1 水晶に導かれて
風薫る、花びらが舞い散る森の中。泉の中央から生えるフェクールという大樹には、純白の綿のような小さな花が咲き乱れている。
大樹が聳える泉の周りの草むらに、全体的に色味は落ち着いていて柔らかく爽やかな印象を受ける服装を身に纏い、彼は佇んでいた。
裾の両脇に腰までのスリットが入っていて、二枚重ねのようになっているハイネックの半袖の白いシャツには、胸元まで入っているラインとスリットに沿うように水色のラインが入っている。白いシャツの上からボタン一つで留められた淡いオレンジ色の丈の短い半袖の上着を着、濃い緑色のカーゴパンツを履いている。
シャルトルーズイエローに近い色素の薄い金髪の、青年と言うにはまだあどけなさを残した彼――リクス・ユーリティは、泉の真上にだけその姿を見せている蒼空をコバルトグリーンの瞳に映している。
「今、誰かに呼ばれた気がする……」
ぽつりと漏れた言葉。しかしそれは誰の耳にも届く事無く、花びらと共に風に流されていった。
知っているような、知らないような懐かしい声だった気がするけれど、耳には声の余韻は一切なく、思い返そうとしてもその声を思い出す事はできなかった。
「リクスお兄ちゃん!!」
突然、足元から聴こえてきた愛らしい声にリクスはハッとした。
視線を落として見れば、そこにいるのは淡いチェリーピンクの髪を耳の辺りでシニヨンにしている幼い少女。彼女はくりくりとした大きな海色の目をぱちくりさせながら、リクスを見つめていた。膝丈のスカートがふわりと風に揺れる。
「エレナちゃん」
「お名前呼ばれたら、お返事しなきゃ、めっ!」
「あ……ごめんね」
どうやら何度も呼ばれていたのに反応を示さなかったので、少々ご立腹の様子だ。そんなエレナを見ながら、リクスはその優しい顔に苦笑を浮かべる。
先程、誰かに呼ばれた気がしたのは、本当にエレナに呼ばれていたからなのかもしれない。
それを無視したとなれば、彼女が怒るのも当然だ。
「見て見て! いっぱいだよ!」
しかし不機嫌だったのは一瞬の事で、機嫌が悪かったのが嘘だったかのように笑顔になったエレナは、手に持っていた籠をリクスに差し出すように見せた。籠の中には、小さな赤い実をつけた草が溢れんばかりに入っている。
「ホント、いっぱいだね。これだけあれば十分だし、司祭様のとこに持って行こうか」
「うん!」
ニコッと笑い合ってエレナから籠を受け取ると、その小さな手と空いている自分の手を繋ぎ、泉の奥にある聖堂に向かって歩き始めた。
この世界には、目に見えない不思議な力――マテリアが溢れている。それらは、世界が生きていく為に必要なもの。即ち、水、火、風、地、氷、雷、光、闇。風が吹き、草木が芽吹き、水が流れ、炎が灯り、雪が降り、雷鳴が轟き、光が降り注ぎ、闇が降りる。それらを感じる度に、世界が生きているのだという事を実感した。
歩いて少し経った頃、泉と同じように光指す場所に辿り着けば、そこには聖堂が建っている。色とりどりの花が咲き乱れる中にできた舗装されていない土の道を真っ直ぐ行けば、小さな聖堂が見えた。そのまま近づき、重厚な扉を押し開けて中へと入る。
ステンドグラスから差し込む光で神秘的な雰囲気の聖堂の中、ずらりと並ぶ長椅子の奥にある彫像の前に、司祭は立っていた。
「司祭様、採って来たよ!」
声をかければ司祭は振り返り、微笑んで目尻に皺を寄せる。
「ああ、エレナさん、リクス君。わざわざ、ありがとうございました」
会釈をする司祭に、ブンブンと手を振って返し、エレナはたたたっと軽い足取りで司祭の方へ行くと、持っていた籠を手渡した。籠いっぱいの草に、司祭は今一度、エレナとリクスに微笑んだ。
「これで、病に侵された人々を救うことが出来ます。エレナさんは、発作は大丈夫でしたか」
「うん! 泉のとこにいるとね、苦しくないの!」
「それは良かったです。しかし、油断は禁物ですよ。発作が起きたらすぐに実を口に含むこと、良いですね」
はーいと元気よく返事をするエレナに、司祭もリクスも微笑ましそうに見下ろしている。
近年、流行病のように幼い子どもを中心に喉の病気が広がっていると言う。治療法は見つかっておらず、シリニス草という綺麗な水辺に生えている草に生っている実を口に含むと発作が治まるという事から、一時的な薬として使用しているだけだ。リクス達が採って来た草が、そのシリニス草である。
街の外は魔物が横行しているので街から出る事は危険が伴う為、中々採りに行く事ができず、今回はリクスが司祭から採取の依頼を受けたと言う事だ。
司祭は籠に入っているシリニス草を一掴み小さな布袋の中に入れると、口を紐で結んでリクスに差し出した。
「これはエレナさんの分です」
「ありがとうございます」
「お礼を言うのはこちらの方です。ありがとうございます」
「気にしないで。エレナちゃんの薬草もきれかけてたから、丁度良かった。それに、ヴェルミナ様にも会いたかったから。礼拝してもいいですか?」
「勿論ですとも。どうぞ」
手で促されると、リクスはエレナと共に彫像の前に立った。ステンドグラスから差し込む光に照らされ、神聖な聖堂の中で一際神々しさを放つ彫像。目を閉じ、胸の前で手を組み、祈るような恰好をしている緩いウェーブのかかった長い髪の美しい女性。リクスは彫像を見上げ、それから片膝をついてしゃがむと彫像と同じように胸の前で手を組み、目を瞑る。その隣でエレナも両膝をついて、立ち膝の格好になると手を組み、目を瞑る。
彫像の女性は、女神ヴェルミナ。この世界に存在する唯一の神。遥か昔、闇から溢れ出た魔物を封印し、混沌の世界を清浄したとされている神。
礼拝時は、彼女と同じような格好をするのが正式で、しかし、神と同等であってはいけないという理由から膝をつくようになった。
【平和を願い、平和を望むならば祈りを捧げよ。さすれば女神は微笑むだろう】
古より伝えられている言葉に倣い、礼拝する為に聖堂を訪れる者は少なくない。リクスもその中の一人だった。
礼拝を終え、目を開け立ち上がると、リクスは眉根を下げて目を細める。
「最近、魔物の数が増えたような気がする。ヴェルミナ様が封印してくれたはずなのに」
「ヴェルミナ様が魔物を封印してくださったのは、遠い過去の話です。封印というものは、いずれ効力を無くすもの。それが近いのかもしれませんね」
完全な封印などない。永久に封じる事が出来るのであれば、それは封印ではなく消滅だろう。つまり、封印に永久など存在し得ないのだと司祭は言う。封が解かれる時が未来に訪れるかもしれないと、そう思ったからきっと、女神は街や村に魔物が入り込まないように《女神の慈しみ-メルクリウス-》と呼ばれる、クリスタルで出来た花を残したのだろうと言われている。
リクスは、礼拝を終えて自分の隣にちょこんと立って手を握ってくるエレナを見下ろし、話が難しくてよく分からないのか首を傾げている彼女の頭を優しく撫でた。
「リクスお兄ちゃん、早く行こうよ! 今日はとっても大事な日なの!」
「そろそろ時間だもんね」
「おや、今日は何か用事でもあるのですか」
「はい。やっとキースが帰って来るんです、三ヶ月ぶりに」
待ちきれない様子のエレナに手を引かれながら、キース君によろしくと言って笑顔で手を振って見送ってくれる司祭に会釈をし、リクスはエレナと共に聖堂を出た。泉のある森を抜け、村へ戻る道を歩いて行く。
