19 ウィンクルム
これからの目的が決まり、リクス達はエレウテリアでリルアーテルへ戻った。ウェッジウッドでディラルドと会い、ウィスタリア近くでメルヴィーナと合流すると、陸地から見えない崖下でエレウテリアを停泊させた。
それから、ミレニスがメイスタッドでランバルドとした話を二人に伝える。
「リルアーテルに攻め込む、か。穏やかな話じゃないね」
「ええ。ランバルド王が冷静に状況を見て下さる方で、幸いでしたね」
「兄上は、権力というものに興味がなくてな。元老院のやり方には辟易している。その手の口車には乗らん」
だからこそ、元老院の進言にも耳を貸さず、真実を突きつける為にミレニスをエアリスへ向かわせたのだ。
そこまで話し、キースがディラルドとメルヴィーナに収穫はあったのかと、話を促した。
「お師匠様から、改めて女神伝承についてお話を伺いました。今のヴェルミナ様について、より詳しいお話も聞く事ができました」
「仕徒の二人だけどね、妙な話を聞いたよ。神官共は、ウィスタリアには来なかったらしいよ。アタシらを捜すつもりなら聖堂に立ち寄るハズなんだけどね。それと、兵士どもがウィスタリアからいなくなった。魔物を聖域に入れたんだから当然だね。けど、王城に引きこもったって訳でもなさそうだ。その指示は、ヴァンルースがしたらしいよ」
どちらの話も非常に興味深いものだ。
一つずつ確かめる必要がある。
「ディラルドの話から聞かせてもらえるだろうか」
ミレニスに促され、ディラルドはハイネスから聞いたという話をし始めた。
世界創造期に存在した女神は、ディオーネ。世界創造の女神。だが、長い年月の中でマテリアが不足し、女神ディオーネが神獣と共にマテリアを世界へ供給し続けた結果、女神としての力が衰弱した。力が衰え、抑制されていた負が世界に蔓延し、積もり続けた。
そして、黒き戦慄が起こった。負の感情が魔物となり、魔物が世界に溢れ、魔物に喰われ人々は命を落とした。世界を、人を護る為に女神は力を使おうとしたが、時すでに遅く、魔物を封じるだけの力は残っていなかった。それでも見過ごす事はできず、自らが行えないからと新たな女神へ力を託す事にした。そこで選ばれたのが、強いマテリアを身に宿す女性、ヴェルミナ=イルミナーレ。
彼女は人でありながら、神獣と同等の強いマテリアを持っていた。女神の力を宿しても、拒絶される事も、身体が壊れる事もないと、ディオーネはヴェルミナの前に姿を現した。全てを話し、快諾したヴェルミナへ女神の力を譲渡し、マテリアとなって世界へ還った。その際、人でありながら女神となるヴェルミナへ、助けとなる仕徒を傍に仕えさせた。そしてヴェルミナは仕徒と共に魔物を封じ、天へ昇った。
「女神ヴェルミナに子孫がいるかどうかまでは判りませんが、可能性は高いと思われます」
「そうか。だが、可能性という事は辿れるようなものではないという事か」
「系図のようなものがあれば別ですが、定かではありません」
親族が女神になったとなれば、系図を残していてもおかしくはないが、女神を研究しているディラルドの師・ハイネスでさえもその情報を掴んでいないとなると、捜索にはかなりの時間を要するだろう。
その間にも、闇の進行はベルティエラを蝕んでいく。そこに着手するのは現状、難しそうだ。
「あとは、ウィスタリア王城か。あそこにはヴァンルースと、ハーティリーというメイドがいたな」
「指示出してたってことは、あの野郎、仕徒だって俺らに正体バラしてもまだ、王城に居座ってんのか」
「大臣の傍らに居たという事は、相当な地位にいるのだろう。聖都での兵士の振る舞いも、あの男の影響かもしれんな」
つまり、ヴァンルースは仕徒でありながら、リルアーテルで王の補佐もしているという事になる。リルアーテルの現状を左右しているのも、もしかしたらヴァンルースなのかもしれない。ウィスタリア王城に仕徒が二人、紛れ込んでいた事も気にかかる。
優先すべきは、女神交代の阻止とラルディミオンとの接触だが、ヴァンルースの件も放ってはおけなさそうだ。
それは、皆が感じている。
「では、もう一度、整理しましょう。すべき事は三つ。一つ、女神交代を阻止する事。一つ、仕徒のラルディミオンさんと会う事。一つ、仕徒のヴァンルースさんの目的を探る事、ですね」
「女神交代は、スフィアとメルを護る事で、今は凌げる。残り二つで分かれるべきか」
あまり悠長に事を進める時間はない。
その為、全員での行動はリスクでしかなくなる。二手に分かれ、それぞれの目的を達成すべきだろう。
提案に、了承の意味を込めて皆が頷いた。
あとは、メンバー構成をどうするかだ。
「先ず、リクスにはラルディミオンの方に居てもらいたい。どうやら、お前に敵意はなさそうだからな。それと、僕はベルティエラの人間だ。故に、直に接触する事は避けたい。ヴァンルースの目的を探る」
「うん」
天上の国へ行った時の、リクスに対するラルディミオンの態度から、接触するならばリクスが適任だと考えた。そして女神ヴェルミナがベルティエラを消滅させようとしている今、なるべく仕徒との接触にミレニスは居ない方が良いと考えての事。
