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鳥には羽根 魚には鱗  作者: 阿古あおや
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蛇のまだらは皮に、人のまだらは心に(人は見かけによらぬもの)4

 ユーシンが初めて戦場に立ったのは、齢十二の年だった。

 初陣と言うならば、その一年後だ。

 だが、初めて戦場に立ったのは、あの日に他ならない。


 ユーシンが生まれ育った国、そして将来王となる(なる気はないが)国キリクは、アーナプルナ山脈に抱かれた高原にある。

 アーナプルナの最も高い頂は一年中雪が消えず、人どころか生き物の棲めない世界だ。アスランの尽きぬ山(ヘルムジ)に比べれば高さは劣るが、高峰が延々と繋がり、タタル地方とメルハ亜大陸を隔てている。

 その山々の連なりは、遠くカーランにまで及んでいた。

 

 だが、カーランとキリクの間には海がある。

 

 遥か高みから見ればその海、ソリル内海は、アーナプルナを穿ち、大地を楕円形に抉った形をしている。

 何故、そんな形をしているのか。

 その答えは、伝説として語り継がれていた。

 

 はるかな昔、五百年以上前のこと。

 夜空に浮かぶ星をつないでいた紐が切れ、星が一つ地上に落ちてきた。

 星は小さな太陽である。もし、地上にぶつかれば大変なことになる。


 その危機に、雷帝リューティンとアーナプルナの守護神、ヘルカとウルカが降臨し、落ちてきた星を受け止め、天へと還した。

 しかし、踏ん張ったヘルカの足がアーナプルナ山を踏み抜き穴をあけてしまい、その穴に海が流れ込み、潮の流れが更に大地を削って生まれたのが、流星ソリル内海である…と伝説は紡ぐ。


 実際どうなのかは、ユーシンは見たわけではないのだから知らない。

 ただ、ファンに言わせると、カーラン皇国の古い史書や、西方にあったカナン帝国の碑文にも「真昼でも見える光の柱」についての記述があるので、真実ではないか、とのことだ。


 星がもたらした天変地異により、アーナプルナの地形は激変した。


 突然穿たれた穴に流れ込む海水は濁り、泥や石を巻き込んで渦を巻く。

 その波濤は脆くなった山肌を叩き、震わせ、崩落を招いた。

 滑り落ちた土砂が更に水を濁らせ、海流を不安定にし、濁った水の底から次の犠牲を呼ぶ。

 毎日のように地形が変わり、潮の流れが変わり、水深が変わる。

 天候も常に陰鬱な暗雲が海域を覆い、雷光だけがそこに光を放つ。

 まさに、魔境。魔獣ですら踏むこまぬと恐れられた。

 

 とは言え、そう言われて忌避されたのも百年程度。


 崩落の危険がある部分は全て剥がれ落ち、残ったのは固く堅固な岩肌と、強い地盤の陸地のみ。

 流れ込んだ土砂は波に運ばれて折り重なり、そこに細かく砕かれた砂がたまって新たな陸地を作った。

 濁流は内海特有の穏やかな潮流に、黒く底を見せない波濤は紺碧の波の連なりへと落ち着き、暗雲はいずこかに消えて陽光が波飛沫をきらめかせる。


 五百年後の現在では、流れ込む暖流がもたらす温暖な気候と、栄養豊富な海水が多種多様、多くの命を育む土地だ。

 逃げ出していた人々も戻り、集落が生まれ街が築かれる。

 そして、交易国家アスラン王国の台頭により、ここ二百年は豊かな漁場としてだけではなく、交易船が行き交う商人の海にもなっていた。


 ソリル内海の東はカーラン皇国に面しており、カーラン南部で生産された陶磁器や絹が船で運ばれる。

 カーランだけではない。内海から出て陸地沿いに船を進ませれば、すぐにメルハ諸国へと至る。メルハ亜大陸東側の国々が産するのは、香辛料や茶だ。


 最終目的地は、アスランの大都。

 大都までは運河を通り、直接船で向かうことが出来る。向こう岸が霞むと謳われる大運河は、二百年の間に数度の改修を経て、外洋船の運航を可能にした。


 商人たちは自国の商品を大都で売り、他国の商品を大都で買って国へと戻る。

 直接互いの国に行くより、「売買する最終地でのみ税を掛ける」という制度を取るアスランの大都で商売をした方が、地方役人に贈る賄賂の額を差っ引いただけでもずっと得に売買ができるのだ。


 町を通るごとに荷馬車が一つ減る、とはカーラン商人がメルハ諸国を嘲笑して呟く冗談だが、カーランも負けてはいない。

 メルハの商人が長い航海を経てカーランへ辿り着き、荷を下ろして売ろうとしたら、港湾の役人に難癖をつけられて荷下ろしが出来ず、船が朽ちて沈んでしまった。なんて話もまことしやかに囁かれるほどだ。


 銅貨一枚、一呼吸の間も惜しむのが商人。

 それ故に、商人たちはソリル内海を渡って大都を目指す。

 一年中交易船の白い帆が絶える日はなく、ソリル内海は陽気で吝嗇けち交易商人ふなのりを波に乗せ、明るく煌めく。 


 キリクは交易を主な生業とする国ではないが、アーナプルナ山で採掘される水晶や瑠璃、そして岩塩は珍重され、ソリル内海を渡って茶や小麦に変わる。

 勇猛で知られるクトラ傭兵に比べて、キリク傭兵の知名度が低いのは、この交易が齎す富により、傭兵になる若者自体が少ないからだ。そして、キリク傭兵の多くが、この内海の警備に雇われるからでもある。

 

 ソリル内海に行き交う交易船を狙う海賊は多い。

 しかし、交易路の守護者たるアスラン王国の海軍が常に目を光らせ、裕福な交易商人たちはそれに協力して護衛船団を雇う。キリク傭兵の多くは、この護衛船に乗り込み、碧く美しい海を守っていた。

 

 その護衛船の重要な基地のひとつ、ソリル内海に面したキリク領の街を、キンナリーと言う。


 駆け足の春と夏、疾走する秋、そして居座る冬の王都に対し、キンナリーは常春の街と呼ばれる。

 内海に流れ込むのは暖流で、その流れがもたらす暖かな湿った空気が、アーナプルナの山肌に阻まれてキンナリーにとどまり、温暖な気候を作るのだ。

 それ故に、雨は多い。だが、大降りになることはほとんどなく、優しくしっとりとした雨が街と山を包む。

 雨は山肌に浸み込み、岩がそれを磨いて、清らかで美味な水に変える。

 その清水は岩や砂地から沸きだし、泉となる。

 碧く澄み切った水を湛える泉は、街の中や周辺に数えきれないほどにあり、それが泉水精キンナリーの街の由来になっていた。


 ユーシンは、五歳から十四歳まで、冬の間はこのキンナリーかアスランの大都で過ごしていた。

 

 ユーシンの片割れ、ユーナンは肺の片方が生まれつき悪い。

 厳しい冬は、何度もユーナンの命を奪おうとした。十まで生きられないかもしれないと言われていたほどだ。


 王宮医師は、冬の空気を吸わせないことが大切だと王に説いた。


 冷たい空気は肺を痛める。

 薄い空気を無理に吸おうとすることで負担がかかり、それが体力を消耗させる。

 成長して体力がつけば、乗り越えることもできるだろう。

 だが、子供のうちはいけない。もっと温暖で、過ごしやすい場所で冬を越すべきだ、と。


 悩んだ末にキリク王は、医師の進言を聞き入れた。

 だが、病弱で幼い息子を一人行かせるのは、逆に命を削るかもしれない。

 もし、何かあれば、両親も片割れもいないという孤独の中、息を引き取ることになる。

 キリク王は、双子の息子を深く愛していた。

 己が家族に会えない寂しさを我慢するのと、苦しい息を繰り返す息子が孤独を耐えるのと、どちらにするかと問えば、迷う余地もない。


 そうして、ユーシンはユーナンと母と共に、冬の間は王都を離れることになったのである。


 キンナリーは明るく、開放的な空気に満ちていた。


 王宮では叱られるような事…木に登って果物を取ったり、そのまま池に飛び込むような事をしても咎められない。

 それどころか、護衛の騎士たちは船に乗って海の小島へ連れて行ってくれたり、大きな魚を銛でついて捕るやり方を教えてくれたりと、ユーシンを大いに甘やかした。

 大都で過ごす日々も楽しかったが、この街で跳ねまわった日々は、今もユーシンの中でキラキラと輝く思い出になって残っている。

 