これから会おうとしているのは、キース・アルキード。リクスの兄のような親友のような存在であり、エレナの実兄だ。生活の為に仕事に出ていて、リクス達の村を出て行ってから今日で丁度三ヶ月になり、三ヶ月経ったら帰ってくるからという言葉を信じ、エレナと共に村と隣町と聖堂を繋ぐ道の分岐点でキースを待とうと決めていたのだ。
まだ幼いエレナはキースにべったりなのだが、生きて行く為にはお金が必要だからと働きに出て行ったキースを見送った日から一週間は泣き続けたもので、そんなお兄ちゃん大好きなエレナにとって今日という日がどれほど心待ちだった事なのか、リクスには想像もつかないのだろうなと思う。
そんなリクスもキースに会える事を愉しみにしているのだから、きっとエレナの事は言えないだろう。
聖堂で司祭とも少し話をしたが、魔物が街や村の外をうろついているこのご時世に村から出る事は容易ではなかった。当然ながら、危険だからというのが主な理由だ。武器を手にし、戦う術を身に着けている者などそう多くはない。魔物が現れるようになってからは傭兵になる者もおり、外に出る時には傭兵に護衛を頼むというのが一般的だからだ。中には、少しくらいなら遭遇する確率は少ないだろうと高を括っている者もいるが、それでも可能性はゼロではなく、用心するに越した事はないだろうと街の外に出る事を一切禁じる街や村もあるそうだ。
リクスの住んでいるフィエスタという村も子どもの外出を認めてはおらず、今回リクス達は誰にも知られないようにお忍びで出てきていた。どうしてもキースを迎えに行くとエレナが言って聞かなかったからだ。
聖堂からフィエスタまで、そう距離は遠くない。けれどリクスにとっては、幼少の頃から毎日のように通っていて良く知っている道だ。行きは魔物に遭遇する事はなかったから大丈夫だろうという思いもあった。だから、待つ事に決めた分岐点までやって来た時に、ガサガサッと草の擦れる音がして黒い影が飛び出してきたのを視界に捉えた時、リクスは少しばかり自分の軽率な判断を後悔していた。
「魔物……!」
草むらから飛び出したのは、土色の毛並みの狼に酷似した姿のガルムと呼ばれている魔物。数が多く、遭遇する確率の一番高い魔物だ。毛を逆立て、獲物を品定めするかのようにこちらを凝視している。
「リクスお兄ちゃん……」
震える不安な声音と服をぎゅっと掴む手に焦りを感じながらも、リクスは迷っていた。
魔物を、傷つけたくない。
これまで魔物に遭遇した事がないわけではない。毎日聖堂へ出向いていれば、嫌でも魔物と対峙する。しかし、その全てをリクスは倒さずに、追い払うか逃げ切るかのどちらかで切り抜けてきた。今日はエレナも一緒にいるからと、護身用に木刀は腰から下げている。
体勢を低くしたガルムに、躊躇している暇などないと、リクスは木刀を引き抜いた。
「エレナちゃん、そこの岩に隠れてて。目を瞑ってじっとして、絶対出てきちゃダメだよ」
ガルムを見据えながら伝えれば、小さな返事が聞こえてきた。すぐに掴まれていた服が離された事で言われた通りに隠れたのだと悟ると、リクスは木刀を握る手に力を込めた。
直後、ガルムが地面を蹴ってこちらへと一直線に向かってきた。
「はあっ!」
木刀を地面に向け、下から上へと木刀を振り上げると剣気が衝撃波となって地面を奔る。衝撃波に当たり、怯んで逃げてくれればそれでいいと、そうなってくれれば十分だと思っていた。
しかし衝撃波が砂埃を舞い上げ、ガルムの姿が見えなくなったかと思うと、砂埃から飛び出したガルムが大口を開けてこちらに迫っているのが目に飛び込んできた。
突然の事にリクスは木刀を真横にして両手で持つと、ガルムに中央部分を噛ませる。反応しきれなかったのか避けきれなかったのか、ガルムの鋭い牙が木刀に深々と突き刺さっている。これならば少しは時間稼ぎが出来るだろうと思った次の瞬間、木刀にヒビが入るとガルムに噛み砕かれた木刀は鈍い音を立てて中心から真っ二つに折れてしまった。
そのままリクスに噛みつこうとしたガルムを、身を翻して避ければ、ガルムは軽い音を立てて地面に降りると距離を取り、身を低くしたまま再びリクスを睨むように見据えている。
どうすればいいのか……焦る気持ちを落ち着かせながら、視線だけで周りを確認する。すると視界の端に捉えた一本の木の棒に焦点を合わせる。木刀よりは頼りないが、太さは十分な上に、素手でいるよりはずっといい。そう思うや否や、リクスは木の棒目がけて地面を蹴った。
「危ない!」
声が聞こえたのは、正に木の棒を手にした瞬間だった。男とも女とも取れる怒気を含んだような子どもの声に、空から感じた邪気に、リクスはハッとして空を仰いだ。その途中で視界に入ったのは、古びたマントに身を包みフードを深く被った人物。誰なのかと思う暇もなく、ガルムの姿が見え、拾ったばかりの木の棒を振るったが前足の爪で弾かれると、木の棒は砕けながらいとも簡単に吹き飛ばされた。
上空から落ちてくるガルムの勢いが止まる事はなく、リクスには退ける手立ても逃げる時間もない。目前に迫るガルム。
「空刃!」
別の方から響いた声の方から放たれた剣気の刃がガルムの横っ腹に激突すると、抉るように、剣気がぶつかった所からガルムの体は砂になって散っていった。
半ば呆然としながら散りゆく砂を眺めているリクス。ガルムを倒したのは当然ながらリクスではない。そして耳に残っている声は聞き覚えのあるもので、剣を鞘に収める音に反応してそちらを向けば、コバルトブルーの髪が目に飛び込んできた。
「キース!」
ハイネックの黒いシャツに黒いスラックスを履いていて、蒼い立て襟の丈の長いベストを着ている。左腕に巻かれた包帯と腰の三本のベルトとベストの淵、そして額に巻かれたヘアバンドの白さが暗い印象を消し去っている。
彼は、キース・アルキード。
「よっ。久しぶりだな、リクス」
リクスよりも三つ年上の彼は、右手を上げながらとても軽い挨拶を返し、ニカッと笑う。三ヶ月も会っていなかったとは思えないほど普通の反応に、キースらしいとリクスは何だかホッとしていた。
「キースお兄ちゃん!」
愛らしい声を上げて、リクスが名を呼んだからかキースの声を聞いたからなのか嬉しそうに駆けてくるエレナは真っ直ぐキースへと向かい、両手を広げて待っていたキースの腕の中に飛び込んだ。小さな体を抱きしめつつ抱き上げてやれば、胸に頬を摺り寄せる。
「おかえりなさい、キースお兄ちゃん!」
「おう、ただいま、エレナ」
エレナがキースの事が大好きなように、キースも又、歳の離れた妹のエレナをとても可愛がっている。一回り以上も歳が離れている上に自分の後をついて回り甘えてくる妹を、可愛く思わない兄はいないだろう。キースとて、それは例外ではなかったようだ。
微笑ましい再会の光景を眺めながら、リクスはふと、ある事を思い出す。
「あ、そうだった。さっきは危ない所を助けてくれてありが……と、う……あれ?」
マントに身を包みフードを深く被った人物に、危機一髪の所を助けてもらった事を思い出して振り返って見たのだが、つい先程いた筈の人物の姿などどこにも見当たらなかった。
「どうした?」
「あ、さっき危ないとこを助けてもらったからお礼を言おうと思ったんだけど、いなくなっちゃってて。キース、見なかった?」
「さあ。お前以外、見てねえけど」
「そっか……」