「スフィアとメルには、なるべく危険の少ないラルディミオンの方に居てもらう」
「ま、当然だね」
「わかった」
これは、リクスの所感が合っていると仮定しての事だ。ラルディミオンが、他の仕徒同様に女神交代に積極的であるならば接触は避けなければならないが、そうではなさそうだというリクスを信じて決めた事。それが総意であるからこそ、メルヴィーナもスフィアも二つ返事で了承している。
それに、ヴァンルースやハーティリーと遭遇する可能性のあるミレニスチームには、万が一にも入れられない。
「戦闘をするつもりはないが、可能性がある以上は対策を立てておきたい。人数の不利を埋める為に、ディラルドは僕と共に居てほしい」
「分かりました」
神獣を召喚し、力を借り受ける事のできるディラルドがいれば、二人だけでも兵士と相対する事もできる。
「キースはリクスの方を頼む。リクスのストッパーになってもらいたいからな。それに、スフィアとメルを護る時に前衛三人の方が、何かと動きやすいだろう」
「まあな、文句はねえよ。そっちも、潜入になるだろうから、お前ら二人が打って付けだと思うぜ」
小柄で小回りが利き、神獣の力を借りれば遠くから探る事もできるだろう。キースとしては、リクスの傍に居られる方が有り難い。
リクスも前とは違い、勝手に暴走してしまう事はないだろうが、それでも隣にいられる方が安心して目的を達成できる。ミレニス側の目的にヴァンルースが絡んでいる事も、恐らく考慮している筈だ。キースには、ヴァンルースが行ったリクスへの仕打ちを忘れる事などできないのだから。顔を合わせれば、見逃す事などできないだろうと自覚している。
そこまで話して、一段落ついた事を見計らったように、光が放たれた。それはディラルドの腰から下がっているチェーンの中の一つ、白いブランカコアが光り輝いており、エレウテリア内にラディウスが姿を現した。
【私とレヴナントは元のコアへ移ります 私達は己の意志でコアから出る事ができます 力になれるでしょう】
あの時、ヴァンルースの呼び出しでディラルドのブレスレットを持ち出してから、戒めのように付けっぱなしにしていたブレスレット。
その、リクスのつけているブレスレットの白と黒の宝石にディラルドのチェーンからそれぞれ、白い粒子と黒い粒子が出てブレスレットの宝石へと入っていった。
「あとは、合流場所だな。僕らはウィスタリアだが……」
「ラルディミオンって男の居場所は判んないんだよね?」
メルヴィーナの言葉に、リクスは静かに口を開いた。
「俺、判るかもしれない」
唐突な言葉に、皆が驚いたようにリクスを見やる。
「どういうことだ」
「手枷を外してくれた時に、声は小さかったけど、言ってたんだ。ウィンクルムって」
名に、真っ先に反応したのはディラルドだ。
「ウィンクルム……最果ての孤島ですね。深い森だけの無人島ですが、祠があると聞きます」
「祠?」
「はい。ですが、何が祀られているかまでは僕も知りません。お師匠様から聞いた事もありませんし、辺境の地ですから人が訪れる事もありません」
そんな所に、一体何の用があるというのだろうか。そして何故、リクスにその場所の名を告げたのか。
「考えても仕方あるまい。僕らはこのままウィスタリアへ入る。エレウテリアはメルに託そう」
「了解」
「けど、お前らの逃げ道がなくなんだろ。平気か」
「神獣の方々がいて下さるので、大丈夫ですよ。元より、目的は戦闘ではありませんので」
それに、身を隠す術ならば幾らでもある。
火のクルガトワール、水のリヴァーテル、風のファウライレ、地のアルフェーレス、雷のルーヴァオン、氷のクルスタリス。彼らの力があれば、ミレニスとディラルドに危険が及ぶような事はないだろう。
それよりも、リクス達を孤島に残す訳にはいかない。それこそ、退路が断たれてしまうのだから。
「ウィンクルムまで、ここからですと半日程かかると思われます。合流は明日、火砲の祭壇にしましょう。警備を外したので、誰にも咎められる事はありません」
本来、神殿へ人が立ち入る事は無い。そもそも、神殿や祭壇の存在を認知している者などほんの一握りしかいないのだから。
聖堂に通いつめていたリクスも、一度も聞いた事がなかった。
そして、フェアトラークでなければ神獣と誓契する事は出来ず、スフィアが居なければ祭壇への道も拓けない。そんな場所へ行く理由などないというのが現状だ。
翌日に火砲の祭壇で落ち合う約束をし、ミレニスとディラルドをウィスタリア近くで下ろした。そのまま、エレウテリアは最果ての孤島へ向けて海路を進んで行く。
空を切るエレウテリアの航行を邪魔するものはなく、静かな船内で後方の座席に座っているリクスは膝に腕を置き、俯いている。これから待ち受けるものの事を考えると、気が重い。心がざわめいて落ち着かない。
「リクス?」
そんなリクスを心配そうに覗き込むのは、隣に座っているスフィア。
顔を上げたリクスの前の席に座っているキースも、心配そうに振り返ってリクスを見ている。
二人の視線を受けて、リクスは何かを隠すように微笑んだ。
「少し、緊張してるんだ。俺、また人を信じすぎてるんじゃないかって。ワナだって可能性もあるのにって」
