7 鉄槌
フェルメールを出て、南を目指して道なりに進んで行った一行は、並木道とでも言うのだろうか、林でも森でもない木々の立ち並ぶ道をひたすら歩いていた。すると、ポツリと雫が頬に当たり、リクスは空を見上げた。
どんよりとした暗雲立ち込める空。
曇天の空から、一つ、二つと雫が落ちてきて地面を濡らしたかと思うと、すぐにザァーっという音が辺りに響いた。
「わ、降ってきやがった」
一気に降り出した雨は土砂降りと言える程の勢いで、このまま濡れ続ければ確実に体が冷えてしまう。皆は足を速めて走り出した。
どこか雨宿りできる場所はないかと辺りを探しながら走っていて、やがて前方に薄っすらと、雨の間から見えてきたアーチ。街に入れば宿屋があるだろう、なくても店や家があるだろうから雨を凌ぐ事くらいは出来そうだ。そう思って喜びかけたが、それは道端に見えてきたもう一つのものによって掻き消された。
人が、倒れている。
「大丈夫ですか!」
見えた瞬間にリクスは叫んでいて、スピードを速めてその人物の方へと向かった。胸に大きな三本の切り傷のある四十代後半くらいの男性を、傍にしゃがみ込んで見やる。傷から血は出ていない。
「しっかりして下さい!」
リクスが男性に声をかけ、スフィアはすぐさまベルを取り出すと治癒術をかけ、キースとミレニスは眉を顰めて辺りを警戒している。
すると呻き声を漏らし、男性は薄っすらと片目を開けた。
「何があったんですか」
「……あ……ま、魔物が……街を……――」
しかし最後まで言い切る事無く、力尽きた様に男は目を閉じ、それきり全く動かなくなってしまった。
リクスが触れた時、男性の体は冷え切っていた。この雨のせいで体温が奪われ、すでに命の灯が消えかかっていたようだ。スフィアの治癒術は間に合わなかった。
それでも、この男性に時間を割いている余裕はなさそうだ。先程、「魔物が街を」と言っていた。男性の傷を見ても、魔物に襲われたという事が窺える。
リクスは立ち上がり、街を見据える。
「行こう」
石造りの塀に囲まれた、古めかしいその街。塀はところどころ欠けてしまっていて、色褪せ、コケが生えている所もあるほどで、歴史を刻み込んでいる。街を塀で囲む昔の風習が残されているという事は、相当歴史の古い街なのだろうと思う。今の街や村には、シンボルのように入り口に立つアーチだけしか残ってはいないから。
そして、街を護る結界の役割を果たしている筈のメルクリウスは砕けて地面に落ちていた。
それが何を物語っているのかを肌で感じながら、街へと入る。
古都、ノヴァーリスへ。
入り口に一歩足を踏み入れた途端、視界一杯に広がったその光景に誰もが目を見開いて立ち止まった。
半壊している家。倒れている人。血が飛び散った地面。燃えている木。雨で鎮火される炎。立ち込める煙。それはフィエスタの惨状とよく似ていて、あの時の気持ちがフラッシュバックするようで、気分は最悪だった。
そうしてリクス達がフィエスタを思い出している中で、ミレニスは一人、血に染まった光景を思い出していた。
死神から逃れるように逃げ惑う人々、ぶつかり合う金属音、恐怖と絶望に打ちひしがれたような嗚咽、断末魔と呼べる悲鳴……そして、血に濡れた手と、目の前に横たわる人とは最早呼べぬような冷たくなったモノ。
それらの記憶が思考を支配して、それ以外の何も見えない。聞こえない。
「ひでえな……魔物の襲撃だけでここまでなるもんなのか……?」
「どうしてこんなことに……メルクリウスが、壊れたから?」
「もしくは、魔物が入ったことでメルクリウスが壊れたか、だな。どっちにしろ、マズいことに変わりはねえ」
今まで、メルクリウスが壊れたという話は聞いた事がなかった。それ故に、リクスもキースも驚きを隠せないでいる。
「スフィア、死ぬさせない。助ける」
「待って! 一人じゃ危ないよ!」
走って行ってしまったスフィアを追って街の奥へと走って行くリクス。
「リクス! スフィア! ……くそ、これじゃホントにあの時と同じじゃねえか」
ここも、フィエスタの二の舞になってしまうのだろうか。そうなった時、自分は正常でいられるだろうか。
否、そうならないようにしなければならない。あの光景を再び目にする事など、あってはならない。
乱暴に頭をかき乱すと、前を見据えたままミレニスに声をかける。
