1章 彼岸邸と妖人
矢崎十紀は途方に暮れていた。
北海道は札幌市中央区、円山。街の西側に同名の山があり、市民には行楽の場として知られている。
十紀がいるのは山のほう。しかも登山客でも来ないような山奥。さして標高もない円山に、こんな樹海のような場所が存在しているなんて、誰も思わないだろう。
大の字に寝そべり、背の高い針葉樹の間から空を見上げる。髪の色と同じ灰色の雲に覆われていた。これじゃ太陽の位置もわからない。
――あー、うん。あれだ。完全に迷ったわ。
死んだ目で流れる雲を追いかけながら、十紀は自分の置かれた状況を結論付けた。
入り慣れた山で迷子とはなんたる不覚。
――“あの人”が聞いたら「鍛錬が足りんな!」って言うんだろうなぁ。
ため息は白く曇り、冷たい空気に消えていった。四月の山はまだ寒い。十紀も山に入るつもりはなかった。ただ、体力を持て余した“あの人”に気まぐれに追いかけられ、追い立てられるように山に逃げた。
――ん? よく考えたら俺、何も悪くなくない?
こんな寒い中山に入ったのも、迷っているのも、足がもつれて転んだのも、追いかけられたせいじゃなかろうか。
いや、そんなことは置いといて。
現実逃避も程々に、十紀は立ち上がった。
確かに現在地も全く分からないが、なにも帰るのを諦めたわけじゃない。諦めの悪さには自信がある。そういう風に鍛えられてきた。
少しぬかるんでいる地面を歩く。土や枯葉で茶色く汚れた雪の塊がちらほらある。あと一週間もすれば全部溶けて、もう少し暖かくなるだろう。やっぱり山に入るのはもう少し後にすればよかった。
寝そべっている間にうつらうつらとしていたから、どのくらい経ったかわからない。なにか夢を見ていた気がする。
ふと思考に気を取られていると、いつの間にか拓けた場所に出ていた。そこだけぽっかりと穴が空いていて、真ん中に低い木がぽつんと立っている。こんな特徴的な場所、一度通れば覚えているはずだ。この山で知らない場所があるとは知らなかった。
――何の木だろう?
昔から山に入っては“あの人”に色んなことを教わった。でも、この木が何の木かわからない。針葉樹や白樺ではないことは確かだ。しばらく木を眺めたり木の幹を触って唸っていたが、結局分からなかった。今度教えてもらおう。
十紀は先に進もうと再び林に向かう。
奥の茂みがガサッと音を立てて揺れた。野生動物か。まあいるよな、ここ山だし。なんて思いながら林に足を踏み入れる。
「……っ」
すぐに後悔した。
エゾリスやキタキツネだったらいいな、なんて思っていた自分を殴りたい。これは。この気配は、そんな可愛らしいものじゃない。
北海道に生息する野生動物のなかで、一番出会いたくない獣。街が近く標高の低いこの山にも例外なく存在する。イラストやぬいぐるみでは可愛くなっていることがあるけど、あれのどこをどう見たら可愛く見えるのか。猛獣に親近感なんて持たせるものじゃない。
茂みから現れた獣を見て、十紀は自分の体質を呪った。
十紀は自他ともに認める不運体質だった。幼少期からしょっちゅう怪我をしていたし、おみくじは吉以上を引いたことがない。街を歩けば交通事故に巻き込まれかけ、店に入れば強盗に人質にされるのも慣れていた。一年に数回大きな事件に巻き込まれたりするが、今まで無事生還している。生への執着が人一倍強いからかもしれない。
これを大きな事件にカウントするのであれば……いや、自分一人だけ犠牲なだけまだましか。
だからといって「ま、いっか」とはならないけれど。
目の前の巨大な毛むくじゃらは、幸いなことにまだ十紀に気づいていないようだった。十紀は音を立てないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと後退した。
あの背の低い木の辺りまで戻ったところだった。ちょうどぬかるんでいたらしい。
「あっ」
十紀は小さな声をあげて転んだ。
――うん、我ながらいい受け身が取れた。
いや、そうじゃない。十紀は慌てて上体を起こし、林のほうを見た。
獣と、ヒグマと目が合った。
十紀は視線をそらさない。そらしたら、襲われる。
ヒグマは本来、簡単に人間を襲わない。聞いたことがないだろうか。熊と遭遇した場合、視線を合わせ、ゆっくり後退する。敵意がないと相手に示すためだ。だが人間の味を一度覚えてしまった熊はそうもいかない。人間が自分より弱く、食べられるものだと知ってしまった熊は、容赦なく人間を襲う。
ヒグマは十紀のことを視認した瞬間、表情を変えた。
どうやら後者だったらしい。
目を爛々と血走らせ、開いた口からは低い唸り声とよだれを出している。いつ襲い掛かろうかと十紀の様子を窺う。
指一本すら動かせない。わずかでも物音を立てれば、襲い掛かってくる。
もしかしたら我に返り、大人しく去ってくれるかもしれない。
その可能性はある。襲う隙が無く、それなら別の食糧を探したほうが早いと、正常な判断が出来ればの話だが。
十紀が我慢比べを決意した時だった。
「カァッ、カァッ!」
「へっ?」
見上げると、頭上の枝にカラスが止まっていた。なんだ、カラスかぁ……。
――やっべ、目ぇ逸らした!
