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ヴァラアニカ戦記  作者: 桐乃
3/18

3、鎖の花嫁

 

 帝国へと向かう馬車の中は、絹と香の匂いで満ちていた。窓には外の景色が映らず、ただ布で覆われた暗がりの中に、柔らかな揺れだけがあった。


 アイリスは黙って座っていた。

 侍女たちは何度も彼女に新しい衣を差し出す。帝国の宮廷色である深紅と黒の衣。絹織りの袖には金糸の刺繍が施され、皇族となる者が着るものだと説明された。


「私はお前達の主に何も聞かされちゃいない。私は捕虜であって妃じゃない。ふざけた命令に従うより前に、愚かな主に諫言をすることもできないのか」


 その一言に、侍女たちは目を伏せて後ずさった。鎖に繋がれてはいない。だが、その拒絶の気高さこそが、かえって牢のように彼女を縛っているようでもあった。


 しばらくして、馬車が止まる音がした。

 外の空気が流れ込み、低い靴音が近づいてくる。扉が開かれたとき、そこに立っていたのはユーフェインだった。黒の軍衣のまま、しかし胸元には深紅のマントを羽織り、肩には金の勲章が輝いている。その姿は単なる将軍ではなく、皇族としての威厳を帯びていた。


 アイリスの視線が自然と胸元に吸い寄せられる。

 ――彼は、ただの敵将ではない。ヴァラアニカ帝国の皇子……そして未来の皇帝候補の一人なのだ、と。


「皇女殿下、まだ着替えぬのか」


 その声に、アイリスは視線を返す。返す代わりに言葉はなく、沈黙のまま衣の裾を握った。

 ユーフェインは一歩踏み込み、手を振る。兵が背後の幕を開け放つと、そこにひとりの男が立っていた。縄で両腕を縛られ、血のにじんだ軍服のまま。


「――ナナキ!」


 アイリスは思わず身を乗り出した。

 ユーフェインはわずかに口角を上げ、静かに言う。


「彼は、私の精鋭を前に最後まで剣を抜いたそうだ。忠義の証といえば聞こえはいい。だが、私の命に背く者に、次はない」

「……脅すのか」

「従えと言っている。帝国の地に入る者は、花として装う。そなたが着るべきは、鎖ではなく名誉だ。帝国の皇子である私が認める花となる。それがそなたに残された道だ、アイリス=オルフェリア」


 沈黙。長い時間ののち、アイリスは立ち上がった。

 アイリスはふとナナキの方へ目をやった。

 縄に縛られ、血のにじむ彼の姿は、彼女にとってただの護衛ではなく、信頼の象徴だった。

「生き残った」と思うと同時に、ユーフェインの思惑が胸に冷たく突き刺さる。ナナキもまた、今や彼の支配下にあるのだ。


 しかし、アイリスは振り返らず前を向いた。

 己の選択はもう、ひとつしかない。生き延びるため、そしてナナキを守るために、妃として振る舞うしかないのだ、と。


 アイリスは侍女が差し出した帝国の衣を受け取り、静かに頷いた。


「……従おう」


 ユーフェインの瞳がわずかに細められる。

 彼はその言葉に何も返さず、ただ扉を閉めて去っていった。





 やがて馬車は、壮麗な城壁と長大な門を持つ帝都の中心に到着した。

 衛兵が整列し、旗が翻る広場を通り抜け、馬車は静かに停まる。外の光と香の中に、宮廷の威厳と秩序が漂っていた。


 宮廷の大広間で整えられた衣装と髪飾りに、アイリスは不本意ながらも息を飲む。戦場の姫ではなく、帝国皇子の妃としての華やかさが、これからの生活の重さを物語っていた。


 ユーフェインが現れ、金糸の刺繍を指でなぞるように見つめる。その視線は、臣下ではなく未来の妃を選ぶ皇子の目だった。


「今宵より、そなたは私の妃として迎えられる」


 ユーフェインの声は低く、しかし力強い。命令ではなく、事実として告げられる。

 宮廷の廊下を歩くと、皇都の豪奢さに圧倒される。金の灯り、絢爛な装飾、そして整然と並ぶ衛兵たち。そのすべてが、アイリスにかつての戦場とは異なる種類の鎖を感じさせた。


 だが、彼女は理解していた。逃げることはできない。生き残った皇女として、そしてこれからはユーフェインの妃として生きるのだと。

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