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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
12/87

蛇のまだらは皮に、人のまだらは心に(人は見かけによらぬもの)6

 「殲滅を行う。皆、そのつもりでいてくれ」


 低く、抑え込まれた声。

 それでも、震えはなく、迷いもない。


 ウー老師は、顎髭を撫でながら星竜君あるじの弟を眺めた。

 星竜君と同じ髪色、瞳の色。

 ありふれた色に思えるが、実際に同じ色を持つのは血の濃い親族のみ。

 だからこそ、黄金の血統の証明として尊ばれている色。


 だが、その金の色よりもなお強く、おなじ血に連なるものだと証明するのは、この意志だ。

 

 敵は斃す。

 実に明瞭な、判断基準。たとえ他国であろうとも揺らがない。


 この判断の速さを、冷酷非情と罵る者もいる。

 それをファンは否定しないだろう。強欲で傲慢と神様にだって言われてるんだから、と笑う。

 だが、ぐずぐずと敵にも家族が…などと悩んでいるうちに機を失うよりも、よほど好ましい。

 

 ファンは己の主ではない。だが、その勝利を支えたいと思えるほどには良い将だ。

 なにより、その勝利を主は心より喜び、貢献すれば己にもお褒めの言葉の一つや二つ、いただけるであろうと言うもの。


 「さて、ではそれにあたり、困難の種となることがございますな」


 髭をしごきながら、口を開く。

 献策と言うほどのことではないが、力任せにぶんなぐって終わりました、では己の立つ瀬がない。

 ウー老師のおかげで助かったよ、と兄上に伝えていただけなくては困るのだ。

 

 「困難…?それほどまでに賊は強大なのか?」


 厳つい顔に困惑を浮かべ、ヤルトミクが問うた。

 紅鴉親衛隊…その中でもこのクリエンは、最精鋭が集められた軍だ。

 苦戦するとすれば、相手はよほどの敵である。だが、報告から見えてくるのは少々規模が大きいだけの賊。困惑もする。


 「逆に御座るよ。将軍。矮小かつ弱小。本来なら地方軍の百人隊で十分な相手ぞ」

 「じゃあ、何が駄目なのぅ?」


 質問と言うより、口から思わず出た疑問だったのだろう。声に出してから、ヤクモはあわあわと落ち着かない様子を見せ、なんでもないです、と付け足した。

 

 「よいよい、どうせシギクトあたりは同じこと思っておる」

 「まあー、思ってまーすねー。多い方がー、困る事なんてあるんですかー?」

 「賊めがどこかに立て籠もり、此方が攻め手であれば問題はない。だがのう、野戦の上に、地の利はどちらにもない」

 「物語とかでよくある、大軍をすっごい作戦でやっつけちゃう!みたいなことができちゃうとか?」


 今度ははっきりと出された質問に、ウー老師は首を振った。

 

 「それを成すには、色々とたらんがな。数に勝り、練度に勝り、士気に勝る軍を破るなど、不可能不可能。せめて一つは勝らんと、そも戦にならん」

 「じゃあー、何が駄目ーなんですー?」

 「その戦にならんところよ」


 全員騎兵か竜騎兵で構成された精鋭軍に、碌な装備もなく傭兵とは名ばかりの破落戸ごろつき主体の軍が勝てるはずがない。

 まともな戦闘になったら、むしろ善戦したと褒められるほどだ。

 

 「シギクト、お前さん、自軍の五倍はいる精鋭軍と対峙したら、まずどうする?」

 「逃げまーす」

 「なるほど」


 得心した、とヤルトミクは膝を打った。

 

 「あたる前から逃げられる、と言う事か」

 「左様左様。こちらは千、あちらは…精々百七十かそこらというところか。もう少し逃げたかもしれんが…。

 さらに地形も少々厄介よ。丘陵が続く故、見通しが悪い。どうやら、泥炭の沼も点在しとるらしい。馬上射撃で一掃するのは難しいであろうなあ」

 「しかも、逃げれば賊と化し、民に災いをもたらす、か」


 一度、奪うことを覚えた輩が、怖い目にあったと逃げ散った後、まっとうに働いて金を稼ぎ、生きることが出来るかと言えば…答えは否だ。

 一人二人ならば、荒野が飲み込んでくれるだろう。しかし、十人二十人と生き延びれば、その数を頼みに再び略奪を行う。

 

 そうなれば、この戦、ファンの負けだ。

 いくら本隊を蹴散らし、敵将の首級を上げたところで、負けだ。

 残党狩りをやってくる援軍に任すこともできるが、それでも半数以上はこの一戦で潰さなくてはならないだろう。


 通常、敵兵の二割も減らせば戦は勝ちと言える。

 しかし、この一戦においては最低五割。目指す目標は、殲滅。


 開けた平原ならば、アスラン得意の弓騎兵による斉射で済む。

 だが丘陵地帯ではそれも難しい。数の差から言えば、一人ずつ追いかけて殺すことも不可能ではないが、それもまずは接敵してからだ。

 こちらの陣容を見た瞬間、てんでばらばらに逃げられれば、さすがに厳しい。


 「うん。だから、釣ろうと思う」


 ファンの言葉に、クロムとミクは目を見開き、ユーシンは頷き、ヤクモは首を傾げた。「魚釣り?なわけないか…」と呟いている。

 

