、これ幸いにと腰を下ろし、息を吐く冒険者が半分。

 そして残りは、忌々しそうな視線を向けていた。


 「はー、何の信念か知らねぇが、飛竜見てはしゃげねぇってのは大変だね」

 「だよな。あー、くそ、かっこいいぜ!」


 流石に触れそうなほどは近寄れないが、じっくりと見ることが出来る位置まで踏み出して、ベルドは目を輝かせた。

 

 優美に掲げられた長い首。巨大な翼。長い尾。

 綺麗な生き物だ。さらに、あの背に乗って空を往くことが出来るなんて。


 「男の浪漫だよなあ!!」

 「アスランの竜騎士って、半分くらいは女の人らしいよ?」

 「じゃあ、人類の浪漫だ!これで文句ねぇな!」


 浪漫を感じて何が悪い。自分が騎士ではなく冒険者を志したのは、「冒険」の方が「騎士道」より浪漫だと思ったからだ。

 実際には、語られ続ける冒険譚よりも地味でみっともないことばかりだけれど、それでも冒険者になったことは後悔していない。

 なんたって、こうして「浪漫」を目の当たりにできるのだから。


 当然、飛竜の背には竜騎士がいる。

 その顔は兜で見えないが、女性陣は「絶対イケメン」と鼻息が荒い。

 下馬…下竜?しないのは、戦中だからか。それとも、簡単には立ち上がれないからだろうか。鞍に身体を固定しなければ、さすがに危ないだろう。


 そんなことを考えていると、くるりとバルト陛下が馬首を返した。ベルドも含め、はしゃいでいた冒険者たちの背筋が伸びる。


 「冒険者諸君」


 よくとおる声は力強い。

 行軍中、何度も聖王は冒険者たちへと馬を寄せ、ねぎらいの言葉を掛け、時には雑談に興じた。

 元々、一部を除いて冒険者は聖王支持である。20年前の内乱を勝利した英雄だ、と言うだけでも、強さを尊ぶ冒険者には受けがいい。

 さらにこの三日で、その気さくで偉ぶらない性格は冒険者たちの心をつかんでいた。無論、ベルドらもである。

 そのバルト陛下の言葉だ。傲岸不遜な冒険者どもが清聴の姿勢をとっても、おかしなことではない。

 

 「喜ばしい知らせだ。国境にて訓練を行っていたアスラン王国軍が、救援要請に応え出陣、見事賊共を打ち破り、神殿は無事とのことだ!」


 その声に、無駄足を踏まされたという苛立ちはなく、ただ民が救われたことへの喜びがある。


 「だが、神殿側の村が一つ…蹂躙されてしまった。その調査と賊の首魁を引き取るべく、このまま我々は進軍を続ける。

 しかし、冒険者諸君はこの場で依頼完了として引き返しても構わない。

 同行してもらった場合には、賊の討滅ではなく、村の被害の確認や…村人の埋葬が主な仕事となるだろう」


 ざわめきが走る。

 これで依頼完了と言うことは、ただ行って戻っただけで報酬がもらえると言うことだ。それは大変においしい。


 「どうする?ベルド」

 「そりゃ、先へ進むさ」


 けれど、仲間に進退を問われたベルドの答えは、明瞭だった。


 「…埋葬、あるんなら一人でも手があった方がいいだろ。村一つ分だぞ」

 「さんせーい。女手もあった方がいいよね」

 「そだね。…男の人が側にいたら駄目なこと、あるよね」

 「祈り手も、多い方がよいでしょう」


 仲間たちにも、迷いはない。

 いい仲間を持てた。これも浪漫だ。


 「おし。俺らは続行だな」

 「おう。半分くらいは残るんじゃねぇかな」


 斥候の予想は半ば外れた。

 休憩の後、進軍開始の号令に従ったのは全体の三分の二に達していた。案外残る奴が多いな、暇人ばっかだなと、予想をはずした言い訳をしているが、どことなく嬉しそうだ。


 「ん…?」

 「どうした?」

 「いや、アイツ、たしか白い炎のやつだよな。全員残るわけじゃないのか」


 斥候が視線で示すのは、馬に荷を積んで街道にとどまる男。

 

 「あいつ、そうなのか?よく知ってるな」

 「なんか、うさんくせぇ奴だと思ってたからさ。斥候じゃなくて弓手って言うわりにゃ、弓がちゃちいし」


 白い炎。アステリアの冒険者ギルドでも高名な一団であり、なにかときな臭い連中だ。強引な方法で仲間を集め、平然と人を陥れる。

 何よりベルドが気に食わないのは、リーダーがそれを「良い事」と思っていることだ。


 実力者が劣ったものに付き合わされ、腐っていくのは耐えられない。だから、実力を発揮できる我が団に迎えただけだ。

 

 強引な勧誘を咎められたとき、そう言ってのけたのを覚えている。

 幸いと言うかなんというか、ベルド自身もパーティメンバーも、奴の目に留まるような「実力者」ではないから被害はなかったが。


 実際、元のパーティにいた時は聞いたこともないような奴が、白い炎に移ってからは名が知られるようになった…と言うのも確かにある。

 だが、気に食わない。ベルドに気にいられるかどうかなど、足元に転がる落ち葉ほどもどうでも良いものなのだろうけれど。


 「あの坊ちゃん、差し出がましくギルドへ『報告』するのかもしれないな」


 王都への伝令を出すのなら、聖王が判断することだろう。

 それを一介の冒険者がやってしまうのは越権と言える。

 

 「あ、ちょーやりそう」


 同じ貴族出身のカティが、顔を顰めて頷いた。


 「めっちゃ、陛下に話しかけたりしてたしね。もう、冒険者代表気どりよね」

 「ま、いいさ。勝手にやってろ、だ」


 向こうがベルドをどうでもよく思っているように、ベルドだってその動向について気にする必要もない。出過ぎた真似を!と怒られるなら、ざまあみろ!だ。


 それよりも、視線は舞い上がる飛竜に注がれる。


 晴れ渡った秋空へ、飛竜は吸い込まれるように飛び上がり、翼をはためかせて飛んでいく。

 その美しい姿に比べたら、離脱者なんでまさにどうでも良いことだ。


 この時は、まだ。

 そう思っていた。 

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 良い結末。と、思ったらもう一波乱ありそうですね。 次回更新が、楽しみです。
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