「……リクス」
溜め息混じりのキースの声。どうやら怒っているらしいキースに、リクスは慌てて弁明する。
「あ、後悔してるわけじゃないよ。先に進めなきゃどうしようもないんだし。どんな結果になっても、俺は受け入れるよ」
「だったら、何だって緊張なんか」
「何だろう……ラルディミオンは仕徒だけど、ヴァンルースたちとは違うからかな……ごめん、俺にもよく分かんないや」
そう言ってリクスはもう一度、笑った。そこには誤魔化しのようなものはない。本人が分からないのであれば、それ以上の事を追及できず、又、後悔したり迷ったりしている訳でもないのであれば、咎める必要もない。
だからなのか、キースは納得したように息をついた。
「ま、あんまり気張んなよ」
「うん。ありがとう、キース」
子どもをあやすように頭をぽんぽんと軽く撫でられた。それが何だか嬉しくてふふっと笑うと、隣のスフィアが不思議そうに見上げてきているのが目に入った。
「スフィア? どうしたの?」
「きんちょう、何?」
「え? えっと……会うのが怖くって、ドキドキすること……?」
「怖い?」
「あ、うん。でも、会いたいとは思ってるんだよ?」
「会うしたい、怖い……?」
まるで理解できないとばかりに見上げてくるスフィアに対して、どう説明すれば良いのか分からない。いつもならば助け舟を出してくれるディラルドやミレニスも居ない為に、リクスは困ったように苦笑を浮かべた。
いつものスフィアの「何で」にリクスが困っている事に気が付いていながらも、キースは椅子から立ち上がると、メルヴィーナの隣へと向かった。腕組みをして突っ立ったまま、海の先を眺めている。
「で? アタシに相談ってどうしたんだい?」
それは、ミレニスとディラルドを降ろした時、ウィンクルムへ向けて出発する前に伝えた事に対してのものだ。
ラルディミオンと会う前に、ウィンクルムに着く前に話しておかなければならない事があるから、とメルヴィーナに相談を持ちかけていた。
あらゆる対策を立てておかなくてはならないから、と。
「メルは、あいつのことどう思った?」
「あいつ? ラルディミオンのことかい?」
「ああ」
訊ねれば、メルディーナは何かを考えるように目を閉じていたが、それは数秒もかからなかった。
「よく憶えてないね。会ったって言えるほどのもんじゃなかったからさ」
「だよな。あん時は女神に意識向いてたし、その後はエフィリスだ。あんま印象にねえんだよ」
天上の国エアリスへ赴いた目的は、リクスを助ける事と女神ヴェルミナを直接問いただす事だった。
確かにラルディミオンはリクスの傍におり、言葉も聞いた。しかし、ヴェルミナの口から語られた話と、その後のエフィリスとの攻防によって記憶が薄れている。
正直、どんな姿をしていたのかさえ定かではない。
「何、リックーのこと信じてないのかい?」
「んなわけねえだろ。リクスを疑ったことなんかねえよ」
「まあ、確かにリックーがエアリスに行った時も、真っ先に心配してたしね」
あの時は、本当に気が気ではなかった。
ディラルドから、コアがなくなったという話が出た時にリクスはまだ起きて来ておらず、不安を覚えてリクスの部屋へ向かうとそこにリクスの姿はなかった。まさかという空気が流れる中で、キースだけはリクスに何かあったのではないかと身を案じていた。
それからすぐに、ディラルドの部屋に置いてあったチェーンからラディウスが出現した事で真相を知り、リクスを追いかける事が出来たのだが。
「アタシらも本気で疑ったわけじゃないけど、絶対の信頼があるわけでもないからね」
言って目を伏せるメルヴィーナに、キースは少し意外に思った。
そんな視線を感じたのか、メルヴィーナはキースを見、自嘲するように息を吐いた。
「何だい、その顔。冷たいって?」
「いや、メルからそんな言葉が出るなんて思ってなくてよ。つーか、何の説明もなしに大聖堂まで他人を連れてったってのに、無条件の信頼がないとか、そんなことあんのか?」
「あれはまあ、別さ。命の恩人の願いを叶えないわけにいかないし、大聖堂に何かあっても、アタシにとってはどうでもいいからね」
その言葉は、大聖堂の実情を知ったキースにはよく理解できる。そして、メルヴィーナの境遇を考えれば致し方ないと言えるだろう。
思えば、神官などの聖職者に対するメルヴィーナの態度や言葉は、お世辞にも良いとは言えないものだった。それどころか、嫌悪までとれるようなものばかり。それもやはり、メルヴィーナに非はないのだが、それにしてもと思う部分はあった。
聖職者が関わると、途端に人が変わったように荒れる。
「けど、今のアル達はそうじゃないからさ。仲間ってやつになって、他人に話さないような話までしたからね、これでも信頼してるのさ。それでも、裏切りがないわけじゃないって知ってるから、信じきれないってとこだね」
今はもう、ただ成り行きで目的地まで同行している訳ではない。誰かの目的の為に、自らの意思で行動し、その為に命を懸けている。
だがそれでも、絶対の信頼がある訳ではない。それはキースとて同じ事だ。疑わしい状況になった時に、それでも信じきる事ができる自信は正直なところ、無い。