 「…まさかとは思うが」

 「ナランハル。御身をもって、とは言いますまいな?」

 「俺がやる!俺なら文句はないだろう!」


 三人の言葉に、ファンは視線を絨毯に這わせ…それから持ち上げた。

 満月色の双眸に見据えられ、ヤルトミクの開きかけた口が閉じる。


 「ま、餌は美味なれば美味ほど食いつきもいい。若君の御顔はあちらに見せたのでしたな?」

 「まあ、さすがにアスランの王子とは思っていないだろうけどね」


 それでも、神殿を開門させる策をつぶした、突如現れたアスラン人。

 アステリア人なら…特に、選民思想の強い貴族なら、アスラン人と言うだけで敵愾心を煽られるはずだ。

 そして、竜騎士が地に降り、「馬に跨っている」と言う状況そのものが、餌にできる。


 あれは空から一方的に攻撃されたからやられたのだ、地上にいるなら勝てる、と言う甘い考えを誘発できるうえに、「捕らえて飛竜を差し出させれば、自分も竜騎士になれる」という欲すら引き摺りだせるだろう。


 アスランの竜騎士の名は、大陸交易路を行き交う商人や旅人によって広められていた。

 空を往き、風の波に乗る騎士。その姿に憧れ、アスランを目指す者もいる。

 紅鴉親衛隊のエリオのように、まっとうに竜騎士を志し、志願するならいい。だが、そうではなく、飛竜だけ手に入れれば自分も竜騎士となれると勘違いする者は後を絶たない。

 

 飛竜は本来、家畜ではない。

 馬のように御することも、犬のように躾けることもできない生き物だ。


 だが、鳥の性質を持つ飛竜は、生まれて初めて見たものを無条件に受け入れる。

 そしてその後、親鳥のように愛情を注ぎ、五年以上の歳月をかけることで、ようやくその背に跨ることが許されるのだ。

 

 しかし、その事実を知らない…知ろうともしない輩により、飛竜にはとんでもない値段が付く。

 戦争ごっこがお望みの貴族のバカ息子なら、値段を聞いたことくらいあるだろう。


 どちらにせよ、「馬に乗ったアスラン騎兵」と言う、追いつけるはずもない存在を追いかけようと思う程度には、美味な餌となるはずだ。


 「白樺を辿れば泥炭の沼に嵌らない、って聞いた。あちらもそれを知っているし、間違いなくその道を来るだろう」

 

 もう視線を逸らすことはせず、ファンは言葉を続ける。

 まっすぐに背を伸ばし、強い感情は籠らずとも、譲る気はないと告げる双眸で仲間たちを見つめて。

 

 「敵は、少数の騎兵と大多数の歩兵だ。まずは騎兵と歩兵を切り離す」

 「まあ、妥当ですな。指揮官は騎兵でありましょうから、切り離した歩兵は途端に軍ではなくただの群れと化しまする」

 「おい、まて。ファンが釣る前提で話すんじゃない」

 

 クロムの抗議に、ウー老師は片眉だけ吊り上げた。

 

 「クロム。おぬしは、若君がただ馬に乗れるだけの雑兵に追いつかれると?」

 「…う」


 実際、適材適所として考えるなら、ファンが敵を釣り上げ、分断したところでユーシンとヤルトミクが率いる部隊が轢き潰すのが最適解だ。


 馬を早く駆けさせられるだけが馬術ではない。

 相手が追いつけそうで決して追いつけない速度を保ち、目的地まで誘退する。それは、彼我の技術に相当の差がなくてはならない。

 ファンならば問題なくこなせるだろう。


 翻って、敵の殲滅の為に突撃を敢行する将としては、いささか頼りないのもまた事実。

 

 己が主を評するなら、ウー老師は「不世出の将、常勝将軍」と評する。勝機を読むこと、漁師が潮目を読むが如く。そこに書いてあるかのように僅かな好機を捉え、確実に勝利を掴む。

 

 本人も良く言っているが、そうした真似はファンにはできない。

 一度決意すれば、敵に情けをかけることなどありえないが、相手方の兵を蹴散らし、敵将を一騎打ちで仕留める…とはいかない。

 特に近接武器の扱いにかけては、この軍の中でも最底辺だろう。文官のシギクトといい勝負ができるほどの腕前だ。まともに一合打ち合えれば、喝采が起こる。

 素手の白打くみうちならばヤルトミクとも渡り合えると言うのに、槍か剣を持たせると途端に弱体化するのは、逆に器用だとすら思えるが…本人曰く、武器に意識が行き過ぎて、どう動かしていいのかわからなくなるらしい。

 

 かと言って、それでファンを「無能」と評するのはあまりにも愚かだ。

 竜と馬を比べて、馬に「火も吐けない、飛べないお前は無能だ」と罵るようなもの。

 馬の中で見るならば、十分に駿馬である。明日、賊共はそれを思い知るだろう。


 それは、クロムはもちろん、ヤルトミクもよくわかっている。

 だが、おいそれと頷けないのは、やはり釣り役は危険だからだ。

 矢を射かけられたら、それがとんでもない風に乗り、ファンを貫かないとは限らない。


 「ひとつ、良いか」


 沈黙を破ったのは、ガラテアの透き通った声だった。

 佳人は声も善い、と内心に呟く。口に出したら今度こそ首の骨を折られそうなので黙っていたが。

 しかし、ただ褒めているだけで、悪口でもないんでもないと思うのだが?

