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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

水のなかの風景

作者: 糸川草一郎
掲載日:2014/03/09

 私が日の出町のそのアパートに越してきたのは五月の連休から十日ほど過ぎた頃の事であった。私は福祉の作業所に通う精神障害者であったが、どういうわけか障害年金は下りなかった。頭が悪いので詳しいことは判らない。仕方がないので生活保護を頂いて一人暮らしをする事になった。親は高齢化していたし、もう頼りにするわけにもいかなかったのである。

 私の部屋は一階の一号室であった。日の出町と言うが、私の部屋には朝日も西日も差さなかった。

 引っ越し当日、私は父と南側の大きな窓から荷物を運び入れた。初夏ののどかな昼下がりであった。一〇二号室の隣人の中年男性が網戸越しに私を睨みつけていたから、会釈したが、彼はそれに応えず、大きな音を立てて、アルミサッシの窓を閉めた。

 父が帰った後で、荷物の整理をしていたら、南のアルミサッシを蹴るような大きな音がした。私が窓を開けると一〇二号室の男だった。咄嗟に私は、

「あ、こんにちは」と言うと、

「こんにちは、じゃねえ。馬鹿野郎」

「あの何か」

「人の車、キズものにしておいて、挨拶もなしか」

「キズものになんかしていませんよ」

「荷物ぶつけたじゃねえか」

「ぶつけていませんよ」

「じゃあこれは何だ」

 私は近くに寄って見たが、そこには傷らしきものは何一つ付いていなかった。

「何も付いていませんが」

「馬鹿野郎、俺がさっき磨いただ。今度やりやがったらただじゃおかねえからな」

「……」

 それから三日ばかり経って、夕食の後、静かに読書をしていると、一〇二号室から壁を殴ったような物凄い音が聞こえた。隣人が腹を立てているのは判ったが、何に腹を立てているのかは、判らなかった。

 翌日の夜、机に向かって日記を書いていると、一〇二号室から壁を殴る音が、三度立てつづけにした。それだけでなく、隣人は南側の窓を開けて、何か吠えるような声を上げたが、何を言っているのかはまったく判らなかった。

 その晩私が蒲団に寝ていると、真っ暗な闇の中で、何者かが背中を思い切り蹴った。激痛に目覚め、明りを点けたけれど、誰もいなかった。戸締りはちゃんとしてあったし、どこかから何者かが侵入してきた形跡もなかった。しかし、私はその晩から、ほぼ毎晩のように、就寝中に背中を激しく蹴られた。何のことだか皆目意味が判らない。以来私は、夜中でも蛍光灯を点けっぱなしにして眠るようになった。

 その頃から部屋にいる時、機械の作動音のようなものを感じるようになってきた。外から部屋の中を覗かれるのも嫌だったので、カーテンを締め切ったままにしておいてあったのだが、それでもそのわずかな隙間から誰かが覗いているらしき気配がした。日中だとそれらしき影が()ぎることもちょくちょくあった。機械の作動音の事も相まって、これは何者かが私の部屋に、盗聴器および隠しカメラを仕掛けたことは間違いないように思われた。

 壁を叩かれたり、窓を開けて吠えられたりすることは、その後も毎晩のように続いた。ある朝、私が眠っていると、ドスーンと玄関に鈍器らしきものをぶつけるような、凄まじい音がした。その直後に呼び鈴がなったから、インターフォンに出ると、

「おもてへ出ろ」という声がした。

「何ですか」

「いまドタドタ歩いただろ」

「歩いていませんよ」

「いいからおもてへ出ろ」

 私の背中を一瞬冷たいものが走った。恐ろしいから、覗き穴からのぞいてみると、隣の男が、恐ろしい貌をして立っていた。手に何か持っているようだったが、おもての蒼い蛍光灯にそれがきらっと光った。それは刃渡りの長い牛刀のようであった。

 私は即座に警察に通報したが、慌てていた為、自分でも何を言っているのか判らなかったこともあってか、向こうは話半分に聞いているようであった。とは言っても聞くのが商売なのだから私の言い分は判るはずだと思った。結局、警察署の人は私の言うことをまともには受け取らなかった。私はどうしたらいいのか判らなかった。

 そんな風に怯えているうちに、どうやら私は眠ってしまったらしい。気がつくと朝の十時だった。作業所に行くことは出来ない。作業所に電話をかけたが、何をどう言えば納得してもらえるのだろう。結局理由もなおざりにこちらから電話を切ってしまった。

 その日から私は作業所に通わなくなった。それはいいのだが、かねてからの事もあり、外出の時は用心しなくてはならない。その為護身用に、ナイフを持ち歩くようになった。買物に出掛ける時など必ず持ち歩いた。

 ある時白菜が安かったので、丸のものを買ってきた。部屋に戻るとすぐに隣から物凄い音がした。瞬間私はひどい衝動に駆られて、白菜を牛刀でずたずたに切り刻んだ。白菜の破片があちこちへ飛び散った。凄まじい怒りが込みあげてきて、丸の白菜はもはや料理に使えないほどの生ごみに変わり果てていた。