「だから、アンタたちの絆は羨ましいよ」
「俺とリクスは家族だからな。他とは違うだろ」
親として兄として親友として、十年ほど過ごしているのだから、絆は家族のそれと同じなのだ。キースがリクスに対してだけ感じるそれは、他の誰に対する時とも違う。リクスを育てたのは、キースなのだから。
「けどリクスは、俺らとは違う。あいつは、他人を無条件に信じちまう。何度裏切られても、信じることはやめねえ」
その言葉は、聖堂の司祭と女神ヴェルミナ、そしてラルディミオンの事を指している。
二度、リクスは信頼を踏みにじられている。二度、信じた事で傷ついた。それでもまた、ラルディミオンを信じようとしている。
恐らくこの先、幾度となく裏切られようと、リクスは他人を信じ続けるだろう。それが、リクス・ユーリティという人間なのだから。
「だから、俺らは対処するべきだろ。あいつが信じて、それでもダメだった時に何もできないんじゃ話になんねえ。ヴァンルースに操られた時みたいになんのがオチだな。全員、共倒れだ」
「…止めようとは思わないのかい?」
「他人を信じられなくなったら終わりだろ。それに、俺はあれでいいと思ってんだ。他人を信じるなんて、言うほど簡単じゃねえからな」
信じている、信頼していると言葉にする事など誰にでも出来る。実際に信じる事も出来るだろう。しかし、たった一つでも疑わしい出来事があれば、その信頼は途端に揺らぐ。
まさかと思ってしまうのだ。
それでも信頼し続けられるなら、それは本物と言えよう。それは、今のキース達にも確かに存在している絆だ。
だが、リクスは「まさか」と疑う事すらしない。一度でも関われば、それだけで絆が生まれる。例え裏切られようと、絆が切れる事はない。それは才能だと、リクスの人柄だとキースは考えている。咎めるべき事ではない。
そこまで告げると、メルヴィーナは口元に笑みを浮かべた。
「アタシらでリックーを護んなきゃだね。気は張っておくさ」
「さっきリクスには、気張んなっつったんだがな」
「それは、しょうがないってもんでしょ。アタシら年長組が、がんばるところさ」
年長者として、仲間として当然の事だと笑って言うメルヴィーナに、キースは頼もしさを感じている。楽観的で豪快で軽い口調のメルヴィーナだが、それでも姉御として頼れる事が多くある。最年長として、皆を纏めてくれている。聖職者さえ関わらなければ、背伸びをしていたキースなどとは比べものにならないほど、メルヴィーナは大人だ。
もしもの時はメルヴィーナがリクスを、キースがスフィアを護る事とし、エレウテリアは海路を航行していく。
世界の扉とは逆方向に位置しているウィンクルムは、フィエスタのある北側に存在しているという話だった。実際にその近辺を訪れてみると、世界地図の北西に位置する何も無い海域にその島はあった。
木々に覆われているだけの、特徴のない孤島。上陸しようなどと考える物好きなど居ないのではと思えるほど、見た目には何の変哲もないただの島だ。そしてその島自体も、フェルメール近くにあった、泉のある林とどちらの方が大きいのだろうかと思えるほどの小ささで、島全体を歩ききるのに十分とかからないかもしれない。
「これが、ウィンクルム? ウソだろ」
「けど、ディーちゃんに教えてもらった場所で間違いないよ。地図もそうさ」
操舵台と前方にある窓の中間に浮かび上がっている、リルアーテルの地図上で赤く点滅している場所が、ウィンクルムだ。そして今、エレウテリアは点滅しているその場所の上にいるので、場所に誤りはない。
「ディラルドの言ったとおりなら、そうなんだよね。とにかく行ってみようよ」
ここであれこれ考えていても仕方がないのだ。そもそも、本当にウィンクルムでラルディミオンに会えるかどうかも定かではなく、可能性は極めて低い。
今は進むしかないのだからと、エレウテリアを横付けし孤島へ降り立った。
隙間もない程に木々で埋め尽くされた孤島には道と呼べるものは存在しておらず、草を踏みしめながら木々の間を潜り抜け、中心部と思われる方向へ歩いて行く。
数分もすれば辿り着けるだろうと軽く考えて歩いていたのだが、キースが沈黙を破ったのは数十分ほど経った頃。
「……おかしくねえか?」
その言葉に、皆がピタリと足を止める。
「何が?」
「いや、ぱっと見、ここまででかくなかっただろ。道が違ってて祠に着けないってんならまだしも、真っ直ぐ歩いてて反対側に出ないなんてあるか?」
「確かにね。波の音もしないけど、中心部にいるとも思えない」
ひたすら真っ直ぐ前に歩き続けていて、海に近づかないなどおかしい。ここは小さな孤島なのだから、周囲を海に囲まれている。魔物もおらず、動物の鳴き声すらもない静かな中で、波の音すら届かない事などあるだろうか。
疑問と疑念に止まってしまった足。それを動かしたのは、スフィアだ。
「こっち」
一言、それだけを告げるとスフィアは歩き始めた。これまで向かっていた方角だが、それよりも少しだけ左の方へ向かって。
