僕は心に複雑な気持ちを抱く
もう、説明するまでもあるまい。
優子に会いに行ってから、幾日か経った頃。
正確に言うのなら、土曜日の午後三時。晴れた天気に思わず笑みを零し、僕は洗濯物を取り込んでいた時のことだ。
チャイムが鳴って、誰が来たのかと確認してみれば案の定、桃音がいたのだ。
三日ほど会っていなかったけれど、それも精々三日である。たかだか三日である。
もうお腹がいっぱいだ。
別に会いたくないわけではないが、死ぬほど会いたいというわけでもない。
どうしてこう頻繁に、僕に会いに来るのか理解できない。
下手したら僕のことが好きなのかもしれないな。
「そういえば御手洗君の家って、テレビないよね」
僕のベッドで、芋虫みたくゴロゴロしながら、桃音は退屈そうに言った。
「必要ないものはいらない。それが僕のモットーだ」
「ふうん」
「それから、他人のベッドでゴロゴロしない。それも僕のモットーだ」
「へえ」
「嫌味だぞ……?」
「そうなんだ」
「いや……ちょっとは受け止めてくれ、僕の言葉を……」
「うん」
どうしたんだ一体全体。
さっきは退屈そう、などと僕は表現したが、訂正しよう。
どこか、うわの空な感じだ。
話しかけても反応は薄く、焦点も僕ではなく壁に定まっている。自分から何か発言をしたかと思えば、桃音らしからぬ、かなりどうでもいい内容だし。
試しに「パンツ見えてる」と言ってみたけれど、「ああ、うん」という普通の返答。
縞々の下着を身に着けているのは意外だったし、そもそも、「きゃあ!」とか「み、御手洗君の変態!」とかってツッコミがこないのも不思議だ。
それに加えて。
桃音がよく着ているショートパンツ&ニーソではなく、お嬢様みたいにフワフワとした白いスカートに、黒いシャツの組み合わせ。
何かがおかしいのは明々白々である。
「桃音ちゃん」
「うん」
「桃音っち」
「はい」
「桃音たん」
「そっか」
「ぺちゃぱい」
「だよね」
「ぷっ……」
思わず笑ってしまった。
無意識下でも、それなりに自覚はあるのかもしれない。いや、バカにするほど胸が無いわけではないが、誇れるほどの大きさではない。
「御手洗君ってさぁ……彼女いるの?」
「いるよ」
「ええ!?」
「うわっ、いきなり大きな声出すなよ……」
予想していなかったぶん、僕の驚き方といったらそれはもう凄かった。肩がビクンとなり、勢い余って鼻水を噴射してしまうほどだ。
そばのティッシュを一枚掴み、すぐさま清潔を保つ。
「冗談に決まってるだろ。僕に彼女なんていたら、きっと今頃、僕はお前といない」
「だ、だよね? ああ……もうふざけないでよ」
起こしかけていた身体を戻し、再びベッドでくつろぐ。
めくれてしまったスカートにようやく気づき、桃音は慌ててそれをなおした。
「見た……?」
「話は変わるけど、どうして今日はそんな恰好してんだよ」
「見た……?」
「………まあ、見たっていうか、見えちゃったって感じ」
遅すぎる赤面をして、桃音は忌々しい目で僕を見た。
「そういう時は……見ないでよね……」
「そういう時って、お前がボーっとしてる時か?」
「別にボーっとなんかしてないもん」
「よく言うぜ……」
鼻で笑ってやり、僕は「それで?」と、さきほどの続きを促した。
「これは……そう、セールでさ! 安かったから買っちゃったのよ」
「お前ってそういう服も、けっこう似合うな」
「そうかな? え、そうかな? そっか……ふうん。ありがと」
「でも僕は、お前の絶対領域も嫌いじゃないぞ」
「そうなの? へえ、そうなんだ。じゃあ次はまた、あの洋服着てあげるね」
サービス精神が半端じゃない。このままなら、「お前の下着姿も、よく似合うぜ」とか言ってしまえば、普通に見せてくれそうだ。
しかしだけれども、僕はそんな変態ではない。
煩悩に打ち勝ち、思春期に別れを告げて、僕は平然を装った。いや、装っちゃだめか。僕は平然を保ったわけだ。
「あたしさ――」
キチンと座り直しかと思うと、桃音は視線を彷徨わせながら言う。
「御手洗君のジャージ姿も……なかなか、カッコいい、と思う……」
「そ、そうか?」
「と思うような気がしたけどやっぱり思わない」
「おい……からかうのもいい加減にしろ……」
喜びかけたのに。
ようやくこいつにもジャージの素晴らしさが分かったのかと、思ったのに。
「じゃ、ジャージがカッコいいわけないよね? もうあたしったら何言ってるんだか」
「やっぱ今日のお前……変だぞ?」
