3、鎖の花嫁
帝国へと向かう馬車の中は、絹と香の匂いで満ちていた。窓には外の景色が映らず、ただ布で覆われた暗がりの中に、柔らかな揺れだけがあった。
アイリスは黙って座っていた。
侍女たちは何度も彼女に新しい衣を差し出す。帝国の宮廷色である深紅と黒の衣。絹織りの袖には金糸の刺繍が施され、皇族となる者が着るものだと説明された。
「私はお前達の主に何も聞かされちゃいない。私は捕虜であって妃じゃない。ふざけた命令に従うより前に、愚かな主に諫言をすることもできないのか」
その一言に、侍女たちは目を伏せて後ずさった。鎖に繋がれてはいない。だが、その拒絶の気高さこそが、かえって牢のように彼女を縛っているようでもあった。
しばらくして、馬車が止まる音がした。
外の空気が流れ込み、低い靴音が近づいてくる。扉が開かれたとき、そこに立っていたのはユーフェインだった。黒の軍衣のまま、しかし胸元には深紅のマントを羽織り、肩には金の勲章が輝いている。その姿は単なる将軍ではなく、皇族としての威厳を帯びていた。
アイリスの視線が自然と胸元に吸い寄せられる。
――彼は、ただの敵将ではない。ヴァラアニカ帝国の皇子……そして未来の皇帝候補の一人なのだ、と。
「皇女殿下、まだ着替えぬのか」
その声に、アイリスは視線を返す。返す代わりに言葉はなく、沈黙のまま衣の裾を握った。
ユーフェインは一歩踏み込み、手を振る。兵が背後の幕を開け放つと、そこにひとりの男が立っていた。縄で両腕を縛られ、血のにじんだ軍服のまま。
「――ナナキ!」
アイリスは思わず身を乗り出した。
ユーフェインはわずかに口角を上げ、静かに言う。
「彼は、私の精鋭を前に最後まで剣を抜いたそうだ。忠義の証といえば聞こえはいい。だが、私の命に背く者に、次はない」
「……脅すのか」
「従えと言っている。帝国の地に入る者は、花として装う。そなたが着るべきは、鎖ではなく名誉だ。帝国の皇子である私が認める花となる。それがそなたに残された道だ、アイリス=オルフェリア」
沈黙。長い時間ののち、アイリスは立ち上がった。
アイリスはふとナナキの方へ目をやった。
縄に縛られ、血のにじむ彼の姿は、彼女にとってただの護衛ではなく、信頼の象徴だった。
「生き残った」と思うと同時に、ユーフェインの思惑が胸に冷たく突き刺さる。ナナキもまた、今や彼の支配下にあるのだ。
しかし、アイリスは振り返らず前を向いた。
己の選択はもう、ひとつしかない。生き延びるため、そしてナナキを守るために、妃として振る舞うしかないのだ、と。
アイリスは侍女が差し出した帝国の衣を受け取り、静かに頷いた。
「……従おう」
ユーフェインの瞳がわずかに細められる。
彼はその言葉に何も返さず、ただ扉を閉めて去っていった。
やがて馬車は、壮麗な城壁と長大な門を持つ帝都の中心に到着した。
衛兵が整列し、旗が翻る広場を通り抜け、馬車は静かに停まる。外の光と香の中に、宮廷の威厳と秩序が漂っていた。
宮廷の大広間で整えられた衣装と髪飾りに、アイリスは不本意ながらも息を飲む。戦場の姫ではなく、帝国皇子の妃としての華やかさが、これからの生活の重さを物語っていた。
ユーフェインが現れ、金糸の刺繍を指でなぞるように見つめる。その視線は、臣下ではなく未来の妃を選ぶ皇子の目だった。
「今宵より、そなたは私の妃として迎えられる」
ユーフェインの声は低く、しかし力強い。命令ではなく、事実として告げられる。
宮廷の廊下を歩くと、皇都の豪奢さに圧倒される。金の灯り、絢爛な装飾、そして整然と並ぶ衛兵たち。そのすべてが、アイリスにかつての戦場とは異なる種類の鎖を感じさせた。
だが、彼女は理解していた。逃げることはできない。生き残った皇女として、そしてこれからはユーフェインの妃として生きるのだと。