こうしてスフィアが勝手に向かうのは、もう何度目になるだろうか。どうして、など誰にも説明できないが、スフィアは確実に何かを感じ取っているのだろう。これまで、スフィアの突拍子のない行動に幾度となく助けられている。
この期を逃す手はないと、顔を見合わせるなりすぐさまスフィアを追いかけた。
草を踏みしめ更に歩く事、数分。木々の向こう側が白く光り輝いている光景が見えた。森を抜けるのだろうかと怪訝に思いながらも歩き続け、途切れた木々の先へ一歩、足を踏み出した。
瞬間、見える景色が一変した。
広がっているのは、一面の花畑。奥の木々がとても小さく見えるほどの広さがある花畑では、色とりどりの花が咲き誇り、宙を花弁が舞い、空から降り注ぐ光のヴェールに包まれている。
それは見覚えのある光景だった。
呆然とその光景を眺めるのは、スフィア以外の三人。
「同じだ……」
「何で、あの花畑が……まさか、ここがエアリスなのか?」
「移動なんてしてないのに、そんなことあるのかい?」
その花畑は、エアリスで見たものと全く同じだと言っていい。
しかし、ここはリルアーテルで、霊峰に来ている訳でもなく、エアリスへの扉を開いてもいる訳でもない。更に神獣はラディウスとレヴナントしかおらず、エアリスへ赴く為の条件は何一つ揃っていないのだ。
それなのにどうして、と思案するキースとメルヴィーナの声を聞きながら、リクスは数歩、花畑を歩く。そして、見えたものに目を丸くした。
「樹だ……」
呟くように紡がれたリクスの言葉。
「……は? そりゃ、木くらいあるだろ。むしろ、木しかなかったしな」
「違うよ。すごく大きいフェクールの樹があるんだ」
呆然と立ち尽くしたまま、ある一点を見上げているリクスに、隣まで近寄って来たキースがリクスの肩に手を置いた。
「おい、リクス。一体、何を見て……」
声をかけてきてはいるものの、その視線はリクスへは向いていない。恐らく今、リクスが見ているものと同じものを目にしたのだろう。キースが言葉をなくしたのが分かった。
リクスの目に映っているのは、聳え立つ巨大な樹。それは、ウェッジウッドの大樹よりも更に巨大なもので、孤島を覆い尽くしてしまいそうなほどだ。実際に、空は樹に遮られて見る事は叶わない。それでも光が木漏れ日となって差しているおかげで暗いわけではなく、寧ろキラキラと神秘的に輝いている。
その大樹は確かにフェクールで、雪のような真っ白な花が満開に咲き誇っている。
「でっか……ウェッジウッドの樹もでかかったけど、あの何倍だよ」
「こりゃ立派だねえ」
「おっきー」
各々が巨大なフェクールの樹を見上げて感嘆の声を漏らす中で、リクスはその声を聞きながらもフェクールの樹から視線を外す事が出来ずに、ただ呆然と立ち尽くす。
そうして暫し目を奪われていると、一度、フェクールの樹の方から風が強く吹き、視界が花びらに埋め尽くされた。突風に目を瞑り、腕で風を防いだ直後、風が凪いだ。
「ようこそ、いらっしゃいました」
聞こえてきた柔らかな男の声。バッとフェクールの樹の方を見ると、橙色の装飾品を付けた白い服を身に纏い、姿勢を正したラルディミオンがその場に立っていた。
リクス達との距離は、十メートルほどだろうか。
突如として至近距離に現れた事で、キースとメルヴィーナは即座にスフィアとリクスを護るように背に隠し、キースは剣を引き抜き、メルヴィーナは拳を握り締める。
キースもメルヴィーナも厳しい視線でラルディミオンを睨み付けているが、反するようにラルディミオンは優しい笑みを浮かべている。
「……いつからそこにいた」
低く唸るようなキースの声。それでも、ラルディミオンの笑みが消える事は無く、紡がれた声はどこまでも優しい。
「あなた方が来るよりも前からですよ。すでに実感されているでしょうが、ここでは見え方が他とは違います。目視できるものが全てではなく、空間も混ざり合っています」
「空間が混ざり合う? ここはウィンクルムじゃねえのか」
「いえ、確かにウィンクルムです。フェクールは災厄から世界を守護するもの、言わば世界の護り手です。何ものも近付く事は許されず、拒む為の結界が幾重にも張られているのです」
「それって、大聖堂と同じってことかい?」
大聖堂は、その存在故に結界が張られ守護されており、ヴェルミナ信教のエンブレムを持つ者がいなければ、大聖堂へ入る事は叶わない。
それと同じ原理なのかと問えば、ラルディミオンは「ええ」と肯定した。
「ただ、大聖堂より更に強固な結界となっています。ですが、強すぎるが故に空間に歪みが生じていると告げた方が良いでしょうか。如何なる方法でも、此方に足を踏み入れる事は叶いません」
「じゃあ、アタシらは……」
「例外もあるという事です。お心当たりがあるのでは?」
穏やかな口調で語られた言葉に、キースもメルヴィーナも後方に居るスフィアへと視線を向けた。
この場へ導いたのは、紛れも無いスフィアなのだから。心当たりは一つしかない。
「スフィアを、知ってんのか……?」
「少しの間ですが、共に過ごしました」
その言葉は、衝撃以外の何ものでもなかった。
これまで一切、判明する事のなかったスフィアの正体。今までそれとなく触れてきたが、その度に迷宮入りしそうになった為に、先延ばしにしてきた事。それが今、明かされるかもしれない。