「へ、変? もしかしてこの恰好おかしかったかな……? そうだよね、あたしにこんなお嬢様みたいな服似合うわけないよね……」
「いや、いやいや、そうじゃない。その服装は可愛い。グッとくる――」
僕の言葉を遮って。
「そ、そうなの? じゃあ何が変なのかな?」
「だから、今日のお前だよ。今のやり取りも、さっきのやり取りも、全部おかしい。いつものお前らしくないんだよ」
「あたしらしいって……なに? 白鷺桃音らしいって……どういうことなの……?」
突然、表情が曇った。
冷汗が頬を伝って床に落ちる。
冷蔵庫の変てこな稼働音が、響く。
そして僕の心には――焦りが生じていた。どうしてそんなに怖い顔をしているのか。どうしてそんなに僕を見つめているのか。どうしてそんなに……泣きそうなのか。
「悪い……妙な質問しちゃったな。気にしないでくれ」
「教えてよ……聞いたからには、答えがあるんでしょ? あたしって、なに?」
自分らしさ。僕にもそれは分からないけれど、少なくとも、白鷺桃音らしさというものは、何となく分かる気がする。
「お前はいつも、強気だ。僕をバカにしたりするぐらいだから、さ。けど、性格が悪いというわけでもない。表面には出さないけど、お前のさりげない優しさを、僕は知っている。それに、意外と真面目だろ? お前って。ちゃんと宿題をやってるんだもんな、偉いよ。それだけじゃあない――」
知らず知らずのうちに、僕はこんなにも桃音のことを、知っていたのか。
「責任感だって強い。優子のこと可愛がってやったり、面倒見てやったりするし。だけど子供っぽい一面もあって、でもそういうところ、僕は嫌いじゃないんだよ」
だから桃音……僕はお前を、ちゃんと知っている。
気持ち悪いぐらいだ。自分で言っておきながら、おかしいと思う。こんなに長々と言葉を連ねられても、どんな反応をすればいいか分からないだろう。
しかし――
「御手洗君は……知らないんだよね……」という奇妙な返しに、僕は何も言うことができなかったのだ。
「御手洗君は……あたしのこと、分かってないよ。まだまだ――」
ゆっくりと立ち上がった。細くて白い足が目にとまり、僕は釘付けになる。床に座っていた僕の視界は、先程までベッドを捉えていたはずなのに、今ではどういうわけか天井を眺めていた。何が起こったのだろう。けれど、僕の疑問はすぐに解消される。
「桃音……?」
「御手洗君はあたしのこと、あたしの気持ち、理解してないんだよ」
「いきなり押し倒して……どういうつもりだ……?」
桃音の匂いが鼻腔をくすぐる。甘くて、だけど爽やかで、それでもって切ない。そんな匂いだった。
「あたしは……御手洗君のことが、好きに、なっちゃった」
「なに言ってんだよ……まだ出会ってから一週間ちょっとだぞ? いくらなんでも……」
「だって御手洗君、他の男とは違うんだもん」
顔と顔とが近づき、桃音は僕の瞳を覗き込む。桃音の熱い眼差しに耐えかねた僕だったが、固まったように目玉も、口も、首も、身体も動かず、どうしようもなかった。
「あたしは可愛いからイジメられた。そんなことぐらい、分かってた」
小学校の時、イジメられたと言っていたな。それで朽木先輩に助けられたとも。僕はてっきり、理由など理解できていないと思っていた。可愛い女性がイジメられるのは、世の常と言っても過言ではないのだから。けれどそれを、理解していたのか……。
「あたしが何をするわけでもないのに、ただイチャモンをつけて、難癖をつけて、罵倒してきたんだよ、あいつら」
少しも桃音は動かない。
「でも、それを見て、誰も助けようとはしないんだから。男も女も、みんな知らんぷり。そうしてようやく気づいた。あたしが可愛いから、悪いんだって」
真顔でとんでもないこと言う。自分の可愛さは罪。なかなか聞ける言葉じゃない。
「中学に入ってからは、あたしは誰とも喋らないよう、気をつけた。だって、誰かと話せばまた、僻まれて、イジメられるかもしれなかったから」
桃音が僕に覆いかぶさる態勢。なぜ、このタイミングこの姿勢で、こんなことを話しているのだろう。
「でもね、やっぱり同じだった。静かにしてたらそれはそれで、問題があった。おしとやか、そう思われて男子に告白される毎日。結局また、女子からイジメられたんだよね、あたし」
ふふっ、と笑い、桃音はさらに顔を寄せてくる。
「それならもう、ありのままで、何一つ偽りなく、過ごしてやろうって決めた。男を拒絶し、女をコケにして、生きていこうと思ったの」