はっと視線を戻すも、すでに遅い。
ヒグマは咆哮と共に突進してきた。前足を振り上げ、こちらに飛び掛かる。
「あーもうっ」
木のほうに転がり、振り下ろされる寸前で回避する。
一発で仕留められなかったヒグマは更に興奮し、地面に前足を数度叩きつけた。再び狙いを定める。
十紀は頬についた泥を拭い、ヒグマをじっと見た。
本来、十紀は襲われても仕方がない立場だ。なにせ十紀は人間で、山は人間がいていい場所ではないのだから。所有権やら境目やら、人間が決めたことを野生動物に求めるほうがどうかしている。それならば人を襲う可能性のある野生動物は閉じ込めるか一匹残らず駆除してしまえばいい。
――いいか、十紀。山では常識は通じない。何が起きても自業自得だ。何が起きても自分で対処できる術を身に着けろ。そしてちゃんと覚悟をしておけ。
命を落とす、覚悟を。
あの人は生死に関わることに厳しい。自分の身は自分で守れ。助けに来てくれる可能性にかけるな。
だから、十紀に生きる術を教えてくれた。
十紀はゆっくりと態勢を低くした。腹にぐっと力を籠める。そして、強い眼光でヒグマを見据えた。
「グルルルル……グオォウッ!」
先に動いたのはヒグマだった。後ろ足で立ち、大きな咆哮を上げると、さっきよりも素早い動きで突進してきた。十紀はさっきと同じように、鋭い爪が振り下ろされる寸前で躱す。
それを何度か繰り返すと、ヒグマの動きが鈍くなってきた。足がもつれ、息遣いがさらに荒くなっている。
やけになればなるほど、攻撃は単調になっていく。しかし、その分規則性がなくなってきて読みにくい。
「っ!」
右腕、左腕ときて、もう一回右腕を振り回してくるのは読めなかった。なんとか避けたが、バランスを崩す。
「しまっ……!」
ヒグマは好機だと言わんばかりに歯をむき出しにして突進してきた。
――避けられない!