 その日も、そうして騎士たちと一緒に沖へ漕ぎ出し、魚釣りをしようと準備をしていた時だった。


 初めて嗅いだ臭いに、ユーシンは髪が逆立ったのを覚えている。

 

 その臭いがなんであるか、その時点のユーシンは知らない。

 今のユーシンならば、すぐにこう口にしただろう。


 敵の匂いだ、と。


 本能に導かれるまま、ユーシンは視線を臭いが漂う方へと向けた。

 青い波の先、風に散る、微かな異変。


 王子の視線の先を騎士たちも捉え、船を戻せ、と騎士隊長が叫ぶ。だが、それをユーシンは押しとどめ、命を下した。


 船を回せ。あの先に。


 握りしめたのは、魚をつくための銛。

 その柄を握る力の強さに、指先が白くなっている。

 そして、まっすぐに異変を見据える天色の視線。


 騎士隊長の内心の葛藤を、ユーシンは知らない。

 けれど、何故お守りすべき王子を敢えて危険に晒したのかと詰問された時、彼はこう答えている。


 獅子の子を猫にはできず。鷲の雛を家鴨にはできず。


 のちに『恐れを知れぬもの』と呼ばれるようになる少年は、銛一本と五人の騎士を従え、初めてその場に突入した。

 

 そこは、入り江の村だった。

 

 数家族が家を建て、魚を取って暮らす、ありふれた村だ。同じような集落がキンナリー周辺には無数にある。

 その一つに過ぎない場所だった。


 だが。

 その、穏やかで変わらぬ日々は、乱暴に砕かれていた。


 見慣れない船が漁船を押しのけて桟橋にめり込んでいる。

 その周辺で倒れ伏し、海を赤く染めているのは、村の男だ。


 海賊だ、カーランの寇だ、と騎士が呟く。


 見慣れない船は傷つき、大きく傾いている。

 おそらく、どこかで海賊狩りに会い、命からがら逃げてきたのだろう。

 そして再起とうっぷん晴らしの為に、この小さな村を襲ったに違いない。

 

 ユーシンは銛を構えて立ち上がり、視線を小さく左右に振った。

 その天色の目が捉えたのは、老婆と抱き合った女性に向かって剣を振りかざす男。


 ひゅ、と音を立て、銛が飛ぶ。その音を聞いて初めて、ユーシンは己が銛を投げたことを知った。


 男の首を刺し貫き、銛は家の土壁にめり込んだ。

 それを最後までユーシンは見ていなかった。次の銛を掴み、船底を蹴って桟橋にあがる。

 

 その後のことを、あまりユーシンは覚えていない。

 気が付けば、絶命して並べられた海賊共を見下ろしていた。

 全部で十三人いた海賊の半数を、ユーシンが討ち取ったのだと後程教えられたが、どうやって戦ったのかすら曖昧になっている。


 それ以来、ユーシンの中で敵の臭いとはそういう臭いだ。

 弱いものが踏みにじられ、明日を奪われる臭いだ。


 「…っ!」


 そして、今、ここもまた。

 その、反吐が出るような臭いに満ちていた。


 あちこちに残る茶色の染みは、そこで誰かが絶命した痕跡。

 それは途切れがちの道を作りつつ、村はずれへ向かっている。


 古いが丁寧に改修され、大事に住んでいたのであろう家々は、燃やされ、崩され、穢されていた。

 その家が愛し、愛されていた家族の血肉が、壁を、ドアを、床を染めている。


 晩秋の昼下がり。本来なら、今日の仕事に一息ついた人々が、思い思いに過ごしていただろう時。

 だが、今、村を飛び交うのは他愛もない雑談ではなく、蠅の羽音。

 秋も終わろうとする時期にしては以上に多いその虫が、何を糧にせんと集まってきているのか、ユーシンにも竜騎士たちにもよくわかっていた。


 「残党と生存者を探す」

 「別れますか?」


 竜騎士たちは、地に降りても十分に強い。二人一組に分かれても問題はないだろう。

 むしろ、問題は村の入り口でへたり込む、エルディーンの騎士、レイブラッドに率いられた若者たちだった。

 彼らは近隣の村から奉仕活動にとやってきた若者だ。

 当然、この村出身の者もいる。

 

 「父ちゃん…母ちゃん!!!」

 

 叫びながら一人が駆けだす。それに押されたように、数人がばらばらに走り出した。

 

 「留めますか?」

 「いや、二手に分かれて、残党と生存者を探す。襲い掛かってきたのなら討ち取ればいい」

 そのほうが残党を見つけやすしな、と内心に呟いた自分の声を、ユーシンは噛み潰した。

 

 俺は今、『恐れを知れぬもの(ナラシンハ)』ではない。

 

 留めなかったのは、囮にしたいからなどではない。

 この無残な村を見て、家へと走らぬものがいるだろうか。

 それを押しとどめる権利が、居合わせただけの自分にあるはずがない。


 「まずは彼らについていこう!行くぞ!」

 「承りました」


 隊長が頷き、二人の竜騎士が駆けだす。

 若者は倒れこむように走っていったが、すぐに追いつけるだろう。

 ユーシンもまた、若者の背を追って走りだそうとした。


 「あの兄ちゃんはほっといても?」

 その前に、と、隊長ボオルがちらりと視線を走らせる。


 その先にいるのは、白い顔をさらに青くしたレイブラッド。


 「かまわん。敵が来れば動ける男だと思う」


 根拠はない。だが、先ほどの手並みを見る限り、死に怯えて足を竦ませる段階は過ぎていたように思えるだけだ。


 「クロムより弱いが、クロムより弱いだけだ!」

 「なら、良いですな」


 隊長は、二人の関係を知らない。クロムがクトラ王家の血筋であるということは、ほんの一握りの者だけが知る秘密だ。

 だが、クロムとユーシンが互いに信頼しあい、認め合っていることは知っている。

 安心してお互いを罵れるほど、気を許しあっているということも。

 ユーシンが「クロムより強い」と評するのは、十人もいないだろう。

 そのクロムより「弱いだけ」なら、雑兵程度には負けないということだ。


 頷いて、隊長もユーシンとさらにその前を行く若者を追う。

 不格好に走り続けた若者は、一軒の家の前でよろけるように止まった。

 その目が見ているのは、半開きのドアだ。


 誰かが家の中にいるのであれば、決してそんなふうには開いていないであろうドア。


 首を振り、若者は半ば予想する未来を拒む。

 だが、不安は膨らむ。恐怖と共に。

 それから逃れるためには、先を見るしかない。

 そうすれば「最悪の想像」という不安と恐怖だけは終わる。

 

 震える手がドアノブを掴み…そして、一気にドアを開け放った。


 「誰か!誰かいないのかよおお!返事してくれ!たのむ!!」


 若者の絶叫が響く。だが、彼の呼びかけに答える声は、ない。

 

 「う…あああ…」


 がくりと膝を折った彼の目が、つと動く。

 その先にあるのは、赤茶色の、染み。

 

 「あああああああああああああああああああ!!!!!」


 頭を掻きむしり、若者は叫んだ。

 限界まで開けられた口から迸るのは、絶望の声。

 