「この近くの人間だろうから、その内会えるだろ。外は魔物がいて危ねえから、フィエスタに行こうぜ」
わざわざ遠くから、こんな辺境の地に一人で来る者などそういるものではないので、キースの言う通り、いずれ会えるかもしれない。ここであれこれ考えていても仕方がないし、次に会った時にお礼を言えばいいかと思い、キースの言葉に頷くとフィエスタへ向かって歩き始めた。
道中、何故あの場にいたのかという事をキースに訊ねられ、家で待っていられなかったのだと説明しながら十数分も歩くと、その場所は見えてきた。岩山や森に囲まれ、少数の人々がひっそりと暮らしている村。
村に続く道の上、地上三メートルの所に浮き、ゆっくりと回転しながら太陽の光を反射しているガラス細工のようなクリスタルの花がある。それが、女神の慈しみという意味のメルクリウス。そのメルクリウスから、蔦のように調度品の装飾のような緑色の紋様が地上まで伸び、アーチを描いている。メルクリウスがある事で、村は結界が張られているかのように魔物を一切寄せ付けず、人々は安全に暮らせている。
そのアーチを潜り抜ければ、木造の民家がそこかしこに建っている、草木と土の長閑な村が広がっている。
開拓の村 フィエスタ。それが、リクス達の村だ。五十年程前にできたばかりの、村としては歴史の浅い地で、生活する為に出稼ぎに行っている者の家族が多く住んでいる村だ。その為、女子ども、高齢者が村人の大半を占めている。
キースの家に向かう為に岩山の傍を歩いていたのだが、不意にリクスが足を止めた。リクスが立ち止まった事にすぐに気が付いたキースは、エレナを抱いたまま足を止め、振り返る。
「どうしたんだ?」
「キース、ここ……」
呟くような声を発したリクスの視線の先にあるのは、三メートルは優に超える大きさの岩。その岩は、岩山の側面に三分の一が嵌まっている状態で、普通に見ればとても不自然な状態で置かれている。
「そこ、立ち入り禁止の洞窟じゃねえか」
立ち入り禁止の洞窟。その名の通り、立ち入りを禁じられた洞窟だ。フィエスタの開拓時に落盤があって洞窟が塞がれたとか、ヴェルミナ様が魔物を封印した場所だとか、洞窟の奥に墓場があって入ると呪われるだとか、様々な噂が飛び交う謎に包まれた洞窟。その真実は村人には知らされていないが、兎にも角にも入口が閉じられている洞窟に近づいて良い事があるとは思えないと、何人たりとも入る事を禁止したのだという。
巨大な岩を動かせる人間がいるとも思えないが、万が一という事もあるかも知れないからと、近づく事もないようにロープと杭で囲われている。
リクスは杭の手前で立ち止まったまま岩を見つめていて、キースは息をついた。
「ここには近づくなって言われてるだろ」
「そうだけど……何か、気になるんだ……」
「気になる?」
「惹かれるんだ。どこか、懐かしい気がする……」
リクスのコバルトグリーンの目と、キースのアッシュグレイの目がかち合った。悲壮感のようなものが漂うリクスの目に、キースは言い知れない感情が込み上げてくるのを感じていた。
言葉にする事はできないけれど、それは確かに感情で、不思議な感覚に数秒思考を巡らせていたものの、すぐに首を横に振った。
「気になっても何でも、立ち入り禁止の洞窟に入る事は許せねえ。何があるか知れねえ危険な所に行かせるわけにはいかねえんだ。判るだろ」
真剣な言葉と声音にリクスは一度目を閉じ、しっかりとキースを見つめるとニコッと笑う。
「判ってるよ。変なこと言ってごめんね」
「いや、構わねえよ」
「もー、早くおうち帰ろうよ! リリアお姉ちゃんも待ってるんだよ!」
また幼いエレナにとっては小難しい話をしていたからか、キースの腕の中で痺れを切らしたように声を上げる彼女に微笑みつつ、再びキースの家へと向かって歩き始めた。
村の中心部を抜けた先にあるキースの家が見えてくるとエレナはキースから降り、その手を引っ張って走っていく。置いて行かれないようにリクスも小走りで向かい、家の前で一度止まると、キースは戸に手をかけて振り向いた。
「お前も入れよ」
言うなり戸を開けて入ってしまったキースに、リクスは肩を竦める。久しぶりの家族の再会に水を差さないよう、待っていようと思っていた事などキースにはお見通しだったようだ。敵わないな、とリクスも家の中へと入って行くのだった。
「リリアお姉ちゃん、ただいまー!」
元気のいいエレナの声にリビングから、ワインレッド色の長い髪を揺らしながら、落ち着いた雰囲気の上品そうな女性がこちらへと近づいて来る。
「あらあら、おかえりなさい。リクスも、キースも」
「ただいま、です」
「リー姉、ただいま」
それぞれの挨拶を聞いて満足したように優しく微笑むリリア。
「キース、仕事はどうだったの?」
「今回は護衛だったからな、大変だったけどその分稼げたし。これ、報酬な」
言いながら腰にぶら下げていた麻袋を五つ、リリアに手渡した。手のひらに収まるような小さな袋だが、ずっしりとしていて袋の形も凸凹している事から相当な量のお金が入っているというのは、中を確認せずとも判る程だ。
「こんなにいいのよ。私達は普通に暮らせれば十分なの」
「そうだろうとは思ってるけどな、それでも、金はあった方がいい。この先、何があるか判んねえからな」
言って、少し目を伏せるキース。
キースは今、姉のリリアと妹のエレナと三人でこの家に暮らしている。五人兄弟で、一番上の兄も二番目の兄もキースとは大分歳が離れていて、数年前から一度も家に帰っては来ない。一番上の兄に関しては、エレナと会った事もない筈だ。両親もおらず、働き手がキースしかいない為に、こうして出稼ぎに行っているのだ。
昔はキースの家で一緒に暮らしていたリクスも、今は別の家で暮らしていて、キースのいない間だけ用心棒代わりにエレナとリリアと共に暮らしていた。何より、キースが安心して家の事を任せられる者はリクスしかいないのだから。
「それでも、少しくらいは持っていなさい。必要になる事もある筈よ」
リリアにしては珍しく強い口調で、渋々といった様子でキースはリリアの手から麻袋の一つを手に取った。姉と弟の関係は何歳になっても変わらないという事なのだろうか。
話も一段落し、さて、と息と共に言葉を漏らすキース。
「そろそろ行くわ」
「あら。折角なんだからゆっくりしていったらいいじゃない」
「次の仕事が入ってっからな。顔見れたし、十分だよ」
どこか淋しそうなリリアに、それでもキースは居座ろうとはしない。その理由が何となくリクスには分かるような気がした。
出かけようと踵を返そうとして、大きく揺れているくりくりとした目に、キースはしゃがんで目線を合わせる。
「キースお兄ちゃん、お出かけ?」
「ああ」
「リクスお兄ちゃんも?」
「うん。キースのお見送りにね」
じんわりと瞳に涙が溜まっているエレナに、キースはそっと頭に手を乗せた。
「また、ちゃんと帰って来るから。リー姉と一緒に、ちゃんと待ってるんだぞ。俺は、エレナは笑ってる方が好きだ」
「うん……うん! エレナ待ってる、いい子にしてる! だから、キースお兄ちゃん、いってらっしゃい!」
満面の笑みに、いってきますと返し、立ち上がるとキースはリクスと共に家を後にした。
自宅から少し離れた所で、キースは腕を伸ばし、伸びをする。
「慌ただしいね、キース。もう少しくらい、いてあげてもいいのに」
