第2話 ワンダーランド
ネオ・トーキョーの最下層、第13セクター。
酸性雨に煙るスラムの路地裏に、明滅するネオンサインがあった。
『Junk Shop WONDERLAND』
錆びついたドアが開くと、カウベルが乾いた音を立てた。
店の中は、埃っぽい機械油と、薬品のような鋭い臭いが混じり合っている。
天井まで積み上げられたジャンクパーツの山。
その隙間で、一人の男が作業台に向かっていた。
「……遅かったな」
マッド・ハッターは、拡大鏡を覗き込んだまま言った。
一見するとただの老いた修理屋だが、彼が扱っているのは違法なバイオウェアの培養槽だ。
「タスク完了。報酬は指定口座へ」
ラビットは感情のない声で報告し、濡れた黒いパーカーを脱いだ。
露わになったのは、タンクトップとショートパンツに包まれた、華奢な少女の肉体だ。傷一つない、白くなめらかな肌。だが、その肌の下では異常が起きていた。
彼女の白い腕や首筋を蜘蛛の巣のように巡る虹色のバイオサーキットが、脈打つように激しく明滅していたのだ。
「チッ……」
彼女を一瞥したマッドが舌打ちをし、回転椅子から立ち上がった。
「バイオ値がレッドゾーンだ。この前もジャイルの使いすぎだと言ったはずだぞ。お前の神経回路が焼き切れたら、代わりのパーツ手に入れるの厄介なんだからな」
「敵の出力が想定より高かった。初期化に脳のリソースを割いた」
「言い訳はいらん。服脱いで、横になれ」
マッドが顎で、部屋の隅にある医療用ベッドをしゃくった。
ラビットは無言のまま、無造作に服を脱ぎ、横たわった。
ベッドの枠、上下左右が一段階上がり、冷却ミストがラビットを覆う。
マッドは冷蔵庫から怪しげな蛍光色の液体が入った注射器を取り出した。
そして、ラビットの首筋にある目立たない接続ジャックに、細いケーブルを繋いだ。
「同期開始。……おい、脳内温度が異常に高い。ナノマシンが暴走しかけてやがる。死にたいのか?」
目の前に表示されたモニターを見ながらマッドは苛ついた様子で話しかけた。
「……思考にノイズが走る。頭が割れそう」
ラビットが眉ひとつ動かさずに呟く。
普通の人間なら発狂して死ぬレベルの激痛のはずだが、彼女はそれを単なる「エラー情報」としてしか認識していない。
「まったく、手のかかるポンコツだ」
マッドは乱暴にラビットの腕を掴むと、注射器の針を静脈に突き刺した。
ドクンッ。
強制エラー抑制剤と鎮静剤が血管を駆け巡り、ラビットの小さな体がビクリと跳ねる。
肌の下で暴れていた赤い回路の光が、徐々に落ち着きを取り戻していく。
「感謝しろ。このカクテル一本で、スラムのメスガキを十人は買える値段だぞ」
「……うん、ありがとう」
そこには「家族」の情愛など欠片もない。
あるのは「マッドサイエンティストと貴重な実験サンプル」、あるいは「所有者と高価な道具」の関係だけだ。
マッドはモニターに流れる複雑なバイタルコードを見ながら、ため息をついた。
「メンテナンス完了まで絶対安静だ。下手に動けば、お前の自我がクラッシュするぞ」
「次のオーダーは?」
「まだだ。少し黙ってろ。俺が忙しい」
「奉仕は?」
「今日はいい、寝とけ」
マッドは興味を失ったように背を向け、部屋を出て、再び怪しげな研究に戻った。
ラビットはベッドに横たわったまま、ぼんやりと天井のシミを見つめる。
彼女の瞳の奥では先ほどの戦闘ログが高速で再生され、次の戦闘への最適化が自動的に行われている。
それ以外の「時間の潰し方」を、彼女は知らない。
その時。 店のドアベルが、再び鳴った。
カラン、コロン。
こんな深夜に一般客が来るはずがない。
マッドの手が止まり、作業台の下のレーザーガンへ伸びる。
ベッドの上のラビットの瞳が瞬時にピンク色に発光し、戦闘用UIが浮かび上がった。
「……今日は閉店だぞ、帰んな」
マッドのささくれた声が店内に響く。
「……久々に来たというのにご挨拶だな」
入ってきたのは、雨に濡れていない白いスーツの男。
男は店内を目線だけで見渡し、奥の部屋、扉の向こう、ベッドの上のラビットの足が見えると視線を止め、薄く笑った。
「……来るんなら、裏から来い。立場分かってんのか?」
ギラリとした眼光が、白いスーツの男――コードネーム、ホワイト・タイガーを射抜く。
「このスラムの連中は誰のことも見てねぇよ、こんな目立つ恰好しててもな」
タイガーの言葉をフンッと鼻で一蹴し、マッドは睨んだ。
「……で、今日は何の用だ。ラビットなら当分動かせねぇぞ」
「ラビットに用はない。用事があるのはマッド……アンタだよ」
その言葉にマッドはタイガーを強く睨みつけた。