愛おしそうに僕の唇を見つめ、そして軽く、指先で触れた。
「だけどまだ終わらなかった。イジメは終わったけど……次は、別の問題がね」
唇から頬へと移り、桃音は一度、瞬きをする。
「ママがね、あたしが中学二年になったぐらいに、毎晩男を連れてくるようになった。おじさんから若い人まで、幅広い世代の男を、毎晩……毎晩……」
人間の第六感というものは、あてにならない場合が多い。ほとんどがあやふやなもので、外れる方が圧倒的に多い。そして今僕にも、その頼りにならない第六感というものが、生じた。嫌な予感と言ったほうが分かりやすいかもしれない。
とにもかくにも。
僕はその予感が外れることを願い、続きを待った。
「どうしてだろうね……ママを目当てに来たはずが、どうしてあたしに、手を出してきたんだろうね。これもやっぱり、あたしが可愛いから、なのかな……」
「……っ!」
「そんな顔しないで、あたしの貞操はちゃんと守ったから」
「でも……お前の貞操は守れても……お前の心までは……守れなかったんじゃないのかよ……」
役立たずの口が、ようやく開いた。
「かもしれない……男なんて大嫌い。そう強く思ったのは、たぶん、その時からだね」
「桃音……お前……」
「家に帰れば変な男がいて、学校に行っても窮屈で、あたしの居場所はもう、なかった」
「……そうか……」
「それで高校生になった矢先に、パパの話を聞かされた。妻子持ちの男との間にできた子供が、あたしだってさ」
最悪のタイミングなのかもしれない。いや――恐らくどのタイミングであれ、最悪であることに変わりはなかったのだろう。
「御手洗達也……僕の親父の話を、聞かされたのか……」
「うん。あの時、あの瞬間は――男に対する嫌悪感が、半端じゃなかったよ。でも御手洗君と出会えて、それも変わったんだよ」
「僕なんて所詮……そこらへんの男と変わらないだろう……どうしてそこまで、僕を特別視するんだよ……?」
底知れない気持ち悪さを感じた。桃音が僕を特別扱いしてくることが、どうしようもなく気持ち悪く思えたのだ。
「だって御手洗君は、違うもん」
「何が違う……?」
「あたしを変な目で見てこないし、お姫様みたいにあたしを扱ったりもしない。あくまでも同じ目線で……そうだなぁ……同列に見てくれたじゃん。バカにだってしてくるし、だけどあたしも御手洗君をバカにしたりするし……居心地が、良かったのかな、たぶん」
それだけ、たったそれだけで、人を好きになるものなのか。あれほど男を嫌いだと思っていた桃音が、こうも簡単に変わるものなのか。変われるものなのか。
桃音の瞳に映った僕は、酷い顔をしていた。複雑で、それでもって臆病で、桃音に怯えるような顔をしていたのだ。
「それだけで……? 僕を好きになったのか……?」
「ううん。違う。やっぱり決め手になったのは、あたしがいくら無防備な姿を見せても、一切御手洗君は手出しをしてこなかったから。それに、なんて言うのかな……頼りに、なるじゃん」
大人びた顔つきが一気に崩れ、ようやく僕の知る桃音の表情を、見ることができた。
「えへへ……あとは、優しい……ところも……」
桃音を気持ち悪いと思った自分。それは確かに存在していた。いや、今もいることは間違いない。だけど――興味を抱きつつある僕も、いるのだ。
なぜ気持ち悪いと思ったのか。理由は単純だ。そんなものは――僕らが兄妹だからに決まっている。
「僕とお前は……曲りなりにも、兄妹なんだぞ?」
これ以上はまずい。それなのに止まらない。
「分かってる。でも、好きなものは好き。それじゃあ……ダメなのかな……?」
だめだ、止まれ。それ以上僕に、近づかないでくれ……。
「付き合うだけならまだしも……結婚なんて絶対できないのに……終わりが見えてる恋なのに……それでもお前は……僕を好きだって言うのか……?」
僕が瞳を閉じ、開けた時には、もう何もかもが遅かった。
「それでもあたしは……御手洗君のことが、好きだよ――」
後悔と喜びと、絶望と祝福と、躊躇いと好奇心。
愛で膨らむ唇は互いを求め合い、重なることが当然であるかのように、重なった。身体は密着し、離れることを許さない。これで良かったのかと聞かれたら、恐らく僕は首を横に振る。けれど、そうじゃないのかと聞かれたら、僕はこれまた否定せざるを得ない。途方もなく曖昧で、途轍もなく矛盾しているけれど――僕はこの歪んだ愛情を、受け止めるしかなかった。
桃音の乱れた髪の毛を見つめながら、僕の背中だけは、冷えていくのであった。