「いいだろ。あんまいると、出たくなくなんだよ。親父達がいないエレナにとって、俺とリー姉は親代わりだからな。ずっと傍にいてやりてえだろ」
「そうだよね……」
家族か……。
心の中で呟き、目を伏せる。家族というものをリクスは知らない。物心ついた頃には、すでにリクスはキースと共にいた。キースやリリアに弟のように育ててもらい、フィエスタの大人がリクスの親代わりだった。けれども、本当の親や兄弟は未だ判明していない。
「お前も家族だろ。エレナの兄貴で、俺らの弟だ。それは、ずっと変わんねえからな」
心の中を見透かされていたかのような言葉に目を丸くし、すぐに微笑を浮かべた。
「そうだね、キースお兄ちゃん」
「ちょ、おま、その呼び方やめろって!」
「いいじゃない、キースお兄ちゃん。俺たち兄弟なんだし」
「ちげえの。いや、違くねえけど、俺はお前の兄であり、親友であり、親でいたいんだ。どれか一つとかマジありえねえから」
「ごめんごめん、ついね。でも、俺も同じこと思ってる。キースは俺の親友で、兄で、時々お母さんだよ」
「そこは親父じゃねえのかよ」
「どっちかって言うと、母親かなって」
「それ、どういう意味だよ」
軽口を言い合って笑い合える関係。それは昔から変わらない。兄弟、親、家族、親友。その総てが自分達なんだと、キースはそれだけは決して譲ろうとしない。拘りなのか、意地なのか、とても頑なだった。成長したリクスが家を出て行こうとした時も、家族なんだからずっといればいいと最後まで拒んだのがキースだ。
本当の家族のように接しているけれど、それでも、一線を越えられない自分にやきもきする事も少なくなかった。
そんな他愛もない会話をしながら村の出入口へと向かっていくと、立ち入り禁止の洞窟が見えてくる。先程は気になったけれど、近づいてはいけないと思い、なるべく視界に入れないように歩いていたその時。
―――――。
「えっ?」
声を漏らし、リクスが立ち止まった。反射的に振り向いた先には、立ち入り禁止の洞窟。
「リクス、今の……」
「キースも聞こえたの?」
「ああ。声、だよな」
頭に直接響くように聞こえた声。その事に驚いて立ち止まったのだが、まさかキースにも聞こえていたとは思わなかった。聞いたのがリクス一人だったら、気のせいで済んでいた筈だ。しかし、二人同時となると偶然では済まされないだろう。
「気付いてって言ってた……助けを求めてるんだよ」
「誰か中にいるってのか? 少なくとも五十年以上、この岩は動いてねえ。そんなとこに人がいて、生きてられるわけねえだろ」
「でも、絶対にいないって言えるわけじゃない。可能性があるなら確かめるべきだよ。俺は、見捨てられない」
真剣な眼差しと表情に、キースは覚悟を決めていた。こうなったリクスの意見を曲げさせる事は困難だ。頑ななまでに固執する。誰が何と言おうと曲げる気はない。
それに、だ。それがただの我が儘であればキースは叱咤するのだが、理由が理由なだけにそうもいかない。助けを求めている声を無視する事など、キースとてできはしないのだから。
そう結論付けるとキースは肩を竦めた。
「分かった。覗いて見て、誰もいなかったらきっぱり諦める。それでいいな」
そう言えば、リクスの顔が太陽のようにぱあっと明るくなり、ニッコリと満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう、キース! それでこそ、キースだよ!」
上手く乗せられたような気がしないでもないが、いつもの事だ。兄として弟の気持ちを尊重したいと思っているからこそだろう。
入ると決めた事はいいのだが、どうやって入るかが問題だ。岩は巨大すぎて、恐らく二人の力だけでは動かす事はできないだろう。そう思っていても、きっと隣にいる頑固な親友はやってみようよと言う事は目に見えていて、キースは一度、小さな溜め息をついた。
「とりあえず、岩を押してみよう。動くかもしれないよ」
「あー、そうだな」
ほらきたと心の中で苦笑しつつ、柵を乗り越えて岩に近づき、改めてその大きさを実感させられた。リクスとキースの身長を足して漸くてっぺんが見えるかという高さに、二人が両手を目一杯広げても半分には届かない幅。男とは言え、筋肉隆々に鍛えているとは言い難いリクス達が動かす事など到底できないとキースは思っていて、やってみないと判らないとは流石のリクスも言えないようで、唖然としていた。
これでも試してみるかと視線と手の動きで示せば、力なく首を横に振って項垂れるリクス。意気込んだ分、中に入れないと判ったショックは大きいのだろう。焦る気持ちもあるかもしれない。
「ダメ、なのかな……」
瞳を揺らし、巨大な岩を見つめ、そっと左手で触れてみた。これを退かせられれば……数メートルの距離が、もどかしい。
その時だった。不意にリクスが触れていた手の辺りに十字架のような紋様が浮かび上がったかと思うと紋様が光を放ち、眩しさに目を眇めていると、左手から岩に溶け込むように吸い込まれていく。
「え、ちょっと!」
「おい、リクス!」
どんどん吸い込まれていくリクスに、慌てて残っていた右手を掴み引き上げようとしたキースだったが吸い込む力は相当強く、踏ん張る事すらできずに岩の中へと吸い込まれていった。
情けない叫び声を上げながら落ちていたリクス達は落ちながら回転したのか、真っ暗闇の中で背中と腰から地面に叩きつけられた。
「ってー!」
「いたた……大丈夫、キース」
「ああ、何とかな」
青空の下から暗闇へと入ったせいで、明かりも何もない洞窟内ではすぐ傍にいる筈のお互いの顔すら見る事は叶わない。こんな状態では人捜しも何もあったものではないと思っていると、ボッという音と共に青い炎が、壁に備え付けられている燭台に灯った。道の両側についているらしい燭台に奥に向かって炎が灯っていき、明るいとは言い難いが灯りが灯った事で洞窟内の全貌を見る事ができた。
狭い通路が続いているだけの一本道。振り返ってみれば長い階段があり、入り口はやはり塞がれている。
あの高さを落ちたのかと思うと今頃になって恐怖が込み上げてくるが、そんな事に構っている暇はないとリクスは立ち上がり、服に付いた砂埃を払う。
「行こう、キース」
言うや否や歩き始めたリクスに、キースは声を投げかける。
「リクス」
名を呼べば振り返った彼に向かって棒状のものを放り投げた。反射的に受け取ってみたそれは鞘に収まった状態の剣で、リクスは目を細めた。
「キース、これ……」
「この先、何があるか判んねえだろ。持ってろよ」
「でも、キースは?」
訊ねられ、答える変わりにキースは地面と平行になるように腰に差している剣を示す。
「それはお前にやろうと思って持ってたんだよ。グラファイトで世話になってる武器屋のじいさんが作ってくれてな。特注品だ」
わざわざ作ってもらったという事は、リクスが剣を持ち歩いていない事などお見通しだったという事。毎日聖堂に通っているので、村の外に出ている事もキースは知っていた。武器なしでは危険だからという事で創ってもらったのだろう。
しかし、リクスが武器を持ちたがらない理由もキースは当然知っている。知った上でこうして渡してきたのは、キースが傭兵のように護衛の任についていたからかもしれない。
「キース……俺……」
「とりあえず持ってろ。いざって時にないと困るだろ」