 同僚にそう愚痴れば、「せんせーだからだよお」と返ってくるであろう疑問を抱えつつ、無言で手を差し伸べ、続きを促す。


 「釣る、とは、お前が囮になり、敵をひきつける、と言うことでよいのだろうか?」

 「あってるよ。ひきつけると言うか、こっちが待ち伏せしているところまで引っ張っていくってことだね」

 

 ふむ、とガラテアが頷く。さらりと赤い髪が流れ、微かに芳香が漂ったような気がする。こっそり鼻で大きく息を吸い込み、ウー老師は髭を擦った。


 「大変に危険な役割と思う。何故、王族のお前がする?」

 「俺は一軍貰っても、ミクやユーシン程にはうまく扱えないからね。餌くらいはやるさ。アスランの王族が、部下に戦闘だけ命じて自分は後ろに引っ込んでるなんて無様を晒したら、ご先祖様に一晩中説教だよ」

 「王族とは、そういうものだと思うが?」

 「うーん、なんていうか、適材適所、かな。

 親父や兄貴なら陣頭に立って直接指揮するし、祖父ちゃんは本陣でひっきりなしに届く報告を全て捌いて、その場にいるかのように指揮したらしい。ひいばあちゃんは後方の陣地にいるだけで、全ての将兵が奮い立ったって話だ。

 で、俺に何ができるかって言えば、この一戦に関しては釣り役」


 ぐるりと仲間たちを見渡し、ファンは言葉を続けた。


 「なんたって、馬術と騎乗射撃に限って言うなら、今、この場にいる誰にも負けるつもりはないからさ」


 得意料理を語るかのように言い切って、にっこりと笑う。


 聞きようによっては、いや、彼をよく知らないものが聞けば、過大評価だ、傲岸不遜だと罵られるような宣言だ。

 「恐れを知れぬもの」と呼ばれ、敵味方に畏れられるユーシン、名門の出身で、その血に恥じぬ武勇を発揮する千人将ヤルトミクの前での言葉なのだから。


 だが、言われた本人たちの反応は、怒りでも不快感の発露でもない。


 ユーシンは「それもそうか!」と朗らかに言って頷き、ヤルトミクは巨大な拳で目許をぬぐう。そんな義兄を、シギクトが「またか」と言う顔で見ていた。


 もう一人、反対をしていたクロムは、主の言葉に表情を消している。

 いつもの不敵な気配も消し去り、年相応の、まだ十代の若さそのものの顔で、ぽかんと。

 それから、数度の瞬きを経て…口の端が持ち上がった。

 おそらく、本人は自分が今、内心を隠しきれずにいることに気付いていないだろう。

 

 主にどこに惚れこむかと言うのは、千差万別だ。

 ウー老師は、その才覚はもとより、若さに惚れこんでいる。

 老齢の主の死が、己の死に繋がるような事は一度で十分だ。

 

 そしてクロムは、ウー老師が見たところ、主の不遜さに惚れこんでいる。

 時には卑屈に見える程に、普段は一歩も二歩もファンは譲る。だからこそ侮られることもあるのだが、それを気にした様子もない。

 だが。

 これ以上退けぬ時には、ウー老師でさえ驚くほどの強さを見せる。


 「諦めろ」と言う声を強固に拒み、僅かな可能性と勝機に手を伸ばす。

 それが己を案じる故のものであったとしても、払いのけ、さらにその先へと。

 待ち構えるのが、どれほどの艱難辛苦であろうとも。

 

 それを強さと見るか、狂気と見るかは、これもまた千差万別だろう。


 だが、星竜君は強さと見ている。ならば己もそれに習うだけだ。

 第一、己が命や誇りを、誰かに「諦めろ」と言われて差し出すような輩に、守護者スレンの主たる資格はない。

 

 自分の口許が緩んでいることに気付いたらしいクロムは、闇雲に舌打ちを繰り返し、必要以上に眉を吊り上げた。

 大人たちの温い視線に、ぎりりと音がしそうな視線を向ける。


 「…俺はお前から離れんぞ。馬鹿のお守りをしろなんて言ったら、いくらお前でも許さないからな」

 「よし、決まりだな」


 ファンの視線がウー老師に向く。


 「老師。以上を踏まえて、配置はどうします?」

 「もはや末将が同行する必要もないように思えまするが…まあ、そうですな」

 

 酒杯を持ち上げ、ウー老師も笑った。

 ファンのそれと比べなくても、「にたり」としか表現できないような、底意地の悪さを露呈する笑み。

 

 「たまには基本に立ち戻り、おさらいするのも良い試みでござりましょうや」


***


 幽かな物音に、ヤクモは薄眼を開ける。


 昨日、軍議…とは言えないとウー老師は言っていたが…の後、自己紹介とおしゃべりをして、茶と酒が尽きたころに解散となった。

 

 入浴は如何がしますかと問われ、ファンはかなり迷ったものの…戦を終えてからと断っていた。それならばと持ち込まれた大きな盥に汲まれたお湯を使って身体を拭き、たぶんいつもより早く、寝床に潜り込む。


 寝床と言っても、ベッドなどはない。

 大きな四角い袋に羊の毛を詰めたものを敷いて、その上に毛布を何枚も重ねて潜り込む。

 最初は、床に直接寝ているようで落ち着かないなあと思ったのだが。

 潜り込めば、安宿のきしんだ寝台などよりよほど心地よく身体を受け止め…

 

 そして、幽かな物音で目を覚ますまで、滑り込むように寝入っていた。


 「う…ファン…?おはよお~」

 「おはよう。よく眠れたか?」

 「うん。すっごい寝た。この中めっちゃくちゃ気持ちいい」


 最後に身体に触れる毛布は、ふんわりと柔らかく暖かく、できることなら裸になって包まれたいと思うほど。

 もっともそんなことをしたら、毎朝の起床は一大決心を必要としそうだが。


 「手袋と同じ、絹毛山羊の毛で作られた毛布だよ。軽くて暖かい」

 「そっかあ…」


 天井の中心部、煙突が突き出る周りだけ覆う布が違っているようだ。薄い明かりが透過して、室内をか細く照らしている。

 まだ、夜明けから時間がたっていないのだろう。差し込む光の色は白く、月光よりも頼りない。


 その光に照らされて、ファンが座っている。

 来ていた服を脱ぎ、纏っていくのは、ヤクモにはなじみのない服だ。

 

