サアールの王宮
昼の刻を告げる鐘が、リンゴンリンゴンと鳴り響く少し前。
アレンとザウは、サアールの王城の広大な敷地内に入っていた。
サアールの王城は、海原を一望できる小高い丘の上に建っていた。
アレンは大腕を振って、城門へと続く石畳の道を歩いていた。
ザウは、アレンの後を歩いていた。
海原から運ばれてくる潮風で、ザウの白い髪がゆらゆらと揺れた。
城へと続く道は、天に登る龍の背のように曲がりくねっている。
美しい景観を妨げるような塀や堀は無い。
道のりは長く、歩いて城にたどり着くには、それなりに体力と時間が必要だ。
このような広い敷地の真ん中にある城へ向かうのに、徒歩で向かおうとする者は、世界中探してアレンくらいだ。
「ザウ、父上から何を話されるのだろうか?」
アレンは遠くに聳え立つ城を見つめながら呟いた。
ザウは口元を少しだけ緩めて、静かに答えた。
「……私には検討もつきませんね」
「もしや許嫁を貰え、とでも言われるのだろうか?」
「……」
ヒョコヒョコと犬耳を跳ねさせるアレン。
ザウはゆっくりと歩きながら、何も言わずに微笑んだ。
「許嫁か……僕の許嫁」
アレンは風に揺られた稲穂のように首を左右に傾げ、口をへの字に曲げた。
長い道の終わりが見えてくる頃には、アレンの口は少しだけ開いていた。
「ふぅ……ふぅ……」
一度立ち止まり、乱した呼吸を少し整えた。
二人が装飾された城門に近くと、重々しい音を立てながら門が開き始めた。
「ご苦労様です」
アレンは門番の兵士に挨拶をした。
門番の兵士はアレンに向かって、深く頭を下げた。
城の敷地内に入り、王宮へと向かう二人。
中庭の噴水が風に吹かれて水飛沫を上げた。
「わぁ冷たい」
アレンの頬に水滴がかかる。
その時、上空からピィヒョロロロロと鳥の鳴き声が響いた。
「ん?鳥?」
アレンは甲高い鳴き声を耳にして、足を止めて上空を見上げた。
「どこかな?」
その場でぐるりと回った。
鳴き声の主は、その場で一回転する前に見つかった。
3羽の一際大きな鳥が、はるか空高くからアレンとザウを見下ろしていた。
「ザウ、あの鳥は?」
「鳶という鳥ですね、鳥類の"神獣"の中では最も位の低いとされています」
神獣とは、人よりも位の高い獣の事だ。
神は選り好みした神獣を側に置き、最も信頼できる側近として寵愛すると言われる。
人の言葉を理解し、会話する事もできる知能の高い獣だ。
ザウは東の方角に指を向けた。
「サアールの東方に聳え立つ大樹に、彼らの巣があります」
「ふむ、位の低い……という事は弱いのか?」
「人が闘いを挑んで勝てるような存在ではありませんよ?興味がおありなら、王の話の後に説明します」
ザウはそう言いながら、アレンの背中を優しく押した。
3匹の鳶は鳴き声をあげながら、二人を見下ろしていた。
王宮に入り、王の待つ王室に入った二人。
王座にはサアールの王であり、アレンの父であるヨーゼン王が座っていた。
アレンと同じように、犬耳を生やしていた。
「父上……」
アレンとザウは敬意を込めて、深く頭を下げた。
愛息子を見て、愛おしそうに目を細める王。
ヒョイヒョイと手招きをしている。
「おお、アレン!今朝ぶりではないか!こっちに来い!」
「父上、お断りいたします」
アレンは酸っぱいものを食べたような表情で、首を左右に振った。
ヨーゼン王は王座から立ち上がって狼狽えた。
「何故だ!?」
「率直に申し上げます、頬擦りされるのが嫌だからです」
「そ、そうか…お前もそんな年になったか…」
「王が私のような年頃の時、お髭にジョリンジョリンと頬擦りされたい!と思いましたか?王の愛はひしひしと感じています」
アレンは胸に手を当てて、微笑んだ。
「思わんな……なるほど、暑苦しい父を許せ、息子よ」
ヨーゼン王は泣きながら、咳払いをした。
誰がどう見ても王が、王子を溺愛しているのが分かる。
溺愛しすぎている、とも言えそうだ。
「話がある…お前もそろそろ姫を迎える年頃だな…」
「17になったばかりの私に……姫を?」
予想が当たった事に、アレンは目を丸くした。
「今宵、宴を開く…選り抜きの賢く美しい娘達を招く予定だ」
「つまり、私の好きな娘を選んで良いのですね?」
「ああ、そうだ」
アレンは胸を撫で下ろし、目を閉じた。