十紀はとっさに両腕で頭を庇った。
「…………ん?」
しかしいくら待っても衝撃や痛みが来ない。
瞑っていた目を開け、恐る恐る腕の隙間から様子を窺う。
「え?」
目を疑った。
さっきまで興奮し殺気立っていたヒグマが、怯えたように背を向けて森の中に走り去ってしまったのだ。瞬きを繰り返し、腕で何度も目をこする。見間違いではないようだ。
本当に突然で十紀は困惑した。何が起こったのか、さっぱりわからない。
「こんなところにいたのか、探したぞ!」
上から声を掛けられ、十紀ははっと顔を上げる。
名前のわからない木の枝に、人が立っていた。その人物は跳ねて、十紀の前に着地した。
二メートル近い高さから見下ろす、金の瞳。紺の作務衣を纏う体はがっしりとしていて。身長に見合った体つきだ。それに、一番目を引くのは真っ白な髪。ぼさぼさで長いそれを、高いところで括っている。
十紀がよく知る男だった。
「来一さん」
来一はニッと歯を見せて笑うと、大きな手で十紀の頭を乱雑にかき混ぜた。いつの間にかフードは取れてしまっていた。
「こんなところまで来ていたのか」
「すみません、迷って……」
「そうかそうか。見つかって何よりだ」
来一は迷ったことを咎めることはしなかった。さっぱりしていて、大抵の事は気にしない質なのだ。
「円山にこんな場所あったんですね。初めて来ました」
十紀は改めて辺りを見回す。こんなぽっかり拓けた場所、どうして今まで通らなかったんだろう。
「来一さんはこの場所知ってました?」
「いや、私も初めてだ」
意外だ。この人のことだから、山のすべてを把握しているものだと思っていた。
「この木。何の木かわかります?」
来一がさっきまで登っていた背の低い木を指さす。来一は木に近寄り、幹に触ったり見上げたりした。そしてこちらを見て、はっきりと言った。
「わからんな!」
「え、わからないんですか?」
来一は「あぁ、わからん」と改めて言い、木を見上げた。
「桜かと思ったが、樹皮が滑らかだ。匂いも特徴がない。幹が太いから老樹のようにも見えるが枝は若々しい」
そう。桜だ。この木は桜の木によく似ている。
「舞千も心配している。早く帰ろう」
「はい。え、わっ」
急に視線が高くなる。来一の肩に担がれたのだと気付いた時には、景色がすごい速さで流れていた。名前の知らない木があっという間に小さくなっていく。
「闘神宮までひとっ飛びだ。舌、噛むなよ」
舌? なんでそんなことを。そう思ってた矢先、来一が地面を強く踏み込んだのがわかった。飛ぶってまさか。
「ちょっ、まっ――」
浮遊感とともに景色が下に流れた。背の高い針葉樹も飛び越え、空中に躍り出る。いつのまにか霧雨は止んでいて、澄んだ青空が広がっていた。
相変わらず人間離れした身体能力だ。
それもそのはず。そもそも来一は人間ではない。
いくつかの木を経由し、降り立ったのは見慣れた境内だった。質素な社と参道の脇に手水舎があるだけで、敷地もそんなに広くない。参拝客はほぼ来ないし、来ても皆顔見知りだ。
ここは闘神宮。名の通り闘いの神を祀る神社。
その社の主である闘神が来一だ。
「そうだ、十紀。もうすぐ連休だろう? 予定はあるのか?」
「え? えーっと、初日に出かける予定ですけど」
突然聞かれ、十紀はおずおずと答える。来週からゴールデンウィークで四連休なのだ。
「そうか。ならばそれ以外は空いているのだな」
「えぇ、まぁ……」
十紀は嫌な予感を感じながら頷いた。
「よし、では花見をしよう!」
「……へっ?」
十紀は間抜けな声を上げた。てっきり四日間山籠もりとか、鬼のような鍛錬を組まれるかと思って身構えていたのだが。杞憂だったようだ。
というか、来一が花見なんて情緒のある事柄に興味があるとは。
「お前、今失礼なことを考えただろう」
「……ソンナコトアリマセン」
まさか心を読んだのだろうか。いや、神だからやろうと思えばできるのかもしれないが、来一は神通力の類には明るくなかったはずだ。野生の勘と言うのだろうか、たまに妙に鋭い。