「俺らも行くぞ、ミレニス」
しかし、返事はない。
「……ミレニス?」
全く反応を示さないのは珍しいと、不思議に思ってミレニスを見たキースは目を見開いた。
呆然と立ち尽くしているミレニス。いつも表情を崩さないミレニスの顔は蒼白で、その目には何も映っていないかのように虚ろで、恐怖の色を宿している。
「ミレニス……ミレニス!」
異常事態だと、ミレニスの両肩を掴んで体を揺さぶれば、ミレニスはハッとしたようにキースを見た。その目はつい先程、見たものとは違っていて小さく安堵の息をついた。
「キース……」
気が付いて数秒、キースの事を見ていたミレニスだったが、次第に意識がハッキリしてきたらしく、キースの顔が目前にあるという事を認識した瞬間、キースの頬を殴り飛ばしていた。
「何をしているのだ、貴様は!」
殴られた衝撃で転び、尻餅をついているキースは殴られた頬を摩りながら疑問符を浮かべている。
「何すんだよ」
「それはこちらの台詞だ! 貴様、わざとだろう!」
ただ普通に気付かせたつもりだったのだが、また何か気に障る事をしたのだろうか。だがやはり身に覚えはなく不思議に思っているのだが、それでもいつものミレニスに戻った事に安堵して立ち上がった。
「とりあえず、そんだけ元気があんなら平気だな。ここまでの大惨事を引き起こした魔物だ。あいつらだけじゃ頼りねえ」
「判っている。僕らも行こう」
リクスとスフィアが居ない事ですぐさま状況を理解したミレニスは頷き、それにキースが頷いて返すと駆け出した。
中は、外から見るよりもずっと酷い惨状だった。
そこら中に倒れている人達を横目に走り抜ける。何かが焼け焦げる匂いと血の匂いが混じり合い悪臭が漂っていて、眉を顰めた。
恐らくこの街の中心部であろう広場のような所に差し掛かると、魔物の姿とリクス達の姿が見え、キースは剣を引き抜き、ミレニスは薙刀を握りしめ、赤い毛並みを持つ狼――レッドガルムに向かって行く。
「空刃!」
放たれた剣気の刃がレッドガルムに当たる。
「雷閃衝」
薙刀を高く掲げると電気が刃先に集中し、地面に突き刺すと電撃が向かって行き、レッドガルムを撃ち抜いた。
すでに戦っていたリクスとスフィアが、キースとミレニスに気付き、合流する。
「悪い、遅くなった」
「ううん」
「しっかし、レッドガルムは火属性なのに、何で雨の中で動けんだ」
降り止む事のない雨。
リクス達はすでに長時間、雨に打たれている為にびしょ濡れになってしまっていて、それはまるで川の中に入ったかのようだった。最早、気にする事すら意味がなく、気にしている余裕すらない。
そんな環境で火属性の魔物が動けるというのは、尋常ではない。
「恐らく親玉がいるのだろう。そいつがレッドガルムに力を供給しているか、又は雨でも平気なよう、それぞれに結界を張っているのかもしれない」
つまりは弱点である水は効かず、力を供給しているのならばレッドガルムを幾ら倒しても効果はない。大元を断たなければいけないという事だ。
この近くに居るであろう親玉を捜し出さなくては。
「奥に進もう。あっちの方が燃えてるってことは、あっちにいるよね」
この大雨の中でも燃え続けている炎がある事に気が付き、更に奥へと向かって進み始めた。
向かって来るレッドガルムを蹴散らしながら、瓦礫を踏みながら、雨と煙に目を眇めながら、必死に腕でガードしながら走って行くと見えたのは、一つの大きな炎の塊。リクス達がその近くに到達すると、気配を察したのか足音が聞こえたのか、ソレは振り返った。
「何、あれ」
「あれは……!」
真っ赤に燃え上がる炎に包まれた、二つの頭と鋭い牙を持ち、威嚇するように低く唸るソレは。
「オルトロスだ」
呟いたのはミレニス。
「オルトロスだと!? 何でそんなもんがこんなとこにいやがるんだ!」
「僕が知る筈ないだろう……随分、厄介な親が居たものだな」
ミレニスとキースが話している内容をスフィアは理解していない。リクスもハッキリと理解している訳ではないが、その威圧感は感じた事のあるものだった。サンドワームよりももっと強く禍々しいそれは、ルヴナントクリーヴァと遭遇した時に感じたものに似ていた。
街中での戦闘。今リクス達が戦わなければ、この街がどうなるか――。逃げる訳には、いかない。
