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ヴァラアニカ戦記  作者: 桐乃
7/18

7 灯りの残る夜

 夜更け、二人はユーフェインの宮殿へ戻った。

 大広間の喧騒が遠くなり、静まり返った廊下に足音だけが響く。

 扉が閉まると、外の空気とは違う冷たさが室内を満たした。

 火が灯されたままの部屋。深紅の絨毯と金糸の刺繍が施された長椅子。

 ユーフェインは外套を脱ぎ、重い仕草で腰を下ろした。

 その動作ひとつに、長い戦の疲れと、無言の支配が滲む。


 アイリスは静かに立ち尽くし、彼の背を見つめた。

 宴のざわめきの残響と、皇帝の視線の余韻が、まだ胸の奥に残っている。


「座れ」


 低く、静かな声。命令でも、優しさでもない。

 その曖昧な響きが、二人の距離そのものだった。


 アイリスは椅子の反対側に腰を下ろし、膝の上で手を組む。

 燭火が二人の間で揺れ、影が壁を撫でるように踊った。


 沈黙。

 ユーフェインは盃を傾け、ちらと彼女を見る。


「……今日はよくやった」

「あれで、良かったのですか」

「十分だ。皇女としての矜持を保つ姿は、脅威になるだろうよ」


 アイリスは少しだけ目を伏せ、静かに答えた。


「今更利用されることに不満はありません。でも……貴方も敵が多いのですね」

「……敵、ね。お前にはどう見えた? 聞かせろ」

「歪に見えました。家族の在り方も、全て出方を伺うようで……」

「この国の帝位継承は身分と実力が全てだ。負ければ死ぬ。これだけ妃を持つことが許されたこの国で、現皇帝の兄弟達がいないのはそのためだ」


 ユーフェインの声は淡々としていたが、燭の明かりが彼の横顔を照らすと、そこには一瞬だけ——何かを呑み込むような静かな影が走った。


「皇族の血というのは、思っているよりも脆いものだ」


 ふと、吐き出すように言葉が落ちた。


「私の母は、陛下にとってひとつの過ちだった。幸いにも前正后が、体の弱い兄上を案じて俺を養子にした。生母の身分も決して低くはないが、今の俺の立場は前正后のお陰でもある。兄の代わりに戦場に立ち……いつしかそれは俺の死を願うものとなった。だが、それが唯一の存在証明だった」


 アイリスはその言葉に小さく眉を寄せた。彼が見ているのは過去か、あるいは先の世か。問いかけるように唇を開いたが、声にはならなかった。


 代わりに、ユーフェインが続けた。


「そなたは自ら望んで戦場に立ったそうだな。男女の別にさして興味はないが、女の身でよくやる」

「褒められるものじゃありません。愚かな貴族に軍を掌握させないためには、仕方のないことでした」


 その返答に、ユーフェインはかすかに笑った。

 嘲りでも侮りでもない。戦場で刃を交えた者だけが見せる、どこか穏やかな笑みだった。


「強いな」

「それは殿下こそでしょう」

「それでも……お前は、誰かのために剣を振るう顔をしていた」


 アイリスは少しだけ視線を逸らした。

 戦場の記憶が、燭火の揺れとともに脳裏を掠める。

 仲間たちの血、焦げた鉄、薬品の臭い——。あのときの自分を思い出すたびに、心臓が冷たく締めつけられた。


「……人は一日に多くのことを忘れるといいます。でも、忘れることはないでしょう……初めて人を殺した日のことは。本当に……ようやく、戦争が終わりました」

「終わりは……残念なことに自らが望んで訪れるものではない」

「ええ。ですから……私の存在が邪魔になればその時は、私の全てを貴方に託しましょう」


 ユーフェインは盃を持ち上げ、その動きを止めた。

 わずかに眉が動く。その言葉の重みを、彼自身も予期していなかったのだろう。


「忠義の言葉のように聞こえるな」

「忠義ではありません。……わが皇国のために、貴方の隣に立つと私が決めたのです」


 静かな室内に、燭火が弾ける音だけが響く。その沈黙は、拒絶でも承認でもなかった。

 ただ、二人の間に生まれた新しい距離を、確かめ合うような静寂だった。


 ユーフェインは立ち上がり、窓の外を見やる。

 帝都の夜は遠く、無数の灯が霞の向こうに揺れている。その背中に、アイリスはただ静かに視線を送った。


「……近日、国民の前での凱旋がある」

「!」

「国民は素直だ。お前をよく思わない者も少なくないだろう」

「……覚悟のうえです」

「怒らぬのか。見せしめになれと言っているのだ」

「元より、それが役目でしょう。皇国の民にも明らかにしなくてはならないでしょうから」

「……本当に理解が早くて助かるな。それまでは、宮殿の外へは出るな。お前を好ましく思わぬ者も多い」


 アイリスは立ち上がり、軽く頭を下げる。

 その動作には従順さよりも、確かな意志があった。


 アイリスは立ち上がり、軽く頭を下げる。

 その動作には従順さよりも、確かな意志があった。


「分かっています。それでも……私の居場所は、ここですから」


 ユーフェインは、その言葉にわずかに目を細めた。

 次の瞬間、彼は立ち上がり、歩み寄って——アイリスの頬に触れた。

 それは慰めでも情でもない。ただ、確かめるような仕草だった。


「……お前は、思っていたよりも厄介だな」

「殿下も、同じです」


 ふたりの影が重なる。

 昨日までの義務的な冷たさとは違う、淡い熱が室内に滲んでいく。

 それは愛ではなく、戦場を生きた者同士の静かな理解——燃え残った炎のような夜だった。

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