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ヴァラアニカ戦記  作者: 桐乃
6/18

6 微笑の裏で

 

 帝都グランフィードに、日暮れを告げる鐘が響いた。澄んだ音は空気を震わせ、まるで帝国そのものが呼吸しているかのようだった。大理石の柱に囲まれた大広間には、帝国中から集められた貴族たちが整列する。煌びやかな衣が波のように揺れ、金と紅の香が淡く漂った。


 ——ユーフェイン皇子ご入場です!


 重厚な扉が開くと、ユーフェインと共にアイリスが一歩踏み出す。白銀の衣が夜の光を吸い込み、透き通る肌に微かな青みを帯びて輝く。敗国の姫とは思えぬその美しさに、会場はざわめいた。


 先頭に立つユーフェインは、白い軍服に黒の外套を纏い、戦場を越えてきた男の歩みを見せる。揺るぎない静謐とともに、周囲を自然に支配する力があった。アイリスはその隣に立ち、背筋を伸ばす。決して怯えはしない。だが胸の奥で冷たい緊張が脈打ち、視線の先に広がる貴族たちの思惑を肌で感じ取っていた。


 玉座の上に、皇帝がいた。老いを映す瞳は、深い愉悦に光る。この婚姻がどれほどの波紋を生むか、誰より理解しているのは彼自身だ。


「面を上げよ、アイリス皇女」


 広間が一瞬静まり返る。膝を折り、ゆっくりと顔を上げるアイリス。皇帝の視線が、内面を覗き込むように射抜く。彼女の心は揺れることなく、だが緊張が肌に張り付いていた。


「ユーフェイン、帰城してよりその皇女を手放さないと聞いたが?」

「いけませんでしたか?」

「妃を持たぬ皇子はお前だけだったゆえ、ようやく人の心を得たものかとな」

「陛下のご恩に報いるためにございます」


 ユーフェインは一歩前へ出て頭を垂らす。その声には誇りも感情もなく、静かな均衡だけが漂う。皇帝は口端を緩め、愉快そうに笑った。


「ふむ……報いね。お前の言葉ほど信用できぬものもない」


 皇帝の右隣には、紅の衣を纏う正后リヴィア。冷ややかな目元に笑みを浮かべ、扇を静かに開く。傍らには第三皇子カシアン。黄金の髪と灰の瞳を持つ青年だが、視線には警戒と嫉妬が滲む。


「ユーフェイン皇子に妃ができるとは……」

「皇子がようやく人らしい情を覚えたのなら、これ以上の慶事はありませんね」

「情など要りませぬ」


 ユーフェインは淡々と返す。リヴィアの扇の奥で唇がわずかに歪む。カシアンは低く呟いた。


「務めのために敵国の皇女を娶る……兄上らしい」


 その声はアイリスにだけ届く。眉を動かす程度で、彼女は何も言わない。広間全体が、彼女の存在を試す舞台のように思えた。戦場で命を賭けた自分の記憶が、ここではただの噂話となり、しかしそれでも自分は揺るがぬ覚悟を示す——その重さを、胸の奥で確かに感じる。


「わたくしは、ユーフェイン殿下の傍に立つ者として、帝国の眼に恥じぬ生き方をいたします。そして、戦場で命を振るわれる殿下の歩みを、静かに支えることを誓います」


 広間のざわめきが一瞬止まる。ユーフェインの目にわずかに興味が揺れる。従属の言葉ではなく、覚悟を伴った共存の誓いが、皇子の心を刺したのだ。


 皇帝は微笑み、リヴィアは扇の奥で唇を引き締める。カシアンも眉を寄せ、兄と皇女の静かな力の交錯を読んでいた。


 宴が始まると、アイリスはユーフェインの右隣に立ち、視線を床に落とさず広間を見渡す。白銀の衣は光を吸い込み、微かに揺れる。周囲の貴族たちは次々とユーフェインに近づき、挨拶を交わす。祝福の色もあれば、策略を探る目もある。


「皇子殿下、この度は……」

「妃となったアイリス殿下もご一緒とは光栄でございます」


 アイリスは一歩も前に出ず、外側から観察する。微笑を浮かべ、軽く頷くユーフェインの横で、静かな存在感だけが場の均衡を変える。心の中で、貴族たちの思惑を一つずつ整理する——ここに足を踏み入れた意味、隣に立つ覚悟を確かめる意味。


 時間が経つにつれ、視線や言葉の波は重く、息苦しいものになっていく。微笑を保ちつつも、アイリスの胸は静かに張り詰める。戦場で味わった緊張とは違う、政治と権力の圧力。それでも、ここで揺るがぬ覚悟が、自分の存在を支える。


「ここを出るぞ」


 ユーフェインの低い声に、アイリスは軽く頷く。言葉はいらない。隣に立つだけで呼吸は合う。


 二人は大広間を抜ける。煌びやかな衣や視線が背中に突き刺さるが、アイリスは真っ直ぐ前を見つめる。廊下に出ると、喧騒は遠くに消え、柔らかな燭光だけが揺れる。外の風が重苦しい空気を洗い流す。


 中庭に出ると、夜の冷気が肌に触れ、星の光が二人を包む。広間の貴族も皇帝の視線も届かない、二人だけの空間だった。


「噂好きな奴らだ。奴等の好奇心を満たすには十分だろう」


 アイリスは微笑む。言葉は返さずとも、静かな安心と覚悟が胸に広がる。隣に立つだけでも、確かな存在として、共に歩む意味を感じていた。戦場での覚悟も、政治の間隙に立つ覚悟も、同じ重さでここにある。


 夜の中庭を、言葉少なに歩き続ける二人。その静けさが、帝国の権力と戦の重みを隔てる、一瞬の安息となった。

 

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