「あれを俺らだけで倒せってか……無茶なこと言うな……」
「でも、やるしかないよ。このまま野放しになんかできない」
「ああ。この場で倒さねば他の街も、いずれこうなるだろう」
「スフィアやる。街、助ける」
決意は固いようで、逃げるなどという選択肢は誰も持ってはいなかった。
「ヤバくなったら逃げるからな。保護者として、それだけは譲れねえ」
キースの言葉にそれぞれ頷くと、頭を下げて体を低くし戦闘態勢に入ったオルトロスに武器を向けると、スフィア以外が地面を蹴って飛び出した。
早々にリクスとキースは衝破と空刃の衝撃波を打ち込んで怯ませ、そこにミレニスが雷を落とす。そしてオルトロスの間合いに入り込んだリクスとキースで、オルトロスの二つの頭をそれぞれ斬りつける。
そこに、スフィアのベルの音が鳴り響き、リクス達が飛び退いた直後にオルトロスの真下に現れた水色の氷の紋章から握り拳の氷像が出現し、オルトロスを空中へと押し上げた。
怒涛の攻撃に、さすがのオルトロスもダメージを受けただろうと見た姿は、攻撃をする前と何ら変わらなかった。
それどころかこちらを睨み付け、宙に浮いたまま咆哮する。その雄叫びは周囲の空気を振動させ、自身の炎を燃え上がらせた。その炎の勢いは凄まじいもので、雨が降れる前に蒸発している。そして炎はオルトロスから離れると球となり、咆哮して震える空気の振動に乗って無数の炎の球がリクス達に降り注いだ。
剣と薙刀で炎の球を斬りつつ避けているリクス・キース・ミレニスの三人。スフィアの武器は近接戦闘用のものではなく、護る術は無いと言っていい。護らなければ――そう思った時、スフィアがベルを高々と上げた。
「逆巻く激流-プレストガイゼル-!」
地面に現れた幾つもの蒼い水の紋章から水流が噴き出すと、炎の球が当たり蒸発して消えていく。
炎が蒸発した事で霧が立ち込める中、オルトロスは地面に降り立った。空気と同様に地面が振動する。
「……強い……!」
「ああ。今までとは比べ物にならねえ」
「冥府の番犬の名は伊達ではないらしいな。だが、負けられん」
薙刀を握り直すミレニスを見て、キースがすぐさま地面を蹴って飛び出す。
剣でオルトロスを斬りつけ、その間にミレニスは薙刀の柄の先で地面を突いてオルトロスを見据える。
「奔る稲妻-ヴォルテックビート-!」
雷が地面を奔るようにオルトロスへと向かって行き、直撃するとオルトロスの動きが止まった。
「荘厳なる紫水よ 凍気を纏い四肢を駁せ。水主の制止-シー・リストレイン-!」
ベルを右手で持ち、オルトロスへ向けるとベルの前に浮かび上がった水の紋章から発生した水は、真っ直ぐオルトロスへと向かい四肢に絡みつき、地面ごと瞬時に凍りつく。
ミレニスの雷とスフィアの氷でオルトロスの動きは完全に停止しており、この期を逃す手はない。リクスとキースがギリギリまでオルトロスに近付き。
「牙針!」
溜めて同時に踏み込むと、両側から強烈な突きを打ち込んだ。
左右からの同時攻撃を受けたオルトロスはそれでも尚、リクスを、キースを睨み付け、右の頭はリクスを見たまま大口を開けると炎が収束し、左の頭はキースを見たまま牙をむき出しにし、研ぎ澄まされた爪を振り上げた。
口から放たれた炎を防ぐリクスだったが、防ぎきれずに炎は右脇腹を直撃し、振り上げられた爪は、逃れようと後ろに飛び退いたキースの脚を引き裂いた。
「っ!」
「ぐっ!」
炎が当たった衝撃で飛ばされ、地面に叩きつけられるリクス。足を掠めた爪は肉を斬り、血が飛び散る中、地面に倒れたキース。
地面に落ちると、バシャンと泥水がはねて飛び散った。
「リクス!」
「キース!」
オルトロスから視線を外す訳にも駆け寄る事はままならず、その場から名を呼んでみると、リクスとキースは呻きながらも体勢を立て直そうとしている。けれども負った傷は深く、血は止まらない。
雨に血が混じっていて、見ているだけでスフィアは目を眇めている。
その間にもオルトロスはリクス達に向かって歩き始めようとしていて、ミレニスは薙刀を握りしめた。
薙刀を真っ直ぐ垂直に持ち、手を支点に薙刀を縦に一回転させるとオルトロスの頭上に十二本の雷の刃が出現し、薙刀の刃が頂点に来ると全ての雷の刃がオルトロスを囲むように地面に突き刺さった。