「いいですね。花見。俺、花見したことないんです」
「決まりだな」
その言葉を合図に、揃って社の裏へと歩き出す。ただ草木が生い茂っているようにしか見えないが、細い道が隠されている。
木々に囲まれているというのに妙に綺麗な石畳と敷き詰められた砂利。脇にある腰丈の小さな灯篭がほんのりと足元を照らす。
道を抜けた先に広がるのは、一年中狂い咲く赤の彼岸花畑。奥には対照的な白い洋館がひっそりと佇んでいる。絵の中のような景色は、いつ見ても幻想的だ。
知るものは、その場所を彼岸邸と呼んでいる。
彼岸邸は明治時代に建てられた洋風旅館を元にしているため、やたらと広い。二階建てだが吹き抜けで、両開きの玄関をくぐれば、豪華客船にあるような大階段が玄関ホールを占領している。階段は踊り場から二手に分かれ、向かって右の東館、左の西館二階に続いている。一階は住人の共用スペース、二階は東館が個室、西館が客室になっている。家具や調度品はアンティーク調のもので揃えられていて、まるで当時のままとさえ錯覚する。
東館一階にある共用リビングも元は大広間として使われていた部屋らしく、無駄に広い。窓際の角に小上がりの和室があるのは、擬洋風建築ゆえの造りなのだろうか。
壁掛けのテレビでは夕方の情報番組をやっている。最近札幌で起こっている奇妙な連続殺人事件についての特集で、アナウンサーやコメンテーターが神妙な顔でコメントをしていた。
「本当、大きな怪我がなくてよかったわ。十紀くん、泥だらけで帰ってくるんですもの」
「いやぁ、はは……」
三人掛けのソファでぼんやりとテレビを見ていると、芳ばしい匂いと共に、着物姿の女性が茶菓子と湯飲みを持ってやってきた。黒い艶髪におっとりとした印象を受ける垂れ目。藤色の無地と生成色の帯にしゃんとした佇まいは、大和撫子という表現がよく似合う。
舞千は人間でありながら来一の妻だ。前世で死に別れたが今世で再会したという、ラノベや漫画のヒロインのような経歴の持ち主でもある。
「ヒグマに襲われてかすり傷だけなんて、十紀も人間離れしてきたよねぇ」
隣に座っている中性的な顔立ちをした黒髪の女性が、テーブルの中央に置かれた盆から湯飲みを手に取りながらくすりと笑った。住人の沢木宗だ。
沢木は大学病院に勤めている医師だ。いつも白衣と薬品の匂いを纏っているが、病院勤めだからというだけではない。悪い人では無いのだが、十紀はちょっと苦手だ。
「いやいや、来一さんが来てくれなかったら腕の肉持ってかれてましたよ」
十紀も湯飲みを自分の近くに引き寄せ、へらりと笑った。湯飲みに入っていたのは番茶だった。沢木は「ふぅん」と気のない相槌をしながら、後ろの小上がりをちらりと見遣った。
「で、なんでその命の恩人がこっちの様子を窺ってるのかな?」
「あー、それは……」
ボサボサの白い髪がさっきから襖の隙間をちらちらと出たり入ったりしているのを、十紀も気づいていた。
十紀は正面に座る舞千をちらりと見た。舞千はきれいな所作で茶を飲み、音もなく湯飲みを置いた。
「気にしなくていいのよ、宗ちゃん」
舞千の言葉に白髪がビクッと震え、そろそろと和室の中に戻っていった。
冬眠明けの野生動物が多くいる山奥に十紀を放り込んだ来一は、しっかりと舞千に叱られた。帰ってきて第一声が「花見をしよう!」だったのがさらに舞千の怒りを買ってしまった。
帰ってきてからずっとそこに籠っている。普段豪快で人の話を聞かないが、舞千には弱いのだ。
沢木は「あ、そう」とそれ以上聞くことはしなかった。
「お、十紀。戻ってたのか」
玄関ホールに繋がる扉から見知った人物が入ってきた。
十紀に声をかけてきた俳優かモデルのような容姿の若い男性は、高校教師で十紀のクラスの担任の宵山知里だ。
「その様子じゃ、また闘神の旦那に連れ回されたんだな」
苦笑いを浮かべる知里の推測は正しく、返す言葉がない。
「なんだお前、また怪我か」