それを明かすのが仕徒というのは、運命だろうか。必然だろうか。
「じゃあ、スフィアは……」
「女神に近しい者とだけ、お伝えしておきましょう」
それはつまり、スフィアが女神ヴェルミナの子孫であると言っている事と同義ではないだろうか。
だからこそ、スフィアには道を拓く力があるのだと。
本来、スフィアが居るべき場所は、もしかしたらエアリスなのでは――そんな考えが頭を過ぎった。
「その方はいずれ、神となられるでしょう」
「……キア・ソルーシュだからか」
「いえ。あなた方も気付いておられましたが、このままではいずれ世界は崩壊します」
「それが、女神ヴェルミナの望みなんだろ」
吐き捨てるようなキースの言葉。口に出す事すら嫌悪を抱く。耳に残るヴェルミナの声。あれが女神の言葉であって良いのかと、甚だ疑問に思うのは当然の事と言えるだろう。
神とは何なのか――そんな疑念すら抱く事もまた然り。
「あなた方と対峙した際の言葉が、今の女神のお言葉です。しかし、滅んだ世界には何も残りません。神や仕徒など不要となるでしょう」
「だから、代えんのか。スフィアやメルに、女神を」
あまりにも身勝手ではないだろうか。自分達の存在意義がなくなるかもしれないから、女神を挿げ替えるなど。女神に仕えるべき者の発言とは到底思えない。
ラルディミオンは、ヴァンルース達とは違って、真に女神に忠誠を誓っているように見えていた。それすらも偽りだと言うのだろうか。
だが、ラルディミオンは丁寧に言葉を紡ぐ。
「それだけが理由ではありませんよ。女神と言えども永遠ではありません。古に行われた女神交代が、何よりの証拠。先代の女神同様、女神ヴェルミナの力も弱まっています」
「もしかして、メルクリウスが機能しなくなったのは、そのせいか?」
「それも一端です。マテリアのバランスが崩れ、世界の均衡が保てなくなり、それでも尚、力を行使している事が要因となっているのです。これまでに、不自然な雷を目撃した覚えはありますか」
不自然な雷と聞いて、リクス達に思い当たる事は三つ。
焼け焦げた橋、焼かれた船、そして泉の畔に倒れていたライノア。
更には、ベルティエラで頻繁に目撃されたという雷。そしてミレニスは、その雷が女神ヴェルミナの仕業だろうと言っていた。
女神が力を行使していると告げた後にその話をしたという事はつまり、両者は無関係ではないという事。
「あれは、ホントに女神の仕業だったのか」
「何だってそんなこと……」
「エアリスへ近付こうとした報い、だと」
報い。それが人に対するものである事など、考えなくても理解できる。
つまり、焼け焦げた橋でも、漁港の船でも、誰かが亡くなったという事なのだろうか。ライノアも、八犬した時は危険な状態だった。スフィアが強力な回復魔法を使えなければ、あのまま命を落としていたかもしれない。そして、ライノアと共に泉で何かをしていたらしいノヴァーリスの者は、魔物に手酷くやられていたという話だった。
そこまで考え、キースは驚愕に目を見開いた。
「魔物が……女神の命令で人を襲ってた……!?」
「そんな、そんなことって……! 魔物を封印した女神が、魔物を操る!? ふざけんじゃないよ!」
吐き捨てるように、メルヴィーナは有りっ丈の怒りを声に込める。
すでに、女神の事を信用してなどいなかった。エアリスで女神の言葉を直接聞いたのだから、信用などある筈もない。それでも、世界の全てが覆るそれを、ただ受け入れる事など出来なかった。納得する事など、できる筈もない。
「あれも、そうなのか……スフィアが魔物に攫われたのも、女神の命令なのかよ。何なんだよ、女神って! 仕徒って!」
怒声を浴びせかけても、怒りをぶつけても、ラルディミオンは真っ直ぐにリクス達を見たまま。目を逸らす事すらしない。
全ての言葉を受け止めるように、そこに立っている。
それでも湧き上がるキースの怒りは治まらない。体内のマテリアが過剰に反応しているのか、風がキースの体を取り巻いている。
高ぶる感情に呼応するように、風が巡る。
「ま、さか……フィエスタを焼いたのも、女神、なのか……スフィアが、いた、から……! てめえらが、村を、リー姉を!?」
ぶわっと、キースを取り巻く風が大きくなったかと思うと風が刃となり、一直線にラルディミオンへ向かった。
鎌鼬のようにラルディミオンの頬や腕が切れたが、それでもラルディミオンはそこに立ったままだった。ただ、目を瞑っただけ。何かを耐えている訳でもなく、表情を変える事無く、その場に佇んでいる。
風を追うように地面を蹴り、キースは瞬時に距離を詰めた。握り締めた剣の刃先はラルディミオンの喉元にピタリとくっついており、少し力を込めるだけで喉を貫くだろう。
命令を下したのは恐らくラルディミオンではない。そんな事は百も承知だ。それでも、高ぶる感情を抑えられない。
「何で、何で殺した! フィエスタに何の罪があったってんだよ!」
ぐっと、握る手に力を込める。
何の為に、フィエスタは焼かれたのだろうか。何の為に、沢山の村の住民が命を落としたのだろうか。何の為に、エレナは泣いたのだろうか。何の為に、姉は命を落としたのだろうか。
