僕は施設に向かう その②
昨日の天気がウソみたいに良く晴れていて、目を細めなければ、紫外線で目玉が焼かれてしまいそうだ。
隣を歩く風見鶏ちゃん。
こちらがその小さい歩幅にあわせてあげなければ、距離は開いてしまう。
「御手洗さん」と、僕を呼ぶ。
「どうした?」
「私、生まれ変わったら、猫になりたいです」
「猫かぁ……けど、どうしてまた猫なんだよ」
「だって猫なら、たとえ捨てられたとしても、きっと、誰かが拾ってくれるじゃないですか。犬は即処分されてしまいますし」
もっと子供らしい発言を予期していただけに、かなり返答に困る。
「じゃあ、もし、風見鶏ちゃんが猫になって、それで捨てられたら、僕が拾ってあげるよ」
当たり障りのない言葉を選んだ僕であったけれど、どうやら不服だったようで。
「嫌です。それじゃ嫌です」
「なんだ? 僕じゃ不満なのか」
「そうじゃなくて、ですね――」
ぴょんと、水たまりを避けるように飛び、太陽に負けないぐらいの輝きを放った笑顔で、こう言ったのであった。
「私の最初の飼い主さんであってください。それで、捨てないでくださいよ? 捨てたら一生、恨みます」
「分かった……約束する」
「あ、じゃあ、御手洗さんが捨てられてたら、捨て御手洗さんだったら、私も拾ってあげます。これで平等ですね」
「捨て猫みたいに言うなよ、僕のことを」
僕らは相変わらずのやり取りをしているけれど、そうだな――愛も、人が誰かを愛するという愛情も、どうか変わらないものであって欲しい。
そうすればきっと、僕らみたいに、苦しむ人は減るのかもしれない。
きょろきょろと辺りを見回して、何かを探すような素振りをする風見鶏ちゃん。
「なにやってんだ?」と、気になった僕は聞いてみる。
「この前見つけた猫ちゃん、いないかなと思いまして」
「ああ、あいつか」
僕も探してみたものの、やはり、野良猫だか飼い猫だか知らないけれど、同じ猫に出会える確率は低い。
しばらく歩いたけれど、結局、見つかることなく駅へと到着してしまった。
「残念だったな、見つけられなくて」
もしかしたら、見つけるまで帰らないとか言い出すかと思った。しかし、すんなりと諦めた。
「仕方ないです。猫ちゃんにだって、きっと、用事があるんでしょうし」
「用事、ねえ……」
幼児の癖に、なかなか大人びたことを言う。
「それで、ここからどれぐらいの距離にあるんだ? その施設って」
「遠くはないですよ。でも、近くもないです」
言って、風見鶏ちゃんは、駅の料金表のとある箇所を、指さした。
「ここって……けっこう遠いな……」
僕らが今いる駅から、およそ四十分ぐらいのところだ。
財布を取り出し、切符を買う。その際、間違えて大人用切符を二枚買ってしまい、駅員さんに払い戻しをしてもらうというイレギュラーな事態が発生してしまったけれど、「御手洗さんは、だから御手洗さんなんですよ」とか、風見鶏ちゃんに文句を言われたけれど、まあ、どうにか電車に乗ることができた。
平日の朝九時近くということもあり、乗客はまばらで、僕らは隣り合って座る。
制服ではなく私服なので、特に僕のことを怪しむ視線はない。
次々に変わりゆく景色を眺めていると、ふと、風見鶏ちゃんは言った。
「もうすぐ、ですね」
もうすぐで目的の駅に着く、ということか。
「そうだな。もうすぐだな」
「あの、御手洗さん」
「なんだ」
「手を、繋いでくれませんか?」
ハッとして、ドキッとして、僕は頬を右手で、ポリポリと掻いた。
「別に……いいけど」
右手をそのまま風見鶏ちゃんへと差し出し、握り返される。
僕の手は、すっかり風見鶏ちゃんの手を覆い隠してしまう。僕の手が大きいのではなく、風見鶏ちゃんの手が、小さいのだ。
そんなことは当然であり、何も驚くことはない。
しかし、だけれど、風見鶏ちゃんは普段、やたらと大人びているせいで、僕はすっかり忘れていた。
まだ、子供なんだよな、と。
ちょっぴり湿った風見鶏ちゃんの手は、なんだか、僕の心を潤してくれるような気がして、微笑んだ。
「手を繋ぐのは、久しぶりです……」
「そうか……」
「最後に私の手を握ってくれたのは……お母さん、です」
「そうか……」
「お母さんは、私のことを愛してくれてはいました。でも、それ以上に……私よりも、御手洗達也さんのことを、愛していました」
だからこそ、風見鶏ちゃんのお母さんは、後を追うようにして自殺した。
そういう事実は、理解したくはないけれど、理解せざるを得ない。嫌なことから目を背けていては、前には、進めないのだ。
たとえ前進したくなくても、進まなければいけない。
それが人生であり、人の道を生きるということだ。
でも、僕らは前に進んでいるように見えても、僕らにとっての前進は、誰かにとっての後進なのかもしれない。
そう考えると、もはや、前とか後ろとか右とか横とか、方向が釈然としないな。
結局、僕らはどこに向かうのかなんて、自分で決めることはできない。他人という物差しが、基準があって初めて、歩けるのだ。
それならば僕は、風見鶏ちゃんを、導くべきなのだろう。
僕は逡巡した結果、こんな言葉を選ぶことにした。
「なあ、風見鶏ちゃん。確かにお前のお母さんは、お前じゃなく、娘じゃなく、僕の親父を選んだ。でもな、それはもう、忘れろ」
