表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴァラアニカ戦記  作者: 桐乃
8/18

8、紅の凱旋

 

 朝靄がまだ街の上に残るころ、帝都の鐘が鳴り渡った。今日は、長く続いた戦の終焉を告げる凱旋の日だった。


 夜毎、ユーフェインの宮殿から灯が落ちるのは遅い。

 誰も詳しいことは知らない。

 だが——第二皇子が「異国の皇女」と同じ部屋で夜を過ごしているという噂は、すでに城の隅々にまで広がっていた。


 ――敗戦国の皇女が、殿下の寝所に通っている。

 ――夜更けまで灯りが消えぬのは、そのせいだ。


 噂は形を変え、毒を帯びながら静かに広がっていく。

 それでもアイリスは何も言わなかった。

 言葉よりも、今は呼吸の仕方を選ぶような慎重さが必要だった。


 侍女たちが裾を整え、金糸の入った帝国の衣を彼女の肩に掛ける。

 淡い灰青の衣は、皇国の紋とは対照的に冷ややかで、まるで光を拒むかのように重かった。

 鏡に映る自分を見ても、もはや誰の国の者なのか分からない。


 扉が叩かれ、低い声が告げる。


「殿下がお呼びです」


 心臓がひとつ、静かに跳ねた。

 アイリスは衣の裾を掴み、息を整えて立ち上がる。


 呼ばれたユーフェインの執務室には、彼と——その背後に立つ一人の青年がいた。


「……ナナキ」


 思わず声が零れた。

 かつて皇国軍で彼女を護った近衛、ナナキ=ルべリア。

 その瞳は変わらぬ真っ直ぐさを保ちながらも、纏う空気はもう違っていた。

 帝国の黒衣をまとい、胸元にはユーフェイン直属の紋章が輝いている。


「本日より、再び護衛の任務に就くこととなりました」


 その声は静かだったが、確かな温度があった。

 帝国に忠誠を誓ったと聞かされても、その瞳には裏切りの影はない。

 ただ、彼女を見守る決意だけが宿っていた。


 ユーフェインが横目で二人を見やり、薄く口角を上げる。


「ナナキは私の直属として仕えることを選んだ。——お前を守るためにな」


 アイリスの胸に、冷たいものが流れる。

 だがその言葉の奥に、ほんの僅かな優しさが滲んでいるのを感じた。

 ナナキは静かに頭を垂れ、その声に重ねる。


「命を賭してお守りします。それが、私の選んだ忠誠です」


 その一言に、アイリスは目を伏せる。

 守るための服従——皇国への忠誠を捨て、帝国へ忠誠を誓う。

 それがどれほど残酷な選択かを、彼女は知っていた。


 ユーフェインが歩み寄り、アイリスの手を取る。

 人前では決して見せぬ距離の近さだった。

 ためらいもなく、その唇が触れる。


 周囲に息を呑む音。

 侍女たちが顔を見合わせ、兵たちの視線が揺れる。

 それは、愛ではなく支配の証明だった。


 唇を離したユーフェインが、淡々と告げる。


「これで誰も、お前を客人だとは思わぬだろう」


 頬に微かな熱が残る。

 だが胸の奥では、鋭い痛みが燃えていた。

 この凱旋の日に、彼女は完全に帝国の妃として晒されたのだ。


「殿下」


 きっぱりとした声が割って入る。

 背の高い老女——ハサキが歩み寄ってきた。

 ユーフェインの乳母にして、宮廷で最も口を挟むことを許される女。

 彼女は眉ひとつ動かさず、二人の間に手を差し入れると、あっさりと引き離した。


「お化粧が崩れます。殿下もお控えくださいませ。凱旋は民の目に映るものです」


 その声音は冷たくも絶対だった。

 ユーフェインは一瞬だけ目を細めたが、何も言わずに手を離す。

 ハサキはため息をつき、アイリスを鏡台へ導いた。


「泣くと崩れます。……泣いていらっしゃいませんね?」 「泣いてなどいません」 「なら結構。帝国の女は、涙よりも紅で戦うものです」


 そう言って、ハサキは筆を取り、彼女の唇に紅を引いた。

 鏡の中で、帝国の色を纏った自分がゆっくりと形を変えていく。

 血のように深い紅——それは、もはや皇国の色ではなかった。


 ふと、鏡越しにナナキと視線が合う。

 彼は静かに、短く頷いた。

 その仕草だけで、アイリスの胸の奥に小さな灯がともる。


 ——負けない。


 その想いが、紅の下で静かに熱を持った。


 * * *


 正午。

 帝都グランフィードの中央広場は、人と旗で埋め尽くされていた。

 戦勝を祝う音楽が鳴り響き、金と赤の旗が風に翻る。

 ユーフェインの率いた軍は、大陸全土を帝国の支配下に置き、完全な勝利を治めた。

 凱旋の日は、帝国の栄光そのものだった。


 群衆の先頭に、第二皇子の旗印が掲げられる。

 白馬に跨ったユーフェインが現れると、広場は歓声で震えた。

 その隣に立つアイリスは、帝国の衣を纏いながらも、一歩も退かなかった。


 指先に冷たい風が絡む。

 だが彼女の顔には、静かな笑みが貼りついている。


 ——演じなければならない。

 それが、今日という日の意味。


 ユーフェインがわずかに視線を向けた。

 それだけで、彼が求める絵が理解できる。

 民の前で、敗者の皇女として、そして第二皇子の妃として並び立つこと。

 それが和平という名の劇の第一幕だった。


「皇国の皇女、アイリス殿下を紹介する」


 澄んだ声が空気を裂く。

 ざわめきが止み、次いで押し殺したような歓声が広がった。

 その中には、好奇、侮蔑、興味が入り混じっている。


 アイリスは静かに一礼した。

 風に揺れる衣の裾が、太陽を反射する。

 その姿は、氷の上に咲く花のように美しく、儚く——そして強かった。


 ——それでも、私は負けない。


 心の内で、彼女はもう一度呟く。

 すぐ背後に、ナナキの気配を感じた。

 彼は一歩下がり、群衆を警戒しながら、凛と立っている。

 臣下として、護衛として。

 けれどその眼の奥には、かつてと同じ誇りが宿っていた。


 ユーフェインが手を差し出す。

 アイリスは一瞬だけためらい、やがてその手を取った。

 軍靴の音が大地を震わせる。

 二人が並んで歩み出すと、民衆の歓声が再び爆ぜた。


「帝国と皇国の未来に、永き繁栄を!」


 宣言の声、拍手、鐘の音。

 だが、アイリスの胸の奥では、すべてが遠くで響いていた。

 ユーフェインの手がわずかに力を込める。

 “演じろ”と言わんばかりの圧。

 アイリスはその手を握り返す。

 それは従属ではなく、抵抗の証。


 彼女は息を吸い、顎を上げた。

 誰よりも堂々と、帝都の光の中に立つ。

 その姿に、貴族たちは息を呑み、皇帝の侍従たちは視線を逸らした。


 ユーフェインが小さく笑う。


「……見せしめどころか、民が惹かれているぞ」

「戦姫と呼ばれた女が、うまく化けられたということでしょう」

「強情な女だ」

「それが、あなたが望んだ女です」


 二人の声は、誰にも聞こえないほど小さかった。

 だが、その言葉の刃は確かに交わっていた。


 鐘の音が止み、光が降り注ぐ。

 その下で、アイリスの心は静かに燃えていた。


 ——誰に奪われようと、私の矜持だけは。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