何の為に――。
「違う!」
剣を握る手に、別の手が重なった。
声の聞こえた右側に視線を向ければ、小さなスフィアの手が、止めようとキースの手を握っているのが見えた。そして、金色の双眸には静かな意思が宿っている。これまで見た事のないような、真剣な表情のスフィア。
「違うって……何がだよ」
怒気を含んだ声音。
「ヴェルミナのせい違う! ラルディミオンも悪くない!」
叫びのようなスフィアの声。
その場に響き渡る声に、時が止まったように誰もが口を閉ざした。
「……スッフィー。どういうことなんだい?」
その沈黙を破るように、傍観者となりかけていたメルヴィーナが訊ねれば、哀しそうに眉根を下げ、スフィアは少しだけ目を伏せる。
「スフィア、ヴェルミナもラルディミオンも知らない。けど、知ってる。ひどいこと、しない。悪いのイブリース」
「イブリース? 何だい、それは」
耳慣れない言葉に、訊ねてみるもスフィアはただ首を横に振った。
「知らない。けど、悪いのイブリース。それは知ってる」
煮え切らないスフィアの回答に、キースの苛立ちが増した事が見て取れた。ぶわっと、殺気が風となって広がる。
「は? 何だよ、それ。どういうことか説明しろ!」
「ちょっと、アル。スッフィーにあたったってどうしようもないだろう!」
「じゃあ、どうしろっつーんだよ!」
苛立ちは、治まるどころか増す一方だ。何かを知っている筈のスフィアは説明をする事など出来ず、メルヴィーナはただ止めてくるだけ。誰もが現状を打破する方法を知らず、焦り翻弄されるばかり。
それでも何かに矛先を向けずにはいられず、キースが睨み付けるのはラルディミオンだ。
「おい、知ってんなら教えろ」
「私が申し上げられるのは、事実のみです」
「それ、どういう――」
「キース」
我を忘れ焦燥と憎悪で満たされた心に、すぅっと声が溶け込んだ。まるで、荒れ狂う風が凪ぐように。
声の主は、後方に立っているリクスだ。
自然と声を追うように振り向き、視線がリクスへと向く。
「リクス……」
「剣を下ろして。ラルディミオンも、スフィアも、メルも、誰も敵意は向けてないよ。キース。焦りは?」
「……目を曇らせる」
「辛く苦しい時こそ気持ちは前を向け。そうすれば道は切り開かれる、だよ」
そう言って、リクスは笑った。
それは以前、キースがリクスに告げた言葉だ。否、キースがずっと、リクスに教えている事だった。
幼い頃に出会い、ずっとリクスを育てていたのだが、時々、リクスは別の場所を見ている事があった。記憶がない事を気にしているような様子は窺えなかったが、それとは別の事を気にかけていたように思う。
どこか焦ったような表情のリクスに、いつもそう言い聞かせていた。
あの頃には、こうして今、リクスから教えられる事になるなど思いもよらなかった。
「……悪かった」
バツの悪さを隠すように、剣を下ろして鞘に収めた。その頃にはスフィアもキースから手を放しており、ラルディミオンから少し距離を置くように数歩下がると、もう大丈夫だろうとメルヴィーナから安堵の息が漏れた。
「で? その、イブリースって何なんだい?」
メルヴィーナの問いに、ラルディミオンが静かに口を開いた。
「魔物が人間の負の感情の集合体であると同じように、イブリースは災厄の集合体と呼べるものです」
「災厄の、集合体?」
「ええ。黒き戦慄で女神ヴェルミナが魔物を封じた事はご存知でしょう。封じられた負は災厄となり、燻っていた災厄は一つに収束しました。それが、イブリースという存在。女神は災厄を封じる為にイブリースと対峙しましたが、すでに女神の力は失われつつありました。そして、災厄に侵されてしまったのです」
「それってつまり、今の女神は、女神じゃないってことかい」
「じゃあ、どうして仕徒は女神に従ってるの……?」
女神に仕えるべき仕徒が、女神ではない者の命令に従っているというのはおかしな話ではないだろうか。
そっと、ラルディミオンが目を伏せる。
「私ども仕徒は、女神より命を賜ったもの。女神でなくとも、言葉は女神のもの。従うのが仕徒の役目。ですから、唯一イブリースの力の及ばないこの地へ赴いたのです」
「何の、為に……」
「女神を止めて頂きたいのです」
それは本来、仕徒から告げられるべき言葉ではない。
女神に仕え、女神の命令に従い、女神の傍に在るのが仕徒というもの。だが、これは女神に背く行為だ。女神が、イブリースという災厄に侵されているからだろうか。それでも女神の命令に従うと口にしたというのに、矛盾している。
「女神交代は、その為だって言うのかい」
「ええ。年々イブリースの力は増大し、今では女神に巣食っています。イブリースが女神に成り代われば、世界は災厄で滅ぶでしょう。阻止するには、女神の力を全て継承して頂く必要があるのです。女神交代はそれが理由です」
「じゃあ、アーヴァインが神官としてキア・ソルーシュを作ろうとしてたのは、ヴェルミナ様を裏切るわけじゃなくって、ヴェルミナ様の為だったんだね」
「キア・ソルーシュは褒められた策ではありませんが、イブリースに計画を悟られる訳にもいかず、あのような手法を用いたのでしょう」