 「…まったく、何度見たって胸糞悪いもんですな」


 ボオルが吐き捨て、踵を返す。

 彼は戦場に身を置いて長い。機動力に優れる竜騎兵は、斥候として最前線の被害状況を確認することも多い。


 何度も見て、何度も聞いた。

 奪われたものの絶望を。叫びを。


 それを平然と受け止められたことはない。きっと、一生ないだろう。

 だが、彼は冷静さを欠くほど若くも、未経験でもなかった。無表情に若者を見るユーシンの肩を叩き、促す。


 「ここにゃ残党はいません。次へ行きましょう」

 「…うむ」

 

 ユーシンも、初めての経験ではない。

 初めての戦の時も、遺体にすがって泣く子供を見た。

 動かない子を抱いて呆ける母も見た。

 その後も、賊の討伐や侵略してきた敵軍の撃破などで出陣した際、同じような光景を見た。


 だが、この一年。

 王子ではなくただの若者として、『恐れを知れぬもの』ではなく冒険者として過ごした日々が、ユーシンの魂を柔らかく変えていた。

 以前なら決して考えもしなかっただろう想いが、脳裏に浮かぶ。

 

 もし。

 もしも、キリクの王宮がクトラの様に落とされて。

 

 自分が、同じように死と腐臭に満ちた「我が家」へ足を踏み入れたとして。

 両親や、ユーナンの部屋で、同じ染みを見つけたら。

 

 ユーシンは、どうするだろうか。

 どうなるだろうか。


 彼の様に、絶望に叫ぶだろうか。

 

 いや、とユーシンは内心に首を振った。

 おそらく、その前に、怒りに狂うだろう。

 仇を求め、例え百万の軍勢の中にでも突っ込み、首を刎ねられてもなお、槍を振うだろう。


 それは、嫌だ。

 

 「…?」

 「どうされました?」

 「いや、なんだか少し、腹が苦しい」

 「減らしすぎましたかね」

 「…それとは、少し違う気がする。もう収まった。問題ない。行くぞ!」

 

 なんだろう、今の苦しさは。

 だが、それを深く考えるよりも早く、ユーシンの鋭敏な感覚は違う気配を捉えていた。

 

 すぐ近くだ。こちらを見ている。


 「左二軒先」

 「承知」

 ぽそりと呟いた声に、ボオルが頷く。

 するりと竜騎士は歩を進め、その家のドアに手を掛けた。

 僅かに開いたドアの隙間から、完全に死角を通る動きだ。


 何の前触れもなく、躊躇いもなく、その手はドアを無造作に引き開ける。


 「ひ!」


 その動きに引き摺りだされた男に向けて、ユーシンは槍を走らせた。

 駆け出しながらの一閃。電光のような疾さで、槍は宙を進む。


 だが、その切っ先は、扉に寄り掛かるようにして半ば倒れた男の、眼前ほんの僅か先で制止した。


 「ひいっ!!」


 数呼吸置いて、男は自分の状況を把握したようだ。顔を槍の切っ先から背け、何とか逃げようとして動けず、ただ瞬きを繰り返す。


 それをユーシンはしばし見据え…槍を引いた。


 「如何いたしました?」

 「奥だ」


 駆けながら、ユーシンは開いた扉の先、男の肩の向こうに、それを見つけていた。

 

 震えあい、抱き合う老夫婦と三人の子供。

 

 「お前はこの村の者か?」

 「いやっそのっ!ちあが、んすけど!」

 

 槍が引かれたことで、僅かに余裕が生まれたのか、男はぶんぶんと首を振る。涙と鼻水で崩れた顔は、血の気が引いているというより元から血色がよくないようだ。

 

 「お、おれは、やってないっ!」


 足の間に水溜まりを生じさせつつ、男は首と手を振りまくる。

 隊長がこちらを困ったように見ているのは、彼は西方語がわからず、男が何を言っているのか聞き取れないからだろう。

 

 「やっていない、と言っている!」

 「へぇ」


 何を、と言うのは、この場合一つしかないだろう。

 だが、それをあっさりと信じられるほど、二人は人間の善意を信じていない。否、悪意を見すぎていた。


 「そこのもの!俺は王都の冒険者だ!助けに来た!こいつは敵か?味方か?」

 

 それなら、わかるものに聞くしかないだろう。

 家の隅で固まる老夫婦に向けて、ユーシンは声を投げかけた。

 なるべく、ファンがこういう時にどんな声を出すかを思い出す。


 「よしよし、こっちへ来い。フゥーイ」

 「馬呼んでんじゃないんですから…」

 「む!ファンはこんなふうに怯えたものを宥めるから、こうした方が良いのかと思ったのだが!」

 「たぶん、違うと思いますよ?」


 だが、その声に効果はあった。どちらかと言えば、その前の「王都の冒険者」という一語の方が大きかったのだろうが。


 「そ、そのお人は、わたしらを隠しててくれたんです」


 おずおずと、老人が声を上げながら歩み寄る。

 光の下に出て見れば、老人と言うにはまだ早い。初老の男だった。まだ現役で畑を耕し、家畜を世話している農夫だろう。

 だが、数日にわたる恐怖は、彼の身体から気力と体力を奪い、弱々しい老人に変えてしまったようだ。肌はかさつき、目は窪んでいる。


 「王都の…冒険者…わたしらは…助かった、んです、か?」


 だが、声を震わせているのは、恐怖や疲労ではない。

 ようやく見えた希望。それが、彼の声を震わせ、双眸に光を宿している。


 ユーシンは、大きく頷いた。

 良く見えるように。希望が裏切られないことを示す為に。


 「ああ。まだ全員を蹴散らしてはいないから、神殿に身を寄せるとよい。

 数日中に援軍も来る。バルト陛下が冒険者を率いてな!」

 「おお…っ!!女神アスターよ…!感謝します…!」


 枯れはてたはずの涙がやつれた頬を伝い、地面に染みを作る。

 老人は跪き、女神に祈りを捧げた。隠れている間、何百回と繰り返した祈りが報われた瞬間だった。

 

 その様子を見て、奥に縮こまる老婦人と子供たちが家具を伝いながら歩み寄った。

 初めは恐る恐る、次第に、精いっぱいの早さで。


 「あんた、助かったの…?」

 「ああ、そうだよ!」

 「!!」


 ぎゅっと夫は、妻を抱きしめる。妻も夫を抱き返し、涙でその胸を濡らした。

 夫妻は子供たちも抱き寄せ、助かった、助かったんだよう、と繰り返し聞かせた。

 ぼんやりとしていた子供たちの顔に、感情が湧き出る。

 堪えていた怯え、両親がいないことへの不安、そして、今、助かったという安堵。

 

 そのうちの一人、幼い少女の視線が、外へと向く。

 

 「おにいちゃん…」


 消え入りそうなか細い声に、暗い穴と化していた若者の双眸が、動いた。


 「チコ…?」


 呆然と紡ぐ声に、少女が顔をくしゃくしゃにしながら走り出す。 


 「…!!」


 飛びついてきた小さな体を、抱き留め、若者は唸った。歓喜は空気として咽喉を震わせるだけで、声にならない。

 恐ろしいときだけでなく、あまりにも感情が振りきれた時、声は消えることを若者は知らなかった。そして、今、この瞬間に知った。

 もう役立たずの声には頼らず、若者は思いを全て込めて妹の痩せた体を抱きしめる。汗と垢と、排泄物の臭いなど気にもならない。

 ただ一人生き残ってくれた大切な家族を、若者は自分の腕に囲い込んだ。絶対に奪わせないという意志を込めて。

 

 良かった。


 その光景を見ながら、ユーシンはただそう思った。

 きっと、妹以外の家族を若者は失い、兄以外の家族を少女は奪われた。

 けれど、お互いがいる。それは、「良かった」と言えることだ。

 

 端正な顔に柔らかな笑みを浮かべる隣国の王子を、ボオルはしげしげと眺めた。

 彼が聞いていた『恐れを知れぬもの』は、こんな些細なことを喜ぶ存在ではない。助かった命を喜ぶより、多くの敵の命を奪う方を優先する。そういう生き物だ。


 紅鴉親衛隊に身を置いて長いボオルは、ユーシンが子供だった時から知っている。


 やんちゃで快活、考えなしなところはあるが、優しく素直な王子。


 そんなユーシンが、武器が折れる迄敵兵を屠り、素手で頭を叩きつぶし、さらに畏怖と侮蔑をこめて『狂戦士ラクシャーサ』とまで呼ばれるようになるまで、何があったのか。どれほど心を削ったのか。