檻のように配置されている雷の刃。当たればオルトロスと言えども無傷では済まない。足止めくらいにはなるだろう。
その間に策を講じなければと思い、ミレニスはスフィアを見る。
「治すする……!」
「やめておけ。あれだけの傷はすぐに癒えない。リソルト・カルマートは時間を要する治癒術だろう。その間に全滅する」
「やだ!」
「今はオルトロスを倒す事だけを考えるんだ。それが、リクスとキースを救う最善の方法だからな」
傷は深そうだが、致命傷となってはいないらしい事は、未だ動こうとしている様子から窺える。
それでも、のん気にしていられる状況ではない。キースは足の怪我だけなのですぐにどうこうなるものではないが、問題はリクスだ。腹部の傷から溢れ出る血が止まらなければ、そう時間がかからずに命を落とす事になる。
一刻も早くオルトロスを倒してスフィアに治癒術をかけてもらわなければ、助かる見込みはないだろう。
前衛二人が戦えなくなった今、支援に人員を割く余裕など微塵もない。
ミレニスの言葉は理解できずとも意志を受け取ったスフィアは、辛そうに眉を顰めながらもベルを握り締め、頷いた。
「行こう」
走り出すミレニス。同時にスフィアは詠唱を始める。
「雷刃-グロームブレード-!」
ミレニスの言葉に、オルトロスを囲んでいた雷の刃がオルトロスへと刃先を向けたかと思うと、そのままオルトロスを貫いた。
そこにリンッとベルの音が鳴り響く。
「逆巻く激流-プレストガイゼル-!」
地面に現れた幾つもの水の紋章。その中の一つから水流が噴き出し、オルトロスの体を下から貫く。オルトロスが動いた先で、水の紋章に触れると水流は噴き出し、その度にダメージを蓄積していく。
「爪波!」
右から左へと薙刀を振り、そこから逆へ振り切り、勢いに乗ったまま一回転して更に薙刀を振ると、斬った軌道が三本の衝撃波となりオルトロスを斬りつける。
そしてミレニスの両側を通り過ぎた水の弾丸がオルトロスへ向かって行くが、オルトロスは炎を吐いて防いでいる。それでも全てを相殺する事は出来ずに飛び退いた先にはミレニスが待ち構えていて。
「雷針-トゥルエノアグハ-!」
薙刀を地面に突き刺すと、ミレニスの周囲六ヶ所に雷が落ち、その中の二つがオルトロスに命中する。
止まる事のない攻撃にさすがのオルトロスも効いているらしく、纏っている炎が目に見えて弱まっている。この調子ならばミレニスとスフィアの二人だけでも倒す事が出来るかもしれない。
そこで、隙が生まれた。瞬時に距離が詰められ、振り上げられた前足にミレニスは咄嗟に身を退いて避けるが、逃さないとばかりにオルトロスは体を回し、燃え上がる尻尾がミレニスの体を吹き飛ばす。
そこに追い討ちをかけるようにオルトロスが咆哮し、空気が振動した。咆哮と共に熱が放たれていて、じわじわと体力を削っている。このままでは全ての体力が持っていかれる。
その時だった。
「衝破!」
「空刃!」
二つの剣劇がオルトロスへと向かって行き、無防備になっていたオルトロスの二つの頭に直撃して咆哮はやんだ。
まともに動ける状態ではないと言うのに、援護をしてくれた。
この期を逃す手はない。
「ミレニス! 一緒がんばる!」
「ああ」
スフィアは右手でベルを持って左の方へ腕を伸ばし、ミレニスは左手に薙刀を持って右の方へ出して二つの武器を交差させた。すると、ベルについている共鳴石と薙刀に埋め込まれている共鳴石がキラリと光を放つ。
スフィアが口から言葉が紡がれる。
「……荒れ狂う激流は厄を呑み込み」
「研ぎ澄まされし紫閃は鉄槌となる!」
「激しき雨雷-ランフォルセグローザ-!」
オルトロスの真下に蒼い水の紋章が、上空に黄色い雷の紋章が現れると、下からは激流がオルトロスを取り巻く様に渦を巻きながら登っていき、上からは雷が雨のように降り注いでいる。
水に炎と体を削られ、身動きを封じられながら、雨雷に貫かれ続ける。
それが十数秒続くと双方の紋章は消え、オルトロスを纏っていた炎も完全に消え去り、オルトロスがその巨体を地面に横たわらせた。
腕を下ろしたスフィアと、警戒を解いたミレニス。
「やったミレニス!」
「当然だ……だが、スフィア、腕を上げたな」
「腕? スフィア、腕上げるない。下ろしてる」
「……そういう意味ではない」
キョトンとしながら言い切ったスフィアに、ミレニスは疲れたような息をついた。