それはきっと、先程、魔物に襲われた時の事を指しているのだろう。タイミング良くキースに助けられたのだから、見られていて当然だ。キースの言いたい事もよく判っている。だからこそ、リクスは頷くと鞘を肩にかけベルトを留めた。剣を引き抜く事がないように祈って。
蒼い炎の道標に従って歩いて行けば、洞窟の奥から炎よりも強い光が漏れているのが目に入った。通路の左側に、どうやら大きな空洞があるようだ。何があるか判らない。けれど、ここまで来たのならば行くしかない。
ドキドキとワクワクと不安と焦燥感と……様々な感情が入り混じっていて胸が苦しいけれど、それでもリクスは歩みを止める事はなかった。誰かが助けを求めている。早く助けてあげたい。何よりもその想いが一番強かったから。
意を決し空洞内へ踏み込んでみれば、そこは想像していたよりも広い空間だった。
空洞の中央には四つの支柱が置かれていて、更に中央には円形の台座がある。台座には複雑な紋様が描かれていて、その上には巨大な水晶が浮かび上がっている。淡い、蒼い光を放っているのは台座の紋様だ。
水晶の中には、透き通るような銀色の緩いウェーブのかかった長い髪の、幼さを残す少女が胸の前で手を組んだ状態で隔離されている。
彼女の姿に、リクスも、キースも、息を呑んだ。
「ヴェルミナ、様……!」
彼女は、聖堂にある彫像の女神ヴェルミナと瓜二つだった。
「何で、ヴェルミナ様がこんな所に……天上にいるんじゃなかったの?」
「さあな。そういう話らしいけど、真実は俺らには判んねえからな。で、どうするよ」
「勿論、助けるよ!」
一歩台座へと近付いた次の瞬間、まるで警告するかのように蒼い光が一瞬にして赤く変化した。赤く染められる空間。危険を察知したように動きを止め、辺りを警戒するリクスとキース。すると四方八方から土が一点に集まり、形を成していった。人のような形をした土人形。
「クレイゴーレムか……ちょっと厄介な奴に当たっちまったな」
「俺たちの敵ってこと?」
「さあ、どうだかな。俺らを良く思ってないことだけは確かだけどな」
言いながら剣を引き抜き、キースは地面を強く蹴るとクレイゴーレムへと向かって行った。
「はあぁ!」
飛び上がって腕を斬りつけ、足でクレイゴーレムの胴体を蹴って体を浮かせ、回転しながらクレイゴーレムの胴から頭、背中を斬りつけ着地する。体を中心部から真っ二つにするように斬りつけたが、土でできた体はいとも簡単に修復されてしまう。
「やってくれるねぇ」
「キースの剣でも効かないの?!」
「土ってのは厄介なんだよ。生憎とここは洞窟だ。核を破壊しねえ限り、永遠に修復し続けんだよ」
漸く、キースが厄介な相手だと言った意味が理解できた。要するに、クレイゴーレムの体は粘土と同じだ。斬られても壊れても、幾らでも修復する事はできる。つまり、全く効かない。
ただし、ゴーレムの弱点として、核が必ず存在している。核は心臓部であり、それが壊れてしまえば動く事などできなくなる。つまりは、核を見つけ出し破壊するまで攻撃をし続けろという事なのだ。
再びクレイゴーレムに向かっていき、攻撃をし続けるキースの背中を見つめながら、リクスは辛そうに目を細めた。
魔物だって生きている。生きているものを傷つけたくない。それが、リクスの本音だった。
「俺は……」
「リクス、危ねえ!」
「えっ……?」
ハッとして前を見ればクレイゴーレムが目前まで迫っている。
「空刃!」
衝撃波がクレイゴーレムの脚に当たり、関節部が吹き飛ぶと片足が無くなった事で体勢を保てなくなったクレイゴーレムはその場に膝をつく。脚を修復するまで、少しだが時間がかかる。その隙にキースはリクスの元へと駆けてきた。
「無事か」
「うん。ありがとう、キース」
「それはいいけどよ……何で、剣を抜かなかった」
目を丸くするリクス。クレイゴーレムが向かって来ている事に気が付いたリクスは咄嗟に剣の柄に手をかけていたが、引き抜くまでには至らなかった。否、引き抜く事ができなかった。剣を抜くという事は相手を傷つける意思があるという事。しかしそれが、今のリクスにはない。
土が集まり、クレイゴーレムの脚が修復を始める。もう時間はない。
「リクス。お前は何の為にここにいる」
「え?」
突然の言葉にキースを見つめるけれど、キースはクレイゴーレムを見据えたままだ。それでも、言葉を紡ぐ。
「何の為にここに来た」
「それは……」
「あの子を助けたいって思ったんだろ。だったら、お前が剣を握るのはあの子を救う為だろ。剣を抜け、リクス。傷つける為じゃねえ、護る為に剣を抜け」
「護る、為……」
体中から力がみなぎってくるような感覚に、体の奥底から熱が上がってくるような感覚に、リクスはぎゅっと拳を握りしめる。修復が完了し、しっかりと大地を踏みしめて立つクレイゴーレム。
剣の柄に手をかけるリクス。
「俺は……」
突進してくるクレイゴーレム。
その時、顔を上げたリクスがキッとクレイゴーレムを見据え、そして、剣を引き抜いた。
「俺は、あの子を護る!」
剣を構え、向かってくるクレイゴーレム目がけてリクスも地面を蹴って跳び出した。腕を、胴を、脚を縦横無尽に斬りつけ、腕に剣を弾かれた反動で後方に一回転しながら横一線に斬りつける。衝撃で吹き飛び、地面に倒れ込むクレイゴーレム。しかし、あれではまた再生されてしまう。
その前に決着をつけなければならないと、リクスは地面に降り立つと両手で剣を握り直す。
「はあぁああぁあ!」
気を集中させ、剣に収束させる。
左手を前に出し、狙いを定め。
「閃光波!」
剣を突き出せば剣から光が放たれた。光はレーザーのようにクレイゴーレムの体の中心部を貫くと、核である宝石のような小さな石が粉々に砕け散り、土でできたクレイゴーレムは一瞬にして砂へと変貌し散っていった。
散りゆく砂を眺めながら剣を鞘に収め、リクスは胸の辺りで拳を握り、目を閉じる。黙祷を捧げているようなリクスにキースは声をかける事はせず、剣を鞘に収め、暫しの間リクスの気持ちが落ち着くのをただ黙って見つめていた。
黙祷は十数秒ほどで、振り向いたリクスの顔に憂いはなくホッとしつつも、リクスの肩にぽんと手を置き、それだけで全てを理解したようなリクスは微笑を浮かべる。それから、クレイゴーレムが消滅した事で赤く光っていた紋様が元の蒼い光に戻っていて、その光に向かうように水晶へと近づいた。
見れば見るほど、ヴェルミナと同じ姿をした少女。
「ヴェルミナ様……」
そっと手を伸ばすリクス。幼少の頃から、リクスがどれだけヴェルミナを慕っていたかをキースは知っている。毎日毎日、足繁く聖堂に通い、彫像のヴェルミナに会いに行っている事を知っている。どれほどヴェルミナに焦がれているか知っている。
そのリクスの前に、ヴェルミナそっくりの少女がいるのだ。逸る気持ちも判らないではない。しかし、ここは兄として止めねば。
「リクス、気持ちは判るけど無暗に触ったらまた……――」
先程、不用意に岩に触って引きずり込まれた事を思うと不用心すぎると窘めようとしたが、時すでに遅く、リクスの指先が水晶に軽く触れた瞬間、そこからヒビが入っていった。
「ヤベ!」
このままでは水晶が割れると直感したキースはリクスの腕を引いて水晶から引き離した刹那、水晶は中から弾けるように割れた。ヒンヤリとした空気が流れ破片が飛び散る中で、それでもリクスは少女から目を離す事はせず、ただその姿を見つめている。