 黒を基調とした、立襟の服。袷は正面ではなく左側にあり、釦ではなく紐で留まっている。頼りない朝の光でも輝くのは、銀糸で刺繍がされているからだろう。

 描かれているのは、翼を広げた鴉。その頭の先から背中までだけは、深紅で彩られている。

 

 「クロムとユーシンは?」


 毛布に潜り込んですぐのころ、ここで寝ようとしたウー老師をクロムが引き摺りだしていたような気がするが…はっきりとした記憶はない。

 室内を見渡しても、二人の姿はないようだった。


 「馬を曳きに行ってる」

 「そか…あのさあ。ファン…ぼく、やっぱり留守番?」


 昨日、そう指示はされた。

 それは仕方がないことだと思う。馬にまともに乗れない人間が、騎馬隊についていくことはできない。

 

 わかってはいるが…自分の無力がやるせなかった。


 「うん。本陣を頼む」

 

 ファンの返答に迷いはなく、ヤクモへの負い目も感じられない。

 

 「言っとくけど、本陣守備は信用できる相手にしか任せられないんだからな。まず間違いなく俺たちが抜かれて、本陣に攻め込まれることはないけれど…別動隊がいた場合、とにかくウー老師を守って離脱してくれ」

 「いんの?」

 「あまりにも相手の動きが素人すぎて、逆に疑わしいってとこだな。そもそも挙兵の理由が無理がありすぎるし。何を考えてるんだかわからない相手は、怖い」

 

 本陣に残るのは、シギクトら文官数人と、十人隊が二隊の三十人にも満たないそうだ。もしも別動隊が存在すれば、ひとたまりもない。


 「ウー老師は、兄貴に必要な人だし、アスランのこれからになくてはならない人だ。あんなんだけどな」

 「ファンのお兄さんって、何でもできる凄い人なんじゃないの?先生要るの?」


 それくらい強ければ、今、胸の奥でぐるぐるしている感情を抱くこともないだろうに。

 そう思っての呟きに、ファンは苦笑して首を振った。


 「兄貴は確かに人間離れしているけれど、何でもできる人じゃないよ。基本感覚で生きているから、文書にしたり人に説明するの苦手だし。

 ウー老師はその兄貴の感覚を言葉に直せる人だしな」

 「ばーんとやってどーんだ!みたいな?」

 「そそ。それを、前軍を引き摺りだしたのち、分断された後軍を攻撃、前軍に押し出して混乱させて一気に叩く、とかに翻訳できる」

 「それは大事だねぃ」

 「だろ?」


 くすくすと笑うと、まだ結われていない金の髪が揺れた。いつもは目覚めるとすぐに結っているが、今日は垂らされたままだ。

 

 「髪、結ばないの?…って、ぼくも起きなきゃね。がんばる」

 「水瓶は、入り口向かって左側にあるぞ。盥もあるから」


 盥、と聞いて、昨日疑問に思ったことを思い出した。

 いち、にの、さん!で毛布から抜け出し、その勢いのまま疑問を口に出す。何かで誤魔化さないと、僅かに毛布に触れている足先から、「二度寝しよう?」と囁きが聞こえそうだ。


 「そーいえばさ、昨日のお肉、盥に入ってたけど、そういうもんなの?」

 「塩煮は盥に水を張って、塩と肉を入れて炉にかけて作る料理だから」


 つまり、あの盥は食器であり鍋らしい。

 王族に饗される食事と思うとずいぶんな気もする。十分に美味だったし、思い返すと腹が空腹を訴えてくるが。

 ベッドでご飯は行儀悪い!と自分を叱り、だから起きてごはん食べるんだと、ふんわりと包むこむ毛布から足先を引きはがす。あまりの名残惜しさに、少々恐怖すら覚えた。

 

 「綺麗な食器に丁寧に盛り付けて食うようなもんじゃないから良いんだよ。第一、そんなふうにチマっと盛られてたら、クロムが盛大に怒るだろ」

 「ユーシンも暴れそうだしねえ」


 綺麗な食器に丁寧に盛り付けられた食事などヤクモも見たことがないが、話に聞くと巨大な皿の真ん中に、ちんまりと料理がのっかっていたりするらしい。

 あの二人がそんな量で満足するはずもないし、盥に山盛りを予想していたのなら、間違いなく暴れる。

 

 「大都だと、羊の塩煮をそうやって出す店もあるらしいけどな。好きにすりゃあいいとは思うけれど…なんか美味しさが三割減しそうだ」

 「王宮ファンのうちでも盥ででるの?」

 「家族で食べる時は鍋で煮れば足りるから、鍋で出てくるよ」

 「お皿に移さないの?」

 「その分皿が一枚汚れるからな。ただし、食べ途中の肉を鍋に戻したり、指を煮汁につけるのは厳禁だ。その汁を使って、翌朝の食事を作るから」

 

 それ、どんななの、と聞く前に、戸が開いた。

 ずいぶん日が昇ってきたらしく、入り口から差し込む光はまぶしい。

 

 「まだ布団の上かよ。寝坊助」

 「いつもはクロムのが遅いでしょー」


 口を尖らせて抗議してみたが、寝坊助なのは間違いない。まだ寝床に潜ったままだったら、相当弄られただろう。起きていて良かったと、こっそり胸をなでおろす。

 それを悟られないように、なるべく自然に立ち上がり、水瓶に向かって歩を進めた。素足で歩く絨毯は気持ちがいい。ついつい摺り足になってしまう。

 十歩ほどの摺り足の末に、たどり着いた水瓶の横にある真鍮製の盥に水を溜める。


 「柄杓かせ」

 「どーぞ。あと、おはよ」

 「うむ!おはようだ!」


 クロムに続いてユーシンが戸を潜り、元気のいい声が室内に響いた。

 昨日少し疲れた様子を見せていたが、たくさん食べてぐっすり寝た後まで響くほどの疲労ではなかったらしい。


 「うるせえよ、馬鹿」

 「いいから早く水を飲んで俺にも柄杓を回せ!のろまめ!」

 「あー。もう…朝から喧嘩すんなっての…」


 ファンの声に従った…と言うより、早く水が飲みたかったのだろう。汲んだ水を柄杓から直接咽喉に流し込む。

 ぷは、と息を継いでユーシンに柄杓を投げ、クロムは口許を拭った。

 

