僕はあの歌を無性に聞きたくなる その①
歩き慣れない道というのは、なかなか味わい深いものがある。
恐らく人間は、生まれながらにして未知への関心が強いのだろう。
これで二回目であるから、初めてというわけではない。けれど、たかだか二度歩いたぐらいで知ったような口をきくのは、正しく知ったかぶりというやつだ。
すっかり日常に馴染んだ風という存在ですら、ひとたび新天地へと踏み出せば、それは変わる。変わってしまうのだ。
真っ赤な自動販売機を横目にして、それとは反対に位置するパン屋へと目を向ける。今まさに、パンを作っている最中なのかもしれない。
嗅いでいるだけでお腹が満たされてしまう、香ばしい匂い。
車が僕らを通り越す。
あっという間に排気ガスに取って代わられ、僕は少しだけ、顔を顰める。
「それにしても、あんたって本当に、制服似合わないわね」
顔を顰めた僕に、さらに追い打ちをかける桃音。
顔を顰めすぎて、それがどうにも桃音の笑いのツボに入って。
「あはは! その顔はやばいって! ちょっと……やばい……笑いが……ふふっ」
「やばいのはお前だよ。人の顔見て笑うとか、それもう、この世の中生きていけないぜ」
世間は厳しいのである。いや、十五歳の癖に何を言っているんだろうな、僕。
僕とは違って、制服姿もしっかりばっちり似合っている桃音の肩を小突き、僕は前へと早歩きする。
「あ、ちょっと。置いてかないでよ」
「お前が歩くの遅いんだろ」
足の長さはさほど違わないはずなのに、いつの間にか桃音は僕に追いつく。
「ていうかさ、優子ちゃんの施設って、まだ着かないの?」
「もうすぐだ」
「ふうん、そっか」
徒歩十分ぐらいの距離ですら、桃音にとっては遠いのだろうか。
「疲れたのか?」
「ちょっとね」
「手ぶらの癖に、なに疲れてんだよ」
「手ぶらは関係ないでしょ。分かった、そういう屁理屈みたいなこと言うなら、あたしがあんたのカバン持ってあげるよ」
「どうしてその結論に至ったのかはよく分かんないけど、別に持たなくていい」
「あたしけっこう、力持ちだよ?」と、無い力こぶを見せようとして、ブラウスの袖を捲っていく。
「あれ、あれ? 中学の時は捲れたのに、あれ?」
「あーあ。お前もしかしたら、太っ――すいません……」
桃音の最近のマイブームは、人の足を踏むことらしい。
「あたしがなに? 太ったって言いたいの?」
「まさか」
「でも、すいませんって謝ったよね?」
「言ってません」
「あたしの聞き間違いなのかな、じゃあ」
「左様でございます」
桃音の対処の仕方を徐々に理解しつつあり、どうにかこの場は逃げきれそうだ。
僕の足音と桃音の足音が面白いぐらいに重なるので、僕は桃音を見る。
すると、いつでも僕の足を踏みつける準備をしているらしく、正面ではなく僕の足だけを見て歩いていた。
「もうこれ以上、お前の悪口言わないから……だからどうか、そんなに僕の足ばかり見ないでくれ……怖いんだよ……」
「え?」と、意外そうな顔をしてから、桃音は言う。
「ああ、違うよ。御手洗君の歩幅に、あたしの歩幅を合わせてただけ」
「……なんのために? 新種の嫌がらせ……?」
「うわ、いま悪口言ったよね、あたしの。約束破った」
「言ってねえよ!? 悪口でもなんでもねえから!」
冗談だし。
微笑みながら、そう桃音は言った。
こいつはこうやって、微笑むやつだっただろうか。初対面では、あまり笑わないような印象を受けたのだけれど。
「あ、もしかして、あそこ?」
思考していた僕の身体を、ちょんと触って、桃音は指さす。
「うん? ああ、そうそう、あれだよ」
外見だけでは、何の建物なのか分からない。グラウンドがあるけれど、とても小さく、言ってしまえば土があるだけである。
砂場よりも手が込んでいて、運動場よりも単純。
「へえぇ……あそこが、ねえ」と、意味深な返答をしてから、桃音は大股で歩みを進めていく。
まあ、言いたいことは理解できる。
同じ施設は施設でも、あれではまるで、罪人を閉じこめる、収容所ではないか、と。
二度目の来訪でありながら、初めと同じような感想を僕は抱くのであった。
僕らはそのまま無言で施設の入り口へと向かい、警備員のような人に事情を説明し、かれこれ十分ほどで中へ入ることを許された。
そして――
「あら、御手洗君じゃない。優子ちゃんに会いに来たの?」
「ええ、まあ」と、中江さんに素気無く答え、手短に桃音を紹介する。
「こいつが、白鷺桃音です。僕のことも知っていたぐらいですから、当然、知ってますよね?」
首を傾げつつ、桃音は頭を下げた。
「初めまして、中江です。そうね……一応、名前ぐらいは知ってる。それから優子ちゃんのお姉さんだってことも」
「え、なんで知ってるんですか……?」
警戒した表情で、桃音は一歩、後ろに退いた。