すぅっと、銀色の長い髪を揺らしながらゆっくりと地面に降り立った少女。桜色を基調とした、淡い黄色で縁どられた独特の服装。胸元にはロザリオが飾られている。純白の長いスカートがふわりと一度揺れ、瞼がゆっくりと開けられる。
宝石のようにキラキラと輝く金色の瞳は幻想的で神秘的で、まるで人間ではないような感じがした。
空気が冷たいせいだろうか、何かとても、神聖なものを前にしているような感覚だ。
「あの、えっと……大丈夫?」
リクスの問いに、ただ黙って見つめ返してくる銀髪の少女。
何て声をかけたらいいのか全く見当がつかず、助けを求めるようにキースを見上げてみたけれど、彼は彼で考えあぐねている様子だ。
「えっと……どうしよう?」
「どうしようって、なぁ。とりあえず事情を訊くしか……――」
事情を訊くしかないなと言おうとしたが、突如、少女が入口の方を見たかと思うと走り始めてしまい、呆気に取られたようにリクスもキースも彼女の後ろ姿をただ呆然と眺めていた。
「え、ちょっと、キミ!」
「何だ? 急に」
「とにかく追いかけてみようよ!」
何十年も洞窟の中にいた彼女が急に外に出れば混乱するかもしれないし、何より閉鎖された村に見知らぬ少女が突然現れたら、皆、驚くだろう。彼女は女神ヴェルミナと瓜二つなのだから尚更だ。
急いで駆け出し、空洞を抜けて一本道へ出るとひたすら走って行く。長い階段を上っている最中、違和感を覚えた。階段の先に光が見えている。先程入った時は真っ暗だった筈なのに。彼女があの岩を押し出したのだろうか。相当な大きさの岩だったのだが、内側からは簡単に退かす事ができたという事なのか。
考えていても結論が出るわけではなく、とにかく階段を駆け上がって光の中へと飛び出した先に見えたものに、足を止めた。
「何だよ、これ……」
「どうしてこんなことが……」
土と緑で覆われていた筈のフィエスタは、炎と煙に包まれていた。
家は破壊されて木片となり、辛うじて形を取り留めている家も廃墟のよう。発火し、燃え上がり、崩れていく。引火した樹も炎に焼かれて脆くなった部分から折れ、それでも尚、炎が消える事はない。
道端には血を流して倒れている村人達。痛いと喚き散らす女性や、微動だにしていない老父、ぐったりとした幼子を抱いて助けを求める母親、崩れゆく家の前で泣き叫ぶ子ども。平穏で長閑な村の面影などどこにもない惨状に、動く事すらできなくなった。
「っ、リー姉、エレナ!」
ハッとして駆け出すキース。出入口付近から見えただけでも壊滅状態の村で、自分の家だけ助かっている保障などどこにもない。真っ直ぐに向かって走って行く途中に目にするのはやはり、瓦礫ばかり。見る度に心が痛くなる。倒れている人々の血で土が黒くなっていて、胸が苦しくなる。目を背けたくなるような現実に、頭が追いつかない。何も考えられない。どうしてこんな事になったのかなど、今は、考えていられない。
少しすればキースの家が見えてきて、崩れた家の前にいる人物にリクスは目を丸くした。
「あの子!」
「エレナ!」
キースの家の前には先程、水晶の中にいた銀髪の少女と、その傍らにはエレナの姿がある。二人とも座り込んでこちらに背を向けている為にリクス達に気付いた様子はないが、近づいて、その速度を緩める。
全速力で走ってきた為に息が切れ、肩が上下しているが構わない。
「エレナ……」
なるべく平静を装って、落ち着いた声で名を呼べば振り返ったエレナの目には、涙。息を呑むキース。
「っ、どうしたんだ、エレナ!」
「キースお兄ちゃぁん! こわいよぉ!」
大粒の涙を零しながら縋り付いて来るエレナに、片膝をついてしゃがみ、力強く抱きしめる。どうしたのかと、訊ける状態ではないエレナを宥めているキースから離れ、リクスは銀髪の少女へとゆっくり近づいた。
「キミ、何して――」
何しているのかと訊ねようとして、息を呑んだ。
「リリアさん!」
銀髪の少女の前にはリリアがうつ伏せに倒れている。その頭から、背中から、腕から、足から、血を流したリリアの顔は蒼白で、リリアの下に広がる血だまりの大きさからその出血量を知る。
そのリリアの背中に両手を翳している銀髪の少女。少女の手から溢れ出る淡い光が傷口を覆っていて、彼女が何をしようとしているのかをリクスはすぐに悟った。
リクスの声を聞いてエレナを抱いたキースが、その瞳に姉の姿を映し出す。
「……リー姉……!」
固く閉じられた目。蒼白な顔に色が戻る事も、その目が開かれる事も、声を聞く事も、笑顔を見る事も、その全てが永遠に叶わない事を突きつけられる。
「くそぉっ!」
エレナを強く抱きしめ、怒りを、憤りをぶつけるように地面に落ちている瓦礫に右拳を叩きつける。キースの悲壮な叫びは、燃える木の弾ける音と泣きわめく声にかき消されていき、見ていられなくて、リクスは顔を背け、唇を噛む。
もう手遅れなのだと皆が痛感している中で、銀髪の少女だけがリリアに手を翳し続けている。淡い光は段々と弱まっていて、それは少女の限界を知らせていた。それを目にしたキースは泣きじゃくるエレナをリクスに託し、少女の後ろに立つとしゃがんでその肩に手を置く。
「もういい」
俯いたままのキース。
「や」
銀髪の少女もキースの方を見る事無く、首を横に振る。
「もういいんだ」
「いい無い!」
頭を振って頑なに拒み、尚も手を翳し続ける少女。淡い光はすでに消えかかっていて、キースは奥歯を噛むと少女の腕を掴み、乱暴に引き寄せて自分の方を向かせた。少女の金色の瞳と、キースのアッシュグレイの瞳がかち合う。少女の目には涙が溜まっていて。
たったそれだけの事で、キースはもう十分だと思った。
「もう、助からねえんだ。リー姉はもう」
けれどもその気持ちが言葉になる事はなくて、キースの言葉に愕然とした様子の少女は大きな目を見開き、力が抜けたように地面に座り込むと俯いた。
ぽたぽたと地面を濡らすものに、リクスもキースも、ただ見つめている事しか出来なかった。
炎が鎮火したのは小一時間ほど経った頃だった。落ち着きを取り戻すというには至らないが、それでも惨状からは脱したように思う。
いつまでもこのままでいる訳にもいかず、亡くなった者を弔わなければならないと動き出したその中には、男達の姿があった。偶々戻ってきた者や、フィエスタの異変を察知した隣町の男達がやって来たからだ。家族を亡くした者が殆どだったけれど、それでも大切な家族を吹き曝しにしておくわけにはいかないと哀しみを押し殺して動いている。
突然の出来事に驚いて泣いていたエレナも今は落ち着きを取り戻し、銀髪の少女に預けてリクスとキースも男手として手伝いをしていた。作業が終わったのは二時間後。もうすぐ陽が傾こうとしている頃だ。
埋葬は進み、リリアも他の者と一緒に穴の中に横たえられる。キースの手をしっかりと握るエレナ。
「キースお兄ちゃん。リリアお姉ちゃん、寝てるの?」
キョトンとしたエレナの声に、周りの大人たちの表情が曇る。
「もう起きなきゃダメなんだよ。もうすぐご飯の時間だもん」
「エレナ」
優しく名を呼ぶが、エレナは尚も言葉を紡ぐ。
「今日ね、ご本読んでくれるんだよ。すっごく楽しみなの」
「エレナ。それはできないんだ」
「どぉして? できるよ。だってリリアお姉ちゃん、約束してくれたもん」
「もう無理なんだよ。リー姉はもう、話せない」