 「もう少し早く帰ってくるつもりだったんだがな。馬鹿が手合わせしろってうるせえから」

 「珍しいな。やったのか」

 「…おっさんたちが煩いんでな」

 「うむ!騎士らがこぞってクロムを応援していてな!それでは不公平だと、女官らは俺を応援してくれたが!」


 その光景が目に浮かんで、ヤクモはぐぎぎと唸った。


 「くっそう…おモテになって…!」

 「まあ、仕方ないと思うぞ?」

 「そいやさ、昨日足洗われてビックリしたね。ファン、いつもなら絶対自分でやるって言いそうなのに、おとなしく洗ってもらってたけど…」


 ヤクモ達の足を洗ってくれた女官たちは、なんというかとても楽しそうだった。一日動き回った男の足なんて、触りたくもないものだと思うのだけれど。

 それが仕事だと言うのなら、随分な気もする。


 「ああ…あれは、二つの意味があってな。まず、サラーナが俺の足を洗ってくれたのは、俺たちには長く不在だったり、出陣したりして帰ってきた家族の足を洗うって言う慣習があるんだよ。ちゃんと帰ってきたことを確かめるって意味を込めて」

 「そなの?」

 「俺も遠征から帰った兄貴の足を洗った事があるし、自宅に着いたら親父と兄貴が絶対に洗いに来る。片足は母さんが洗うとして、もう片足を奪い合ってケンカしなきゃいいんだけど…」

 「后妃ハトゥンがいりゃ、血は流れないんじゃないか?そうこうしている間に両足洗われそうだが」


 女性が必ず洗うと言うものでもないらしい。どうやら、親愛の表現のひとつのようだ。それも、奪い合うほどの。

 だが、それでも疑問は残る。ファンはわかるが、自分たちは?


 「でもさ、ぼくら家族じゃないよ?」

 「それはなあ…もう一つの意味の方でなあ…」

 「カーラン人は、素足を見らえるのを嫌うんだと」


 言い淀むファンに変わり、クロムが口の片端だけ持ち上げて続けた。


 「なんでも、尻丸出しにするより恥ずかしいらしい」

 「おしりのが恥ずかしいと思うけどねぃ」


 ヤクモのもっともな感想に、クロムは皮肉気な笑みを浮かべたまま肩を竦めた。「知るかよ」とでも言いたげな顔だが、その口から出たのは理由の説明だ。


 「で、なんでそんなに恥ずかしいのかってアスラン人は不思議に思う。で、男の素足を見りゃ、ぶらさげてるモンの格もわかるからだろって結論になってな。尻より恥ずかしいなら、そうなんだろうと」

 「へ?」

 「ま、因果関係はまったくないってわかっちゃいるが、女が男の足を見て騒ぐのはそういう事だ。要は雑魚かご立派様か値踏みされたってことだな」

 「知りたくなかったよその情報!」


 女官たちは、皆、可愛いか美人だった。若くて、良い香りがして、その手は柔らかかった。

 が、あの笑顔の裏でそんなことを考えられていたとは…。

 ヤクモは、女性とは結婚するまで男について何も知らず、未婚の男女は手を触れるのもはしたない、と言う価値観で育ってきている。

 それがあくまでも建前で、そうではないことはわかってはいるが、やはり女の子はそういう事を考えない…という幻想を捨てきれない。

 

 「アスランの女は強い。ギルドの女冒険者どもがお淑やかに見えるくらいにはな。お前も見てくれは悪くないんだから、お持ち帰りされないように気をつけろよ」

 「気をつけなきゃダメなの?!」

 「いや、そこまで積極的な人は…大都とかの街中じゃそんなにいないと思うけど…」

 「言い切ってよそこは!」


 逆に、街中じゃなければ攫われることもあると言う事なのか。

 そりゃあ女の子にきゃあきゃあ言われたくてたまらないが、女の子にきゃー!と言わされたいわけではない。


 「一人にならないように気を付けるね…」

 「うん。初めて行くところだから迷子になってもいけないしな」

 

