16 黒の真実
ディラルドが泣き止んだのは、小一時間ほど経った頃。涙は止まり、嗚咽だけはまだ止まらなかったけれど、それでもディラルドは笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、リクスさん。もう、大丈夫です」
赤く腫れた目、涙の痕。それでももう大丈夫だと笑ったディラルドに頷き、ディラルドから離れるとリクスは元々座っていたベッドまで戻って腰掛け、ディラルドはソファに再び座った。
そして再びの沈黙が訪れようとしていたのだが、今まで床に片膝を立てて座っていたメルヴィーナが立ち上がった。ソファへと近付くなり、どかっとディラルドの左隣に座る。
天井を見上げながら、ぽつりと声を発した。
「アタシのこと育ててくれたラグナはさ、十年前に死んじまったんだ」
ディラルドと同じで、唐突な話。しかしながら、先程まで見えていた怒りはすっかりナリを潜め、いつもと変わらぬ落ち着いた声音だ。最年少であるディラルドの姿を目の当たりにした最年長としては、黙っていられなかったという事だろう。
「大聖堂の近くまで凶悪な魔物が近づいててね、それを知ったラグナがみんなを護る為に一人で飛び出したって話さ……聞いた時、ラグナらしいって思ったね」
メルヴィーナの顔に微笑が浮かぶ。
亡き育て親のラグナの事を思い出しているのだろう。今までに見た事もないような優しい笑顔。今初めて、メルヴィーナが聖職者であるという事を納得したような気がした。
「ラグナはさ、相手が誰だろうと全力で護るんだ。何だって全力でやって、全力で生きる。そういう男だったから、血だらけで大聖堂の前に横たわってるラグナを見た時に、ああ、この人に育ててもらって良かったって、本当に思ったんだ」
神官の一人からラグナの訃報を聞いた時、心がざわざわとざわめいていた。部屋を出て、駆け足で大聖堂入口の扉まで向かった。扉が開く時間がひどく永く感じられて、焦燥感を抑えられなかった。開いた扉を出て階段上に立って見下ろせば、階段下に沢山の神官が立っていた。転びそうになりながら駆け下りた階段の、最後の数段で自分の足に躓いて転げ落ちた。顔も手も膝も擦り剥き、それでもすぐさま立ち上がって駆け寄れば、神官達は遠慮するようにラグナから離れて道が出来た。
血だらけで、床も赤く染まっていて、傷だらけのラグナがそこ横たわっていた。傍まで寄ると、無事な右目が薄っすらと開かれ、メルヴィーナの姿を映し出す。
とても動けるような状態ではなかったというのに、ラグナは口元に笑みを浮かべ、右手を上げてメルヴィーナの頬に触れた。とても、冷たい手だった。
そして、ラグナは唇を動かした。微かに。それでも確かにメルヴィーナには聞こえた。その直後に息絶えたラグナ。青白い顔なのに、それでも血に濡れて赤くて――固く閉じられた目が開く事はなく、もう二度と名を呼んではくれない。
涙は、出なかった。
こうなった経緯と理由は部屋に来た神官から聞いていた。皆の為に魔物に立ち向かったのだと。だからだろうか。血に濡れたラグナの顔がとても勇敢なものに見え、とても誇らしく思えた。そっとラグナの頬を撫でると血がついたけれど、気にならなかった。そのまま顔を近付け、唇を重ねる。神官が見ていても気にしない。突然のメルヴィーナの行動に驚いていた神官達だったが、その行動を止める者も咎める者も居なかった。
そこまで話して「けど」と言葉を区切った直後、メルヴィーナの眉が顰められ、眉間に皺が濃く刻まれる。
「さっき、映像を観ただろ? 映ってたのは大聖堂でさ、神官の一人がラグナの許に慌ててやって来て……メルヴィーナが外で魔物に襲われてるって、そう言ったんだ」
それは、先程メルヴィーナから話を聞いていたから判る、神官の嘘。報せを聞いたラグナは大聖堂を飛び出し、魔物の群れの中へと向かった。そして無残にも魔物に殺されてしまったのだ。
「映像には、ラグナの後ろで、ラグナが殺されるのをじっと見てる神官が映ってたよ。そいつがラグナを殺したんだっていうのは、すぐに判った」
そこで、皆を見回した。
「その神官には、アンタらも会ってるよ」
「えっ?」
「大聖堂に行った時に、最初に会った三人いただろ。リックー達と残った二人の神官の、男の方さ」
先程、話をしていたディラルド同様に、とても落ち着いた状態で話をするメルヴィーナ。氷の神殿からここまで、あれほど怒っていたとは思えない程に冷静だ。
そんなメルヴィーナを見上げながら、隣に座っているディラルドが不安気に瞳を揺らしている。
「メルさん……その神官様に、復讐したいと、思いますか?」
ディラルドの口から出てきた「復讐」という言葉。それは、自分をずっと騙してきたアリスハイトに対してのものだろうか。そのような言葉、恐らくこれまでのディラルドであれば考えもしなかった筈だ。何かが彼の中で変わった事は間違いないだろう。
思いがけないディラルドの言葉に驚いたメルヴィーナだったが、すぐにいつもの太陽のような笑みを浮かべた。
「思わないって言ったら嘘になるけど、そんな気はないさ。最期……死ぬ間際に、話そうと思えば話せたんだ。アタシがいない時点で、ラグナは気づいてたはずさ。でも、最期に言ったのは、《魔物はもういない。だから、安心しろ》ただそれだけだった。復讐なんてマネしたら、ラグナを裏切ることになるからね」
そう言って笑うメルヴィーナは、晴れ渡る青空に輝く太陽のようだ。
メルヴィーナの根幹にあるのはラグナの教えなのだ。それを覆す事は、何であっても許されない。それは、育ててくれた人に返せる唯一の事だから。ラグナ・キアニスに育ててもらえて本当に良かったと、そう思ったメルヴィーナの気持ちが良く分かるようだった。
メルヴィーナの話が終わり、再び沈黙が訪れるかと思われたが、ミレニスの声が発せられた事で沈黙にはならなかった。
「僕は、神獣の力を欲している。その理由をまだ話していなかったな……お前達には、特にリクスには少々、辛い話になるかもしれん」
そう語るミレニスの表情は、いつも以上に厳しいものだ。
ゴクリと、誰かが生唾を呑み込んだ。
「十年ほど前から、世界で異変が起きているだろう。リルアーテルでの砂漠化、氷雪地帯、ベルティエラでの水位の上昇……その他にも異常気象が各地で観測されている。それだけではない。突然の雷も、頻繁に目撃されているんだ」
「雷……それって」
雷と聞いて、リクスとキースには思い当たる事があった。
焼け焦げた橋、焼かれた船、そして泉の畔に倒れていたライノア。
「そうだ。お前達が見たものと同様の現象がベルティエラでも起きている。もう、十年も前からな。僕らは、それが女神ヴェルミナの仕業だと考えている」
突然のミレニスの言葉に、驚きを隠せない。
「……どういうこと? 何で……ヴェルミナ様がそんなこと、するわけないよ」
信じられないという表情のリクス。当然だろう。女神ヴェルミナは、リルアーテルの人間にとっては絶対神だ。女神ヴェルミナが居なければ、リルアーテルという世界は存在し得ないのだから。
「もう気付いているだろうが、女神ヴェルミナはベルティエラの神でもある。神殿が二つに分けられている事がその証だ。リルアーテルとベルティエラは、どちらが欠けても存続し得ないという訳だ」
「だったら、ベルティエラだってヴェルミナ様のおかげで、在るんじゃないの?」
「……その辺の認識は、大きく異なるな」
そこで一度、言葉を区切り、ミレニスは顎に手を当てて何かを思案し始めた。
それから数秒後、再び皆を見回し、口を開く。
「……エアリスという名を、知っているだろうか」
突如、移り変わった話。今、ミレニスが考えていた事から繋がっている話なのだろう。だから何故と問う事はせず、ミレニスの言葉に対して暫し記憶を掘り起こしてみるのだが、初めて聞く言葉だった。
ミレニスが名だと言った事から名称なのだと判るのだが、それが人なのか物なのか、全く別の何かなのか――今の段階で判断する事は出来なかった。
表情を見、返事をしない事からミレニスは話を続けた。
「エアリスは、神の国と呼ばれている。女神ヴェルミナが暮らすとされている場所だ」
「えっ? ヴェルミナ様は天上にいるんじゃないの?」
「つまり、エアリスがそうだということだ」
思えば、天上という言葉はひどく曖昧だ。それはまるで、神は存在していないと暗示しているかのよう。しかし、ミレニスが言うエアリスという場所に本当に居るのであれば、神がこの世界に居るという証でもある。しかしそれは同時に、存在がぐっと身近になるようでもあった。
「エアリスへ行き、何故このような事態が起こっているのか確かめるべく、僕はフェアトラークを捜していたんだ。エアリスへの扉を開く為には、全ての神獣の力が必要だという話だからな」
本当に初めて聞く話だった。
それは司祭長であるメルヴィーナとて例外ではない。女神については天星碑文と呼ばれる、大聖堂内にある石碑に書かれていてメルヴィーナも閲覧した事があるというのだが、それでも初耳だ。
司祭も神官も碑文を閲覧する許可は得ている為に、知らぬ事実などないとされていたのだが、そうではなかった。それが意味するものに、メルヴィーナの眉間の皺が深く刻まれる。
「やっぱ神官共は信用できないね。ま、すでにしちゃいないけどさ」
「故意に改ざんされていると見て間違いないだろうな」
理由までは、憶測では知る事が出来ない。しかし、聖職者――大聖堂に対する疑念は深まるばかりだった。
そんな話を聞きながら、リクスは心に引っかかっている事があり、それが気になってミレニスの話は半分ほどしか聞けなかった。それは、リルアーテルとベルティエラで、女神ヴェルミナに対する認識が違うという話。どのくらい違うのだろうかという事を、訊かずにはいられない。
話を切ってしまう事になるかもしれないが、それでも抑えきれずに口を開いた。
「ミレニス達は、ベルティエラの人は、ヴェルミナ様のこと、どう、思ってるの……?」
途切れ途切れに紡がれる言葉。それは、リクスの中にある迷いからだろうか。それとも、答えを聞きたくないという拒絶の表れだろうか。
リクスが女神ヴェルミナに執心だという事は、周知の事実だった。これまでの道中で、度々ヴェルミナの話が出てきたからだ。嬉々として語るリクスの瞳はキラキラと輝いていて、それはまるで恋い焦がれているかのようで、微笑ましくなるのと同時に心配になるようなものだった。メルヴィーナやディラルドに詳しい話を聞く事も少なくはなく、少々熱心が過ぎて苦笑が浮かぶものの、リクスの好意故のものだという事で二人共、快く話をしたものだ。
そんなリクスの心情を察しているのかそうではないのか判断できないような間で、ミレニスが声を発する。