王は息子の様子を見てガハハと笑った。
「私は息子の目を信じているぞ」
「ありがとうございます、王よ」
王は口を閉じ、鼻から息を漏らした。
不安そうな表情で、肩を落とした。
「最近、ドドラの牛の神が各国を荒らし周っているそうだ……お前には早く結婚してもらい、国としての結束力を高めたいのだ」
「守り神のいない我らの小国は…。あ攻められれば……ひとたまりもありませんね」
アレンの犬耳は、しおしおと垂れた。
「誰もが分かっているさ…今更軍備を強化しても無駄とな……」
王は苦笑しながら口から漏らした。
サアールにも国軍はいた。
が、大国と戦争をできる程の戦力を保有していない。
それでもサアールは、長年戦争をせずに国を繁栄させてこれた。
様々な方法によって、争いを避ける方法を知っている国である。
そんな国でも、強大な力を持つ略奪者に対しては無力だ。
「できるだけ民に不安が広がらぬように、今は暖かい話題が必要なのだ」
アレンは胸に手を当てて、頭を下げた。
「承知しました、王よ……喜んでお受けします」
「お前を国のために利用するように使ってしまって、すまないな」
「国の為に生きるのが、王と王子の務めです」
アレンは凛々しい表情を見せ、王を安心させた。
その後……王子の部屋では。
「くっふぅ!王よ!父上よ!唐突すぎます!気が重いですー!!」
アレンはベッドの上で、のたうちまわるように暴れていた。
ザウは椅子に座って、その様子に耳を傾けていた。
天蓋付きのベッドは小刻みに揺れていた。
部屋の窓は全て開けられ、爽やかな風が入り込んでいた。
しかし、そんなそよ風ではプレッシャーに押しつぶされたアレンの気持ちを、空高くまで高揚させるには力不足だった。
「私としては成長を感じて感動してしまいます、貴方様も……もう一人前なのですね」
ザウはそう言って、目元を人差し指でそっと拭った。
ベッドのシーツを破る勢いで、バタバタと暴れてアレンは、突然動きをピタリと止めた。
シーツに押しつけていた顔をあげ、ピカッと光そうな明るい笑顔をザウに向けた。
「そうだザウ!我が許嫁にならぬか?僕はお前の事が大好きだぞ?」
思いつきではあるが、一心一途な想いを嘘偽りなく、言葉に乗せて言い放ったアレン。
ザウはクスクスと口元を手で、隠して笑った。
「とてもとても嬉しいです、ですが、お断りいたします」
「なんの澱みもなく断られた……」
「どうか一歩前に出て、素敵な乙女を射止めてください」
ザウはやんわりと、しかしキッパリ突き放すように言った。
ザウの方が年上ではあるが、それほど離れた歳の差ではない。
アレンが求婚しても、決しておかしい話ではない。
「なぁああんでぇだぁあ」
アレンは再び、シーツに顔を埋めた。
再びシーツの海原を当てもなく、バタ足で泳ぎ出した。
「私は……相応しくないのです」
ザウは少し俯いて、肩を落とした。
アレンのバタ足が激しさを増す。ベッドが小刻みに音を立てだす。
「ザウが我が妃となれば、夢のような生活が送れると思ったのにな……」
「毎日、剣の修行がしたいのですか?」
「そうだっ……そーいう事だっ」
アレンのバタ足が、より一層激しくなった。
部屋の置物が小刻みに揺れ出した。
ザウは眉を曲げて、王子の機嫌を直す策略を練った。
アレンと長い付き合いの彼女は、すぐに妙案を思いついた。
「気分転換に、先程の神獣のお話をしましょうか?」
ザウがそう言うと、アレンの犬耳がピョコンと立ち上がってた。
ガバッと起き上がり、ベッドから飛び降りた。
「聞くっ!!香茶と菓子を用意せねばな!」
「では、眺めの良い東側テラスの方に移動しましょう」
二人は部屋を出た。
メイドに菓子と紅茶、そのほか必要な物を言い伝えて用意させた。
城の壁面にあるテラスは、大地側の景色が楽しむ事ができる。
青い海と緑の大地、どちらの眺めも楽しめるテラスは年に何度か国民を招待して、茶会を開いたりしていた。
二人きりで使うにしては、テラスはやや広すぎた。
ザウはとても大きな本を、一冊抱えている。
「いつもの席にしましょう」
「うん、そうしよう」
1番眺めのいい席を選んで、向かい合うように座った二人。
メイドが銀装飾された台車で、茶道具と菓子を運んできた。