 そんなある朝まだ暗い頃のことである。私は寝間に横たわったままだった。戸締りはしっかりとしたはずだったけれど、よく見ると玄関のドアが大きく開いている。どうやら私は戸締りをちゃんとしなかったらしい。手にナイフを持ったまま、外に出ると、出たすぐそこのところに一〇二号室の隣人が倒れていた。私はナイフを持ったままそこに立ちつくしていた。

 どこかから警察のサイレンが聞こえた。警察のサイレンが近くで聞こえなくなったと思っていたら、刑事がやってきて、私に手錠をかけた。

 車の中から見る風景が、雨が降っていないのにもかかわらず、水のなかの風景のように感じられた。後のことはぼんやりとしか思い出せない。

 取り調べ室で刑事に何かいろいろ聞かれたが、彼らが何を言っているのかさっぱり見当がつかなかった。応えようとも思ったが、唇がひどく重く感じた。また、頭の中に鉛が詰まっているかのように重かった。そしてようやく口をついて出たのは、

「豚」。

 自分でも何を言っているのか判らなかったが、言葉にしようとしても「豚」としか言えず、脈絡のある言葉は最後まで出て来なかった。

 裁判が行われた。検事も弁護士もただでさえ気持ちの悪くなるような唇をしていたけれど、みな一様にそれをめくりあがらせて、盛んに何かを弁じたてようとしたようだった。が、何を言っているのかさっぱりわからない。そのうち法廷内に音楽が流れ出した。ビートルズの「ヘイ・ジュード」だった。それは壮大なシンフォニーとなって場内に大音量で響きわたった。すると傍聴人も、判事も裁判員も検事も弁護士も笑い出した。何を笑っているのだろう。気づくと私も大声で笑っていた。

 はっと我に返ってみると、私は法廷にはいなかった。裁判長に退廷を命じられたらしい。どこだか判らない。法廷へ行く前にもいた四角い部屋だ。

 身の周りに四角いものが多い。と思っていたら、顔の四角い人が面会に来た。大きな顔の人で、あまりにも大きいので触ってみたくあった。何か毒にも薬にもならないことを聞いていたようだが、いつものように何を言っているのかさっぱり判らなかった。

 それから夜になり、朝が来た。そうしてまた夜になり、朝が来た。

 見知らぬ人が面会に来た。ある人は父だと言い張り、ある人は母だと主張した。母と言う人は顔をゆがめた。なまずのような醜い貌であった。そう言えば私はいつしか、両親の名前を思い出せなくなっていることに今日の今日まで気がつかなかった。

 看守か誰かが、

「おい、人殺し」と言った。が、私は人殺しなど断じてしてはいないし、それどころか捕まるような悪いこともしていない。

 ある朝食事を出された。そして食事後、部屋を出ろと言われた。その時何か言われたがよく聞こえなかった。「部屋」へ連れて行かれた。何か言われたが、空耳かもしれない。以来私はこの「部屋」に暮らしている。「部屋」はいつも閉め切られている。この患者は死ぬまで出られないと、「部屋」の外で看護師が話をしていたが、誰のことなのか。時々看護師が来て私の尻に注射してゆく。注射の後は必ず眠くなり、幾日たったか判らなくなる。朝だとばかり思っていたら、夕方だったりする。時間の経過が判らない。毎日誰かが同じ歌を歌っている。部屋の外から聞こえてくる。ハミングで、聞いたことのある歌だ。童謡だ。が、歌の歌詞はもう思い浮かばない。題も思い出せない。本を読んでも新聞を見ても、一、二行読んだだけでたちまち飽きてしまう。立っているのはつらいから、坐るようになった。今は坐っているのも疲れるから、横になっている。陰茎の朝立ちはなくなった。寝小便をするようになった。いまは紙おむつをして暮らしている。腹が減って仕方がない。ぼうっとしていると、声がして頭から砂糖をかぶれと言う。TVを見ていても、何をやっているのかまったくわからない。三度の食事だけが毎日の楽しみだが、この病院は患者に食事をさせない。飯を食わせろと暴れたら、さっき食べたばかりでしょうと、また尻に注射を打たれた。眠い。いくら寝ても眠いことに変わりはない。

 腹にごつごつしたかたまりがあってひどく痛い。痛くてのたうちまわっていると、背中に管を付けられた。腕や脚がだるくてしかたがない。身体が黄色くなってきた。目が醒めてしばらくするとまた痛くなる。身体が痩せて腕や脚が棒きれのようだ。腹が大きくなってきた。

 ここんとこ明けても暮れても眠ってばかりいる。医師に名前を訊かれた。何だったか。確か覚えていたんだが。ちょっと度忘れしました。

 痛みが治まると蕩けるように眠い。

 アイスクリームが食べたい。無性に食べたい。

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