それが女神の為に、ひいては世界の為になるから。犠牲にしようとしていた訳ではなかったのかもしれない。
それでもまだ、腑に落ちない事はある。
「ベルティエラの闇を広げてるのは、どうして?」
「膨大な負は魔物となり、魔物が撒き散らした負に星が蝕まれると災厄となります。闇は光と共に人を見守る存在ですが、大きすぎる闇は恐怖心を煽ります。災厄を齎すには打って付けという事です」
イブリースの目的は災厄を世界に齎す事。災厄こそがイブリースの力の源であり、イブリースそのものであるのだから。
「女神交代は、真に神に相応しい者が儀式を行う必要があります。彼の地へ赴き、正式な儀式を行う事が、世界を救う術です」
「……お前ら仕徒は、信用できねえ」
「何を信じるか、何を選択するかはお任せ致します」
そう言ってラルディミオンは微笑んだ。その笑みは慈しみに似た、とても優しい笑み。神と錯覚するような、貴い笑み。
その笑顔は見た事がある。リルアーテルの者ならば誰もが目にしている笑みだ。
女神ヴェルミナの、微笑み。
「私の言葉を信じ、この地へ赴いて下さった事、感謝致します。願わくは、あなた方の選択の先に世界の未来が在らん事を」
言い、ラルディミオンは胸に手を当て、恭しく頭を下げた。
直後、吹き荒れる風が花びらを舞い上がらせ、大量の花びらにラルディミオンの姿が隠れて見えなくなった。猛烈な風と花びらに目を瞑り、数秒後に風が止んで目を開ければ、そこは木々に囲まれた森の中だった。
花畑はどこにもなく、見渡す限りの樹。それは花畑に行く前に見ていた光景、外から見ていた孤島そのものだ。
「戻った、のかい」
「みてえだな」
強制的に花畑から出されたようだ。どういう原理で花畑まで赴いたのか不明な以上、戻る事はできないだろう。スフィアを見てみたけれど、キョトンとしたまま見返されるだけだった。つまり、ウィンクルムに居続けたとてラルディミオンには会えないという事で、エレウテリアへ戻るしかない。この地に居て何かが変わる訳ではないのだから。
釈然としない気持ちが渦巻く中で、それでもエレウテリアへ向かって歩き始めた。
唯一人を除いて。
「ごめん。みんな、先に戻ってて」
後方から聞こえたリクスの声に振り向いた瞬間、強い光が辺りを包み込んだ。
あまりの眩しさに目を眇めた刹那。
目を開けた時には、そこにリクスの姿はなかった。
光が消え、目を開けると瞳に映ったのは、巨大なフェクールの樹。その前に佇むラルディミオンは、フェクールの樹を見上げている。
「……訊きたいことがあるんだ」
「……何でしょう」
振り返ったラルディミオンには、何故という疑問は浮かんでいない。
「俺、エアリスに行った時に、あの花畑を見たことがあるって思ったんだ。でも、ここに来て分かったよ。俺がホントに見たことがあったのは、ここだったんだ。俺、ここを知ってるんだ」
エアリスから出ようと花畑を通った時に、どこか懐かしい気がした。クルスタリスの試練で見たからという訳ではなく、もっとずっと前から知っていたような気がした。それは、皆に話した通りだ。
けれど、もやもやとしたものが残っていたのも又、事実だった。
それが何を意味していたのか、この場所に来て漸く理解した。
「ラルディミオンはちゃんと話してくれてたけど、ずっと核心は話してくれてなかった、と思うんだ」
思い返せば、ずっと言葉は濁されていたように思う。
『例外もあるという事です。お心当たりがあるのでは?』
『少しの間ですが、共に過ごしました』
『女神に近しい者とだけ、お伝えしておきましょう』
『その方はいずれ、神となられるでしょう』
それらは全てスフィアの事を指していると思っていたが、ラルディミオンは一度もスフィアの事だと口にしていない。
「スフィアのこと、知ってるの?」
「共に過ごした事は事実です」
「じゃあ、他は? 他は、誰のことなの……?」
ドクンドクンと鼓動が煩いくらい頭に響く。
脈がどんどん速くなる。
スッと、ラルディミオンの目が伏せられた。
「……お心当たりがあるのでは?」
やはり核心を口にはしなかったが、それでもドクンと大きく一度、心臓が脈打った。頭の中で、これまでの出来事が一気に駆け巡る。
それらの映像を見て、「ああ、そうなんだ」と妙に納得している自分がいる事に気が付いた。
苦笑とも、悲哀とも取れる複雑な顔を、きっとしているだろう。
何とも言い切れない、言い知れない感情が渦を巻いている。
「そっか、そうなんだね。分かったよ。俺のやること、やるべきこと」
「……申し訳ありません」
「ううん、謝らないで。俺も、全部を思い出したわけじゃないから。次に会った時には、ちゃんと話してほしいんだ。包み隠さず、全部」
「……はい」
頭を下げているラルディミオンの表情は見えず、声からも感情を窺い知る事は出来なかった。
そして、それ以上の言葉をリクスは求めておらず、用は済んだとばかりに踵を返せば、辺り一面が光に包まれる。
これが、答えだったのだろう。
ずっとそうだったのだ。
ぎゅっと拳を握りしめる。
もう、ここにはいられない。
眩い光にそっと目を閉じると、一粒の雫が零れ落ちた。