小さな焼き菓子は宝石箱の中からこぼれ落ちたように、華やかなで彩りに豊かなものばかりだ。
ザウはメイドに向かって、微笑みながら一礼した
「ありがとうございます」
そう言ってメイドを下がらさせて、香茶を淹れる準備を始めた。
目の見えない彼女は、慣れた手付きでティーポットに茶葉を適量入れてお湯を注いだ。
椅子に座ったアレンはお手手を膝の上に乗せいる。
お行儀よく大人しく待ってはいるが、気持ちを抑えきれないようで、犬耳を微かに動かしている。
ティーポットを傾けて、ふたつのカップに香茶が注がれていく。
「さぁ、一口いただいてから話をしましょう」
待ちきれないアレンの犬耳が、ヒョンヒョンと跳ねだした。
二人はカップの香茶の香りを嗅いで、口に含み、口内で香りを広げる。
「雪解け後の崖の上に咲いた花の香り……」
「凄い表現をしますね」
「今日はいつもと違う茶葉だね、ザウ」
「ご名答です王子」
アレンは目を閉じて、鼻をスンスンと鳴らした。高まりすぎた興奮は少しだけ収まったようだ。
アレンの指先が、焼き菓子に引き寄せられていく。
「さて、お菓子を楽しみながら聞いてください」
「うんっ」
ザウは本を開いて、神獣について語り始めた。
爽やかな風が吹きはじめ、二人の時間を優しく包んでいった。
神獣は自然界に生息している事。
知力、生命力、共に人よりも遥かに優れている事。
神が気に入った神獣を側に置き、執事として、友として、最高の近衛兵として寵愛する事。
人よりも位が高く、敬意を払わなければいけない事。
そこまでは、アレンは小さく頷きながら話を聞いていた。
しかし、ある知識を聞いた瞬間。犬耳がビクンと跳ねあがった。
「なんと!神獣は人の姿にも化けられると?!」
アレンは茶菓子のカケラを、手からこぼしてしまった。
「魔術を使って人の姿になっているのか、元々そのような能力を持っているのか……その真実は神しか知りません」
ザウはそう言って、本を閉じて膝の上に置いた。
「神獣の姿、実際に近くで見てみたいな」
「東方にある鳶の巣に行って、運が良ければ会ってくれるかもしれませんね……」
ザウは苦笑しながら、アレンの頬についた菓子のカケラを指でつまみ取った。
「その言い回し、神獣とはどうやら相当に気難しいようだ」
アレンは懐からハンカチを取り出して、夢中になりすぎた自分を戒めるかのように、口元を綺麗に拭いた。
「昔、何度か王と共に訪れた事があります……一度も会っては貰えませんでした」
「人よりも位の高い獣か……きっと気高い生き物なのだろうな」
ザウはティーカップをソーサーの上に、音を立てずに置いた。
「さて……王子、今宵訪れる素敵な乙女達の心を射止める為、素敵なお召し物を……」
「……うむ……こころえている」
アレンの眉根が下がった。
犬耳はぺたんと萎れたように伏せた。
アレンのプレッシャーを感じ取ったザウは、苦ずっぱい物を口の中に突っ込まれたような表情になった。
「来てくれる娘達に申し訳ないのだが、我が妃は自分の意思で自由に選びたい……好きな娘と結ばれたい」
「王子……それは」
「分かっているよ……王子の僕にとってそれは我儘だとね」
爽やかな風が止み、二人の間には沈黙が流れた。
アレンは席から離れて、テラスの端にある塀に腰掛けた。
両手を広げて、天を仰ぐように叫んだ。
「僕には民を幸せにする責務がある!その為に生まれてきたのだ!だから我儘など言っていられない!」
アレンの表情は、国の上に広がる快晴をそのまま写し込んだように、少しの曇りもなく、晴れ晴れとしていた。
「例え……どんなに好きな人に出会えたとしても、愛を育めない場合もあります……それはとても辛い事です」
「経験があるのかい、ザウ」
「ええ、ありますとも」
ザウはそう言いながら、ティーポットに残った香茶を自分のカップに注いだ。
長い時間をかけて、茶葉から抽出された茶は、最初よりも濃く、味わいも渋くなっていた。
「僕にも残りをおくれ、ザウ」
アレンはニコリと笑った。
ザウは首を傾げた。
「渋味が出ていますよ?」
「それも香茶の味の一つだよ」
アレンとザウは静かに笑い合った後、カップの香茶を飲み干した。
登場人物紹介
[ヨーゼン王]
アレンの父、サアールを統治する王。
妻を亡くしており、アレンを溺愛している。