まだ言葉を理解しきってはいない事は理解していた事だったけれど、こうして面と向かっているとどうも気が抜けてしまう。
そうしている間にもリクス達の容態は悪くなっていっている為、スフィアはすぐさま治癒術をかけようとしたのだが、蠢いたそれに足を止めた。地の底から響いてくるような唸り声を上げて、オルトロスがむくりと体を起こしたのだ。
「な、何で……」
「しぶとい奴だな……」
手放しそうになる意識を何とか保ちながら、動けずに戦闘を傍観していたリクスとキース。
完全に倒したと思われていたオルトロスがこうして動いたと事に、焦燥感を抱かざるを得ない。傷を負ったリクスとキース、スフィアはオルトロスの咆哮を聞いて地面に座り込んでしまい、ミレニスは薙刀で体を支えている。もう、戦う力など誰にも残ってはいなかった。
そんな状況下で倒しきれなかった事は悔やまれるが、そう言っていられる状況ではない事も理解している。
何としてでも倒さないと。
その思いだけで、リクスは痛む脇腹を抑えながら剣を握り、キッとオルトロスを睨みつけ、地面を蹴った。
「やめろ、リクス!」
「その傷では無理だ!」
「リクス!」
制止の声を、気にする事は出来なかった。ただ真っ直ぐにオルトロスへと向かって行く。
向こうもこっちも手負いである事に変わりはない。立場は、同じだ。
「衝破!」
衝撃波を放つとオルトロスは避ける事が出来なかったらしく直撃していて、上体を逸らしている。これが、最初で最後のチャンスかもしれない。
マテリアを剣に集中させると光が収束していく。
「閃光、っ!」
突きを繰り出そうとした瞬間にズキリと腹部の傷が痛み、視界がぼやける。剣を握る手に力が入らなくなり、手から剣がずり落ちた。
オルトロスの四つの目がリクスを捉え、研ぎ澄まされた爪がリクスへと向かう。
避けられないリクス。絶体絶命だと、誰もが思った。
その時だった。光が差したのは。
何の前触れもなく、雲の間からスッと差したその光はオルトロスを照らし出す。するとオルトロスはその光を嫌がるように逃れるように顔を体に埋めようとし、更に、先程とは違った呻き声を上げている。
一体、何が起こっているのだろうか。誰も動けず、ただ呆然としている中でドサリと何かが地面に倒れた。
「スフィア!」
ミレニスの声に振り返れば、スフィアが地面にうつ伏せで倒れている姿が目に入った。
「ス、スフィア……!」
ミレニスの足元に横たわっているスフィアは、微動だにせず地面に横たわっている。心臓が、鷲掴みされているかのように締め付けられる。ミレニスが体を揺さぶっているが、起きる気配などまるでない。まるで、死んでしまっているかのように。
最悪の考えが頭を過ぎり、ぶんぶんと頭を振るとリクスは、力の入らない足のせいで何度も転びながら、それでも地面を這うようにスフィアの方へと向かって行く。
より一層オルトロスの呻き声が大きくなる中で、それでもスフィアのすぐ傍までやって来ると、その体を抱き起こした。
冷たい。
泥と混じった血が周囲に落ちている。これは、リクスの血だ。スフィアから出血は見られない。それでも、全く動かないスフィア。
どうして、何が……様々な事が起こり、頭が混乱する。
痛い。頭が。傷が。痛くない。もう何も、感じない。
「おい、リクス、あれ……!」
しかし耳に入ってきたキースの声に俯きかけていた顔を上げ、キースが指差している空を見上げた。差し込んでいる光の輝きが増している事を認識したのとほぼ同時に、皆はその目を疑う事になった。その目に映っているものが真実だとは到底、思えなかった。
光の中から現れたとしか思えない、空中に浮いている女性。
プラチナブロンドのふわふわとした長い髪をなびかせて、純白の服に身を包んだ彼女はただ静かに微笑んでいる。
「……ヴェルミナ、様……!?」
振り絞るようにリクスの口から出た言葉。
嬉しさと、不思議さと、懐かしさと、驚きと……様々な感情が混ざり合ってとても複雑な気持ちを抱きながらその名を声にすると、彼女――女神ヴェルミナはリクスを見て、とても優しく笑んだ。
それは愛おしいものを見る目に近く。
そんなヴェルミナに目を奪われていると、ヴェルミナはスッと静かに目を閉じ、胸の前で手を組むと口を開いた。
紡ぎ出されるのは旋律。