 こくん、と頷いて、水がたまった盥に向き直る。よく見れば、底には可愛らしい花の模様が入っていた。

 花びらの形も、見たことがない花だ。枝も描かれているから、草ではないらしい。

 水に手を突けると、驚くほど冷たい。思い切って顔にその水をぶつければ、残っていた眠気が飛んで行った。


 「ヤクモの服は、寝床の横の包みに入ってるぞ」

 「持ってきた服はとっとくの?」

 「用意してくれたしなあ。なんか違和感あったら着替えてくれ」


 さらさらした手触りの布包みを解くと、折りたたまれた服が現れた。

 様式はファンと同じものだ。ただ、色合いは黒ではなく若草の色をしていた。


 「シャツの上から着ればいいの?」

 「上着の下に、白い柔らかい肌着があるだろ?それをまず着てからだな。シャツは昨日も着てたやつだし、洗おう」


 ファンの横に、昨日着て寝た服が畳まれて置いてある。さらにその横にある籠は、確か昨日脱いだ靴下を入れた籠だ。ヤクモのそれは剥ぎ取られた、だが。


 「さすがにここでお前が洗うなよ。サラーナさんの小言の嵐が来るぞ」

 「あ、洗わないさ…シャツとかは」

 「ぱんつは絶対に人に洗わせないよねえ。ファン」

 「なんか恥ずかしいじゃん。別に汚しちゃいないけど、繕うなとか怒られるし」

 「そもそも穴空いたら捨てろ!なんで繕ってまで履いてんだよ!」

 「履けるならいいじゃないか。勿体ない」


 その結果、ファンの下着は前衛的なデザインになっているが…本人が気分よく履いているなら、良いのだろう。

 一応、ヤクモ達の下着に穴が開けば、繕い三回目くらいで諦めてくれるし。


 「大都に戻ったら、お前の下着は全部捨てて一新するからな」

 「えええ!?まだ履けるぞ!」

 「そう思ってんのお前だけだよ!」

 「ファンの腰巻はどうでもよいが、腹が減った!飯は未だか!」


 わちゃわちゃとはじまったいつものやり取りを聞きながら、ヤクモは自分の胸の中の靄の正体を唐突に悟った。

 それは、ついていけない悔しさだと、そう思っていたが。


 「なんかさ、いつもと変わんないね」

 「そりゃあ、そうだろ。羊を食ったからと言って、いきなりこいつらがおとなしくなるわけがない」

 「そーじゃなくてさ」


 これから、仲間たちは戦に行く。

 戦力差は圧倒的に優位とは言え、戦は戦だ。何が起こるかわからない。

 相手も人で、武器を持っていて、殺す気でいる。そして、そんな「敵」である人を、「味方」たちは殺す気でいる。


 そんな場所に、仲間たちが往く。


 それがとてつもなく不安で、怖い。

 帰ってこないんじゃないか、怪我をするんじゃないか。

 そして、ヤクモの知るファンとクロムとユーシンとは、全く違う人になってしまうのではないか。

 冒険者の仲間たちではなく、アスランの王子とその騎士、そしてキリクの王子になってしまうのではないか。


 そして、自分は一人、置いていかれる。

 それが、どうしようもなく、怖い。


 悔しさの裏側に潜み、心の柔らかい部分を刺し続ける棘…その正体をようやくヤクモは理解した。


 「なんかね、ちょっと怖かったんだ。みんなが、ぼくの知ってる皆じゃなくなっちゃうんじゃないかって」

 「俺はいきなり化けたりはせんぞ?ウネグではあるまいし」

 「んー、なんていうかさ。うまく言えないんだけど…ぼくはさ、アステリアに来る前のみんなを知らないから」

 「そっか」


 見慣れない服を着て、しかしよく知る表情かおで、ファンは笑った。

 その顔に、心の棘が融けていく。


 「うん。でもねぃ、ファンはファンだし、クロムはクロムだし、ユーシンはユーシンだね。

 ぼく、頑張る。もしもがあったら、先生は任せて。絶対に守り切るから」

 「足手まといになるようなら、敵に向かって投げろ。多少は時間稼ぎに使えんだろ」

 「それじゃ守ってないじゃん!むしろぼくがトドメさしてるじゃん!」

 「まあ、多少の犠牲はな?」

 「クロムの言うことは放っておけ!ヤクモなら成し遂げられると俺は知っているぞ!ハクブクガツを学ばんでも、それくらいはわかる!」


 ポイポイと靴を脱ぎ、ユーシンはヤクモの隣に歩み寄った。

 拳でとん、とヤクモの左胸を叩き、顔全体で笑う。


 「それに足止めなら、クロムを投げたほうが良い!」

 「クロム居ないからぼくが頑張るんじゃん」

 「なに、そんなことになれば、ファンもクロムも燕の速さで駆け付けよう!その間に、俺は賊共を殲滅する!任せておけ!」


 寄せられる信頼は心地よく、左胸にあたる拳は熱い。


 「うん!」


 同じように拳を握りしめ、ユーシンの左胸に当てる。

 互いの約束を、心臓に刻むと言う意味があるのだと言う動作。

 決して違わないと宣言するかのように、ユーシンの鼓動は力強く、当てた拳に伝わった。


 「もう、大丈夫か?ヤクモ」

 「うん。だいじょーぶ。ごめんね、変なこと言って」

 「気を使って不安なままよりずっといいさ。さて、三人とも着替えろ~。朝飯運ばれてきちゃうからさ」

 

 ファンの言葉を待っていたかのように、開けっ放しの戸から声がかかった。

 ただ、サラーナの声ではない。もっと年のいった女性の声だ。


 「ナランハル、朝餉をお持ちいたしました」

 「ありがとう、受け取るよ」


 立ち上がろうとしたファンを視線で制し、クロムが戸へと向き直る。それとほぼ同時に、盥を抱えた中年女性が現れた。その後ろに、昨日と同じ女官たちが続く。


 盥を受け取ったクロムは、それをさらにヤクモへと渡した。中を見ると、薄く濁ったスープの中に肉が揺蕩っている。

 どうやらそれは、昨日はもっと大きな塊で供されてた内臓のようだとわかったが、盥から立ち上る湯気に生臭さや何かは一切ない。むしろ、食欲を刺激する芳香だ。


 「昨日と同じように座ってくれ。着替え間に合わなかったな」

 「どうせ馬鹿は汚すからちょうどいいだろ」

 「ねね、これどうするの?昨日みたいにおいたらいい?」

 「ああ、炉の上においてくれ」


 ファンの指示に従って、火が消えている炉の上に乗せるその間に、女官たちが室内へと進み、食事の用意を進めていく。

 昨日と同じ座布団の上に腰を下ろすと、前に小さな敷布が広げられ、そこに皿と箸が置かれた。金属でできたマグカップも置かれ、とろりと塩奶茶スーティが注がれる。

 それに続いて、昨日羊の塩煮が置かれた場所に鎮座したのは、揚げ菓子(ボールツォグ)の山だ。ふんわりと香るのは、バターの匂い。クロムの口許が綻ぶ。どうやら好物らしいと見て取って、ヤクモは激戦を予感した。