「忘れる……なんてことが出来るのなら、とっくにそうしています」
「分かってる。だから、僕がいるんじゃないか」
「え?」
一切の穢れを知らなかった瞳は、大人の醜い姿を前に穢れてしまい、汚れてしまい、けれどまた、純粋さを取り戻そうとしている。
「お前のお母さんが最後だったように、僕からまた、始まったわけだ。お前の手を握ってくれるやつは、ここにもいるんだ――」
だって僕は、お前のお兄ちゃんだからな。
手を握る力が強まり、まるで、僕が確かにここにいるんだということを、確認しているようだった。
いや、もしかしたら……自分の存在証明だったのかもしれないけれど。
僕はいるから、風見鶏ちゃんはいる。
風見鶏ちゃんがいるから、僕がいる。
そういうことなのかもしれない。
「お兄ちゃん……ですか」
「そういうこと。お前は僕の、可愛い妹だよ」
違和感はある。
僕に妹がいるなんて、いたなんて、奇妙な話だ。
でも、まあ、そのうち慣れていくさ。
「では、私は猫なで声で『お兄ちゃん?』と、呼んだ方がいいのでしょうか?」
驚きを超越し、危うく僕の目玉が飛び出すところだった。
「お前……そんな声出せるんだな……」
「お望みであれば、いつでも」
「必要ないから! そんなものは求めてない!」
少し大きな声を出してしまったことを自覚し、僕はひとまず、咳払いをして誤魔化す。
「せっかく素晴らしいことを言ったというのに、台無しじゃないか」
「そうですね。台無しですね。甲斐なし、ですね」
楽しそうに両足をばたつかせる風見鶏ちゃん。僕はそんな姿を見て、ため息をつく。
すると――
「でも、とても心に響きました。ですから、少なくとも、無駄ではなかったようですよ?」
これだから僕は、憎めない。
最後になって、こういうことを言ってくるのだから、憎めるわけがない。
「ほら、御手洗さん、着きましたよ」
「え? あ、ああ……そうだな」
「ボーっとしていると、置いて行っちゃいますからね」
なんだか複雑な気分である。こんな子供に、こんな発言をされると。
それから、ちょこちょこと寄り道をしながら、僕らはたどり着いた。
風見鶏ちゃんが、脱走をしてきたという、施設に。
「なるほど……これがその、施設とやらか」
「そうです。ここがその……施設とやらです」
やたらと大袈裟な物言いだけれど、この施設、普通だ。
一言で説明するなら、学童のようなところだ。
小さいけれどグラウンドみたいなものがあり、それを囲うようにして建物が建っている。
脱走なんて表現をしていたから、僕はてっきり、周りに鉄柵が張り巡らされているような、いわゆる収容所みたいなものを想像していた。
「入口はこっちです」と、風見鶏ちゃんに先導されながら、僕は歩く。
なかに入ってみると、真っ白な廊下が嫌というほど目についた。まるで精神病棟にでも突っ込まれたような、そんな感じだ。
清潔さを出そうとして、失敗したのだろうか。
「ゆ、優子ちゃん!?」
僕が顔を顰めて施設内を眺めていると、いきなり大きな声が響いた。そちらの方へ視線を送ると、恐らく、施設の人と思われる女性が、立っていた。
肩をわななかせ、怒っているのか驚いているのか、はたまた泣いているのか、よく分からない表情をしている。
「あ、えっと、初めまして。風見鶏優子の、兄なんですけど」
そこまで言うと、職員はまず、頭を下げた。
「どうもすいません。お手を煩わせてしまって」
「いえいえ」
不機嫌な顔をしている風見鶏ちゃんを、僕の前へと立たせ、そして一緒に謝る。
「こちらこそすいませんでした。無断で外泊をしてしまって、すいません」
「ごめんなさい……中江さん……」
中江さん、というのは、この職員のことだろう。
「もう優子ちゃん……心配したんだからね……?」
風見鶏ちゃんを優しく抱きしめるその姿は、まるで、母親のようだ。
中江さんは、僕の目には、とても優しそうな人に映る。
「あ、それでお兄さん、ちょっとよろしいですか?」
「僕ですか?」
「はい」
風見鶏ちゃんに「部屋に戻って、すぐ学校に行けるよう準備しなさい」と言ってから、改めて中江さんは、僕を見た。
「優子ちゃんのことで、色々とお聞きしたいことがあります」
何というか、よく分からない人だ。
優しそうという、漠然とした印象は受けたけれど、それ以外にはなんとも言えない、言いようがない、女性である。
髪の毛は黒髪で短髪、服装はジーパンに白いシャツと、普通だ。
年齢は……検討もつかない。
疲れ切ったようなその瞳は、きめ細やかな肌と、相反する。
若いのか、それとも若くはないのか、分からない。
一通りの観察を終え、僕は返答する。
「むしろ、僕からも聞きたいことや、知りたいことがあります。僕もあなたの質問に答えますから、僕の質問にも答えていただけませんか?」
少し、挑発的で高圧的な言い方かもしれない。
けれど、こうでもしなければ、ナメられてしまいそうで、仕方なくそうした。
僕は所詮、高校生だ。大人じゃないし、ましてや、風見鶏ちゃんの保護者でもない。
しばらく僕を見つめて、結局、「分かりました」と、中江さんは言った。
心配そうな顔をする風見鶏ちゃんに、小声で「また後でな」と、手を振って、僕を先導する中江さんについていくのであった。