声ではない、けれどもただの音でもないその旋律はとても清らかで、とても神聖で、聴いているだけで心が洗われるような心地良いもの。
その旋律が響くとオルトロスは更に呻き、声を上げ、旋律が徐々にオルトロスの中へと浸透していくのが目視できた。そしてオルトロスは足先から光の粒子へと変わっていき、断末魔の叫びを上げるのと同時にその体の全てが光の粒子になり、消えていった。
それでも尚、紡がれている旋律は風に乗って広範囲に響き渡り、オルトロスが居なくなった事で動けなくなったレッドガルム達をも光の粒子へ変換していった。
「すげぇ……」
「あれだけの魔物が、一瞬で……」
疲れも痛みも忘れてしまったかのようにその光景に釘付けになっていたキースとミレニスも、漸く呟くように声を漏らした。
その旋律は全てのレッドガルムが消えると止み、そしてヴェルミナは目を開けた。その目は魔物の居なくなった街を映し出し、それから見回すようにスフィア達を映し、そして最後にリクスを映した。
不意に、リクスは地面に座ったままヴェルミナに手を伸ばす。何故そうしたのかは、自分でもよく分かってはいなかった。けれども体は勝手に動いていて、視界には、伸びる自分の手とヴェルミナしか映っていない。それはまるで、世界にはリクスとヴェルミナの二人しか居なくなってしまったような感覚だった。
足音が聞こえても、気にしない。
直後、何かに引かれるように手が止まった。そして、腕を下ろして自分の膝に乗っているスフィアを見下ろした。
今、スフィアに止められたような気がした。服を掴まれたような気がした。先程リクスが抱きかかえた状態と何ら変わっていないスフィアが何かしたとは思えないのに、それでも、そんな気がしてならなかった。
ヴェルミナは微笑み、目を閉じると光に溶けるように消えてしまった。
光の消えた空から雲が消え、雨は止んでいた。
その後の数秒間、ヴェルミナが居た空を見つめていたリクスだったけれど、下方から聞こえてきたか細い声に視線はスフィアへと向く。
「リクス……どした?」
優しく訊ねてくるスフィア。
「スフィア……平気?」
「うん。スフィア、眠るした」
「眠って、た……って、こんな時に呑気だね」
思わずクスッと笑みが零れた。
何だかとてもスフィアらしいと。
「ごほん」
キラキラとした背景を背負っているようなリクスとスフィアの耳にわざとらしい咳払いが聞こえてきたのは、そんな時だった。
そちらを向けば、座ったままのキースの姿が見える。
「あー、取り込み中のとこ悪いんだがな……この傷だらけ泥だらけの状態を先ずどうにかしねえか?」
「傷だらけ……?」
言われて、はたっと我に返ったようにリクスは自分の腹部を見た。
血だらけになっている服と、そこから溢れんばかりに流れ出している大量の血。その出血量は、地面に血の水溜りが出来ているほど。そう言われて自分が怪我をしていた事をフラッシュバックのように瞬時に思い出したリクスは、途端に眩暈のような感覚に襲われた。
そしてそのまま体はぐらりと揺れ、スフィアを抱いたまま地面に横たわってしまった。
「え、おい、リクス!?」
「リクス!」
閉じかけた目に映るのは慌てたようなキースの顔と、リクスから離れておろおろとしているスフィアの顔。
「お願いだから、まだ倒れんな! この状況で誰がお前のこと運ぶんだよ!?」
理不尽なキースの言葉がどこか遠くで響く中、リクスの意識は完全に途絶えた。
「……ここは……」
目が覚めた時、先ず見えたのは白い天井。それから、ひょっこりと顔を覗かせたスフィアだった。
「あ、リクス起きた!」
「スフィア……? 俺……」
「リクス、ひんけつ? 倒れた」
「ま、あれだけ血ぃ流せば倒れるわな」
聞こえてきた声に上半身を起こしてそちらの方を見ると、ドア側にある隣のベッドに腰掛けているキースが見えた。その右足には包帯が巻かれている。
「しっかし、大変だったんだぜ? お前は倒れるし、スフィアは術が使えねえし、俺は右脚が使いもんになんねえからまともに歩けねえしで、結局、スフィアとミレニスがお前のこと担いでここまで連れて来たんだけど、ミレニスは意地張って俺にも肩貸してくれてな、んで、バテてあの状況」
言いながらキースの指示した方を見れば、リクスのベッドの向かい側にあるベッドに座りながら壁に体重を預けているミレニスは、何やら重たい空気を纏っている。