「ベルティエラとて、女神には感謝している。世界が在るのは、確かに女神のおかげなのだからな。だが、それは先代の女神に対してであって、ヴェルミナは違う。現女神を信仰する理由が、ベルティエラにはないというのが最大の理由だ。魔物から世界を救われたリルアーテルとは違うという事だ」
そう。世界を創造し、神獣を世界に遣わし、マテリアを世界にもたらしたのは女神ヴェルミナではない。ヴェルミナの前に君臨していた女神だ。
リルアーテルの人々が、より女神信仰を強めたのも、女神天昇期にヴェルミナが魔物を全て封じてくれたからであり、それ以前には聖堂もメルクリウスもなかったという話だった。
「女神交代の話は、神に仕える仕徒と呼ばれる者から伝えられたが、それだけだったという。ヴェルミナは神ではあるが、元は同じ人間だ。過ちを犯す事もあるだろうという見解がベルティエラの考えだ」
女神ヴェルミナに対する想いは根本から違うのだ。それは考え方も、見方も。ベルティエラはそう、神としてではなく、ヴェルミナを一人の人間として扱っているという事なのだろう。
「だが、僕は女神ヴェルミナをこの目で見ている。あの時、ノヴァーリスに現れたヴェルミナが虚像だったとしても、魔物を消した事に変わりはない。そんな彼女が、無闇に人を殺めるとは到底思えない」
ノヴァーリスでピンチのところを助けてもらった事は事実だ。魔物を一掃してくれた事も。だから今のミレニスの考えは、ベルティエラの考えとは違うという事なのだろう。リクス達と共に旅した結果とも言える。
そこまで話して、ミレニスの表情が曇った。
「僕は、ベルティエラを救う為に旅に出た。民が無作為に命を奪われる事のないように。だが、水晶の中に見えたのは、戦火に呑まれるベルティエラの惨状だった。僕の行為が、無駄だと言われているようで……」
それ以上、ミレニスは言葉を紡がなかった。
今、心の中は穏やかではないのだろう。ミレニスが言いよどんだところなど初めて見る。自分の住む世界がかかっているからか、はたまた、自分の全てが壊れてしまうからか。
苦悩に歪むミレニスの顔。
クルスタリスは、水晶に映ったものが真実だと言っていた。
けれど、それでも。
「まだ、起こってないよ」
静かな言葉に、皆がリクスを見る。
例え真実だったとしても、今の話という訳ではない。
「いつか、そういうことがあるのかもしれないけど、今は違うよ。まだできることはたくさんあるし、ミレニスがしてきたこと、絶対、ムダなんかじゃない。俺はそう思う」
真っ直ぐにミレニスを見て、ハッキリと言葉にした。未来の出来事に対して過去を後悔し、悲観するなどおかしいではないか。これからの行動次第で未来は変えられると、そう思っているから。
話が一段落ついたところで、今日は休まないかという話になった。疲労というよりは、衝撃的な事実を突きつけられて心労が溜まっているだろうからと。
メルヴィーナの言葉で解散するなり、キースは防寒具を手に取り真っ先に部屋から出て行った。終始、苛立ちを見せていたキース。その苛立ちが治まっていないのであろう事を、皆はその表情と雰囲気から悟っていた。
宿を出、夜になり人の居なくなった広場に佇んでいるキース。歯を食いしばり、何かをぶつけるように傍にあった木を殴りつける。
「八つ当たりとは、お前らしくないな」
背後から聞こえてきた声に、キースは振り返る事をしない。
「俺らしいって、何だよ」
明らかな怒声。乱暴な言葉。蔑んでいるような声音。
「僕が答えられるのは主観のみだ。その答えで、納得できるとは思えんが」
今のキースとは対照的なミレニス。いつも以上に冷静で、いつもよりずっと穏やかで、口調は変わらずとも優しさが見える。
けれどそれでもキースの苛立ちが消える事はなくて、ミレニスは息をついた。
「あの時、水晶の中に何を見た」
答えたくないのであろう事は百も承知だが、敢えて問うた。今のキースをどうにかしようと思えば、そこに触れずにはいられないから。
どれ程の時間を待とうとも構わない。生半可な気持ちでここには来ていないから。このまま朝になろうと厭わない。そう、思っていた。
しかし、その時は思っていたよりもずっと早くやってきた。
「ガキの頃の俺だ。リクスと会った頃の、な」
「リクスと会った頃?」
ちらりと、キースがミレニスを見やる。その目は怒気を含んだ鋭いものではなく、どこか落ち着いているように見えた。
「もう十年も前になる。フェクールの樹、あるだろ。聖堂近くの泉に生えてた。俺が見つけた時、あいつはあの木の枝の先に引っかかってたんだ」
思わず眉を顰めるミレニス。訝っているのだろうか、呆れているのだろうか。
「引っかかっ……どういう状況だ」
「さあな。聖堂に向かう途中にたまたま見つけたんだよ。すぐに枝がポッキリ折れて、泉にドボン。慌てて泉に飛び込んで助けてさ、泉の畔に上がって、ガキで良く知らないのに手当てみたいなことして、あの時はとにかく必死だった。んで、様子見てたら目が開いてホッとしたんだがな、目が覚めた時、あいつ何て言ったと思う?」
「さあ」
「おはようって、笑ったんだ」
懐かしみ、思い出に思わず笑みを浮かべるキース。いつの間にか、先程までの怒りはすっかり引いてしまったようだ。怒りも苛立ちも何もかもが吹き飛んでしまっていて、まるで毒気を抜かれたかのようだ。
それは、話を聞いているミレニスも同じような感覚になっているので、何となく気持ちが分かるような気がした。
「俺が必死になって助けたのに、寝てただけとか有り得ないだろ。でも、何か安心してさ、寝転がって大笑いして、結局そのまま二人で寝ちまった。後で迎えに来た兄貴にこってり絞られたもんさ。家が分かんないって言うリクスを、俺が面倒見るって条件で一緒に暮らすことになったんだ」
「なるほど。お前達が親子であり兄弟であり親友であるという不思議な関係なのはその為か」
「ああ。あの日から、誓ったんだ。俺があいつのことをずっと護るって、そう、誓ったんだ」
「それで、子どものままの自分、か……」
納得したようなミレニスは腕組みをしたまま、キースを見つめた。
「キース。水晶に映ったのはお前の心だ。リクスはもう、お前に護られていなければならない子どもではない。そしてもう、お前が肩肘張って背伸びをする必要もない」
「……それ、お前に言われたかねえんだけど」
前に、大陸に渡る船の甲板でキースがミレニスに話した事と同じような内容ではないだろうか。キースの記憶が確かならばその時、話をしたキースに対してミレニスは親父くさいと言っていたのだが。
それでも気にしていないかのようにミレニスは尚も続ける。
「体は成長しても、心はその頃のまま成長していない。ただその事実を突きつけられただけであれ程に乱れるなど、成長していないにも程があるな」
「偉そうに」
「実際に偉いからな、僕は」
「あー、そうだったな、お姫様」
「何だと!」
見下すような視線を向けるキースと、威嚇するような視線を向けるミレニス。
バチバチと火花が散っているような両者。子ども同士の喧嘩のようなやり取りと行動に、影から見守っていたリクスが思わず二人の前に飛び出した。
「ちょっと、二人とも何してるの!」
慌てて間に割って入り、仲裁するように両者の体を手で押して引き離す。
顔を上げてキースとミレニスの顔を見れば、何故だか勝ち誇ったような笑みを浮かべていて、リクスは目をぱちくりとさせた。
「え、あれ?」
「てめえら、結局、全員ついて来てんじゃねえか。ったく」
リクスが出て来た建物の方を見ていれば、メルヴィーナ、ディラルド、スフィアが笑みを浮かべながら出て来ていて、ミレニスだけでなく全員が様子を見に来たのかと思うと溜め息に似た息がキースから漏れた。
呆れ顔のキースだが、その様子はどこか嬉しそうに見えて、リクスはふふっと笑う。
「みんな心配してたんだよ。ただ、ミレニスが話すのが一番じゃないかって思ったから、様子を見てただけだけど……」
「まあいいじゃないか。アルはもう最年長じゃないんだから、もっとアタシに頼りなよ」
わしゃわしゃとキースの頭を撫でるメルヴィーナ。少しばかり気恥ずかしいが、こうして頭を撫でられるなど、いつ以来だろうかと思い、懐古の想いが相まってか嫌な気持ちにはならなかった。
これは、メルヴィーナが年上という事もあるのだろうか。
「分かったよ。メル、頼むな」
「任せときな!」
どーんと胸を叩くメルヴィーナ。何とも頼もしいものだと、キースはフッと笑みを零した。
自分が無理をする必要など、確かにないのだろう。仲間というものは本当に、頼もしく心強いものだと再確認させられた。
翌朝。一行は再び氷の神殿を訪れた。クルスタリスに、一晩考えて出直せと言われた為だ。そして、どうして試練に失敗してしまったのかという答えを示す為に。
神殿内に入り、道なりに進んで行き、最奥へと辿り着いた。
恐怖は、もうない。
雪が吹き荒れ、皆の前にクルスタリスが姿を現した。
【やあ よく来たね それで? 来たってことは 答えは見つかったのかな】
会って早々に答えを訊ねられた。
考えていなかった訳ではないので動揺はないが、途端に緊張が走る。見つけた答えが間違っていれば、再び追い返される事だろう。そうなれば再度、一日は時間を置かなくてはいけなくなる。
最悪、ここから先に進めなくなるという事だ。
それだけは避けなければならない。
ディラルドは皆の前に立ち、クルスタリスを見据える。
「答えと呼べるかは分かりませんが……先見の力とは、見通す力です」
「例え真実だろうと偽りだろうと、目を背けていては先を見る事など出来ない」
「受け入れないってことは、拒否することだからね」
「拒否しちまえば、何も見えなくなる。何も見えなけりゃ、進めなくなる。未来に向かって、な」
「だから、どんな事実が待ち受けてたって俺たちは目を背けず、受け入れる」
「それが見通す事というのが僕達の見解です……いかがでしょうか?」
少々、不安気にクルスタリスを見るディラルド。それまでの堂々とした態度とは全く違っていて、仕方ないとは言え、皆は苦笑や溜め息を漏らすのだった。
黙ってじっとリクス達を見つめていたクルスタリスは、キュフフッと嬉しそうに笑う。
【いいんじゃない ボクとしては 覚悟を決めてくれるだけで良かったんだけど その答え けっこう好きだよ】
いささか、馬鹿にされている気がしなくもないが、感触は悪くないようだ。
【うん 合格! コアに誓いを立てて!】
合格という言葉にホッと胸を撫で下ろし、ディラルドは左拳を握って天井に向け、差し出すように手を伸ばすと、セレステコアがキラリと一度、煌いた。