 息を吐いた口を緩め、ボオルはユーシンの様子にこそ「良かった」と思う。

 大事なナランハルの弟分が、人ならざる狂った存在から戻ってきてくれたことに。


 できることならばいつまでもその顔を見ていたいほどだったが…何しろ見目麗しいという表現では物足りないほどのものであるし…敵兵は去ったと言ってもここは戦地。あまりのんびりしていて、本隊と鉢合わせるのは避けなければならない。

 まずは、貴重な敵の事情を知る者からの情報収集だろう。


 「さて。ユーシン殿下。こいつはどういたします?ちょっとばかりイっちまってるみたいですが」


 わざとらしく明るい声に、ユーシンはぱちりと意識を戻した。ボオルの視線を辿れば、そこには奇妙な笑みを浮かべて地面に転がる男がいる。

 

 無精髭に覆われた顔は、若いのか年を取っているのか判断がつかない。

 先ほど神殿を囲んでいた兵と同じ、身体にあっていない武装をしている。鎧はだらしなくずり落ちかけ、武器は何も持っていない。

 ただ、泣きながら笑っている。


 「へ。へへへ…。陛下が、陛下がきてくださる…ざまぁみろ、だ!あのクソ野郎…」


 罵るクソ野郎とは、どうやら今自分を殺し掛けたユーシンのことではないようだ。

 恐怖であちら側に行ったにしては、目に正気の光がある。

 わからないことは聞いてみればいい。そう判断して、ユーシンは再び口を開いた。


 「…お前は、どこの兵なのだ?この村を襲った外道の兵ではないのか?」


 声を掛けられて、男はユーシンに焦点を合わせる。一瞬呆けたのは、その美貌を改めて見たからだろう。

 その様子に、隊長は内心苦笑した。顔が良いというのは武器だが、この王子ほどそれを必要としない者もいない。


 呆けていた男は、瞬きを繰り返し、無精ひげの隙間から見える頬を少し赤くしていた。もごもごと口を動かし、発する言葉を探しているようだ。

 やがて、意を決したのか、小さな声を漏らす。


 「そうっす…いや、そうなんすけど、俺、あの…」

 「どっちだ!お前の言っていることがさっぱりわからん!俺はファンではないのだからハクブツガクは収めておらん!」

 「ひぇっ、お、俺もハクブツガク?ってのはわかんねっす!うまい仕事があるって、言われて、ついてきて…そしたら、アイツ、いきなり村を…」


 転がったまま、男は顔を両手で覆った。


 「信じらんねぇ!いきなり、いきなりですよ!ひと、ころしはじめて…他の連中も、なんか…ああ、信じらんねぇ!女神さま!」


 ガタガタを震えているのは、その光景を思い出しているのだろう。

 迸る声は、先ほどまでの小声を吹き飛ばすようだ。いや、吹き飛ばそうとしているのは、苛む恐怖か。


 「お、俺、なんとか近くにいた子供ひっつかんで、この家に入れて…ここの爺さんと婆さんはもうぶっ殺したって、嘘ついて…その後も、見つけた子供、連れてきて…」

 「ふむ…」

 「なんとか、今まで、ごまかして…ああ、くそ、でも、いっぱい殺されたんだ!女も子供も、爺さんも婆さんも関係なく!…赤ん坊まで…」


 顔を覆う両手の間から、涙があふれ出た。


 「畜生畜生畜生!!なんでこんな…こんな…!

 ああ、こんだけだ!こんだけしか助けらんなかった!畜生!!」


 顔から手を外し、男は罵る。この惨劇を齎したものと、無力な自分を。

 

 「うむ。そうだ。お前が助けられたのは、このご夫婦と子供三人だ」

 「…」


 男の目が、ユーシンを見つめる。落ち窪み、疲れ果てた目。


 「だが、お前が助けねば、この五人も命を奪われていた」


 絶望的な状況だったはずだ。

 周囲は殺戮に酔い、次の獲物を探している。

 その中で、ただ一人正気を保ち、五人もの人間を匿い続けたのだから。

 

 男の窶れ具合が、その困難さを、心労を証明していた。

 だが、彼はやり遂げた。殺戮の狂乱から、五人助けたのだ。


 「お前がキリクの兵であれば、毛長牛の一頭でも褒賞に送りたいところだ。残念ながら俺は今、冒険者なので何も送ることはできんが、その勇気と義侠を称賛しよう」

 

 転がる男に、ユーシンは槍を握っていない手を差し出した。


 「誇れ!お前は素晴らしい。まことの強者だ!」

 

 おずおずと、男は差し出された手を掴み。

 ゆっくりと、土に汚れた上半身を起こした。


 「俺…俺は…」


 掴んだユーシンの手を離し、男は顔を歪める。


 「俺ぁ…」


 あとは言葉もなく、嗚咽を漏らし続けた。

 

 「っと、ユーシン様。指笛です。なんか見つけたようですな」


 その嗚咽に被るように、ボオルの鋭い声が響く。

 アスラン軍は離れているときには指笛で互いの状況を伝え合う。その意味をユーシンは全部知っているわけではない。だが、短く三回鳴らすのは「集合」の合図だったと記憶していた。


 「うむ。おい、皆、動けるか。村の入り口に行くのだ」


 老夫婦も子供たちも、消耗が激しい。

 なるべく早く、適切な治療が必要に見えた。村の探索につれていくのは酷だろう。


 「…俺が、レイブラッド様んとこまで連れていきます」


 赤い目をした若者が、妹を背負いながら頷く。


 「ロブ伯父さん、ジェフの奴も来てる。ピート、ジム、兄ちゃんが神殿で待ってるぞ」


 小さな村だ。村人は誰もが顔見知りで、親戚も多い。

 彼は全員の知り合いであり、五人しかいない意味をすでに理解していた。

 だが、もうその目は絶望を見ていない。

 

 「任せた」

 「はいっ!」

 

 若者は残る二人の子供を抱え上げ、老夫婦を促して歩きだす。

 よたつく老夫婦を、がばりと起き上がって追いついた男が支えた。

 一度振り向き、ぺこりと頭を下げる。


 「どこにでも勇者はおるものですな」


 ボオルには西方語のやり取りはわからない。

 けれど、ユーシンが手を差し出したということで、どんなやり取りがあったのか察していた。


 「ああ、まったくだ」


 頷きあい、二人は別の方向へ駆け出す。

 指笛のなった先は、直ぐ近くだ。

 

 途中焼け落ちた家の中に、黒く縮こまるものを何度も見つけ、ユーシンは怒りを胎に溜めていく。

 ボオルの言った通りだ。何度見ても胸糞悪い。


 「あ、遅いですよ。隊長」

 「生存者発見しててな。そっちは残党か」

 「はい」

 

 竜騎士たちの足元には、一太刀で切り捨てられた兵が転がっていた。 

 三人。あわてて鎧を身に着けたのだろう。革鎧を体に固定する紐は外れ、今にも脱げそうだ。

 もっとも、しっかりと身に着けていたとしても、結果は変わりないだろう。竜騎士が持つ剣と技量を防ぎきれるような鎧を、雑兵に支給されるわけがない。


 「宿屋ですかね。燃えてません。横通ったら襲い掛かってきたんです」


 竜騎士が示したのは、少し先にある大きめの建物だ。

 そこからここまで、点々と死体が転がっている。いや、いくつかは蠢いている。死体ともうすぐ死ぬものが点々と、と言うべきか。

 足元の死体は背中を斬られているところを見ると、形勢不利を悟って逃げたところを追いつかれ、斬られたのだと推測できた。


 「こいつらの拠点のひとつだったんですかね…いや、宿か」

 「行ってみよう!」

 「…そうですな」


 ちらりと、ボオルは部下の竜騎士たちに目配せを送る。

 こくり、と一人が頷き、口を開いた。


 「いえ、俺らが確認しておきます。ユーシン殿下は、他を回ってみてください。残党がまだいるかもしれません」

 「む、そうか!」

 「じゃあ、またあとで」

 