魂が抜けていないか心配になるほど、見るからに疲れている様子だ。
「意地張って、って……キース、また何か言ったの?」
「いや、それがな」
そう言ってキースは話し始めた。
リクスが倒れた後、右側からスフィア、左側からミレニスが肩に腕を回して担ぎ上げると歩き出そうとしたのだが、ふとミレニスはキースを見た。
キースの足は爪で抉られており、リクスの腹部同様にズボンは血で赤く染まり、そこから流れ出している血はそのまま足を伝って地面をも染めている。
『……キース』
何とか立ち上がって、同じく歩き出そうとしていたキースは名を呼ばれ、キースは不思議そうにミレニスを見た。
『ん? どうかしたか?』
『……左が空いている』
しかし、突然の言葉にキースはその意味を理解できず、疑問符を浮かべている。そんなキースに痺れを切らしたらしいミレニスは言葉を続けた。
『辛いのだろう。貸してやると言ってるんだ』
『ああ、そういうことか。悪いな、ミレニス。でも俺は平気だから気にすんな。それに、その細腕じゃ二人を支えんのはキツいだろ』
ニコリと、笑みを浮かべて普通に言ったつもりだった。本当に、ただミレニスが辛いのではないかと思って。
けれどもミレニスはその言葉に対して額に青筋を浮かべると、わなわなと拳を震わせ。
『いいから掴まれ!』
そう言って何故か怒鳴られてしまったのだとキースは言うが、リクスは何となくその理由を理解していた。
ミレニスの性格ならば意地を張ってもおかしくはない。弱い者として扱われた事が何よりも屈辱的だったのだろう。
それが理解できないキースではないと思うのだが、キースにとっては、リクスもスフィアもミレニスも自分が護らなければと思っているが故だろうか。自らを保護者と呼んでいるのだから、無理もないのかもしれない。
「あ、そういや、雨で濡れたし泥だらけになってたから髪と体は拭いといたぞ。風呂に入りたいだろうが、まだスフィアが回復しきってなくてな。治癒術を使えるようになるまで少し待っててくれ」
「うん、それは大丈夫だよ。ありがとう、キース。ところで、ここはどこなの?」
「どこって、そりゃノヴァーリスだろ。この宿屋は無事だったみたいでな」
窓から外を覗いて見ると、今は陽が差していて街をよく見渡す事が出来た。
ある建物は瓦礫と化し、違う家は焼け果て、草木は炭となり、そして地面は赤黒かった。時間が経って酸化し、黒くなった血。土の色などどこにもなく、それはまるで最初から黒ずんでいたとでも言うかのようだった。
「今、生き残った人らで埋葬と復興をしてる」
「え?! じゃあ俺たちも――」
「手伝うって言ったんだが、魔物から助けてくれたしケガをしてるからゆっくり休んでくれってさ」
街の一大事なのにゆっくり休むなどという事が出来る筈もなく、キースもスフィアも、ミレニスでさえも何かしら手伝おうとしていた。恩を売ろうと思って助けたなど、今回はさすがにミレニスも思っていなかっただろう。ノヴァーリスを助けたところで、ミレニスに見返りがあるとも思えないのだから。
何か出来る事があればやりますと言ったのだが、魔物を退治してくれただけで充分、怪我をしているのに無理はさせられない、どうか我々に気遣う事無く休んで下さいと再三言われ、そこまで言われると頑なに拒む方が悪いような気がしてくるもの。
実際のところ、疲れきっているスフィア・ミレニスと、まともに歩けないキースでは足手まといになる可能性もあると思い、ここの宿を貸してもらう事になったのだ。
「もうすぐ夜になるし、一晩寝たら回復すんだろ」
直接協力する事は出来なかったが、それでもキース達は何もしていない訳ではなかった。
ノヴァーリスの惨状から、この街の人間だけでは復興は間に合わないだろうという事で、フェルメールの司祭宛に協力を要請する手紙を書いて、それをこの街の青年に渡した。サァラとライノアの一件で司祭はリクス達を信頼してくれていたので、今は婚儀中だが協力してくれるだろうと。
こういう時、人手が多い方がいいという事を、キースは知っている。もしかしたら、物資の補給もしてくれるかもしれない。
だから心配しないで今はゆっくり寝ていろとリクスに言うと、キースはそのままベッドに横になった。