「ああ、そんなに怖がらないで。優子ちゃんの家庭環境を調べるついでに、色々とね」
「そうですか……――ねえ、この人大丈夫……?」
小声で僕に話しかける桃音。
「……まあ、悪い人ではないから、安心しろ」
「そうだといいんだけどね……」
ここでひそひそ話を切り上げて。
「それで、優子はどこにいますか?」
「まだ学校から帰ってきてないのよ」
ちらりと腕時計を一瞥し、中江さんが言う。
「でも、そろそろ帰って来る頃でしょう。まあ、そこにあるソファーにでも座って、待っててちょうだい」
「分かりました」
なんだか落ち着かない気分のまま、僕も桃音も、言われた通りソファーに座る。
「それで、申し訳ないんだけど、私はこれから用事があって、出かけなきゃいけないの。だから今日は、失礼するわね」
僕が一言を発する前に、さっさと行ってしまう中江さん。
何かと忙しい職業なのかもしれない。
「小学校一年の時って、こんなに帰って来るの遅かったっけ?」
言われて、僕は近くの時計を確認する。
「まだ午後四時だぞ? 遅いとは言えないだろ、この時間じゃ」
「でも……」
子持ちの母親のように、桃音はソワソワと優子の帰宅を待つ。
その間、物珍しいものでも見るみたいに、僕らに好奇な視線を浴びせる子供たちが、何度か通り過ぎて行った。
中学生だろうか。
制服を着ているけれど、まだまだ背丈に合っていない。
あれは優子と同い年、ぐらいだろうな。
新品のランドセルが輝いている。
坊主頭の、いかにも悪ガキな感じの男の子が、ニヤニヤ笑いながら女の子のスカートを捲る。そしてすぐに大人があらわれて、ゲンコツを一つ、喰らっていた。
「なあ……」
「何よ……?」
「やっぱ、帰って来るの、遅くない……?」
「だから言ったじゃん! ねえどうしよう……誘拐とかされてないよね……? ほら優子ちゃんって、御手洗君が厭らしい目で見るぐらい可愛いから……」
「僕はそんな目で見たことは一度もないが、確かに優子は可愛いからな。やばい心配だ。やばすぎて心臓発作を起こしそうだ……」
「え、ちょっと。そこは普通、あたしを安心させる発言するべきでしょ? なんかますます心配になってきた……心配過ぎて、いまにも御手洗君の顔殴っちゃいそう……」
「殴るな。殴るならせめて自分を殴れ」
「冗談言ってる場合じゃないんですけど。そういうのは顔だけにして」
「僕の顔が冗談みたいだって? それこそ冗談だろ」
不毛な争いを続ける気にもなれず、僕らはため息をつくことで、一時的に休戦協定を結ぶことに合意した。
「あ、そこの君、ちょっといいかな?」
居ても立っても居られない。
僕はとりあえず、偶然通りかかった男の子に話しかける。
「風見鶏優子って子、知らない?」
「風見鶏……優子……?」
小学校六年生ぐらいの男の子は、頭を掻いて、考えている。
「そうそう。長い髪の毛に……ええと、そう! よく白いワンピースを着てる子だよ!」
これといった特徴が思い浮かばなかった。可愛い、とにかく可愛い。そう説明するわけにもいかないからな。
「ああ、あいつか」
「おお、分かったのか?」
「分かったっていうか、まあ、あんなダサいワンピース、あいつぐらいしか着ないし」
「ダサくねえ。超可愛いだろうが」
勢い余って言ったしまった僕の本音に、男の子はかなり、困惑していた。
「お前……ロリコン……?」
「ロリコンじゃねえよ。言うなれば、シスコンってやつか」
「し、シスコン……? やっぱ変態なんだな、お前」
「話にならんな。お前は優子の可愛さを、まったく分かってない。いいか? 優子は――」
「ああごめんね! いきなりこのお兄ちゃんが変なこと言っちゃって! もう大丈夫だから、うん。ありがとね?」
僕の喉元を両腕できつく締め上げ、桃音は笑顔で、男の子に手を振った。
青ざめた男の子の顔が忘れられない。
自分の死を悟った時、人間はああいう顔をするのかもしれない。
「うっ……苦しい……苦しい……」
「苦しい? 嬉しいの間違いじゃなくて?」
ようやく僕を解放したかと思えば、桃音は酷いことを言うのであった。
「バカ野郎! まじで死ぬかと思ったじゃないか!」
「バカはあんたでしょ? 何のために話しかけたわけ? 優子ちゃんの可愛さを力説してどうすんのよ、このアホ」
「だって……あいつがダサいとか言うんだもん……」
「その喋り方、不愉快。可愛くない。気持ちが悪い」
「本当にお兄ちゃんは……どうしようもないですね……」
不意に後ろから声が聞こえたので、僕はすぐさま振り向いた。
この憎たらしい口調。
この憎めない笑顔。
「ったく……心配かけやがって……」
優子をひょいと持ち上げて、思い切り抱き締めた。
「心配したのは……お兄ちゃんの勝手です……ていうか苦しいです……」