 竜騎士たちは、ユーシンが戦場を支配する勇将であることを、畏怖され、忌避される存在であることを知っている。

 だが、まだ二十歳にもならない若者で、ナランハルの弟分だ。さらに言えば、星竜君オドンナルガの弟分でもある。

 多くの人間の悪意を、愚行を、もうその天色の双眸に映してしまっていたのだとしても。

 大人として見せたくない暗部というのは、ある。


 竜騎士たちは、その宿で、「見せたくなかったもの」を見た。


 ベッドに繋がれ、虚ろな目で横たわる数人の女性と、女性の遺体。


 彼女らを納戸から引っ張り出した新しいシーツでくるみ、納屋にあった荷車に乗せて、竜騎士たちは村の入り口へ引き返した。

 彼女らを見た若者たちが怒りと嘆きの声をあげる。

 

 幾度となく戦場で見た光景。

 隊長と同じく、彼らもまた、その光景を見ても心が揺るがない日は来ないだろう。 


 何度見ても胸糞悪い。


 そう思いながら、竜騎士は撤収を表す指笛を響かせた。


***


 「おそらく、これで全部、でしょう」


 生存者は、僅か十名にも満たない。

 だが、むしろこれほど生きていたかと、ボオルは思う。

 

 国の侵略による戦であれば、占領された場所は支配地となる。

 あまりにもひどい略奪は、その後の当地の妨げとなるため、基本的には行わないものだ。もちろん、それでも起こってしまうのが戦であるが。


 対して、敵国に対する嫌がらせ、略奪そのものを目的とした戦であれば、その獲物となった村や町は徹底的に奪われる。


 今回の戦は、後者に近いものだ。

 本当に、たった一人の正気が生存者を守ったと言ってもいい。


 「あの騎士はどうした?」

 「レイブラッド様は…あの血の跡を追ってみるって…」

 

 若者の一人が青い顔で指し示すのは、地面についたいくつもの赤茶色い染み。

 それは途切れながら、同じ方向を示している。


 「…死体を引きずった跡でしょうね。どっかに片づけてんのか」

 「行ってみよう」


 ユーシンは言うなり歩み出す。その後ろについて歩きながら、ボオルは部下へと指示を飛ばした。


 「お前らは待機だ。もう戦えんのは俺らだけだろうからな」

 「了解!」

 

 跡は村はずれ、家畜小屋と思しき方向へ向かっている。

 おそらく、豚や牛が飼われていたであろうその小屋に、命の気配はない。


 蠅がたかっているものを見れば、それは切り取られた牛の足だった。すぐ近くには、槍が突き立ったままの犬の死体が倒れている。

 

 その家畜小屋の入り口に、レイブラッドは立っていた。

 蒼白な顔の中、目だけが血走って見開いている。


 「…どうした?」


 あまりにも鬼気迫るその顔に、ユーシンは低い声を掛けた。あまり大声を出してはくだけるのではないかと、そんな懸念すら沸き起こるような顔だ。

 

 「…バスク卿…」

 「む?」

 「…アルテ子爵家の…騎士団長…です」


 呆然と呟く騎士の後ろから、ユーシンは家畜小屋を除いた。


 とたんに鼻を打つ、腐敗臭。

 

 その臭いの元は、豚の囲いと思われる柵の中に横たわるものだった。

 腐乱がはじまり、蛆が沸いているが、顔は未だ判別がつく。

  

 「他の柵にも、入っているな」

 「…騎士の…同輩、です」


 傷口には特に蛆がわく。

 騎士団長であるらしい男の致命傷は、首に受けた一撃だろう。腿にも傷があるようだが、致命傷は首の傷だ。これは一撃受ければ死ぬ場所だ。位置からして、自決の傷かも知れないな、とユーシンは推測した。

 他の騎士らは一斉に攻撃されたようだ。傷が一つではない。どれが致命傷かわからないほどに。

 

 「何故…こんな…」

 「それは俺にもさっぱりわからん。だが、今できることはひとつだ」


 ぐい、とユーシンはレイブラッドの腕を取り、外へと引っ張り出した。

 村全体がうっすらと腐敗臭に包まれているとはいえ、先ほどの小屋よりはましだ。


 「火をかける。蛆に食わせるよりも良いだろう」

 「…なんだと…」


 蒼白な騎士の顔が、歪む。

 

 「何を…何を言っているんだ!火をかける!?団長らを塵のように燃やすと言うのか!」

 「蛆に食われて蠅の餌になるよりはいい。髪だけ切り取る。それをもって弔えばよかろう」

 「…貴様ッ!」


 レイブラッドの手が、ユーシンの肩に食い込む。

 それを止めたのは、ユーシンではなくボオルの手だった。


 「何をこの兄ちゃんは怒っているのか、お聞きしても?」

 「中でこのものの上官と同輩が死んでいる。蛆に食わせるよりも火をかけて燃やすと言ったら怒った!」

 「…そりゃあ、まあ、怒るでしょうなあ。これ、豚小屋ですぜ?」

 「駄目なのか?」


 深々と息を吐き、ボオルが頷く。


 「豚の糞と一緒に燃やされたかありませんな。どうでしょう。その辺の家から敷布でも布団でも拝借して、荷車に積んで神殿に運んでは」


 ユーシンは進言に首をひねった。どう考えても無駄な気がする。


 「もう、生き返れないと思うが?」

 「燃やすんじゃなく、荼毘にふせるでしょうよ。ま、やることは変わんねぇし、気分の問題ですがね」


 竜騎士の隊長は、柔らかく笑みを浮かべ、隣国の王子を見つめた。

 その笑みは、言い出した非道を咎めているのではない。彼は、ユーシンが決して死者を冒涜する意図でそう言っているのではないことを理解していた。

 むしろ、虫の餌となる現状を憂いているからこそ、そう言っているのだと。

 ただ、やり方が非常に雑で乱暴なだけだ。


 「例えば、ナランハルがお命を落とされて、蛆まみれになっちまったとしても、俺らはナランハルを大都までお連れいたします。

 どっかでね、まして豚の糞と共に焼いたんじゃ、ナランハルに申し訳ないと思うからです。

 ご本人は、そんな事せずその場で燃やせって命じるでしょうけどね。幽霊になって喚いてそうだ」


 死体は病気の元だ、まして腐ってるし臭いじゃん!さっさと燃やしちゃっていいよと喚くファンの幽霊は容易に想像できて、ユーシンはこくりと頷いた。

 そして、それでも、主の命令を無視してでも、遺体を持ち帰る竜騎士の意志もまた、理解することが、できた。


 「…そうか」

 「ええ。ユーシン様も、そうなさるのでは?」

 「わからん。ファンが死んでいるのなら、俺はその前に命を落としているだろう。

 …だが、俺がそれで、豚の糞と共に焼かれたと聞けば、ユーナンは悲しむ…ような気がする」


 大切な片割れは、遺髪を手に泣くだろう。

 その時、その悲しみを少しでも和らげることがあれば、確かに無駄ではない。

 豚小屋と共に焼き払われたより、神官たちの祈りの中、荼毘に付される方が、残された生者の慰めになるのは…無駄なことではない。

 