歩き通しているところに雨が降り、走ってノヴァーリスに入った直後から戦闘をしていたのだから疲れているのは当たり前だ。スフィアは、リクスが起きた事で安心したらしく早々にキースの向かい側にあるベッドに倒れるように眠ってしまい、壁に体重を預けて座ったままのミレニスからも寝息が聞こえてきている。
気絶していたとは言え、少しだけ休息を取ったリクスはその様子を見て一度笑むと、すぐ傍の窓から空を見上げた。
オレンジ色に染まりゆく景色。炎の色とよく似ているけれど、今日は何だかとても優しく暖かい色に見える。
頭に浮かんだのは、光の中にいた女神の姿。いつも見ていた彫像とは違う。否、姿は彫像と全く同じで、いつも見ていた彼女そのものだった。焦がれ、憧れていた女神そのもの。
けれども、いつもとは違う。
こちらを見ていた――真っ直ぐに。
優しく微笑みかけてくれた――愛おしそうに。
とても近くに居た――手を伸ばせば届きそうな程に。
遠い昔から、天上から見守ってくれていると言われている女神ヴェルミナが、すぐそこに居た――声が届く所に。
あれが幻だったのか、夢だったのかは判らない。けれど確かに、そこに居たのだ。
「……ヴェルミナ様……」
満たされている想いが何なのかを知る事無く、リクスはベッドに体重を預けると静かに目を閉じた。
翌朝。すっかり回復したスフィアに治癒術をかけてもらうと、リクスとキースの怪我は癒え、傷が深かった為に完治する事はなかったけれど、歩けるほどまでに回復する事が出来た。
宿屋を出ると朝早くから数人が作業をしており、今は崩れた建物の瓦礫を運んでいるようだ。
「すいません。あの、俺たちにもできることありませんか?」
一人の青年にすかさず声をかけたリクスにミレニスは溜め息をつくが、もう慣れたのか言っても無駄だと分かっているからなのか、口を出すような事はしない。
しかし、声をかけられた青年は立ち止まると、ぶんぶんと手を振る。
「手伝いだなんて、そんなことさせられないよ! 君達が魔物を退治してくれたから僕達はこうして生きてるんだし。それに、昼過ぎにはフェルメールから応援が来てくれるみたいなんだ。それもこれも全部、君達のおかげだ。ありがとう」
オルトロスを完全に退治したのは女神ヴェルミナだったのだが、話を聞いていると、あの女神の姿を見たのはリクス達だけだったようだ。その事実に、混乱を避ける為に女神の話はしていない。
勇者のように扱われるというのは気が引けたのだが、その方が良いと言うミレニスの提案に頷くしかなかったリクスは、青年の言葉を否定する事が出来ずにただただ苦笑するばかりだ。
「そういや、少し訊きたいんだがな。何でこの街が魔物に襲われたかって、知ってるか?」
メルクリウスが壊れていたせいなのかと問うてみたが、青年は首を横に振るだけだった。その理由は、ノヴァーリスの誰も知らないのだと言う。
ここ、ノヴァーリスは古都と呼ばれていて、リルアーテルで最古の街だという話だ。メルクリウスはその当時からあったとの事で、老朽化していたのではないかというのがノヴァーリスの住人の見解だった。
フィエスタを襲撃したのがもし魔物だったなら、その手がかりになるかもしれないと思ったのだが、どうやら思い過ごしだったようだ。
メルクリウスのある街中に魔物が入る事など有り得ない、と。
「あ、でも……いや、関係ないかな」
だが、ふと独り言のように呟かれた言葉に疑問を抱き、リクスはすかさず訊いてみる。
「どうかしたんですか?」
「ああ、ちょっと思い出したことがあって。特に酷くやられた家と亡くなった奴らが、確かこの間、アウラの泉に行ったのを思い出したんだ」
「アウラの泉って……もしかして、フェルメールの近くの?」
「そうそう。フェルメールの奴と一緒に、そこで何かやってたらしいんだ。詳しくは知らないけど、何年も前からこそこそと秘密にしてることがあって。今回被害にあったのは、そいつらなんだ」
話し終えると青年は「そろそろ作業に戻らないと」と言うと、もう一度お礼を言ってから瓦礫を運んで奥の方へと行ってしまった。
フェルメール近くにある、アウラの泉。その名が頭から離れない。
何人かで秘密裏に行われていた事。
フェルメールの誰かも一緒だったという事。
ライノアがよく行っていたらしい場所。
歯車が一つ、噛み合った。