「嬉しいの間違いだろ?」と、さっき桃音が言っていたことを、優子に代用してみる。
「あの、お兄ちゃん……周りの視線が……痛いです……」
「気持ち良いの間違いだろ?」
とは言いながらも、ぐるりと辺りを見回せば、変態でも見るかのような目で、僕のことを眺めている人が多数。
そして、「ごめんなさい……ごめんなさい……」と、片っ端から頭を下げている桃音が一人いた。
「それにしても、遅かったじゃないか、帰って来るのが」
丁寧に優子をおろしていく。
「いつもこんな感じですよ、私が帰宅するのは」
やはり今日も、優子はワンピースを着ている。
優子の肌と同じぐらい白い、あのワンピースを。
「良かったぁ……優子ちゃん心配したんだからねぇ……? もう……」
一仕事を終えた桃音は、すりすりを優子に頬を重ねる。
「あうぅ……桃音さん……恥ずかしいですよ……」
僕の時とは反応が違う。
おかしい。
「まあ、とにかく、今日はお前に会いに来たぞ」
「今日は学校でどんなことしたの?」
「そうですねぇ……お絵かきをしたり、算数をしたり、たいして面白くはないことをたくさんやりました!」
「そ、そうか。ところで僕はお前に――」
「ああ、もしかして優子ちゃん、算数苦手なんでしょう?」
「う……バレましたか。はい……苦手です……」
「おーい。ところでぼ――」
「あたしもね、数学が嫌いだからよく分かるよ、その気持ち。なんかもう意味わかんないよね。なんでこんな面倒臭いことをすんの、って感じで」
「本当ですよね、まったく」
二人だけでも会話が進行していくのであれば、僕はとやかく言う必要もあるまい。
負け惜しみでは、ない。
「あのさ、優子ちゃん」
「なんでしょうか桃音さん」
うわ、嫌な感じだな。
あえて相手の名前を示すことで、僕の存在を除外しようとしている。
「なんか、行動制限とかってあるの?」
「行動制限……? どういうことでしょうか?」
二人の仲睦まじい姿を、僕は少し離れた位置から見守る。しかも後ろ姿を、である。
「やっぱりさ、施設で暮らすってことは、なんでもかんでも自由にできるわけじゃないじゃない? だからその……帰宅したら、外出しちゃいけないのかな、って」
「そんなことはありません」と、表情を暗くした桃音を、フォローするように優子は言う。
「午後六時までは自由時間です。そのあとの外出は認められませんが、でも、ちゃんと許可を取れば、可能ではありますよ」
ようやく桃音と優子は、こちらを振り返る。
「だってさ、御手洗君」
「そういうわけです、お兄ちゃん」
僕と桃音は、優子をどこかに連れていってあげようと計画していた。
わざわざバイトを休ませてもらって、だけれど。
物欲しげな目つきで、優子は僕を見る。
何が欲しいのか、ズバリと当てるのがお兄ちゃんの役目である。
僕は、いよいよ出番を与えられた僕は、満を持して言った。
「よし、お兄ちゃんが抱っこしてあげよう」
「いいです」
「よし、お兄ちゃんがキスしてあげよう」
「い、いいです……」
「まったく……わがままな小学一年生だな……」
「お兄ちゃんこそ、我がままに、って感じですけどね。抱っことかキスとか、それって結局、お兄ちゃんが私にしたいことじゃないですか」
「さて、どうする桃音?」
優子の言葉はスルーしておき、僕は本題に戻るため桃音に話を振る。
「いや……あたしに聞くんじゃなくて、優子ちゃんに聞きなよ。何がしたいのかって」
「だってさ。優子、何をしたい? 何かを買うのでもいいぞ」
しばらく考えて、優子は言った。
「私って、お兄ちゃんと違い、あまり物欲とかないんですよね。あ、お兄ちゃんの場合は煩悩か。まあとにかく、そういうことです」
なるほど確かにその通りのようだ。
優子がいつも着ているワンピースが、まさしくそれを物語っている。物欲がないから、同じ洋服を着るということなのだろう。
「じゃあ、お前の洋服でも買いにいくか」
「話聞いてました? 私、そういう消耗品には興味ないんですけど……」
なにやら合点がいったのか、桃音はしきりに頷き、「それ、いいかもね」と、僕に同調するのであった。
「も、桃音さんまで……」
「優子ちゃん可愛いんだからさ、もっとお洋服とかに興味持った方がいいよ!」
「可愛くないですし……」
ぷいっと桃音から目を逸らし、優子は適当な場所を見つめる。
「ああ、大丈夫。センスのない御手洗君には、コーディネート任せたりしないから。だから安心して」
「そういう心配をしてるわけじゃないだろ、優子は」
「なるほど。これで心配の元を断ち切ることができました。では行きましょうか」
「ああ……そうかよ……」
桃音も優子も現実も、厳しいものなのだと理解した、十五歳の六月。盗んだバイクで走りはしないけれど、校舎の窓ガラスも割ったりしないけれど、無性にあの曲が聞きたくなった僕がいた。