知里の後ろからひょっこり顔を出したのは、知里の義弟で同級生の宵山美知だった。明るい茶の癖毛と瞳。西洋人形の展覧会で並べられていてもまったく違和感のない容姿は、いつも通り無表情だったが、十紀には呆れているように見えた。
「相変わらずだなぁ、お前は」
「柏木さん」
最後に入ってきたがっしりとした体格のワイシャツ姿の男は、「おう」気さくに手を挙げた。
柏木は北海道警察本部に勤める刑事だ。未解決事件の捜査記録や情報などを管理・取り扱う部署の係長だ。それだけ聞けばまるでドラマのようで格好良いが、実際はただの窓際部署らしい。
「……って闘神の旦那がいないな。いないのか?」
あ、やばい。十紀は心の中で柏木に合掌した。事情を知らない知里でさえ察したのか苦笑いを浮かべ、美知は興味なさそうにあくびをした。
「あら」
舞千がにこりと笑みを浮かべながら口を開いた。
「冬ごもり明けの野生動物がいる山の中に、子供を放り込む男なんて知らないわねぇ」
空気が凍った。能天気な沢木だけが「あぁ、そういうこと」と納得したように呟いた。
柏木はしまったと顔を青くして十紀を見た。十紀は咄嗟に目を逸らした。その先には美知がいて、美知もふいっと目をそらし知里のほうを見た。
三人の視線が集まった知里は肩を竦め、「柏木、本題に入ってくれ」と助け船を出した。
柏木が神妙な顔で取り出したのは数枚の写真だった。
「これは……」
写真に写っていたのは、女性と子供の遺体。どれも損傷が激しく、子供のほうは性別さえ一目では分からない。
「札幌で起きてる連続殺人事件の被害者だ。お前らも聞いたことくらいはあるだろ」
聞いたことがあるもなにも、札幌市民で知らない人はいないんじゃないだろうか。連日のニュースや情報番組で必ずと言っていいほど取り上げられている。
親子の惨殺死体が発見されるという奇妙な事件。一度ならまだしも今週三組目の被害者が新たに発見された。
「この事件、妖人の犯行とみて間違いない」
――妖。
人間には理解できない現象、事象や恐怖の対象として、姿かたちが語り継がれ、生まれた存在。
彼らは人間に与えられた役割を担い、時に大きな事件を起こし人々の暮らしに刺激を与えた。
しかし明治の半ば頃、化学や技術、西洋文化が取り入れられると、妖は人間に存在を否定された。力なきものは次々と姿を消し、妖たちは抵抗を始めた。役割以上に人間に干渉したことを閻魔が「現世は人間が統べるもの」とし、妖の干渉を禁じた。妖は現世から姿を消し、人間に転生した。
妖人とは、妖の時の記憶と力を持つ彼らのことだ。最も妖人の存在を普通の人間は知らない。
「確かに妙な事件だとは思っていたが、なぜ妖人の仕業だと?」
「わっ」
背後から声がして、十紀は振り返った。
いじけていた来一が後ろに立っていた。いつの間に出てきたんだろう。
「おぉ、旦那。被害者の体に妖力が残ってたんだ」
柏木が来一の姿に驚きながら答えた。妖人は妖力を使って妖術などの摩訶不思議な術を使う。おそらく妖人の犯行で間違いないだろう。
「その一件、私たちが引き受けよう! 妖人が関わることならば、私たちの役目だからな!」
来一がパンッ! と手を叩くと、場の空気が一気に引き締まった。
□
人間に転生したからと言って、妖人が人間を許したわけではない。むしろ人間の肉体を
得たのをいいことに、より大胆に、活発に事件を起こすようになった。理由は様々だが、多くは妖の存在を否定した人間への復讐が目的だ。
地獄からしてみれば、そもそも記憶と力を持って転生したことが誤算だった。加えて地獄も現世――特に生きている人間に干渉することはご法度とされているので、現世に社がある神の手を借りるほかなかった。しかし現世の神らも、妖力を抑える結界を社がある地域周辺に張るような間接的な協力は承諾したものの、妖人と直接関わることを渋った。
そこで手を挙げたのが来一だった。来一は八百万の神の力が比較的弱い北海道に妖人が多く転生していることを逆手に北海道に社を構え、妖人の統轄を行うことを地獄に提案した。協力する条件として、亡くなった舞千と再び縁を結ぶことと、住居として隠世を作ることを提示し、地獄はそれを承諾した。それが彼岸邸だ。