無邪気な言葉が胸に響く。死を認識するには、エレナはまだ幼すぎる。それでもキースは冷静な口調でエレナを諭し、エレナはそんなものなどお構いなしに気持ちをぶつける。
「話せるもん! リリアお姉ちゃん、起こしてくる!」
「駄目だ」
「イヤなの! エレナが起こすんだもん! キースお兄ちゃん、きらい!」
キースの手から逃れようと暴れるエレナに、それでもキースの態度は一切変わらず、その場にしゃがんで目線の高さを合わせると、しっかりとその双眸を見つめる。
「エレナ。ちゃんと聞いてくれ。リー姉はもう、起きないんだ」
「どぉして?」
「リー姉とは、もうお別れだからだ」
「おわ、かれ? しない。お別れしない。リリアお姉ちゃん、そこにいるもん」
「それでもお別れなんだ。リー姉はずっと寝たままなんだよ。ずっと起きない。話もできない。それがずっとだ。エレナが大きくなってもずっと」
「そんなのヤ! お話できないなんてイヤだよ!」
死というものを受け入れさせるのは、五歳の頭では無理な事だ。それでも隠して、後になって死んでいたと伝えられる方が酷だろう。辛くても、苦しくても、今伝えなければならない。
だから、どうしたらいいのかと作業を中断させていた男達に対してキースは頷くと、男達はリリア達の体に土を被せ始めた。
「ダメぇ! ヤだ! リリアお姉ちゃん、苦しいよ! やめてよぉ!」
止めそうになる手を動かす男達。あちらこちらから嗚咽が聞こえてくる。皆が、今、死を実感している。わんわん泣き喚き暴れるエレナに、キースはそのまま小さな体を抱きしめる。ドンドンと胸を叩かれても、蹴られても、つねられても、それでも小さな体を抱きしめて離さない。
「エレナ、リリアお姉ちゃんと一緒にいるの! ずっと一緒なの! お別れなんてしたくないよぉ! やだよぉ、キースお兄ちゃぁん! イヤだよぉ!」
大粒の涙が地面を濡らし、エレナの泣きじゃくる声が虚しく響く中で、清廉な旋律が耳に届いた。柔らかく、暖かで、優しく、美しいメロディ。歌詞のないその歌声は心に染み渡っていくようで、リクスは隣に立つ銀髪の少女を見つめる。旋律を紡いでいるのが銀髪の少女だと知った村人達はその姿に驚いていたけれど、そこで騒ぐ者は誰一人としていなかった。
この状況下ではヴェルミナにそっくりな少女に縋り付くのではないかと心配したが、皆、目を閉じ、自然と礼拝の格好になった。祈りは弔いに、唄は鎮魂に、響き渡るレクイエムを聞きながら、リリア達の体は土の中へと消えていった。
哀しみに暮れる村人達は、一人で泣き、哀しみを共有し、哀しみを拭い去るように瓦礫の撤去をし、各々の方法で心に空いた穴を埋めようとしていた。エレナと銀髪の少女を、リリアや他の死者が埋められ墓となった場所に残し、リクスとキースは自分達がいない間に起こった事を知るべく、村長の許を訪ねていた。年老いた村長は普段は自宅からあまり外に出ないが、村の一大事にそのような事も言っていられず、村人達を宥めて回っていた。
そんな村長にリクスが声をかける。
「俺たちがいない間に、一体、何があったの」
白髪頭に髭を携えた、長老と言われてもおかしくはない風貌の村長は、リクスの率直な質問に静かに口を開いた。
「漆黒の、闇のような服を身に纏った者が突然、村にやって来てな、入って来るなり魔術のようなもので家を焼き、破壊し始めたのだ。外に出ていた者は殺され、家の中にいた者は下敷きになった」
「黒い服の人?」
「ああ。何の目的でこの村に来たのかも、何故、村を崩壊させたのかも判らぬ。破壊の限りを尽くすとすぐにいなくなってしまった」
話を聞いても真実が見えてくるどころか、逆に不可解な点が多くなったように思う。村長が言った通り、それが誰なのかも、目的も、村を破壊した理由も、何もかもが謎のままなのだから。
当事者であった村人からも、これ以上の情報を得られる事はないだろう。何より、今はまだ事件があってから間もない。何か知っていたとしても、思い出させるのは酷というものだ。
これからどうしようかとオレンジ色に染まり始めた空を見上げていると、墓にいたエレナと銀髪の少女が手を繋ぎながら歩いて来る姿が目に入った。あれだけ泣きじゃくっていたエレナが、何故だか元気を取り戻している所を見ると、銀髪の少女がどうにか宥めてくれた事が判る。
彼女がこちらに歩いて来る姿を目に留めたのはリクス達だけではなく、ヴェルミナ様だという声があちらこちらから漏れ、ざわめきになる。
「なあ、リクス。この場にあの子がいるのマズくねえか?」
「うん。俺もそう思う。本物のヴェルミナ様かどうかは判んないけど、責められても縋られても困るよね」
「だろうな」
一斉に大勢の人に囲まれるだけでも混乱するかもしれない。そして、ヴェルミナ様だと疑わない者にもし、人違いだと彼女が言ったらそれこそ、大事になりかねない。
だから逸早く彼女に近づくと、エレナが嬉しそうにキースの方へと駆けてきた。
「あのさ、キミ」
「スフィア、行く……」
「へ?」
少し離れた場所に行こうと言おうとしたが、またしても少女は明後日の方向を向いたかと思うと突然走り出してしまい、再び唖然とするリクスとキース。
「って、またかよ!」
「追いかけよう、キース」
「わぁってるよ!」
どうしたのかと問いかけてくるエレナに留守番するよう言い、村長にエレナの事を頼むと先に走って行ってしまった銀髪の少女の後を追って村の中を駆けて行く。向かった先は村の出入口で、少女の後ろ姿を捉えるとそのまま村の外へと出て行った。道を真っ直ぐ進んで行き、漸く少女が立ち止まった所は、昼間リクスとエレナが薬草を摘みに来た森で、この場所はまさしく薬草を摘んだ泉のすぐ傍だった。
泉の中央を見つめて立ち尽くしている銀髪の少女。
どうしたのかと声をかけようとして、リクスもキースもその異変に気が付いた。泉に赤い綿が舞い散っている。否、正確には綿ではない。小さくて真っ白だったフェクールの花びらが赤く染まり、辺りを赤で埋め尽くしている。
「何で、こんなこと……さっき来た時はちゃんと咲いてたのに」
「フェクールの花が散るのなんて初めてだろ。花が赤くなったのだって……一体、何が起きてんだよ……」
村が壊滅状態だというだけでも混乱していたというのに、この森の象徴とも言える樹の花が赤く染まって散るなど、思考が追いつかないどころの話ではない。常軌を逸している。五十年前に村ができた時にはすでにあったと言われているフェクールの樹。一度たりともその花が散っているところを、誰一人として見ていない。ましてや、純白の花が他の色になった事などない。
何かが起こっている。村が襲われた事と関連があるかどうかは不明だが、それでも偶然や気のせいで片づけられる事ではない。
凍りついたような二人に、銀髪の少女はスカートをぎゅっと掴む。
「スフィア、せい……」
「え……?」
「スフィア、ここいる、から」
辛そうに眉を顰めている銀髪の少女の呟きが理解できずに首を傾げ、リクスはキースを見上げてみたけれどキースは黙って首を横に振った。その真意など、何も知らない自分達には理解し得ないものなのだと。
リクスは再び少女の方を見、改めてヴェルミナに似ていると思った。女神に関連するものは、聖堂の彫像だけではない。聖伝と呼ばれる、世界創成期から女神天昇期までを綴った聖書のような歴史ある書物。子供向けの絵本や絵画。大聖堂のステンドグラスには女神が描かれていると聞く。そのどれもが、特徴は勿論の事、姿形がほぼ同じで、そのどれにも目の前にいる少女はとても良く似ている。