「我が名はディラルド・エスティーダ。フェアトラークの資格を与えられし者。我が願いは主の願い、主の願いは世界の願い。我らに力と加護を与え賜え。我が生涯は主の為に」
クルスタリスの体を取り巻くように雪が舞う。
【そうだ 一つ言っておくね 何か強いものが近づいてるよ 気をつけて】
クルスタリスは雪へとその姿を変えるとブレスレットのセレステコアの中へと入っていき、セレステコアの中に氷の結晶が出来上がる。そして十字架の水色の宝玉が一度、大きく煌いた。
左手首についているコアを見つめるディラルド。コアの中に入る前にクルスタリスが言っていた言葉が妙に気になっての事だ。それは、他の者達も同じ事。
「何か強いものって、何だろうね」
リクスの声に、ディラルドは顔を上げてリクスを振り返った。
「気を付けてという事は、あまり良いものではなさそうですが……」
「ま、気にしてたって仕方ないっしょ。近づいて来てんならその内、出くわすだろうし」
「楽観視するのは良くないが、メルの言う通りだな。とりあえず、街に戻るか」
いつまでもここにいたら風邪を引いちまう、と言うキースの言葉に、段々と体が冷えてきているのを感じた。確かに、長居するには向かない場所だ。
一本道を出口の方へと向かって歩きながら、キースは隣を歩くリクスを見下ろした。
「そういや、リクスとスフィアが見たのは何だったんだ?」
「スフィアは、スフィア見た」
映っていたのは、スフィア自身だったという事か。しかし、それ以上の事をスフィアは語らなかった為に、何を見たのかという事までは知る事が出来なかった。
「俺は……どこかの庭だった。そこで、誰かと……――」
言いかけた時、道の先――出口付近に誰かが立っているのが見えて言葉は途切れた。
「あれ、あの人……」
その人物にリクスは見覚えがあった。それは昨日、氷の神殿に向かう前にリクスがぶつかってしまった人によく似ている。頭から赤い防寒具のフードを被ったその人物が誰なのかという事を思案していると、その人物はスッと右手を前に出した。
何をしているのかと訝るように皆が見ている中で、リクスの心臓がドクンと大きく脈打った。まるで誰かに心臓を鷲掴みにされているような激しい痛みが走る。
「ぐ、ああ!」
胸の辺りの服を強く握り、堪えきれずに呻き声を漏らしたリクスは、その場に膝をついて頽れる。
「リクス!? どうした!」
突然リクスが苦しみ出した事で、キースとディラルドは心配そうにリクスに駆け寄り、ミレニスとメルヴィーナは警戒して道の先に立つ人物を威嚇するように皆の前に立ち、睨み付ける。
リクスの顔には脂汗が浮かんでいて、それだけでも苦痛が伝わってくる。
「おぉ、すっげぇ! 耐えてるヤツなんか初めてだわ」
嬉々とした声音。それは、皆の前に立つ人物から発せられた。明るく楽し気な声は、男性のもの。しかし、その口調はまるで子どものようだ。
「貴様、何者だ」
「何者だって? う~ん、そうだなぁ……」
ニヤリと口元に笑みを浮かべ、男は頭から被っていた防寒着を脱ぎ捨てた。
「仕徒様ってヤツだ」
白に赤い装飾が施された、軍服と王子服を組み合わせたような丈の長いコートを着、頭には紐のような飾りが二本交差するように巻かれている。軽いノリと軽そうな見た目。
クロムイエローのようなオレンジがかった金髪の男は、嘲笑するような笑みを浮かべた。
「仕徒、だと?」
「あれが女神の御使いなんて、ちょっと信じらんないね。アタシが言えた義理じゃないけど」
「信じらんなくってもホントのコトだし。仕徒、ヴァンルース。以後、お見知りおきを」
恭しく頭を下げるヴァンルースと名乗った男に、苛立ちを隠しきれずにキースは奥歯を噛み締めた。
「てめえ、リクスに何しやがった!」
吼えるようなキースの声。その言葉がヴァンルースに向いているという事に、この場にいる誰一人として疑いはしない。
何故なら、あの男がリクスに何かをした事は明白だったから。
「さぁてなぁ。にしても、ココロの強いヤツって嫌いなんだよなぁ。同士討ちさせたかったのによ」
「何!?」
「落ち着け、キース。今はどう考えてもこちらが不利だ」
ミレニスに諌められた事でチッと舌打ちし、キースは引き抜こうとしていた剣から手を放した。
確かに、リクスの身に何が起こっているか知る術のない今、下手に手出しをする事は出来ない。
「あぁ、そうだ。その小僧、助けてやるからさぁ、コア寄越しな」
自らを仕徒と名乗ったヴァンルースが、何故コアを欲するのか――それは、神獣が揃えばエアリスへの扉が開くという話の裏付けをしているとも言える。
つまり、確実にエアリスへ近付いているという証拠。
ならば答えは一つだけだ。
「コアを渡すつもりはない。貴様を行動不能にさせれば良いだけの話だろう」
「へぇ。仕徒様とやり合おうってのか。だがなぁ」
ヴァンルースが右手を前に出すと、手のひらの上に浮いているハート型の結晶が、キラリと煌いた。
「ぅああ!」
より一層苦しみ、その場に蹲るリクス。
手出しができないどころか、状況は悪くなる一方だ。ヴァンルースが手にしている物が何なのか、それが壊れればリクスはどうなってしまうのか――今のキース達には何も知り得ないのだから。
どうしたら良いのか。キースがそう、考えあぐねている時だった。
ゆらりと、キースの背後で何かが揺らめいた。
「キースさん、避けて下さい!」
珍しく、切羽詰ったようなディラルドの声に咄嗟にその場から飛びのくと、何かがキースの髪を掠めて空を切った。
避け、顔を上げて見えたものに、キースは目を見開いた。
「っ、リクス!?」
それは、つい今し方、苦しみに悶えていたリクスで、手には己の長剣が握られている。
何でという疑問は、聞こえてきた笑い声にかき消された。
「ははっ! やっと効いたぁ!」
「っ! てめえ!」
「おっとぉ。こっちじゃねえよ。今の相手は、あ・い・つ。余所見してっと、全員殺されちまうぜ」
ニヤニヤと、神経を逆なでするような笑みを浮かべているヴァンルース。ギリ、と噛み締められたキースの奥歯が音を立てた。眉は顰められ、今にも掴みかかりそうな表情。しかし、それが出来ないという事もキースは理解している。
睨み合い、牽制し合っている今、キースが動く事は出来ない。動けば、目を離せば、リクスがどうなるか計り知れないのだから。
キースとヴァンルースが睨み合う中でリクスは無差別に皆に斬りかかっていて、ディラルドとスフィアは剣を避けて逃げ回り、ミレニスとメルヴィーナが武器を構えて応戦している。
ミレニスが振り上げた薙刀がリクスの頬を切り、ピッと血が飛び散った。斬りつけられた事で飛び退き、リクスは二人から距離を取る。
「ちょっと、レニ! リックーにケガさせたらマズいんじゃないかい」
「そう悠長な事を言っていられないだろう。手加減をしていては、こちらがやられる」
「まあ、確かに。ここまで強いってのは予想外だったね」
そう言うミレニスとメルヴィーナの腕や足には切り傷があり、服も数ヶ所だが破れている。リクスの実力が高い事はこれまでの戦いぶりを見て知っていた。しかし、今のリクスはこれまでとはまるで違う強さだ。容赦なく相手を叩きのめすような、そんな強さ。
「それに、意識がないとは言え、仲間を傷つけたとあっては、苦しむのは僕らよりもリクスだろう」
「それも同感だね」
再び向かって来たリクスに、メルヴィーナは強烈な打撃を繰り出すも、リクスは後方に跳んで簡単に避けた。だが、リクスが跳び退いた先で薙刀を構えていたミレニスが薙刀を振り切る。不意をついたと思われたが、リクスは振り向きざまに剣で薙刀を叩きつけて氷の床に剣を突き刺すと、剣を支えにミレニスの腹を蹴りつけた。
吹き飛ばされたミレニスは後方の水晶に背中からぶつかり、重力に従って氷の床に崩れ落ち横たわった。リクスを牽制しながらメルヴィーナはミレニスの許へ近寄り、ミレニスの体を支えてやる。
手を抜いてなどいないというのに、この力量差――男となり戦士としてこれまで努力してきた自分や時間を嘲笑っているかのようで、ミレニスは眉を顰めた。
だが、いくら自己嫌悪しようとも、蹴られた腹が痛もうとも、リクスを止めねばならない事に変わりはない。キースは未だヴァンルースと睨み合いを続けている為に助けは期待できない。術師のスフィアとディラルドが相手になる訳もなく、ミレニスとメルヴィーナがやらなければ、リクスを無効化する事は出来ない。
だから立ち上がろうとした時、スフィアがリクスの前に飛び出したのが見えた。
「なっ!」
何を、という疑問はなかった。
両手を大きく広げているスフィアがリクスを止めたいのだという事は、見ただけで理解できる。だが、問題はそこではない。今のリクスには、武器を持ったミレニスとメルヴィーナでさえ太刀打ちできないというのに、無防備な状態で飛び出せばどうなるのか――考えるまでもない。
蹴られた腹の痛みに立ち上がる事の出来ないミレニス。ヴァンルースとの睨み合いにより身動きの取れないキース。距離がある為に、咄嗟に駆け出したけれど間に合わないメルヴィーナ。スフィアの傍にいるディラルドも駆け出しているけれど、ディラルドでは共倒れになってしまう。
「リクス、ダメ!」
必死に訴え、リクスを真っ直ぐに見ているスフィア。しかし、その声は届いていないのだろう。リクスが止まる事はない。
スフィアの前に立ち、剣を握った腕を振り上げるリクス。その目は冷たく、スフィアをただ見下ろしている。
勢いよく振り下ろされる剣。
その時、眩い光が辺り一面を埋め尽くした。強い光に視界は白で埋め尽くされ、何も見えなくなる。
一体、何が起こったのか。その場にいる誰もが理解できてはいない。
全てが白に覆われてから数秒後、視界に色が戻って周囲の様子が見えた時、リクスは片膝をついて頭に手を当てて座り込んでいた。
整わない息。全身を襲う疲労感。痛む頭。握り潰されそうな心臓。
それでも、じんわりと汗の滲んだ顔でリクスは微笑を浮かべた。
「ありがとう、ラディウス」
輝く光のような毛並みがリクスの少し前で靡いている。八本の尻尾が揺れ、その度に光が空気中を舞う。
ラディウスが実体化しているという事。そして、先程の世界が白くなるほどの強烈な光。リクスの事をラディウスが救ってくれたのだろうという考えに至るまでに、そう時間はかからなかった。
【このような事態になるまで手出しできず 申し訳ありません】
「ううん。俺が不注意だったせいだから……」
言って目の前にいるスフィアを見ると、その場に座り込んで呆けたような顔でこちらを見ている。何が起こったのか理解できていないといった様子だ。
自分の右手には剣が握られている。あと数瞬、ラディウスの助けが遅ければ、自分がスフィアを斬っていたのかと思うと恐怖が込み上げてきて、思わず剣を手放した。右手が、震えている。恐怖が拭えない。