 大きく頷いて、ユーシンはレイブラッドに向き直り、腰を折って頭を下げた。


 「…すまなかった。騎士殿。このものは、お前にとって大切なものなのだな」


 ふーふーと荒い息を漏らしつつ、レイブラッドはユーシンを見ている。

 その血走った目が、閉じられた。

 瞼が震える。内心の激情に突き動かされるように。


 「…はい。騎士の心得を、様々なことを教えてくださった、恩師です」

 「そうか」


 頷いて、ユーシンは歩き出した。

 騎士には、ユーシンとの問答より、死者と向き合う時間の方が必要だろう。

 近くの家に入り、一度手を合わせてから住人が暮らしていたであろう部屋へと向かう。

 荒らされた室内は、金目の物や食料を全て奪われているようだった。

 だが、ベッドにかかるシーツや、何度も補修されているカーテンは無事だ。さすがに奪おうとは思わなかったらしい。

 それらを手に取り、家を出る。


 最後に立ち入った部屋。

 部屋は、子供の部屋に見えた。少し小さなベッドが二つ。籠には乱暴に服が突っ込まれている。泥に汚れた、男の子の服のようだ。

 隅に広がる血の跡は、一人分にしては多い。

 ここで寄り集まって震えていたのだろう。抱き合い、互いの熱で恐怖を振り払おうと。

 けれど、恐怖は兄弟を逃がさなかった。

 恐怖は人の姿を取り、剣を振り上げ、振り下ろした。


 ぐる、と腹の底がまた苦しくなって、ユーシンは息を長く吐き出した。

 脳裏に浮かぶのは、片割れの顔。


 ユーナン。俺は今、お前に会いたい。お前が生きていることを確かめたい。

 手を握って、抱き着いて、鼓動を聞きたい。

 

 シーツを千切れるほどに握りしめ、ユーシンは強く、強くそう思った。


***


 「よく頑張ったな」


 神殿に戻ってきたユーシンらを、ファンがねぎらう。

 

 レイブラッドと若者たちは、ファンに一礼してそのまま神殿の門をくぐっていった。

 騎士が引く荷車の、何とも言えない色に染まった布の中にあるものを、ファンは察した。初めて見るものではない。戦場の帰りには、必ず伴うものだ。

 

 「…村の状況は」


 それでも、ファンはボオルに視線を向けて問う。送り出したのだから報告は聞かねばならない。

 主君の視線に答え、ボオルは姿勢を正して口を開く。


 「生存者は全部で七人。遺体を回収できたのは、十二人。それ以外の村人は、全滅。村はずれで、穴掘って焼いてありました」

 「…そうか。でも、七人も生きてたのか…」

 「ああ!勇士が一人いてな!五人も守り通していた!」

 「すごいな。この一戦の武勲第一は、その人だ」


 うむ!とユーシンが頷く。

 だが、その顔には翳りがあり、滅多に見せない疲労を滲ませている。

 

 やっぱり、俺が行くべきだっただろうか。

 

 ユーシンは戦いに慣れている。だが、まだ十八歳。子供と言える年齢だ。

 だが、ファンは続けて内心に首を振る。


 俺が行くと言って志願し、成し遂げたのだ。それを、お前にはつらかったな、すまなかったと謝るのは、ユーシンに対する侮辱だ。


 するべきことは謝罪でも心配でもなく、労いだろう。

 

 「ヤクモ、皆に水を」

 「うん!」


 遠くにユーシンらの姿が見えた時から、新しい水の召喚は始めていた。

 冷たく、澄み切った水だ。枯れきった咽喉を潤し、死と腐敗の臭いを流してくれるだろう。

 

 鍋からカップへと水を汲み、ヤクモはユーシン達に水を配る。

 全員、まず一口目は口を濯いだことが、村で見た状況の酷さを物語っていた。


 「はい、どうぞ」


 一瞬迷ったのち、ヤクモはどう見ても敵兵に見える男にも、水を差し出した。

 なんとなく、悪い人ではない気がするし、疲れ切って萎れきっている。水を飲ませるくらいはしてあげたいと思ったからだが、相手は怯えたような顔で水を見つめ、受け取らない。

 

 「えっと、ただの水だよ?お酒とかじゃないよ?」

 「いや、そうじゃなくて…」


 鍋から汲んでいるから警戒されたのかもと思ったが、そうではないと男は首を振る。 

 

 「お、俺が貰っちまって良いのかなって…」

 「当たり前だ!先ほどファンも言っただろう!武勲第一だと!」

 

 男はそれでも躊躇う。だが、やはり咽喉は乾ききっていたのだろう。

 両手でカップを掴み、震えながら口へ運ぶ。一度縁を傾けると、浴びるように流し込んだ。

 

 「…うまい…」

 「もういっぱい、要ります?」


 返答を待たず、ヤクモは鍋からカップへと水を移した。男はもごもごと礼を述べ口をつける。

 そのがっつくような飲み方に、ファンがおずおずと声を掛けた。


 「水飲むのは良いんだけれど、冷たいからあんまり急に飲むと体に悪い。二杯目以降はゆっくり飲んでくださいね。難しいかもだけれど」


頷きながらも水をむさぼる男を見て、クロムが胡散臭そうに目を細める。


 「ただの逃げ遅れた賊じゃねぇのか?」

 「一緒にいたご老人が証言している!」


 ふん、と鼻を鳴らし、クロムはファンの一歩前に出る。もしも男が飛びかかっても、迎撃できる位置だ。

 さすがに剣は抜かないが、盾をいつでも振るえるように腕を曲げる。

 

 「まあ、しかし、投降兵であることは相違ありませぬなあ~。怖い怖い」


 その警戒をさらに高めるような、諫めるようなウー老師の声に、クロムは舌打ちを漏らした。言ってる事はともかく、口調が苛つく。


 つい先ほどウー老師は目を覚ました。睡眠薬の効果時間が切れたらしい。

 ぼんやりと宙を見て欠伸を繰り返していたが、ファンが何があったのか今どうしているのかを説明すると、すんなりと飲み込んだようだった。

 

 「これ、そなた」

 「は、はい!」

 

 軍師の半眼は男を捉える。その底知れない闇のような黒い瞳に見据えられ、男は硬直した。槍を眼前に突き付けられたときよりも冷たい汗が背筋を伝う。

 

 「どーせ大したことはわからんと思うが、少々聞きたいことがある」

 「偽情報掴まされる可能性は?」


 あくまでも疑うクロムに、ウー老師は肩を竦めて見せた。


 「ないわい。そんな手が打てるような敵じゃあありゃせん」

 「この人をっていうより、敵の総大将の能力的に判断したってことかな?」

 「左様にござる」


 むふりと息をはいて、ウー老師は一同を見渡す。ぼんやりとしていた表情が、いつものなんだか胡散臭げで得意げな顔に変化していく。

 それをファンは苦笑して眺めた。きっと、自分が説明を始めた時にクロムたちは同じ感情を抱いているだろう。


 あ、また、始まった、と。


 「敵将ギメルと申す輩は、ひとかどの将を気取るだけにものにございます。理由は、三つ」


 髭を擦っていた手が、指を三本立てた。なぜか親指と人差し指、中指の三本である。


 「まず一つ。村を落とし、神殿を包囲して五日。その日々を無為に過ごした挙句、目標を変更しておる。これは、戦略も何もなく、気が向くままに動いておるからにほかなりません」


 言い切るウー老師に、ファンが首を傾げる。


 「糧食が尽きたとか、そういう判断で本拠地へ向けて撤退開始した可能性は?」

 「ありませぬなあ。村を襲った時点で、冬備えの食糧を入手しております。仮に撤退したのだとしても、あまりにも時機を逸しておりまする。これが二つめですな」


 口髭をしごき、ついでに鼻毛をくん、と抜いて、ウー老師は言葉を続けた。


 「神殿は落とせぬと撤退するのであれば、もう三日早く動きべきでございました。十分な戦果をあげられず、士気が落ちた軍は日ごとに鈍くなる。それから進軍を初めても思うままには進みませぬ。これはすなわち、総大将たるギメルなる輩が、士気を読めず判断が遅い証左に御座ります」


 戦で一番大切なのは、開戦までの準備であると、ウー老師の先達は説いた。

 そしていざ開戦すれば、最も重要なのは勢いだ。

 だらだらと無為に過ごし、責めては何もできず撤収を繰り返しては、兵は飽きる。勢いが削がれ、適当にそれらしく振舞えばいいとだらけていく。


 そうやって士気が落ち切ったところで目標を切り替えても、良し頑張ろう!とはならない。面倒くさいと溜息を吐きながら、不平たらたら足を運ぶだけだ。


 こうして士気の落ち切った軍が進軍を始めたところで、駆け付けた援軍に撃破された例は数知れず。兵法の教科書通りの敗北と言える。

 