彼岸邸には舞千を初めとして、来一に協力している者たちが暮らしている。
十紀が彼岸邸に住み始めたのは十年前。
住んでいた施設が妖人に襲われ、十紀だけが生き残った。
討伐に来た来一と舞千に救助され、そのまま引き取られた。
犯人は、まだ見つかっていない。
『札幌連続猟奇殺人事件 ―親子を喰らう鬼の真相とは―』
そのネット記事を見つけたのは、帰宅ラッシュで人も車も多い交差点で信号待ちをしていたときだった。
記事の内容はざっくりとこうだ。
『平安時代、妾の女が子供を産むなり貴族の家を追い出された。女は子供を奪われた悲しみと憎しみのあまり鬼女となり、夜な夜な親子を襲うようになったという。札幌の猟奇事件は、この鬼女の呪いではないか』
書き込みにはさらなる考察や真に受ける者を馬鹿にする書き込み、記事自体を否定する書き込みなどで盛り上がっていた。SNSで『札幌連続猟奇事件 鬼』と検索すると、同じような書き込みが多数あった。
最近のネットでもっぱら話題なのだ。
被害者は親子。発見場所は咲き始めの桜の木の下。
そんな奇妙な規則性が人の好奇心と恐怖心を湧きあがらせているのだ。
「鬼女、か」
スマホに目を落としたまま、十紀は小さく呟いた。
「おかーさん! はやくはやくぅ」
はっと顔を上げると信号は青に変わっていた。カンカン帽をかぶった四、五歳くらいの少年が目の前から走ってきた。
「ゆうま、走らないで」
少年の少し後ろからお腹が大きい女性が向かってくる。母親だろう。少年は母親に構ってもらえて嬉しいのか、ケラケラ笑いながら人の合間を縫っていく。
これからどこかに遊びに行くのだろうか。楽しみで早く行きたいのだろう。
親子とすれ違う。
その時、強い風が吹いた。春特有の埃っぽい空気に顔を背ける。
――ざわっ。
背中に悪寒が走り、十紀ははっと顔を上げた。
視線の先に見えた光景に、十紀は目を奪われた。
「ゆうまっ!!」
次に気づいたのは少年の母親だった。母親の絶叫に、道行く人が振り返る。
風で宙を舞ったカンカン帽。少年がそれを追いかけていた。しかし自分の名を呼ぶ母親の声の剣幕に、少年はきょとんとした顔で振り返り立ち止まった。
交差点の真ん中で。
考える前に体が動いていた。
十紀は走り出し、少年を抱えるとそのまま転がった。
クラクションがけたたましく鳴ったが、車はすごい速さで流れていく。
「ぐぇっ」
街灯に背中を強打し、十紀は潰れたカエルのような声でうめいた。
交差点は騒然とし、なんだなんだと行く人がうずくまる十紀を見る。
痛みをこらえ体を起こすと、腕の中にいた少年がひょこっと顔を出した。きょとんとした顔で十紀を見上げる。
「大丈夫か? 痛いところとかないか?」
突然のことで驚いただろう。これは泣いても仕方がない。
ところが少年は大声で泣き出すどころか、みるみる顔を輝かせた。
「おにいちゃん、ヒーローみたい!」
「……へっ?」
十紀は間抜け面で固まった。少年は構わず続ける。
「ヒーローはね、強くてみんなを守る“せいぎのみかた”なんだよ! おにいちゃんも“せいぎのみかた”なの?」
少年の無邪気な言葉に十紀はきょとんとしていたが、その元気な様子にふっと表情を緩めた。
「それだけ元気なら大丈夫そうだな。――っと」
十紀は周りを見回した。すると少年の母親が高校生たちに付き添われながらこちらを見ていた。少年もそれに気づいて「おかーさーん」と笑って手を振った。母親は安心したのかその場にへたりこんでしまった。周りにいた通行人が母親に手を貸す。
「よし、母さんのところに行くか」
汚れをはらった帽子をかぶせ、十紀は少年を抱えて立ち上がった。
母親の元に着くと、母親は何度も十紀に礼を言った。十紀は「いえいえ」とへらへらした照れ笑いを返した。
「ヒーローのおにいちゃん、ばいばい!」
「あぁ。もう母さんのこと、置いてくなよ」
