5 帝妃の朝
夜が明けた。
鳥の声が遠くで聞こえ、薄い朝靄が窓辺に漂っている。
アイリスはゆっくりと瞼を開けた。蝋燭はすでに溶け落ち、寝台の傍らに残るのは、昨夜の名残を映すような冷たい空気だけだった。
隣にいたはずのユーフェインの姿はもうない。
だが、寝具の乱れ、肌に残る微かな温度の痕跡、腕に触れた感触の余韻が間違いなく彼がいたのだと現実を突きつける。
その痕は消すことも拭うこともできず、まるで自分自身の一部になったかのようだった。
身体を起こすと、わずかな痛みが遅れてやってくる。それは戦場で負った傷とは違う、深く、形を持たない痛みだった。
昨夜のことを思い返そうとしても、どこか夢の中の出来事のようで、指の隙間から零れ落ちていく。
机の上には新しい衣が置かれていた。
白地に銀糸の刺繍が施された、帝国式の衣。袖には皇妃の証となる紋章が縫い取られている。
侍女が気を利かせたのか、それとも彼自身の命によるものか――考えることを、アイリスはやめた。
静かに衣を手に取る。絹の感触が肌をすべるたび、昨夜の現実が蘇る。
逃げても、戻っても、もうどこにも帰る場所はない。
鏡に映る自分を見た。
そこにいたのは、戦姫でも皇女でもない。ただ、帝国の妃として“整えられた”女だった。
扉の外から、控えめなノックの音が響く。
「……お支度を。殿下がお呼びです」
淡々とした侍女の声が、朝の静けさを破る。
アイリスは深く息を吸い、衣を肩に掛けた。それはまるで、鎧を纏うような儀式だった。鏡の中の瞳だけが、まだ凍てついた夜を映している。
そして――
帝国の新たな一日が、静かに始まった。
朝の光はやけに眩しかった。
中庭に面した食堂の窓からは柔らかな陽が差し込み、銀の器に反射して、冷たく白い光が広がっていた。
アイリスは無言のまま椅子に座り、整えられた皿を見つめていた。昨夜の痕跡が肌に微かに残り、朝の光に映える自分の腕をそっと撫でる。
香草の匂い、温かなパン、果実を煮詰めた蜜の甘い香り――どれも遠い世界のもののように思える。
やがて、扉が静かに開く。
ユーフェインが現れた。夜とは打って変わって、白い軍服に身を包み、金の留め具が朝日に光っている。
その姿は完璧に整っていて、まるで昨夜の出来事など存在しなかったかのようだった。
「よく眠れたか」
その穏やかな声に、アイリスはわずかに瞼を持ち上げた。答えを探すように一瞬の沈黙が流れる。
「……ええ、陛下のおかげで」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
ユーフェインの唇が、わずかに笑みを形づくる。だがその目には情の色も、誇りもない。
そこにあるのはただ、支配者としての静かな観察だった。
「そうか。では、今日からは妃としての務めを覚えてもらう」
「……務め、ですか」
「今夜、祝賀の宴が開かれる。皇国の降伏、そして我らの婚儀を祝う場だ。帝都の諸侯、近衛、皇帝陛下ご自身もお出ましになる」
「……祝い、ですか」
その言葉が喉の奥で苦く響いた。
祖国の滅亡と、自らの屈辱を祝う宴。
それを「祝い」と呼ぶのが帝国の理ならば、彼らと自分の間には、決して埋まらぬ深淵がある。
ユーフェインはワインを手に取り、淡い紅を光に透かす。
「表情を整えろ。誰の目にも、そなたが敗国の姫ではなく帝国の妃として映るように」
「……演じろと?」
「違う。生きろと言っている。昨夜のように、な」
アイリスは顔を上げた。
視線が交わる。
彼の瞳の奥には、夜と同じ冷たさ――けれど、その奥底に、わずかに何かが揺れた。
それが同情なのか、興味なのか、彼女には分からない。
「……陛下は、よく人を殺す目をなさいますね」
「生きる術を教えているだけだ」
その答えに、アイリスは何も返さなかった。
食卓の上では、陽光がパンの表面を白く照らし、ナイフの刃がきらりと光った。
沈黙が、二人の間に戻る。
やがて、ユーフェインは椅子を立ち上がる。
「侍女に支度をさせよう。宴までに皇妃としての衣を整えろ。……そなたのために、帝国は今日、初めて鐘を鳴らす」
そう告げると、彼は踵を返し、静かに去っていった。
残されたアイリスは、目の前の食器を見つめた。
陽光の中で、銀のスプーンに映る自分の顔がわずかに歪んで見えた。
その歪みが、いまの自分そのもののように思えて――彼女は、ゆっくりと息を吐いた。