 「三つめは、そもそも何の準備もしておらぬことです」

 「準備…兵を揃えただけじゃなくってことだよな」

 「左様。どうやら攻城兵器が使われた様子がない。これだけ高く厚い壁を備える場所を落とそうというのに、何の策もなかった…いやさ、壁を備えている事すら、調べていなかったのでしょう」

 

 情報とは、平地での激突だろうと、攻城戦だろうとなんだろうと、何よりも重要なものだ。

 敵の規模は、備えは。何が必要か、何が不利になるか。


 今回、ギメル男爵がクローヴィン神殿の情報を集めるのは容易い事だったはずだ。

 神殿は規模や外壁を秘匿しているわけではない。少しでも調べようと思えば、高く分厚い外壁を備え、隣国の襲撃があった際には、付近の住人を収容して立て籠もることが出来る施設だとわかったはずだ。

 

 「門を破る衝車は用意できんでも、せめて梯子を複数持参して、組み合わせるくらいはできますわな。

 そしていざ現地にいたり、これは攻城兵器がなければ越えられぬと判断したのであれば、さっさと撤退すべきでありますな。

 そして、末将は、人質を用いての開門はギメルめの策ではないと見ておりまする」


 片眉を上げ、ウー老師は男を見た。その視線に押されるように、男はこくこくと頷く。


 「おれぁ下っ端なんでくわしいこたぁわかんないですけど、あの野郎、昨日の夜あたっからえらく不機嫌で、今朝になっていきなり、別の村を襲いに行くっつって…で、呼び集められたんす」

 「それまでに毎日点呼を取るなどは?」

 「してねぇです。みんな、適当な家に入り込んで、好き勝手やってました。…だから、俺もあそこんち占領したんだってことにして、隠し通せたんですけど」

 

 幸いなことに、老夫婦は冬備えを始めており、保存食の用意があった。

 瓶に入った酢漬け(ピクルス)を齧り、占領者共がだらけ、惰眠を貪る間にこっそりとベーコンを茹でて食べ、なんとか生きながらえることが出来たのだ。

 

 「なんか、あの野郎のお友達の貴族共が、狩りに行って帰ってこねぇらしくって。だから、その仕返しに行くんだっつってました。

 連中、えらいはしゃいでましたけど、俺ぁ腹が痛いから残るって言って、なんとか逃げ出せねぇかなって、隠れてたんです」

 「それで何も追及されんかったのかの?」

 「なんにも…俺の他にも、めんどくせーからここに居るって残ってたやつがいました」

 

 おそらくそれが、竜騎士たちに討ち取られた残党だろう。

 村の娘たちが繋がれていた建物で何をしていたのか…それは、考える必要もない。

 

 「神殿を攻めていた一隊は、命令で残ったのかな?」

 「えっと、あの野郎は全員で行く気だったみたいなんすけど、へーこら野郎が自分が落としておきます見たいなこと言って、そんならやってみろってなって…」

 「人質を使った開門勧告は、今日が初めてだったんだろうか」

 「そうっす。…俺は、全然神殿の方に行かなかったから、もしかしたらあったのかもしんねぇですけど…今日も、娘っこと子供が引っ張られてくの見て、もったいねェって騒いでるのいたから…」


 拳を握りしめ、男は視線を落とした。

 村娘が何のために生かされていたのか、彼は当然わかっている。その建物に足を向けたいとも思わなかったが、まだ、理解はできた。

 だが、子供と言っていいような年頃の少年少女が生かされていた事を知った時、沸き上がったのは未知の害獣を見たような恐怖と嫌悪。

  

 匿っている五人がいなければ、「ガキも悪くない」とにやついていた奴に殴りかかるか罵るか、どちらかやっていただろう。


 「もっと前からやってたら、騒いでたと思うんす。だから、今日が初めてなんじゃねぇかなって」

 「ふむ。その推測は理にかなっておる。お主、胆力と言い頭の出来といい、ギメルなんぞよりよっぽど見込みがあるのう」


 褒められたのだと気付いて、男はぶんぶんと首を振る。そもそも、ギメルなどと比べられて見込みがあると言われてもあまり嬉しくもない。

 

 「ナランハル」

 「どうした?エリオ」

 

 掛けられた声に、男も首を振るのをやめて声の主を見た。

 西方人の特徴を備えた竜騎士が、後ろに小柄な老人と神官を伴って立っている。


 「司祭殿が改めて御礼を述べたいと」

 「お時間を戴き、誠に恐縮ではございますが…女神の教えに、感謝は必ず伝えよとも御座います故…。

 重ね重ね、ありがとうございます」


 深々と、老人と神官たちは頭を下げる。涙を必死でこらえている神官もいた。おそらく、神殿に保護された人々…もしくは、収容された遺体の、関係者なのだろう。

 

 「その礼は、彼らと…特に、彼に。彼が守り通したおかげで、五人もの命が救われました」

 「ロブから話を聞きました。本当に、ありがとう…!」

 

 老司祭に頭を下げられ、男はまた首を振る。おそらく今日は、彼の生涯で最も波乱にとんだ一日だろう。


 「司祭殿。お願いがあります。彼も神殿に保護してください」

 「お願いなど…むしろ、クローヴィン神殿は是が非でも恩人を招き、恩に報います」

 

 疲労した身体は、飛竜での移動には耐えられないだろう。しかし、あとはどうぞ、好きにして、と放り出すのはあまりにも無情すぎる。

 今後の殲滅戦を合わせたとしても、武勲第一は彼だ。

 その働きに報いるためには、まずは安全な場所に避難させるしかない。


 「良かった。どうも相手はかなり考えなしのようです。いきなり引き返してくる可能性もある。陛下の援軍が参られるまで、もうしばらく門は固く閉ざして防衛に徹してください」


 ファンの懸念に、老司祭は頷いて同意を示した。


 「…あの手の輩、二十年前に幾度と見ました。油断は致しませぬ」

 「そうでしたか…。でも、本当にあと数日ですからね。十日もたたずに、この戦いは終わります」

 「ええ。信じております。聖王陛下も、あなた様も」


 老司祭は無駄と言われながらも、常に一月は籠城できる備蓄を用意していた。

 あと十日足らずなら、問題なく門を閉じて籠ることのできる量だ。

 それになにより、昨日までとは皆の目の輝きが違う。


 非道を目の前で粉砕され、援軍が来ることが知らされ、更には村から生存者が救出された。

 

 もちろん、新しく知り得た絶望もある。今も、膝をつき嘆く者は何人もいる。

 だがそれでも、息が詰まるような不安の中、ただ敵が去ってくれと祈るよりははるかに良い。


 「敵は北に向かったらしいんですが、北には村が?我が軍が救援に向かった村があるとは聞いていますが」

 「正確にはやや北寄りの東でございます。…おそらく、村の者から聞き出したのでしょう。

 このあたりの村へ向かう道はありません。道を作っても荒地が飲み込んでしまうのです。

 我らは岩や丘の形で方角を知り、迷わずまっすぐ行くことが出来ますが、よそ者にそれは難しい」

 「…白樺の木を辿るんです」

 

 口を開いたのは、神官の一人だ。眼が真っ赤に充血しているのは、彼もまた、絶望を見た一人だからなのかもしれない。

 

 「半日ほど北に行くと、白樺の小さな林があり、そこからぽつぽつと白樺がはえています。その木を辿ると、泥炭ボグにも捕らわれずに村へ着くんです」

 

 おそらくそれは、遥か昔には存在した道の名残だったのだろう。

 その道をどうやって聞き出したのかは、想像に難くない。ファンの視線も地に向いた。

 