そんなリクスを見、それからラディウスは、キースと睨み合いを続けているヴァンルースを見据える。
【去りなさい 仕えし者 これ以上の勝手は許しません】
「許さないだぁ? 今の今まで、この仕徒様の力で出て来るコトもできなかったクセに、ずいぶん偉そうだなぁ」
【自身の力を全て神獣に向け その上で破られたということを自覚なさい】
「全部? バカ言うなよ。まぁ、そっちの小僧に力持ってかれたってコトは否定しねぇがな」
リクスを見、ニヤリと楽し気に笑みを浮かべるヴァンルース。
今、リクスの感じている倦怠感がその力のせいだと言うのであれば、確かにラディウスが抜け出すだけの穴はあったのかもしれない。
それから、ヴァンルースはリクスから視線を逸らすと肩を竦めた。
「まぁ、いっか。今日は引いてやるよ。これは預かっとくがな」
「させるか!」
ヴァンルースの手の上にあるハート型の結晶を、そのまま持って行かせる訳にはいかない。手を伸ばして奪い取ろうとしたのだが、ひょいっと簡単に避けられ、体勢を崩し倒れかけているキースの耳元にヴァンルースは口を近付けた。
「遊びはもぅ終わりだぜ」
直後、腹部に熱量を感じたかと思うとヴァンルースの左手に紅いマテリアが瞬時に収束し、キースが気付いた時には体が後方に吹き飛んでいた。
「キース!」
エネルギーの塊が爆発したような衝撃に目を眇めるキース。吹き飛ばされた先ではメルヴィーナが先回りしていて、受け止めてくれた。
「大丈夫かい」
「おう……」
女性であるメルヴィーナに受け止められたという、男性のキースにとっては屈辱的なシチュエーションだったが、それでも今は気にしている余裕などなかった。焼けたような痕になっている腹部からは血が滴り落ちている。
それでも気にする事無く、キースはヴァンルースを睨み付けた。
「じゃあなぁ」
しかし、不敵な嘲笑を浮かべただけで軽い調子でそう言うと、ヴァンルースは手のひらに収束した紅いマテリアの塊を頭上高く放り投げ、マテリアの塊は天井付近で弾けると炎がヴァンルースを包み込み、炎が消えるとヴァンルースの姿も消えていた。
あっという間に感じた出来事。それでも、短い時間だった訳ではないだろう。
リクスは疲弊し、キースとミレニスは負傷している。たった一人の男を相手に、半数が行動不能にされるなど思ってもみなかった。それは、衝撃以外の何ものでもなかった。少なからず、皆が各々ショックを受けている。
「とにかく一旦、宿に戻らないとね。ディーちゃんもスッフィーも疲れてるっしょ。レニの怪我はそれほど酷くないし、リックーも歩けないって感じじゃないだろう。アルには無理してもらうことになるけどさ」
ざっと皆の現状を見て確認すると、メルヴィーナはキースに近づくと腕を肩に回して立ち上がらせ、スフィアがリクスを、ディラルドがミレニスを支える事で、何とか皆が立ち上がる事が出来た。
その光景を見ていたラディウスは、床に座ったまま頭を垂れるとマテリアへと姿を変えてディラルドのブレスレットのコアへ戻っていった。
宿屋に着くなり、重症のキースと、疲弊し切っていたリクス、そして早く治癒術を使えるまで回復したいスフィアとディラルドは眠ってしまい、六人用の大部屋でミレニスとメルヴィーナは三人掛けのソファに腰掛ける。
「レニはいいのかい?」
「ああ。大した怪我ではないからな」
「そうかい」
並んで座ったまま、メルヴィーナは背もたれに体重を預けて天井を見上げる。
「レニ……あれが本物の仕徒だって思うかい?」
天井を見上げたまま問いかける。自分でも気のない声だとメルヴィーナは思った。何にも興味がないような、表情も見えないような声。本当に知りたかった訳ではないのだろうが、気付いた時には言葉は口から出ていた。
その事に気付きながらも、問われたからかミレニスが口を開く。
「僕も実際に会った事はないのでな。証明できるものが何もない」
「司教やってたって初めてなんだ。証明なんて誰もできやしないさ」
「だが、神獣を抑え込んでいたという話が本当であれば、信憑性は高い。ラディウスの言葉が決め手ではないだろうか」
リクスを救うように姿を現したラディウスは、ヴァンルースに対して《仕えし者》と言っていた。ハッキリと仕徒だと言葉にした訳ではないが、仕徒は女神に仕える者の事を指す。同じ存在だと見るのが妥当だろうと、ミレニスは言う。
それは、メルヴィーナも考えた事だ。
ミレニスの言葉に、メルヴィーナはハァーッと深く息を吐き出す。
「アタシが言えた義理じゃないけど、想像してた仕徒とはかけ離れてるからさ……でも、納得もできるね」
大聖堂の神官を見ていると、神に仕える者に正常な人間が存在するとは思えない。それは、メルヴィーナ自身を含めて、だ。
「仕徒の目的って、何だと思う?」
「あの男は、コアを狙っていたな。コアには神獣が宿っている。強い力を有している事に対してよりも、エアリスへ行く事を妨害していると考えるべきだろう」
フェアトラークであるディラルドが神獣を懐柔している事に対して危機感を抱いたのであれば、ヴァンルースはリクスではなくディラルドを狙っただろう。ディラルドが居れば、コアがなくなろうと神獣が神殿に戻ろうと、再び誓契をすれば良いだけの話なのだから。
つまり、力を危惧しての事ではない。
コア自体に価値があるのは、エアリスへの扉を開く為の鍵である場合のみ。つまり、エアリスへ行かれては困るという事だ。
「女神ヴェルミナに何かあったってことかい」
「それは定かではないが……今回の異変、やはりエアリスが原因だという事だろうな」
「だったら尚更、行かなきゃだね」
「ああ。だが、問題もある」
「リックー、だね」
「そう。リクスが操られれば手が付けられないという事が判明したからな」
突然の事だったというのは確かにあっただろう。リクスが攻撃してくるなど考えた事もなかったのだから、驚くのも無理はない。
そして、ここまで来る間に魔物と戦闘をする事は何度もあり、共戦して知っていたのにもかかわらず図り切れていなかったリクスの実力。メルヴィーナもミレニスもそれなりに腕は立ち、傭兵として仕事をしていたキースと遜色ないくらいの実力を備えている。それが二人がかりで抑えきれないなど、異常ではないだろうか。キースがヴァンルースに足止めされて加勢できなかった事も、問題だったのだろう。
けれど例えキースが居たとして、三人でリクスを止められる自信はなかった。
「互いに無傷ではいられないだろうな」
「ま、今日だって無傷じゃなかったからね。それに、ケガだけで済めば良いってとこだろう?」
「ああ」
ラディウスが出て来なければ、リクスはあのままスフィアへ剣を振り下ろしていただろう。大怪我だけでは済まない。一切、手心を加えずに剣を振り下ろしていれば、命を落としていたとしてもおかしくはなかった。
止められない。ただそれだけで、皆の生死が分かたれる事になる。
「迷惑かけて、ごめんね」
不意に、別の方向から聞こえてきた声に視線をそちらに向けると、ベッドに寝ていた筈のリクスがこちらへと歩いて来ているのが目に入った。
いつの間にか起きて、話を聞いていたらしい。
「リックー……アンタのせいじゃ」
「ううん。俺が油断してたせいだよ。後悔はしてないけど、警戒するべきだった」
「氷の神殿に向かう前に街で助けた者がヴァンルースだったと話していたが、確かに軽率だったな」
返す言葉もない。
「俺の責任だから、俺が何とかしないと」
ソファのすぐ傍に立ち、ぐっと強く拳を握るリクス。
あの時、自分がもっとしっかりしていれば、ヴァンルースに操られるという失態を晒す事はなかったのだ。お人好しすぎる、後先考えなさすぎる、人を信じすぎだと、キースにもミレニスにも何度も釘を刺されている。魔物を相手にしても傷つけたくないと思っていて、そのせいで初めてミレニスと会った時にピンチに陥っていた事を話した時には、ミレニスに薙刀で切り捨てられそうになったものだ。
二人の言葉を聞いていなかった訳ではないけれど、人を信じたいという気持ちを覆す事が出来ず、その甘さと弱さが今回の事態を引き起こしてしまった。
人を疑う必要はない。けれども、手放しに信用してもいけない。
「一人で背負うつもりなら、筋違いだ」
睨むような厳しい視線をミレニスに向けられて、リクスは慌てて、そうじゃないと弁解する。
「操られてた時のことは憶えてるんだ。周りにいる人がみんな、何なのかよく判らなくて、ただ、頭の中で殺せっていう声が響いたんだ」
「つまり、操られている間は周囲にいる者全てを排除しようとする、という事か」
「それはきっと、仲間に限らないんだ。あの時、ヴァンルースは俺から一番、遠いとこに居た。それって、自分も危ないってことでしょ」
言われてみれば、ヴァンルースはリクスを操っている間、一度も動く事をしなかった。一歩たりともだ。キースと対峙していて下手に動けなかったのだと思っていたが、あの位置が最も攻撃を受け辛い場所だったからだとすれば合点がいく。
配置は、リクスの傍にミレニスとメルヴィーナ、少し離れてスフィアとディラルド、更に数メートル離れてキース、そしてその奥にヴァンルースというものだった。
リクスの仮説が、ぐっと信憑性を帯びる。
「負けるつもりはないけど、もし俺がまた操られたら、その時は俺を置いて逃げてほしい。俺がヴァンルースと戦えば、勝機はあると思うんだ」
全力でヴァンルースに向かえば、終始、軽い感じだったヴァンルースも余裕ではいられなくなるだろう。
コアを狙っているのであればディラルドは逃がすべきで、何よりリクスの件での取引は阻止できる。そして、仲間同士で傷つけ合う必要もなくなる訳だ。
「その方法にかけてみるべきか」
「リックーは、それでいいのかい?」
「可能性があるなら、試してみたいんだ」
それに、皆を傷つけなくて良い方法なら、そちらの方が良いに決まっている。
ミレニスとメルヴィーナの顔や手足など体の至る所についた傷は、リクスが斬りつけた傷だ。その傷を見ると胸が痛む。それは、ヴァンルースに操られようとしていた時に受けた痛みとは比べ物にならない痛みだ。
勿論、簡単に操られるつもりはない。それでも耐え切れないという事を、リクスは身を持って知っているから。
ハッキリと告げれば、ミレニスもメルヴィーナも頷いてくれた。
「分かった。リックー、頼んだよ」
「うん」
任せてと言えるほどの自信などどこにもない。それでも、信じたい。どうなるか計り知れないけれど、それでも、ミレニスとメルヴィーナが信じてくれたのだから、彼女らが信じてくれた自分を信じたいと思った。
