8、紅の凱旋
朝靄がまだ街の上に残るころ、帝都の鐘が鳴り渡った。今日は、長く続いた戦の終焉を告げる凱旋の日だった。
夜毎、ユーフェインの宮殿から灯が落ちるのは遅い。
誰も詳しいことは知らない。
だが——第二皇子が「異国の皇女」と同じ部屋で夜を過ごしているという噂は、すでに城の隅々にまで広がっていた。
――敗戦国の皇女が、殿下の寝所に通っている。
――夜更けまで灯りが消えぬのは、そのせいだ。
噂は形を変え、毒を帯びながら静かに広がっていく。
それでもアイリスは何も言わなかった。
言葉よりも、今は呼吸の仕方を選ぶような慎重さが必要だった。
侍女たちが裾を整え、金糸の入った帝国の衣を彼女の肩に掛ける。
淡い灰青の衣は、皇国の紋とは対照的に冷ややかで、まるで光を拒むかのように重かった。
鏡に映る自分を見ても、もはや誰の国の者なのか分からない。
扉が叩かれ、低い声が告げる。
「殿下がお呼びです」
心臓がひとつ、静かに跳ねた。
アイリスは衣の裾を掴み、息を整えて立ち上がる。
呼ばれたユーフェインの執務室には、彼と——その背後に立つ一人の青年がいた。
「……ナナキ」
思わず声が零れた。
かつて皇国軍で彼女を護った近衛、ナナキ=ルべリア。
その瞳は変わらぬ真っ直ぐさを保ちながらも、纏う空気はもう違っていた。
帝国の黒衣をまとい、胸元にはユーフェイン直属の紋章が輝いている。
「本日より、再び護衛の任務に就くこととなりました」
その声は静かだったが、確かな温度があった。
帝国に忠誠を誓ったと聞かされても、その瞳には裏切りの影はない。
ただ、彼女を見守る決意だけが宿っていた。
ユーフェインが横目で二人を見やり、薄く口角を上げる。
「ナナキは私の直属として仕えることを選んだ。——お前を守るためにな」
アイリスの胸に、冷たいものが流れる。
だがその言葉の奥に、ほんの僅かな優しさが滲んでいるのを感じた。
ナナキは静かに頭を垂れ、その声に重ねる。
「命を賭してお守りします。それが、私の選んだ忠誠です」
その一言に、アイリスは目を伏せる。
守るための服従——皇国への忠誠を捨て、帝国へ忠誠を誓う。
それがどれほど残酷な選択かを、彼女は知っていた。
ユーフェインが歩み寄り、アイリスの手を取る。
人前では決して見せぬ距離の近さだった。
ためらいもなく、その唇が触れる。
周囲に息を呑む音。
侍女たちが顔を見合わせ、兵たちの視線が揺れる。
それは、愛ではなく支配の証明だった。
唇を離したユーフェインが、淡々と告げる。
「これで誰も、お前を客人だとは思わぬだろう」
頬に微かな熱が残る。
だが胸の奥では、鋭い痛みが燃えていた。
この凱旋の日に、彼女は完全に帝国の妃として晒されたのだ。
「殿下」
きっぱりとした声が割って入る。
背の高い老女——ハサキが歩み寄ってきた。
ユーフェインの乳母にして、宮廷で最も口を挟むことを許される女。
彼女は眉ひとつ動かさず、二人の間に手を差し入れると、あっさりと引き離した。
「お化粧が崩れます。殿下もお控えくださいませ。凱旋は民の目に映るものです」
その声音は冷たくも絶対だった。
ユーフェインは一瞬だけ目を細めたが、何も言わずに手を離す。
ハサキはため息をつき、アイリスを鏡台へ導いた。
「泣くと崩れます。……泣いていらっしゃいませんね?」 「泣いてなどいません」 「なら結構。帝国の女は、涙よりも紅で戦うものです」
そう言って、ハサキは筆を取り、彼女の唇に紅を引いた。
鏡の中で、帝国の色を纏った自分がゆっくりと形を変えていく。
血のように深い紅——それは、もはや皇国の色ではなかった。
ふと、鏡越しにナナキと視線が合う。
彼は静かに、短く頷いた。
その仕草だけで、アイリスの胸の奥に小さな灯がともる。
——負けない。
その想いが、紅の下で静かに熱を持った。
* * *
正午。
帝都グランフィードの中央広場は、人と旗で埋め尽くされていた。
戦勝を祝う音楽が鳴り響き、金と赤の旗が風に翻る。
ユーフェインの率いた軍は、大陸全土を帝国の支配下に置き、完全な勝利を治めた。
凱旋の日は、帝国の栄光そのものだった。
群衆の先頭に、第二皇子の旗印が掲げられる。
白馬に跨ったユーフェインが現れると、広場は歓声で震えた。
その隣に立つアイリスは、帝国の衣を纏いながらも、一歩も退かなかった。
指先に冷たい風が絡む。
だが彼女の顔には、静かな笑みが貼りついている。
——演じなければならない。
それが、今日という日の意味。
ユーフェインがわずかに視線を向けた。
それだけで、彼が求める絵が理解できる。
民の前で、敗者の皇女として、そして第二皇子の妃として並び立つこと。
それが和平という名の劇の第一幕だった。
「皇国の皇女、アイリス殿下を紹介する」
澄んだ声が空気を裂く。
ざわめきが止み、次いで押し殺したような歓声が広がった。
その中には、好奇、侮蔑、興味が入り混じっている。
アイリスは静かに一礼した。
風に揺れる衣の裾が、太陽を反射する。
その姿は、氷の上に咲く花のように美しく、儚く——そして強かった。
——それでも、私は負けない。
心の内で、彼女はもう一度呟く。
すぐ背後に、ナナキの気配を感じた。
彼は一歩下がり、群衆を警戒しながら、凛と立っている。
臣下として、護衛として。
けれどその眼の奥には、かつてと同じ誇りが宿っていた。
ユーフェインが手を差し出す。
アイリスは一瞬だけためらい、やがてその手を取った。
軍靴の音が大地を震わせる。
二人が並んで歩み出すと、民衆の歓声が再び爆ぜた。
「帝国と皇国の未来に、永き繁栄を!」
宣言の声、拍手、鐘の音。
だが、アイリスの胸の奥では、すべてが遠くで響いていた。
ユーフェインの手がわずかに力を込める。
“演じろ”と言わんばかりの圧。
アイリスはその手を握り返す。
それは従属ではなく、抵抗の証。
彼女は息を吸い、顎を上げた。
誰よりも堂々と、帝都の光の中に立つ。
その姿に、貴族たちは息を呑み、皇帝の侍従たちは視線を逸らした。
ユーフェインが小さく笑う。
「……見せしめどころか、民が惹かれているぞ」
「戦姫と呼ばれた女が、うまく化けられたということでしょう」
「強情な女だ」
「それが、あなたが望んだ女です」
二人の声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
だが、その言葉の刃は確かに交わっていた。
鐘の音が止み、光が降り注ぐ。
その下で、アイリスの心は静かに燃えていた。
——誰に奪われようと、私の矜持だけは。




