4 沈黙の夜
夜は深く、蝋燭の灯がわずかに揺れていた。
静まり返った部屋に、扉の開く音が響く。
アイリスは寝台の端に腰を下ろしたまま、視線を上げる。
入ってきたのは、夜着姿のユーフェインだった。
昼間の軍服の影もなく、無防備に見えるのに、そこには不思議な威圧があった。
この部屋に入ってきた瞬間、すべての空気が彼のものになる。
「……お休みのところを邪魔したか」
低い声。
アイリスは首を横に振る。声を出せば、震えが混じる気がした。
「妃の間に一人寝かせるのも不自然だと思ってな」
「……ここは、私の部屋のはずです」
「今夜からは違う。妃の部屋だ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
アイリスの胸がきゅっと縮む。何を意味するのか、理解していた。
けれど、拒絶すれば――ナナキも、祖国も、本当に消えてしまう。
「一日部屋に閉じこもっていては暇を持て余しただろう」
「……そう、かもしれませんね」
嘘だ。
頭の中は義母や義弟のこと、祖国のことで溢れている。祖国を思う資格すら無いような立場になってしまったアイリスにとって、時間が経つのはとても早いものだった。
ユーフェインはゆっくりと室内を見渡し、最後にアイリスの目を捉えた。何も言わず、ただ静かに立つその姿は、敵でも将軍でもなく、未来の皇帝の一人としての威厳を漂わせていた。
「……皇国の最後を知りたいと思うか」
そう問うユーフェインに、アイリスは鋭い視線を向ける。
「祖国の最後を伝えるのであれば、それは俺の役目だと思ったまでだ」
「……最後、は………?」
震える声で、アイリスは問いかける。
ユーフェインは寝台に腰掛けるアイリスの隣に座ると言った。
「皇都に到着したとき、すでに城門は開いていた。それどころか、帝国を招き入れるように城内は飾り立てられていた」
アイリスは実母以上にメイリーン妃をよく知っている。こうしてユーフェインに最後を聞かずとも、彼女が妃としてどういう選択をするのかくらいは想像するまでもない。
「場内に入ると、国王一人が玉座に座っていた……」
——オルフェリア場内にて
『お待ちしていました。ユーフェイン将軍』
そうユーフェインに言うカイルの姿は、とても十一歳には思えない堂々とした姿だった。
『オルフェリア皇国は降伏する。既に、この城を去った者や、皇国の国民の命は私に免じて許してほしい。城内には既に殉死した者と私しかおらぬ』
『……この飾り立ては、何事でしょう』
『姉が帰還した際には、どのような結果であれど祝賀を考えていた。ですが、どうやら最期に姉に会うことは叶わないらしい。姉の最期をご存知か?』
『いや……今は我が手に』
そう告げた瞬間、カイルは酷く取り乱してユーフェインの胸ぐらを掴んだ。
『姉を……辱めるつもりか』
『戦場とは常にその様な場所であろう……』
ユーフェインはそのときの記憶を辿るように、視線を少し伏せた。
「……あの少年は、立派だった。恐怖を見せず、己の命乞いもしなかった。まるで、自分がこの国の最期そのものになることを、初めから理解していたように」
アイリスは言葉を失う。
カイル――まだ十一歳の弟。その幼い肩に、国の終焉を背負わせたという現実が、胸を鋭く突き刺す。
「……あなたは、彼を殺したのですか」
低く、押し殺した声で問う。
ユーフェインはわずかに息を吐き、答えを濁すように目を閉じた。
「剣を抜いたのは私だ。しかし、あの少年はそれを望んだように見えた。国としての終焉を、自らの死で締めくくる覚悟を持っていた。……俺を恨むか?」
「……名も知らぬ者に皇国の王を屠られるよりは幾分かいい」
アイリスは立ち上がり、背を向けた。
月明かりが彼女の白い肩を照らし、薄布越しに肌の震えが見える。
「……弟は、私を恨んで逝ったでしょう」
「そうだろうか。俺にはただ、姉を案じていた弟にしか見えなかった」
その言葉に、アイリスの指先がかすかに震える。
ユーフェインの声には残酷なまでの静けさがあった。慰めでも、虚言でもない。ただ事実として突きつけられた刃のような言葉。
沈黙が落ちる。長い、痛い沈黙。
やがてアイリスは振り返り、まっすぐユーフェインを見据えた。
「なぜ……そこまでして私を妃にするのですか。帝国にはもっと相応しい娘がいるはず。ましてや貴方は帝位継承を望んでいるのでしょう」
ユーフェインはその問いに一瞬だけ目を細めた。
そして、まるで別のことを考えているかのように呟く。
「……帝国は血を欲している。だが、私はそれだけでは足りぬと思っている」
「どういう意味ですか」
「戦を終わらせたのは剣ではない。……そなたの名だ」
「……名?」
「剣は国を砕く。だが、名は人を従わせる。帝国が欲したのは前者だが――俺は後者を選んだ」
言葉の意味を測りかねて、アイリスは眉をひそめた。
「……どちらにせよ、私がそなたを利用することに変わりはない」
ユーフェインは外套を外し、椅子に掛ける。
蝋燭の灯が、その横顔を金に縁取る。
無言で彼は、ゆっくりとアイリスの前まで歩み寄った。その歩幅のたびに、絨毯が沈み、距離が消えていく。
「俺を恨むといい。元より覚悟の上だ」
「恨んで、います。ですが――それでも、私は生きねばならないのです」
「……戦姫とはよく言ったものだ」
短く呟き、ユーフェインはそのままアイリスの肩に手を伸ばす。
触れられた瞬間、彼女の背筋が跳ねた。だが彼の指先は思いのほか静かで、乱暴ではなかった。
重ねられたのは力ではなく、「所有」の感触だった。
衣の上から、彼の手がわずかに動く。
絹の袖がずるりと落ち、肩に冷たい空気が触れる。
その一瞬に、アイリスは悟った。
――いま自分は、妻として帝国に刻まれようとしているのだ。
「拒むなら、今だ」
「拒んで……何が、残るというのですか」
その答えに、ユーフェインはわずかに目を伏せた。
そして、彼の指先が離れる。沈黙の中で、衣の布音だけが響く。
「そなたはもう、帝国の妃だ。この夜が、それを証明する」
アイリスは唇をかすかに噛みしめ、目を閉じた。
灯が揺れる。
そしてその夜、彼女は確かに生かされた。——生き延びるための、最も冷たい儀式として。