翌朝、一晩休んで回復したスフィアとディラルドに治癒してもらい全快となった一行は、最後の誓契をする為に闇の神殿へと向かう為に、エレウテリアで海に出た。
東に向かってひたすら進んで行けば、次第に空が暗くなっていくのが分かった。雲がかかった訳でも、日が落ちた訳でもなく、空が青から群青になり、紺になり、やがて黒一色になった。
エレウテリアが、マテリアの供給によって淡く輝いている為に少し先が見えているという状態で、照らし出された海も空と同様に黒い。それは、海がインクで出来ているかのような黒さ。
「真っ黒だ……どうして、こんな色なの?」
「これが、神獣の影響ですよ。マテリアの濃さ故です」
水の神殿の周辺は、水のマテリアが濃い為に植物が良く育ち、森の木々は太く高かった。火の神殿は火山にあり、逆に植物はなく土ばかりだ。光の神殿は光雪が降る光の地に、氷の神殿は雪降る氷山に。地と風の神殿は、今は地形が変化してしまっているので本来の姿をしていないが、大地に埋め尽くされた地と、風が吹き荒れる地にあったのだ。
そして、闇の神殿は闇の集まる地に。
「闇の色に染まってしまっていますが、本来はこの辺りは夜なんですよ。常夜、と呼ばれる地域で陽が昇る事はありません」
「星の綺麗な空だったのだが、こうして黒く染まったのは十年程前からだ。そして、染まる範囲は徐々に増えている」
「闇が強くなっているのですね」
「確かに、大聖堂の光雪も減ってたね」
「マテリアのバランスが崩れている証拠です」
闇が大きくなっているという事は、聖域と大聖堂を目の当たりにしたリクス達は実感していた。光の守護も加護も意味を成していないのだと知ってしまったから。ラディウスが大聖堂に居ながら、大聖堂が穢れてしまったという事実が、闇の濃さを物語っている。
「この状況が続けば、僅か二十年でベルティエラは闇に呑み込まれるそうだ」
「そんなに早いの?」
「そうですね。闇が強くなれば光は弱まります。光が弱まれば更に闇が強くなり、繰り返すごとにその速度は増していきます。それはマテリアが、絶対量しかない事が原因です」
「絶対量?」
首を傾げるリクスに説明してくれたのは、意外にもキースだった。
「要するに、決まった量のマテリアを八つに分類して、それを神獣が分け合ってるってことだ。闇が多くなれば、光の取り分が少なくなって減ってくってことだな」
人がマテリアを生み出せるようになったとは言え、それは消費したマテリアを補っているだけにすぎない。つまり、一つでもバランスがおかしくなれば、全てが崩れてしまうという事だ。
それが、この世界の理。
ここ十年で四倍近くまで増えた闇は、ベルティエラの八分の一を占めるのだとミレニスは言う。危惧するのは当然の事であり、その状況を打破する為にミレニスがリルアーテルを訪れたのも必然だと言える。
闇の中に入ってからおよそ二十分後、漸くその島の一端が見えた。唯一、上陸する為の桟橋も黒く、まるで炭で出来ているようだ。
エレウテリアから降り立ち、少し先を見ても闇が広がっているだけで全貌を見る事など叶わない。明りの役割を担っているエレウテリアから離れれば何も見えないという事は考えなくても判り、ディラルドはワンドを取り出して握り、ミレニスを見る。
「ミレニスさん、手を出してもらえますか」
言われた通りに手のひらをディラルドに向けて出すと、ディラルドはワンドを両手で持って中央をミレニスの手のひらの前に翳す。
息を吸い込み。
「ランテルナ」
声に呼応するようにバチバチッと電気が弾け、ミレニスの手とワンドの間に電気の塊が出現し、それは浮き上がるとディラルドの頭上辺りで停滞する。
「これで大丈夫です。先へ進みましょう」
電気の塊がディラルドのすぐ傍で浮いているので、ディラルドが先導して神殿を目指し歩き始めた。
「凄いね。それ、どうやったの?」
「ピカピカ、キレイ」
すぐに興味を持ったリクスと、キラキラとした電気の塊に魅かれたスフィアがディラルドの傍に近寄り、早速質問してきた事で、ディラルドは昔の自分を思い出して笑みを零した。
「これは、マテリアを物質化したものです。普段、技や術を発動する時に技名や術名を口にしますが、あれはマテリアに命じる為に用います。こういう攻撃をしたい、と伝えている訳です。今のはその応用で、雷のマテリアに明かりになるように命じたんです」
「じゃあ、俺にもできるの?」
「はい。明かりでしたら、火・光・雷で出来ます。簡単な命令式なら除外する事も出来ますよ。以前、メルさんが岩を握り潰したのが、それに該当しますね」
自身の体内に宿るマテリアの種類を把握し、命令式を憶えれば様々な事が出来るようになるのだと言う。
「興味があるのでしたら今度、学術研究院にいらして下さい。リクスさんの知りたい事、何でも教えますよ」
「うん、行きたいな。俺、勉強したことないから楽しみだよ」
フィエスタには学校がない。そもそも学校と呼べる施設があるのは、リルアーテルではアリスハイトのみだ。その他に聖堂で教育を教えている司祭も居るが、それも稀なのだという話だ。教育を受けられる人間など、ほんの一握りでしかない。
知識を持つ者を前にして、リクスが勉強したいと思うのは当然の事だった。
ふと、今のディラルドの言葉に頭に浮かんだ事がある。この旅が終わったら、自分はどうするのだろうか、と。
旅に出てから様々な人に出会った。今まで知らなかった世界に出て、知り合いになった人も居る。その人達にもう一度、会いに行きたい。会いに行く術を、今のリクスは知っているから。フィエスタしか知らなかったあの頃とは違う。今は、行きたい場所に行く事が出来る。
今回、闇の神獣と誓契すれば、後はクルガトワールを迎えに行くだけだ。誓契を最初に行った時には、世界に異変が起こっているなど思いもしなかったのだから、連れて行くという選択肢もなかった。あの時とは事情がまるで違う。それほど前の事でもないというのに、世界の見え方も、世界の在り方も、何もかもが違う。まるで、知らない世界に来てしまったかのように。
凸凹とした舗装されていない道を歩いていると、明かりに照らされた島の様相がちらほらと見える。草木も花も、土も石も、全てが黒く染まっている。枯れている様子はないが、成長しているとも思えないそれらは、時が止まってしまっているかのようだ。
異様だという事は知っていたが、正直ここまでとは予想できていなかった為に、今、改めて異変を実感したような気がした。
暫く進むと、目的の場所へと辿り着いた。幾つもの支柱に支えられた巨大な建造物――神殿。漆黒に染まった神殿の扉を開けて中へ足を踏み入れると、神殿の内部には星空が広がっていた。
見上げて目に映ったその光景に、入ってすぐの場所で思わず立ち尽くす。
「何だ、これは……」
「空は暗いのに、星が見えるんだね」
「いや、おかしいだろ。あんなに黒かったんだぜ? 黒い空の上に建ってるわけでもないだろうし」
「あれも、ルキオラの一種だ」
驚く皆に、ミレニスが冷静に答える。しかし、その答えに一番の驚きを見せたのはディラルドだ。
「ルキオラに多種があるのですか? 初耳です」
「多種というよりも、突然変異と言うべきだな。ここの闇は、神獣の影響で通常よりも遥かに濃く深い。その闇の中ではルキオラの光は弱く、環境に馴染む為に進化したと言われている」
地の神殿で自生していたルキオラの光は、淡く優しいオレンジ色だった。しかし、ここの光は青白い。星明りと見間違うその明かりは、普段目にしている灯りとは違い、煌々と輝いている。
それが環境に対応するための手段だとすれば、納得だ。
「けど、ルキオラって石だろう。石も進化するもんなのかい?」
「鉱石にはマテリアが宿っていますから。マテリアは命の源です。つまり、マテリアが宿るものは動物や植物と同じように生きているんです。ルキオラが輝くのはマテリアを生成している為なので、このように進化したのでしょうね」
マテリアが宿っているのは鉱石だけのようで、普通の石や岩などにはないのだとか。だからこそ、鉱石と呼ばれる特別な石へと変化したのだとディラルドは言う。確かに鉱石には不思議な力を持ったものもある。共鳴石が良い例ではないだろうか。そしてそれが全てマテリアによるものだとすれば、力を有する事にも納得がいく。
そうして話しながら、だだっ広い空間を奥へと向かって歩いて行く。
満点の星空と呼ぶに相応しい天井に、キラキラとしたものが大好きなスフィアのテンションは上がりっ放しで、天井を見上げながらはしゃいで走り回っている。
ルキオラのおかげで明るいとは言っても、星空程度の明かりの為に新月の空の下を歩いているようなものだ。暗く広い神殿の中で迷ったりはぐれてしまったりしないようにリクスがスフィアを追いかけ、更にそんな二人が一緒に迷子になったら困るとその後をキースが追いかけているという何だか和やかな状況。
一方、ディラルドはディラルドで探究心に火がついたらしくルキオラを研究しようと辺りを調べ始めてしまい、リクス達と離れてしまってはいけないとミレニスとメルヴィーナはディラルドを引き摺って、リクス達の後を追っていた。
氷の神殿でも同じような事があったなと思いながら、リクス・キース・ミレニス・メルヴィーナは苦笑を浮かべ、溜め息をつきつつ奥を目指して行く。
その緊張感のなさはヴァンルースの事など忘れてしまっているかのようで、その事についてもやはり、苦笑と溜め息が漏れるのだった。
行けども行けども続く光星ルキオラが輝く暗い空間を歩いて行くと、ある地点を境にルキオラの輝きは消えてしまった。部屋を移動したかのように変わった景色は暗闇一色で、ディラルドが発生させた灯りによって見えた崖と壁に、最奥へやって来た事を知った。
いつものようにスフィアによって開かれた祭壇への道を通って祭壇へやって来ると、そこは薄明るい夜明け前の空の色のように、下方から薄明るいオレンジ色で照らされていた。
これが、暁闇の祭壇。
今回は闇と相性の良い火のディラルドと光のリクスが緩衝剤となる為に十字架に手を当て、
闇のような靄のようなものが三人の体を包み込んだ。
「尊き獅子が闇を裂く」
言葉に呼応するように一度、大きく十字架の宝石が煌くと辺りが闇に包まれた。目を瞑ったのかと錯覚するくらい何も見えなくなり、次に視界に色が映り込んだ時、一行の目に飛び込んできたのは黒い体毛を靡かせた巨大な獅子だった。
全面に光星ルキオラが鏤められているその場所は、獅子の後方に淡く輝く十字架がある事と広い空間から、祭壇の奥にいるのだと判明した。
移動した覚えはないのにどうして神獣の間にいるのだろうか。そして何故、ディラルドが呼び出してもいないのに闇獅子-レヴナント-が目の前にいるのだろうか。