何度も何度も振り返って手を振る少年に手を振り返してやる。親子の後姿が見えなくなる。交差点は騒然としていた空気はとうに雑踏にかき消され、喧騒だけが残っていた。
「もしもし。……了解です。すぐ向かいます」
十紀はスマートフォンをしまうと、雑踏に消えた。
□
深夜。とある総合公園。
園内はとても静かだった。
園内の奥にある桜並木。街灯に照らされた向かいの桜。
その根元に女がしゃがみ込んでいた。
黒く影のようにぼんやりとした輪郭。枝のように輪郭は細く、眼窩は落ち窪んでいる。
女はその細い腕で何かを弄っていた。
「チ、ガウ。チガウ、コノ子ジャナイ。ワタ、ワタシノ子ジャ、ナ、ァ、ア、あァ、あ」
鬼女は壊れたCDのように同じ言葉を繰り返し、自分の頭を掻き毟った。
「カエシテ、カエシテ、ワタシノ子……何処二、何処ニヤッタ!」
鬼女は劈くような高い声で絶叫し、腕を振り回した。八つ当たりのように弄っていた何かを殴りつけると、赤い液体がびしゃりと周囲の地面や木の幹に飛び散る。
女はしばらく暴れていたが、やがて大人しくなった。
「これで……これで私も……」
女はぶつぶつと呟きながら桜の木の根元を見つめている。目は恍惚としていて、とても普通には見えない。
「お前が鬼女の妖人か」
「っ!」
女はその声に振り返った。
闇に溶け込むためのような真っ黒なウィンドブレーカー。少年にしては体格がいいが、成人男性にしては少し細い。顔を隠している黒い顔布には「阿」という銀の刺繍。手には黒い柄の薙刀を携えている。
「お、お前は、まさか闘神の!」
女はかっと目を見開き、動揺したように叫んだ。
その口元は真っ赤に濡れている。
「お前は己の持つ妖力を使い、人間を殺害した。闘神の名の下に、討伐させてもらう」
その人物は静かにそう告げると、薙刀を構えた。
女はわずかに後ずさったが、はっとしたように拳を握り、その人物を睨みつける。
「ここでやられてなるものか! 私は、私は……!」
女が血だまりを踏んだのと、刃が女の首を刎ねたのはほぼ同時だった。
首から噴き出した血が飛んできて、顔布が捲れて頬につく。手の甲で頬を拭い、顔布をずらす。
「ふぅ……」
顔布の奥から現れたのは十紀だった。
十紀は手の甲にべっとりついた血を見て小さく息を吐いた。返り血が付かないよう長物を持ってきたのに、これじゃ意味がない。薙刀は得物だし、対象はほぼ動かなかった。血が噴き出さないように切ったはずだが、稽古通りにはいかない。
「今日の反省点だな」
独り言を呟き、薙刀を数度振るって刃の血を払う。
女の死体や血が白銀の靄に包まれ、消えた。
十紀はそれを見届け、その場を後にしようと踵を返そうとした。
そこではたと足を止める。
根元に倒れているのは原型の留めていない二人の死体。一人は恐らく女性で、損傷が激しい。腹を裂かれてまるで食い荒らされたかのようにぽっかりと空いている。
しかし十紀が目に付いたのは、女性の手を握ったまま死んでいる子供。女性ほど損傷は激しくないが、顔はもう判別できない。その代わり、すぐ横に血で汚れたカンカン帽が転がっていた。
しゃがみこんでよく見ると、裏に名前が書いてあった。
××× ゆうま。
「……」
苗字は血で汚れていて見えなかった。それでも、この子供が誰なのかわかってしまった。
「置いていくなって、そういう意味じゃなかったんだけどな」
十紀はぼそりと呟いた。
「手、離さなくて偉いな」
母親の手をしっかりと握りしめる小さな手。その手が握り返されることはもうない。
四月下旬、桜の開花と共に始まった連続猟奇殺人事件。被害者は母子で、今日含めて計五組。遺体はまるで獣が食い荒らしたように引き裂かれた状態で発見された。猟奇的な被害が報道され、様々な憶測が飛び交った。
犯人は人間か、それとも人間以外か。
どちらも正解で、どちらも間違いだ。妖人は人間の器に化物の魂が入った存在なのだから。
「終わりました。……はい、戻ります」
連絡をして、十紀は立ち去った。