 「朝に人を集めたと言っておったなあ。なれば、引き返すには面倒な距離は移動しておるか。日も落ちてきたことであるし、おそらくその白樺林で今日は野営、というところですな」

 

 人の心理として、何もないところで夜を越すよりも、少しでも壁になりそうなものがある場所を選ぶ。

 それに、神殿がどうなったかも気になっているはずだ。落ちない神殿に興味を喪ったわけではあるまい。ただ、落とせないことから目を背けたくなっただけなのだ。

 残してきた部隊が追いつける程度の場所に陣を張るのだ、というのは、この場所を野営地に選ぶ十分な理由になる。

 ただ単に、寒くて疲れたから今日はここまで、と言うより聞こえがいい。

 唯一の目印ともなる林の側なら、合流は容易い。

 

 「そうだね。それはありえる。なら、まだ村は無事だな」

 「すでにヤルトミク殿も布陣を終えておりましょうしなあ」


 ファンの視線が地から天へと移った。

 その瞳と同じ色に染まる月は、まだ昇ってきていない。

 ゆっくりと夕暮れに変わっていく空は、地上の悲劇など気にした様子もなく澄んでいる。


 「ミクに合流する。行くぞ」

 「御意」


 クロムと竜騎士らの声が唱和した。その横でうへぇとウー老師は顔を顰め、懐から睡眠薬入りの小瓶を取り出す。


 「ファン、ひとつ頼みがある」

 「どした?」


 低く、けれどはっきりとした声に、ファンはユーシンに視線を向けた。

 あまり聞かない声だ。時間的にはそろそろ腹が減ったと騒ぎだす頃合いだが、そうではないように思える。

 

 「百…いや、十でもいい。俺に一部隊、貸してほしい。どうしても、一番槍を取りたいのだ」

 

 その双眸に、一番槍の名誉や戦働きの高揚を求める色はない。

 

 「俺は、あの騎士殿を侮辱…?ではないか。とにかく、悪いことを言った。だから、俺が変わって応報する。そうせねばならん」


 宿すのは、強い決意と、戦士の誇り。

 

 「そうか」

 「そうだ」


 断れば、おそらくユーシンは単騎駆けを敢行するだろう。むしろ、そうしたいはずだ。

 それでも兵を貸してくれと言うのは、己の身の安全を考えてのことではない。

 一軍を後目に単騎駆けなど、その軍の将を侮辱しているようなものだ。

 だから、それはやらない。あくまでも紅鴉親衛隊の一部隊として動くから、己にも戦わせてほしいとユーシンは訴えている。


 一年前なら、ユーシンは構わず駆けたはずだ。

 その独行に軍が引き摺られ、思わぬ被害を出したとしても構わずに。


 「わかった。今回は包囲殲滅しかないと思っている。それなら、将は最低二人必要だ。右翼バルウン・ガル左翼ジャウン・ガル、どちらかをユーシンに任せたい」

 「それを念頭に置いて編成ですな。では、末将はまた夢の世界に旅立つますので」


 総大将が許可を出し、軍師がそれを認めたのであれば、つまりは決定事項だ。


 「ああ!」


 いつもの快活さを取り戻し、ユーシンは左胸を拳で叩いた。アスラン軍の作法だが、これよりは一時、紅鴉親衛隊の部隊長だ。その礼法に従うのは当然だろう。


 「なんつうか、そのギメルとかいうやつは間違いなくクソ野郎だが」

 「うん、なんとなーく、言いたいことわかったよ」

 

 クロムとヤクモは目を合わせ、何とも言えない苦笑を浮かべた。


 「鼠の糞くらいは同情する。絶対に勝てない戦い…にすらなんねぇか。裁判も何もかもすっ飛ばして処刑だからな」

 「そだねぃ…」

 

 ユーシンは間違いなく、敵にとっての死そのものだ。

 その剛槍が最も得意とするのは、対人間相手の乱戦。

 ギメルがどれほどの手練れかはわからないが、ユーシンより強いのであれば、冒険者の間でも名前くらいは聞いただろう。


 武力に勝る将が、数と精度に勝る兵を率いて殺到する。

 

 それはもう、戦ではなく、一方的な蹂躙だ。

 ギメルらが、武器を持たない村人たちにそうしたような。


***


 老司祭らが神殿の門をくぐり、重たい扉が閉まったのを確認してから、ファンたちは飛竜に跨った。

 

 西の空は赤く燃え、目指す東は群青色に染まっている。一番星は青の中で白く輝きながら、月が昇るのを待っているかのようだ。


 「気温が下がっているから、しっかりくるまって風を通さないようにな!」

 「うん!」


 ファンの言う通り、舞い上がった上空は、昼間よりもずっと寒い。

 吹き付ける風は冷気そのもので、吐く息は見る間に白く散る。

 

 人には肺腑すら凍えるような冷たさだが、飛竜たちが意に介した様子はない。もともと、飛竜の故郷はもっと寒い場所だ。


 ぐんぐんと風に乗り、飛竜たちは東へと駆ける。

 ぎゅっと鞍の取っ手を右手で掴み、左手で被る毛皮を引き寄せながら、昼間とは違う夜空の色をヤクモは楽しんだ。


 すでに地上はただの黒い連なりと化している。よくよく目を凝らせば、時折ちかりと光るものが見えるが、それが何なのかはわからない。話に聞く鬼火ウィスプだろうか。旅人を明かりで誘い、沼に引きずり込むという。

 

 そうであっても、空を往く自分たちは惑わされないもんね、となんだか得意になって、次の光るものを探した。


 「…あれ?」


 光るものは、それほど間を置かず見つかった。

 飛竜の首の向こう。つまり、進行方向に。


 橙色に瞬く光。

 それは近付くにつれ数を増していく。


 「着いたな」

 「ええ。下降に移ります」


 ファンの声に、ボオルが答える。

 飛竜たちは翼を窄め、先ほどよりはずっとゆっくりと地上へと高度を下げていく。


 「ほああ…」


 橙色の光。それは、明々と燃え、規則正しく並んだ篝火だった。

 数は、十や二十ではない。五十か、もしかしたら百か。


 篝火は光の道を作り、その道と道に挟まれ、照らされた場所を目指して飛竜たちはおりていく。


 光の道の先。そこに並ぶのは、揃いの装備に身を固めた兵。

 ずらりと並ぶ兵の数に、ヤクモは飛竜の鞍の上で身を固めた。


 これほどの兵が並ぶのを、ヤクモは見たことがない。

 紅鴉親衛隊、千人と聞いてはいたが、それがどれほどの規模なのか、ヤクモは想像しきれていなかったことを知った。


 どこまでも続いているかのような兵の壁は、実際には十人十列がさらに十列並んだ陣容だが、「ものすごくたくさん」としか思えない。


 兵たちは微動だにせず、槍を携えて直立している。

 その兵の前に立つのは、兵とは違う鎧を纏った男だった。


 偉丈夫、とはまさに彼のようなものを指す言葉だろう。

 

 黒鉄の鎧は装飾がほとんどなく、ただ胸甲の中央に金色の鳥が象嵌されている。

 頭頂部以外は短く刈り込まれた髪の色は、鎧と同じ黒。篝火に照らされた顔には、大きな刀傷が走っていた。


 「ナランハル、千歳申し上げる!」

 「「千歳申し上げる!!」」


 声の津波に晒され、びくりとヤクモは肩を震わした。後ろからエリオがそっとその肩を叩き、大丈夫、取って食いやしませんよ、と宥めてくれる。


 「ああ。皆、よく来てくれたな」


 ファンの声に、ざん、と空気を鳴らして偉丈夫を含めた兵たちは片膝をついた。

 全員が左胸に拳をつけ、軍礼での最上級の敬意を表す。

  

 ヤクモはもちろん、ファンがアスランの王子だということを疑ったりはしていない。それっぽくないな、とは良く思うし、そうであることも普段は忘れているけれど。


 だが、この光景に、ヤクモは初めて理解した。


 ファン・ナランハル・アスランが、王子であるということを。

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