けれども、その疑問を口にする事は出来なかった。
何倍もの大きさの、威厳の塊のような漆黒の獅子に気圧されている。身じろぎ一つできない緊張感漂う中で、先に口を開いたのはレヴナントの方だ。
【驚嘆しただろうか すまぬ事をした】
それは謝罪の言葉で、圧倒されていたリクス達から一瞬にして緊張の色が消えた。
【見ての通り もう一刻の猶予もない 闇が増え続け 世界は闇に染まろうとしている 闇が強すぎるのだ 我が姿が自然に実体化するほどに】
「では、ご自身の意思ではないのですか?」
【うむ 我が望みは世界の調和のみ 調和を乱す事は我自身も許さぬ それは女神であろうとも】
その言葉は、とても重く感じた。それは、重厚感のある声のせいもあるかもしれない。けれどそれ以上に、言葉に深い意味を感じたような気がした。
そこで一旦話を区切り、レヴナントは改めてリクス達を見回す。
【先ずは 称えるが先か 我が試練を打ち破った事 実に見事だ】
思いがけない言葉に一瞬、耳を疑った。
「あの、どういうこと? 俺たち、試練はしてないのに」
【この場に赴けた事が何よりの証 星光ルキオラを通して 覚悟は見せてもらった】
覚悟。
それは、ここの一つ前の神殿でクルスタリスが口にした言葉。
『ボクとしては 覚悟を決めてくれるだけで良かったんだけど』
あの時、少しだけ引っかかっていたけれど、それでもクルスタリスの試練の一部なのだろうと思っていた。
けれどそうではなかった。
「クルスタリスが司るのは先見です。けれど、覚悟を決めてくれれば良いと言っていました。二つの試練を同時に行ったのですね」
【故あってな 氷の試練を突破できぬ者は 闇の神殿へ足を踏み入れられぬようになっておる】
「僕達が入って来られたという事は、認めて頂けたという事ですね」
【うむ 誓契も行おう だが 誓契前に伝えねばならぬ事がある】
レヴナントはそこで一息ついた。
ゴクリと、誰かが生唾を呑んだ。
【クルスタリスの氷の試練で見たものは 全て真実 そしてそれら全てが 女神に通ずる】
「えっ? どういう、こと?」
言っている意味が理解できない。
今、レヴナントは何と言っただろうか。氷の神殿で皆が見たものは、過去の記憶と自分自身。それらが女神に通ずるというのは、一体。ディラルドがアリスハイトへ売られたのも、メルヴィーナを育ててくれたラグナが殺されたのも、当時イレイユだったミレニスが誘拐されたのも、全て女神が関係していると言いたいのだろうか。
何故、女神が――。
【世の理が崩壊する 異常の原因は女神にある 調和を乱す女神の真意は我ら神獣でも知り得ぬ 調和の為 世の為 力を借りたく思う 貴公らの意思を示されよ】
レヴナントの言葉に、リクスは息が詰まりそうだった。
言葉が出てこない。
女神ヴェルミナが何かおかしい事は、ミレニスの話を聞いて知っていた。しかし何か事情があって、ヴェルミナの意思とは関係なく仕徒が暴走しているのだと思っていた。そのせいで、世界のバランスが崩れてしまったのだと。
けれど違った。レヴナントは確かに、女神に原因があると言った。それはつまり、今の世界の異変は女神が起こした事になる。
言葉を失い、呆然自失といった様子で立ち尽くすリクス。
今の彼がレヴナントの言葉に対して何かを答えられるとは思えない。だから、ミレニスが口を開いた。
「僕らは、変貌してしまった世界を元に戻したいと考えている。この世界が崩壊するのを防ぐ為だ。女神ヴェルミナを止める為、僕らはエアリスへ行く。力を貸してほしい」
「僕達は知りたいんです。リルアーテルとベルティエラに何が起きているのか。そして、女神ヴェルミナ様が何故このような事を起こしているのかを。そのお力をお貸し下さい」
それが、ミレニスの旅の目的であり、今の皆の目的。それは紛れもなく、皆がそれぞれ覚悟した事だ。女神と相対するなど、本来ならば有り得ない事。けれど今は世界が正常ではない、異常事態だ。根源をどうにかしなければ、いずれ世界が消滅する。
誰かではなく、今、それが出来るのはフェアトラークを有するリクス達しか居ない。
だからこその決断だ。
細かい理由は違えど、目的は同じ。だから、キースもメルヴィーナも頷いた。今の話の内容を理解しているのか定かではないが、それでもスフィアも頷いた。その姿を見て、リクスは頭を振る。
女神ヴェルミナが絶対に間違っていないなど、こんな考えでは駄目だ。こんな迷いのままではいられない。それに、司祭の一件で思い知ったのだから。憶測だけでは前に進めない。実際に会って話してみなければ真実は知り得ない。
だったら、答えは一つしかない。
「それが俺たちの意思です。お願いします。俺たちに力を貸して下さい!」
【うむ 良い覚悟だ 誓い聞き入れた】
レヴナントの体が靄に包まれると、塊がディラルドのブレスレットの黒い石――ネグロコアへと入っていき、ネグロコアの中に闇が渦巻いている。だがその直後、すぐにネグロコアが黒い光を放ち、今し方コアに入ったばかりのレヴナントが姿を現し、そしてブランカコアも光を放つとラディウスが姿を現した。
一体どうしたのかと、皆がレヴナントとラディウスを見上げる。
【全ての神獣と誓契し 七体の神獣が居る今 クルガトワールを呼び寄せる事も可能となった】
【フェアトラークの火のマテリア そして光と闇のマテリアを用いて呼び寄せます コアを手に クルガトワールを呼び出すのです】
「は、はい!」
光と闇の神獣を前にしてか、表情の硬いディラルド。光と闇は、世界の根源に近い存在だ。神獣の中でも高位と言える存在を前にして普通ではいられないだろう。
ラディウスに言われた通りに、嵌めていたブレスレットを外して手のひらに乗せた。
目を閉じ、深く息を吐き出して集中すると、ブレスレットの上に炎が出現し揺らめいている。そして、目を閉じたラディウスから放たれた光が炎を囲み、その周囲をレヴナントの闇が渦巻く。
「火砲より生まれし、猛き炎翼竜よ、我が許に来たれり」
声に呼応するようにブレスレットのグラナーテコアが光り輝くと、ブレスレット上の炎がより一層、勢いよく燃え上がる。炎は次第に大きくなっていき、神獣と同じ大きさまで燃え上がり炎翼竜の姿へと変貌すると一気に収縮してグラナーテコアへと入っていった。
同時に光も闇も消え去り、ラディウスとレヴナントがディラルドを見やる。
【本当に 善きフェアトラークですね そなたの為ならば 神獣は快く力を貸しましょう】
【貴公らが目指すエアリスへの道を示そう 《天上へと誘いし陛 神殿交わりし地より現れん》】
【神殿から出られないので詳しい地は教える事が出来ませんが そなた達なら問題ないでしょう 彼の地で再びお目見えします】
言い、ラディウスとレヴナントはそれぞれのマテリアへ変わるとコアの中へ入っていった。
神獣と言えども、その場所を明確には知らされていないというエアリスへ続く扉。どちらの世界のどこにあるのかという事を、今はまだこの場にいる誰もが知り得ないが、それでも確実に近付いているという実感と確証がある。
その時が近付いているのだという事を。
レヴナントとの誓契が終わり、唯一、連れて来ていなかったクルガトワールを呼び寄せた事で全ての神獣が、ディラルドの持つコアの中に居る。
「行こう」
この暗い場所にいつまでもいる訳にはいかない。それに目的が達成された今、一刻も早く先を急ぐべきだ。
だから神殿から出ようと言うリクスの言葉に神獣の間を後にしたのだが、その空気は周囲の景色に負けず劣らず重いものだった。来る時には居なかった。だとするならば、来るなら今が良いタイミングだろう。来ないでほしい。居なければ良いと思っているけれど、その願いが叶う事などないのだとも皆が思っている。
祭壇を出、光星ルキオラの灯りを頼りに来た道を戻って行く。
誰も口を開かないのはやはり、これから起こるであろう事に備えてか、懼れてか。どちらにせよ、楽しく話していられるような状況ではなく、心境的には一番不安を抱えているリクスはぎゅっと拳を握った。
大分戻って来て、出口に近付いたという頃。
「やぁっと来たか。待ちくたびれたぜぇ」
軽い調子の声が聞こえてきて、皆が不快な声に足を止めた。
来た。
暗い中でもよく目立つ白い服に身を包んだその人物。
「ヴァンルース……!」
苦々し気に呻いたのは、キースだ。ヴァンルースの顔を見ると、リクスの苦痛に歪んだ顔が浮かんで消えない。無表情で仲間に斬りかかるリクスの姿が消えない。全ての元凶であるヴァンルースの事を赦せる筈がない。
そんなキースを前に、ヴァンルースはククッと喉の奥で笑った。
「そんな怒るコトかねぇ。まぁ、見てる分には愉しいけどな」
「何だと!」
「おっとぉ。そういう態度とってると、足元、掬われちまうぜ?」
そう言うヴァンルースの右手のひらの上には、ハート型の結晶がある。当然だが、やはりまだ持ったままだ。リクスを使う気満々といったところだろう。
気に食わない。何もかもが。
「こっちの目的はわかってんだろぉ? けど、渡せないって言うだろぉ? じゃあ、どうするかっつったら、これしかねぇもんなぁ」
ニヤニヤとした笑みを浮かべると、手のひらの上のハート型の結晶がキラリと煌いた。
「うっ、ぐっ!」
胸元を掴み、膝から地面に頽れるリクス。
じわじわと真綿で首を絞められるように、まだ本気ではないと言っているかのような苦しみ方のリクス。操られる直前のリクスの苦しみは、あんなものではなかった。
まるで、苦しむリクスを黙って見ていろと告げているかのようで、皆がヴァンルースの卑劣さに嫌悪を露にしている。
「さてさてさぁて。どうする? 渡すか? それとも、また同士討ちするかぁ?」
ハート型の結晶が煌めき、リクスの呻き声が大きくなると、とうとう地面に手もついてしまった。もう、リクスが操られるまで時間がない。
「てめえ!」
堪えきれなくなったキースがヴァンルースへ向かって行こうとしたその時だった。キースの背後で金属のぶつかり合う音が鳴り、振り返って見ればリクスの振り切った剣をミレニスが薙刀で受け止めている。
「呆けていないで手伝え!」
切羽詰っているからか余裕のないミレニスの叱咤に、キースは地面に倒されようとしているミレニスの体を支え、悪いと心の中で謝りながら剣を持つリクスの右手を蹴り上げた。
リクスの手を離れ、吹き飛んでいく剣。それを追うように後方へ跳び上がり、宙返りをして距離をとって地面に降り立つと、後から落ちてきた剣を器用に掴んだ。身体能力が桁違いに上がっている。あんなアクロバティックな動きをしているリクスを見た事がない。
これも、操られているが故か。