 最後に盥からスープが取り分けられ、敷布の上に置かれる。


 「それでは、ナランハル。お召し上がりくださいませ」

 「うん。ありがとう。悪いな、厨官バウルチに配膳までさせてしまって」

 「とんでもございません。昨晩、お食事をお気に召していただけたと聞きまして、どうしても直にお渡ししたかったのです」

 

 女官が見ているのは、料理に齧りつくのを必死に我慢する三人の姿だ。

 うんうん、と頷き、それからゆっくりと頭を下げる。


 「あ、昨日のごはん、すっごくおいしかったです!」

 「うむ!今日の夕餉も楽しみにしている!厨官どの、素晴らしい肉だった!」

 

 さらに深く頭を下げ、女官は退出を告げた。その前にちらりと見えた口許には、誇らしげな笑みが浮かんでいる。


 「さ、じゃあ平らげて、また喜ばせようか」

 「うむ!イダムよ、ターラよ、照覧あれ!」


 その後、しばし時を置いて。

 そろそろかと奶茶のお替りを持って行った女官が見たものは。

 肉片一つ残らず消え失せた食事と。

 拳をさするファンと、威嚇するユーシン、あきれ顔のヤクモ。そして、頭を撫でながら不満げに最後の揚げ菓子を齧るクロムだった。

 

***


 風が、渡る。

 その風に靡くのは、三本の旗。

 

 最も大きく、高く掲げられているのは、並んで奔る狼と馬が刺繍された旗。

 その四方を、竜、鴉、虎、熊が囲んでいる。

 

 アスラン王国の国旗だ。

 

 その横に掲げられるのは、五枚の葉の上に、三つの花が並ぶ旗。

 国旗を挟んで反対側には、翼を広げる鴉。その足に長い爪はない。


 花を象る紋章…サリンド紋と呼ばれるそれは、姓をアスランと名乗れるものにのみ、許されるもの。

 

 アスランの国旗、サリンド紋旗、無爪紅鴉旗…その三本の旗が示す意味は、この軍の総大将が二太子ナランハル・アスランであるということだ。

 

 じゃーん、じゃーん…


 荒野に、金属音が鳴り響く。その音に驚き、離れた場所で羽根を休めていた渡り鳥の群れが飛び立った、

 飛び立って地上を見れば、鳥たちはさらに驚いたことだろう。荒涼たる原野ムーアに、未だかつてこれほどの人間が集結したことはない。


 居並ぶ人と馬の群れ。

 甲冑を纏い、槍を構え、僅かな乱れもなく整列している。

 全員が馬に…あるいは飛竜に跨り、同じ方向を向いていた。


 その視線の先にあるのは三本の旗と、一人の人間。

 黒く染められた革鎧を身に着け、黒絹を黒狐の毛で縁取ったマントを纏い、赤い紅い布で朝日の色の髪を結わう。


 アスラン王国二太子(ナランハル・アスラン)。紅鴉の寵児であり、具現者。

 そして、居並ぶ兵たちの、主。


 兵たちは、その姿に唇を引き締める。

 

 およそ一年前。新兵の慰安に出かけた北の地で、二太子は襲撃された。

 その襲撃により、近衛兵十人が死亡。二太子自身も深手を負い、一時は命が危なかったという。

 凶賊は、反アスラン主義の南フェリニス人の過激派であり、襲撃に気付いて駆けつけた騎士隊により殲滅された…と発表されていた。それを表向きは信じては、いる。

 突如現れ、アスラン軍を襲う過激派連中は、確かに厄介な相手だ。

 アスラン軍と南フェリニス軍の本陣深く、たまたま近衛兵だけを連れて陣屋から外に出た二太子を襲撃できるような切れ者がいるのだとすれば、だが。

 

 ナランハル負傷の報は、親衛隊の兵たちに衝撃を走らせた。

 御身に傷を負わせてしまった、と言う悔恨は当然にある。だが、同時に兵たちを震わせたのは、今後に関する不安だ。


 二太子がそのまま命を落とすようであれば、命を投げ出して主を守り切った十人の仲間の死は無駄となる。

 生き残ったのだとしても、その死の恐怖に怯え、立ち上がれないようであれば、もう黄金の血統、紅鴉の具現者には相応しくない。


 だが、今、彼らの前に馬を立てる主は。


 まっすぐに前を向き、背を伸ばしている。

 その姿に、恐怖におびえる影はない。

 一年前と同じ、堂々たる姿を見せてくれている。


 「ナランハル!」


 旗を持つ儀仗兵が、高らかにその名を呼ぶ。


 「ナランハル!ナランハル!」


 兵たちがそれに続き、声の波が押し寄せ、僅かな興奮の余韻を残して引いていく。


 彼らの主は、その名に相応しい。

 身命を尽くす主として、相応しい。


 興奮の余韻は、その心の残響だ。

 怪我がある程度治ったら、その後の休養期間を利用して、アステリアのなにやら…いや、なんでもかんでもを調べに行ってしまった、と言うのも実に彼らの主らしい。

 二太子は変わらない。死の恐怖などでその翼を折ることはかなわない。

 

 それがどれほど、喜ばしく、誇らしい事か!