まるでヴェルミナ本人かと思うほどに。もしかしたら本当に、ヴェルミナなのかもしれないと淡い期待を抱くほどに。
「キミ、何か知ってるの? この樹のこととか」
少しでも何か情報を得られれば、ヴェルミナかそうではないかという判断基準になるかもしれない。しかし、少女は首を横に振る。
「知る無い。スフィア、知る無い」
そう言ったきり口を噤んでしまった少女にリクスはどう接したらいいのか判らないのかあたふたとしていて、そんな二人の様子を傍観していたキースは小さく息をついた。
「フェクールの樹のことなら、司祭様が知ってるかもしんねえし、とにかく聖堂に行ってみないか?」
魔物がうろついている外より安全だろうという事で提案してみれば、それもそうだねとリクスが同意したので聖堂へと向かう事にした。何より、ヴェルミナにそっくりな銀髪の少女の事を知っているかもしれないから。
そう思い、本日二度目となる聖堂の扉を開けて中に入れば、先程と変わらずに司祭が奥に立っていた。入ってきたリクスを目にすると、司祭は不思議そうに目を丸くしている。
「リクス君。どうしたのですか? 二度も来るなど珍しい」
「司祭様、大変なんです!」
質問には答えずにそう言ったリクスの鬼気迫る様子に、司祭は落ち着いて話して御覧なさいと優しく促してくれた。焦りながらも、リクスはこれまで起こった事を順に説明していく。村が壊滅状態になった事も、フェクールの樹の事も。自分が知っている事は全て伝えた。
話し終えると、司祭は辛そうに眉根を下げる。
「そうですか、村が……」
「司祭様。フェクールの樹のこと、何か知ってますか?」
赤く染まり、散りゆく花を見た時のショックが忘れられない。それが表情から伝わったのか、司祭の顔もどこか陰っている。
「フェクールの樹は、災厄から世界を護る為にヴェルミナ様が植えて下さったとされています。世界が受ける筈の災厄をその身で引き受け、花が赤く染まり、耐え切れずに散ってしまったのでしょう」
世界が受ける災厄をその身で引き受ける。森の象徴としか思っていなかった樹に、そのような理由があった事など今の今まで知らなかった。ずっとその存在は知っていたというのに。
真実を知るのは司祭のみで、村長さえも知らされていない事だと告げられれば、当然の事だったのだと納得した。フェクールが赤く染まった時に災厄が訪れていた筈だったと知れば、混乱は避けられないだろうという理由から誰にも伝えなかったのだと、司祭は言う。
「フィエスタで起こった事が災厄と関わりがあるかは知り得ませんが、封印が消滅しかかっているという事は事実だと思います。フェクールの樹が身代わりになった事で災厄が何だったのか知ることは出来ませんが、魔物と関係のある事なのかもしれません」
魔物が増えた事による影響なのかもしれないという事であれば、それは嘗てヴェルミナが世界を救った時が蘇るという事になる。ヴェルミナがいたから世界は救われたが、今現在は天上にいるとの話だ。見守っていてくれているとは言え、世界を再び救ってくれるかは誰にも判らない。
もしそうなった時、ヴェルミナが魔物を再び封印できなかったとしたら、それは世界の終わりを意味するのかもしれない。
話が一段落すると、司祭はリクスの隣に立っているキースを見て微笑んだ。
「無事にキース君と会えたのですね」
「はい。魔物に襲われてる時にキースが助けてくれて」
「そうだったんですか……ところで、そちらの方は?」
ずっとキースの後ろに隠れるように立っていた銀髪の少女を見止めて訊ねてきた
司祭に、リクスとキースは顔を見合わせた。けれども、彼女についても聞きたいから聖堂を訪ねた部分もあるので、見せないわけにもいかない事と司祭ならば問題ないだろうと判断したキースは一歩隣にずれた。
そうすれば銀髪の少女の姿が露となり、司祭は驚いたように目を丸くしている。
リクス達が初めて見た時と同じ事を想っているのだろうという事は明白で、けれど司祭はすぐに平静に戻った。
「その子は、どうしたのですか?」
「えっと、実は……」
立ち入り禁止の洞窟で起こった事を説明する。水晶の中にいた彼女の事についてはリクス達も、何も知らないのだという事を。その容姿がヴェルミナと酷似している事から、司祭ならば何か知っているのではないかと思い、連れて来た事を。
すると司祭は銀髪の少女へ近づくと、真っ直ぐ彼女を見つめた。
透き通るような銀の髪に、輝くような金の瞳を持つ少女。
「お名前を教えていただけますか」
「名前……スフィア」
「ではスフィアさん。貴女はどうして洞窟にいらしたのですか」
率直に訊ねれば、スフィアと名乗った銀髪の少女は首を横に振った。
「知る無い。目、覚めるした。この人、いるした。それだけ。他、知る無い」
つまり、自分の名前以外に憶えている事はないらしい。どうして洞窟内にいたのか、どうして水晶の中に隔離されていたのか、どこから来たのか、それら全てを知らないと言う。判らないのではなく、知らないのだと。
そこでリクスは、今まで疑問に思った事を素直にぶつける事にした。
「キミは、ヴェルミナ様とは違うの?」
随分思い切った事を聞くなとキースは苦笑いを浮かべる。リクスは馬鹿正直だと思う程、素直に思った事を口にする。裏表がないのはとても良い事なのだが、その質問はどうかと思う事もしばしばあった。今回は仕方のない事なのかもしれないが。何せ、リクスが焦がれてやまないヴェルミナについての事なのだから。
他人と間違われて怒るかとキースはスフィアを見つめたが、その表情はキョトンとしたものだった。
「ヴェルミナ、誰。スフィア知る無い」
「知らないって、ヴェルミナ様を?!」
「おいおい、今まで一度も礼拝したことねえのか?」
何を言っているのかさっぱり理解できないと言うかのように首を傾げるスフィアを見て、リクスとキースは顔を見合わせた。この世界で生まれた者ならば一度は礼拝をする。それは必ずと言っていい。
縋ったり願ったり、習慣のように訪れる者も少なくはない。
それが全くないというのは、リクス達には到底理解できる事ではなかった。
「スフィア、あの人がヴェルミナ様だよ」
言いながらリクスは彫像を指示し、導かれるようにスフィアも彫像を見、数秒間見つめていたかと思うと引き寄せられるかのように彫像へと近づいて行った。歩く度に揺れるスフィアの髪が、夕陽を浴びてキラキラと輝いている。
彫像の前で立ち止まり、見上げていたスフィアは相変わらずキョトンとしたままで、そんなスフィアの姿に、司祭が口を開いた。
「天守星-キア・ソルーシュ-……」
初めて聞く単語にリクスは首を傾げる。それが何を示しているのか、名前なのか物なのかすら判らない。
「彼女はキア・ソルーシュと呼ばれる者です。天上の守り手として、大聖堂へと行かなければなりません」
「大聖堂に? けれど、大聖堂の場所は誰も知らないはずです」
「ええ。しかし道標はあります。祭壇を廻れば良いのです。祭壇を巡り、大聖堂を目指せば彼女は自分自身を知ることになるでしょう」
天上の守り手。
天守星-キア・ソルーシュ-。
女神ヴェルミナ。
フェクールの樹。
大聖堂。
様々なものが絡み合い、交錯している。リクス達が感じているよりもずっと大きく、世界の歯車は、ずれ始めていた。