リクスが大きく後退した事で、一番奥にリクス、ミレニス・キース・ディラルド・メルヴィーナ・スフィア、そして入口側にヴァンルースという位置になった。リクスとヴァンルースに挟まれている状態のキース達。
剣を握り締め、獲物を狙う獣のように身を屈めているリクス。
「迷うなよ」
咎めるようなミレニスの声に、キースは拳を握りしめると傍に居るスフィアを見た。
「スフィア!」
手を伸ばしてスフィアの腕を掴むと引き寄せ、横抱きをして入口の方へ向かって駆け出した。それを合図に、メルヴィーナもディラルドを肩に担ぐとミレニスと共にキースの後を追いかけて全力で走り出す。
全速力で入口へと向かっているキース達を追いかけるリクス。ニヤニヤとしながら余裕な様子でその光景を見ていたヴァンルースだったが、どんどん近付いて来る一行に、次第に笑みが引きつっていく。
「えっ、ちょぉ、何……」
距離が縮まってもスピードはどんどん上がっていて、スピードを落とす事無くキース達はヴァンルースの横を突っ切った。
「へ? えっ?!」
驚きに振り返ったヴァンルースに、数メートル先で足を止めたキースも振り返ると、その口元に笑みを浮かべた。
「よそ見しててイイのか? お前の相手は俺らじゃねえよ!」
ヴァンルースの背後に突如として飛び出した影。思わず飛び退いたヴァンルースの眼前を、剣の切っ先が通り過ぎた。
完全に敵意が向けられている事に、ヴァンルースに焦りの色が見え始める。
右に左に斬りつけてくるリクスの剣を、体を捻り、飛び退き、避けている。その手に武器はなく、避ける事しか出来ないという事だろうか。
「ちょぉ、うわ、やりやがったなぁ!」
「何のことだよ。俺らはただ、襲ってくるリクスから逃げただけだぜ。お前の望みどおりだろ?」
さっきまでとはまるで真逆の光景。そんな言い合いをしている間もリクスの猛攻は止まる事がなく、ヴァンルースは避け続けている。このまま押せるのではないか。
抱き上げていたスフィアとディラルドを下ろしてリクスとヴァンルースの攻防を見ながら、そう思った時だった。
リクス目掛けて回転する円形のものが上方から飛んできた。しかし直前で弧を描いてヴァンルースへ向かうと右手のひらの上に乗っていたハート型の結晶を真上へと弾き飛ばし、結晶から光が消え去った。
拘束力のなくなったリクスはその場に膝をつき、突然の攻撃に皆が上方を見ていると、光星ルキオラがより一層強く光り輝き、辺りが昼間のように明るくなる。そこで初めて、今いる空間の全様が見えた。
開けた岩場の間に道があるような場所。夜空の下のようなその場所で、切り立った岩の上に居る三人の、白い服に身を包んだ人物も初めて目にする事となった。
「一人で平気だと言っておいて、無様ね」
「だから慎重に行きましょうって言ったんです。自業自得ですよ」
「油断禁物」
言って、各々が乗っている数メートルはある岩の上から飛び降りると軽い音を立てて着地をした。
その顔を見た瞬間、思わず声が漏れていた。
「何故ここに居る」
「どうしてここに居るんですか」
「何でここにいるんだい」
ミレニス、ディラルド、メルヴィーナの言葉に、キースもスフィアも、疲労困憊のリクスも目を丸くしている。言葉を受け、三人の男女が口を開いた。
「仕徒、ハーティリーよ」
「わたしは仕徒、エフィリスです」
「仕徒、アーヴァイン」
自らの口で、自らを仕徒だと告げた三人。
服装から予想している事だったが、もう間違いようがなかった。
先ず言葉を発したのはディラルド。
「あなたは、僕が神獣研究所に入った時には、すでに居ましたよね。そのあなたが、どうして……」
一人は、二束の長い襟足が特徴的な淡いコーラルピンクのボブカットの少女。ボレロのようになったジャケットを着、フレアミニスカートにニーハイブーツを履いている。白を基調とした服には、桃色の装飾が施されており、女の子らしいデザインとなっている。スフィアと同い年くらいのその少女。
彼女は、アリスハイトでディラルドが所属している神獣研究所の受付に居た人物だ。
「教育係として共に過ごした時間はとても愉しかったのですが、残念ながらわたしは味方ではありませんよ、ディラルド博士」
神獣研究所に配属されてから、まだ年端もいかないディラルドの教育係についたのが、五歳上の彼女だった。それなのに、その彼女が今ディラルドの前に居るというのも、予想だにしない事だ。
続いて声を発したのは、ミレニス。
「貴様、ウィスタリアのメイドだろう」
もう一人の、ミントグリーンの長い髪を短めの三つ編みにし、切れ長のアメジスト色の目した女性。ミニ丈のタイトなベアトップワンピースに、裾の長い正装のジャケットを着て、ニーハイブーツを履いている。白を基調とした服には、緑色の装飾が施されている。メルヴィーナと同じか少し上くらいの年齢の彼女は、聖都ウィスタリアの城の中で魔物に姿を映され喰われそうになっていたメイドその人だ。
リクス・キース・スフィア・ミレニス・ディラルドが助けなければ危険な状態だったというのに、その彼女がこうして平然とリクス達の目の前に居る。
「ええ、そうね。あの時は助けてくれて有難うと言いたいけれど、そうではないのよ。気付いたかもしれないけれど、あの魔物も兵士の件も全ては仕組まれたもの。ここに居ることもまた、必然なのよ」
つまり、ウィスタリアでの一連の事件は全て、彼女の仕業という事だ。だが、あの時は考えもしなかった。被害者のメイドが裏で暗躍していたなど。
最後に声を発したのは、メルヴィーナ。
「アンタも、そういうことかい」
そして、白く長い襟足が特徴的な、メルヴィーナよりも深い深紅の髪にガーネットのような目を持った無表情の青年。ヴァンルースとはデザイン違いの白い正装で、右肩辺りで留められたマントを靡かせている。服に施された装飾は、水色。
彼に見覚えがあるのはメルヴィーナだけで、その目には怒りと憎悪が宿っている。
「ああ」
淡々とただ一言、肯定の言葉を呟いた男。
「どういう事だ、メル」
「アンタらも会ったことあるよ。こいつは大聖堂でアンタらと一緒に残った神官さ。つまり、ラグナを死に追いやった男さ!」
大聖堂で皆が会っていたが、あの時は顔がすっぽりと隠れていた為に気が付かなかった。しかし、メルヴィーナの言葉には何か因縁めいたものを感じていた。これまでの旅の中で会って来た者、元から知り合いだった者が仕徒だったなどと、そんな事が本当に有り得るのだろうか。
けれどももう、疑う事はない。
これまで何度も感じていた、陰謀めいたもの。それが今、漸く繋がったような気がしたのだから。
仕徒が四人。これは想定外だ。それに今はリクスのマインドコントロールも解け、疲労困憊の状態になってしまった。ヴァンルースを撤退させられれば勝機はあったのだが、仕徒が四人に増えた今、ヴァンルース一人に苦戦していたリクス達に勝ち目はない。
そして、リクスを操る必要のなくなったヴァンルースは恐らく、神獣を封じ込める事に全ての力を使っているだろう。前回のように、神獣の力を借りる事が期待できない。
この状況をどうにかしなければ。
「さぁーって、どうすんだよ、この状況よぉ? どうやっていたぶる?」
優位に立ち、完全に勝利を確信しているヴァンルースはニヤニヤとした笑みを浮かべて他の仕徒を見ている。
しかし、他の仕徒の視線は登場時から変わらず冷たいものだ。
「帰ります」
「は? 何でだよ。ここまで追い詰めたんだぜぇ?」
「追い詰められた、の間違いでしょう」
「せっかくチャンスをあげたのに、見損ないました」
「これ以上、醜態をさらさないでちょうだい」
「けどなぁ」
一人ごねているヴァンルースに対し、アーヴァインは無言でヴァンルースの首根っこを掴むと壁際へと行き、壁に埋まっている星光ルキオラに触れれば二人の姿は光に包まれて消えてしまった。その後を追ってハーティリーも光星ルキオラに触れて光に包まれ、最後に残ったエフィリスが壁際まで行き、リクス達を振り返った。
「今日は挨拶だけですので、失礼します」
そう言って頭を下げるエフィリスに数歩、駆け寄ったディラルドが声を張り上げた。
「待って下さい! どうして、こんな……」
「すみません。わたし達は仕徒ですから、仕える方に総てを捧げます」
言い切り、今一度、頭を下げると光星ルキオラに触れて光に包まれると姿を消し、辺りは元の星空の明るさへと戻っていた。
あっという間に居なくなってしまった仕徒。ヴァンルース以外は、本当にただ挨拶をしに来ただけだったのだろう。姿を現し、自己紹介をし、姿を消してしまった。
リクスがヴァンルースと刺し違えなくて良かったという安堵感も、仕徒四人と戦闘になるのではないかという不安感も、仕徒の姿を見た衝撃には敵わない。
呆然と、立ち尽くすだけのリクス達。
嫌な空気だけが流れている中で、年長のキースの言葉で皆、エレウテリアへ戻る事にした。
最初から予期していたが、この旅は波乱続きだった。それはスフィアと出会った時からずっと変わらない。出会い方がすでに特殊で、その事を覚悟した上でリクスもキースもフィエスタを出た。
それにどう考えても、リクスとキース以外が大変な目に遭っている。
これも作為的なもののせいなのだろうか。
「こう、重い話が続くというのも嫌なものだな」
航行するエレウテリアの中で、最初に声を発したのはミレニスだ。
気分が乗らないメルヴィーナに変わってエレウテリアの操縦を片手でしつつ、皆を振り返っている。
「確かにいい気はしねえだろうよ。ま、愉しいだけの旅じゃねえのは覚悟してたがな」
「そうですね。それだけの事態ですし、予想していなかったわけでもないのですが……」
「あの人、ディラルドの教育係なんだっけ?」
仕徒が名乗った時に、ディラルドは確かにそう言っていた。
「ええ。僕が二歳でアリスハイトへ行ったという話はしましたよね。専門的な事はお師匠様から教えて頂きましたが、身の回りの事は彼女に教えてもらいました。エフィという名で、僕より六歳上のお姉さんでした」
「ディラルドの六歳上っていうと、俺の一個上か……って、無理あるだろ、あの見た目」
「言われてみれば、昔からあまり変わっていないですね」
十五、六歳くらいの、可愛らしい印象のエフィリス。それは、最初に会った神獣研究所の受付でも思った事だった。あの時は営業スマイルを浮かべていた彼女だったけれど、それでも、大きくぱっちりとした目が印象的な人だった。それは女性というにはまだ幼い、少女という言葉が似合うような。
見た目だけで言えば、ミレニスやスフィアと変わらない。
ずっと一緒に居た筈のディラルドからの評価でさえも幼いのだから、童顔だという事なのだろうか。
「そもそも、仕徒は齢を重ねるものなのだろうか」