 声に応え、ファンは手に持つシドウの大弓…ヤルクト氏族の戦士であることを示す弓を、掲げた。


 「これより、紅鴉親衛隊ナランハル・ケシクは出陣する」

 

 張り上げているわけではないのに、朗々と響く声。

 その声に、兵士たちの顔はさらに引き締まり、双眸に宿る光が強くなっていく。

 

 「賊の討滅だ。自国の村を襲い、民を虐殺し、今なお彷徨う賊共を、ファン・ナランハル・アスランの名の下に殲滅する」


 ざ、と空気が鳴った。

 鳴らしたのは、一斉に左胸につけられた拳。

 千人分のその動作が、大太鼓のように空気を震わせ、鳴らす。


 「皆、奮起せよ!だが、このような戦で死ぬことは決して許さない!大アスランの騎士として、全員生きてこの場に戻れ!厳命だ!」


 ファンの声が響き、兵たちの間を駆け抜けていく。

 その清風のような声が、最後列まで達した瞬間。


 「是!」


 破裂音に等しい、肯定。

 千の口から迸った声と、左胸を叩く音が荒野を震わせる。

 それは熱量さえ伴い、弾けた。


 「ありがとう。では、千人長ヤルトミクより、作戦について説明する。頼んだぞ、ミク」

 「御意」


 僅かに後ろを振り向いたファンの視線に応え、背後に控えていたヤルトミクが馬を進ませる。

 

 跨る灰色の馬は、アスラン馬としては驚くほど大きな体格をしていた。

 黒鉄の甲冑を纏う巨漢を乗せていても、重みに耐えかねる様子はない。

 

 「賊は僅かに二百足らず。しかし、この丘陵地帯ゆえ、囲んで踏みつぶすことが出来ぬ。それゆえ、東西二点、伏兵を敷く」


 ヤルトミクの言葉に、兵たちは不動のまま耳を傾ける。

 アスラン軍の戦術としては、伏兵はごくありふれたものだ。

 ただ、他国と違い、伏兵が伏せるのは森や岩陰などではなく、目視できないほど遠い平原。

 通常なら「躱せた」と判断する距離を駆け抜けて、後背から襲撃する。

 その全軍騎馬兵と言う速度を利用した「伏兵」戦術は、たとえ分かっていても回避できるものではない。遥か彼方の地平から、一瞬にして現れ、食らいつくアスラン騎兵のことを、周辺の国々…今はもう、アスランに併呑された国の者たちは、「貪狼」と呼んでいた。

 

 「伏兵を率いるのは、この私ヤルトミク…そして、キリク王国シーリン陛下が長子、ユーシン殿下である」

 

 す、と指先まで黒い武装に覆われた手が、差し出された。

 その動きに促され、今度はユーシンが馬を進める。


 身に纏うのは、銀色に輝くキリクの甲冑だ。

 胸甲と腹当てが別々になっており、幅広い毛皮の帯を巻く。羽織るのは絹ではなく、毛長牛ヤクの毛で織られたマント。その背面には、左を向いて立ち上がり、聖なるアーナプルナ山に手を掛ける獅子が刺繍されている。


 ユーシンがいるなら必要になるかもしれないだろうと、一太子トールが用意した鎧は、もう何度も戦場を共にしたかのように馴染んでいた。


 「客将が一軍借り受けるのは、過ぎたることとは理解している!だが、俺はどうしても一槍奴らにつけねばならぬ!

 不満かと思うが、この一戦、耐えてくれ!頼む!」


 馬上ではあったが、ユーシンは身を屈め、頭を下げた。

 彼らはアスランの兵だ。キリクの兵ではない。キリクの王子とは言え、己に従えとは本来言えない者たちである。

 例え彼らの主が了承したのだとしても、それだけで己に従い、命を預けて当然だなどと思えるわけがない。


 それならば。真正面から頼むしかない。

 

 「恐れを知れぬもの(ナラシンハ)」「狂戦士ラクシャーサ」…そう呼ばれる王子の真摯な頼みは、一斉に左胸を打つ音で応えられた。


 「すまぬ…!感謝する!」

 「ユーシン殿下は東に、我が隊は西に伏せ、まずは東、食いついた後に西より兵を進め、賊共を押しつぶす」

 

 ユーシンの声に続き、ヤルトミクの説明が続いた。隣国の若き王子を見る双眸は柔らかく、少し潤んでさえいる。彼にとっても、ユーシンは子供のころから良く知る太子たちの弟分だ。涙腺も脆くなる。

 

 「そして…兵を伏せる地点までの誘い込みを、ナランハル率いる一隊が行う」


 将軍の口からなされた説明に、兵の間に声にならないどよめきが走った。

 だがそれは、危ぶむものではない。

 

 それでこそ導く者(ナランハル)

 我らの主よ。


 誰もが声に出さずに思い、頷く。


 「各々、奮起せよ!ナランハルの戦に無様を晒すような痴れ者は、紅鴉親衛隊ナランハル・ケシクには居らぬ!居らぬな!!」

 「是!!」


 再び千人の熱気が弾け、大気と大地を揺らす。

 それを見て、ファンは馬を前へ進めた。再びヤルトミクとユーシンを背後に従える形をとり、弓を振り上げる。

 そして大きく息を吸い、口を開いた。


 出陣の号令。

 放てば、もう誰にも止められない。

 兎を狩るために虎を引き出すような戦だ、軍の無駄使いだと、後に罵られるのだとしても。


 止まる気は、ない。


 「大アスランの栄光に陰りなし!」

 「是!」

 「クロウハ・カガンの御名の下に敗北なし!」

 「是!」

 「我と我が軍、そして大アスランの前にあるは、勝利のみ!」

 「是!!」


 ファンの左手が伸ばされる。そこに矢を置くのは、主と同じ黒革の鎧に身を包み、黒絹の布を鋼青の髪に巻く、クロム。

 

 渡された矢…鏑矢を、ファンは大弓に構え、空に向ける。

 満身の力を込めて弦を引き、そして、解き放つ。


 びょうびょうと音を放ち、矢は蒼穹に吸い込まれていった。


 「開戦!!」


 後に、「紅鴉親衛隊、灰色丘陵にて賊を討つ」とのみ記される一戦は、この嚆矢により始まったのだった。


 

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