「いいや。仕徒の根本は神獣と同じなのさ。神がマテリアから生み出し、獣の形をしているのが神獣、人の形をしているのが仕徒っていう風にね。人間じゃないんだ、成長はしないよ」
「十年間、見た目が変わらずに普通に過ごせるなんてあり得ねえし、そこはやっぱ仕徒の力ってとこなのか」
「あのヴァンルースという奴も妙な術を使っていたからな。他の者が使えてもおかしな事などないだろう」
「神官……アーヴァインも術師だって話だしね、そう思っといた方がいいかもしれないよ」
ヴァンルース、エフィリス、アーヴァイン。この三名が術を使えるならば、メイドだったハーティリーも使えるのではないかという疑念は当然の事だ。ウィスタリア城のメイドとなったのも術を使った可能性がある。
今思えば、ヴァンルースの姿もウィスタリア王城で見かけている。大臣の傍らに立っていた男がそうだ。
「いや、けどあのアーヴァインって、ヴァンルースにチャクラム投げてただろ。術師じゃなくねえか?」
「あー、いや、アタシも詳しく知ってるわけじゃないしね。あんまり話すことなんかなかったし」
「そうなの? でも、ずっと一緒だったんだよね」
率直なリクスの質問にメルヴィーナは、何とも言えないなぁと頭を掻いた。
「まあ、一緒は一緒だけど、あの大聖堂の中だしね。アタシはずっとラグナといたし、他の神官や司教はアタシに近寄りたがらなくてさ、ほとんど何も知らないのさ」
外観だけでもとても大きい建物だった。通路だけでも幾つもある上に、地下もあった。あれだけ広い建物の中では仕方がないのかもしれないと思った。それに、メルヴィーナから聞いた境遇を思えば当然の事なのかもしれない、とも。
それから少し経って、話が一段落し各々で話し始めた頃、リクスは後方の椅子に座ってじっとしているスフィアの方へと行き、隣に腰を下ろした。
「スフィア、どうかした?」
「……え?」
間を置いて、スフィアがリクスを見上げた。何を言っているのか理解できないと言ったように、呆けた表情で。
「あ、いや……今日、あんまり喋ってないなって思って」
「そう?」
「いや、うーん、いつもあんまり喋ってはいないんだけど、何か今日は違うっていうか……ごめん、俺の勘違いかも」
そう言って誤魔化すように笑ってみせると、スフィアもおかしそうに笑った。
けれどその笑顔は、愉しくて笑ったというよりもリクス同様に何かを誤魔化して隠しているように見えて、とても複雑な気持ちを抱いた。
何だか、暁闇の祭壇以降からスフィアがずっと傍観しているように見えていた。それもいつもの事と言えばいつもの事なのだが、何だか周りの様子を気にしているというか、皆の事を窺っているというか――ハッキリとは言えないのだが、リクスの目にはやはりいつもの様子とは違って映っている。
それが何なのかを知る事はなく、それでもスフィアが落ち込んだり不安がったりしていないと知れただけで良いと、深く追求はしなかった。
「どちらにせよ、メルがキア・ソルーシュとなるのも時間の問題だったかもしれんな」
聞こえてきたミレニスの言葉に前方を見ると、他の四人が神妙な顔をして話をしていた。
「では、ウィスタリアでの一件は、メルさんをキア・ソルーシュにする為のものだったという事ですか?」
「仕徒の目的が、キア・ソルーシュを作る事であれば考えられる事だ。人柱であろうが、女神の器であろうが、ともかく空の人間を欲していたという事だろう」
「けど、事件は解決しちまってメルは無罪放免で大義名分がなくなって断念したが、そんな時にやってきたスフィアをキア・ソルーシュにしようとしたってことか」
「そもそもあの神官、アーヴァインがラグナを殺したのも、アタシがキア・ソルーシュになるのを拒むのを防ぐためってか。まあ、妥当だね」
「だが、一つ腑に落ちない事がある。キア・ソルーシュは誰でもなれる筈だろう。何故、メルやスフィアに固執する必要があるのか。その為に、わざわざメルを育てる必要などない。スフィアが逃げたとしても追いかける必要もない」
そこまで聞いて、確かにその通りだとリクスも思った。
何か特殊なものがなくても、誰であってもキア・ソルーシュとなれる。その肉体を、生命を、全てを女神と世界に捧げるだけの存在なのだから。けれど、大聖堂はメルヴィーナをキア・ソルーシュとなるように育て、その邪魔になるかもしれないラグナを殺めた。更に、聖域で暴力を揮ったとして処刑されようとしていたメルヴィーナ。それを恐らく大聖堂で引き取り、キア・ソルーシュとしようとしたのだろう。
スフィアの儀式が失敗した後も外に出さないように追い掛けられた。
それはまるで、メルヴィーナかスフィアでなくてはならなかったかのように。キア・ソルーシュには、隠された何かがあるのだろうか。
「今日はこのまま、レヴナントの言っていた地へ向かおうと思う」
いつの間にか、話題は更に切り替わっていた。リクスがあれこれ考えている間に、皆の方では結論が出たのだろうか。
「判ったのか?」
「はい。天上へと誘いし陛、神殿交わりし地より現れん……実はこのエレウテリアには、リルアーテルとベルティエラ、二つの世界の地図が搭載されていました。見て下さい」
操舵版上にある球体の周りには様々なボタンがあり、ディラルドが操作するとエレウテリアの中央部に二つの地図が並んで映し出された。
「左がリルアーテル、右がベルティエラです。この光る点が、それぞれの神殿です」
リルアーテルとベルティエラに四つずつ、点滅している光がある。それぞれ、水の神殿は青、火の神殿は赤、風の神殿は緑、光の神殿は白、地の神殿は橙、雷の神殿は黄、氷の神殿は水、闇の神殿は黒。
「それらを対角線で結んでいくと……」
ディラルドが地図に触れれば、各々の神殿が対角になるように線が伸びていく。リルアーテルの神殿はベルティエラに寄っていて、ベルティエラは大陸の形からリルアーテルとは離れている為、線の交わる地点はベルティエラにある。
全ての線が交わり、そのポイントが示された。
その地の名を告げたのはミレニスだ。
「霊峰イェフィラ。何ものをも拒む、ベルティエラの頂だ」
「何ものをも拒むって、そんな険しいのか?」
「霊峰の名は伊達ではない。切り立った崖の道もそうだが、選ばれた者だけが進む事が出来るという話だ」
「最後の試練ってとこか」
神獣との誓契を得て、天上へと向かう為の最後の試練。それをクリアする事によって、いよいよ天上に行く為の資格を得るという事か。
霊峰は大陸の先端に位置している。ミレニス曰く、不自然な場所にあるという霊峰はやはり、偶然その場所にあるという訳ではないのだろう。
霊峰の麓の街で一泊する事になり、エレウテリアは霊峰を目指して進み始めた。
翌日の夜。
珍しく個々の部屋で眠る事になったのだが、皆が寝静まった頃、リクスはベッドから飛び起きると部屋を飛び出し、石造りの街中を走っていた。
街の中心部を通り、坂になっている道を駆け上がり、辿り着いた小高い丘にある公園にその人物は立っていた。
「よーぉ。待ってたぜぇ」
ニヤニヤとした顔が公園に設置された灯りに照らし出されている。
走って来て乱れた息を整えつつ、その男――ヴァンルースを睨み付けた。
「部屋には誰もいなかったのに声が聞こえたのって、それのせいなの?」
ヴァンルースの手のひらの上で灯りを反射して輝く、ハート型の結晶を見ながら問えば、ヴァンルースはハハッと笑った。
その乾いたような軽い笑いに、隣に立っているエフィリスは溜め息混じりの息をついた。
「これはな、《ココロのカケラ》だ。つまり、オマエのココロの一部ってコト。オマエと繋がってんだから、声を届けるくらい簡単なコトなんだよ」
それは心に直接、声をかけているようなものなのだろうか。確かに、聞こえた声は頭や耳からではなく、胸の辺りから出ていたような気がする。それが、心の一部に語りかけていたという事か。
しかし、それが判明したところでリクスの警戒が解かれる事はない。ヴァンルースに向けた厳しい視線も和らぐ事はなく。
「どうして俺を呼び出したの」
「こっちの目的は知ってんだろ?」
「……コアでしょ」
「そーぅ、そのコア。どうしてほしいかも、わかってるよなぁ?」
奪う事が出来なかったから、リクスに持って来いという事なのだろうか。
だが、腑に落ちない事がある。
「だったら、どうして今、持って来いって言わなかったの。みんなもう寝てるんだから、絶好のチャンスだったのに」
コアを手に入れたく思い、リクスを使おうと思ったら誰にも気が付かれなかった今が絶好の機会だったのではないだろうか。こうして呼び出してリクスにその事を伝えるなど、二度手間以外の何ものでもない。
わざわざおちょくる為に、夜中に手の込んだ呼び出しをしたという事も考え難い。
「そりゃぁ、直接、顔を見るために決まってんだろ!」
ケラケラと笑うヴァンルース。どうやら相当、性格が捻くれているらしい。
「本当に悪趣味ですね」
「わっかんないかなぁ? 得体の知れない声の恐怖感と、何が待ってるのかわかんない焦燥感と、仲間を裏切るっていう絶望と、こっちの命令に従う屈辱と嫌悪感。そんな顔、滅多に見るコトないんだし、見たいって思うのは当然だろぉ」
エフィリスの言葉ではないが、本当に悪趣味だ。
思えば最初からそうだった。リクスが苦しんでいる姿を見ながら笑っていたのだから、こうして悪戯のようにリクスを振り回す事も遊びの一環でしかない。
ヴァンルースが仕徒だという事が、甚だ疑わしいものだ。
「まぁいいや。明日の早朝、麓で待ってっからコア持って来い。言わなくてもわかるだろうが、一人で来いよ」
言うと同時に灯りが強くなっていき、光が仕徒を包み込むと瞬時に光は消え、静寂に満ちた仄かに明るい公園へと戻っていた。
光に眩んだ目が辺りの暗さに慣れた頃、リクスは呆然と立ち尽くしたまま夜空を見上げた。
全身の力が抜けていくようだ。今、自分が地面の上に立っているのか座っているのかさえも判らない。
ヴァンルースの厭らしい笑い声が頭から離れない。
従わなければ再び洗脳されるであろう事は、考えなくても理解できる。
断る事は出来ない。けれど、命令に従う事も出来ない。どちらを選んでも後悔する事は目に見えているのだから。
ふわりと、淡い光を放つ柔らかな黄金の毛並みが風に靡き、足元に寄り添いながらその顔を摺り寄せる。
暖かい彼女の存在を感じながら、リクスは暫し佇んでいた。
翌朝、まだ陽も昇りきらない時間。リクスはベッドで眠るディラルドの真横に立っていた。ベッド脇にある小さな棚の上にはワンドと、コアのついたブレスレットが置かれている。じっと、数秒間ディラルドを見下ろし、何かを振り払うように視線を逸らして棚の上のブレスレットを乱暴に手に取ると部屋を後にした。